「Ⅱ-1竪穴住居~掘立て~礎石建の過程」 日本の木造建築工法の展開

2019-03-26 10:16:26 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「Ⅱ-1竪穴住居~掘立て~礎石建の過程」 A4版10頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

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「日本の木造建築工法の展開 Ⅱ 古代・中世」 

遠藤新の言葉    ・・・・・ 日本の建築家は「新しい」という事許(ばか)り考えて「正しい」という事をおろそかにした。  何が正しいか、立体建築観が正しい。・・・・・  此迄(これまで)の建築家は人の心を考慮に入れていない。  心理の考慮なき建築は死人を容るるに適して生きたる心の住家とはならない。  いま有りとあらゆる建築家は棺箱を作ってそれに人を入れることを強要してる罪人だ。・・・・・ 「建築評論」大正九年四月号  

 ・・・・・ 建築を大きくばかり造っても、其所に材料の持つ大きさが出て来ないと意気地がない。  今日の構造学には、こゝな用意がない(尤(もっと)も構造学というものは、いつになってもそんな用意を知らないものだが)。  そして、建築は材料に引きずられずに構造学に引きずられる。  そこで、建築が意気地なくなる。  思いつきや、利口さや、小手先やの細工は、更にも建築を弱く、小さく、意気地なくする。  文化の爛熟の間にも、一脈の単一至純な原始的な力が潜んで居るようでなくてはいけない。・・・・・  「アルス美術講座」(昭和二年刊) 「建築美術」

 

主な参考資料 原則として図版に引用資料名を記してあります。 日本建築史図集(彰国社)  日本住宅史図集(理工図書)  日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)  奈良六大寺大観 (岩波書店)  国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書(浄土寺 刊)  古井家住宅修理工事報告書(古井家住宅修理工事委員会)  滅びゆく民家 川島宙次(主婦と生活社 絶版)  日本の民家(学研 絶版)  日本の美術 (至文堂)      

          

 Ⅱ-1 竪穴住居~掘立て~礎石建の過程

  1.竪穴住居・・・・原始的な木造軸組工法の住まい

 下の図は、木の豊富なわが国の原始的な住まい、竪穴住居のつくりかたの順番を示した図です日本住宅史図集から転載。なお、西欧の竪穴住居の例は44頁参照)。

  先ず深さ50cmほどの穴を掘り、2本の柱を立て、その上に横材:を渡して門型をつくり、これと平行に、同じ門型をもう一組並べます。次に、今の門型に直交して、横材の上に新たに横材:(けた)を2本架けます。4本の柱の上にできた横材のつくる長方形の枠からまわりの地面に向け、屋根材を受ける木:垂木(たるき)を斜めに渡します。大きな建屋の場合は、門型を2組以上つくればよく、小さな場合には稲掛けのように、柱を立てず垂木(たるき)だけで円錐状の形とすることもあります。木と木の接続には、縄や蔓でしばる方法がとられていたようです。

 屋根は、(わら)(すすき)(よし)の類(かや)を葺く茅葺(かやぶき)が主でした。これは西欧でも同じです(44頁参照)。

  竪穴住居の復元例は、各地の郷土資料館などで見ることができます。下の写真は、1945年ごろに発掘された登呂(とろ)遺跡(静岡市)の復元家屋です。

 

 静岡県 登呂遺跡 復元竪穴家屋     復元にあたって、出雲地方の右図のタタラ小屋(砂鉄精錬用施設)が参考にされた。

下左は登呂遺跡の全体平面図。  登呂遺跡には、掘立て高床式の備蓄倉庫と考えられる建物(下の写真)もあったと考えられている。            図、写真は日本建築史図集より

    

 

 2.竪穴住居から掘立柱の軸組工法へ・・・・上屋(じょうや)と下屋(げや)あるいは母屋(もや)と(ひさし)

 竪穴住居にしたのは、空間内の保温のためと考えられていますが、ただ湿気やすく、また垂木も地面に接していて腐りやすいため、生活面は徐々に地上へと変ってきます。

 そこで生まれたのが、掘立柱を立て、屋根を架ける現在の木造建物の原型と言える建て方です。これは、2本の掘立柱に横材:を掛けた門型を2列以上並べ、その両端に直交して横材:を流して直方体の外形をつくり、その上に屋根を載せる方法です(次頁の図参照)。

 垂木は地面まで延ばさず軒先だけです(古墳時代には、すでに屋根が地面から離れた建物が現れたと考えられています。下の平出遺跡復元家屋写真参照)。次いで、四周の柱と柱の間に壁や窓や出入口をつくれば安心して暮せる空間ができあがります。これが軸組工法のつくりかたの原型です。 なお、順番を逆にして、先に長手にを架け、次にを架ける方法もできます。

 掘立柱による建て方は、柱を立てるのが簡単なため、人びとの住まいばかりではなく、たとえば奈良時代の平城宮の建物にも使われており(34頁の写真および下の写真参照)、また伊勢神宮では掘立柱をしきたりとして守って現在に至っています(20年ごとに建替える:遷宮(せんぐう))。

   

上左は、長野県塩尻市の平出(ひらいで)遺跡に復元された掘立式の竪穴住居。   平出遺跡には、縄文期から古墳時代に至る間の住居址が発掘されていて、この写真は古墳時代の住居の推定復元。 地面に残された痕跡から、この時代には、垂木が地面を離れ建屋の四周に低い壁が設けられていたと推測されている。 日本建築史図集より

 下左は、平城宮址で発掘された掘立柱の柱脚。埋戻しまでの間、柱の直立を維持するため柱底部に噛ませた十文字型などの木材も発掘。鈴木嘉吉著 古代建築の構造と技法より  下右は、伊勢神宮 外宮・御餞(みけ)殿の実測図。掘立部の詳細は示されていない。       日本建築史基礎資料集成 一 社殿Ⅰより

   

  この掘立柱の架構でできる空間の大きさは、横材:の長さで決まってしまいます。人力で運んだり、持ち上げたりするには、横材の長さや重さに自ずと限界があり、材種にもよりますが、その長さは、おおよそ4~5mぐらいのようです。そのため、門型の大きさにも、空間の大きさにも限界があることになります。

 時代が経つと、横材を継ぐ方法・技術も生まれますが、当初は、材料を継がず、1本でつくるのが普通です(もちろん、多数の人数を集めることのできる東大寺などの建物では、横材に長大な材料を使っています)。

 空間拡大のために考えられたのが、最初につくった建屋の周囲に新たにを立て横材でつなぎ、空間を増やす方法です。最初につくった部分を、上層階級の建物では母屋(もや)(身舎と呼び、追加した部分を(ひさし)()と呼びますが、一般には本体を上屋(じょうや)、追加部分を下屋(げや)と呼んでいます(図A参照)。

 図A 

 無庇建物(三間切妻)  二面庇付建物(三間二面庇切妻)     四面庇付建物(三間四面庇入母屋

B図

 

 追加部分:下屋は、各面につけることができ、寺院の建物には、図Aの右側の図のように4面全部に下屋:庇を付けた形が多く見られます。寺院では、図Aのように、三間四面などと上屋の正面柱間数と下屋が何面に付いているかを示して建物の大きさを表すことがあります。また、その場合の屋根の形を、母屋が中に入っていることから入母屋(いりもや)屋根と言います。なお、下屋には、上屋を支えることにより、風や地震に対して丈夫な構造にする効果がありました。

 掘立柱による建物づくりは、柱の根元が腐りやすいため、徐々に礎石の上に柱を立てる方法礎石建て石場建に変わってきますが、上屋+下屋=母屋+庇の方式は、そのまま継承されます。註 西洋の教会堂も、側廊+身廊+側廊の構成をとっている(上図の二面庇に相当)。

 

参考 西欧の竪穴住居、掘立柱 

竪穴住居、あるいは掘立柱は、木造で建物をつくる地域には、共通に存在する。最も容易に「住まう空間」を確保できる方法だからと考えられる。以下はスイスの例。図版は Fachwerk in der Schweiz (Birkhauser)より

 棟木(桁)の架け方 

     

小型の竪穴住居 最も簡単な屋根                大型の竪穴住居         

    

上:地面に叩き込む 下:柱を据え石や土を詰め固める、 柱は柱脚に置いた繋板を貫いて地面に差す、 紀元前1600年頃の掘立柱の建屋        

 

参考 礎石建て高床式建物 法隆寺・綱封蔵(こうふうぞう) 平安時代初期の建設(所在は、58頁 法隆寺寺域図参照)             

 建造物の復元にあたっては、類似の建物が参考にされる。掘立て高床建物の場合、柱の痕跡しか分らず、復元にあたり礎石建て高床建物が参考にされた。下は、法隆寺・綱封蔵の平面図、吹き抜け部分、床組の継手・仕口。 このように、床組を先ずつくり、その上に上部のを立てる方式は、校倉造の蔵正倉院など)も基本的には同じで、登呂遺跡高床復元建物もこれに倣っている。 図・写真は奈良六大寺大観、文化財建造物伝統技法集成より

 

3.掘立柱から礎石建ての軸組工法へ

礎石建てになっても、地上部の架構のつくりかたは掘立柱の方法と大差はありません。下図は、礎石建ての建物で、上屋+下屋=母屋+庇方式でつくってある例です。

 図で薄く色を付けたところが庇=下屋にあたります。新薬師寺本堂は、奈良時代初期の寺院建築の姿を今に伝える建物で、中国にならい、盛土をしてよく叩き締めて版築はんちく)基壇をつくり、その上に礎石を据えて柱を立てています。また、屋根の勾配も、中国にならい緩いのが特徴です(図は日本建築史基礎資料集成 四 仏堂Ⅰより。

 古井家は、すでに触れていますが、わが国の住宅遺構で最も古い建物の一つで、礎石建て茅葺屋根です。中国山地にあり、外壁(下屋の外壁)は土壁で塗り篭めています(内部は真壁)。

 新薬師寺本堂では、約30尺(約9m)隔てた2本の柱の上に(はり)を掛けて門型をつくり、それを6組横並べにして母屋:上屋の外郭をつくります。の間隔は両脇の2間は10尺、中央は約15尺です。

 古井家では、約6m隔てた2本のの上にを掛けた門型を7組、ほぼ等間隔に並べ、上屋の外郭がつくられています。古井家の場合は、が細めのため、中央にも1本を立てを支えています。

 両者とも、庇:下屋は、母屋:上屋の4面に付けられています。 

 一般に、古代の寺院では、母屋:上屋部分は仏像を安置する聖域とし、庇:下屋は拝む場所として使い分けています。三十三間堂は聖域の母屋:上屋の正面の幅:間口が33間あることからの通称で、四面に1間幅の礼堂になる庇:下屋が付いています三十三間四面堂、外観では柱間が35間あります)。 

      

新薬師寺本堂(57頁参照) 8世紀中ごろ 奈良市高畑町          古井家 15世紀末ごろ 兵庫県宍粟市吉富

 住宅の場合は、そういう使い分けはなく、部屋の中に上屋柱が立ち並び、暮す上の障害になっている例が多数あります(近世になり、その部分を縁側にする例はあります)。そのため古井家では、江戸時代に不要な柱を取り去る工夫がなされて改造されていました(28頁間取り変遷図参照)。

 

(Ⅰ-4へ続きます。)


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「Ⅱ-1.4」 日本の木造建築工法の展開

2019-03-26 10:15:36 | 日本の木造建築工法の展開

(Ⅱー1. 3より続きます。)

4.屋根のつくりかた・・・・又首(さす)組・合掌造、和小屋・束立組、(洋小屋・トラス・・・)

 掘立て式の頃の屋根の架け方は、礎石建てになってからの架構法から推察されます。

 新薬師寺古井家も、の上に二等辺三角形に材が組まれています。これは又首(さす)と呼び、屋根をかたちづくる架構(これを小屋組こやぐみと呼びます)の古い時代の代表的なつくりかたで、竪穴住居を継承していると考えられます(世界各地域でも同じ架け方が普通です。43頁参照)。 なお、又首(さす)扠首(さす)とも書き、また合掌(がっしょう)とも呼びます。

 又首(さす)が大きくなり、斜めの材が下に曲がるのを避けるため、中途を支柱で支える場合があります。下左の図は、長野県の塩尻市にある小松家の例ですが、斜めに支柱を立てています(なお、この建物は上屋だけで下屋は設けていません)。

 また、支柱を立てる代りに又首(さす)の間にAの字型に横材:を何段か設けても曲がりを避けられますが、この横材の部分を床として使ったのが、下右の図の白川郷合掌造です。

  

長野県塩尻市 小松家断面図 (日本の民家2 より)        岐阜県荘川村 若山家 小屋組分解図 (滅びゆく民家 より)

  時代が経つと、小屋組のつくりかたが変ってきます。下の図は、住宅に見られる小屋組のいろいろです(川島宙次著 滅びゆく民家より)。

 ①              ②              ③

古井家に見られる方法。

扠首(さす)組に似ていますが、扠首(さす)状の部分は垂木だけです。これは、真束(しんづか)真束柱)で支えた棟木(むなぎ)と両側のとの間に垂木(たるき)を架ける方法です。

 古井家にも真束がありますが、これは又首(さす)の上にのっている細い棟木を支えるための束柱(つかばしら)です。なお、束柱とは「短い柱」という意味です。註 「短い時間」を言い表す「束(つか)の間」という言葉があるように、には「短い」という意味があります。 

は、現在も普通に使われている方法で、屋根面に平行する横材:母屋(もや)=母屋桁(もやげた)の上に立てた束柱で支え、棟木~母屋~桁垂木を掛ける方法です。多くの場合、母屋=身舎の小屋組に設けられる横材であることから母屋桁と呼び、それが簡略化され母屋と呼ぶようになったと考えられます。

 この方法は束立(つかだて)と言いますが、一般には和小屋(わごや)と呼ばれています(下註参照)。束立和小屋組では、まずの上に束立て母屋母屋桁等高線上に配置します。そして、母屋垂木を掛ければ屋根の概形ができあがります。

 下の写真は、雁行形をした桂離宮の全景です。屋根だけ取り出した図が下図です。この図の網掛けをした部分の母屋垂木の配置を上から見ると、右側の図母屋・垂木伏図のようになっています。

 束立(つかだて)は、このように屋根を自由につくることができるのが特徴です。                               

 

俯瞰写真  原色日本の美術(小学館)より           屋根外郭  左の写真から作成  

   母屋・垂木伏図  桂離宮御殿整備記録(宮内庁)より

 

註 和小屋と洋小屋という呼称について

和小屋(わごや)という名称は、明治のころ西欧からは伝えられたトラス組:洋小屋(ようごや)に対して生まれた。左はトラス組:洋小屋の一例。

 

束立組和小屋)では、水平のだけが屋根の重さを受けるため、の長さや重さに応じて太い材料が必要になるが、トラス組では、細い部材でつくられた三角形の全体が梁の役目をしていて、長い距離を掛けることができ、重さにも耐えられるので、講堂や校舎の屋根などに使われることが多い。

また、積雪の多い地域では、細い材料で屋根が架けられるので、会津地域では住宅にも使われている。写真左は喜多方の煉瓦造の蔵の小屋組。幅が4間(7.2m)、横材(陸梁(ろくばり))は15×12cm。下は熊本の小学校の講堂の小屋組。幅が4間(7.2m)、横材(陸梁)は12×12cm。 

 

5.礎石建ての特徴・・・・軸組の形を安定させなければならない 

 掘立柱は、穴を掘り、垂直を確かめながらを埋め、のまわりに土や石を埋め戻して突き固めればが自立します。が安定していますから、の上に横材:梁・桁を載せ架ける仕事も容易でした。世界のどの地域でも、木造の建物を最初は掘立柱でつくるのも、仕事が簡単だからと考えられます。 

 ただ、掘立柱方式の欠点は、Ⅰ-5で触れたように(34頁)、の根元が腐りやすいことです。建てる場所の状況にもよりますが、普通のでは10年も経たないうちに腐り始めます。

 そこで考えられたのは、柱の足元:柱脚を地面から離すことでした。そのために、地面に石:礎石(そせき)を据え、その上にを立てる方法が編み出されます。礎石(そせき)建て、または石場(いしば)建てと呼ばれる方法です。礎石には自然石をそのまま用いる場合と、上面を平らに加工した石を使う場合があります。石の加工は大変ですから、加工した礎石は、主に寺院など上層の建物で使われています。

 礎石建てになると、掘立柱のようにが自立しないため、を立てる作業が難しくなります。が4本立ち、横材:梁・桁が架けられて最小の直方体の輪郭:軸組ができあがるまでは、何らかの方法でを支えなければなりません。

 本体をつくるための補助的な仕事を仮設工事といいますが、一番簡単な方法は、石の上に立てた柱を二方あるいは三方から地面から斜めに支柱をあてがい固定する方法です。斜めの材を一般に筋かいと呼びますが、この場合は仮筋かいと呼んでいます。本体が無事に立ち上がると、はずしてしまいます。 また、寺院などの大規模な建物の場合は、できあがる建物のまわりに足場(あしば)をつくり、立てたを足場とつないで固定する方法もとられています。 

 最初の直方体の輪郭:軸組が仕上がると、あとの柱・梁・桁はそれに接続していけばよいので、比較的仕事は容易になります。

  軸組ができあがるとその上に屋根の下地になる小屋組をつくります。この仕事は、掘立柱のときと変りありません。ただ、小屋組ができて屋根が葺かれ、壁や出入口、窓などが仕上がるまでは、ぐらぐら揺れたにちがいありません。なぜなら、掘立柱方式と大きく違い、が地面に固定されていないため、軸組のつくる直方体の形が、ちょっとした横からの力で容易に歪んでしまうからです。そのため、礎石建ての抱える大きな問題は、どうしたら軸組の形を安定させることができるか、ということでした。

 この問題の解決策として、いろいろの工夫がなされていますが、主な方法は次にまとめられます。

① 柱への横材:梁・桁の取付け方・載せ方の工夫 ② 上屋+下屋方式を採用し、上屋を下屋が支えるようにする工夫 ③ 軸組の四周を構成する柱列に、たがのように、横材を打ちつけて歪みを防ぐ工夫 これは、他に例を見ない日本の建物づくり特有の長押(なげし)を設ける方法です ④ 長押に代り、貫(ぬき)という材を、柱を貫いて通して柱列を固める工夫  ⑤ 通し柱、土台、貫、差物の活用・・・・技術体系の確立  以下、順にこの方策を見てゆきます。

参考 西欧の木造建築の軸組安定化策 スイスの例    Fachwerk in der Schweiz(Birkhauser)より

 

 

 木造部は、日本と同じく、基礎の上に置かれているだけである。日本では一般に、斜め材を筋かい:筋違と呼ぶ(日本建築辞彙による)。一方、この図のような柱を脇から支える斜め材、あるいは横材を支えるために柱上部に取付ける斜め材は方杖(ほおづえ)と呼ぶ。 頬杖:庇、小屋組ナドニアル傾斜セル支柱。(日本建築辞彙) 筋かい方杖の区別は、横材相互を結ぶかどうかによるようである。建て方時の仮筋かいも、通常、土台~柱~梁・桁を結ぶ。

参考 スイスの木造軸組工法 16世紀末~17世紀   Fachwerk in der Schweiz(Birkhauser)より  

 

 


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「『蔵』 のはなし・・・・必要ということ」  1981年12月

2019-03-20 10:27:52 | 1981年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №9」1981年12月 A4版8頁   

