「参考 日本建築技術史年表」 日本の木造建築工法の展開 

2020-02-04 10:45:15 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の建築工法の展開 参考 建築技術史年表」 

PDF「日本の木造建築工法の展開 目次 第Ⅰ章~第Ⅴ章」A4版2頁       

 

参 考 建築技術史年表(2009年版)      奈良時代以後のスケールは年数に応じています

 

 

 投稿者よりご挨拶申し上げます。

 故人下山眞司作成の「日本の木造建築工法の展開」について、昨年2月より、本ブログに掲載を致してまいりました。

 第Ⅰ章から第Ⅴ章まで掲載が済み、残すところ最終章の「第Ⅵ章」のみとなりました。

 「第Ⅵ章」16頁は、現在の状況について述べている部分にあたります。

 ご推察いただける方もおいでと思いますが、第Ⅵ章は現在の状況についてのいわば直球ともいうべき内容が少なからずあり、この数か月、本ブログに掲載ができるか検討してまいりました。  

 できれば掲載したく、第Ⅵ章の再編成、掲載図版の再作成を試みておりましたが、部分的にせよ直球を変化球に転じることは、やはり容易ではなく、最終的に、本ブログへの掲載を行わないことに致しました。 

 最終章を掲載できずに終えてしまうということは、投稿者として残念で、またお読みいただいている皆様には大変申し訳ありません。

 

 故人の建築に対する姿勢は、すでに故人自身がこのブログで多岐にわたって述べております。 何かの折にはお寄りいただきたくお願い申し上げて、「日本の木造建築工法の展開」を終えさせていただきます。

 突然の終了ではありますが、どうぞご了承のほど、お願い申し上げます。

 

 「日本の木造建築工法の展開」には、様々な時代の建物の詳細な資料が集められています。 普段はなかなか目にすることのできないその貴重な資料を時代を追って掲載できたら というのが、当初投稿者が考えたことでした。 

 その望みがかないましたこと、厚く御礼申し上げます。 

 

 「同 展開」の投稿を終えるにあたって、故人が2009年に作成致しました「参考 日本建築技術史年表」を掲載させていただきます。 また第Ⅴ章までの目次(ノンブル入り)をPDFで添付致します。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。                           

                    2020.02.04                  投稿者 下山悦子 

 


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「第Ⅳ章ー3-C参考 武家の屋敷,Ⅴ 明治期以降の住宅の様態」

2020-01-21 10:21:10 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-C参考,Ⅴ」A4版3頁

 

第Ⅳ章ー3-C参考 武家の屋敷

武家屋敷の諸例  黄色に塗った部分は接客用空間。

は、藩主の江戸中屋敷であり、敷地が広大。 いくつかの建屋を渡り廊下でつなぐ分棟式の構成。

① 宇和島藩 伊達家 江戸中屋敷 平面図                       日本建築史図集 より

       (投稿者より  2020.01.27  図版掲載ミス:②図版が重複:があり、①図版を差し替えました。訂正致します。)

 

は中級の旗本屋敷。 敷地は約300坪。

18世紀前半、旗本の屋敷は、禄高により70坪から2300坪まで13階級に分れていたという。この例は、江戸麹町にあった禄高300石の武州代官の屋敷。

中級旗本屋敷 平面図                            日本建築史図集 より

 

は、岡山にあった下級武士・樋口竜右衛門の屋敷。 敷地は約100坪。

③ 下級武士の屋敷              平井聖 日本建築の鑑賞基礎知識 より

 

 

Ⅳ-4 近・現代:明治期以降の住宅の様態  

 江戸幕府の解体により、それまで各藩に属して暮しを維持してきた武士階級、とりわけ中級以下の武家は、帰農できる者には限りがあることから、多くが職を求めて都会へ集まります。

 しかし、都会には、その人たちを受け容れる職が用意されていたわけではなく、ましてや住まいが用意されていたわけではありません。そこで、この人たちは仮の拠点・仮の住まいをつくるべく奔走し、また、その人たち向けの貸家をつくる人たちも現われます。

 当時の都会、たとえば江戸あらため東京の中心部:ほぼ現在の山手線の内側に相当する一帯:の居住地に適した場所の大半は、下記の(14頁の)図3、図4に見るようにすでに住宅地になっており、新来の人びとの住み着く場所はないに等しい状態でした。当時の都会に残されていた土地は、居住地に適さない土地、谷筋などの低湿地だけだったのです。

図3 寛文年間(1660年代)の江戸     図集 日本都市史(東京大学出版会)より 

 

図4 江戸の藩邸の立地                                                  同書より

 

 低湿地でも、下記の(14頁の)図5のように、蔵前周辺の低湿地には、商工業の性格上、多くの商工に携わる人びとがすでに住み着き下町を形成していましたから、ここに新たに住み着くのも難しいことでした。そのため、新興の都市居住者たちは、既存の居住地のいわば隙間に住み着くしかなかったのです。

 

図5 明治30年頃の東京中心部   陸地測量部 1/20000地形図より 文字・スケールは編集

 

 この新興の人たちが構える住宅は、すべてがこれまで見てきた諸例のように長年住み続けることのできる建屋ではなく、いわばとりあえずつくりの建物が大半であったと言ってよいでしょう。

 下図は明治期の都市居住者:勤労者の住宅です。敷地の大きさは分りません。 なお、方位は、①②は上方が南、③は上方が北です。縮尺は各図ほぼ同一です。

 

① 明治初期の勤労者住宅    日本建築の鑑賞基礎知識より

 

 明治初期の勤労者住宅            日本住宅史図集より

 

③ 明治30年代の借家 (夏目漱石、森鴎外が住んだ) 日本建築の鑑賞基礎知識(至文堂)より 

 

 おそらく、①程度の建屋や、長屋が多く、つくりも仮設に近いものだったのではないかと思われます。           しかし、これらには、規模の大小にかかわらず、明らかに武家住宅の影響が認められます。

  明治末から大正期になると、目加田家のように、南側の諸室と北側の諸室の間に廊下をとるいわゆる中廊下式住宅が現われますが(218頁参照)、これも基本は武家住宅を踏襲しています。

 

 

Ⅴ 幕藩体制の崩壊:近代化と建築界の概観

  明治に入り、建築界にも大きな変化が訪れます。近代化のために、各職方の下で養成するというこれまでの工人の養成法に代り、大学や専門学校による建築教育が始まります(当初は建築ではなく、造家と呼ぶ。工部省工学寮造家学科:1873年、工部大学校造家学科:1877年開設)。

 しかし、近代化の基本は、脱亜入欧つまり文物・生活一般の西欧化を目指すものであったため、建築教育で為されたのも西欧建築の様式・技術の吸収が主な内容でした。

 教育の内容に日本の建築・建物が登場するのは、西欧に留学した人たちが留学先で、自国の建物について問われても何も答えられなかったこと、彼の国では自国の建築についての知見の蓄積があること、を知ってからのこと、明治も中頃になってからのことです。 

 建築の高等教育は高踏的に過ぎるとして職方諸氏(当時は実業者と呼ばれた)向けに西欧建築技術の具体的な教科書「建築学講義録(滝大吉著、実業者対象の工業夜間学校での滝の講義録)が刊行されたのは明治23年(1890年)ですが、日本の建物についての書物の刊行はそれからさらに十数年遅れます。ここに、近代化の下での「日本の建物の扱われ方」の様態がよく表われています。

 日本の建築についての解説書「日本家屋構造(工業専門学校用の教科書、齋藤兵次郎著)の刊行は明治37年(1904年)、日本の建築用語辞典「日本建築辞彙(中村達太郎編)は明治39年(1906年)の刊行です。

 しかも、これらの書物で触れられている日本の建物・建築についての知識・知見は、すでに現代同様、技術・技法の部分的な知識、あるいは用語の解説が大半を占め、日本の建物づくりの基本的な考え方の解説はなされていません

 たとえば、「日本家屋構造」には、下のような矩形図が載っています。

 

 

 

 しかし、これはあくまでも矩計図の一例にすぎず、この図がいかなる形体の建物の矩計であるか、の説明・解説はありません。

 この書には、継手・仕口の図や解説が載っていますが、その場合も、いかなるときに、いかなる部位で、なぜ何のために用いるかなどについての説明はありません。その点は現在の建築の教材とまったく同じです。これは、明治政府の一科一学の奨めの結果であった、とも言えるでしょう。すでにこの頃から、現在と同じように、部分の知見を足せば全体になる、との考え方が主流になっていたのです。

 どのような全体を、いかにして構想するか、材料:木材をいかに扱うか・・等々、日本の建物づくりの全工程について知ることなく、様式・形式に言及する傾向はこの頃から始まっているのです。

 その一方、従来の職方は、新興の技術者たちより下位に位置づけられ、この人たちに蓄積されてきた莫大な知見を無視・黙殺する傾向が生まれ、残念ながら、この風潮は、以後現在に至るまで、衰えることなく続いています。 近代化というしがらみから、いまだに抜け出せていないのです。 

 


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「第Ⅳ章ー3-C2横田家」 日本の木造建築工法の展開

2020-01-06 21:13:45 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-C2横田家」A4版7頁

