通でがんす

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加藤友三郎の碑めぐり

2011年09月16日 | 広島の話題
「先日は加藤友三郎の話をしたけぇ、今日は加藤の碑めぐりをしようと思うんじゃ」

「碑めぐりって、そんなたくさんあるん?」

「わしが知っとるだけで、広島市内に3ヶ所あるんよ」

「面白じゃけぇ、ついて行ってみようか」





「1つ目は、加藤が生まれた広島市中区大手町3丁目の大手町第二公園にあるのが、加藤友三郎生誕地の碑じゃ」

「どのあたり?」

「中電病院の南側じゃの」

「どんな家に生まれちゃったん? 武士? それとも商人?」

「13石3人扶持の下級武士じゃったそうな。父親の加藤七郎兵衛は現在の修道学園の前身となった広島藩の藩校の先生をされとったそうじゃ」

「へぇ…」

「地図で見たら、大手町第二公園のあたりに8軒続きの長屋があって、そのうちの1軒に住んどられたとったんよ」




加藤友三郎閣下生誕之地碑
(大手町第二公園内)


(表)華府第一回平和会議首席全権
先内閣総理大臣元帥海軍大将 正二位 大勲位 功二級 子爵加藤友三郎閣下生誕之地
(裏)昭和五年八月



「華府って何?」

「華府(かふ)は、アメリカの首都ワシントンのことなんよ。ワシントンを漢字で書くと「華盛頓」となるんじゃと」

「そうなん? うちには、「トン」と「頓」が同じくらいしか分からんけどね」

「1930年(昭和5)8月じゃけぇ、加藤が亡くなって7年後に建てられたんじゃの」





「2つ目は、広島市南区の比治山(ひじやま)公園にある加藤友三郎の銅像の台座じゃ」

「銅像の台座?」

「太平洋戦争中、金属が足りんけぇ金属類回収令を出したのは知っとるじゃろ。加藤の銅像と銅像建設由来碑も、この時に撤去されたんじゃと」

「どんな銅像があったん?」

「海軍大将の礼服姿で、加藤の身長の2倍の大きさで作られとったそうじゃ」

「この台座からすると、それくらいの大きさかもね」

「この銅像は、昭和10年12月に建てられたそうじゃ」




加藤友三郎の銅像の台座


「この写真を撮った時に思い出したんじゃが、わしゃ昔、ここで遊んだ記憶があるで」

「比治山は、遠足なんかでよく来よったんじゃろ?」

「小学生のころじゃけぇ、ここに何があろうが全然気にせんかったがの」




加藤友三郎の銅像の台座正面


「「元帥海軍大将大勲位子爵加藤友三郎」と彫ってあるんじゃ」




銅像建設由来碑


「碑文のところだけ、見事にくりぬいてあるね」




加藤友三郎 銅像台座・碑文枠の由来
(2008年8月設置)






「3つ目は、広島市中区基町(もとまち)の広島市中央公園にある加藤友三郎像じゃ」

「うーん、見た記憶がないねぇ…」

「3年前の2008年(平成20)に建てられとるけぇの」



加藤友三郎 功績碑

加藤友三郎は、文久元(1861)年2月22日、広島藩士加藤七郎兵衛の三男として現在の広島市中区大手町で生まれた。
修道学園の前身である藩校や海軍兵学校などに学び海軍軍人となり、その後海軍次官、海軍大臣などを務める。

第一次世界大戦後、わが国は周辺防衛のため海軍の増強を図ることの必要性から、大幅な軍備の再編を進めたが、これにより国家予算に占める国防費は異常な事態となって財政は破綻の危機に至り、軍事費を削減してこの建て直しが迫られることとなった。

欧米諸国も同様の状態に至り、国際世論も軍備の縮小が叫ばれる情勢にあった。
このような状況のもとで大正10年(1921)年11月から翌年2月、ワシントンにおいて主要9か国による「海軍軍縮会議」が開催され、加藤友三郎はこの会議に首席全権として出席、アメリカから示されたわが国の海軍軍備を対米英比6割に縮減する提案に対して、当時の国際情勢と国益を踏まえ、国際協調による平和維持の観点から妥当な線と判断し、軍部の強い反対を抑えてこの提案を受け入れ諸条約に調印した。
このとき軍部の強硬派に対して「国防は軍人の専有物ではない。国防は国家総動員の上に築かなければならぬ。言い換えれば、民間工業力や貿易を盛んにして、国富の裏打ちがなければ国防力は高まらぬ」と述べている。

