「昨日のおさらいになるんじゃが、今から113年前の1898年(明治31)8月25日、軍用・民間用を合わせた水道が広島市に通ったんよ」
「ほうじゃったね」
「その広島市の水道が、不断水(ふだんすい)、つまり、むかしから今まで断水することなく水を送り続けとるというのは知っとるかいの?」
「原爆が投下された1945年(昭和20)8月6日にも水を送り続けちゃったんじゃろ? それも知っとるよ」
「この日、どんな方が活躍されたか知っとるか?」
「うーん、そこまでは知らんね」
「わしも知らんかったんじゃが、水道資料館に紹介してあったんよ。堀野九郎(ほりの くろう)さんという技手で、原爆投下から6時間後に運転を再開されたそうじゃ」
堀野九郎氏の甲種電気工事人免許證
「堀野さんは8月6日、勤務されとったんかね?」
「堀野さんはその日の朝、用事があって広島駅に出かけとられたんよ。ほいで、牛田の浄水場内にある公舎へ帰る途中、饒津(にぎつ)神社あたりで被爆されたそうじゃ」
「饒津神社って、爆心地から約1.8キロじゃん」
被爆し、火傷を負っていたにもかかわらず、堀野さんは牛田浄水場へ駆けつけ、壊れたポンプを必死に応急修理しました。
そして被爆6時間後の午後2時ごろ、予備の送水ポンプの運転が開始され、夕方から1日43,000立方メ-トルの給水ができるようになったのです。
(「広島市水道と原爆~不断水記録~」広島市水道局)
「牛田浄水場は窓ガラスが吹き飛んで、施設の一部が壊れとったんじゃが、火災は発生しとらんかったんよ。ところが、原爆が爆発したと同時に、広島市は停電してしもうとったんじゃ」
「停電したけぇ、送水ポンプが止まっとったんじゃね」
「送水ポンプが止まってしまうと、水を送ることができんけぇの」
「そこで、復旧作業が始まったというわけじゃね」
8月6日の給水日誌より
「広島市水道資料館に、8月6日の給水日誌が展示されとったんじゃ。それを見たら、午前7~12時は空白になっとるんよ。赤い矢印があるところが午後1時で、そこから右に3つ目の欄が「廻轉数(=回転数)」で、そこに「300」という数字が書き込んであるんじゃ」
「水を送るポンプがふたたび動き出した、というわけじゃね」
同上
「よう見えんかもしれんが、赤い矢印のところに「当日給水量 43,438立方メ-トル」と書いてあるんじゃ」
「4万3,438立方メ-トルいうたら、どれくらいの量になるんかね?」
「終戦ころの広島市の1日の平均使用量が約10万8,000立方メ-トルいうことじゃけぇ、ふだんの4割は給水できたというわけじゃ」
「堀野さんのお陰で、広島市に水を送ることができたというわけじゃね」
「もちろん、何事も1人の力でできるわけじゃない。他の職員の方の活躍もあってのことじゃがの」
「原爆が投下された後の広島に水が送られたことで、助かった命もたくさんあったじゃろうね」
「とはいえ、市内のあちこちで水道管が壊れとったけぇ、水が十分に行きわたっとったかというと、そうでもなかったんじゃろうがの」
「そういや、ここには「不舎晝夜(ちゅうやをおかず)」という石額(せきがく)が飾ってあったけど、その通りじゃね」
不舎晝夜
「広島の命の水である太田川(おおたがわ)は、昼夜をおかず、つまり昼も夜も休まずに流れ続けて、その恵みを市民に与えている…、というわけじゃ」
「この記録を続けていって欲しいもんじゃね」
「そういえば、水道局自体の被害はどうじゃったんかね?」
「水道局はどこにあるか、知っとる?」
「うーん、知らん。教えて」
「現在の住所で、広島市中区基町(もとまち)9-32。広島県庁から道路1本隔てた東側にあるんじゃ」
「爆心地から数百メートルしか離れとらんじゃん!」
水道部員殉職之碑
(爆心地から約0.6キロメートル)
1945(昭和20)年当時、基町の電車通り沿いに位置していた水道部庁舎は、原子爆弾の炸裂により壊滅状態となりました。
木造の庁舎、工場、倉庫などは跡形もなく全焼、鉄骨造の鍛冶工場も鉄骨がアメのように曲がり、押しつぶされました。
当日、庁舎に出勤し被爆した職員は、爆心地から至近距離にあって全滅、6日朝の庁舎の実相を知る人は誰ひとりとしていません。
水道部全体でも職員186人(応召者を含む)のうち、83人が犠牲となりました。
(説明板より)
水道部員殉職之碑
(広島市水道局敷地内)
説明板
「このころは、水道局のことを水道部と呼びよったんじゃの。ほいで、水道部の基町庁舎におられた職員は、全員殉職されたそうじゃ」
「そういうことがあったんじゃね…。ご冥福をお祈り申し上げます」
(注:青文字部分は、2011年9月5日追記)
↓広島市水道局・広島市水道資料館については、こちら↓
広島市水道局ホームページ
↓広島の水道についての関連記事は、こちら↓
広島市水道資料館 広島市東区牛田新町
「今日は、広島市水道局が被爆直後も給水を行い、現在まで不断水の記録が続いているということについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「ほうじゃったね」
「その広島市の水道が、不断水(ふだんすい)、つまり、むかしから今まで断水することなく水を送り続けとるというのは知っとるかいの?」
