北大路機関

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【日曜特集】築城基地航空祭二〇一三【2】大空に響く九州イーグルの咆哮(2013-10-27)

2017-03-19 20:17:54 | 航空自衛隊 装備名鑑
■F-15イーグルの妙技
 築城基地航空祭二〇一三、九州北部に展開された航空祭の様子を築城基地の歴史と共に振り返ってみましょう。

 航空自衛隊創設と共にまずは要員教育を行わなければなりません、航空自衛隊へは旧海軍航空隊と旧陸軍航空隊の精鋭の生き残りが集められましたが、残念ながら零戦や紫電改や飛燕や疾風は優秀な戦闘機でしたが、旧軍にジェット機操縦経験者はほとんどいません。

 旧軍にはロケット戦闘機秋水やジェット機として特殊攻撃機橘花等が開発はされていたのですが、ドイツのメッサーシュミットMe262のような戦闘機部隊はありませんでした、故に位置から教育する必要があり、築城基地要員はまず臨時芦屋派遣隊での教育から始まる。

 1955年に臨時芦屋派遣隊を臨時築城派遣隊へ改称し、築城基地へ移駐を開始しました。何より草創期、沖縄は勿論アメリカ占領下にあり、奄美諸島も小笠原もアメリカが占領中、西部航空方面隊発足前の状況です。朝鮮戦争が停戦になったのが漸く1953年なのですから。

 亜音速戦闘機F-86を運用していましたが、当時世界の戦闘機は超音速戦闘機が基本となっていました、航空自衛隊は次期戦闘機選定を本格化させたのが1957年、F-86戦闘機の運用が開始直後の時期ですがアメリカは1954年に超音速戦闘機F-104を初飛行させています。

 世界初の超音速戦闘機F-100が初飛行を果たしたのは1953年、翌1954年にはソ連軍も初の超音速戦闘機MiG-19の初飛行に成功しており、航空自衛隊が創設されたその年に既に米ソ両陣営が超音速戦闘機を揃えていたのです。教育訓練を大車輪で進めなければならない。

 現在でこそ、航空機開発は年単位の研究開発と部分試作が進められていますが、これは戦闘機が操縦システムと兵器システムの整合を重視するようになったためで、この当時は機械工学の高出力エンジンを空力特性優れた機体にはめ込む事で短期間に完成していました。

 航空自衛隊は1956年にF-100戦闘機の導入を計画し、次期戦闘機選定が本格化しました。ただ、F-100戦闘機は戦闘爆撃機としての能力も兼ね備えた多用途戦闘機であった為、平和憲法を含めた政治的な問題が生じ、F-100を含め選定そのもの一旦は白紙撤回されています。

 次期戦闘機へは、超音速のロッキードF-104,レーダー搭載型迎撃専用のノースアメリカンF-100J,艦載機転用のグラマンG-98-J11,軽戦闘機計画ノースロップN-156F/F-5A,候補はこのように並びました。ここで内定したのが当時開発中のグラマンG-98-J11戦闘機です。

 グラマンG-98-J11は空母艦載機F-11Fの改良型で高性能レーダーを搭載し高い運動性を兼ね備えた最新鋭戦闘機、という計画であったのですが、試作が進みますと超音速飛行出来ないという深刻な問題が露呈します、超音速戦闘機が超音速飛行できないのでは困りもの。

 実は初期の超音速戦闘機には得てしてこうした問題が付きまといます、グラマンG-98-J11は超音速飛行できない事が問題となりましたが、アメリカ空軍の次期戦闘機として開発されたコンベアF-102も同じく超音速飛行が試作機で出来ず、その後改良に苦心しました。

 F-102は1953年に試作機が墜落、1954年に試作機のYF-102が初飛行しましたが、この時点でレーダーと火器管制装置が未完成、その上超音速飛行が機体形状の失敗で出来ず、YF-102Aとして改良の末に漸く実用化出来た頃にはより高速のF-104が進空していました。