大正11(1922)年6月、軍縮会議後の施策推進最適任者として推挙され、第21代の内閣総理大臣に就任。
軍事予算の削減、陸海軍の兵員艦船縮減の英断を下し、隣国との協調にも配慮する諸政策を断行して「ワシントン軍縮会議」の精神を忠実に履行したのである。
軍事予算の削減分を教育や民生の充実に回したほか、国民生活に直結する諸政策をも進めるなどの業績を残した。

総理大臣在任中の大正12(1923)年8月24日病死、享年63。

内閣総理大臣加藤友三郎の国際協調による世界平和の具現を称え
没後85周年にあたり銅像を復元した
平成20(2008)年8月24日
加藤友三郎銅像復元委員会 会長 碓井静照

(碑文より)




加藤友三郎像



加藤友三郎像 全身




「比治山の戦前に作られた銅像は海軍大将の礼服姿じゃったが、こっちはワシントン会議に出席した時のフロックコート姿じゃそうな」





「最後になったんじゃが、広島市南区比治山(ひじやま)公園にある、加藤友三郎の銅像台座がある場所を紹介しようと思うんじゃ」

「1週間、「地元タクシーの運転手さんも公園内で掃除をされていた方も存在そのものをご存じありませんでした」というコメントが届いとったけぇね。で、どうやって行けばええん?」




比治山公園入口


「比治山通りから比治山公園入口を上っていくんよ。広電皆実(みなみ)線の比治山下電停があるけぇ、ここは分かりやすいと思うんじゃ」

「入口近くには多聞院(たもんいん)もあるしね」




頼山陽文徳殿への階段


「ここを通り過ぎて…」






「ここで左に曲がるんよ」

「車が左折しよるところじゃね」

「広島市現代美術館の看板が出とるけぇ、ここも分かりやすいと思うんじゃ」




GREEN HOUSE


「ほいで、この店の前で停まる」

「このお店は今、営業されとらんのじゃね」

「車で来られた方は、お近くの駐車場に車を停めてください」






「店の反対側に階段があるけぇ、そこを上がっていくと…」






「ほら、見えたじゃろ?」




加藤友三郎の銅像の台座


「おぉ、この場所じゃね」

(青文字部分 2011年10月2日追加)






↓加藤友三郎についての関連記事は、こちら↓

加藤友三郎 広島市出身の総理大臣





↓広島市中央公園についての関連記事は、こちら↓

中央公園の鯤(こん) 広島市中区基町





「今日は、広島市内に3ヶ所ある、加藤友三郎の碑について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

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3 コメント

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Unknown (日めくり加藤友三郎)
2011-09-25 18:36:39
比治山公園に加藤友三郎台座後を探しに行きましたが、地元タクシーの運転手さんも公園内で掃除をされていた方も存在そのものをご存じありませんでした。最終的には辿りつけましたが・・・。せめて公園内に看板を出すか、広島県の観光ホームページに掲載するくらいは地元の力でなんとか出来ないのでしょうか。
http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/hiroshima/spot/0541.html
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わしもそう思うんじゃが… (福助)
2011-09-25 23:57:45
日めくり加藤友三郎さん、コメントありがとうございます。

ほうですか、なんとかたどり着くことができましたか。ご苦労様でした。

今回紹介した3ヵ所の中では、比治山の台座跡に一番、人が集まっとるように、わしゃ思うんるんじゃ。
とはいえ、詩吟を吟ずる場所か、子どもたちの遊び場として使われることが多いようじゃがの。

日めくり加藤友三郎さんの言われることも、よう分かる。
ほいじゃがの、台座跡を紹介することよりも、加藤友三郎がどういう人で、どういう業績を残した人なんか、ということを知らせる方が大事なんじゃないかと、わしゃ思うんじゃが、いかがでしょうかの。
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日めくり加藤友三郎 (日めくり加藤友三郎)
2011-10-07 01:26:01
コメントありがとうございます。福助さんの仰ることは誠にごもっともです。
業績や人となりを後世に伝えるほうがよほど大事ですが、実際問題としては全国に知らしめるのは、有名な作家やタレントに繰り返し取り上げてもらいでもしない限り難しいでしょう。だとすれば、こういう地道な出来る範囲のことをやっていくしかないのかなと・・・。他にも台座を見つけられなかったというブログを拝見した記憶あり、こういうことばかりは地元の有志に期待してしまいます。勝手ですみません。
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