再検・日本の建物づくり-2:人は何処にでも建てたか

2009-12-30 09:21:17 | 再検:日本の建物づくり
[文言補訂 31日 2.18、10.07 1日 23.50]
今、建物は何処にでも建てられています。
どんな低湿地だろうと、どんな吹き曝しであろうと、どんなに盛り土をしたところであろうと、・・・・お構いなく建てられています。そしてそれが「技術」の進歩の成果だとも思われてもいます。

では、そういう《現代的な「技術」》のなかった時代はどうだったのでしょうか。

先回、集落は「必要条件」「十分条件」で立地が選ばれる、と書きました。
「必要条件」が揃っていても、更に「選択」が行なわれるのがあたりまえでした。
その「選択」は、住む人たちの、その場所に対する「感じ方」が決め手になっていたのです。

下の写真は、私の暮す集落のいわば「原点」とでも言うべき、この集落で最も古いと考えられる屋敷周辺の遠景です。
赤茶色の屋根が、この集落で最も古いお宅の長屋門(元は茅葺だったと思われます)、そこから更に50~60m入ったところに主屋があります。
最も古いことを示しているのは「地番」で、ここは当集落の1番地なのです。
なお、背後の森とそこから右へと(東に)広がる森がこのお宅の持分で、森は斜面にあって、森の内側の台地部分は、広大な畑が切り開かれています。
このお宅の左側(西にあたります)の瓦屋根のお宅が、多分、この集落で次に古いお宅です。


屋敷遠景

写真では分りにくいですが、最も古いお宅の屋敷は、地形的に、水田から少し引っ込んだ「潜み」にあります。それは、この地区の地図を見ると分ります。
下の地図の〇で囲んだところが写真の範囲で、並んでいる建物の右手側の一群が最古の御屋敷。
地図で網を掛けてあるのは、標高25m以上のところ、と言っても、台地はそのぐらいの高さで続いており、それ以上際立って高いところはありません。


周辺図 「出島村都市計画図」より

地図でも分るように、この集落への道は、台地上に通じていて、そこから急坂を下ることになっています。
しかしそれは、2・30年前にできたもの。それ以前からも台地上に道はありましたが、いわば山道で、車などは通れなかったと言います。

往時の主要な道は、〇で囲んだところの中腹を等高線沿いに通る道と、水田の縁の道。中腹の道も西へとずうっと続いていたらしい。今は〇で囲んだところにだけ残っています。幅は広くても1間。
なぜ、往時の道と分るかというと、電気の配線、つまり電柱がその道沿いにあるからです。

地図の等高線間隔は5m、写真に写っているガードレールのある道の標高が、約6m、この道は、一帯の水田の区画整理の際にできたもので、道幅は5mほど。田んぼの縁を通っていた道を拡幅したもので、幅1間ほどの旧道も、等高線沿いに、ところどころに残っています(今の道は、車を通すため、かなり強引につくられています)。
そこから2mほど下がったあたりから水田が始まります。

この田んぼの縁の道に沿って、往時の水路跡もところどころに残っています。
上流の堰から引いた水路。そこから田んぼに水を落とし、田んぼを潤した水が中央の川へと落ちる、そういう構造(規模は小さいですが、伊奈備前守の行なったのと同じ、いわば田んぼの構造の基本*)。
今は、田んぼ用の水道が通っています。
   * http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ae49f624f8e51ddd70a526b9b83e99b1

話がそれましたが、最古の屋敷は、自然の地形の潜みをそのまま使って、それに応じて建屋が建っています。長屋門からは、少し高みになります。つまり、自然の緩い南傾斜面。

最近建った家では、と言っても2・30年前と思われますが、丘陵の斜面を削り取って平坦な場所をつくり、そこに建屋を建てています。自然の平坦地には、すでに先住者がいるからです。
重機を使って、建屋の裏手には3、4階建ての高さぐらいの切り立った削りっぱなしのローム層の崖。大丈夫かな、と心配になるほど。たしかに、重機があれば簡単にできます。
往時は、こういうことせず、もう少し、適地を探して建てたのではないか、と思います。

しかしそれは、重機がなかったから、という理由だけではありません。
「無理」はしなかったからです。
自然の理で、いずれは侵食され、崩落する、だからそういうことはしなかったのです(このあたりのローム層は、かなり締っていて、ときには半分砂岩のような粘板岩のようなブロックになっていて、雨の後など、崖下に落ちていたりします)。


