hiroshi hara: saxophoniste

日々の思考の断片

音のイメージ

2007-01-03 23:00:43 | sax関係
よく「出したい音のイメージ持って」ということをよく聞き、私自身も生徒に対しよく言ったりする。
確かに何の目的も持たず、出たとこ勝負で演奏してはまずいし、それでは楽しくないと思う。

ただ私自身については、あまりイメージを持たなくなり、練習では音程とイントネーションに重きを置くようになった。
ある程度、楽器をコントロールすることに慣れてきたのかもしれないが、それよりも、イメージを強く持ちすぎて偏った音になってしまうのが怖いのだ。

もう随分前になるが、昨年二月、アンサンブル・ヴィーヴォで久しぶりに現代作品を演奏させていただいた。
楽譜に書かれた細かい指示や微分音に伴い、デリケートな音程の操作など強いられ、当然ながらヴィブラートを伴ったクラシカルな音色を用いることができない。

そのとき感じたのが、これらの作品に求められるのは純粋なサックスの音であり、またドラマティックな、感情を込めた音ではなく、音楽に対し、サックスはあくまで素材として機能しているということだった。
従来の調性を伴ったクラシカルな音楽のように、場面に応じて音色を変えるといったことはなく、自分自身は「サックスの音」という一色のみでアンサンブルに関わっていた。

誤解を招かぬよう補足すれば、クラシカルな大局的な表現ではなく、一つの事柄を分子レベルで表現していると言えばよいだろうか。
その中ではサックスと言う一つの原子が色々な楽器と綿密に結びついて、一つの物質を創りだしているような感じだった。

ジェラール・グリゼイの最後の作品「境界の彼方への四つの歌」を演奏した際、所々楽譜に「四分の一音低めにチューニングして」という指示があった。
もちろんノーマルなチューニングに戻す部分もある。
四半音低めても、それでも微分音やノーマルな音を行き来し、音程にデリケートなことは変わらないのだが、それはおそらく意図的に音の焦点をぼかし、結果として音色の変化を指示しているものではないかと思われるのだ。

そのグリゼイ作品に触れたことをきっかけに、そのような効果を活かすためにも、プレイヤーが音色に対し余計に干渉してはならないのではないかと思うようになったのだ。

その後、音色に対しての価値観が大きく変わった。
楽器も声も同様に、持って生まれた美声と言うのは存在し、プレイヤーは切磋琢磨してその美声を獲得することは必要だと思う。
しかし大事なのは、音楽に適した音色をその都度選び、行き来できることなのだ。
そのためには、サックスらしい音、ニュートラルな音を知っていなければならない。

最近、私が楽器やマウスピースのサイズをころころ替えるのはそのためで、道具を替えても奏法や音色が変わらないように意識している。
違う言い方をすれば、楽器やマウスピースを替えても、変わらない奏法と音色というものを探しているのだ。

現時点では、道具を替えても変わらない部分が、すなわち「サックスの音」、「ニュートラルな音」なのではないかと考えていて、そこで得られる音を大切にしている。

最新の画像もっと見る