C-2 横田家住宅  1794年(寛政6年)建設  所在 長野県 長野市 松代町 

松代 位置図 印  方眼1目盛:4km       関東圏道路地図 東京地図出版より

 佐久から流れてきた千曲川が、松本平からの犀川(さいがわ)と合流する手前一帯が上杉氏武田氏の合戦の場であった川中島。 その南側山際の平地に武田氏の居城:海津城が設けられた場所で、その後17世紀初めに真田氏の居城となり城下町が形成され、その概形は現在も見ることができる。

 横田家は眞田家の家臣。奥会津・横田の出ゆえに横田を姓としたという。 横田家住宅は、七代当主が1794年(寛政6年)に建てたことが墨書で判明。 敷地も当時の大きさを維持(約3600㎡:約1200坪)、表門隠居屋土蔵なども残っている稀有な事例。

 図、モノクロ写真および解説は、重要文化財旧横田家住宅修理工事報告書による。

 

黄色部分:接客空間・隠居屋に対応 (着色・文字は編集)

 

表門から主屋 式台を見る 左奥:隠居屋  

 式台 正面

 

        

復元 平面図 図の方位は上方が南    (着色・文字は編集)

 

復元 桁行断面図

 

  南面 全景 (竣工時)

                   

の間~座敷 南面 右手は隠居屋 南面(竣工時)

 

  勝手~茶の間~南の間 南側(近影)

 

 勝手~茶の間~南の間 正面(近影)

 

 

                      

復元 梁行断面図 上:客待の間~南の間  下:式台~玄関~茶の間   文字は編集

使用材料  土台:ツガまたはクリ  幅3.4寸~5.3寸 高さ3.5寸 追掛け大栓継ぎ、金輪継ぎ各1箇所、他は腰掛け鎌継ぎ  柱:式台まわり ツガ4.5寸角  座敷、客待、玄関、南の間 スギ3.7寸角  土間、勝手、茶の間 スギ3.5寸角  便所 スギ3.0寸角 根枘 深さ3寸×幅1寸

 

下の架構模式図と断面図で架構の全体がつかめる。  梁・桁の類を柱位置から持ち出して継いでいないことが分る。

 

 

 

について材寸が詳細に記入されている。材種は、式台まわりがツガ、他はスギ(前頁参照)。材寸の詳細は、通常は野帳どまりで、このような詳細が示されている報告書は稀有である。

 

 横田家では、間仕切のある通りには、すべて土台が据えられている。 この図は、土台材種材寸ならびに継手・仕口を明示した図。 これも報告書としてはきわめて珍しい。

足固貫内法貫、そして飛貫の入れられている位置を示した図。 これも、通常の報告書では見られない。上下の別、継手箇所などが記入されている。

図、モノクロ写真および解説は、重要文化財旧横田家住宅修理工事報告書による。

 

写真説明用キープラン                 (着色・文字は編集) 

黄色に塗った部分が接客用空間  横田家目加田家と異なり、北側に玄関があるため、接客空間の裏手にあたる居住空間が南面している。

 

玄関の間 西~北西面板戸どま境 北面障子式台

 

式台からの玄関間 正面襖:茶の間 左手襖:客待の間

 客待の間 東~南面 左手襖:座敷境              

  客待の間 西~北面 左側襖:茶の間へ 右側襖:玄関の間へ 

座敷 正面(東面) 右手障子:南面濡縁へ  

 座敷 西~北面 欄間付き襖:客待の間へ

 茶の間 西北どま 

 

 茶の間~南の間 茶の間には天井がない

南の間 北面 二階への階段 

南の間 東~南面 

 

座敷 南西隅柱の刻み 詳細           左の図を基に作成 敷居・鴨居・付長押 詳細

    

 

 

参考 一般的な鴨居の取付け法

 

 

 

参考 一般的な敷居の取付け法 1     柱に待枘(まちほぞ)を植え、敷居を上から落す。

 

 

参考 一般的な敷居の取付け法 2   待枘(まちほぞ)と込栓の併用

 

参考 一般的な敷居の取付け法 3    柱に樋端を刻み、敷居大入れにし、下部にを 打ち樋端部を密着させる。

 

 


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「第Ⅳ章ー3-C2目加田家」 日本の木造建築工法の展開

2019-12-24 10:40:11 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-C1目加田家」

 

Ⅳ―3 近世の典型-3:住宅建築 

 C 住宅建築-3:武家住宅

 武家の住宅も、先ず全体の空間を構想しそれを分節させて各室を配置する、空間と架構を一致させる、という点では農家住宅商家住宅と同じですが、武家の住宅には、ここまで見てきた農家住宅商家住宅とはかなり異なる点が見られます。

 それは、接客空間の位置づけです。

 農家住宅商家住宅でも、家人の居住空間に加えて接客空間が付設されることがありますが、その場合は、あくまでも、居住空間を先ず正当な位置に設け、次いでその端部に接客空間を設ける、という手順を踏むのが一般的です。

 

 上の図は17世紀半ばにつくられた椎名家の復元平面図ですが、接客空間は東端部に用意されています。

 

 ところが、武家住宅では、接客空間が先ず設けられ、その残りの部分に居住空間をつくる、という手順が踏まれるのが一般的なのです。

 この独特のつくりかたには、すでに観てきた寺院の客殿建築の影響が大きく影響しているものと考えてよいでしょう。下の図は、その典型とされる17世紀初頭:1601年に建てられた園城寺光浄院客殿です。

 

 寺院の客殿は、寺院の本体あるいは庫裏とは別個に設置され、玄関から見て最奥の室で主人・当主が控え、そこへ向って客が伺候(しこう)する、というかたちに応じた室の配置がなされます。

 この接客のために用意された室の裏側に、接客を支えるためのサービス用の空間を並列させるのが一般的です。

 この形式の諸室を備えるつくりは、一般に書院造と呼ばれますが、武家住宅では、このサービス用の空間の位置に、家人用の空間が配置されるのが普通といってよいでしょう。

 

 こういう形をもつ武家住宅は、幕藩体制の崩壊にともない都市に集中した旧武士階級(多くは中級以下)が求めた住居にも大きく影響します。つまり、都市には、これまでの商家や庶民の住居とは別種のいわば書院造の亜流とでも言うべきつくりが生まれてきます。

 

 

C-1 目加田家住宅  18世紀末~19世紀初頃の建設  所在 山口県 岩国市 横山

 目加田家は天保の頃、岩国藩の御用人役を務めた中級の武士。

 南北39m×東西31mの約1200㎡(約400坪)の敷地のほぼ中央に建つ。

 

 

 

                      図は旧目加田家住宅修理工事報告書より 

 

 接客部分3室を南面に横一列に並べ、その北側に家人の居住部を置く武家住宅の典型的な空間構成。

 いわば、南北2列配置の客殿建築:書院造(例:光浄院客殿)の北側サービス用諸室に家人の諸室をあてがったと見なせるつくり。

 南側に接客用玄関式台を設け、玄関の間東側に脇玄関がある。

 目加田家では、南北2列の間に畳廊下を設けている。

 屋根を瓦屋根とし、主要な諸室に竿縁天井を張っている以外、架構・つくりには農家住宅と大きな差異は見られない。 四畳、二畳、畳廊下は、動線用の空間。

 

南面 式台を見る                             日本の美術№296 武士の住居 より 

塀の内側は、座敷前の庭。 この瓦屋根の葺き方は、この地域独特の方法という。

 

式台・玄関脇玄関        日本の美術№289 民家と町並み(中国・四国) より

 

 

式台 右手は土間入口へ  

 

                    西側外観 縁の左は

 

西側 遠景    

 

                       東側 遠景            モノクロ写真は旧目加田家住宅修理工事報告書より 

 

 

 

使用材料  礎石建て 自然石、式台は方形加工石  柱:マツ 平均4.0寸角  貫:マツ 厚0.65寸×丈3.5寸 継手 略鎌  内法力貫:マツ 厚1.7寸×丈7.0寸(玄関の間~次の間)  足固貫:マツ 丸太材 末口4寸内外 角材 厚2.0寸×丈4.0寸 柱に枘差または略鎌楔締  差鴨居:マツ 幅3.8寸×丈9.0寸(台所まわり

 

 写真説明用キープラン

 

  

次の間から見た座敷視点A)          日本の美術298 武士の住居 より  

       

四畳から裏手に並ぶ裏座敷五畳の間を通して見る(視点B

 

四畳から二畳を見る(視点C  

 

                階段上がり端から見た2階室内視点D)   白黒写真は旧目加田家住宅修理工事報告書より 

 


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「第Ⅳ章ー3-B3 西川家」 日本の木造建築工法の展開 

2019-12-10 11:26:25 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「第Ⅳ章ー3-B3西川家」A4版6頁

 

B-3 西川家  宝永3年(1706年)~   所在 滋賀県 近江八幡市 新町2丁目

 

近江八幡 位置図       黄色部 近江八幡 印  他の近江商人町:湖岸より 能登川,  近くに 五箇荘,  山側 日野       明治20年 迅速図より

 

 

 近江八幡 市街図              旧西川家住宅主屋・土蔵修理工事報告書より

 

 西川(利右衛門)家は、近江八幡を拠点に蚊帳を主とした商いを営んでいた。

 琵琶湖周辺:近江一帯からは、多くの商人が生まれ、全国的に活躍し、商社の伊藤忠、百貨店の高島屋、布団の西川・・・など現在に続く多くの商店等が生まれている。

 その独特な商いに対する考え方は有名で、その点を含め近江商人と呼ばれている。各地にある酒造業、醸造業には、その地に居付いた近江商人が多い。 ただ、近江商人の商いに対する考え方が、継承されているとは言いがたいのが現状である。