       「蔵」のはなし・・・・必要ということ・・・・   1982年度「筑波通信 №9」 

  「こがねむしはかねもちだ、かねぐらたてた、くらたてた・・・・・・」という童謡は、おそらくどなたも知っているだろう。

 単なる童謡なのだからどうでもよいようなものの、こういう詞は、蔵というのが金持ちの象徴なのだという通念があるからこそ生まれるのだと見てよいのではないだろうか。蔵というのは、いわゆる財産(蓄財したもの)をしまっておくためのもの、それ故富裕でないと持ち難い、そういう理解である。私も実は、なんとなくそんなように思いこんでいたような気がする。

 

                                                                                              「福島県の地名」平凡社(この図は投稿者によります。)

  新潟で日本海にそそぐ阿賀川をさかのぼると、越後平野を通り過ぎ山あいを峡谷上に北上し一度会津盆地に入る。川は盆地の西端をゆるやかに流れ、今度は先の山あいの山々をまいた形でその東側を再び峡谷状を成し南へと上流へ向う。つまり会津盆地を曲りの部分としたU字形を成し、その囲まれたところに山系があるということだ。その上流を総称して南会津と呼ぶ。因みに、その川を更にさかのぼる(つまり概ね南へと向うことになるが)と、峠を越えて今度は鬼怒川の上流に出る。日光へはもう直ぐである。江戸と会津をつなぐ重要な街道の一つで川路(かわじ)と言ったらしい。いまの川治温泉は川路温泉だったわけである。

 それはさておき、先のU字形に囲まれた山系のなかに、これこそまさに辺地を絵に描いたような山村O村がある。この村へは、西側から阿賀川支流を入るのが比較的ゆるやかな道で、あとは会津盆地からも南会津からも険しい峠を越えなければならない。冬期の積雪は村うちで3mを軽く越えるから、冬期、村と他の町村との交通は、先の支流沿いの道(これとても途絶えることがある)を除いて、完全に途絶する。言うならば孤立するのである。

 村域は川沿いにいくつかの集落が点在する形で展開しているが、もともとは二つの村であったという。一つは概ねその川の中・下流域の比較的平らな部分、一つはその上流、低い峠を越えたところにある小盆地のO集落で、そこは独立してO村であったのである。だから、このO村は最奥ということになる。このO集落は、川沿いの道を下から、いくつもの集落を通りぬけてさかのぼって行き、人家がなくなって山道になり、村のはずれに来てしまったなと思いながら、小さな峠を越え下り坂になったとたん、前方に突然家々の屋根がひしめくように、ほんとにあっけにとられるような形で目の前に現われる。確かに村を名のってもおかしくない大きな集落である。いまは自動車で行ってしまうけれども、もし歩いて訪れたとしたら、そしてそれが春先きの花でも咲いているときならなおさら、まさに桃源境にでも入りこんだような気分になるに違いない。そのとき同行した人が一様に思ったのは、こんなところに人が住んでいるという驚きに近いものだった。

 ところで、このこんなところにもという感想は曲者で、よく考えてみる必要があると思う。人里からあまりにも遠く離れたところにも人がいる、という意味も含まれていれば、普通考えられる人の住めそうな場所の通念からみれば人の住めそうもない所に住んでいる、という驚きも含まれているだろう。けれども、ひっくりかえって、東京を見て、こんなところに人が住んでいるとはどうして思わないのだろうか。それこそほんとに、こんなところにうじゃうじゃと人が住んでいるといって驚いたっていいと思うのに、ほとんどだれもそうは言わない。だれも不思議に思わないのだ。そうしてみると、こんなところにという感想は、ある特定の視座から一方的に見た、そのことによる感想にすぎないということになる。

 その特定の視座というのが何なのかということが、だから、問われなければなるまいと私は思う。人がそれぞれ自分中心のものの見かたを持つというのは確かであるけれども、だから都会に住み慣れた人がこういう山村を見て、こんなところにと驚いても一向にかまわないし、また当然であるけれども、しかし、その見かた、それによる驚きが、直ちに一般的・普遍的かのように思ってしまっては誤まりだろう。人それぞれの存在がそれでは消えてしまう。都会に住む人だけが人ではない。ましてやそういう視座が、多数決によって、つまりそういう見かたをする人の数の多少によって正当化されたりしたり、よいものと思われてしまったりしては論外のはずなのだ。けれどもいま、大多数は都会に住むし、その人たちの先祖だってこういう山村的生活をしていたかもしれないなどということは忘れ、都会的生活に慣れきってしまっているから、彼らの見かたこそが唯一絶対かの錯党を持ってしまうのだ。

 実際村に住んでいる人の立場から見ればこんなところにと思われること自体、不可思議だし、ことによると不当に思えるだろう。彼らは彼らなりの生活を、そこなりにしてきているのである。とりわけ、情報がとびかうことのなかった時代にあっては、自ら辺地住いだなどという意識など全く思いもしなかっただろう。よきにつけあしきにつけ、彼らの世界は、村うちだけで閉じていたからである。しかしいまは、対比する町や都会がある。そうであってもまだ、こんなところにという感想は、彼らにとっては不当であることに変りないはずであると、私は思う。

 随分まわりくどい言いかたをしているけれども、要は、私たちの多くは都会的生活に慣れ親しんでいるのだけれども、それが唯一最高の、それ故に目ざすべき標的であるかのように単純に見なしてしまう私たちの悪い癖をやめようではないかと言いたいのである。ちょうど期待される人間像などというのが全く人を人と思わない不当なものであるのと同様に、あるべき生活像みたいなものを抽象的に、またワンパターンで定型化しようとするのも、これも全く不当なことだと思うからである。

 よく私がこれにからんでもちだす例が「みちのく:陸奥」ということばである。いまこそ大方の人たちは、そのことばそのものの意味を問わずに単純に、東北地方を示す一つの優雅な言いかたとしてしかみないだろうが、やはりこれは、そのときの中央から見ての方向感覚・上下感覚の入っていることばに他ならないのである。彼らが自らを「みちのく」と言うわけがあるまい。よく我が国を称して「極東(far east)」の小国などと言うけれども、これも日本人自らが言うとなると、国際感覚がおありのことでとからかいたくなる。

 

 さて、私がこの村むらで印象深く見たものが何であったかというと、それが立派な蔵だったのである。家という家がそれぞれ、少し大げさに言えば母屋よりも立派な蔵をかならずもっている。遠望してもそれらが際だって見えるくらいなのである。

 一見したところ、この村むらは決して豊かな、つまり農業生産高の高いところには見えない。両側から、比高はそれほどないが山が迫り、耕地は限られ、水田用地も狭い。寒冷の地だから稲作がここまで普及したのもそんなに旧くなく比較的最近だろうと思える。おそらくはもともと、畑作や林業が主な生業だったのではなかろうか。因みに「越後上布」の名で知られる織布の原料「からむし」(チョマ)は、この村の特産で、その栽培のやりかたはまさに焼畑そのものである。こういう山間のあちこちの村むらでつくられた繊維が集められ加工され「越後上布」の名で献上されたりしたのであろう。

 すなわち、この限られた、しかも気候的にも厳しい土地からのあがりは決して豊かなものではなく、その生産高は逆にそこに住める人間の数を規定してしまうと言っても言いすぎではあるまい。実際のはなし、この村の役場の経済課長(この人がまた先号、先々号で紹介したT氏のような人物なのであるが)によれば、この村の適正人口は三千人(正確な数字は忘れた)ぐらいであるという。そのくらいなら、自前でなんとか生きてゆけたのだそうである。つまり、そのくらい厳しい生活条件なのである。余剰物、ましてや財産が残るなどとはとても思えない。

 にも拘らず蔵がある。しかも全ての家に蔵がある。

 これは、私が勝手に思いこんでいた蔵というものに対しての考えかたと全く相容れないことである。なぜこの貧しい村の家々において蔵が立派なのか。

 あらためて考えなおしてみて、そして話をきいてみて、それが至極当然であるということに気がついた。それは、食糧の備蓄のための倉庫なのである。このごろまた起きているけれども、ほんとについ最近まで冷害はこの地方ではいかんともしがたい現象として年中行事のように起きていた。従って、来年の収穫までの食いぶちは当然として、更にその翌年の一年分までを最低限保持することが、この土地で生きてゆくためには必要なことだったのである。余剰物をしまうのではない、必需品をしまっていたわけで、この土地で暮してゆくための、絶対に欠くことのできない建造物だったのである。(いまは?空っぽである。)それに暮しがかかっているから、自ずとそれは立派になる。

 そのように気がついたとき、蔵というものを単に一般的な意味での倉庫とみなして済ましていた自分自身のあほらしさにも気がついた。確かに倉庫であることに何ら違いはないのだけれども、それだけの理解では十分な理解ではないのである。単なる倉庫という分類法に従うならば、町なかの蔵も、この村の蔵も、皆同じものになってしまうのだが、そして私たちが通常多く見ているのは町なかの商家のそれであるが故に、あるいはまた豪農の家のそれであるが故に、蔵というとすぐに、なんとなく蓄財の象徴のように見てしまうようになってしまうのである。

 考えてみれば自明なことなのだが、しかしとかくそれを忘れ勝ちなのだが、一つの建物をつくるという大変な営みをするにあたって、単に、家というものには一般的に収納場所としての倉庫が必要である、などという安易な発想でそれがなされるわけがない。もっと具体的な彼らの日常に直に結びついた発想のなかからつくられるのである。極端なことを言えば、毎年毎年何の苦もなく食いぶちの得られる場所に住みついた人たちには、この村のような蔵をつくるという発想は、どこをつついてもでてきはしないはずである。そして逆に、この村のような厳しい村々には、単なる富の象徴のような蔵ではなく、まさに生活そのものの表われとしての蔵が存在するものと思われる。

 いま、会津盆地の北方、喜多方(これは「北方」によき字をあてたのだそうである)が蔵の町として観光的にもてはやされだしているけれども、実は盆地のいたるところで私たちは見事な蔵を目にすることができる。喜多方は碓かに商家が多いけれども、盆地のなかのほとんどは農家のそれである。しかし見る人の多くは、専門家も含め、有名になってしまった町なかの蔵にばかり目がゆくから、どうしても蔵づくりすなわち富の象徴的理解で終わってしまうのである。例えば、いわゆる土蔵づくり(土塗壁でくるむ:骨組みは木造である)は防火のために発達したというような説明をよく耳にするが、この村の蔵:これも土蔵づくりである:の場合などは、家と家の間は大分はなれていて、防火上の配慮とは思えない。壁は土塗だが、屋根はかやぶきなどというのさえある。土蔵づくりが防火のために発達したというのは、だから、町なかにおいてのみ言い得ることなのであって、同じ土蔵だからといって、一律の説明で村の蔵まで理解しようとすること自体が既に誤まりなのである。

 

 そして私は、それは全く当然なことなのだが、建物の理解(既存のものも、これからつくるものも)は先ずもって、そこに係わる人々の生活そのものの理解‥‥それはすなわち、「人たちのもつ私の地図」の理解に連なるのだが‥‥この場所で生きてゆく人たちの生活の理解、に始まらなければならないというあたりまえなことを、あらためて、いやという程思い知らされたのである。

 言うならば、地方には地方なりの生活があるという私の考えかたそのものが、未だに観念的、理屈の上のそれであったということであり、私は強烈なアッパーカットをくらったのである。しかし、マットには沈まず、おかけで目がさめ、それ以来、相変らずあちこち歩きまわっているのだが、そのたびに、そこここで見かける蔵が気になってならないのである。そして、見えかたが違ってきていることは、はっきりと説明できるわけでないけれども、確かなようである。それにしてもいままで、私の眼は、いったい何を見ていたのだろうか。

 

 この村のほぼ中央に、もうぼろぼろの、しかし決してとりこわせない、正確に言えば、もうしばらくの間とりこわせない、強いて呼ぶならば「集会所」と呼ぶしかない木造の建物があった。補助金をもらって公民館として建て替えることはできるのだが、それはいまはできない。とりこわす気になれないからだという。なぜか。

 これは、先に書いた、この村の適正人口と深く関係する建物なのである。と言っても未だ分りにくいかも知れない。

 実際にこの村では、その昔(つい最近まで)人口をこの適正人口におさえる策がとられていたのである。すなわち、結婚は長男(男がいなければ長女:養子をもらう)しか認めなかった。娘は必死になって嫁入り先を探し嫁がせる。しかし、二男、三男は、本人の意志で二男、三男になったわけでもないのだけれども、全く運命的に一生言うならばその家の下男同様の生活をして過ごすのだそうである。長男が嫁をもらったあと、彼らは夜はもちろんのこと、家に居づらくなる。(いわゆる大家族的な家族が一軒の家で生活していたのである。だから家一軒が、白川郷ほどではないが、それに少し似たところもある大きな小屋裏のあるつくりになっている。)そこで、昭和の初めころであったか、各家の、夜居づらくなった似たもの同士が集まって、夜を過ごす集まり場所をつくろうということになり、役場へ、土地を提供してくれ、そうすれば小屋は自分たちが廃材などを工面して自前でつくるからと申しでた。そして土地があてがわれ、かの集会所ができたのだそうである。

 これは、なみの集会所ではない。彼ら二、三男たちの生活必需品であったわけなのである。この運動への参加のしかたは、各人の立場に応じて、現物提供、金の提供、技術提供、労力提供といった具合にいろいろあったとのことであった。いまでこそ碓かにこういう非人間的二、三男の生活はなくなったようだけれども(そうは言っても分家できる土地があるわけではないから、村の外:多く都会へ出る:で農業以外で働くことになる) しかし未だ、この設立に係わった人たちが健在である。もういまは用がないからといって、この建物をとりこわすなんて、同じ村の人間として、とてもじゃないが忍び難くてできはしない、そういうわけなのであった。材の一本一本に、彼らの切ない想いが浸みこんでいる、こういう話をきいたあとでは、ただのぼろぼろの一軒の小屋が、よそものの私にさえ、言うならば神聖なものに見えてきだ。これもまた、私の観念的理屈にとって、十分すぎるほど衝撃的であった。

  おそらく村々のたたずまいというものは、いや人々が自らの生活に根ざしてやってきたということは、こういう具合に「昔」をひきずりながら、変り、成りたってきたに違いない。

  私たちが目にするものは、そういった一つのものができあがる過程、そしてできあがったものに対して人々が対してきた過程、この全過程を背後に秘めたものなのであるが、残念ながら.この過程は決して目に見える形では存在しない。それは、いかんともし難く、そういうものだ。しかし、私たちは、目に見えるものの背後を、目に見えるものを見ることを通して、なんとかして見なければならないのだ。けれどもこれは、理屈では分かっていても、言うやるでは大違いなのである。そういった意味で、この昨年夏の経験は、私の太平の夢破るできごとであった。

 

 ところでいま。私たちのまわりでは、いろいろな種類の「公共建築:施設」がつくられている。社会のニーズをとらえてだとか、建物の使われ方の研究の結果、だとか称して、それらがつくられてゆく。私はいまここに書いた村の二、三男の集会場はまさに「公共建築」のつくられかたのーつであると思うのだけれども、そういった意味での生活の必需品としての発想で、ニーズ使われかたも考えられたことがあるのかどうか、はなはだ疑問に思う。専門家に見えているのは、彼ら自らの表現にいみじくも示されているように、それは建物の使われかたなのであって、決して人々の使いかたなのではなく、そして、仮に人々を彼らが気にしたとしても、そのときの人々人一般としての人々であって、このこの村の人々では決してないのである。

 彼らが何故使われかた見ようとするかと言えば、おそらくそれは簡単な理由による。使いかた言うとき、そこには必らず使う主体としての「個人」が存在せざるを得なくなるからである。そんな具体的にして生身の人間は扱えないということだ。そんなことをしたら、客観的:科学的であるべきことがらが、そうでなくなってしまうと愚かにも(と私は思うのだが)信じこんだか、信じこまされているか、そのどちらかだからである。

 こういう専門家には、決してこの村の二、三男の人たちのニーズなどは分らないだろう。私たちは、こういう人たちを専門家としてあがめていて、はたしてほんとによいのだろうか。そして、いったいだれが彼らに専門家の称号を与えたのであったろうか。生身の私たちが、その称号を与えた覚えはないはずで、いつの間にか彼ら自ら名乗りでたにすぎなかったのではなかったか。彼らから専門家の称号をとり去ったとき、そこにはなにも残らない、ことによると生身の彼自身さえもないかもしれない、そうだからこそ専門家という包み紙に固執するのだと言ってよかろう。

 同じ専門家でも、昔の職人たちのもっていた意識と、そこのところは根本的に違っていると見てよいように思う。彼らは専門家である前に、先ずもって一人の人間であった。いま専門家は、言ってみれば、論語読みの論語知らずであって、ほんとのことを知ろうとしない。一人の人間である前に、先ずもって専門家になり下ってしまっているわけなのだ。どう考えたって、それではさかさまなのだ。

 そして、理屈の上では、私はこうありたくない、そう思い続けてはきたのであったのだけれども、この昨年夏のS村訪問で、未だに悪しき習癖がぬぐい去られていない自分を、あらためて思い知らされたのであった。

 

 私がこの通信文を書いていたとき、新聞に、加藤周一氏のスタインバーグ(風刺的、諧謔な絵を描く)との会見をもとにした一文が載っていた。(11月10日付朝日新聞夕刊「山中人間話」)そのなかの一節が、私にとって印象的であったので、それをここに再録して、今月は(今年は)終わりにしよう。

 『・・・・の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、‥廊下を‥歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも、殊にニューヨークでは、極めてむずかしいことだろう。

 「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。「幸いにして」と私が応じると、「幸いにして」と彼は繰り返した。』

 

あとがき

〇一年間、と言っても四月からだけれども、拙い私の文をお読みいただき、しかも無理にお読みいただいたわけで、ほんとにうれしく思っている。

〇また、手紙や電話、そして時には筑波に来られた折に、いろいろとご意見やご批判をいただくことがあり、それもほんとにうれしいと思う。そんなとき、はじめのうちいったいどうなることか、自分自身でもわからなかったのだけれども、やはりやってよかったと思うのである。いまや、この通信をだすことが私のペースメーカーになってしまった。大学教師という太平の夢をむさぼるわけにゆかなくなってしまって、言ってみれば楽しいのである。もっとも、その私の勝手を読んでもらおうというのだから太平楽なはなしなのだが。

〇私は(昔から)文章はうまくない。ときには、十分な説明を端折ってしまうようで、その都度、途中が抜けているというおしかりをうけることがしょっちゅうあった。その途中の説明こそが大事なんじゃないか、というわけである。大分気をつけているつもりではあるけれども、なかなかなおらない。

〇私はいま、あらためて、私はなんて素晴らしい人たちとつきあってこれたのか、という変な感慨を抱いている。この人たちは皆決して有名ではない。けれども皆、自分を生きている。そして、それが一番専門家にとって怖いことだということを、数多くのこの人たちの日常によって見せてもらってきた。だから、私はこの人たちに信頼を抱く。この人たちに学ばねばならないと思う。そして、そのそれぞれの間題を、またそれぞれなりの問題に対する対しかたを、互いに知るべきだと思う。だから、この通信の役割の一つとして、今後更に、七戸のT氏の例のような話を紹介しようかと考えている。それは、私にとっても貴重な学習になる。

 〇七戸から便りがきた。例年になく、もう白一色だという。私はその普、雪の実態を知りたい、などとかっこいいことを口走ったおかけで、雪の積った小学校の建設予定地を、これでもかと言わんばかりに、吹きだまりに身を没したり、転んだり、徹底的に、T氏に引きまわされたことを思いだした。ロマンチックに考えるなよ、そういう思いやりのようであった。

 〇筑波大学というのは、やはり余程悪名高いらしい。筑波大学にいる人がこんな内容の通信をだすなんて、という感想がきこえてくることがある。しかし、私のやっていることは、別に筑波大学という包装紙とは関係ない。教師の場面で突然筑波大学の包装紙を被るわけでももちろんない。問題は、個々人が何をするかだけだと思う。

 〇書く話題が種切れになりはしないかと、一時は本気になって考えたこともあったけれども、そんなことはあるわけがなさそうだ。当分続けられる。

 〇来年も、それぞれなりのご活躍を!

