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終盤探検隊 part63 第十代徳川将軍家治

2015年11月20日 | つめしょうぎ
 徳川家治が作った詰将棋。美しい初形である。
 第十代将軍だから「十」というわけでもないだろうが、歴史上、この形の詰将棋を残した人は他にいないだろう。それほどの意欲作である。
 さて、「初手」は?

    [怪人昇月斎]
「儂もいささか鬼道にはくわしい。昇月法とは文字通り魂を月の世界に遊ばせ、月の光のような色の景色を眺めることだというではござらぬか」
「さよう」
「その月光の色の景色は、おのれにかかわる過去、現在、未来の姿…」
「さよう」
「しかもそれは、外道皇帝のみに許される術とか…」
「さよう」

 白視。
 或いは昇月法とも謂う。それこそ鬼道に於いて外道皇帝のみに許されるという最高の術であった。
  (中略)
 昇月法は時間を超えてしまう。術者は超常感覚の中で白視界を得るという。白視界とは黒白明暗のみの視界である。従って過去未来の事象は月面の模様のごとく灰絵となって見えるので昇月法と呼ばれている。鬼道によれば、月こそは総ての魔力の源泉であり、鬼のみが住む世界とされている。しかも月ははじめこの世に無く、後に他からこの世に引き移されたものであるとされているのだ。
                       (半村良『妖星伝』(二)外道の巻、(三)神道の巻より)


 伝奇小説『妖星伝』は全7巻の大作であるが、ここに描かれた時代は、江戸時代の中期で、西暦で1740年~1770年頃である。
 徳川将軍で言えば、八代吉宗、九代家重、十代家治の時代となる。
 『妖星伝』の主役は「鬼道衆」と呼ばれる江戸時代の(架空の)闇の人物たちだが、彼らは田沼意次に接近して力を与え、権力を動かそうとする。その田沼意次が政治的に活躍したのが、家継、家治の時代なのである。


問題図
 将棋の大好きな徳川第十代将軍家治は『御撰象棋攻格』(以下『将棋攻格』とする)という詰将棋図式集を残しており、その中には100題の詰将棋が収められている。これはその「二十五番」。

 このように面白い配置をした詰将棋を「曲詰め」という。「曲詰め」は江戸期からこのようにつくられていたのだが、しかし江戸期の「曲詰め」は、詰将棋の内容としてはあまり中身が充実していなかった。「曲詰め」の技術が最も進歩したのは昭和時代である。

 徳川家治は1737年に生まれ、1760年に将軍になり、そして1786年に亡くなっている。
 この詰将棋図式集『将棋攻格』が完成したのは、「天明年間」(1781~89年)だそうで、つまり、家治の没年の数年前ということになる。

 この美しい初形の詰将棋の「答え」を並べて鑑賞するとしよう。

初手
 「4六角、同銀、4五竜、6四玉、7四金」
 
 初手は4六角である。これを2八角とか離して打ったり、1五の角を3七角と引いたりするのは、4四玉と逃げられてしまう。だから、4六角、なのだ。
 4六角に、同香は、3五竜で、早く詰む。

5手目
 「7四同玉、7三桂成、6四玉、6五竜、7三玉、7五竜、7四歩」

 ここはほぼ一本道の手順。
 図の7四金では、代えて7五金、同玉、5三桂成も詰み筋としてみえるが、5五香で竜の利きを断たれて詰まない。
 (なお、7五竜の時に持駒が「銀香歩」だが、これが持駒「銀歩歩」なら、7五竜に7四飛合で不詰となる。この変化のときに「香」が絶対に必要な駒となるのである。「香」があれば、7四飛合いに、同竜、同玉、8四飛、7五玉、7七香以下詰むのである)

12手目
 「6五桂」

 ここで2通りの攻め方がある。〔A〕8四とと、〔B〕6五桂だが、〔B〕が正解となる。

 〔A〕8四とは、以下、6二玉、7三銀、7一玉、7二歩、6一玉、6二香(次の図)

変化図1
 6二同金、同銀成、同玉、7三と、同玉、5一角成、6二角(次の図)

変化図2
 6二角合が唯一の受けで、これで詰まない。
 角以外の合駒なら、6五桂、8三玉、8四竜以下、詰んでいる。「角合」に6五桂は、8二玉とされ、そこで8四竜がないので、詰まないのである。

 ということで、〔A〕8四とでは詰まない。(この手順が正解とされていたこともあったようだ)

13手目
 「6三玉、5三桂成」

 〔B〕6五桂、6三玉、5三桂成が正解手順となる。(この途中、6三玉に7二銀は、同玉、7四竜、6一玉で、逃れている)