 

近江八幡 町割図  色の街路は、西川家のある新町通り   旧西川家住宅修理工事報告書より(着色は編集) 

 

  旧西川家住宅修理工事報告書より(黄円は編集)

 

 

 

 

     

  

平 面 図              ← 新 町 通 り →

 

 

桁行断面図                            図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より

 

 

 

 

 

 

 

  2階 見上げ図

 見上げ図

                梁行断面図   左が新町通り

 

2階キープラン

 

   A 上り端 梯子を掛ける 

 

B 通り側を見る          図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より                       

 

 

 旧西川家住宅修理工事報告書では、開口装置:建具についても時代考証を行い、詳細な図が掲載されている。

 下に、主出入口の摺り上げ戸はね上げ戸の部分の矩計図はね上げ戸詳細図を例として挙げた。

 また、土蔵の土壁部分は新造に等しく、他事例の調査を基に施工され、その工程の記録も詳細に報告されている。ここでは一般図のみ転載する。

 

主出入口の開閉装置(右手が新町通り

 

 

 

  

図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より図中の文字・着色は編集)                

 

 

西川家の土蔵  主屋とともに重要文化財指定されている。

 

1階内部                          (文字は編集)  

 

 3階内部  

  

土蔵 平面図 下から1階、2階、3階

 

梁行 断面詳細図     図、写真共に 旧西川家住宅(主屋・土蔵)修理工事報告書 より 

 

 

 以上観てきたように、商家住宅では、継手仕口に刻み:加工に手間のかかる技法が使われているほかは、居住空間確保の原則すなわち、先ず全体を当初に構想し、次いで部分をその全体の中で構築してゆく、所要空間と架構を整合させる(間仕切と架構の一致)、必要以上に大寸の材料は使わない、横材の継手は柱通り上に設け、持ち出した位置で継がない・・・などは農家住宅とまったく変らないと言えるでしょう。 註 破風板付長押など一部の仕上げ材、化粧材などでは関係なく継いでいます。

 

 残念ながら、これらの原則と、それを具現化した工法について、現在の建築教育の場面で説かれることはありません。 そして、木造建築の一例として下図のような工法が、「在来軸組構法」の呼称で示されているのが現状です。 

 

 

 

 図で明らかなように、これは、全体から部分を考えるのではなく、部分を足してゆくと全体になる、という考え方の架構であり、横材は柱から持ち出した位置で継ぎ、材寸を場所ごとに細かく変える・・・など、明らかにこれまで観てきた農家住宅、商家住宅とは異なる考え方による架構です。

 建築の教材の中には、奈良・今井町高木家住宅が「伝統和風木造」の呼称で紹介されているテキストもありますが、「在来軸組構法」と「伝統和風木造」の両者の違い、あるいは関係についての解説はなされていません。おそらくそれは、その教材を使う人に委ねられているものと思われますが、その点について知り得る的確な資料などは、どこにもないと言ってよいでしょう。

註 上記のような工法は、木造建築についての解説などでも多用されていますから、一般の人が、これが「模範的な」木造建築という「理解」を持ってしまってもおかしくありません。

 

 このような「工法」が生まれた背景には、近代:明治になってから急増したいわゆる「都市居住者の住宅」が、他の既存の住宅に比べ、震災などで大きな被害を蒙ったことと無関係ではありません。

 このような「都市居住者の住宅」がどのようなものであったか、次に、武家住宅とともに観てみたいと思います。

 なぜなら、「都市居住者の住宅」の被災には、その立地とともに、「武家住宅」特に中小以下の「武家住宅」のつくりが、大きくかかわっていると考えられるからです。 

 


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「第Ⅳ章ー3ーB2 高木家」 日本の木造建築工法の展開

2019-11-26 10:35:32 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー3-B2」

 

 B-2 高木家  天保年間(1840年頃) 所在 奈良県 橿原市 今井町

 

みせのまの外部 柱脚部の横材は地覆   日本の民家6 町屋Ⅲより

平面図                  図は日本の民家6町屋Ⅲ高木家住宅修理工事報告書)より                

 

 

 桁行断面図

 

 

  日本の民家6 町屋Ⅲより

 みせは庇部まで畳敷梁行断面図参照)  豊田家は庇部は縁として板戸で仕切っている。 格子の内側に2枚折りの明り障子蔀戸(しとみど)を設けている。上は障子を開けたところ、下は閉めたとき。

 

  

どま東面  貫:4寸×8分 下から3段目は込栓、他は楔締め    どま 通り側・大戸口を見る  日本の民家6 町屋Ⅲより

 

 高木家は代々酒造業を営み、嘉永7年(1854年)頃の当主が、この建物で、醤油屋を始めた、と伝えられている。

 豊田家のおよそ180年後の建設で、土台を用い、いわゆる大黒柱はなく、通し柱管柱とも4.2寸角で統一している(北面庇部を除く)。

 飛鳥川に近く、地下水位約80cmの場所ながら、豊田家に比べると良好で、礎石の沈下は、東西両側の土台下で約2~4cm、礎石建て部分で約7cm程度と少なかった。 ただ、敷地四周の度重なるかさ上げにより、土台下や柱脚部の腐朽、虫害が激しい場所があった(豊田家ほどではない)。

 小屋組の損傷はきわめて少なく、雨漏りによる腐朽が見られる程度であった。(解説は高木家住宅修理工事報告書による)

 6尺3寸の畳を基準にした内法制どま部分の逃げで調整。

 

 1階 ざしき 床と違い棚

使用材料   礎石:自然石、切石   土台:ヒノキ 5寸角 継手:腰掛鎌継ぎ  柱:総数61本  内通し柱32本 ヒノキ  管柱ともすべて4.2寸角北側庇部3.6寸角) 根枘 平枘 頭枘 平枘または重枘  大引:足固め貫は使用せず、大引、根太で代用。ヒノキまたはスギ 4.5寸×4寸程度 転用材が多い  貫:ツガ 4寸×0.8寸程度  差鴨居:マツ 6.5寸~10寸×4寸 柱仕口 込み栓 差鴨居~差鴨居 シャチ継ぎ  二階根太受け(胴差・床梁)マツ 丈6.5寸×幅4寸程度

 

架構分解図            日本の民家6町屋Ⅲ (高木家住宅修理工事報告書)より

 

 豊田家の約180年後に建てられた建物。 いわゆる大黒柱、太い柱を用いず、通し柱管柱とも4寸2分角とし、東側、西側の壁面では土台建てとしている。

 今井町土台が使われるようになるのは、18世紀後半と考えられている。 土台は、礎石天端をある程度均した上、土台下端を削って据えている。  土台は、東西の側壁にだけ使われていることから水平の定規として扱われたのだろう

 高木家では、足固貫が使われず、大引根太がその役目を担っている。 これは、土台を据えた東西の軸部には足固めの必要がなく、その延長の考え方と思われる。

 

 豊田家では、貫は小屋貫以外では、軸部でどま東側面にわずかに使われているだけだが、高木家では開口の必要のない東西の面には徹底的に使っている。

 その場合、東西面では、を半間ごとに入れている。これは、大断面の材料(太い差鴨居など)を多用しないことへの対策と考えられる。

 2階床は、豊田家と同じく、差鴨居の上の束柱で支えた根太掛け床梁)に根太を架ける方法(後出の ほ通り分解図参照)。

 

六通りの差鴨居 取付け分解図               高木家住宅修理工事報告書より(着色は編集)

 

 

へ-六 柱 差鴨居 仕口詳細図

                              図および解説は高木家住宅修理工事報告書より 

 への差鴨居の仕口は、長い枘竿)をつくりだし、① 込み栓でとめる ② を貫通し、反対側の差鴨居に差し、シャチ栓で締める の方法がとられている。 これは、4.2寸のため、貫通する孔の加工が容易だったからだろう(道具の進歩もあった)。 込み栓は、仕口内にあるため仕上がると隠れる。

 

 

通りの根太掛け(床梁)の支持法と継手 ほ通りは、みせのま~だいどころ中央の南北の通り平面図参照)。

                   

                              図および解説は高木家住宅修理工事報告書より                                   

 根太掛けは、間仕切上の六通り十四通り腰掛鎌継ぎ継がれるが、その継手部を、各通りの差鴨居上の束柱が受ける。 それゆえ、束柱頭枘平枘を受ける枘孔は、継がれる2材に、半分ずつ彫られる。

 

  

                                     日本の民家6 町屋Ⅲより

2階は全面竿縁天井を張り、すべてザシキとして使われている。 左:上がり口 右:全室を南から見る

 

参考 高木家の地震履歴

 高木家は、天保年間(1830~1843年)に醸造業を営む本家から分家しているので、その頃に建屋が建てられたと推定されている(嘉永7年=安政元年:1854年に醤油屋を開業しているから、どんなに遅くとも、その時には既に建っていた)。

以下、発生年月日、被災地、マグニチュード、被災状況の順で記載。

1854年07月09日(安政01年) 伊賀・伊勢・大和一帯        M7.2 奈良で潰家700戸 

1854年12月23日(安政01年) 東海・東山・南海諸道        M8.4:安政東海地震

1854年12月24日(安政01年) 畿内・東海・東山・北陸・南海・山陽 M8.4:安政南海地震(前記地震の32時間後)

