中教審答申案に「人間力」の文字 10月19日

中教審の義務教育特別部会が決定した答申の最終案には、「教師の力量の強化を通じて子どもたちの人間力の豊かな育成を図る」との一文がある。中教審が「人間力」という言葉を使ったことは画期的、非常に評価できる。既得権益への執着や自己保身のための行政にならないよう、文部科学省のお役人も、まさに「人間力」をもって義務教育の更なる発展のために尽くしていただきたいと願うばかり。

しかし・・・冒頭の総論部分に「人間力」という言葉が登場し、期待を持って読み進めた最終答申案だが、読み進めていくうちに、肝心の「子どもたち」が実は置き去りにされていることに気付く。文科省はこれまでの権限(権力)を維持するためになりふり構わない姿勢を示している。文科省の言う「義務教育の根幹の保障」とは、「教職員の身分と生活の保障」に他ならないことが、手に取るようにうかがえる。

必要な資質能力が保持されるよう、教員免許の更新を検討するとあるが、文科省はいったい教員に必要な「資質と能力」とは、何だと考えているのだろうか。勿論、わかり易く指導するために教師自身の学力の向上は必須だ。従って、知識の確認のための学力試験は必要かもしれない。

一方で、教師に問われる最大の課題は、「人間力」の豊かな人を育てるために、子どもたちの心の成長を支える術を備えることだ。そのために、教師が持たなければならない能力とは何だろう。キレない子どもを育てるには、セネカの言葉のように、接する周囲の大人自身が思慮深くあることが重要だ。不当な要求などに対して、直ちに怒りを露にすることなく、いったんは受け止められる、度量の広さが必要だ。

それには、艱難辛苦を乗り越えた豊かな人生経験、すなわち「年輪」が何よりものをいう。指導者に「人間力」がなければ、子どもたちの「人間力」を、育むことなど決してできない。民間企業で幾多の荒波を乗り越えてきた熟年世代の方々の登用こそ、義務教育の現場には必要なのではないかと私は思う。教員免許を更新する際、教師の人間力を、どうやって推し量るというのだろうか。

学校を出たての若い人間が、まさに人格形成に多大な影響を与える小中学校で、全権をもって「教える」立場にあることに、私はずっと疑問を抱いている。若い教師に示唆する人間が必要だし、教員免許更新の前に、理想とする教師像を明確にすることが肝心だ。

更に最終答申案では、安心して教職に就くことが質の高い教育を生み出すもので、そのために、教職員の給与は保障されなければならないとある。文科省が、義務教育費の1/2を国庫負担すると主張する要因の一つだ。しかし、よく考えてみると、これは民間とは完全に逆の発想だ。通常は、結果に対して評価が下され報酬が与えられる。文科省の言い分は、良い結果を出すために、まずは給料を保障するというもので、論理が逆だ。現状にあまんじる教師から、質の高い教育など絶対に生まれない。

保障だけでは、良い意味での緊張は生まれることはなく、本末転倒。いつまでも既得権益にしがみつく教師など、必要ないではないか!義務教育の改正には、人間力のある教師を確保することが何より優先されるべきで、そのためには、教師採用の権限を地方自治体に委譲し、社会の各方面からふさわしい人生の先輩を登用していくことも考慮に入れるべきではないかと、私は思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )