リンポウアカデミア

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左ひじ161206

2016-12-06 22:10:27 | 日記

左ひじが盲点だ。

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メーカー161206

2016-12-06 17:28:54 | 日記

私は、メーカー、ものを作る人、であって、それ以外のことは、専門家ほど詳しくない。


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こころ161206-2

2016-12-06 14:01:48 | 日記

夏目漱石「門」を読んでいます。1910年の本なので、106年前の小説である。「林勇蔵日記」より、元治元年、1864年、1865年、12月6日。天気吉。都合、御静溢之事、秀之進早朝出勤の事。上野、謙蔵夕刻帰宅の事。大坂冬の陣、おおさかふゆのじん。1614年、402年前、冬、慶長19年11月、徳川家康が豊臣氏の拠る大坂城を攻めた戦い。関ケ原の戦のあと、家康や豊臣氏を滅ぼそうと謀り、方広寺の鐘銘事件を口実として攻めたが、城が堅固、けんごで落ちず、翌月いったん和議を結んだ。大坂の陣、おおさかのじん、は、江戸幕府と豊臣家、羽柴家、との間で行われた合戦。慶長19年、1614年、の大坂冬の陣、おおさかふゆのじん、と、慶長20年、1615年、の大坂夏の陣、おおさかなつのじん、から成る。大坂の役、おおさかのえき、とも呼ばれる。豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老の徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍を指揮して三成ら西軍を撃破する。徳川家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。この際、豊臣家の蔵入地、直轄地、を処分、豊臣家の所領は摂津、河内、和泉の約65万石程度まで削がれた。慶長8年2月12日、1603年3月24日、家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸幕府を開き、江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。家康の政治目標は徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくることであったとされ、徳川家の主君筋に当たり幕府のヒエラルキー社会では別格的存在となる豊臣家に対し、服属させるか、それが拒絶された場合には処分する事を考え始めたという。1614年7月、徳川秀忠の娘である千姫が秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入した。慶長10年(1605年)正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗ら奥羽の大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍を率いて上洛した。同年4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り、自らの官位であった右大臣位を秀頼に譲る。将軍就任時の秀忠の官位が内大臣であったのに対し、秀頼はこうして右大臣になったが、秀忠の将軍職継承は天下にはもはや豊臣家ではなく徳川家が君臨することを示すものである。先の家康の将軍任官時の序列はまだ秀頼が上であって、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していたが、既に家康、そして徳川政権が時を追うごとに優位になっていくことを止めることはできなかった。1614年5月8日、秀頼に対して臣下の礼を取るように高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求した。淀殿は会見を拒否したが、家康は松平忠輝を大坂に遣わし融和に努めている。慶長16年(1611年)3月、後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する(二条城会見)[注釈 3][2]。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。翌慶長17年(1612年)には前年上洛していなかった東北・関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない[注釈 4]。二条城の会見後の慶長16年(1611年)に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613年)に池田輝政・浅野幸長、慶長19年(1614年)に前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まり、幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり[注釈 5]、兵糧や浪人を集めだし、更には前田家と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じ、他にも石火矢の鋳造、イギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教陣営との接触は両軍共に存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる。こうしたなかで発生した方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる(方広寺鐘銘事件の詳細は後述)。慶長19年(1614年)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ派遣するが、家康は且元と面会していない。しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されたが、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。9月6日、家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、以心崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという。同日、家康は今度は西国の大名50名から誓詞をとっている。且元は大坂へ戻り、9月18日、私案として以下の3つの妥協案の一つを採用するように進言した。秀頼を江戸に参勤させる。豊臣秀頼、淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っている。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。慶長13年(1608年)には、家康が方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596年)に倒壊)の再建を勧めている。これら多くの造営で秀吉が大坂城に遺した金銀は底をつくのではないかという憶測も流れたが、実際には全く困窮していなかった。大坂の役で多くの戦費を消費したにもかかわらず、大坂城落城後、約2万8千枚の金(約28万両)と約2万4千枚の銀(約24万両)が幕府に没収されている[5][6]。方広寺鐘銘事件、方広寺の鐘銘、慶長19年(1614年)、同14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させている。且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っているが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていた。7月26日、家康は片桐且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた1614年10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。 翌12日には豊臣方の真木島昭光が堺の幕府代官を交替させようと堺に向けて出陣している。 そして、23日に家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。 幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こった。ただし福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置きとされた。福島正則や黒田長政は関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力したが、これはあくまで不仲であった石田三成の討伐が目的だった為、豊臣家との戦となれば敵方に寝返る可能性があった。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣している。 諸大名らの軍勢は揃って江戸から出立したわけではなく、当主が急遽帰国し、各々の国許から(家康らとは別に)指定された集結地点(瀬田・大津・京都郊外、大坂付近など)に集結した。例として、越前福井藩主の松平忠直は当時江戸に滞在していたが、緊急に本国に使者を派遣して出陣を指示、越前松平家附家老の本多富正が軍を率いて越前を出立、近江国大津に軍を進め、同地で江戸からやってきた忠直と合流した、などがある。1614年、11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。1614年12月1日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。慶長19年11月19日(1614年12月19日)、戦闘は木津川口の砦においてはじまる(木津川口の戦い)。この後1614年11月26日には鴫野・今福で(鴫野・今福の戦い)、1614年11月29日には博労淵、野田・福島において戦闘が行われた(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、1614年11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。家康は12月2日、茶臼山を、以降は各将の陣を視察し、仕寄、攻城設備、の構築を命じている。1614年12月4日より各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10町から5・6町まで接近していった。これ以前、家康は1614年10月22日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布している。この接近時に起こった真田丸の戦い、1614年12月3日、4日で豊臣軍が徳川軍を撃退。秀忠は1616年12月4日に岡山に着陣し、家康が和議を考えていると知り家康に総攻撃を提案するが、家康は「敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよ」と却下している。1614年12月5日、家康は住吉から茶臼山に本陣を移し、1614年12月8日までに到着した部隊にも仕寄(しより、塹壕の事)の構築を命じている。1614年12月9日。家康が11月23日より伊奈忠政、福島忠勝、毛利秀就、角倉素庵に命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄橋の工事が完了し、大和川があるため干上がる事はなかったが川の深さは膝下まで下がる。大和川の塞き止めも行われ、諸隊に命じて毎夜三度、酉、戌、寅の刻、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘っている、この鬨の声は京まで届いた。この頃より大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は松平忠明隊は20から30間、藤堂隊は7間に近接している。1614年12月10日には降伏を促す矢文を送り、1614年12月11日には甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁、石垣を破壊する為の坑道の掘削を始めた。1614年12月13日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配っている。更に、船場の堀の埋め立ても命じた。1614年12月16日から全軍より一斉砲撃が始められる。北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿御対面所(俗称千畳敷)に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。 この砲撃では国友製3貫目の大砲、芝辻理石衛門により鍛造で造られた鉄製の大砲が使われた。芝辻理石衛門製の大砲は靖国神社の遊就館に奉納されている。 6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比例)[25]も含まれていると思われる。豊臣方は近づいてくる徳川方に火縄銃で対抗。竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと火縄銃の効果は激減する[26]。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え、番所の武士に声をかけ、激励していたといわれる、「当代記。 大砲も使い、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげた、17日。徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり、真冬の陣でもあったため、12月3日より織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8・12日にも有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。豊臣側は兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や櫓・陣屋などに撃ち込まれた砲弾で将兵は疲れが溜まる。本丸への砲撃が淀殿の侍女8人に命中、8人共死んだ。淀殿は「大坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、あまりに凄惨な光景を見て和議に応ずる事を決める。朝廷から後陽成上皇の命により、1614年12月17日に広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、あくまで徳川主導で交渉を進めた。交渉は2016年12月18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、1614年12月19日には講和条件が合意、1614年12月20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。講和内容は豊臣家側の条件として、本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めること。淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。が提出され、これに対し徳川家が、秀頼の身の安全と本領の安堵。城中諸士についての不問。を約束する事で和議は成立。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた、ただし、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある。