  1981.12.1                       下山 眞司

 


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「1-5 『木』と『木材』の性質を知る」 日本の木造建築工法の展開

2019-03-15 09:24:45 | 日本の木造建築工法の展開

 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「Ⅰー5 木 と 木材 の性質を知る」 A4版10 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

  Ⅰ-5「木」と「木材」の性質を知る・・・・木で建物をつくるために

  最近、シックハウスの解消から地球環境の問題に至るまで、いろいろな角度から、森林木材、あるいは木材の利用についての関心が強くなってきています。 けれども、木材について、かならずしも十分な情報が伝わっているとは思えません。そこで、まず、木材について知っておきたいと思います。

 木材樹木を伐採し、製材してつくられます。樹木には自然成育のものと人工栽培のものがあります。奈良時代の建物では、建設地近くの自然生育の木材が使われていましたが、東大寺の再建の行われた鎌倉時代の初めには、すでに近在には良材がなく、現在の山口県に木材を求めています。  

 現在、わが国の森林は、ほとんど自然林・原生林がなくなり、人工林になっています。しかし、後で触れますが、木材として使える樹木がなくなっているわけではなく、木材として使える樹齢50年以上人工林の樹木が、私たちの手近な場所に、しかも大量に手付かずにあります。

  ヒノキ・スギの人工林(30~40年)

 樹木には、大きく分けて広葉樹針葉樹があり、日本の建物には針葉樹(スギ、ヒノキの類)が使われるのが普通ですが、西欧では広葉樹(カシ、クリ、ナラ、など)が多いようです。

 スギやヒノキはほとんど垂直に成長するため木目もまっすぐですが、広葉樹は曲がりくねって成長するのが普通で、製材した木材も曲がっています。これが、  頁の西欧の建物のようなつくりかたを生んでいるのです。ただ、わが国でも農家の住宅などには、下の写真のように広葉樹を使う例も多く見られます(17世紀末建設の広瀬家。山梨県塩山。現在、川崎市立日本民家園)。また、後にはケヤキが使われるようになりますが、その場合は、まっすぐに加工するため、大きな径の樹木が必要で、堅いケヤキを扱える道具も必要でした。

   

 柱や梁はクリ材 旧広瀬家(日本の美術 №60)        垂木が円形の新薬師寺本堂内部(日本の美術 №196)

 

 日本の古代文化に影響を与えた唐は、中国大陸西北部の黄土高原が中心です。この地域の木材は、広葉樹の楊樹(ようじゅ)が主で、屋根を支える垂木(たるき)に楊樹の丸太を使うことが多く、中国の技術にならって建てられた奈良時代初期の柱や梁はクリ材 期の建物に、円形の垂木を使った例があります。中国の様式にならうため、角材をわざわざ円形に仕上げたのですが、後になると、日本の木材にあった方法に落着きます。

 同じ木造の建築でも、それぞれの地域には、その土地特有の樹木を使った、その地域の暮しに適したつくりかたがあるのです。                   

 現在、わが国には、第二次大戦後植林された多量のスギ、ヒノキなど針葉樹を主とした人工林が、材木として使える樹齢に達しています。しかし、大量に輸入される安価な外国産材(ほとんど自然林、原生林の伐採材)に押され、日本の環境に適した国産材の利用は目だって減ってきています。

 人工林は、下草刈りや間伐などの日常的な手入れが必要です。わが国の人工林の多くが山地であるため、手入れには大変な労力がいりますが、木材としての利用が減ったため、手入れもされずに放置されている人工林が増えています。これが国産材の一層の利用が叫ばれる一つの大きな理由です。 

 

 1.樹木の成長の仕組み・・・・樹木は生き物

 樹木は、樹皮とその内側の形成層木部から成っています(下写真)。形成層とは、樹木の成長している部分です。形成層は樹皮のすぐ内側の厚さは数分の1mmほどの薄い層です。木部は、辺材(へんざい)と呼ばれる外側の部分、心材(しんざい)と呼ぶ内側の部分からなります。

 製材された板などを見ると、白い部分と赤味を帯びた部分があります。白い部分が木部の樹皮側の場所:辺材で、白太(しらた)と言い、赤味を帯びた部分が木部の芯に近い:心材で赤身(あかみ)と呼んでいます。                                 

    

約100年生のヒノキ                      隆寺中門の列柱 捩れた木理にそった割れ

 樹木は根から養分・水分を吸収し、辺材を上昇して葉に至り光合成で新たな養分に変り、樹皮部を降下して形成層に供給され、細胞がらせん状に増殖します。そのため、製材後、材が捩れる原因になったり、右の写真のように、らせん状の捩れた木理が現れる場合もあります。

 また樹木の成長は季節によって度合いが違うため、日本のように四季のある地域では、1年間の成長の幅を、はっきりと読み取ることができます。この1年間の成長の幅を年輪と呼んでいます。成長の幅は、暖地では広く、寒地では狭く目がつんでいます。目のつんだ材の方が、強度的には強いようです。四季のない地域の樹木では年輪は見られません。

  樹木の細胞は、幹の方向:軸方向に長い細胞と、幹の径の方向:放射方向に長い細胞に分けられますが、針葉樹では、軸方向に長い細胞が95%を占め、広葉樹では80% 程度です。                                             

 ヒノキ・スギは30~40年生で直径が30cm程度、高さは10mを軽く越えます。このような細い樹木が、苛酷な自然環境の中で強風などでも折れずに立ち続けることができるのはなぜでしょうか。針葉樹の軸方向の細胞の大きさは、一個の直径は数十μ(ミクロン:1/1000mm)、長さは数cmで、幹の軸方向に細いストローを束ねたように並んでいます。風などで簡単に折れてしまわない理由は、こういう組織が備えている特性にあります。

 つまり、樹木の組織には、常に、外周側:樹皮の側では幹を締め付けるような力が、上下方向では引っ張りあう力が蓄えられています。強風で幹が曲がろうとするとき、このあらかじめ蓄えられている力で抵抗して、簡単には曲がらず、よほどのことがないかぎり折れることもありません。樹木を鋸で切ろうとしたとき、抵抗を受けるのもそのためです。

 そして、樹木を伐採し製材すると、樹木の各部に蓄えられていた力が解き放され、製材した木材に収縮捩れなどを起こす原因の一つになります。

 木材は、鉄などのように均質ではなく、部位によって性質が異なり、さらに環境に応じて変動するのが特徴で、木材を利用するときには、この特性に十分注意しなければならないのです。

 

 2.白太、赤身の違い

 樹木を構成している細胞の殻:細胞壁は、高分子化合物でできていて、環境の変化に応じて、分子のレベルで水分を吸収したり、放出したりしています。この水分のことを結合水と呼んでいますが、生きている樹木の細胞は、最大で、乾燥したときの木材の重さの30%にあたる大量の水分結合水を吸収できると言われています。特に、根からの水分・養分が通る辺材:白には、水分:樹液が多量に含まれています。下の写真は、薪用に伐採され、まだ乾燥していないアカマツの丸太ですが、辺材:白太部分にはたくさんのカビが生えていて、水分・栄養分が多いことが分ります。 

 辺材:白太には養分が多いので、カビが生えている     

 樹木が成長すると、若いころに成長した形成層は活動をやめ、細胞の抜け殻が残ります。この部分が心材:赤身で、赤味を帯びた色は、細胞をつくっていたセルロース、リグニン、タンニンなどによるものです。

 心材:赤身の細胞の抜け殻の空洞には、自由に水分が入り込みます。これは普通の水で、自由に吸・放出を繰り返すので自由水と呼ばれます。しかし、この部分は養分が少ないため、上の写真のようにカビもあまり生えません。

 白太赤身に含まれる水分の量を含水率で示した のが下の表です。  

  

 含水率については後で説明しますが、含水率が大きいと、含まれる水分量も大きいことを表します。 

 

 
 3.木を乾燥するとは、どういうことか・・・・木材の生態

 木材を使うときは、よく乾燥した木材を使うことが大事と言われます。しかし、木の乾燥について、一般に正しく理解されていないように思われます。伐採した樹木を放置すると、最初に心材:細胞の抜け殻に入っていた自由水が蒸発し、自由水が全部蒸発し終わると、辺材に含まれている結合水が蒸発を始めます。

 そのまま放置を続けると、外気中の水分と樹木の中の水分が平衡の状態になり、結合水の蒸発がとまります。これが、樹木を自然乾燥させたときの状態で、気乾(きかん)状態と呼びます。伐採した樹木を1年間放置すると、気乾状態になると言われています。

  しかし、気乾状態のときでも、木材に含まれる水分量は、年間を通して一定ではなく、季節や周囲の状況により変動します。逆に言うと、周辺の環境の湿度を調節しているのです(調湿機能(ちょうしつきのう))。

 木材は、季節や置かれた環境により含水率が異なり、しかも樹種によっても、また同一の樹種でも1本ごとに異なり、同一のものはありません。これも、鉄などと大きく異なる点です。 樹種別の平衡状態の含水量の年間の変化(平均値)を調べたのが下の表です。 

   

 衡状態になった木材を、さらに人工的に乾燥し続けると、含まれる水分は0になります。この状態を全乾(ぜんかん)状態絶乾状態)と言います。しかし全乾状態を保ち続けることはできず、普通の環境では、全乾状態の木材は空気中の水分を吸収して、平衡状態に戻ります。樹種によりますが、平衡状態の含水率は15%前後と言われています。けれども、常に一定なのではなく、上表のように、季節で異なるのです。 

 自然乾燥天然乾燥とも言います)をしても人工乾燥をしても、普通の環境の下では、決して木材中の水分が0になることはなく、しかも含まれる水分の量も年間を通じて一定ではなく、置かれた環境に応じて増減している、水分の吸・放出を繰り返すのが木材の重要な特性なのです。

 この木材特有の性質を妨げると、たとえば、外気との自由な接触を途絶えさせたりすると、重大な問題が生じてしまいます。そして、この点についての理解が最も不足し、誤解も多ように思われます。

 

 4.木材の含水率とは?

 では、木材の含水率とはどういうものなのでしょうか。

 重さが100グラムの木材を、全乾状態にしたら80グラムになったとします。ということは、水分が20グラム含まれていた、ということです。普通の感覚では、100グラムのうちの20グラムだから20%、と考えますが、実はそうではありません。木材の含水率の定義は特別なのです。木材の含水率は、含まれていた水分の量が、全乾状態:カラカラの状態の木材の重さの何%にあたるか、という表し方をします。

この例では、水分20グラムはカラカラの木材80グラムの4分の1ですから、含水率は25%ということになります。

  

 

 5.木材の経年変化・・・・・老化、風化

  老化、風化とは、木材自体にかならず生じる経年変化のことを言います。

 1)老化 木材も人間と同じように、時が経つと老化します。老化とは、酸化や熱の影響で、材料の内部に起こる材質の変化のことを言います。老化の速度は、材料:樹種によって異なります(下図)。

 ヒノキは、伐採後およそ200年間は強度が上がり、その後はほとんど強度に変化がないと言われています。この傾向は、ヒノキに限らず針葉樹に共通の性質です。これに対して、近世になって多く使われるようになるケヤキは、当初の強度はヒノキの2倍程度ありますが、経年変化が大きく、およそ500年で1/2~1/3程度に強度が落ちてしまうと言われています。 この違いは、細胞の接着剤の役割をはたしているリグニンの構造が、針葉樹と広葉樹では異なることによるようです。

 いずれにしろ、通常の場合、老化現象だけで木材、木造の建物の寿命が尽きることはなのです。たとえば、建設後800年以上経った東大寺南大門は、大半が当初材(ヒノキ)のまま現在も健在です。

 2)風化  無垢の木材を表しにした建物は、木部が数年をまたず黒っぽい茶色に変ってきます。これは、木材が陽に焼けた結果です。 建物の外壁に張られた板などで、木目がはっきりと出ているのも風化によるものです。わが国の多くの古建築が黒っぽい茶色をしているのも同様です。 

  風化とは、材料自体ではなく、材料をとりまく環境:紫外線、熱、水、酸素などの影響により材料の表面が変化すること言います。風化による変化の量は、昔から、ヒノキなど針葉樹の場合、「百年一分」と言われています。100年で1分、つまり3mm程度風化する、という意味です。したがって、通常の場合、風化だけで木材の寿命、木造建築の寿命が尽きることはなのです。

  なお、無垢の木材の風化、色が変ることを避けるため、塗装をかける場合がありますが、塗り替えを頻繁に行なわないと、その状態を維持することはできません。古代の寺院でも、当初は朱色に塗ってあっても、塗り替えが行なわれなかった場合、塗装がはげてしまい、塗装をかけない建物と同じように黒っぽい茶色に変っています。

  なお、古代の建物に使われた塗料は、材料の表面に皮膜をつくりませんが、現在使われる塗料の多くは皮膜をつくります。この皮膜はある程度紫外線や酸素の影響を防ぐ効果はありますが水を完全に途絶することはできないため多少でも皮膜内部に侵入してしまった水は外に逃げにくいので木材の腐朽の原因になります塗装は最低3年に一度は塗り替える必要があると言われるのはそのためなのです。なお、最近は、皮膜をつくらない浸透性の塗料も開発されています。

 腐朽虫害も経年変化の一つと考えられがちですが、木材の老化風化は避けることができないのに対して、腐朽や虫害は避けることができますから、同じに考えることはできません。

 

(Ⅰー5. 6に続きます。)


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「Ⅰ-5.6」 日本の木造建築工法の展開

2019-03-15 09:24:12 | 日本の木造建築工法の展開

 (Ⅰー5. より続きます。)

 

 6.木材の問題点・・・・腐朽と虫害、収縮・捩れ・干割れ、耐火性

1)腐朽と虫害・・・・木材の特徴を知れば、腐朽と虫害を避けられる

 一般に、木材は含水率が20%を越えると腐りやすくなると言われています。けれども、縄文時代や弥生時代の掘立柱の根元が、各地で数千年、腐らないで地中から発掘されています。

     

 上左の写真(鈴木嘉吉著 古代建築の構造と技法 より)は、8世紀につくられた平城宮の掘立柱の地中に埋まっていた部分です。地中は水分が多いため、当然木材の含水率は20%をはるかに越えているはずです。 

 では、なぜ掘立柱の根元は腐らなかったのでしょうか。

 木材が腐るとは、木材を構成している細胞が、腐朽菌と呼ばれる一群の菌類によって分解されること、木材の組織が菌類によって食べられてしまうことを言います。腐朽菌は、生きるために、水分・栄養分だけではなく酸素を必要とします。ところが、地中では水分・栄養分はあっても酸素は不足し、地中深くに埋められている木材は腐りにくいのです。

 同様に、水中に打ち込まれた杭も、水中部分はほとんど腐りません。腐るのは、酸素が十分供給される水面のあたりです。コンクリート製品が普及する以前は、建物などを支える杭としてマツやカラマツの杭が使われていましたが、これも地中深くでは木材が腐らないからだったのです。

 上右の写真(撮影筆者)は、およそ30cmの深さで地面に埋められていた生垣の支柱です(物差しは約30cm)。直径約9~10cmのスギの丸太で、立ててからおよそ5年経過しています。線の位置まで地中に埋まっていましたが、地面の上2~3cmのあたりから腐りだし下へと進んでいます。それより上の部分は腐っていません。もっと深くまで埋めてあれば、下の方は腐らなかったと思われます。平城宮掘立柱も、地表に近い方は腐っています。なお、この杭には防腐剤を塗ってあったのですが、その効き目はなかったことが分ります。防腐剤は定期的に塗りなおす必要がありますが、地中では塗りなおしができないため、効きめがなくなってしまったのです。 

 木材の弱点として、腐朽とともに虫害があります。

 最大の虫害は、シロアリによるものです。シロアリには、北海道南部まで分布しているヤマトシロアリと、南日本と西日本南岸に多いイエシロアリがあります(イエシロアリも北上しているようです)。

 ヤマトシロアリは、水分を多く含んだ木材を好み、イエシロアリは地中につくった巣から水分を自らはこびながら木材に侵入し、木材を食料にします。シロアリは腐朽菌と同じような環境:十分な栄養分・水分・酸素:を好むのです(近年、北米産の輸入外材ともに入ってきた乾燥した木材を好む新種のアメリカ カンザイ シロアリが増えつつありますが、これまでの駆除法が効かず、問題になっています)。 

 木造の建物の最大の問題は、いかにして木材を腐朽虫害から護るか、という点にあります。

 最近は、とかく防腐・防虫剤:薬剤にたよりがちですが、薬剤の効果は永久ではありません。定期的に塗布や散布をしなければならず、再度の塗布・散布が不可能な場所では効果がないことは、先の杭の例で明らかです。しかも、大部分の薬剤は毒性が強く、人や動物に対しての副作用があります。

 それゆえ、腐朽・虫害から木材を護る最良の方策は、腐朽菌やシロアリなどが好む環境をつくらないことなのです。木造の建物づくりの歴史が長いわが国では、これら腐朽・虫害から建物を護る工夫が積み重ねられています。

 腐朽・虫害から建物を護る工夫の要点は、以下にまとめられます。

 雨などが建物にたまらないようにする(屋根の勾配を急にする、水はけをよくする、壁に雨をあたらないようにする・・・など)。  ② 空気中の水分が余分に木部に吸収されないようにする(空気が淀む場所をつくらない・・・など)。  ③ 腐朽が避けられない場所は、取替えが容易なようにつくる。 

 これらの工夫の数々、その原理・理屈は、もちろん現在でも活用が可能です。

 

2)収縮、捩れ、干割れ・・・・乾燥材でも収縮、捩れ、干割れは生じる

 木材は樹木を製材してつくります。樹木は、先に触れたように、外周に近い部分と、芯に近い部分では、含まれる水分の量が異なります。しかも、幹の上:梢側と幹の下:根元側でも含まれる水分量に差があります。

 さらに、樹木には、各部に自立を維持するために力が蓄えられています。たとえば外周部には締め付け、引っ張り合う力を蓄えています。製材すると、これらの力は解き放たれることになります。

 これらが複合して、丸太を製材すると、収縮捩れ干割れが生じるのです。木材を乾燥させる目的は、できるかぎり含まれる水分を少なくしてその影響を減らすためです。しかし、すでに触れたように、平衡含水率は常に一定ではなく、環境に応じて変化します。

 つまり、乾燥材は、収縮・捩れ・ひび割れを少なくすることはできても0にすることはできず、収縮・捩れ・ひび割れは必ず発生する、という理解が必要です。

TIMBERDESIGN and CONSTRUCTION より

 上図は、丸太を製材するとき、製材の場所によって収縮の度合いが違うため、製材後の木材に生じる収縮変形を示した図です。また下の写真は、丸太を製材する方法の一つです。樹木のの部分は強さがあるため、構造に使う柱を取ります。この場所でとる柱は芯を含むので芯持柱(しんもちばしら)と呼びますが、樹木をまわりから締め付けていた力が解放されたため、から放射状に割れが入ります(丸太でも30頁の写真のように割れが入ります)。それを避ける方法が、製材のときに人工の割れをつくっておき、収縮をそこに集中させる背割り(せわり)です。 

