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広島県職員原爆犠牲者慰霊碑 広島市中区加古町

2011年09月30日 | 広島の話題
「昨日、多聞院の話をしたけど、多聞院は8月6日の夕方から、一時的に県庁が置かれたんよね?」

「当時の県庁は水主町(かこまち。今は「加古町」と表記)、今の広島厚生年金会館やアステールプラザのあたりにあって、建物は壊滅・全焼したそうじゃ」

「爆心地からの距離は?」

「約1キロじゃの」



昭和二十年八月六日投下された原子爆弾は広島県庁および出先機関職員のうち八百有余の生命を一挙に奪い去った
祖国のために一身の安危を顧みずひたすらに公務に精励していた人々のこの尊い犠牲はまことに痛惜きわまりない
この附近は当時の殉難者が最も多く眠るところである
このゆかりの地を選んで碑を建て身をもって平和の礎となった人々をまつる

昭和三十三年八月六日 広島県知事 大原博夫

(碑文より)



広島県職員原爆犠牲者慰霊碑



慰霊碑とアステールプラザ(奥)




「ほんま、アステールプラザのすぐ裏じゃね」

「中島小学校の裏門から本川(ほんかわ。旧太田川)の川土手を上ったところにあって、本川をはさんで西側には神崎小学校があるんじゃ」

「神崎小学校いうたら、『はだしのゲン』を描いた中沢啓治(なかざわ けいじ)さんが通われとった学校じゃね」



旧広島県庁舎

この建物は、明治11年(1878年)、当時の広島市中区加古町(当時の水主町)に広島県庁舎として新築されました。
以来67年間にわたり、広島県行政の中心としての役割を担ってきましたが、昭和20年(1945年)8月6日に投下された原子爆弾により壊滅しました。

この被爆により、県庁舎や県の関係機関において、1,141名にも及ぶ広島県職員が犠牲となりました。

その後、県庁は、安芸郡府中町(現在のマツダ株式会社内)、広島市霞町(現在の広島大学医学部附属病院内)を経て、昭和31年(1956年)に広島市基町に設置され、現在に至っています。

平成7年(1995年)8月6日 広島県

(説明板より)



説明板



広島県職員原爆犠牲者名録碑




「ありゃ、県庁ってあちこち移転しとるんじゃね」

「ほいじゃ、県庁の歴史を見てみようかの…」

「まず、1871年(明治4)に廃藩置県が行われて、広島藩は広島県になったんよね」

「県庁は最初、広島城内に設けられたんよ」

「広島城いうたら、陸軍の施設があったんじゃなかったかいね?」

「1873年(明治6)に第五軍管広島鎮台が設置されたんよ。ほいじゃけぇ、その年、県庁は国泰寺の境内に移転したんじゃ」

「国泰寺いうたら、今の白神社(しらかみしゃ。中区中町)のあたりにあったんよね」

「ところがここの建物が火事で燃えてしもうたけぇ、1876年(明治9)に中区寺町の広島別院に仮庁舎を設けたそうじゃ。ちなみに、今の広島県域が確定したのもこの年なんよ」

「仮住まいの多い県庁じゃね」

「実はこのころ、県庁を尾道に移すという計画もあったそうじゃ」

「えぇ、ほんま!?」



この仮庁舎を転々としていた状況に対し、県庁を尾道に移し広島県を「御調県」と改称する計画が挙がった。
しかし、与楽園に隣接する広島藩中屋敷跡地に新庁舎を建設することが決定したため、この計画は撤回された。

(「広島県庁舎」ウィキペディア)





「「御調県」か…。うーん、こんな陰謀があったとは、知らんかったね」

「陰謀じゃないが、今ごろは「広島県」じゃのうて「御調県」という可能性もあったということじゃの。ちなみに、「御調」と書いて「みつぎ」と読むんよ」

「御調郡や御調町があったね」

「御調郡はなくなってしもうたが、御調町は地名として今も尾道市に残っとるんじゃ。尾道も、もともとは御調郡じゃったけぇの」

「県庁が建てられたのは、広島藩の中屋敷の跡地になるんじゃね」

「1878年(明治11)4月、広島水主町(現:中区加古町)の中屋敷跡に県庁舎が完成したんじゃ」

「中屋敷の隣にある与楽園(よらくえん)って、何?」

「広島藩第7代藩主の浅野重晟(あさの しげあきら)が、藩主の別邸として広島藩中屋敷と一緒に建てて、1826年(文政9)に完成したそうじゃ」

「ということは、藩主がたびたび来るような場所じゃったんじゃろうね」

「ここには藩の船屋敷があって、広島藩の水軍の要員も住んどったそうじゃ」

「「水主町」という地名も、そのあたりに由来するんかね?」

「ほうじゃの。「水主(かこ)」というのは、「水夫」のことなんじゃと」



明治期に入ってこの町には1877年公立広島病院(県立広島病院の前身)が設置、翌78年に広島県庁舎が移転してきた。
両者はともに原爆被災までこの町に所在したため、隣の中島新町に一時市役所が置かれていたこともあわせ、戦前期における地方行政の中心地という様相を呈した(また広島監獄(現・広島刑務所)も1888年に吉島に移転するまで水主町に置かれていた)。

(「加古町・住吉町(広島市中区)」ウィキペディア)





「さっき出てきた与楽園は、公立広島病院の中庭になっとったそうじゃ」

「県立広島病院いうたら、今は広島市南区宇品神田にあるよね」

「1948年(昭和23)4月、今の場所に建てられたそうじゃ。ちなみに、わしゃこの病院で産まれたんじゃがの」

「県庁は、原爆が投下された当日の夕方から多聞院に、翌日の8月7日には東警察署(現:広島銀行銀山町支店)に移ったんよね」

「その月の20日には、東洋工業(現:マツダ)から土地を提供されて、東洋工業府中工場(現:マツダ本社工場)の敷地内に移転したそうじゃ」

「ほいで、今の中区基町(もとまち)に新庁舎を建てられたんかね?」

「その前にもう1回、1946年(昭和21)に南区霞町(かすみちょう)にあった陸軍兵器補給廠(現:広島大学霞キャンパス)に移転しとるんよ」

「被爆後でしょうがないとはいえ、流浪の民のようじゃね」

「今の県庁が建てられたのが、1956年(昭和31)4月じゃ」

「やれやれ。ようやっとじゃね…」

「広島県庁舎は1998年(平成10)には、公共建築百選にも選ばれとるそうじゃ」




広島県庁



「明日から公開される映画『DOG&POLICE』に、予告編を見る限り、広島県庁もチラリと出とるんじゃの」

「出たというより、県庁がパセーラの向かい側にあるけぇ、たまたま映っただけなんじゃろうけどね」

「この予告編の9~11秒までの間、市原隼人の後ろに映っとる建物が広島県庁になるなんじゃ」





↓映画『DOG&POLICE』予告篇については、こちら↓

映画『DOG×POLICE ドッグポリス 純白の絆』予告篇





↓映画『DOG&POLICE』については、こちら↓

映画『DOG&POLICE ドッグポリス 純白の絆』公式サイト





↓多聞院についての関連記事は、こちら↓

多聞院 広島市南区比治山町





↓原爆の碑についての関連記事は、こちら↓

「ヒロシマの火 平和への灯」 NHK広島放送局 広島市中区大手町

戸坂の供養塔 広島市中区戸坂






「今日は、広島市中区加古町にある広島県職員原爆犠牲者慰霊碑と、広島県庁の歴史について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

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