  註 上記安政期の三つの大地震に遭ったかどうかは建設時期によるが、おそらく遭ったと考えてよい。

1891年10月28日(明治24年) 岐阜県西部 仙台以南で有感   M8.0:濃尾地震 内陸地震で最大、全壊14万 

1899年03月07日(明治32年) 三重県南部           M7.0 大阪・奈良で煉瓦煙突被害多数

1936年02月21日(昭和11年) 奈良県北部           M6.4:河内大和地震

1944年12月07日(昭和19年) 紀伊半島南東沖   M7.9:東南海地震 静岡、愛知、三重などで全壊17599戸

1945年01月13日(昭和20年) 三河              M6.8:三河地震

1946年12月21日(昭和21年) 紀伊半島南方沖   M8.0:南海地震  中部以西各地で全壊11591戸

1948年06月15日(昭和23年) 紀伊水道南部          M6.7

1952年07月18日(昭和27年) 奈良県北部           M6.7:吉野地震

1955年01月17日(平成07年) 兵庫県南部     М7.3:平成7年兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災) 

 

 高木家は、建設後、何回も大きな地震に見舞われていることが分る。この地域の人たちは、昔から何度も大きな地震を経験しており、建物の「対地震策」についても十分検討がなされていた、と考えてよい。

 

 

参考 視覚と屋根の形

① 屋根勾配と見えがかり

 

② 視覚矯正の手法

 

③ 狭い道と屋根の形体  今井町の例

 

 

④ 広い道と屋根の形体  妻籠宿の例

 

 

 


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「第Ⅳ章ー3ーB1豊田家」 日本の木造建築工法の展開

2019-11-12 12:15:11 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー3-B1」 

 

B 住宅建築-2:商家住宅

 町なかに暮す人びとの住居は、町なかの地割:狭い間口で奥の深い敷地:に建てるという制約を受けます(間口で租税を納めたからだと言われています)。そのような町なかにつくられた住居は、一般に町家と呼ばれます。

 どの時代にも町家はありましたが、現在遺っている町家は、徳川幕府が成立して世情が落ち着き、町が安定してから建てられた建屋がほとんどです。

 町には、周辺の地域の人びとの暮しに必要な機具などの製造にかかわる職人や、物資の流通にかかわる商人、その人たちの下で働く人たちなどが住み着きます。

 たとえば、大阪の、近江の近江八幡、江戸の蔵前日本橋界隈などは、町として大いに発展して多くの町家が建てられています。

そのなかでも商家の住宅は、町家の代表的なつくりとなります。

 

 しかし、現在遺っている町家の事例は、文化財として移築保存されているもの、あるいは、当該の町が「近現代の開発」の荒波を受けることが少なかった地域に限られます。

 1970年代頃から、町家とも従来のまま遺っている地区が脚光を帯びるようになります。「近現代に生まれた町・町並み」に比べて、その佇まいが、人びとの目に、好ましいものに写ったからです。その結果生まれたのが伝統的建造物群保存地区制度です。木曽路の妻籠宿がそのはじめです。以来、多くの地区が保存地区の指定を受けています。 

 ただ、この制度には、すでに23ページで触れていますが、大きな問題点がありました。

 それは、「何を保存するか」という点についての「合意」があいまい点です。

 多くの場合、保存地区に遺っている建物の形体を保存し維持することに目標が置かれています。

 たとえば、当該の地区内で新築や改築を行なう場合、その外観を、その地区の代表的な建物(重要文化財に指定された建物など)の見えがかりの形体に倣うことが求められます。それゆえ、その地区で現在の暮しを続けるには障害になり、できあがった町は、あたかも時代劇のセットのごとき様相になってしまうのです。

 町は、一時にできあがるものではなく、それぞれの時代の蓄積がその表情をつくりだすのです。したがって、それぞれの時代の材料やつくりかた、形が変っていてあたりまえです。木造の建物に並んでコンクリートの建物が建っても構わないのです。それらが「同じ考え方」の下でつくられたとき、町並みの佇まいも壊されることなく継承されます。それが無視されたとき、町並みも壊されます。

 この論理は、農家住宅など比較的散在して建てられる場合でも同じなのですが、とりわけ、建屋が肩を並べて建つ町なかでは、その影響が目に見えるかたちで現われてしまうのです。

 

 以下にいくつかの典型的な町家の事例を紹介しますが、それを建物単体としてではなく、通りへの対し方、隣家への対し方・・・など、町を形づくる一要素として見る必要があります。

 ここでは、地区全体が保存地区に指定された奈良県橿原市の今井町、近江商人の町として成長した近江八幡の商家住宅を中心に見ることにします。

  

B-1 豊田家  寛文2年(1662年) 所在 奈良県 橿原市 今井町

 今井町は、室町時代末頃、一向宗の門徒が集まってつくった寺内町(じないまち)を基に発展した町。その中心になったのが称念寺(下図参照)。

 

 今井町位置図

 奈良盆地を南から北、そして西へ流れる大和川の上流:飛鳥川の西岸に位置する。

 

 今井町地割図                             日本の民家6 町屋Ⅱより

 

 東西約600m×南北約300mの一帯は濠で囲まれていた。 寺内町の頃から、町人の自治の下に商業が発達し繁栄を誇っている。 中世には、寺内町から普通の町になるが、町人自治は継承された。 今から30年ほど前まで、町内には交通標識がなかった。警察が町に介入するのを嫌ったからだという。

 享保年間(1700年代初頭)、戸数900(内持家220余、借家700余)、人口4000人、江戸時代通じて、ほぼ一定。 現在は、自治意識は以前に比べ希薄になった感がある。

 今井町には、地区のまとめ役であった今西家をはじめ、8戸の重要文化財建造物に指定された持家層の建屋があるが(上図参照)、ここでは中間層と考えられる豊田家高木家を紹介する。

 豊田家は1662年、高木家は1840年頃の建設で、約180年ほど建設時期に差があり、その間の技術的な変容を見ることができる。

 

 

 通り側の外観                                                                           日本の民家6 町屋Ⅱより

 

 当初は材木商牧村家の所有。2階壁面の紋がそのことを示している。

 明治初年に豊田家が住み始める。ここに住むようになった豊田家は醸造業の本家からの分家。したがって、現在は豊田家ではあるが、材木商牧村家の本店としてつくられた建物である。

 牧村家は、西の木屋と称し繁栄、幕末には大名貸もしているほどである。

   

 

平面図   ぶつま上には2階を設けない (番付は、豊田家住宅修理工事報告書の番付による。)

 

桁行断面図             平面図・断面図は日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集     

 

 今井町飛鳥川大和川上流畔の沼沢地につくられたため、地下水位が高く、地盤は軟弱である。 解体修理時、礎石にはかなりの沈下が見られ(最大は平面図のり-六柱の168mm)で、床組材はほとんど腐朽、軸組部の柱などにも腐朽が目立ち、多くの虫害(シロアリ)も発生、建物は全体に西南方向に傾いていた。 軸組に比べ、小屋組には腐朽や虫害は見られない。

 はすべて礎石立て。 り-六柱の場合、礎石は約70cm径、厚50cm弱の自然石を用いているが、地業は穴を掘り握り拳程度の川石を敷き詰め突き固めて礎石を据え、周囲を突き固めた程度で比較的簡易であった。                                          

 軸部の組立は、東なかのまの2本の太いケヤキ柱の建てを行い、この柱間の差鴨居足固貫を入れ、次いで西側の差鴨居足固貫をいれ2階梁を架けて6室を固め、次にしもみせまわりを組み、どま側の柱建てを行い、を入れ周囲の敷桁をまわし、どま上の牛梁を架け、桁行の2列のを架けて各梁行を架ける、という手順を踏んでいる。

 2階床梁は、差鴨居上の束柱で受けている(現在の胴差方式ではない:架構分解図参照)。

 平面は、室側を6.3尺×3.15尺の畳、4.8寸角の柱を基準にした内法制で計画し、どま側で逃げをとり調整したものと考えられる。 解説は、豊田家住宅修理工事報告書による。

 

 

どまからみせ(左手)東なかのま見る 柱ほ-六   写真は日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集  

 

どま通り側・大戸口を見る 太い柱ほ-六           

 

          

みせ 通り側開口   

  

どま見上げ 牛梁十二通り                  どま東面  貫:3.7寸×1.1寸 モミ材

 

梁行断面図                      日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集

 

 

東なかのま見る 差鴨居14.7×3.9寸   ほ-六、 ほ-十二柱  写真は日本の民家6 町屋Ⅱより転載

 

 (「第Ⅳ章ー3ーB 1 豊田家 後半」に続きます。) 


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「第Ⅳ章ー3ーB1 豊田家住宅 後半」 日本の木造建築工法の展開

2019-11-12 12:14:32 | 日本の木造建築工法の展開

(「第Ⅳ章ー3ーB1 豊田家」より続きます。)

 

使用材料:礎石 切石転用石造り出し自然石     柱:総数75本内 通し柱21本 ほ-六柱 11.1寸角ほ-十二 9.5寸角ともにケヤキ い-十二 6寸×4.4寸  他はヒノキが主、平均4.8寸角  根枘 平枘頭枘 平枘または重枘