    

資料提供 丸川木材(株)                 背割りなしの芯持柱 放射状の割れ   背割りを設けた芯持柱

 背割りは柱材に設け、背割り部は、仕上がったとき隠れてしまう場所に向けて使うのが普通です。力がかかる横材:にも、芯を含んだ材を使いますが、背割りは設けません。

 木材は、建物に組み上がった段階で割れが見えなくても、時間が経ってから割れ:干割れが入ることがあります。また、夏季の空気が湿った状態では見えなかった割れが、乾燥する冬季になると表れ、季節の変わり目には大きな音を発することもあります。 

 割れは特に製材した角材に発生することが多く、ほぼ丸太のまま使った場合には、発生は少ないようです。樹木が本来持っている力をとどめているからと考えられます。                                  

 割れ:干割れのある材料は、構造的に弱い、あるいは、干割れが入ると弱くなる、と思われがちですが、むしろ、強度的に優れた材ほど干割れは発生しやすいようです。干割れは、木材が好ましい環境に置かれている証拠かもしれません。

   

 東大寺南大門(角材)の干割れ 奈良六大寺大観より 茨城椎名家 柱の上部の干割れ日本の民家1 農家Ⅰより)

 群馬・生方家 柱の干割れ日本の民家5 町家Ⅰより)

 上の写真は干割れの実例です。東大寺南大門は12世紀末の建設で、使われているは当初の材料のままです。何本かの貫に干割れが見えます。この干割れは、材料自体の収縮によって発生したものです。

 茨城の椎名家、群馬の生方(うぶかた)は、ともに17世紀後半の建設で、材料は建設当初のものです。ここでは、柱に干割れが入っていますが、横材取付き位置から割れが入っていることから見て、この場合は、材料自体の収縮だけではなく、横材を取り付けるために彫られた孔も干割れ発生のきっかけになったものと考えられます。

 日本の建物づくりでは、後に触れますが、長年にわたり、木材の伸縮・捩れ・干割れなどの影響を材料の組み立て方で減らすなどの工夫を積み重ね、技術として集積しています。

  一方、このような木材の伸縮、捩れ、干割れなどを起こさないように、材料の段階で考えたのが集成材です。

  集成材を使った梁

  たとえば、上向きに反るクセのある板2枚を、背中合わせに糊で貼り合わせると、反りの発生が押さえられます。集成材は、この理屈を利用して、薄くひいた板や小さな角材などを繊維方向を互いにほぼ平行にして、厚さ、幅および長さの方向に集成して接着したもので、通常の木材(無垢(むく))に比べて、強度や性質がほぼ一定になることから、鉄骨などと同じように扱うことができ、大きな木造構築物などで利用が広まっています。

 また、柱などを壁で被うつくり方(大壁つくり)、特にボード類を下地にして壁紙を貼るつくり方では、下地にわずかな伸縮が生じるだけでも壁紙の剥がれにつながるため、住宅メーカーの木造軸組工法による住宅では、集成材による軸組が増えています。

 集成材は20世紀の初めにスイスで開発され、接着剤の改良とともに欧米で使われるようになりますが、日本で使われ始めたのは1960年代、法令上使用が認められるようになったのは1987年以降のことで、歴史はまだ数十年です。なお、合板集成材の一種と考えてよいでしょう。

 合板と同じく集成材には、有機溶剤を含んだ接着剤が使われるのが普通で、接着剤の耐久性と対人毒性、廃棄材の処理(燃焼時の発生ガス)などが、検討しなければならない課題として残されています。

 

3)耐火性

 木材は、樹種にもよりますが、250~260℃程度で着火すると言われています。しかし、柱や梁などの断面の大きい木材が着火後完全に燃え尽きるには相当の時間がかかります。

 木材は比重が軽いほど熱伝導率が小さく、片面が熱せられても、反対側へは熱が伝わるまで時間がかかります。国産材で最も比重が小さいのはです。箪笥にが使われたのは、その湿気を調節する性質(調湿性)とともに、熱が伝わりにくく中まで燃えない性質を知っていたからだと思われます。

 

 また、木は燃えだすと、表面の内側に炭化層ができ、炭化層は熱を伝えにくい性質があるため、上図のように内部への燃焼が進みません。木造建築の火災の焼け跡で、黒焦げの軸組が残っている場合が多いのはそのためです鉄骨造火災では形が崩れてしまいます)。 

 最近では、大きな断面の集成材を使う建物などでは、火災のとき直ちに軸組が倒壊しないように、構造上必要な寸法よりも太めにする「燃えしろ設計」が薦められています。

 同じように、以前は防火のためには、軸組を全面防火性能のある材料で被覆する必要がありましたが、現在は柱や梁を表に表わす真壁づくりでも、壁が一定の防火性能があれば、防火性能が保てると考えられるようになっています。 註 現在の建築基準法では、木材の性質・性能を一定の数値で規定しています。そしてまた、一定の数値に規定しやすい集成材も推奨しています。

  しかし、ここで見てきたように、木材は同一の樹種でも、また同寸の材でも、ことごとくその性質を異にし、性質・性能は一定ではありません。それが木材の特徴にほかならないのです。 このような法規の措置は、あくまでも数値処理を容易にするための便宜上の方策であり、実際の状態には即していません。

 木材が均一ではないのは、その母体である樹木が、人間と同じく生物だからです。そして人間社会に於いても、為政者の都合に合うように、人間を鋳型で定型化しようとする策がしばしば採られてきました。木材に、均質・均一を望むことは、無意味、というより、本来あり得ないことを望むのと同じです。

 

 長い歴史をもつ日本の木造建築では、木材の性質を一律のものとしては扱ってはいません。木材をありのままに扱い、むしろ、性質が一律ではないことを利用・活用してきました。

 たとえば、木材は、いかなる乾燥材といえども、かならず捩れたり反ったりするクセがあり、しかもそれは一様ではありません。そのクセを材料ごとに取り除くことは不可能ですが、それを組み合わせることで、互いにクセを相殺(そうさい)しあって、全体としては問題のないようになることに気付いています。

 各種の継手・仕口の考案は、一つには、こういった現象に気付いたことから為されたと考えられます。

 

 竣工後時間の経過した建物を、各部材に解体すると、抑えられていたクセが現れることがよくあります。梁などでは、解体で捻れが表れ、修復時に仕口が合わなくなることもあります。古材を利用する際の留意点の一つです。 

 


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「Ⅰー4 建物を木でつくる」 日本の木造建築工法の展開

2019-03-15 08:57:03 | 日本の木造建築工法の展開

 「日本の木造建築工法の展開」   

  PDF「Ⅰー4建物を木でつくる」 A4版3頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

  Ⅰ-4 建物を木でつくる・・・・木でつくるのは日本だけではない

  わが国の建物は、はるか昔から、庶民の住まいも寝殿造も、社寺、城、商家や農家の土蔵なども、ほとんどすべてが、柱と横材:梁・桁:を組み合わせてつくる方法でつくられてきました。

 この方法は最初に柱と梁・桁で建物の骨格:軸組(じくぐみ):をつくるため軸組工法と呼ぶのが普通です。  わが国の軸組工法は二千年近い歴史があり、固有の風土に応じて大きく進化発展してきています。 

 通常、軸組工法、① 最初に建物の骨格をつくり、② 次に屋根をかけ、③ 骨格:軸組の間に壁や出入口や窓:を設ける、という順番で仕事が進みます。屋根が先行するため、雨の多い地域に向いています(2×4工法:枠組工法やログハウス工法は、壁部分をつくった後でないと屋根工事ができない)。

  軸組工法は、アジアでは中国大陸など、西欧でもイギリス、ドイツ、スイスなど、森林に恵まれた地域で普通に見られる建て方です。下の写真はその一例です。 

  

中国・四川省の住居(建設時期不明)老房子(江蘇美術出版社)より   スイスの町家(18世紀)Fachwerk in der Schweiz (Birkhauser )より

 

  

 イギリス ケント州の農家 (中世後半) 同左 茅葺の例 The Medieval Houses of KENT (Royal Commission on The Historical Monumennts of England )より

 軸組工法では、壁を軸組の間に多材を埋める方法でつくるため、多くの場合、国や地域によらず、写真のように、軸組:柱や梁・桁をそのまま表に表します。 

 これを、真壁(しんかべ)(芯壁)仕上げと呼びます。

 日本の城郭や土蔵なども、外部では軸組が見えませんが、内部では柱や梁が表しになっています。 なお、アルプス山麓の地域には、下のようなログハウスが多く見られます。写真は ALTE BAUERNHAUSER IN DEN DOLOMITEN(CALLWEY)より

 

 現在、わが国でつくられている木造建築には、軸組工法の他に、「2×4工法:枠組工法」「パネル工法」「ログハウス工法」があります。

 「2×4工法:枠組工法」「パネル工法」は、日本でつくられるようになって半世紀足らずです。 「ログハウス」は、類似のものに、東大寺・正倉院に代表される古代の校倉(あぜくら)があります。なお、柱と柱の間に、軸組の工事とともに厚い板を落し込んで壁をつくる「落し板工法」がありますが(原理的には真壁の一工法です)、この場合は、屋根を架ける前に壁が仕上がるため、「2×4工法」「パネル工法」「ログハウス工法」と同様に、工事中の養生が必要になります。        

  現在、軸組工法は、「在来軸組工法」あるいは略して「在来工法」と呼ばれ、一般には、「現在の建築基準法が規定している木造軸組工法」のことを指しています。

 しかし、「在来」の語は「これまで行なわれてきたことすべて」を指すように受け取られるため誤解の因になっています(語の本来の意味では、桂離宮は在来の工法でつくられている、と言うことができますが、しかしそれは「建築基準法」の規定する工法ではありませんから、そこに大きな誤解が生じてしまいます)。そこでここでは、柱と梁・桁で軸組をつくるという工法の特徴を示す軸組工法と呼ぶことにします。註 「伝統」という語も多様な解釈がされているため、誤解を避けるために、ここでは使いません。

 最近、日本の木造住宅、とりわけ軸組工法の家屋は、欧米に比べて寿命が短く、その長寿命化が必要だ、あるいは2×4工法に比べ耐震性や省エネルギーの点で劣るかのように言われています。 それとともに、木造建築:軸組工法のつくりかたについて、数多くの情報が飛びかい、木造の建物のつくりかたや考えかたに混乱をひき起こしていると言っても言い過ぎではありません。

 Ⅰ-0で見たように、日本は、古来、多雨多湿で、さらに頻繁に地震や台風に見舞われる独特の環境にあります。それゆえ、そのような環境に応じた暮し方、そのような環境に適した建物づくりについて、考え、工夫を積み重ねてきた長い歴史があり、技術にも多くの蓄積があります。

 残念ながら、世の中に流布されている木造の建物についての情報は、この長い体験で培われた技術の蓄積を踏まえているとは言い難いのが現状です(「はじめに」で紹介した論考で桐敷真次郎氏も言われているように、建築基準法自体も技術の蓄積を踏まえてはいません)。

 桐島氏は「日本建築といっても、社寺と住宅とは異なるし、住宅といっても、本格的な書院造や民家と、貸家・建売り・バラックの類とはまるで違う。しかし、・・・・建物の維持管理には一定の通則があるようで、毎年の点検、10年毎の小修理、30~50年毎の大修理、100~300年で解体修理というのが一般的な手入れの仕方である。社寺・宮殿のような文化財建造物でも、ほぼ似たような数字があげられている。ていねいな維持管理をすれば、木造建築の寿命もかなりのものとなるのである」と述べていますが、実際、寺社建築には、法隆寺伽藍に代表される1000年を越えてなお健在の建物が多数あります。

しかし、法隆寺の場合は、当初の建物が現在まで保たれているわけではなく、何度も修理・修繕が行われ、多くの部材は古式を継承して取替えられています。一方、東大寺南大門のように、ほぼ建設当初の材のままで800年以上も健在の例もあります。いずれも多くの地震に遭ってはいますが、倒壊・損壊するようなことは起きていません。

  住宅には1000年を越えた例はありませんが、古井家など、各地に数百年以上暮し続けられた住居がときどきの暮し方に応じて改造・修繕を繰り返しながら、多数現存しています。 それゆえ、木造軸組工法でつくられる建物は寿命が短い、というのは正しくはありません。

 下図は、先に紹介した15世紀末に建てられた古井家の間取りの変遷図です。 古井家は代々、改造を繰り返しながら約400年間暮してきました(「修理工事報告書」より転載)。

 この建物では、長手(桁行)方向の二通り五通り八通りと、短手(梁行)方向のろ通りに通りち通りを通り、そしてか通りが主要な構造のため、改造工事では手をつけていません。

 江戸時代:元禄(17世紀末)の改造ではおもてちゃのまにわ内に並んでいた柱を取り去る大工事がされていますが、主要な構造には変更がありません。以降の改造のときでも同じです(2番目以下の図)。

 このように、当初の建物に改造を行い暮し続けることができた理由として次の3点が挙げられます。すなわち① 地業(ぢぎょう)(地盤整備、基礎)に留意している。 註 地業(ぢぎょう)は、古くは地形 ② 当初の建物の架構が簡潔な形で、なおかつ、立体になるように組まれている。 ③ 「主要な架構」と「空間の使い分け:間仕切りの位置」が対応している。 ④ 改造・修繕が可能な工法でつくられている。

 つまり、これらのことは、木造で丈夫で長持ちする建物をつくるには、この条件を充たすこと必要である、という事実を示しているのです。このように改造しながら暮し続けることは、木造軸組工法以外の工法では先ず不可能です。 石造や煉瓦造、RC造はもとより、木造でも2×4工法、ログハウス工法は、一旦仕上がった建物の改造は簡単にはできません(軸組工法でも落し板工法も同様です)。

 つまり、改造・改修・修理によって長く使えるのが、木造軸組工法のおおきな特徴なのです。 ただし、建築基準法の規定する木造軸組工法では、改造・改修・修理は簡単にはできません。

 木造軸組工法のこの特徴・特性を十分に活用するには、主要材料である木・木材についての適確な知識を身につけている必要があり、日本の建物づくりにかかわってきた人びとは、その幾多の経験により、この知識を十分に見につけ、活用しています。 

 


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「七戸物語(その2)・・・・ふるさとは一日にしてなるか」  1981年11月

2019-03-07 20:17:52 | 1981年度 「筑波通信」

 

                                                                                                              設計 東京大学吉武研究室

PDF「筑波通信 №8」1981年11月 A4版16頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

   

      七戸物語(その2)‥‥ふるさとは一日にして成るか‥‥  1981年度「筑波通信 №8」

 いったい私たちにとって、暗やみとは何なのだろうか。

 私たちは、七戸に着いた夜まさに文字通り手厚い歓待を受けたのち、その日の宿舎だという「青年の家」へ向った。ただ「青年の家」とだけしかきいておらず、それがどこにあるのかも分らないまま、先導の車のあとを追うようにして暗やみのなかをついて行くしかなかった。道は暗い木立ちのなかをぬけ、国道をはなれ、右や左へ微妙に曲りくねり、ついに私は道を頭に刻みつける作業を断念した。もうそれこそ必死に尾燈のあとを追うだけである。道は低湿地に入ったらしく、筑波の近郊と全く同様にときおり強い霧がたちこめてきて全く何も見えず、路面の起伏や感触から、橋を渡ったらしいなどと思うだけである。辛じてそういう状況と私のもっていた地図の知識から、これはこの辺での低地:小川原湖に向っていると想定するのがせいいっぱいであった。その想定はまちがっていなかった。しかしそれは、着いてから人にきいて分った話であって、実際のところは、暗やみのなか、どっちがどっちだか、むろん小川原湖がどこにあるのかさえ全く分らなかった。

 翌朝、なんとなく南だろうと思っていた方角に、なんと八甲田山が朝もやのなかに浮んでいるではないか。私はしばらくの間自分の方向感覚を修正するのに手間どった。八甲田山は西に見えるはずなのだ。それが南に見えるほど昨晩は走ってないのは碓かである。修正するには90度回転すればよいのだが、しかしそれは言葉で言うほど簡単ではない。昨晩以来もっていた感覚がべったりくっついていてなかなかはがれないのである。納得ゆくまで本当に時間がかかった。(ところがいま考えなおすと、また分らなくなってくる。そして地形図を見ては止むを得ず納得する。)

 そして、もしこのとき雨でも降っていて八甲田山が望めなかったならばどうであったろうか。おそらく私は、ずっと、初めになんとなく南だと思ったまちがった方角をそのまま南だと思い続けたであろう。

 そうすると、いったいこのまちがいというのは何なのだろう。そしてそもそも、私はなぜその方角を南だと思いこんでいたのだろう。もっとも、こういう疑問をもつこと自体、いま普通はなかなか認めてもらえまい。厳然たる事実に反した錯覚にすぎない、まちがえたお前が誤りだ、として片づけられるのが普通だろう。厳然たる物理的事実との整合を判断基準とするのが正しいことだと思われているからである。だが私はそうは思わない。いかに事実とくい違おうが、そのように思ったということは、私にとって事実だからである。極端な言いかたをするならば、もし物理的事実に即することのみを是とすることに徹しようとすると、私たちは、日の出、日の入ということばをも撒回しなければなるまい。

 冗談はさておき、なぜ私は事実と違うことを事実と思いこんだのだろうか。おそらく私たちは常に、自分が行動を無事に続けるための拠りどころを求めているのだ。勝手知ったところでは私たちは自由に行動できる。だから未知の場所に出会うと、それこそ必死になって、そこを勝手知ったところにしようとするのにちがいないのだ。勝手知ったところでは、いま自分がどこにいるのか、なにをやっているのか、それが分って安心していられるからである。この勝手知ったところ、それがすなわち先号まで度重ねて書いてきた「私の地図」に仕上がるわけなのだ。だから「私の地図」が私の行動の拠りどころなのである。そして普通は、目に見えるものを頼りにしてその「私の地図」は拡大してゆくのだが、この場合のように暗やみのなかを引きまわされたときはどうなるか。

 いま私は暗やみのなかからまさに突然明りのついた青年の家の玄関についた。実際、暗やみの中に見出した点のような明りぐらい、人をほっとさせるものはない。このときも、もうしばらくの間私たちは完全に「私の地図」をはなれ且つまた「私の地図」を組みたてることも不能な状況に放りだされ、まさに字の如くやみくもに尾燈のあとを追っていたわけだから、本当にほっとしたのである。けれどもそれは、いままでの私のいた世界から切り放された、それとの連続性:途中をもぎとられたようなものである。そこで止むを得ず私は、全く新たに今夜泊まる場所に対して、『私の地図』の作成にとりかかる。

 そしてそのとき、私は全く勝手に、その玄関の面している広場が、建物の南側にあるものと思いこんでしまったのである。おそらくその想定は、私の過去の建物の経験に拠ったにすぎないと思う。たとえば、こういう建物は大体南に向くものだ、そう勝手に思ってしまったのに違いない。もしこれが暗やみでなく、昼間であったならば、絶対にこういうまちがいはしなかっただろうと思う。既に知っていた場所からの連続性:途中が消えてしまうことがないからである。

 かくして、私が安心した気になって一晩すごせるべく、その初めての場所を勝手知ったところにしようとした私自身の独りよがりの試みは、私にべったりくっついてしまって、翌朝そのまちがいが明らかになる事態にたちいたっても、なかなかそれをはぎとることができなかったのである。