最古のお屋敷の長屋門から主屋へ向う「線」は、屋敷内の建屋の基準線になっています。いわゆる「軸線」。
この軸線はどうして決まっているのでしょうか。もちろん磁石の南北とはまったく関係ありません。
これは地図からはなかなか分りません。

しかし、実際に現地に立つと直ちに分ります。
水田の縁の道から屋敷の方を見るとき、視線の方向と長屋門~主屋の線に何の違和感も感じない、つまり、そこで自然に人の目が向かう方向、それが軸線になっているのです。逆に、屋敷内から外:水田の方を見るときも同じです。

では、なぜ、目が自然とその方向に向くのでしょうか。

一言で言ってしまえば、人の目は、視界の中に、いわば「重心」をとっさに見分けるからだ、と言えばよいでしょう。そこを「重心」にすると、安定する、安心するのです。それによって、自分の「いま在る位置」を確認・比定できるからです。
「重心」を見出せ、人を安心させる、それが、人びとが「必要条件」に加えて求める「十分条件」にほかならない、と言ってよいと思います。[文言補訂]

逆に、目に見える「風景」に「重心」を見出せないと、人は不安になり、やむを得ず、単純に前へ歩を進めることになります。これは、かなり前に、「人を不安にさせる病院」を例に書いたことにほかなりません(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/d17820975974c21230a13c527f26af2d)。


屋敷配置図 goo地図検索から

これは古代の建築でも同じです。
法隆寺の伽藍は、「軸線」が磁北からやや西に振れています。
現在の法隆寺は再建されたものというのが定説になっていますが、当初の法隆寺の伽藍ではないかと考えられている遺構の軸線は、更に西に振れていて、その振れは磁北から約20度です。
つまり、磁北にこだわっていないのです。
いったい、その軸線の決め手は何か。

下の図は、法隆寺の寺域図です。
これを見ると、伽藍は、西北から南東方向への緩やかな斜面に建っていることが分ります。ですから、回廊も北へ向かって緩い登りになっています。
西北方向には、丘陵があるのです。


法隆寺 寺域図 「奈良六大寺大観 法隆寺一」より

航空写真を見ると、法隆寺の立地がよく分ります。
奈良盆地の西、盆地の南から流れてきた大和川が、山あいを西の難波に抜ける、その近くの丘陵の南端に法隆寺は敷地を求めています。
なぜこの地が選ばれたのかは、書物にも書かれていませんが(私の知る限りです)、難波からの入口=難波への出口に近いことが一つの理由だったのではないか、と思います。異国の文化は、このルートを通って大和に入ってきたはずだからです。


法隆寺周辺 航空写真 google earth より

航空写真に白い線を描き込んでありますが、これが磁北から西へ20度振れた線です。白い線の先端のほんの少し左が法隆寺の伽藍、線の左脇に見える黒い直線が、現在の参詣道の並木です。
下の方を曲りながら流れているのが大和川です(大和川は、平城京の中を流れますが、そこでは条理に合わせて改修されています)。

おそらく、地上でこの方向で写真を撮ると、安定した図柄になるはずです(今は、手前が建て込んでいるために、よく撮れないかもしれません)。
西へ20度振れた線は、多分、視界の「重心」の位置、方向を示しているのです。
つまり、当初の法隆寺は、建てる場所の「環境」に素直に応じて建てられたのではないか、と私は考えています。

これは先に見た農村集落内の屋敷の構え方と同じ考え方です。
そして、この「感覚」、自分の居るまわりの様相に「意味」を感じとる「技」は、ことによると日本人独特のもので、それが後の「方丈建築」「書院建築」や「茶室」を生み出す素地となっているようにも思えます。

では、再建法隆寺は、なぜ振れが少なくなったか。おそらく、平城京の条理に合わせて寺域の南を通っている街道(奈良から難波へ向かう重要街道)の位置が改められ(極力「条理」に合わせたと考えられますが、東西軸からは多少ずれています)、それに直交する形で建てられたものと思われます。
おそらく、自らの「感覚」と、「条里制」という「規制」との狭間でのやむを得ない判断だったのではないかと思います。