足固貫:約丈3.7寸×幅1.1寸 継手 略鎌楔締め    差鴨居 東なかのま 14.7寸尺×3.9寸、他は丈9.6寸程度×3.9寸    貫:土間東壁面 モミ 3.7寸×1.1寸 柱芯納め   小屋貫:モミ 2.1寸×0.7寸 継手 略鎌中途継ぎ

 

架構分解図 番付は、豊田家住宅修理工事報告書の番付による。 日本の民家6 町屋Ⅱ(豊田家住宅修理工事報告書)より転載・編集

                      

 

 

                   豊田家住宅修理工事報告書より転載(着色・〇は編集)

十二通り 差鴨居分解図 

差鴨居~柱の仕口 ① 枘差込み栓 ② 雇い枘を、送り蟻に植え込み、差鴨居を差し、シャチ栓を打ち締める 

 

      

ほー十二柱~差鴨居 仕口 送り蟻 詳細        この方法は、柱を貫通する孔をあける必要がない 

 

 

2階床組 桁行詳細    差鴨居上束立て根太掛け(床梁:1階大引に相当)架け、根太を受ける。

 

 

2階床組 梁行詳細           2階には部分的に竿縁天井を張る。

        

 

 矩計図                             日本の民家6 町屋Ⅱ(豊田家住宅修理工事報告書)より

 


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「第Ⅳ章ー3-A5参考曽根原家,堀内家」 日本の木造建築工法の展開

2019-10-29 11:17:17 | 日本の木造建築工法の展開

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A5参考, まとめ」A4版4頁

 

参考 曽根原家  1600年代中期  所在 長野県 安曇野市(旧 穂高町)有明新屋

東 面                                                                   日本の美術№287より

 

 

寛政頃(1790年代)の平面

 

   寛政~明治初期までの平面

 

 北アルプスの東に広がる安曇平安曇野にある農家。 島崎家とともに、本棟造の原型を示す事例と考えられている。

 この地域では、南にドマとマヤを置き、居室部を北側にとる例が多い。

 これについては、寒冷地であるためにマヤを暖かい側に置いた、との言い伝えがあるという。 また、安曇平特有の冬季の南北方向の強風が、オエ居間に吹き込むのを避ける目的もあったようである。 基準柱間 1間:1821㎜ (6尺1分)

復元 平面図

図、写真は曽根原家住宅修理工事報告書(郷土出版社版)より

 

 一般に本棟造では、切妻屋根妻側大戸口をとるが、曽根原家では平側大戸口がある。

 同高にを建て、@1間の格子状の梁を組む架構は、他の本棟造と同じである。

 

                                                                      復元 桁行断面図

 

 

ドマから北側、オエを見る 柱は@1間   寛政期差鴨居を入れてドマ~オエ境の柱2本を切取る。   

  小屋 見上げ

 

 材種 オエ周辺:サワラ ザシキまわり:ヒノキツガスギネズコカラマツ  柱径 4寸3分角~4寸8分角

 足固、腰・内法:いずれも3寸7分×1寸 2間もの 桁行、梁行同高 桁行上端楔締め 隅は小根枘 継手 略鎌   

 

矩計図

図、写真は 曽根原家住宅修理工事報告書 より

 

 

 

参考 堀内家  宝暦~天明(1750~1790年)頃  所在 長野県 塩尻市 堀内

  

  

正面外観                    写真・図は日本の美術287より

 

 正面外観

 

 復元平面図 

 

 表側のザシキまわりや、正面の外観(上写真)は、明治初頭の改造によるもの。

 幕末から明治にかけて、見えがかりを重視する傾向が生まれる(高山・吉島家など)。島崎家の明治12年の改造(化粧のための差鴨居の付加)も同様である。

 

 

 

 上は、島崎家(上段)と堀内家の梁行断面図を同一縮尺で示した図である。

軸組格子状の梁組は両者ほとんど変らず、それより上の部分と外部意匠に堀内家は意をそそいでいることが分る。 (島崎家は同修理工事報告書より,堀内家は 日本の民家2 農家Ⅱ 所載の図を編集作成)

 

付 島崎家の破風板、堰板(せきいた)の詳細             島崎家住宅修理工事報告書より  

      

破風板の峠部の継手           堰板の取付け                堰板の継手 

 

 

 以上、関東・甲信地域の農家住宅を見てきました。

 これらの農家住宅は、いずれも畑作主体(養蚕も含む)の地域の住居です。

 この地域は、いずれも歴史が古く、したがって建物づくりにおいても、それぞれの地域の暮しに適応したつくり:技術・形式が定着しています。

 一方、生産量では群をぬく関東平野中央低地部は、徳川幕府になってからの開拓地(干拓地)がほとんどで、地域としての歴史は古くはなく、それゆえ水田主体の農家住宅の事例は多くありません。

 

 ここに挙げた事例は、最も古いものでは300年、新しいものでも200年以上、いずれも大きな損壊を被ることなく、代々住み続けられてきた住宅です(近代以降、とりわけ明治以降に見られる粗雑な改造や補修による腐朽などによる破損等は見られます)。

 すでに、島崎家の建屋の使い方の変遷で見たように、このような長期にわたり住み続けてこられた理由は、以下に要約できるでしょう。

 

1)当初の建設された建屋の規模が適切である。

  接客用に設けられた部分を除いた居住部分の当初の規模は、小松家で約30坪、他の事例は、いずれも40坪(130㎡)を超えている。 また、敷地も大きい。 註 当然、いずれも居住部分は平屋建てが基本で(富沢家などは、二階建てであっても居住部分は一階である)、敷地は最低でも建屋の5倍以上ある。

 

2)当初の設定が、住まいの基本に忠実で、建屋全体を基本的にワンルーム:一つ屋根の簡潔な形体とし、その内部のゾーン分けの比率が適切であり住まいの基本ゾーン分けについては21頁参照)、架構ゾーン分けに矛盾していない掘立ての時代より、空間と架構の一致:架構=空間:は、建物づくりの基本であった)。

  時々の暮しに合わせた改造も、このゾーン分け内で行われている。

 

3)架構そのものの改修、改造は、暮す上で支障を来たす1間ごとの上屋柱や、ドマ境の差鴨居の後補により撤去する、などが主で、小屋架構まで変えるような改造は行なわないで済んでいる。

 註 明治以降、見えがかりを重視した改造が増える傾向が見られる。 その際、見えがかり重視の結果、架構上の欠陥(島崎家で見られた均衡を欠いた差鴨居の挿入による柱の折損など)を惹き起こした例がかなりある。 また全般に、明治以降の補修は粗放な例が多いようである(古井家箱木家においても見られる)。

 

4)横材折置もしくは簡単な差口で納め、継手は簡単な方法を用いて上に置く、などを原則とした簡潔な工法でつくられている。 

 その結果、材料の加工(刻み)や竣工後の補修・修繕なども容易であった。

 

 

 農家住宅の建設、営繕にかかわるのは、それぞれの地域の工人と、そこに暮す一般の人びとです。このことを考えるならば、上記の要件は、きわめて納得のゆくものである、と言えるでしょう。

 つまり、これらの要件は、そこで暮す人びとにも「見える」つくり方である、ということにほかなりません。そうでなければ、建物の維持、営繕は、人びとにとって至難の技になってしまうのです。

註 ここでは本棟造の事例を多く紹介しましたが、それは、本棟造の住居には、当初の架構・形を変更することなく代々住み続けた事例が多いからです。  本棟造は、その架構の特徴:単純な切妻屋根で、柱を同高にして@1間の格子状に梁を架ける:から、当初の設定さえ適切であれば、改造・改修が容易なつくりであったからだ、と考えられます。

 


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「第Ⅳ章ー3-A5島崎家」 日本の木造建築工法の展開

2019-10-15 12:45:28 | 日本の木造建築工法の展開

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A5,参考」A4版6頁

 

A-5.島崎家  享保年間(1716~1735年)  所在 長野県 塩尻市 片丘

南西からの全景                         

  

大戸口、玄関正面

 

 島崎家は、長野県塩尻市の中心部から北東へ約3.5km、松本盆地の東に連なる鉢伏山系高ボッチ山西麓の緩斜面、片丘地区にある畑作農家。

 切妻板葺き屋根妻入りで、塩尻地域に多い本棟造(ほんむねづくり)の古い事例の一つ、それゆえ、本棟造の原形式を示していると考えられている。

 建設当初のままと見られるカミザシキ床の間壁貫(建込み仕事)の墨書から修理工事報告書では享保年間の建設とされたが、元禄13年(1700年)にある程度完成し、享保になって完成した、という説もある。以来、解体修理が行われるまでの間、建築当初の形式を保ちながら、約260年以上、代々島崎家により住まわれてきた。なお、その間の各時代の使い方を知ることのできる資料が残されていて、その点でも貴重な事例である。

 島崎家は建設当初、地域の村役を務めていたため、武家を招じる接客空間として、カミザシキまわり(式台ゲンカン二ノマ)が設けられた。

 片丘地域をはじめ一帯には、この接客空間を除いた5~6間×7~8間程度の同じ形式の住居:本棟造:が多数見ることができる。

 

 

 

 復元 平面図  復元後も家人が一部使用のため、北東部に便所が設けられている。 

 

 島崎家板葺き屋根は、勾配がかなり緩く、約2寸7分だが、一般には2.5寸~3.5寸程度の例が多い。

 四周と間仕切になる通りに同じ高さで柱を1間間隔で建て、その上に@1間で格子状にを架け、束立て小屋を組む。 基準柱間 1間:6尺1分(1821㎜) 註 徳川幕府の検地の間竿では、1間を6尺1分とする規定があり、この地域では、この数字が建物にも援用されたという説もある。