 思い返していただければ、こういうような体験は、場面は違っても、おそらくだれにでもあることに気づかれると思う。ただそれを、単なる勘ちがいだとして見すごしてしまっているのである。

 しかし、これは単なる勘ちがいで済ますわけにはゆかない、と私は思うのだ。まさにこれは、私たちが日常、意識しないままに、私自身の「私の地図」をつくり、もち、それに拠って行動しているということの証なのだ。頼りない情報だけでも言わば強引に自分の都合のために地図をつくり、より詳しく情報を手にしたとき、勘ちがいだと気がつくのである。

 暗やみには、私たちの拠るべきものがないから、だから私たちは暗やみに耐えられないのである。怖いのである。もののけがでるのである。

 いま、都会的な生活では、ここで経験したような暗やみは存在しない。言ってみれば全ては日の目を浴びている。見えすぎるほどよく見えている。夜になっても、暗やみがあることを忘れるほどである。だからであろうか、見えているものを全て、初めから見えていた、分っていたと思うようになってしまっている感じさえある。再びもう一度、五号に引用した臼井吉見の随筆を思いだしていただけるとありがたい。あの地元に根づいた生活をしている番頭のものの見かたは、決してそうではなかった。自分の生活にとって拠るべきものは、決して目の前に見えるもの全てではないのである。暗やみとの対比がそれを明らかにしてくれるように、私には思える。

 いま都会には、やたらと案内標識があるのが目につく。そして、地下街などでは、いくら案内標識がたくさんあっても、少しも分らない、迷う、そして地上にでてあたりを見まわしてほっとする(あるいはとんでもないところに出てびっくりする)というような経験はしょっちゅうあるはずだ。これはさしづめ、明るい暗やみに引きこまれたのと同じことなのだ。「私の地図」が描けなくされているのである。「私の地図」は決して標識をもとにしては描けないのにも拘らず、描けると思っている人たちが、それをつくる人たちの大半を占めているのである。そのような場所で災害が発生したときにパニックが起きるのは、決して非常口が分りにくいからなのではなく、それ以前のはなしとして、その暗やみと既に自分の勝手知ったものとなっているところとの連続性:途中が消失してしまっている、つまり「私の地図」を描けなくさせているからなのだ。ちょうどこの青年の家で私がもったと同じような勘ちがいを、そこにいる人たちそれぞれが勝手にもってしまうからこそ、それがぶつかりあいパニックとなる。だから、非常口の標識をいかに目立つものにしたところで、非常時には役立たないだろうと私は思う。

 考えてみればいま、なにも地下街だけでなく、地表においても全て、この「私の地図」の存在が忘れ去られているのではなかろうか。それを忘れて建物や町がつくられていやしないだろうか。私たちにとっての暗やみの存在を十分に分っていた時代に生きた人たちがやってきたこと、それが二号に書いた「あて山」のはなしなのである。彼らの方が、どうも人間がよく分っていたとしか思えない。

 

 いま朝日新聞に、「盲と私たち」という特集が連載されている。その10月10日の文中に次のような盲人の体験が紹介されている。

 「あんたも目がつぶれたらすぐにわかるけど、見えないってのは、ひとりで、じっとしていられない。こっちが動かないと、まわりの世界が動きだして、こわくて‥‥」

 「ひとり歩きする盲人ならだれでも自分のコースを頭の中の地図、足裏の感触、全身の体感で覚えている。道路の材質、凸凹・傾斜・段差などの微妙な変わりようを、環境からのメッセージ(音・風・声・におい・明暗)と組み合わせて歩くのだが、その足元が日々変わるのだから始末が悪い。とくにスッテンと転んだら方角がわからなくなる。」

 「盲人の歩行は踏み出しの第一歩が肝心で、わずかな角度の違いで、とんでもない方へ行ってしまう‥‥」

 確かに、目の見えない人の立場は、目の見える私たちの想像を絶するものがある。私たちに日常化できない条件の適いがある。けれども。ここに紹介されている体験をみる限り、この人たちの行動が、目の見える人たちのそれと、構造が同じであるように、私には思える。私たちが目に見えるものを主たる拠りどころにしているのに対し、この人たちはそれ以外のものを頼りにしているのだ。

 そしていま、目の見える人たちは、目の見えない人たちの立場を分る以前に、同じ目の見える人たちの立場さえも分らなくなっているのではないかと私は思う。つまり、私たちがだれによらず常に、頭のなかに「私の地図」を描いている、そしてそれに拠っている、ということが分らなくなっているのである。

 

 七戸物語の続きを、いきなり暗やみの話で始めたのには訳がある。いったい私たちに見えているものというのが、私たちにとって何なのだろうか、それを考え続けていたからである。目の前にあるもの、目に見えるもの、見ているもの、知っているもの‥‥これが全部、その意味することが違うのだということを知らなければならないと私は思う。私たちが、暗やみに何を見るかそして陽あたりで(つまり明るいところで)何を見ているのか、考えてみたかったし、また今回、ほんとに久しぶりに暗やみを味わうことが、いい具合にできたのである。手前みそでいうならば、いずれにしろ、どこにいようが、「私の地図」をどう描くかが肝要なのだと思う。

 そして先回書いた「懐しさ」も、そこに生きているということの象徴・履歴として心に沈潜して懐しさとなると簡単に書いてしまったけれども、それも結局「私の地図」との係わりのなかで生じる心情なのだと思う。つまり、見慣れた風景だから懐しいのではない。もしそうなら、観光で見た風景にも懐かしさを覚えなければならなくなる。そうではなく、それは、ここしばらくすっかり忘れていたある昔の「私の地図」(それにはその風景がからんでいる)が、その風景を見たことにより、突然きのうのことのようによみがえってきた、そのことに係わった心情なのだ。そして全く逆に、ふるさと遠く離れて生活しているとき、普段はすっかり忘れていたことが、ふとしたことで思いかえされるとき、その昔の自分の生活:「私の地図」の展開した具体的な場面をかたちづくるものとしての風景が、目の前に浮んでくるのである。

 そして、どう考えても、建物は「私の地図」が展開する場面をかたちづくるものの一つなのであって、それ故然るべく考えられなければならないのだと私は思う。

 従って、建物は、それができあがったというだけではほとんど意味がなく、それが一つの場面として、あるいは一つの風景として、どれだけ「私の地図」に位置づけられるか、定着するかにこそ、その真価がかかっているのではなかろうか。

 だからおそらく、建物づくりというのは、そして町づくりというのは、ものすごくスパンの長い、先を見た話でなければならないのだ。けれどもそれは、通常よくあるような、到達目標としての「絵に描いたもち」の如きものなのではなく、またそうあってはならず、そうではなく、日々を過ごしてゆくその過程のなかで、言わば積み重ねられ定着してゆくものでなければなるまい。そしてそれは、どこかのだれかが考えて定型として与えられるものなのではなく、そこで生活する人たちのその生活遂行において定着するものなのだ。けれどもいま、どれだけの専門家がかく考えていてくれるだろうか。彼らは大部分、この肝心な点を完全に見すごしているように、私には思えてならない。彼らは、一人一人の人間の主体性を無視しているのである。彼らにとって一人一人の人間は、一般大衆であり、故に不特定多数であり、人格のない単なる操作対象にすぎないと言ってよいだろう。人々はそんなにもばかなのだろうか。

 

 私たちが泊った青年の家の名称は、「公立」小川原青年の家という。そこから1㎞ほどはなれたところにあるこの春開設されたばかりの心身障害者更生施設もまた「公立」ぎんなん荘と名づけられている。県立でもなく町立でもなく村立でもない。まし国立でもなく「公立」を名のる。この名称の「公立」というところにこれら建物:施設づくりの特色が秘められているのだ。そしてこの「公立」は、通常言われる私立学校に対しての公立学校などというときの公立とは本質的に意味が違うように私には思える。私にはそれは、これから書く如く、英語のpublicに対応する意味での「公」立であると見えるのである。

 実は、これらの施設の運営は、「上北地方教育・福祉事務組合」が行なっているのである。当然、その設立も同様である。すなわち、七戸町の他数ヶ町村の広域行政の一つとして営まれているのである。「公立」という一見奇異な呼称となっているのも、そうだからである。通常では、これらの施設は県立の多いことは各地の例を見ればわかるとおりである。なぜここではそうでないのか。

 

 ある地域に住んでいる人たちが、ある施設の開設を望んだとしよう。たとえば、青少年のための研修の場が欲しいと思ったとする。しかし、それをその町や村単位でもつには、町や村は人口的にみて小さすぎるし、仮につくるとしても到底財政的に不可能に近い。かと言って、県単位ではこんどは大きすぎ、その位置が問題となり、実際利用面でも小まわりがきかなくなる。その設置位置をめぐって誘致合戦がくりひろげられ、政治屋がからむなどというのはよくある話である。こういう研修施設なら、まだそれに代る既存の施設の利用ということも考えられるけれども、心身障害者施設となるとそうはゆかず、まして町で欲しくても、その成立は、これは完全に不可能である。だから普通、小さな町村は、こういった施設に縁遠い存在を余儀なくされているというのが現状なのだ。その他のいわゆる公共施設も含めて全て、都会に比べて、都会が決して十分だとは言えないにしても、決定的に不利な状況なのである。しかし、この状況を、都会にいてはたして本当に想像することができるだろうか。分るだろうか。

 私はここで、昨年書かされたアンケートのことを思いだした。確かそれは、筑波研究学園都市に最後に移住してきた某研究所の労働組合が行なったものであった。そのアンケートの問いの一つに、学園都市の交通の便・不便についてのものがあった。学園都市は共用交通としてはバスしかないがその本数は、常にバス時刻表を携帯を必要とするぐらいの本数しかない。それが便か不便かという見えすいた問であった。いったい便とか不便だとか、何をもとにいうのだろう。いまでも学園都市の範囲をちょっとはなれると、それこそ一日に二本しかバスが走らないというようなところだってあるのである。彼らに対して、それが便か不便かときくことができるか。むしろ無意味に近いだろう。便・不便の絶対的な基準など、どこを探してもないはずだからである。

 都会での習慣をもってものごと全てを律してもらってはいけないのだ。そういう無意味なアンケートをするまえに、どうして、なぜ都会ではバスがひっきりなしにきて、こういうところでは日に二本なのかと自ら問い考えてくれないのだろうか。そして、なぜそういう不便なところに人々が生活しているのか、してきたのかと問わないのか。

 それにも増して不愉快なのは、筑波は辺地なのだから辺地手当をよこせという要望であった。都会的でないところを辺地とみなし、自分たちは(自分たちだけは)そういう辺地にあっても都会的生活をする権利があるとでもいうかのようだ。辺地の生活はまるで人間の生活ではないとでも思っているのではなかろうか。どこにでも人々は生活している。しかしそれは一律的な便・不便で片づけられるようなものではない。それぞれの場所でそれぞれのやりかたで生きてきたし生きている、どうしてそういうように見ようとしないのか。そして、忘れてもらっては困るのは、そこに住んできた人たちも、やはり人間だということだ。

 いまここに書いたアンケートを考えたような人たちと同様な考えかたが、しかしいま一般的なのではなかろうか。言ってみれば都会偏重:辺地切捨、都会型願望が強い。だから全てを都会的基準で律してしまう。

 

 大かたの国の施策もまた、概して一律的である。たとえば行政改革で問題になっている各種の補助金がある。実際おどろくほどの多様な種類がある。それをーまとめにして町村が自由裁量できたらどんなによいかと思うが、それはひもつきでできない。全国ほぼ一律のわく組みによりしばられる。そして、あくまでも補助金であるから、町村はそれに見合った負担を必要とする。従って限界がある。だから、財政的に弱体な町村は、大きなことはできず、不便は不便として放置せざるを得ず、やろうとしたってできないからやろうともしないという悪循環さえ起しかねない。かと言って、たとえば、そういう町村に心身障害者がいないわけではない。人口が少ないから絶対数としては少ないが、確立的事実として必らずいるはずだ。しかし町村では対応できないのが目に見えている。国や県の施策を待てばよいか。それはいつのことか分らない。それに、その場合も必らずその効率性の点から、大規模でどこか遠くにまとめてつくられるに決っている。それでは収容所ではないか。そのとき既に、いったいその施設づくりが何を目ざすものであったのか、その根本が忘れ去られ、いたずらに施設をつくることで満足してしまう。あればよいではないか、ということになる。人々にとって、どこに、どうあればよいか、この肝心な点が雲散霧消してしまうのだ。先々号で書いたような、半径500mの円を描いて、そこに一つづつ児童館があればよいとするのは、その典型である。

 しかし、そんなものが欲しいのではないのである。では、本当に町や村で欲しいものを、人口も少なく、財政も乏しい町村がどうしたらもてるか。そこで考えだされたのがこの「上北地方教育・福祉事務組合」だったのである。言ってみればそれは、同じような望みと悩みをもつ町村の「共同体」なのである。

 このとき普通だれもが思うのは、そうならば町村合併すればよいではないか、という疑問である。けれどもそれも、やはり都会的あるいは中央の発想なのだ。これらの町村が合併ではなく共同体を選んでいるのには極めて正当な理由がある。そこには、それぞれの町村はそれぞれなりの特性があるとする認識が根底にあるからだ。それぞれの地域にはそれぞれ特有の問題があり、それは各地域ごとに解決してゆく、しかし共同で解決できるもの、またそれでなければできないものに限って共同で策を施す。これがその理由である。

 実際歴史地理的に調べれば分ることなのだろうが、それら町村は、過去の合併にも拘らず、地理的にもそれぞれあるまとまりをもっており、きくところによればこの共同体の総面積は香川県に匹敵するほど広いのだそうである。当然場所場所で違いがあることは目に見えているのであって、人々が住む視点にたつならば、大きいことは必らずしもよいことではない、そのことが十二分に分っているのである。こういうやりかたを強力におし進めてきたT氏が、これをヨーロッパ共同体と同じだよ、とこともなげに言ったのが印象的であった。自立した個人の集団としての組織であるというわけだ。

 

 広域行政というのは、これは中央:国、県の側から強力な指導のもとで各地に展開されているわけだが、ここの場合はむしろ完全に地元主導型ですすめられてきたのだということができるだろう。因みに、「教育・福祉事務組合」という広域事業組合は全国探してもそうざらにはないはずである。

 ここの場合、中央から示される制度を、言うならば逆手にとって地元主導型で読みかえ実行したと言えるだろう。それは各種の補助金や融資制度の活用についても全く同様で、それらを全て、言うならば地元の視点で読みなおし組みたてなおして巧みに運用するのである。従ってここでは、補助金もなにも全て活きているのだ。

 いまここでは下水についての広域事業にとりかかろうとしていた。広域下水道については、これもまた中央からの指導がなされているのだが、いまちょうどその指導に対して地元主導型への読みかえ作業のため奮戦中であった。中央推薦の広域下水道はこれは全く都会的発想であって、各家庭からの排水を下水管(かなりの太さになる)にてーヶ所の処理場へ集め処理する方式である。しかしこれは都会ならいざしらず、実にばかけたことになる。この広大な土地一面に都会のように人が住んでいるわけではないから、下水管だけが無人の野を延々と走るということになる。言うならば、全く新たに、他に利用の方法もない下水の小河川を一本つくるようなものだ。そしてもし上水を自然の川からとるとすると、極端に言えば、自然の川の水はなくなり人工の川:下水管に移ってしまう。農業用水はどうするのだ。第一大量になった末端処理場の処理は決して理屈どおりに処理されていないのは各地の例で明らかだ。であるならば、この同じ広域をただーヶ所でカバーするのではなく、各集落毎で処理したらどうか、その処理も大地にかえす方法があるのではないか、そうであれば自然河川は従前どおり自然河川であり続ける。人口が少ないことが逆にその方法を可能にさせるはずである。経費は明らかに十分のーで済む。これが奮戦にあたっての論理であった。けれども硬直した中央は、なかなかこの発想に応じないのだそうである。技術自体そして技術者自体、巨大技術に酔って発想の転換をしてくれないのだそうである。そして三百億円かかるものが三十億円でできてしまっては、政治的メリットが少ないのだそうである。

 しかしT氏は奮戦中であった。汚水処理の本を読み、土木技術や生態学を自ら学び武装してことにあたっていた。各地へとび実際を調べまわっていた。ことわっておくが彼はそういう方の専門家なのではない。言うならば彼は事務屋さんなのだ。なぜ彼がそこまでしなければならないのか。一言で言ってしまえば、専門家が信用できないからである。より正確に言えば彼らは確かに、学識はあるだろう。しかし、それぞれの地方の特性にみあった解決法をあみだす力に彼らは欠けているのである。いやむしろ地方地方に特性があるということ(つまり地方があるということ)さえ見えないし、それぞれに知恵の蓄積があるということなど、もちろん見えないし見ようとしないのである。あるのは、通りいっぺんの、それこそ中央で、何も見ずに机上で考えたワンパターンの方法だけだ。T氏はいう、護岸工事でもそうだ、コンクリートで固めればいいと簡単に思ってしまう。うちの方には昔から「しがらみ」と言って、木のくいをうちこみ、それにやなぎの枝をきってきて絡みつけて土どめにする方法がある。数年もたたないうちにやなぎが根づいてしまう。その方が結局ながもちする。第一風情のある川岸になるじゃない。なのにコンクリー卜でないと公認してくれない。こういうことが多すぎる、と。

 私は彼の見解に全く賛成する。というより、現場での裏づけをもとにした見解であるから、その迫力に圧倒される。

 ある土地に住む人たちは、その土地で生活してゆくために、その地域の特性に応じて、それなりのやりかたをあみだし、技術の面でも蓄積を残してきたのだが、いま中央の言わば机上で考えられた独断的な一律の基準がそれらの存立を許さなくなっているのである。大工技術:木造技術も全くそうで、たとえば住宅金融公庫の指示する基準、そしてそれ以上に建築基準法の諸規定は、そういった知恵の集積を無視し駆逐する役割をはたしてきたといってよい。その背後には中央の建築学者がいること、これは十分に反省されねばならないと思う。彼らは彼らのつくった基準こそが科学的・合理的だと思いこんだのである。彼らは、それこそ重大な勘ちがいをしているのである。私にはむしろ、各地に蓄えられた技術の方がよほど合理的であるように思えてならない。なるほどそれらはいわゆる科学的分析によって生みだされたのではないのは確かだが、しかしそれは長年風雪にさらされるという実験を経て生き永らえてきたというのも確かである。要は、合理的基準の「合理」の根拠を何に求めるかなのだ。

 因みに、わが研究学園都市のなかの建築に少しでも係わりそうな研究機関で、木造技術についてどれだけ研究がなされているかについて調べた人がいるのだが、それによれば、なんと皆無なのだそうである。木造建築の国日本において、皆無なのである。新技術には目が向くが、何の新味もない木造に関心がない(その実、建築物の大半は、いまデータがないが、木造のはずである)ことと、たとえば構造力学的な面でも木造はその解析法がなく、従ってだれもやらないのだそうである。研究者たちの目には、新しいこと、すぐできることだけが目にうつるらしい。なぜなら、その方がすぐに成果がでるからである。言いすぎかもしれないが、研究のための研究が表通りを歩いている。そうであるにも拘らず、昔からの知恵の蓄積を認めない基準がつくられる、いったいこれはどういうことか。

  とはとかくこういうものなのだ。それぞれの地域の独自性:主体性を無視し、それを統御しようとする、まさにそのことだけに中央は中央の意義!を認めていると言ってよいだろう。そして、こういう中央にまつわりつくことに、とかく多くの専門家や学者・研究者は意義!を認めているのだと言っても、これもまた過言ではあるまい。いつもふと思うことがあるのだが、この人たちが人々に係わるものごとを扱う専門家だと、いったいだれが決めたのだろうか。多くの場合、それはその関係の学問を学んという言わば自称ではなかったか。彼らにいったい、それについてどれだけの自覚があるのだろうか。そしてまた、彼ら専門家が、人々に係わるものごとを扱うことを委ねられたとき、はたして彼らのどれだけが「委ねられる」ということの本当の意味を理解していてくれるのだろうか。

 そうであるとき。地方の時代などという中央からきこえてくるかけ声の、なんと白々しいことか。地方とは相変らず統御対象としての「対中央」の意味でしかないのである。

 そして、だからこそ七戸町を軸にT氏たちは奮戦する破目になるのである。なんと労力を要することか。しかしいま、地方を真に地方たらしめようとすると、それなりの労力としたたかさを必要とするのである。

 そしてT氏たちは、もうここ20年近くもそうしてきたのである。そうさせるもの、20年近くも奮戦させてきたもの、それはいったい何なのであろうか。普通の役所の役人なら、こんなバカげたまねはしないだろう。つつがなく毎日がすぎてゆけばそれにこしたことはない。ところがこの人たちは、わさわざ仕事をつくっては、それを自らこなしてきたのである。何がそうさせるのか。しかしそれは詮索したってはじまらない。彼らは自分の町が無性に好きだ、人たちが無性に好きだ、ただその一言につきるだろう。だからいい町にしたいのだ。都会の人たちだけが恵まれていていいはずがないではないか。都会に負けないものを!