条里制が施行されると、建物もまた条理に合わせるようになってきます。
それを東大寺の伽藍で見てみます。


東大寺伽藍 配置図 「奈良六大寺大観 東大寺一」より

今もって分らないのが、なぜ東大寺は平城京の条理をはずれた東北角にはみだしてつくった理由です。これも私の知る限り、納得のゆく解説は見たことはありません。

それはともかく、東大寺の伽藍の内、大仏殿の後の講堂を取り巻く大伽藍の東半分は、若草山の西斜面を大がかりに切って平坦地をつくり、そこに条理に合わせて計画されています。
上の図で、等高線が伽藍の東側に沿って曲がっているのが分ります。

ここで留意する必要があるのは、伽藍は「切り土」した場所で計画されていることです。
「切り土」した以上、大量の土が出たはずですが、それがどこに積まれたのかは詳らかではありませんが、等高線の様子から、「大仏池」の北側、正倉院の南西側の建物の建っていないあたりかもしれません。
「大仏池」の西側は堰堤様に見えますから、もしかしたら、これも切った土を盛ってつくったのかもしれません。

このように、「盛り土」したところには、少なくとも東大寺関連の建物は建てなかったのではないかと思われます。

興味深いのは、主要伽藍を離れ、東側の斜面に建つ建物(二月堂、三月堂など)は、建屋自体は条理に従い東西南北に合わせていますが、かなり周辺「環境」に馴染ませることに気を遣っていることです。
ここでも、当時の工人たちは、「条理に合わせること」と馴れ親しんできた「環境に合わせること」との間で悩んだに違いありません。

   註 これは私の直観的感想ですが、おそらく「条里制」は、普通の人びとにとっては、
      受容できない「制度」だったのではないかと思います。
      この国に暮す人びとにとっての「感覚」とは齟齬があったからです。
      この国に暮す人びとの「感覚」は、「環境に合わせること」だったのです。
      広大無辺の場所で生まれた「条里制」は、性に合わなかったのだと思います。[文言補訂」


以上見てきたように、人びとにとって、「建物をつくる」ということは「既存の地物:環境と共にある場所・空間をつくること」である、という認識があたりまえだった、ということにほかなりません。
なぜそうするか。
それは、「自分たちの居場所をつくること」「自分たちが在る場所をつくること」が「目的」だからです。
そのとき、自らの「感性」「感覚」にそぐわない場所:空間をつくるわけがないのです。

つまり、「建物をつくる」ということは、建「物」をつくることではないのです。そしてこれが、人びとにとって、あたりまえな「建物をつくる論理」だったと考えてよいでしょう。
この「論理」は、少なくとも、明治の「近代化」までは、人びとの間に脈々と受け継がれてきた、そう私は思っています。

では、それに代る建物づくりの「論理」が、現在あるかというと、残念ながら、何もない。
それが証拠に、最近都会につくられるビル群をはじめとする建物の節操の無さは、度を過ぎている、私はそう思っています。強いて挙げれば、そこにあるのは「利」を貪る「貪欲の論理」だけです。
そういったものをつくる人たちには、環境や景観を語る資格はありません。

私が古代~近世の建物や農山村の建物に惹かれるのは、そのつくり方の「論理」や「技術」が、人の感性を尊重し、なおかつ「合理的」だからなのです。

「自分たちの居場所をつくること」という「論理」にそぐわない技術も、それは「本当の技術」ではないのです。
たとえば、現在の「耐震化」「耐震補強」の技術は、「本当の技術」ではありません。
なぜなら、私たちの居場所に制約を強制するからです。人は、耐震のためにだけ居場所を構えるのではない、ということを考えていないからです。
「自分たちの居場所をつくること」を保証する「耐震化」「耐震補強」の技術になっていないからです。
同様に、建築基準法の諸規定も、建物をつくるとは人にとってどういうことなのか、その基本・根本を考えないまま設けられているのです。それをして「基準」とは、これ如何に![文言補訂]
「技術」が一人歩きしたとき、それは「本当の技術」ではありません。

私が、今回、このようなことから書き始めたのは、これまで「技術」という点に絞って書いてきて、ことによると「技術が技術として成り立つ『前提』」を見忘れ、「歪んだ」理解を広めてしまうのではないか、と思ったからなのです。

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今年は、これでお終いにします。
明年も、よろしくお願いいたします。
よい年になりますように!

これから、ねこの破いた障子の張替え作業に入ります。
コメント (3)
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