過去の記事。2014年12月14日の記事を加筆修正した。6年前の記事である。「このために生まれた」「このために生きている」と生まれた目的や自分の価値がはっきりとひとつに定まっている人生などというのは、それだけで本人に大変なプレッシャーを与える。他の選択肢を選ぶことも、休むことも手抜きをすることも許されないからだ。また、目的や価値がはっきりした人生の場合、うまく行かなかったときの絶望はいかばかりのものか、とも考えられる。たとえば、「私は世界的なピアニストになるために生まれてきたのだ」とはっきりわかっている、と主張する人が、誰でも本当に世界的ピアニストになれるかと言えば、それは違う。実は私はある時期、有名な芸術大学の相談室に頼まれて、そこの学生たちの心のケアを引き受けたことがあったのだが、そこには夢破れた「天才音楽家」が大勢おり、治療は難航をきわめた。難関を突破して入学する学生のほとんどは、「私は一生、音楽をやるためだけに生まれた」と確信している。ところが、たとえば一学科100人の学生がいるとしても、世界的なコンクールに入賞してソリストになれるのは、その中の数人。後の人たちは、教職を取って教員になったり、町の音楽教室の先生になったり、小さな楽団のメンバーやレストランで演奏するピアニストなどにならなければならない。一般の音楽好きからすると「ステキなレストランで好きな音楽を聞かせられる、なんてうらやましい」ということになるが、「音楽のために生まれた」と信じて生きてきた人にとっては、それは挫折や失敗でしかない。現実を受け入れることができず、アルコールやギャンブルに走ったりする人も少なくなかった。音楽の才能は十分にあるのに「こんなことのために生きてきたわけじゃない」と苦しんでいる彼らを見ていると、「生まれた意味や目的なんて、あまりはっきりしていない方が幸せなのだ」とつくづく思った。(「しがみつかない生き方」香山リカ氏著より)(2020年5月30日の感想)天才は、能力が偏っているので、生きにくいと思う。
私は、本に書いてある成功法則を勉強すれば、成功するのだと思っていた。自分はいつか成功するのだと思っていた。しかし、結果は、生活保護のどん底生活である。
「大きな事を成し遂げるために、力を与えてほしいと神に求めたら、謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、より良きことができるようにと病弱を与えられた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。世の中の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった。人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにといのちを授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中で言い表せないものはすべて与えられた。私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されていたのだ」(感想)「弱さ」、「病弱」、「貧困」、「失敗」と私は、ここに書いてあるすべてを与えられている。私は、神に祝福されているのだろうか?
椅子に座っているだけでえらい(えらいとは、山口弁で、つらいとか、苦しいと言う意味)。パソコンもろくに打てない。体調不良が本格的だ。