 それ故、その初めは、一つの建物をつくるにも、都会にひけをとらないものをつくりたい、それが原動力だったと思う。ある意味では当然で、一つの目ざすべき一段上に位置するものとして都会の文化があった。しかし、いまはもう、そういうようには考えられていないことは、既に書いたとおりである。目ざすべきものは、自分たちのなかにある。その自信に充ちあふれている。

 

 だから、最近実現させてきた諸施設は、どれもその考えかたが極めて新鮮である。たとえば「公立ぎんなん荘」の場合、一見して予算が苦しかったなと分る建物だが、そんなことが吹きとんでしまうほど独特な考えかたでつくられている。戸建て住宅が数戸ならんでいるように見えるのである。実際そう考えられているのである。要するにここは家族からはなれているけれども園生たちの家であることに変わりない、だからそうするのである。一戸に10人ほど住み、簡単な食事もつくれるようになっている。大食堂と浴室(これはこの建物のために掘った温泉である。温泉は暖房の熱源にも使われる)は別棟にあり、しかしそれらをつなぐ渡り廊下がない。銭湯にゆくつもりで歩いてもらうというのである。食堂は八甲田山を展望できる、人数に比べ少しばかり広すぎる大きさの室であった。

 私たちが泊った青年の家とここは約1㎞ぐらいはなれていると先に紹介したけれども実はこれはともに、先の共同体を構成するある町の町立牧場の一画にある。だから1㎞は牧場のなかを歩いてきたのである。はえやあぶの多いのが難だけれども、まわりはまさに広々とした牧歌的風景が展開する。そして、青年の家に宿泊した青少年は、昼食をこのぎんなん荘の食堂で、身障者と一緒に食べる機会が設定されるのだそうである。食堂が大きいのはそのためなのだ。計画の最初からそう考えていたらしい。通常青年の家は教育委員会の管轄、そして身障者施設は厚生関係の管轄となるから、こんなわけにはゆかない。ところがこの「教育・福祉組合」立では、平然とそれをやってのけているわけである。

 この施設を牧場のまんなかにつくるというのもそれなりの考えがあるようだ。先ず町有地の一画だから土地代はただ。しかしそれだけで決っているわけではない。ここに住んでいるのは晨業者の子弟である。彼らに身につけてもらう作業能力の養成に、この地方の主産業の一つ、牧畜:牧場を利用しようというのである。彼らの家族の日常と大差ないことが、指導されるわけなのである。そのなかみは、すなわちまた牧場の日常以外のなにものでもない。

  ここにあるのは、諸々の事実を、機械的な分掌主義によってばらばらに運用するのではなく、全体を適切な相互関連をもたせつつ運用しようとする「意志」である。そしてそれは、単なる身すぎ世すぎのための役人商売では絶対に出てくるわけがない。つまるところ、彼は町が好きなのだ、人たちが好きなのだ。そして、町役場に勤めるとは、つまり役人とは何なのか、自覚しているのである。そして、こういう町の町役場の職員は九割九分その町に住んでいるということも考えられてよいだろう。彼らのやることは全て、町の住人としての自分にもふりかかる。因みに、東京の区役所の職員の半分以上は、その区の住人ではなく、埼玉、千葉、神奈川から来ている人もいるそうである。彼らがその区の(住人の)ことを分かるためには並大抵のことでは済まないはずである。住人が何を見ているのか、その住民たちの地図を知ろうとしなければならないのだが、それができるか、しているか?

 

(「筑波通信№8 後半, あとがき」 に続きます。)


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「七戸物語(その2)」 後半, あとがき

2019-03-07 20:17:18 | 1981年度 「筑波通信」

                                           (校舎は現存していません。)

「筑波通信№8 前半」より続く

 

  T氏とのつきあいは、先にも書いたが、もう20年になる。そのときT氏は七戸町の教育委員会の事務局の一職員であった。そのとき町では学校の再編成の仕事にとりかかっていた。ちょうど、いくつもの学校や分校を統合する策が全国的にすすめられていたころである。町では、中学校を一つにまとめ、小学校は逆にいままで一校、町の中心の城跡にあったものを、ほぼ町の中央を東西に流れる川を境に南北二校にしようとする計画をたてていた。おそらくその企画もT氏の手によるものと思われる。普通ならそこですぐ、極く普通の学校が建ってしまうところだったのだが、T氏はそうさせなかった。どうせ建てるなら最先端のものを建てよう、そう考えたT氏は、当時学校建築について研究を重ね種々の提言を行っていた東大の吉武泰水氏のところに現れ助力を求めたのである。そのころ校舎の不燃化にあわせ、それもそのころ出現した軽量鉄骨による学校建築が推進されていたのだが、その結果、軽量鉄骨造の中学校がいち早くこの東北の一角に誕生したのであった。見学者あとを断たず、T氏も悪い気はしなかったろう。そのときT氏は血気盛んな(いまも変らないが)30そこそこであった。

  そして、次の小学校の新設計画のときもまた、彼は東京に現れた。そしてその設計を、全く幸か不幸か、私が担当することになったのである。私もまた血気盛んであったから(本人はいまも変らないつもりでいるのだが)私はいたく彼の情熟にほだされた。それに応えなければならないと思った。そして私の側で言えば、ちょうどそのころ、当時建築の世界でやられていることに疑問を抱いていたときでもあった。私は考えた。そこで私が考えたこと、またそこで考えたことがその後の私の方向を決めたこと、それは先号で書いたとおりである。

  けれどもそれが私の方向を決めるものになろうとは、そのとき予想できていたわけではない。むしろ、ふりかえってみたらそうだったというにすぎない。ただ、まじめに考えたのは確かである。そうしなければ、彼とのつきあいに応えることにならないからである。一番初めにこういう設計の場面にめぐりあえたということは、いま考えてみて、こんなに幸せなことはないのではないかと、つくづく思う。私はついていた。

  そのころから現在にいたるまで、この町では、そしてまわりの町村を含め、文字どおり精力的に、乏しい財源のなかで、それを巧みに運用して着々と絶えまなく、ほんものの地域計画を、自らの手で企画立案し実現させてきたのである。町(の人々)にとって必要な教育施設(学校、幼稚園、公民館など)厚生関係施設(保育所、病院など)上水、消防、などなど、それらはこの20年の聞に碓実に整備されてきた。

  先の広城事業のやりかたは、消防がその手始めであったように思う。私が例の小学校の設計のため通っていたころ、隣りの天間林村との広域消防の設立に向けて、T氏が奔走していたのを覚えている。いまそれは更に他町村を加えて、より広域化している。そしてその広域事業は当初、あくまでも消防のためだけのそれであった。つまり一事業一組合で対応していた。上水その他も同様であった。けれどもいまでは、各種事業つまり複数の事業が一組合で営まれている。事業の数だけあった組合が一つにまとまったのである。それは最近のようだ。

 これも机上で考えると、初めから、つまり一事業一組合をたくさんつくらずに、各種事業を営む一組合をつくった方が合理的且つ効率的であるように思えるかもしれないが、実はそれは的を得た評ではない。それは結果だけしか見ない人が言うことばである。机上で描いた理屈でやったのならばつまり初めからそれをつくろうとしたならば、多分それは失敗しただろう。そうではなく内側からのながい時間をかけての積み重ねがあったからこそ共同体の意義がリアリティをもって定着したのである。そしてまたそうでなければならないことを十二分にわきまえていたのである。

 しかしながら、中央やえらい学識経験者の言うことは常に、あるべき結果の形についてのみであり、それらのあるべき姿へ、どういう道すじで到るのか、そのことについては全く考え及ばない、というのが実態である。ちを絵に描くことぐらい簡単なことはない。要は、どうやったらできるかなのだ。

 しかし、この町で試みられてきたような内側から徐々に熟成させてゆくやりかたは、その効果が直ちに目に見えないやりかたである。ある年度に投資した100のものが、その年度中に100の成果となって表れるといった類のものではない。だから、そういうことをのみ期待する人たちからの、つまり単年度決済主義者からの中傷や批判は多々あったろうと思われる。けれども、この町でやられてきたような、あちこちで一見したところばらばらに仕込まれた事業は年月の経過とともにそれぞれが、そしてそれら相互が総合的にからみながら醸成し、単年度では100にみえなかったものが、それ以上の成果となって現れる。と書くとえらく簡単にきこえるが、それは批難や中傷に耐え、常に現実の本質的問題をとらえ目先のことにとらわれず、そして同時に常に先を見るというしんどい作業を必要とするのである。目に見える成果だけを期待するいわゆる政治屋的やりかたでは、到底これはついてゆけない。息のながい話である。

 先にも既に書いたことなのだが、実際の話、町づくり施設づくりというのは建物としての施設、つまり物をつくることでできあがるのではない。このあたりまえなことに、私たちは気がつかなければなるまい。それらが重要なことは事実である。しかし言ってみればそれは舞台をつくっただけにすぎないのである。そこで人々が生活し、そして生活してゆくのに必然的なものでなかったならば単なる物のまま死んでゆくだろう。新たに造られた場所が、いかに人々になじまれ、定着してゆくか、それこそが問題なのであり。だから、建物の完成は施設づくりの一環のほんの一段階にすぎないのである。息のながい話なのである。

 

 私たちは、できたばかりの身障者施設を案内してもらったあと。再び七戸町へ向った。道はまっしぐらに八甲田を目ざし、丘陵台地をすすむ。ときおり谷地を横ぎるから、大きく上ったり下ったりする。ちょうど筑波の平野を横ぎるときに似ている。まわりは一面のとうもろこし畑やながいもの畑が続いている。これはこの夏に経験して思ったことだが、昔はこういう一面に同一の作物の畑であるということはなかったように思う。この夏、軽井沢の北嬬恋村を走ったとき、丘という丘が全部キャベツ畑であるのを見て、壮観というよりも、異様という感じをもったのである。ほんとにそれは異様・異常な風景であった。おそらく、現在の農業を象徴する風景だと、そのとき私は思った。ここでも同様なのだ。

 しばらく走ると、もう見慣れた場所が増えてくる。先導の車を見失なってももう平気である。「私の地図」の領域に入ってきたのである。

 城南小学校の近くは、当初延々と続く畑であって、春先は菜の花が一面に咲き、遠く近くに唐松林が芽をふき、八甲田だけがまだ冬の気配を残して輝いているといったたまらない風景が展開したものだが、いまはとびとびではあるが人家で埋められはじめている。それでも敷地は一万坪以上あるから大勢は変っておらず、むしろ、昔冬の夕暮れときに感じたような人里離れたというようなさびしい感じがなくなって、かえってよくなったかもしれない。この学校ができてから、町の中心部に、それこそ肩を寄せ合うようにして住んでいた人たちが、この丘のあたりに移って来はじめたのだそうである。(人口が都会のように増えてこうなったのではない。人口はほとんど変っておらず、横ばいかむしろ減少しているはずである。) これもまたT氏の計画に入っていたことなのかもしれない。言うならば、学校をつくったことにより、新しい集落:住宅地が生まれつつあるわけだ。

 

              「建築 1965年5月」青銅社 「青森県七戸町立城南小学校」より   設計:東京大学 吉武研究室

 昔もいまも変らない大きなケヤキ(この辺ではツキノキというらしい)の木立ちの下をぬけると、城南小の敷地の北辺にでる。そこからひろがるゆるい南下りの斜面が校地なのだ。建物はそこから100mほど歩いたところに入口がある。右手には、はるかに八甲田を見はるかすグラウンド、そして左側には体育館(というより講堂に近い)がある。それに沿って歩いてゆくと、平家建の建物が。だんだん迫ってくる。正面にこれともう一箇所だけが唯一二階建なのだが、図書室のあるブロックがある。入口前の前庭である。ここは、冬になると八甲田おろしがまともに吹きよせ、雪のときなどは吹きだまりになってしまって実にやっかいなところになるのだが、しかし、それ以外の季節、ある程度晴れてさえいれば、学校から帰るとき、玄関から外にとびだすと目前に、グラウンドの続きの、このごろは人家もまばらにまじる平原越しに、あの八甲田が一望のもとに見渡せるのだ。

 実はこれが、私の設計の際考えた大事な点の一つだったのである。どういう風に、この町の八甲田を見せるか、いろいろ考えたのだけれども、地形の状況などを勘案して、結局こういう形に落ち着いたのである。印象に残る形で見えるのは、ここと、先に書いた二階の図書室へ登る階段を上がりきって図書室へ入ろうとする(あるいは図書室から出ようとする)ときだけである。教窒の窓からも見えるところがあるけれども、それはあくまでも窓外の一風景以上にはならないはずである。この二箇所においてのみ八甲田の存在をあらためて心に思って欲しかったのだ。

  この学校には職員室がない。小さな会議室が一つあるだけだ。教室は、低学年、中学年、そして高学年とに分かれている。低学年は、先の前庭に南を向いて立つと、その右手にグラウンドに沿って、一・二年生用六教室が平家で延びている。それ用の玄関を入ると小さなプレイルームと称する室があり、そこから吹き放し(つまり屋根だけ)の渡り廊下が教室の南を走っている。

 中学年・高学年は、前庭から見て左手、それ用の玄関の奥に、一つの中庭を囲んである。そこは一段地形なりに落ちているから前庭からは見えない。高学年は中庭の南、敷地の南端に二階建である。しかしそこでは更に敷地は一段落ちるから、階段のおどり場の位置に、これも吹き放しの廊下でつながっている。中庭の北側にあるのが中学年の教室である。これは平家建。つまり、教室は、二学年づつの言わば分棟式になっているわけで、実はそれぞれに、まことに小さい準備室と称する室があり、先生がたは普段そこにいるのである。それ故職員室がないのである。

  いま、七戸町教育委員会にある施設台帳を見ると、その図には、先ほど来書いてきた渡り廊下がのってない。なぜか。

 この学校の四・五・六年生用の教室は、それぞれ三教室なのだが、その北側に幅が4m近い廊下と通称する場所がある。普通、廊下は2m 50cmぐらいであり、子どもたちがそこをどやどやと通りぬける。けれどもここの場合はいずれも、言わば袋小路になって、通るのはその学年の子どもたちだけなのだ。だから廊下としてなら広すぎる。実は、その学年の子どもたちたまりを、廊下と称してつくってしまったのである。低学年のプレイルームにしろ、こういうたまりにしろ、いまではさほど難しくないのだけれども、当時はそんな面積的な余裕はなかったのである。面積すなわちお金だからである。だから、これらの室も、先の準備室と称する学年職員室もみなそれは、台帳にない渡り廊下を食いつぶして生まれたものであったのだ。渡り廊下はこういう雪の降るところでは冬場はだめだろう。おそらく批判がでるだろう。しかしそれらは甘んじて受けておこう、これがT氏と私の間の密約であった。12・ 1・ 2月だけ我慢してもらえば、あとは天国のはずなのだ、そんな負け惜しみを言いながら。

 

「建築 1965年5月」青銅社 「青森県七戸町立城南小学校」より    

  

☆アプローチ 前庭より図書館、プレイルームを見る           ☆1.2年入口からプレイルームを見る

  

☆プレイルーム内部                               ☆1.2年教室

  

☆3.4年ホールから西を見る      ☆3.4年ホール周辺 ☆教室南側渡り廊下、スノコは冬期のみ ☆4年廊下(奥は教員控室) ☆3年教室前

  

☆5.6年教室北側                      ☆ 6年南バルコニー ☆6年廊下  ☆5.6年棟入口ホール

  

レイルームと図書館                  ☆あそび庭よりプレイルーム・1.2学年教室を見る(後方は八甲田連山)

 

 完成当初、だいたいのところはなじんでいってくれるだろうと思いはしたものの、この点、職員室がないということについては全く自信がなかった。不満がふきだすのではないか、これはT氏も私もともにもっていた気がかりであった。なぜなら、子どもたちというのは、どんな初めての場所に当面しても、それに対応し、住みこなしてゆくものだが、大人はなかなかそうはゆかない。普通の学校に慣れきってしまっていると、普通でない建物は全く異形に見えるだけになる。先生というものは職員室にたまっているものだという慣習になじんでいると、この学校は理不尽に思えるはずだ。

 ところが、そういう不満は、少なくともおもてだってはきこえでこなかった。今回私たちにいろいろ話をしてくれた校長先生は、完成当時この学校で教えていた方で、そのあと周辺の市町村の学校をまわって、二年ほどまえから、この学校の校長として赴任されたのだそうである。完成当時のとまどい、他の学校、そして再びこの学校へしかも校長として、という貴重な体験をしてこられたことになる。その先生の話によれば、職員室は別段問題にはならなかったのだそうである。唯一学年準備室:職員室が狭すぎることを除けば。碓かに初めて赴任した先生は、初めのうちとまどうそうだが、ここのやりかたが気に入り、すぐになじむという。どうも見ていると、低・中・高学年ごとの一種の自治国家が確立したかのように、それぞれの自主性が強く出てくるのだそうである。従って全校的会議も元気がでてくる。(それは小さな会議室で行なわれるのだ。)まして、子どもたちの傍にいつもいるから、子どもたちの日常も手にとるようによく分る。要するに、地方の先生がたは概ねそうなのだが、それに輸をかけて活気があるのだ。そのせいか、他の学校と違い、放課後すぐに帰らず、明日の準備だとかなにかを、その準備室でごそごそやっている先生が多いのだそうだ。それにつけてももうーまわり大きければというわけである。冒険をしたT氏と設計者にとってこれはまことにうれしいことであるけれども、しかし、本当のところはむしろ意外であった。建物のせいで止むを得ずそうなったのではなく、積極的にそうしているからである。そして、もし積極的でなかったならば、大抵の場合だと、因習を維持するために必らずどこかの室を昔ながらの職員室に仕立てなおしただろう。