復元 梁行断面図

写真・図は島崎家住宅修理工事報告書より

 

 

   

伏図 梁の長さ、継手位置を示す。・印は柱位置     母屋伏図 継手小屋束上で鎌継ぎ 

       

太枘を設け、重ね継ぎ          小屋梁~妻梁~柱        小屋束と小屋貫端部         

 

解体時の梁組 明治12年に、一部の梁が切断された。

 

軸組 :自然石の礎石建て。 カラマツサワラクリ。当初材にサワラの転用材。 計画寸法4寸3分角。各柱はほぼ同高(12尺材使用)。 折置または枘差し鼻栓込栓の両様)。柱通りには足固貫。ただし梁行では大引が兼ねる。  

小屋組 梁・桁:主にマツ。他にケヤキクリカシサワラ。 桁行下木梁行上木にして@1間の格子に組む。 継手は柱上で重ね継ぎ鎌継ぎ蟻継ぎ併用。 

  天井見上げ図  平面図に対応

 

復元桁行断面図 

図・写真は島崎家住宅保存修理報告書より

 

 

 

 ープラン 

 

 

ダイドコロ 大戸口見返し 板壁部分はマヤ

 

 

オエ 北側ネマ側)見上げ                 オエ 東側(イタノマ側) 

 

 

オエ 西側(ダイドコロ側)見上げ 右手ネマ境の壁      オエ 南側 板戸はゲンカン 明かり障子は土間境 畳は仮敷

 

          

ミザシキ 南~東にまわる縁・土庇             左奥:カミザシキ、手前:二ノマ、右奥:ゲンカン

 

 

島崎家代々の建屋内使い分け:間取りの変遷      

 島崎家では、遺された諸資料から、建屋内の時代ごとの使い方:間取りが下図のように判明している。

  当初の建屋の梁伏と使い分けを対応させたのが上段左図。記号のA~Dは、21頁住まいの原型で解説したゾーン分けの記号。

 島崎家住宅修理工事報告書より転載・編集

 

 図1は、想定された当初平面図復元平面図は、この平面の北側に廊下と便所を設けた)。

  改造は、常に、梁伏と対応して行なわれ、特に、明治初頭までは、空間のゾーン分けとも対応した改造が行われている。

 明治12年の改造(図3)は婚礼のため。このとき、オエを東西2室に分け、ゲンカン境、二ノマ境、土間境のが内法下で切断され、差鴨居が入れられ、オエ間仕切にも3間の差鴨居が新設された。その結果、この差鴨居のおさまるコザシキ南西隅の柱は折損していた。なお、この時期以降、一部に踏み天井で2階を使うようになる。 

 大正期になり(図4)、ネマ・コザシキ南側、オエとの間に1間幅の畳廊下がつくられる。マヤは不要となり居室化。この頃から、当初のゾーン分けが維持できなくなる(図5)。

 島崎家の間取りの変遷は、長く使いこなせる建物の必須条件を示している。

  あえてその条件を箇条書きにすると、1)当初の規模が適切である、2)当初の建屋の形体が簡潔な形である、3)当初の建屋が改造・改修あるいは補修が可能な架構・構造で、簡潔な工法でつくられている・・などが挙げられよう。

 参考資料 日本の民家調査報告書集成9 中部地方の民家3 山梨・長野(東洋書林)

 

 (「第Ⅳ章ー3ーA5参考小松家」に続きます。)


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「第Ⅳ章ー3ーA5参考小松家」 日本の木造建築工法の展開

2019-10-15 12:45:02 | 日本の木造建築工法の展開

(「第Ⅳ章ー3ーA5島崎家」より続きます。)

 

参考 小松家  延宝・貞享年間(1673~1688年)頃  所在 長野県 塩尻市 片丘 

 島崎家からほど近いところに、島崎家より約半世紀前に建てられた小松家が復元保存されている。

 

復元建物 西面(斜面に沿わせ、西に向いて配置)   写真・図は小松家住宅修理工事報告書(郷土出版社版)より

 

 小松家は茅葺寄棟で、当初は土間2室の構成で、村役を務めるようになってから、奥に接客用のザシキなどを増築している。 復元された建屋は、この増築された段階の姿。

 小松家は他地域で見られる上屋+下屋の構成をとらず、上屋だけで構成されている。

  平面:空間の構成が、島崎家など本棟造の住居に類似していることから、板葺本棟造が生まれる前段階の形式と考えられている。

 修理時(1977年)

              

ザシキ増築時(1790年代):復元平面  

     

      建設当初(1673~88年頃)

 

 

復元 平面図  基準柱間:1828㎜(6尺3分)柱材:当初 クリ 後補:ツガ、スギ 柱径など不詳、5寸程度か

 

 

復元 行断面図

 

復元 梁行断面図                        写真・図は小松家住宅修理工事報告書(郷土出版社版)より

 

 小屋又首組で、梁行断面図のように中途に斜め材を入れたトラス様の形をしており、簡潔で爽快な空間をつくっている。


 

小屋裏 見上げ    

 格子状に組む架構法は、本棟造に通じるところがある。実際は、写真よりもスレンダーである。)

 

土間から土座を見る   手前右手 大戸口へ   右手 シモザシキへは土座から入る  奥左 カミオエ 奥右 カミザシキ 

 

軸組 組立中             写真・図は小松家住宅修理工事報告書(郷土出版社版)より 

                参考資料 日本の民家調査報告書集成9 中部地方の民家3 山梨・長野(東洋書林)

 


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「第Ⅳ章ー3-A3広瀬家, 高野家」 日本の木造建築工法の展開

2019-10-01 13:29:05 | 日本の木造建築工法の展開

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A3,4」A4版8頁

 

A-3.広瀬家住宅  17世紀後半   旧所在 山梨県 塩山市 上萩原  現在 日本民家園(川崎市 生田緑地内)

修理前の南面   

修理前の間取り(平面図)               写真・間取り図共に日本建築史基礎資料集成 二十一 民家 より

 

 屋根の一部を突き上げて中二階を設け蚕室にしていた(突き上げ屋根)。突き上げ屋根の建屋は、この地域の特色。 

 

 甲府盆地の東北部、笛吹川沿いの丘陵地、勝沼塩山周辺には、茅葺の切妻屋根の農家が多い。一帯は養蚕が盛んな頃は桑畑、現在はブドウ畑になっている。

復元平面図               

 出入口は大戸口一箇所のみ。四周は土塗り真壁で囲われている。いどこは土間に直接莚(むしろ)が敷かれていた。ざしきなかなんどおくなんどは、大引を転がし根太を掛け板張り。 そのため、床高は低い。

復元桁行断面図                 平面・断面図共に日本建築基礎資料集成二十一民家より転載・編集

 

 黄色に塗った柱が構造的には主要な柱:上屋柱。丈が高く、中途に差物が入る。 ただ、東妻面と、いどこなかなんど境では、中間に柱が立ち、ともにまで達する棟持柱となる(橙色の柱)。

 一般には西妻面も棟持柱とするが、広瀬家では次写真のようになかなんどざしき境の柱となかなんどおくなんど境のを結ぶ差物上の束柱で受けている(西妻面写真参照)。

木材材種:大半がクリ、 側柱 径:見付3寸~5寸 不整形、 上屋柱 径:約5寸~8.5寸角 不整形 、いずれも土台はない。

仕口 上屋柱~梁:折置  繋梁~側柱:折置  繋梁~上屋柱:枘差し鼻栓  中途梁・差物~柱:同上

 註 旧所在地では、東面していたが、民家園に移築の際、南面に変更。ここでは、移築後の方位で記している。

  

 

南面                                     日本の美術№287より

 軒がきわめて低い。 土塗り壁は、縦小舞をからげ、横小舞を添えて塗っている。 壁の下部は、柱間に地覆を渡して収める。必要に応じ下地窓を設けている。

 

西妻面     差物上に棟持束柱         日本建築基礎資料集成二十一民家より 

 

 

南~東面  東面中央のが棟持柱                日本の美術№287より 

 

 

いどこ~ざしきを見る           内部写真は日本建築基礎資料集成二十一民家より                 

 

 

どぢ~うまや     上屋柱間差物棟通りを立てるを受ける。

復元梁行断面図               日本建築基礎資料集成二十一民家より転載・編集    

 橙色を塗ったは、いどこなかなんど境の棟持柱平面図に対応)

 

 この架構には継手はなく、横材は、すべて仕口枘差し鼻栓渡り腮)で組立てられている。いずれも手の込んだ細工を必要としないが強度的には確実な仕口である。

 外見は一見素朴・稚拙に見えるが、架構の構想は、使用材料のクセを勘案しつつ、立体として緻密に練られている。 たとえば、下図梁行断面図に見られる棟持柱へのの取付け位置の段差や、差物鴨居)と繋梁の段差などは巧みである。

 

 

参考 高野家(甘草かんぞう屋敷) 18世紀後半  所在 山梨県 甲州市 塩山 

南面全景  中央線塩山駅前にある。                    日本の美術№287より            

 甲府盆地の東北、塩山、勝沼周辺には、棟持柱を多用した切妻屋根で、一部屋根を突き上げ、中2階あるいは3階を設ける事例を多く見かける。先の広瀬家は、その原型。

 

