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【京都発幕間旅情】生田神社,神功皇后元年三韓外征帰途の創建にはじまる神戸1800年の歴史

2017-12-06 20:05:48 | 旅行記
■兵庫三社,生田神社探訪
 師走ということで初冬の神戸を散策して参りました。今回ご紹介するのは兵庫三社の一つ、生田神社参拝の様子です。

 生田神社、神戸に神功皇后以来の歴史を以て知られる社殿を湛えてきました。神戸市中央区下山手通一丁目、師走の丁度この頃が紅葉に輝く季節であり、港街神戸の潮風と峰々の冷涼な峯風の交じり合う街路と参道を歩みますと、何か新しい心持に浸る事ができそう。

 神功皇后元年、神功皇后三韓外征からの帰途に須磨の沖合に船足が止まる椿事があり、神託を頼んだところ、稚日女尊の神託があり、縁としてこの地に社殿を築く事になりました。この神事を以て海からの新しい門戸を築く事になった為、この地を神戸と命名することに。

 摩耶と六甲の峰々へ三ノ宮駅から歩みを進め、阪急電車と山陽本線の喧騒が耳から離れる頃合いに、程なくして近代都市の一角に、国の始りから今日に至る社殿へと続く鳥居が迎える。生田神社は西暦201年に創建、という二千年に迫る長い歴史を経て今に至ります。

 旧官幣中社で神社庁別表神社、神戸市中央区一帯を社領としてきました。神戸は横浜港と並ぶ特定重要港湾の筆頭で最盛期には世界最大級の貨物取扱量を誇り、今なお有数の規模を誇ります。扇状入江部と深い水深に恵まれた地形故で、古くから港湾が利用されました。

 遣隋使の時代より、西国街道に先んじ穏やかな海路が広がる瀬戸内の海上航路を九州、そして九州から大陸や朝鮮へ至る港湾として発達していましたが、奈良時代や平安時代まで我が国の海の玄関は大阪の難波津、難波長柄豊碕宮と共に我が国最大の規模を誇りました。

 山陽新幹線新神戸駅、生田神社創建の地は新神戸駅に隣接し今なお清水が湧く布引山の麓にありましたが延暦18年、西暦799年に大水害が発生、鎮守の森には数多の松の木が広がっていましたがこれらを呑みこみ、布引山そのものが崩落するとの危機に見舞われました。

 生田の刀祢七太夫は、これを憂いて社殿の御神体を担ぎ出し、間一髪で社殿消失の危機から脱すると共に、その後、今日の生田神社へと遷座を果たします。神戸の街は昭和にも摩耶の大水害と水害の印象が強い街並みですが、実に千年以上の水害の歴史があるもよう。

 平安朝末期、平清盛により神職に当たる神封戸の軒屋が連なるこの地は一つの転機を迎えます。平清盛治世下では神戸の前身たる兵庫津経ヶ島へ福原京として新都造営を行っており、我が国の古くとも一つの小さな港湾でしかなかった兵庫津は活気と知名度をあげます。

 兵庫津は、神宮皇后時代からの所縁ある生田神社とともに、六甲山系が育む清涼な清水を以て御神酒に用いる酒造業で栄え、福原京造営は、遷都こそ実らなかったものの港湾を広める事となり、鎌倉室町を経て江戸時代までの西国街道の宿場町として発展を迎える事に。

 こうして神戸の街は神戸村として小さいながらも街道上の要衝の位置づけを有する事となりましたが、大きく発展の端緒に就いたのは幕末の神戸開港でしょう。当時、江戸幕府は海洋利用を厳しく制限し、港湾の位置づけは江戸時代に、決して高いものではありません。

 日米修好通商条約の締結と共にイギリスオランダロシアとも同様の条約を結んだ我が国は、その開港五都市として他国との交易をオランダ中国との情報交換と儀礼に近い貿易を除き閉ざしていた門戸を大きく開き、神戸は大坂京都に近い事から各国領事館が置かれました。

 生田神社は、寒村であった神戸村にあって一時的に各国の領事館を受け入れる一つの窓口となり、一時フランス領事館が置かれたという。1938年の神戸水害、1945年神戸大空襲、1995年の阪神大震災で社殿は倒壊しましたが、その都度復興を果たし崇敬を集めています。

北大路機関:はるな くらま
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