 また、この学校では、普通の学校でよく見かける「廊下を走るな」という指導をやってない。走ることもないし、走ったって別に問題がないからなのだという。むしろ授業から開放されたら思いきり廊下でもどこでもとびはねてこいというのだそうである。実際のところ建物がそうなっているので、大体子どもたちは外にとびだしてってくれるそうである。(子どもたちは、上はきのまま、つまり一度玄関を入ったあとは、教室前に拡がる庭には、そのまま出ていってかまわないのだ。うるさいことを言われない。)

  要するにこの学校では、普通の学校のように、先生の側があらかじめもっている一般的学校生活の定型を、ただいたずらに子どもたちに押しつけるのではなく、むしろ逆に、子どもたちがこの建物で自ずと展開している生活をじっくりと追いつづけ、見つづけてゆくなかで、徐々にこの学校なりの定型をつくりだし、指導してきたと言い得るだろう。この学校が風変りで、一般的定型が通用しなかったからだと言ってしまえば元も子もないが、そうではなく、ここでの子どもたちの自ずとしている生活が、だれの目にも(つまり先生にも)納得のゆくものだったからだと、私は思う。

 けれども、このこの学校なりのやりかたというのは、絵に描いたもちのように初めにあったものでもないし、また簡単に、一朝一夕にしてなったわけでもない。そのように定着するには、いろいろな試行錯誤があったし、ながい時間がかかっているのである。それは、代々の先生がたが、意気に感じてやってきたことであり、現にやりつつあることなのだ。だから、定着したといっても、固定したのではないのである。

 こういう使いかたをしているのを、何年もたってから見れるとき、設計者は、少し大げさに言えば、涙がでるほどうれしいのである。いかに下手な設計であっても、いかにローコストの建物であっても、建物が活きていたのを見ることぐらい、うれしいことはない。

  こういう単年度計算でものごとを考えずに、言わば一代計算で考え町づくりをする人たちに、かなり若いときからつきあいがもてたということは、どんなに幸せなことであったかと、いまになって思う。そう思うと、人と人との出会いというのが、本当に不思議に思えてくる。と同時に、その気さえこちらが常にもっていれば、そういう機会は必らずどこかにあるのだ、そういう確信がわいてくる。この四月の通信発刊の辞に書いた中野や小金井の人たちに会えたのも、なにやってんだと忠告してくれる学生に出会えたというのも、別に運命論者ではないけれど、運がいいと思う。その代わり、そういう人たちに会うごとに、こちらとして、あとがなくなる、逃げ口・出口がふさがれてしまうのだけれども。

 

 今回再び七戸を訪れて、またまたうれしくなって帰ってきたのであるが、ただ少し気がかりな点が、この文章を書きつつ、心にうかんできた。

 その昔、鉄道に反対し、その意味での発展からはとり残されたと先号に書いたけれども、こんどは東北新幹線がこの町を通り、ことによると近くに駅ができるかもしれないのだという。単純によろこんでいてよいのだろうか、それに対して適切な対応が考えられているだろうか。それが気がかりの一つであった。

 そしてもう一つ、こちらの方が重要なのだが、この20年間T氏たちが言わば身を挺してやってきたことの意味が、はたして若い世代にも理解され根をはり、本当の意味の「伝統」になっているかということ、それが気がかりに思えてきたのだ。なぜなら人はどうしても「結果」だけを見て、それに到る「過程」の存在を忘れてしまうからである。そして、その「過程」は、与えられるものではなく、自らかやることなのだということが忘れられるからである。人間らくが好きだからである。

 いずれも単なる私の思いすごしにすぎなければ幸いである。

 

あとがき 〇ある学生に、あることについてどう考えているかと尋ねたところ、いま勉強中なので分からない、という返事がかえってきた。ことによると、あることが分るということは、それについてのある絶対的な理解というものが存在し、それを知ることなのだとも思っているのではないか。そんな風な気がしてならなかった。たとえば、人間が分かるには、生理学やら心理学やらを全ておさめることが先決だということになる。

〇そんなとき、集中授業に来られた方が、男の返事は六つしかない、好きか、きらいか:分かるか、分からないか:やるか、やらないか、これしかない、そうじゃない下山さん?と言うのである。一瞬とまどったけれど、言えている。確かに、この積み重ねである。そうであって、初めて反省が成り立つのだ。何もしないで、いま考えてます、またいずれ、これは確かにらくらくだ。

〇またこんなことがあった。ある仕事をある人たちにお願いしてあった。そろそろまとまってよいと思えるころあいに、ある問題について考えてあるかと問うたところ、考えていない、考えなければならないことなら、初めに言ってくれればよいのに、時間がもったいない。こういう返事が返ってきた。これも、らくをしたいのだろう。いい目だけみたいのだ。豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ、そんな言葉がでかかった。ある人とは大学院生である。

〇若い人たちに言わせると、中年世代のヒステリー?なのだそうである!

〇ご感想、ご意見を、おきかせください。  〇それぞれなりのご活躍を!

1981・11・1                        下山 眞司

 

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 写真 13頁」  (5.0MB)

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 文章,平面図 4頁」 (3.7MB) 

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 図面 8頁」    (6.1MB)

 

 


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「七戸物語(その1)・・・・いま ふるさとはあるか」前半  1881年10月

2019-03-02 08:47:52 | 1981年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №7」1981年10月 A4版16頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

     七戸物語(その1)・・・・いま ふるさとはあるか・・・・  1981年度「筑波通信 №7」

  青森県上北(かみきた)郡七戸(しちのへ)町と言っても、知る人は少ないだろう。東北本線の特急で上野からちょうど8時間三沢で私鉄に乗りかえ30分、終点の十和田市から更にバスで30分、国道4号(陸羽街道)沿いにある小さな町である。地図(別図)でわかるとおり、八甲田連山の東側のすそ野にひろがる火山灰台地に切りこまれたひだのような低地:数本の小河川の合流点にある町だ。

 

 それらの河川は全て小川原(おがら、あるいは、おがわら)湖にそそぎ、周辺には縄文期の遺跡が点在するそうである。古来、この火山灰台地では馬の放牧がさかんであったようで、江戸時代南部支藩七戸藩の城下町(柏葉城という:いまはわずかに跡をとどめるのみ)陸羽街道の宿場町として栄えるとともに、本邦産馬の中枢地(七戸馬として世に知られたという)としても大いに栄えた町であったようである(いまから18年ほど前訪れた当時、まだ馬市場が残っていたように思う)。いまでも人々の生業は、低地での水田(特に第二次大戦後発展)台地での畑作(殼類の他に、ながいも、たばこを多く見かける。以前は桑も多かった)と馬(戦前は軍馬、戦後は競走馬)牛(肉牛:昭和30年代より)の放牧が主たるもののようである。人口は現在約一万三千。一歩町なかをはずれると、一見のどかな風景が展開する。それというのも、明治の鉄道敷設に反対したため、東北本線は野辺地(のへぢ:下北半島の入口)まわりとなってしまい、そういった意味での発展からはとりのこされたからであろう。しかし、いま考えてみて、それが町にとって損失であったとは一概には言えないように私は思う。

 この町のどこを歩いていても大概、ふと西の方を見やると、八甲田連峰のすばらしいながめを目にすることができる。秋から冬へ、冬から、春へ、この山は季節の移り変りをもののみごとに表現してくれる。

  今回と次回、この七戸町との係わりにまつわることどもを中心に書いてみようと思う。というのも、私にとって、この七戸町との出会いというのが即ち設計という行為との初めての、そしてほんとうの出会いに他ならず、そのとき手さぐりで考えたことというのが、おそらくその後の私の建築に対する考えかたそのものに、決定的といってもよい影をおとしているように思えるし、また、この間七戸町において行なわれてきた各種の建物づくり:町づくりというのは、これは十分注目に値することのように思えるからである。

  

 いまから18年前(1963年)私この町の小学校を設計した(私の意識では、この町小学校を設計したというのではない)。私が26歳のときである。はるか昔のことである。

 この8月の末、久かたぶりにそれを見に七戸町へ行ってきた。その学校の完成以来ほぼ五年に一度は訪れているし、設計の前年から工事中にかけての数年間というものは、ひっきりなしに通いつめたから、町なかの様子も大概分っているつもりではあったのだが、それでもやはり役場が新しくなっていたり、道が付けなおされていたりして、多少道に迷うこともあった。けれども雰囲気は相変らず昔のままであった。

  

「航空写真」は次号「筑波通信№8」より  (校舎は現存しません。)

「建築 1965年5月号」より 青銅社  設計 東京大学吉武研究室   (後方の山は八甲田連山。2枚の画像は共に投稿者による挿入です。)

 

 今回は初めて、鉄道を使わず車で訪れたのであるが、着いた日の夕刻、七戸の手前十和田市のあたりから見えだした落日の八甲田連山は、思いのほか大きく、おそらく初めてそれを見た同行の人たちも、きっとその姿に感激をおぼえたことと思う。実際それはすばらしかった。

 けれども私は、それにも増して、その姿に「懐しさ」を覚えたのである。「帰ってきたな」「着いたな」そういう少し大げさに言えば胸さわぎを覚えるような、そんな感じを抱いたのである(おそらく同行のだれ一人として、この私の気持には気づかなかったと思う)。それは、すばらしい風景が見えたなどという以上の、そんなのとはまるっきり違う感情である。そして私は、その町に住んでいない、住んだことのない私が、そういう「懐しさ」を覚えたということで、実はほっとしたのである。

 それはどうしてか。

 ある所に住んでいる限り、どうしようもなく気にかかって(というより、気にかかるように)見えてきてしまう地物などの光景というものがあるが(いま書いている話では八甲田山がそれにあたる)、それを見るあるいはそれが見える、見えてしまう、ということは、そこに住む人々にとって、極めて重要なことなのだ。それは単なる観光的景色:最観なのではなく、自分の住む場所、あるいは住んでいるということそれ自体を言わば象徴する(それが見えるということが即ち生きている、住んでいることに他ならず、そのことの象徴・履歴として、永く心に沈潜し、故に「懐しさ」となる)従って、そこに住む以上欠くべからざることなのであって(先号の言いかたで言うならば、「私の地図」のなかに、かならずその姿が表われでるということ)、だから、そうである以上、設計をする:その町に住む人たちの生活が展開する場所づくりに係わる:にあたって決して見逃がすことのできないことである。これが、その当時、その小学校を設計したとき、私が考えた極めて重要なポイントの一つであった。前ページの末尾で、この町ではなくてこの町のという意識であると書いたのはこういう意味なのである。

 普通、学校といえば、「子どもたちの教育の場」であると考えられ設計されるのが常なのだが、私がここで言ったのはこの学校に来るのは「一般的な子どもというもの」という子どもたちなのではなく、あくまでも「この町の」子どもたちなのだということなのである。そして、「この町」の「この」の内容を特定するものの一つとして、こういったどうしても「気になる」地物などの光景が重要な役割をはたしているのだ。こう考えたのである。その当時、一般には、この「この」なしに、つまり固有:特定名詞でなく一般名詞でことが処理されてゆくのが常で(いまだって変りないのだが)、それに対し、それは絶対に誤まりであると私は思っていた。

 

 しかしながら、いまここで書いてきたようなことがらというのは、言わば「見えない」ことの話であるから、当時、このことについていくら口で説明したり文章を書いたりしたところで、なかなか分かってもらえなかったし、とりわけ、建築をやっているなかまのなかで、私の言わんとしたことを分かってくれる人、分かろうとしてくれる人は、ほんとに少なかった。それに、第一私自身、先回書いたように、そういった気になる地物を目の前にするような生活というのは、疎開のときのほんの一年そこそこの体験しかないし、それだって竜王での南アルプスは八甲田の山容に比べめりはりがなく壁のようで、気になりかたが少なかったように思う。だから、いま簡単に述べた私の考えかたというのは、私自身のほんのわずかな体験が基になり、あとは言わば頭のなかで組みたてた、どちらかといえば、私の「推量」にすぎないことであった。きっと確かなことなのだとは思っても、「実証」し「説得」する力に欠けていた。

 当時、この説明の為によく使ったのが、「ふるさとは遠くにありて想うもの」ということばであった。ふるさとに居続けるかぎり、さしづめ空気のようにその存在の有無が分らないものとなっているふるさとも、そこを離れたとき初めて見えてくる、しかもそれはかならず、そのふるさとを言わば象徴する光景の姿を想い描くことによってなのだ、それをこのことばは言っているのである。私はこう説明した。その場所を離れ、あるいは十年後、二十年後、時間が離れたとき、初めてその意味が明らかになるはずだ。十年後、ここに育った町の人に尋ねてみたい、尋ねてみれば分る、苦しまぎれにこうも言った。しかし、ほんとはそれは難しい。いまここで言っているようなことは、そういう状況のまっただなかに在る人は意識しておらず。むしろ、知らず知らずのうちに浸っている言った方があたっている。尋ねられたところで答えようがない。そういうことは、よほどのことでもないかぎり、普段は意識にのぼらない。いったいこれを、どうやって「実証」したらよいのだろう。

 いま現実に十数年たってみて、私自身、その光景に「懐しさ」を覚えたとき。これでよい、これで十分だと私は思った。誤っていない。私の考えていたことは、当っている。自分自身の体験という「実証」ができつつある、そう思ったのだ。だから内心ほっとしたのである。そこに住んでいる人に比べれば、私のその町での体験は全くとるに足らないほど少ない。そうであるにも拘らず、その私が「懐しさ」しかも「帰ってきた」という感情さえもったのだから、あとは推して知るべし、そう思ったのだ。

 けれども一瞬、しかしこれは、自分が設計したという「思い入れ」がそうさせているのではないかという疑念が頭のなかをよぎった。しかし、設計当初はともかく、設計して十年以上もたってしまうと、設計者は意外と冷静でいられるもので、その建物を客観的、第三者的に見ることはもちろん批判・批評することもできるようになるものである。設計者であり同時に観察者であるということが、ほぼ可能になってくる。言うならば、昔の恋人に会っても、確かに一方である種の感懐を抱きつつも、割とクールに話ができるような、そういった年月というフィルターがかかってしまうようなのだ。というか、年月がいろいろな夾雑物を流し去ってしまうのだろう。私はそんなことを頭のなかで反すうしながら車を走らせていた。そして、何度も思いなおしながら、やはりこの「懐しさ」はほんものだ自然にわき起ってきたものだ、そう確信に近い感じを抱いたのであった。

  

 私は先号のあとがきで、いつも山々に囲まれている人たちが、いまその山々にいかに対しているか尋ねてみたいと書いた。先々号でも、「幼き日の山やま」という随筆を引用して、山への対しかたの話を書いた。しかし、先々号の場合には、そり焦点は別なところを目ざしていた。けれども、私がこの随筆に目をとめたというのも、このある程度確信はもてても、いま一つ「実証」し難いこういう地物の光景の人との係わりそしてその大事さということに対して、この間ずうっと関心があったからなのだと思う。考えてみれば、私はこの間、はるか昔に考えたことを、自分の身で体験し感じて「実証」するために生きてきたのかも知れない。それはきっと、私自身が体験をつみ重ねてゆくなかで、徐々にその姿が明らかになってくることなのだろう。これは人間の心情に係わることだから止むを得ない。

  けれども、十分にかたちを成していなくても言わなければならない。そう私は思い続けてきた。こういった「目に見えない」ことは、「目に見える」ことだけにかかずりあい、それらに分解するだけでこと足りるとする「合理主義」の下では、どんどん無視されていってしまうからである。「体験の内容と成り得る」ものが無視され、忘れ去られてしまうからである。そのように、どうしても私には思えてならなかった。だから、どうしてもそれを言わなければならない、しかも、建物づくりをしつつ、あるいはそれを通じ、言わなければならない、そう思ってきた。しかしながらそれは、それを確かなものにしようとしつつある途中の(その途中がいつ終るのか分らない、というよりむしろ多分終わりがない)段階で言わなければならないことだ。だからずうっと、はがゆく、もどかしいことの連続だった。ときには、これは全く私の独りよがりの考えかたなのではなかろうか、既にして出だしを誤まったのではなかろうか、そう思うこともたびたびあった。そのたびに、こう考えた方が、人々の諸々の営為:人々が生き暮してきたこと、やってきたこと、・・・・言集のほんとうの意味、詩や文学の存在の意味、そういったことが、少くとも私にはよく分るような気がしたし、それにも増して、ほんの少しではあるけれども現に同じように思い、語りかけてくれる人たちがいるではないか、そう思いなおしては、気をとりなおしてきた。

 翌日の朝のこと、同行した人の内の一人が、朝もやのなかに浮いた八甲田山をながめていて、しばしの沈黙ののち、いつもこれを目の前にしている人たちには、これはどう見えるのだろう、そういった内容のつぶやきをもらすのをきいて、だから私は、無性にうれしかった。この人も、単に景色を見ているのではないぞ、そう私には思えたからである。

  

 いま私は、八甲田の光景から話をすすめてきた。けれどもそれは、なにもこういった目だった地物についてだけの話ではない。私たちをとり囲んでいる一切のものというのが、それなりにそれぞれ、私たちにとって、「気になる」ものとして存在しているのだと言った方がよいのである。けれどもこれも、そのことに先ず気づくことから始めなければならない。いま、そのことの一環として、先ず、このような「目だった」ことの話からすすめたにすぎないのである。

 私たちは私たちが「私たちの地図」をもっていることに気がつくべきだ、このように私は先号で書いた。いま書きつつあることは、これに関係してくる。いったい何故、こういったことに気がつくべきだと言うのか、どうしてもこの点についてもう少し説明を、無理してでも、する必要に迫られる。

  私たちがいま、たとえば、ハイキングなり山歩きをしていると仮定しよう。大分歩いておなかが空いてきた、ころあいもよいし昼食にしようということになる。そのとき私たちはどうするか。目的は「空腹を満たすこと」にあるとして、所構わずすぐさま弁当をひろげるだろうか。そんなことはない。ないはずである。私たちは、場所を探し腰をおろす。そして、落ちつけたことを言わば確認して、それからおもむろに弁当をひろげる。だいたいそういう手順になるはずだ。

 

 私の住む筑波研究学園都市のある小学校のグラウンドは、起伏のある広い芝生、樹林、池(林や池は、大かた昔からのもの)のある公園に隣りあっている。ここでは、学校にも公園にもヘイというものがないから、どこまでが学校で、どこからが公園なのか、一見したところ区別がつかない。この小学校の秋の運動会は、これまたいま都会では考えられないほど昔風で、学校の行事ではあるけれど、むしろ子どもを軸にした家族ぐるみ町ぐるみの行事として、結構にぎわいをみせる。その運動会の昼の休憩は、それぞれの家族が思い思いに、このグラウンドから公園に散らばって昼食をとるのであるが(運悪くその日親が都合のつかなかった子どもたちは、よくしたもので、知人の家族と一緒にやっている)、それを観察していると、その席とりの様子が、まことにむべなるかなという様相をとるのがよく分る。決して、どこでもよい、というようなことにはならない。出おくれた家族が、止むを得ず、所在ない場所にとり残される。

 二年ほど前、子どもと八ヶ岳の一画に登ったとき、一休みしようとして腰をおろし、持参のカンジュースをのみ、ふと座ったところの地面に目をやったところ、そこにカンジュースの引きぬいたフタが数個、泥にまみれて落ちているのを見つけ、なんだ、みんな私と同じ格好をしてここに腰をおろしたなと思い、なんとなくおかしく思ったことがある。