15手目
 「5三同玉」

 ここで、(ア)5三同金と、(イ)5三同玉に分かれる。どちらも詰むが、(イ)5三同玉のほうが長いのでこちらが正解手順になる。

 (ア)5三同金の変化は、以下、6四香(代えて6四歩でも詰むようだ)、同金、6二金、5三玉、4二銀(次の図)

変化図3
 6二玉、6四竜、6三飛、5三銀成(次の図)

変化図4
 7一玉、7二金、同玉、6三竜、以下簡単な詰みとなる(37手)

16手目
「6四銀、6二玉、7三金、7一玉、7二歩、6一玉、6二香」

 ということで、(イ)5三同玉。 6四銀、6二玉、7三金と追う。
 6四銀に4四玉は、3四金、同玉、4六桂、4三玉、4四香、3二玉、3三銀、3一玉、3二歩、2一玉、2五竜、1二玉、2二竜まで。

23手目
 「6二同金、同金、同玉、6三金、6一玉、7一歩成、同玉、7四竜、8一玉」

 ここまでの順で、6四銀と7三金の「金と銀」を入れ替えてもよいし、7二歩と6二香の「歩と香」を入れ替えても成立する。「詰将棋作品」としては、ここが“キズ”になっている。
 また、5九にいる「と」は、飾り駒である。 

32手目
 「7二金、9一玉、8二金、同玉、7三銀成、9一玉、9二歩」

 ここで7二竜では9一玉で、これは“打ち歩詰め”の禁じ手の形になり不詰め。8三竜も、9一玉で、やはり“打ち歩詰め”。
 この図から、7二金~8二金と金を捨てて、7三銀成がシブい好手順。つまり「8三」に駒の利きを増やした。これで詰む。

39手目
 「9二同玉、8三竜、9一玉、8二竜」

詰め上がり図
 まで、43手詰め。

 この「将棋攻格 二十五番」、これだけのインパクトのある初形の「曲詰め」なのだから、もうすこし有名になっていてもよさそうなものだが、それにはそれなりの理由がある。
 実は、「余詰め」があるのだ。

変化図5
 初手から、3三角成(図)。これが「余詰め」の変化である。
 この詰将棋を見て、まず「3三角成でどうか」と、ここから考えた人もいるだろう。これでも詰むのである。

 3三角成(図)。 これに4四歩なら、3七角、4六香打、同角から、以下本手順と途中まで同様に進め、持駒が多いので33手の早詰となる。
 3三角成に4四香合としても、4六角以下、やはり33手早詰となる。


 残念ながら、初手から「余詰め」があるのでは、詰将棋作品としては失敗作である。
 この詰将棋がほとんど世に知らされることがないのはそのためだろう。
 近年コンピューターソフトの詰将棋の解図能力が人間の能力を超えるほどに発展したこともあり、江戸時代につくられた仕掛けの大掛かりな詰将棋は、その半分くらいは「余詰め」や「不詰め」が発見されたりして、不完全作であるとわかっている。
 そうはいっても、この、だれも作ったことのない「十」の形の「曲詰め」の創作に挑んだ、徳川十代将軍のその意欲は大いに評価すべきところである。


 次に、前回の続きで、徳川家治の指した「横歩取り」の将棋の棋譜を一つ見ていく。

徳川家治-伊藤寿三 1776年
 徳川家治の将棋の棋譜で、「平手」での対戦が最も多いのが伊藤寿三である。寿三は「二代看寿」を名乗っていたこともあり、あの詰将棋で有名な伊藤看寿(かんじゅ)の息子である。1748年生まれ。つまり将軍家治より11歳年下である。(伊藤看寿の死は1760年)

 さて、将棋だが、これまた「横歩取り4五角戦法」の棋譜。
 後手の寿三が4五角と打ち、先手の家治は7七角と返した。これは前にこの二人が指した棋譜と同じ。以下、8八飛成、同角、3四角、1一角成、3三桂、3六香、3五歩、同香、2五角(次の図)


 前の棋譜では、1一角成に、2八歩、同銀を利かし、そこで3三桂、3六香、3五歩、同香、2五飛と進んでいた。これは現代でも通用する定跡手順だが、後手の伊藤寿三は、「2八歩、同銀」を入れず、そして「3五歩、同香」に、「2五角」と工夫した。
 先手はどうするか。
 家治は3三香成とし、以下、4七角成に、5八桂(次の図) 


 後手寿三の「2五角」の新手も“なかなかの手”だったが、先手家治将軍の応手「3三香成、4七角成、5八桂」も“なかなかの手”で、もしかするとこれが最善の応手かもしれない。将軍の実力を示した手である。
 さて、ここで後手がどうするか。考えられる手は、6二玉や、8六歩、あるいは1四馬という手。どれも有力だ。
 寿三は2九馬とした。桂馬を取って、次に4七桂と打つのが狙いになる。これはしかし、上の3つの手に比べると、やや劣る手かもしれない。