 1958年に航空自衛隊は航空幕僚長を団長とするアメリカ次期戦闘機調査団を派遣し、1959年にもこの渡米調査団派遣は二度目となりましたが、実際に戦闘機に搭乗した上で機種選定を実施、要撃に必要な加速性が特に優れているとして、F-104戦闘機の採用が決定します。

 1959年、春日基地に西部航空司令所が新編されます、西部航空司令所は九州西日本の戦闘機部隊や高射部隊を包括し運用する司令部で、これがのちに西部航空方面隊へ改編されます、ただ、この時代はまだレーダーサイトの米軍から自衛隊への移管が始まったばかり。

 築城基地へ、航空自衛隊草創期の1959年に第16飛行教育団されると共に1964年には新田原基地からF-86戦闘機を運用する待望の要撃飛行隊、第10飛行隊が移駐してきました、実戦部隊移駐と共に航空管制と整備補給部隊を包括した臨時築城航空隊が誕生します。

 新田原基地では第17飛行教育団が戦闘機要員を造成している時期ですが1960年に千歳基地より第6飛行隊が移駐してきまして、これにより要員教育のマザースコードロンとする事が可能となった為1962年に第10飛行隊が新編され、この部隊が築城へ移駐しました。

 1960年に新田原基地へ東北の松島基地より第5航空団が移駐しまして、これにより航空教育体系に余裕が出来ましたが、此処が築城基地への戦闘機部隊配置を加速させた訳です、防空能力整備と共に東西冷戦はベルリン封鎖等を経て徐々に激化、日本も緊張漂ってくる。

 1961年、西部航空司令所を西部航空方面隊へ拡大改編、九州の防空が現在の形へと転換してゆきます。1961年、同じく西部航空警戒管制団が新編され、高尾山分屯基地や下甑島分屯基地と福江島分屯基地に見島分屯基地と海栗島分屯基地や背振山分屯基地が隷下に入る。

 西部航空警戒管制団が新編され、高尾山分屯基地や下甑島分屯基地と福江島分屯基地に見島分屯基地と海栗島分屯基地や背振山分屯基地のレーダーサイトが一つの防空網に統合化わけですが、戦闘機は主として昼間戦闘機で要撃管制は基本的に音声、初期の初期でした。

 1964年は日本では東京五輪に沸いた一年であり東海道新幹線開通の一年であった訳ですが、同年さらに新田原基地より第6飛行隊が築城基地へ移駐、臨時築城航空隊へ加わります。こうして第6飛行隊と第10飛行隊を基幹として臨時築城航空隊は第8航空団へ拡大される。

 第6飛行隊は新田原基地第5航空団第6飛行隊を移転したもので、現代のような既存部隊の再配置というものではなく、飛行隊を新編するには既存飛行隊での要員教育を強化し、一定の操縦要員と整備要員が揃えば戦闘機や整備器材と共に新しい飛行隊を新編していた。

 第8航空団新編は1964年の年末にずれ込んでしまいましたが、こうして西部航空方面隊隷下には新田原基地の第5航空団、築城基地の第8航空団、二個航空団画要撃体制を完結させました。当時のF-86飛行隊は24機編成で、航空団へは50機の戦闘機が配備された。

 F-86戦闘機を運用する第8飛行隊に対し、超音速戦闘機F-104Jが1961年に初飛行を果たします、230機のF-104が航空自衛隊へ配備されました、超音速ながら翼面荷重特性等から小回りに難点があり、運用には苦慮も伝えられるものの三菱重工でも生産されています。

 F-104ですが、千歳基地第2航空団第201飛行隊と第203飛行隊、新田原基地第5航空団第202飛行隊と第204飛行隊、小松基地第6航空団第205飛行隊、百里基地第7航空団第206飛行隊と配備が進められたものの、結局、築城基地へは最後まで配備されていません。

 一方、九州の防空は1967年に春日基地へ第2高射群が新編、ナイキ地対空ミサイルによる防空体制が整備され、従来の高射砲から近代的な防空体制が順次整備されると共に、1969年よりバッジシステムの導入によって防空管制も一挙に自動化、近代化されてゆきました。

北大路機関:はるな くらま
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