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人気記事浅間山161206

2016-12-06 12:53:25 | 日記

人気記事、浅間山、2016年10月18日の記事である。約2か月前の記事である。浅間山。あさまやま。長野、群馬両県にまたがる三十式の活火山。標高2,548メートル。しばしば噴火。日産のゴーン社長は、三菱自動車の会長に就任することになった。林家は、周防国吉敷郡(よしきぐん)上郷村(かみごうむら、別名、上中郷 、かみなかごう、仁保津(にほつ、現山口市小郡上郷)の豪農で、その系譜は江戸時代初頭にまで さかのぼることができる。 延宝7年(1679)に4代林文左衛門が初めて上郷村庄屋役を勤めたのを契機に、以後代々、庄屋(しょうや)役および小郡宰判(おごおりさいはん)大庄屋 (おおじょうや)役などを歴任して幕末に至った。 宰判とは、広域の村々を代官が支配する萩藩の行政区画であり、大庄屋は宰判ごとに置かれて各村の庄屋を統括し、代官行政を補佐する役職であった。小郡宰判は、吉敷郡南部地域(現在の山口市南部および宇部市の岐波、防府市の台道)に設定されていた。 幕末期には、小郡上中郷、同中下郷(下郷)、嘉川(かがわ)村、江崎(えざき)村、佐山(さやま)村、遠波(とおなみ)村、井関(いせき)村、阿知須浦(あじすうら)、岐波(きわ)村・名田島 (なたじま)村、二島(ふたじま)村、本郷(秋穂)村、青江 (あおえ)村、大海(おおみ)村、陶(すえ)村、鋳銭司 (すぜんじ)村、台道(だいどう)村の 17か村で構成されていた。庄屋役は、 原則として村内の有力農民が勤め、大庄屋はその中でも特に富裕で有力な者が選ばれた。 この点からみても、大庄屋を出す家柄であった林家の大きな地位がうかがえる。(小郡宰判図)。(2)幕末の大庄屋、林勇蔵。林家歴代の中でも特に注目されるのが、10代当主となった林勇蔵である。 文政10年(1827年)、 15歳で上中郷の給庄屋(給領地の庄屋)となったのを皮切りに、庄屋役、小郡宰判大庄屋役を歴任し、地域社会の指導者として、幕末維新の激動の時代に活躍した。 この間、開墾事業などの産業奨励、貧民救済、救荒備蓄に尽力したほか、農兵隊の結成や、砲台・関門の築造に携わるなど、重要な役割を担った。特に、慶応元年(1865)の「元治の内戦」(萩藩内の討幕派と恭順派の内戦。 大田絵堂の戦が有名)に際しては、倒幕派に人馬金穀の融通を行うなど、小郡宰判の大庄屋として難しい局面に対応している。維新後も、新体制の下、引き続き村落を代表する指導者として活躍した。 ペルーから雀糞(グアノ)肥料を輸入して農業生産力の向上を試みたり、晩年には藩政期以来の課題であった椹野川の治水事業に尽力し、政府へ働きかけて明治22年(1889)にその事業を竣工に導くなど、多くの業績を残した。中でも注目されるのが、明治6年(1873)の地租改正の際に果たした役割である。 周知のように地租改正は、従来の米納年貢を廃して地租金納という租税体系を構築した一大税制改革であった。 山口県は 、地租改正条例発布以前の明治5年(1872)から全国に先がけて地租改正を実施した。 その際、モデル地区となったのが小郡宰判地域であり、 林勇蔵は、農民的立場や豪農層の利害を代表して県庁と交渉するなど、主導的立場にあった。山口県では、金納地租への転換に際して生じる混乱を防止し、農民層の没落を防ぐと共に、地主層の利益確保を図るべく、 半官半民の「防長協同会社」が設立され、米穀の換金や地租の代納業務を行う特徴的な制度が実施されたが、林勇蔵はこれにも深く関与していた。晩年の勇蔵は、村役人としての公職を引退、11代目の林秀之進(秀一)がかわりにこれを勤めた。 秀一は、明治以降、大きく変転する地方制度の中で、戸長、村長、郡県会議員を歴任し、父の後を受けて同じく地域社会の指導者として活躍し、地方行政にも深く関与した。  

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こころ161206

2016-12-06 12:44:39 | 日記

#こころ161206
夏目漱石「こころ」を読んでいます。1914年の小説だから、102年前の小説である。渋谷スクランブル交差点では、青信号が、早く点滅しているように見える。レシートより。2016年12月3日(土)。セブンイレブン。たばこラークマイルドKBOX、420円が3つで、1,260円。7Pアーモンドチョコバー、189円、ビッグコミックオリジナル増刊(2)、500円、新聞、160円、「一番やさしい薬の本」、596円。計、2,705円。2016年12月3日の銀行預金残高は、223,910円。2016年12月4日のレシート。セブンイレブン。アップルCRライター、140円、たばこラークマイルド、420円が4個で、1,680円。7Pアーモンドチョコバー、189円。セブンイレブンのレシート。2016年12月5日、たばこラークマイルドKSBOX、420円が4個で、1,680円、7Pアーモンドチョコバー、189円。「137億円の宇宙の神秘」、605円。新聞、130円、2016年12月6日のレシート。7Pアーモンドチョコバー、189円、合計、200円。

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