日本建築史基礎資料集成 二十一 民家 より転載・編集

 

 当初は茅葺が主だが、明治以降、瓦葺に変わる(茅葺の改築によるものと新築の双方がある)。いずれも、江戸時代後期以来この地方で盛んになった養蚕にともなうもので、中2階以上は蚕室に使われた。

 高野家は、有数の甘草栽培農家で、中2階以上は、養蚕ではなく甘草の乾燥場として使われた。甘草屋敷の名は、そのためである。

 建物は3階建て、平面図の印を付けた柱は棟持柱。 土間に立つ太い柱は3階床までの柱で、先端の二股部で桁を受けている(次写真参照)。 棟持柱の南北両側にを設け、側の管柱で受ける構造形式。

  

東妻面                        日本の民家2 農家Ⅱより

 棟持柱から両側にが飛び、管柱で受ける。 各層の梁~梁の横材は 近在には屋根を二階までとして、バルコニーを設ける例もある(瓦葺に多い)。

  

3階内部                       滅びゆく民家より

 棟持柱の四方にが差される。 斜材は、架構の桁行方向の歪み直しに入れられたもので、突っ張り棒と呼ぶ方が適切だろう。

 

 

2階内部                                 日本の美術№287より

 自然の二股で3階床のを受けている。

 

(「第Ⅳ章ー3-A4高野家」に続きます。) 


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「第Ⅳ章ー3-A4富沢家」 日本の木造建築工法の展開

2019-10-01 13:28:28 | 日本の木造建築工法の展開

(第Ⅳ章ー3-A3より続きます。)

 

A-4.富沢家  1790年(寛政2年)頃  所在 群馬県 中之条町 大道

 榛名山の北側の町、中之条から、三国街道(国道17号)湯宿へと抜ける街道の大道峠の手前に位置する標高約650mの新開の農村で、養蚕が主な生業であった地域。

 富沢家は、新開の頃から当地に住みつき、運送業も営み(うまやが4房あるのはそのため)、享保頃以降は名主を務めている。

 

南側全景                                   日本の美術287より  

2階平面図 

1階平面図

桁行断面図                     平面図・断面図共に日本の民家1農家Ⅰより 数字は編集

 梁行約7間の入母屋屋根の南面を切り上げてできる2階のほぼ全面を蚕室に使った梁行断面図参照)。2階の高さはきわめて高い。 

使用材種 土台:クリ(外周部のみ) 柱:土間まわり クリ  座敷まわり スギ   梁:クリ、マツ 桁 :マツ、スギ、カエデ   又首:マツ

材寸:矩計図参照  土台:120×133(4寸弱×4.4寸) 柱:座敷まわり 4.3寸角  土間まわり 7~8寸角(推定)

梁行断面図 上:居室部分 下:土間部分   

 

  

矩計図(座敷部分)        断面図・矩計図共に日本の民家1農家Ⅰより 

 間仕切部の礎石建て、外周の土台に立つ。  

   

土間から居室部を見る                         日本の民家1農家Ⅰより  

     

 

  

註 図に付した番付は説明用で、実際の番付ではない。  平面図・断面図は日本の民家1農家Ⅰより転載・編集    

 平面図の赤丸を付した柱は2階小屋梁までの通し柱。   

 上掲写真の土間中央右の柱は二・ほ通し柱。 この柱に上下2段のが差口で納まる。上段の梁は根太を受ける。

五・ほ」の柱は管柱で、頂部のに、上段のが載り、そのまま伸びて出梁となる(下写真参照)。下段のは、五・ほ差口で納まる。

この上下2段のは、写真・梁行断面図のように、桁行方向四通りは~と間のを挟み、に、へ通りでは、この上に根太受けが架かり、これも出梁となる。したがって、土間の上部は、格子状にが組まれていることになる。

 

  

                                     日本の民家1農家Ⅰ 

 桁行方向の東端では、は通り通し柱2階床桁を差口で納め(上右の写真)、小屋束立組又首を受ける台の載るは、さらに伸びてうまや上の束柱で支える。 うまや部分の2階床は、他より一段低く、は通りの差物飛貫)レベルに設けられ、飼料の倉庫に使われた。

 

 ざしき~おくり 梁行断面図 

 ざしき 西~北  天井の四通り      カラー写真は日本の民家1農家Ⅰより

 

  なかのでい 桁行断面図

   なかのでい~上段

 

 2階 キープラン 

 2階内部 視点から

 2階の三通りは、又首を受ける陸梁の北端の通りで、で縫われた柱が並ぶ。写真Aの囲いの箇所はざしきの囲炉裏の上部にあたる。蚕室を暖めるため。

 

2階内部 視点から                  日本の民家1 農家Ⅰより

 主部は簡単な仕口だけで緻密に計画されている。

 


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「第Ⅳ章ー3ー1椎名家」 日本の木造建築工法の展開

2019-09-17 13:13:03 | 日本の木造建築工法の展開

PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A1,2」A4版8頁

 

 「日本の木造建築工法の展開 Ⅳ  近世ー3」

・・・・数学的な自然研究は、正確な計算がおこなわれるから精密なのではなく、その対象領域への結びつきが精密さの性格をもっているので、そのように計算されねばならないのです。  これに反して、すべての精神科学さらに生活体についての諸科学も、まさに厳密であろうとすれば、必然的に精密さを欠くことになるのです。 つまり生物を或る時間-空間的な運動量として把えることはできても、そのときはもはや生物として把えられてはいないのです。

 歴史記述的な精神科学の不精密は、なんらの欠陥ではなくて、この種の研究の仕方にとって本質的な要求を充たすことにすぎないのです。むろん歴史記述的な学問の対象区域の企画と確保とは、仕事の面からいっても、精密科学(自然科学)の厳密さの実行よりも、遥かに困難なのです。・・・・               ハイデッガー「世界像の時代」(理想社)より

 

・・・・我々はすべていずれかの土地に住んでいる。従ってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とにかかわらず、我々を「取り巻いて」いる。この事実は常識的にきわめて確実である。 そこで人は通例この自然環境をそれぞれの種類の自然現象として考察し、引いてはそれの「我々」に及ぼす影響をも問題とする。有る場合には生物学的、生理学的な対象としての我々に・・・・それらはおのおの専門的研究を必要とするほど複雑な関係を含んでいる。

しかし我々にとって問題となるのは、日常直接の事実としての風土が果たしてそのまま自然現象として見られてよいかということである。自然科学がそれらを自然現象として取り扱うことはそれぞれの立場において当然のことであるが、しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である。・・・・

・・・・風土の現象において最もしばしば行なわれている誤解は、自然環境と人間との間に影響を考える立場であるが、それはすでに具体的な風土の現象から人間存在あるいは歴史の契機を洗い去り、単なる自然環境として観照する立場に移しているのである。・・・・                和辻哲郎「風土」(岩波書店)より

 

 一体世界のいろいろな民族は皆それぞれ独自の形式の生活を営みそしてそれに相当する独自の様式の家に住んでおります。これを発生的に考えて見まして、どこの民族の家も一室主義に出発してそれに多少の潤色を附加せられたものになっております。蒙古の包(パオ)やアイヌの小屋を初めとして我々の先祖の住宅だったと考えられる伊勢の神宮や出雲の大社なども「妻入り」「平入り」の差だけで一室主義を原則としたものだったのでしょう。そしてその原始型からやがて、寝る所だけを別にした形式が生まれます。世界中の住宅には実にいろいろの種類があり、それに大小の変化もありますが、この根本の要領だけはそのまま維持されているというて決して間違いありません。この意味で、我々日本人の従来の百姓家も町の「しもた家」も立派に民族の家たる資格を持っておるのです。

・・・かつてブルーノ・タウトは桂の離宮を絶賛したと聞いております。そして日本人は今さらのように桂の離宮を見直して、タウトのひそみに倣うて遅れざらんとしたようです。  しかし、私は深くそして堅く信じます。タウトは桂離宮に驚く前にまず所在の日本の百姓家に驚けばよかったのです。そしたら日本に滔々として百姓家を見直すということが風靡したかもしれませぬ。

 従来とても我々の間に「民家」の研究という種類のことはありました。しかしこの研究には何か「取り残されたもの」に対する態度、「亡び去らんとするもの」に対する態度、したがって、ある特殊の趣味の問題として扱われてきているのが実情です。 しかし私の考えによれば、私どもが軽々にこれを「民家」と呼ぶことがすでにいけないのです。私どもはこれを「民族の家」といい直さなければなりません。そのとき我々のうかつにも軽蔑してきた百姓家が、実に厳然としてさんらんたる白日光を浴びながら私どもの前に立ち現れてまいります。私どもはじかにこの民族の「たましい」に面接しようではありませんか。・・・         遠藤 新「一建築家のする―日本インテリへの反省」(雑誌「国民」)より

 

Ⅳ-3 近世の典型-3:住宅建築

 先に、室町時代末に建てられたと考えられる農家住宅、古井家箱木家を観ましたが、それ以降、近世:江戸時代になるまでの間の一般庶民のかかわる建物:住宅の遺構は存在しません。

 しかし、近世につくられた建物を見ると、その間に、農家住宅はもちろん、一般庶民の建物づくり:住まいづくりの技術は、格段の展開を見せたことが分かります。

 ただ、その場合、農家、商家と武家では、つくりかたに大きな違いが見られます。すなわち、農家商家では、中世の古井家箱木家と同じように、日常の暮しに応じ、架構=居住空間という竪穴住居以来のつくりを継承しているのに対して、武家の住居では、寺院建築において発展した客殿建築、その流れを汲むいわゆる書院造にならい、日常の暮しより接客を重視したつくりが好まれ、建物の見えがかりの形に意をそそぐ傾向が強く見られます。 

 註 武家のつくりは、幕藩体制解体後、都市に居を移した旧武士階級の住宅に、さらに形式化して継承されます。

 そこで、住宅建築を生業別、すなわち、農家、商家、武家に分けて、その代表的な事例を通じて、住まいづくりの技術を観てみたいと思います。

 

A 住宅建築-1:農家住宅

 農家住宅は、当初の寺院建築同様、上屋+下屋の方法でつくられるのが普通で、古井家箱木家もその方法を採っています。

 上屋のつくりかたには、梁行を先行する折置組桁行を先行する京呂組がありますが、古井家箱木家とも折置組にしているため、建屋内には上屋の柱が立ち並びます。

 この不便を解消するため、古井家では、江戸時代におもてちゃのま、そしてにわに立ち並んでいたを取り除く改造をした記録が残っていて、その後も間仕切と柱位置を一致させる改造が何度か行われています。箱木家においても、そのような改造が行われていたことが、当初材に残された痕跡から判明しています。

 

 上屋+下屋方式の建て方にともなう不便の解消のための工夫は、おそらくどの地域に於いても、どこの建物においても行なわれたと考えられますが、その過程を知ることのできる遺構はありません。しかし、いつ頃からかは分りませんが、上屋の柱を省いて建物をつくる技法があたりまえになります。今回紹介する椎名家北村家には、その成果を見ることができます。さらに、地域によって、種々な建て方も現われ、養蚕が盛んになると、二階建ての建屋も自由につくられるようになります。

 また、外形を見ても、農家住宅では、茅葺では寄棟あるいは入母屋が一般的ですが、地域によると切妻屋根もつくられ、高冷で風の強い地域では、板葺き屋根が発達します。

 つまり、人びとは、その地域の状況に応じて、その地に最も適したつくりかたを探し続けてきた、その結果:結実した姿が、各地に現存する住居遺構であると考えることができます。

 以下に、そのいくつかを基に、人びとが何を考えてつくってきたか、見てみたいと思います。

 註 いわゆる「民家」研究では、間取りの型の変遷、軸部のつくりかた、小屋のつくりかた・・・に分けてみる見方を採るのが一般的ですが、ここではその見方は採りません。また、「民家」という語も使わず、農家住宅商家住宅・・・という語を使うことにします。

 

A-1.椎名家住宅  1674年(延宝2年)  所在 茨城県 かすみがうら市 加茂(現地保存)

                      

1960年代の南面全景  滅びゆく民家 河島宙次著 より   

 

                    1960年代の間取り(復元修理前)   滅びゆく民家 より  

 

 椎名家は、東日本に現存する建設時を確定できる最古の住居遺構。 

  霞ヶ浦の北部に飛び出す半島:旧出島村:のほぼ中央部に、現地保存されている。出島は、標高25m程度の厚い関東ローム層に覆われた丘陵状の地形で、微小な谷地田が数多く刻まれている。 この地には、古代以来人々が住み着き海進期の縄文時代までさかのぼる住居址貝塚古墳が数多く残っている。

 古代の畿内からの官道東海道)も、東京湾を横断し、房総半島を経て、霞ヶ浦を渡り出島を通り、半島の東側の付け根付近に置かれた常陸国府へと至っていた。国府跡が現在の石岡市。

 また、一帯は、中世以降は馬の産地としても栄え、の付く字名も見られる。椎名家も、この丘陵上で馬の生産・放牧を含む農業を営んでいたようである。 椎名家は、村役を務めていたため、接客空間(ざしきげんかん)が用意されていた。

 

平面図                    日本の民家1農家Ⅰ(学研)より

桁行断面図                 日本の民家1農家Ⅰ(学研)より転載・編集 

で囲んだ材は内法位置では、は付長押で隠されている。 床部分の橙色に塗った材は大引兼足固めで囲んだ材は差鴨居あるいは同様の働きをもつ材。ろまざしき境の差鴨居付長押を一材でつくりだしている。

 

 

 西~南面 近撮

 

 南面 近撮

 

 

どまからひろまをみる                          日本の美術№287 より。

ひろまの三方には、内法付長押がまわる。奥のざしきには、小壁上の高さで天井が張られる。

 

   

左上 どまよこざ境の出隅の柱見付6.7寸×見込6.0寸)への繋梁の差口:枘差し鼻栓  右上 同上柱を南から見たところ(柱見付6.7寸 

 柱間の横材の仕口は、ほとんどが枘差し鼻栓。 

 基準柱間 1間:1909mm=6尺3寸 2371mm≒1.25間=7尺8寸 ひろま、ざしきの幅:桁行幅=2.5間

 材寸 側柱:スギ 3.7~3.9寸角、大戸口:4.7寸角、 内部柱:ケヤキ、シイ、土間境:6.7~6.9寸角、ざしきまわり:4.7~4.8寸角。  梁・桁、大引など:マツ。

梁行断面図                 日本の民家1農家Ⅰ(学研)より転載・編集 

で囲んだ材は内法位置では、は付長押で隠されている。 床部分の橙色に塗った材は大引兼足固めで囲んだ材は差鴨居あるいは同様の働きをもつ材。ろまざしき境の差鴨居付長押を一材でつくりだしている。

 

  

左手:よこざ その奥はねまへの板戸 繋梁鼻栓が見える。 ひろまからざしき 境の差鴨居長押一木、他は付長押。この差鴨居には延宝2年の墨書があった。

 

 (「第Ⅳ章ー3-A1椎名家」に続きます。)


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「第Ⅳ章ー3-A1椎名家,2北村家住宅」

2019-09-17 13:12:33 | 日本の木造建築工法の展開

 (第Ⅳ章ー3-A1椎名家住宅」より続きます。)

 

 

 椎名家平面図

  

   

椎名家梁行断面図      日本の民家1農家Ⅰより        古井家梁行断面図            日本の民家3農家Ⅲより  

 

 椎名家では、上屋+下屋架構の上屋柱に相当する主要な柱列が、上図の色をかけた部分を挟んで置かれている。 従来の上屋+下屋架構では、上右図の古井家の例のように、上屋柱上にが架けられ、又首が組まれる。 

 

 これに対して、椎名家では、主要柱相互は中途を丸太の差物飛貫に相当)で繋ぎ、その上の位置より両側(南北)に伸び、側柱主要柱とを結ぶ繋梁上に設けた束柱で受け、全体は鳥居状の形をなしている(左上図参照)。 主要柱列上にはない。 また、この差物は、桁行方向のいわば背骨にあたる丸太梁を受けているが、丸太梁が大きく湾曲しているため、柱への取付き位置は柱ごとに異なる桁行断面図および写真参照)。

 註 このように主要柱上にを通さないつくりを四方下屋造と呼ぶという。 なお、差物のへの仕口は、枘差し鼻栓(写真参照)。繋梁は、側柱折置主柱へは、枘差し鼻栓(写真参照)。 

 この架構法の採用により、椎名家では、小屋組はもとより、空間構成も、上屋・下屋の束縛から解放されている。

  一般の人びとの間では、すでに17世紀半ばまでに、柱-梁-柱で構成される門型を並べ、容量不足の場合には各面に下屋を増築するという二次元的な発想から、当初に立体として三次元的に構想することが普通になっていたと考えられる。

  

  

 ひろま南側の 突きあたりはげんかんへの板戸         小屋組詳細   真束又首 棟木又首の上に据え

 

   

 どま 西北隅部見上げ           を受けている約5寸9分角

 

 どま以外では、主要柱列内法上に貫が3段入り、下2段分を小壁としているが、上部にははない。 

 

   

 ひろまからどまをみる  鴨居樋端は後補                 日本の民家1 農家Ⅰより

 

 

A-2.北村家住宅  1687年(貞享4年) 旧所在 神奈川県秦野(はだの)市 堀山下 現在 日本民家園(川崎市 生田緑地内)

 秦野は、丹沢山麓に位置する畑作地帯。煙草の栽培で有名。

 建設時は鍛冶谷村で、同村の大工、隣村平沢村の大工の名と貞享4年の墨書が小屋束の枘から発見された。

 

南正面          右端のだいどころどま)まわりの壁は割竹張り真壁     日本の美術№287より

平面図 柱間寸法 1間:6尺   柱はケヤキ、クルミ  平面図・断面図共に日本の民家1農家Ⅰより

 

桁行断面図

ひろま~だいどころどま)               床と天井は竹すのこ  どま境上の小壁割り竹張り  日本の美術287より

 

梁行断面図                                 日本の民家1 農家Ⅰより

 

 椎名家と同じように、主要柱列間より両側にが伸び、又首を受ける。繋梁上の束柱が受け、桁もその上に通っている(四方下屋造)。

 しかし、主要部の架構では、椎名家とは異なり、中途の差物飛貫)はなく、内法上に4段のを組む。最下段ののひろま側には付長押様の材が張られている桁行断面図、写真参照)。 この4段のの入った部分は、割り竹を張った小壁としている梁行断面図および写真参照)。

 


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