 2九馬以下、3二成香、4七桂、6八玉、3九桂成、3三馬(次の図)



 以下6二玉、3一成香、4九成桂、2二飛と進んだ。
 この「3三馬、6二玉」の手の交換は、あるいは先手が損をしたかもしれない。3三馬では、単に3一成香とし、以下、6二玉(4九成桂としたいがそれは2二飛が詰めろ馬取りで後手まずい)、3二飛、5二銀、5九金(参考図)

参考図1
 こうなれば、先手やや良し。


 しかし本譜の順でも先手良しかもしれない。先手の家治はこの2二飛を打ちたかったのだろう。“王手馬取り”だ。
 だが後手にも返し技があった。3二歩。
 家治はこれを同飛成。(代えて2九飛成、3三歩、4九竜もあったが形勢は不明)
 3二同飛成以下、5二銀、4一成香、4八成桂で、次の図。


 ここでは5一金と打つのがしっかりした寄せで、これならはっきりと先手優勢(と、ソフトで調べてわかった)
 家治将軍は5一成香と指した。
 5一金は重い攻め手に見えるし、この5一成香は“良さそうな攻め手”に見える。
 実際は、そうかもしれないが、そうでないかもしれない…、実に微妙な手だったのだ。
 後手は5八成桂、先手7七玉(次の図)


 さて、形勢はどうなっているか。
 ここで「5一金で後手優勢」とソフト「激指」はしきりに主張していたのだが、しかしその後を調査すると、それは間違いだとわかった。5一金なら、同馬、同玉、4二金、6二玉、5二金、7二玉、6一金と進んで次の図。(途中、5一同玉に、2一竜と王手馬取りをかけるのは先手悪い)

参考図2 
 これは先手勝ちになっている。6二銀打と受けても、同金以下詰む。(「激指」の評価はここまで来て突然に逆になった)

 それなら、上の図は先手良しかとも思えたが、後手には“7四馬”があった。

参考図3
 “7四馬”と馬を引かれて、この図、我々は、先手の勝ち筋を発見できなかった。(7五銀は同馬で後手良し)

 図以下、6一成香、同玉、5一金、7二玉、5二竜、8三玉と進むと――

参考図4
 どうもこれは先手困った。7五銀と打つと、同馬で、同歩なら、7六銀、同玉、8四桂以下先手玉が詰んでしまう。(この詰みは後手の手に香がなくても成立する)
 だから図で9五銀と打つ手が考えられるが、それには8四銀と応じられ、同銀、同馬は、次の手がない。9五銀、8四銀に、8六銀打は、9五銀、同銀、8四銀…、千日手コースである。

 つまり「後手7四馬」なら、このようなきわどい形勢だったのである。(だから先手5一成香では5一金のほうがよかった、というわけ)
 

 後手伊藤寿三が指したのは、6五馬(図)だった。
 もし、伊藤寿三が(相手が将軍だということで)この将棋を“ゆるめた”としたら、この手がそうだろう。そうでないとしたら、これが寿三の実力だ。
 この手6五馬が、伊藤寿三の“敗着”となった。

 図以下の指し手は、6一成香、同玉、5一馬、同玉、4二金、6二玉、5二金、7二玉、6一金…


 と進んだのだが、同じように進んだ時、7四に馬がいれば、8三玉で、形勢は「後手勝勢」になっていたのだ。(6二銀打は詰み)
 この場合8三玉だと、8四歩、同玉、8五歩で後手玉はあっさり詰む。

 本譜の進行は、後手6二銀打に、先手7一金。 以下、将軍徳川家治はこの後手玉を見事に詰め上げるのである。(6二銀打に同金からでも詰み筋がある)
 7一同玉、8二銀、7二玉、8一銀不成、同玉、8二銀(次の図)


 9二玉、9一銀成、同玉、8二金、同玉、6二竜、7二飛、8六香(次の図)


 8三銀、7一銀、9一玉、9二銀、同飛、同竜、同玉、7二飛(次の図)

投了図
 まで、83手で先手徳川家治の勝ち。

 最後は、6一成香以下は、35手詰めだった。
 家治将軍が詰将棋が大得意だったことが、この最後の正確な詰め手順からも推察される。


 しかも、現代のように詰将棋ソフトを使えない時代に、長編詰将棋を100題も作って発表しているのだから、相当根性が入っている。

詰将棋「将棋攻格65番」
 徳川家治の『将棋攻格』は、一けたに「五」のつく番号の作品が、何らかの「曲詰め」になっている。
 この詰将棋はその「六十五番」で、「市松模様」である。
 35手詰めと長いが、手順はやさしい。
 この作品は余詰めはない。ただし“飾り駒”はある。(答えは省略する)


   動画 北浜健介解説 徳川家治『象棋攻格』90番
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