「原爆が投下された1945年(昭和20)8月6日にも水を送り続けちゃったんじゃろ? それも知っとるよ」
「この日、どんな方が活躍されたか知っとるか?」
「うーん、そこまでは知らんね」
「わしも知らんかったんじゃが、水道資料館に紹介してあったんよ。堀野九郎(ほりの くろう)さんという技手で、原爆投下から6時間後に運転を再開されたそうじゃ」
堀野九郎氏の甲種電気工事人免許證
「堀野さんは8月6日、勤務されとったんかね?」
「堀野さんはその日の朝、用事があって広島駅に出かけとられたんよ。ほいで、牛田の浄水場内にある公舎へ帰る途中、饒津(にぎつ)神社あたりで被爆されたそうじゃ」
「饒津神社って、爆心地から約1.8キロじゃん」
被爆し、火傷を負っていたにもかかわらず、堀野さんは牛田浄水場へ駆けつけ、壊れたポンプを必死に応急修理しました。
そして被爆6時間後の午後2時ごろ、予備の送水ポンプの運転が開始され、夕方から1日43,000立方メ-トルの給水ができるようになったのです。
(「広島市水道と原爆~不断水記録~」広島市水道局)
「牛田浄水場は窓ガラスが吹き飛んで、施設の一部が壊れとったんじゃが、火災は発生しとらんかったんよ。ところが、原爆が爆発したと同時に、広島市は停電してしもうとったんじゃ」
「停電したけぇ、送水ポンプが止まっとったんじゃね」
「送水ポンプが止まってしまうと、水を送ることができんけぇの」
「そこで、復旧作業が始まったというわけじゃね」
8月6日の給水日誌より
「広島市水道資料館に、8月6日の給水日誌が展示されとったんじゃ。それを見たら、午前7~12時は空白になっとるんよ。赤い矢印があるところが午後1時で、そこから右に3つ目の欄が「廻轉数(=回転数)」で、そこに「300」という数字が書き込んであるんじゃ」
「水を送るポンプがふたたび動き出した、というわけじゃね」
同上
「よう見えんかもしれんが、赤い矢印のところに「当日給水量 43,438立方メ-トル」と書いてあるんじゃ」
「4万3,438立方メ-トルいうたら、どれくらいの量になるんかね?」
「終戦ころの広島市の1日の平均使用量が約10万8,000立方メ-トルいうことじゃけぇ、ふだんの4割は給水できたというわけじゃ」
「堀野さんのお陰で、広島市に水を送ることができたというわけじゃね」
「もちろん、何事も1人の力でできるわけじゃない。他の職員の方の活躍もあってのことじゃがの」
「原爆が投下された後の広島に水が送られたことで、助かった命もたくさんあったじゃろうね」
「とはいえ、市内のあちこちで水道管が壊れとったけぇ、水が十分に行きわたっとったかというと、そうでもなかったんじゃろうがの」
「そういや、ここには「不舎晝夜(ちゅうやをおかず)」という石額(せきがく)が飾ってあったけど、その通りじゃね」
不舎晝夜
「広島の命の水である太田川(おおたがわ)は、昼夜をおかず、つまり昼も夜も休まずに流れ続けて、その恵みを市民に与えている…、というわけじゃ」
「この記録を続けていって欲しいもんじゃね」
「そういえば、水道局自体の被害はどうじゃったんかね?」
「水道局はどこにあるか、知っとる?」
「うーん、知らん。教えて」
「現在の住所で、広島市中区基町(もとまち)9-32。広島県庁から道路1本隔てた東側にあるんじゃ」
「爆心地から数百メートルしか離れとらんじゃん!」
水道部員殉職之碑
(爆心地から約0.6キロメートル)
1945(昭和20)年当時、基町の電車通り沿いに位置していた水道部庁舎は、原子爆弾の炸裂により壊滅状態となりました。
木造の庁舎、工場、倉庫などは跡形もなく全焼、鉄骨造の鍛冶工場も鉄骨がアメのように曲がり、押しつぶされました。
当日、庁舎に出勤し被爆した職員は、爆心地から至近距離にあって全滅、6日朝の庁舎の実相を知る人は誰ひとりとしていません。
水道部全体でも職員186人(応召者を含む)のうち、83人が犠牲となりました。
(説明板より)
水道部員殉職之碑
(広島市水道局敷地内)
説明板
「このころは、水道局のことを水道部と呼びよったんじゃの。ほいで、水道部の基町庁舎におられた職員は、全員殉職されたそうじゃ」
「そういうことがあったんじゃね…。ご冥福をお祈り申し上げます」
(注:青文字部分は、2011年9月5日追記)
↓広島市水道局・広島市水道資料館については、こちら↓
広島市水道局ホームページ
↓広島の水道についての関連記事は、こちら↓
広島市水道資料館 広島市東区牛田新町
「今日は、広島市水道局が被爆直後も給水を行い、現在まで不断水の記録が続いているということについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
ありがとうございました。
参考にしてもらえましたか。
このブログでは、「どう書けば、相手に理解してもらえるか」ということで、書く内容や順番には気をつこうとります。
(すくなくとも、本人はそのつもりです)
ですから、ほかの人に説明するのに参考にしてもらえたということは、わしにとってもうれしいことでありますよのう。
こちらこそ、ありがとうございました。