彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『盟友・大谷吉継の敦賀統治―その政策と三成の信義―』講演聴講記録

2011年07月14日 | 講演
ひこね市民大学講座 歴史手習塾の セミナー8『関ヶ原!石田三成の志-夢と正義-』
2回目の講演として「盟友・大谷吉継の敦賀統治―その政策と三成の信義―」と題されたお話がありました。
講師は敦賀市立博物館の高早恵美さん。


彦根で聞くお話はほとんどが石田三成であり、その盟友といわれる大谷吉継のしかも敦賀でのあり方を聴くことがができるのはすごく貴重なお話でした。
敦賀の支配がどのように行われ、そこに吉継はどんな立場で入府し、そして治めて行ったのか、興味深い内容でしたよ。

今度はそれを感じるためにまた敦賀に行こうかな?って思うお話でした。


ちょっと質問してみました…
≪質疑応答≫
(管理人)
僕の関ヶ原の勝手な解釈ですが、大谷吉継は、戦略家ではあったのですが戦術家ではなかったと思っています。吉継の采配で北陸や九州などで西軍が立ち、美濃の合戦にすぎなかった関ヶ原が全国に広がります。
ひとつだけ間違えたのは大将を三成にしなかったことだと思います。戦略はその点のみがミスだったとしても、戦術は裏切ると見ていた小早川の背後に軍を置かなかったことです。
戦略大名であり戦術大名ではなかったと思うのですが、戦略大名であるならば長期計画が立てられるということなので、敦賀の町作りでの長期プランは史料から読み取れるのかを教えて下さい。

(高早氏)
史料から見るのは難しいですね。結果的に禁制をだしたり建物を移動したりはしていますが、長期かどうかはを考えていたのをわかる史料はないです。
今でもこの町に統治が生きてると感じる時に思う一市民の感想です。

(管理人)
結果的にはすぐには平和になりませんでしたが、あの時期は平和にするための時期なので、そんな町作りかな?と思いました。

(高早氏)
ものすごく平和や経済を意識していると思います。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。