 こういったことはまた、喫茶店の席とりのことを頭に浮べてもらっても分る。だれと(何人で)いかなることのために、つまり、恋人と密やかに人目を気にしてお茶をのむのか、公然とのむのか、あるいは一人で物思いにふけりたいためか、単なる時間つぶしか、あるいは数人集まって楽しい話をするのか、それとも深刻な話をするのか、‥‥それによってみな座りたい場所がちがっていて、ときには喫茶店そのものの選びかたさえも違ってくる。

 いまここに思いつくままにならべた事例をどう見たらよいか。

 これは、私たちがなにかを為す場合、そのなにかを為すためのそれなりの場所を要しているということであり、また、私たちのまわり(の空間)には、そういう具合に私たちがなにかを為すのに向いたそれなりの場所、つまりいろんな性格を感じさせる場所、というものが無数に存在し・・・・より正しい言いかたをするならば、私たちが私たちをとり囲む空間のなかに、いろんな性格の存在を(瞬間的に)感じとっている‥‥私たちはそのなかから適宜、そのときの私たちのありように応じ、それなりの場所を私たち自らの感じるままに(瞬間的に、そして決して信号機の青・赤の約束ごとに機械的に従うようにではなく、言わば主体的に)取捨選択し探している、ということなのである。

 

 先日の夜、我が住む町の近くを車で走っていたときのこと、隣りに座っていた私の友だちが、まわりに展開してゆく景色を見ていて(私は目をこらして道を見ているからそういう余裕はないのだが)「こわい森だ」とか「心なごむ林だ」とか「ほっとする揚所だ」とか感想を述べ続けていた。昼間見なれた風景も、夜になると際だってその特徴が露わになって見えてくるものだ。そしてこういう感想は、次の段階として、ここなら住めるとか、ここには怖い伝説でも生まれてもおかしくないとか、そんな話へ発展していった。つまり、ある感じをいや応なく私たちに抱かせる光景(場所)というものが、私たちのまわりには充ち充ちており、それがそこでの私たちのふるまいを、言わば支配するのであり、また当然のことのように、私たちは私たちのふるまいを(実際に行動に移さなくても)予測することができるのだ。

 いったいなぜ、単なる木の集まりにすぎない森が、ある森は人をして「怖い」と思わせ、またある森は「なごんだ」と思わせるのか、これは詮索したらきりがない。しかしここでは、そういう事象があるということ、そういうものなのだということ、このことを認めてもらうだけで十分だ。

 

  私たちの普段の生活において、かくあることがある以上、建物づくりもまた、まさにこういうことを認め、理解することから始まるべきではないか、なぜなら、建物づくりによってできてくる場所というのもまた、いま述べてきたような場所の一員になかまいりすることになるからだ、これが、その昔私の考えたことであった。以来、基本的には少しも変っていない。

 だから、先号で書き、またこの文の初めにも触れた「私の地図」というのは、私のまわりにある場所のなかに、そのときの私なりに(子どもなら子どもなりに)いろんな性格の差をみつけだし、それらを私なりに頭のなかで組みたて描いている、そういった地図のことだ。それは決して測量図としての地図そのものではなく、それに比べれば不完全だ。けれども普段、私たちには測量図は必要でなく、こういった「私の地図」で十分間に合ってしまう。そして、私たちがなにかをしようとするとき、私たちは即座にその「私の地図」の一郭に、そのための湯所を探しだし、あるいは逆に(子どものころを思いだしてもらえば分ると思うが)その地図に描かれた、自分のものとなっているあたりをなんとなくそぞろ歩いていて、出くわした場所場所で、そこなりの遊び(やること)が触発される。

 先回、川を渡った向う岸は「私の地図」には載っていないという書きかたをした。けれども実は、その言いかたはほんとは正しくない。載ってはいるのだ。ただその載りかたがちがう。なにか得体の知れない場所、怖い場所、ない方がいいけれどある、そういう場所としては載っていたはずなのだ。なにかおどろおどろしい場所がそこにある、近づけない、そういう風に。そのかわり、それに対置して、こちら側には、私の意のままになるところが、ちゃんとあるのである。これが「私の地図」なのだ。

 おそらく人々が「測量した地図」というものをもっていなかったとき(先回、これを私は「本物の地図」と表現したのだが、この通信をいつも熱心に読んでくれ必らず批評してくれる人から早速クレームがついた。本物は「私たちの地図」の方なのではないかと。そこで今回は、測量した地図と言いなおしているのである)、人々はこういう具合に、住める・住めない、行ける・行けない、等々といったことに基いた「地図」をもっていた。そして、それに拠って自分たちの住む場所を確保してきた。もちろん何を食べて生きてゆくか、それは住む場所を決めてゆく必要な条件であったことは確かではあるけれど(採集経済と農耕経済では場所がちがう)、それで十分な条件なのでは決してなく、つまり食えればどこでも所構わず住んだのではないことは、こういう見かたで遺跡分布図などを見てゆくと、自ずと明らかになってくる。むしろ、いま以上によく考えられていたのではないかとさえ思いたくなる。いまの文明下の生活に比べれば比較にならないほど貧しい生活の時代(つい最近まで)人々はむしろいま以上に、自らの心情において豊かであった、こうも言えるのではなかろうか。

 

  先ほどの山歩きのときのはなしだとか、いくつか思いつくままに記した事例について、多分(というより、きっと)全ての人が、そういったことがあることを、共感をもって認めてくれるはずである。であるにも拘らず、いま、人々は、「食う」ということは「食べものを食う」ことであればよいとして平然としていられるし、「住む」ということは家さえあればどこでもできる、つまり必要条件だけでこと足りると思いこんで平然としていられる。平然としているように見える。十分な条件など願っても無理だし、それは付加的な価値、ゆとりあってのはなしなのだ、そう思われているのではなかろうか。そこにあるのは、必要な条件と十分な条件が、それぞれ独立にあり、しかも必要な条件の上に十分な条件(強いてなくてもよい)が追加される、なにかそんな風な考えかたがその根底にあるのではなかろうか。しかし。こういう考えかたは先の全ての人の共感が得られるはずの事例とは、全く相反することであるのは明白である。そして、現実にはむしろ、この私たちの日ごろのふるまいかたと相反する方向でことが進んでいる。それがすなわち、私が何度か書いてきた、私たちの日常を「逆なでする」方向に他ならない。

 

 言うまでもないことだが、ある事象は、必要にして十分な条件がそなわらなければ成りたたない、これは確か中学校あたりの数学で習った論理学の初歩だ。にも拘らずその一方だけでことがなりたつと、どうして思うようになってしまったのか。

 いつの日からか、人間(の生活)を対象として観察し、人間の生活とは、その観察において見えてくるところの、食う・働く・寝る・・・・といった「行為」の(単なる)集合だとみなす癖が横行しだしてしまったのである。そこでは、その観察の対象となっている人間の生活というのが、実は、その生活をまさにしている、営んでいる人間の主体的な活動の結果物なのだということが、もののみごとに忘れられ、見失なわれているのである。更に、忘れている、見失なっていること自体さえも忘れ、見失なっているのである。

 だからいま、この文の初めの部分で書いたように、この町学校でなく、この町学校をつくっても平気でいられるし、先号で書いたように、半径500メートルの円を描いて、そのなかに住む子どもたちがみな一様にこぞってその円の中心の児童館によろこんで集まってくるなどと思って平然としていられるのだ。そんなことでつくられるものが「体験の内容と成り得る」ものとなるわけがない。そこでは初めから、人々の主体的な活動:主体性を無視している、というよりその存在が認められていないのだ。体験とは主体的なものなのであって、信号機にただ従順に従うようなものなのではない。

 

 いったいなぜこういう事態になってしまったのか。私はこの通信でほとんど毎号、こういう事態に到らしめたのは、その基にある、近代的、近代合理主義的、「合理主義」的、あるいは都会的等々といった言いかたで呼んだ独特なしかも支配的な考えかたにあるのだと書いてきた。この考えかたのよってきたること、その内容の分折・検討といったことは、だから絶対にしなければならないことだ。近代とはなにか、ということである。かといって、そういう大上段にふりかぶって攻めるなどというのは、私には不向きであるし、第一そういう能力はほんとのところない。だから、というかむしろ、現実の局面で私たちが遭遇する諸々の事象の解釈を通じ、そういった近代の考えかたの落とし穴を露わにしてゆきたいというのが私の思うところであり、またその方が、理論的分析よりもほんとは強い、そう内心では思っている。なにしろ私は、現実に建物づくりをしなければならないという破目のなかで考えてきたから、いまさら哲学教師評論家にはなれないのである。それ故いまここでは、この近代について述べられた平明にして要をえた文章を引用するに止めておこうと思う。

 「日本の中世文化は、人間を深く究め、その主体的可能力を発掘しようとする生き方によって生産されたものである。古代文化は、これと違って、人間を超越した神を畏れ、魂を信じ、その働きに寄り縋ろうとする生き方から生産されたものであった。近代文化は、そういう超人間的なものに寄り縋ろうとするのでもなく、また、人間の可能力に頼ろうとするのでもなく、対象としての自然および社会を究め、そこに行なわれている法則を発見することによって、対象の世界を客観的に認識し、それを支配しようとする生き方によって生産されつつある。

 現代は、このようにして、自然を究め、そこに行なわれている法則を客観的に認識することによって、自然を支配するために、かえって、その自然に随順するほかはなくなり、自然に支配されようとしているのが、人間である。言い換えると、近代文化は、人間の主体性を喪失することによって成立し、発展している。これこそ人間の危機でなくて何であろうか。人間は、このような危機に直面して、われわれの生活と文化の中に人間の主体性を確立しようともがいているのが現状である。(西尾 実:中世文学と道元に関する党え書:1962年著:冒頭より、道元と世阿弥 所戴)」

 

 私の見解と多少違うのは、その最後の部分である。むしろ私は、いま、人間はそんな危機にも気づかず、その気のついていない、危機を危機と見ることもできない状況へ、自ら進んで、ときにはよろこびいさんで、入りこもうとしているのではないかとさえ思いたくなる。とりわけ、私のまわりの建物づくりや町づくりに係わりをもつ人たちの世界は、残念ながら、まさにそういう状態だ。彼らの多くは(大半は)人間を単に観察の対象としてしか見ない。人間の主体性など、つめのあかほども念頭にないのである。そうすることが、そうすることこそが「科学」だと主張するのだ。そのように見るのが「研究」であり「学問」であると強弁するのだ。ことによると(おそらくきっと)彼らは、彼らだけが主体性をもっているとでも思っているのだ。人間は、彼らにとって、操作の対象でしかない。彼らは既に、「お上」を「公共」と言いくるめる側にたっている。彼らには、人間の主体的営為というものが全く分らない。だから彼らには、古代とはなにか、中世とはなにか、人間の歴史とはなにか、そういう視点はどこを探してもないだろう。それはもう終わった話。それはそれ、なのである。昔は昔なのである。これこそ危機なのだ。

  

 私が何を考えていたか、考えてきたか、それをなんとか説明しようとしているうちに、大分遠くまできてしまった。再び元へ戻ろう。要するに私がその学校の設計に際し考えたことは、一言で言えば、この町の子どもたちの「体験の内容と成り得る」場所をつくるということであった。(もっともこういう便利な言いかたは、当時思いつかなかった。)

 それではそのとき、「学校とは教育の場である」という言いかたのなかの「教育の場」は、どこへいってしまうのか。その点についても、私は少し変わった考えをもっていた。

 

(「筑波通信№7後半、あとがき」に続く) 


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「七戸物語(その2)」 後半

2019-03-02 08:47:15 | 1981年度 「筑波通信」

 (「筑波通信№7 前半」より続く)

 

 学校建築については、当時既に、学校において行なわれる教育の形態(授業形態)が実地に観察され、細かく分折・検討が行なわれ、いろいろな室や運動場などの(教育の場としての)備えるべき条件だとか、それらの並べかたの方法などについて、学校建築の専門家たちが研究を重ね、またそれに拠る各種の提案やモデル建築が提示されていたのであるが、しかし現実に建っている模範的と言われた実例は、正直言って合点がゆかず、私の通った古い木造の学校の方が、私には数等なじめるとひそかに思ったものである。私の疎開先の学校は、木造平家建の教室がハモニカ様に並んだ校舎が三本平行し、それを「王の字」型に廊下がつないでいる、昔よくあった型であったけれども、うす暗い教室のすみっこなどは結構楽しかったし、とりわけ二列の校舎の間の幅2メートル(もっとあったかとも思う)ぐらいの小川(用水路)がきれいな水をたたえて流れていた、その細長い空間は、もたれかかってなにかをした校舎の木の外壁とともに、別にこれといった細工など何も施されていなかったけれども、最もなじんだ場所であって、いまではもっと美化された形で思い出として浮んでくる。

 そういった学校建築の専門家たちの研究成果のとりこまれた学校がなじめない、いったいそれはなぜなのか。

 私の行きついた結論は、この人たちの学校建築について考えていることには、子どもたちの生活が欠落している、そこにあるのは、子どもたちの教育(授業)との係わりという局面での諸行為としての意味の生活だけなのだ、そういう結論であった。そして、学校建築というのは、そういう単なる「教育の場」として限定して考えてしまう前に、ほんとの意味での「生活の場」として先ず考えるべきだと考えるようになったのである。

 

 子どものころを思いだしていただければ直ちに分ることなのだが、たとえば学校の建物や校庭のほんのちょっとした一偶や、校庭にあった木、草むら、あるいは往復の二十分もあれば行きつくのに小一時間もかかった道すがら(いま私は、あの疎開先の学校を思い出しながら書いている)、そういった光景とそこでの私の姿が次々と、月なみの表現でいえば走馬燈の如くに、思い出される一方で、たとえばどんな具合にしてかけ算やわり算を習ったか、その授業形態その場面としての教室の光景というのは、けろりと忘れていることに気がつくはずだ。授業がらみで思いだすことがあるとすれば、廊下に立たされたとか、指されたけれど答えられなくて弱ったことだとか、私の場合そういうえらく情けない話だけだ(これについては、ことあるたびに大人の人に尋ねてきたのだけれども、思い出すのが授業外のことである点は全く同様であった)。

 すなわち、大人が必死になって考えている「教育」の局面は、子どもの私たちによって、こういった生活のほんの一部に押しやられ、あるいは一部としてくるまれてしまっていたということなのだ。

 

 唐木順三の「途中の喪失」という随筆のなかに、次のような一節がある。

  「私たちの子どものころは途中で友だちを誘い合いさんざんに道草を食って学校へいった。学校へついても授業の始まるまでに三十分も一時間もあるという具合であった。学校までの道草、ふざけたり、けんかをしたり、空想を語り合ったり、かけたり、ころんだりした道草、この一見無駄な途中によって、ほのぼのとしたものではあるが、さまざまな人生経験がつまれていったように思う。途中は目的地への最短距離ではなくて、少年たちの共通の広場であり、空想の花園でもあり、遊びの場所でもあった。ときには上級生の下級生への制裁の揚所にもなり、教室から開放された悪意の腕のふるい場所でもあったが、それはそれなりの秩序をもっていた。教室で学びえないものを、おのづからにして学びとる場所でもあったわけである。」

 

 これは、子どもにとっての学校(生活)を十分に語って余りある文章だと私は思う。余談だが、私がこの随筆を初めて読んだのは、設計した小学校の工事監理のために七戸へ赴く夜行列車のなかのことであった。折悪しく夏の帰省時で寝台がとれず一等指定席(いまのグリーン車)中ほどより後の通路側、そんな席のことまで覚えている。設計のときいろいろ考え悩み、自信もそれほどないまま、言ってみれば半ば強引に自分の考えを押し通してきた私にとって、私と同じような考えを述べたこの文に出会ったということが、いかにうれしいものであったか。多分想像していただけるものと思う。

  ことによると、しかしこういうことは、あなたがたの世代の子どものころの話であって、たとえば通学路も指定され、また授業内容も比較にならないほどきつくなっているいまの子どもたちは、必らずしもそうではないのではないか。これは、あなたがた世代の懐古の情、歳とった証拠である、などと言われかねない、などという気もする。しかしそれは、いま子どもたちに尋ねたところで、はっきりとは分ってこない。分かるのは多分彼らの十年後二十年後だろうと思う。ただ、私事で恐縮だが、私が筑波研究学園都市に移住してしばらくたったあとで、私の子どもに、前いた東京の学校といまの学校(因果なことに、ほんとに幸か不幸か、私の設計に関係した建物だ)の違いについて尋ねてみたところ、「こんどの学校は、かくれんぼができない。」そういう答がかえってきた。それをきいて、いまだって、少しも変っていない、そう私は(勝手に〉確信をもったのである。

 それと同時に、この学校について、雨が漏る、暑い、‥といったいろいろな批判をうけていたのだが、そのどれにもまして、この「かくれんぼができない」という一言ほどぐさりときたものはなかった。えらそうなこと言って、既にして観念的になって、考えだけが上すべりしている、お前が七戸で考えたことは何だったのだ、どこへ行ったのだ、そういう詰問にきこえたのだ。いまでもこの学校のそばは、しょっちゅう通らざるを得ないのだが、その度に「かくれんぼのできない学校」という苦い思いがよぎるのである。

 

 なるほど確かに、学校での子供たちの「生活」時間を、時間数で計るならば、その7・8割は教育:授業に費されているはずなのであるが、子どもの私たちにとってそれは、いま書いてきたように、むしろ逆転した比率、あるいはそれ以下にしか記憶されないのだという事実、これは十分に考えられなければならない。

 考えてみれば、あるいは考えるまでもなく、学校の教育・授業(特に義務教育の)というのは大人の勝手、大人の論理なのであって、子どもの都合ではないし、子どもの都合が考えられているわけでもない。そして子どもは、そういう大人の思惑にも拘らず、それとは関係なく、そういった大人のつくった制度やわく組のなかで、それでもなおしたたかに子どもの論理を展開しているのである。

  子どもにとって、彼らの生活の(ほんの)一部に「教育」がある、先ずこのことを認めることから始めよう。これが私の考えたこと:「教育の場」である前に先ず「生活の場」であるこの基本である。

  ふと省みてもらえば分ることなのだが、これほど感受性豊かなときは他にないと思われる子ども時代の六年間という長い年月を、子どもたちは(彼らの意志によってではなく)学校ですごすのだ。そういう(彼らにとっていや応なく与えられる)場所での体験を経て、子どもは大人になる。これは何人も否定し得ない真実である。それが「生活の場」でなくして、いったい何だろう。

  だから私には、学校建築の専門家たちの考えていることは、ただ大人の論理に従順な子どもたちをつくる教育のための鋳型だけを考えているようにしか見えなかった。そこにも、(子どもたちの)主体性というものは、つめのあかほども考えられてはいないのだ。

 私は別に、ここで、子どもの論理を抽出して、言わばそれに迎合すればよい、などと言っているのではない。そうではなく、子どもたちでさえ(あるいは子どもたちだからこそかもしれない)主体的に生活をしている、そのことを知るべきだと言っているのである。この点については、最近車を走らせながらきいた、灰谷健次郎の語っていた言葉(正確ではないかも知れない)が印象に残っている。「私は教師であったとき、決して子どもに迎合しなかった。大人の論理をぶつけていった。しかしそれは、子どもの論理をないがしろにすることではなかった。」

 

 だから、私がこの七戸町の小学校の設計に際し考えたことを、いままとめれば(というのはそんなに理路整然と、その当時まとまっていたわけではなかったから)この町の子どもたちが、教育制度という他動的なわく組に括られつつも、そこで子どもたちが主体的に生活し、言ってみれば子どもたちの社会が展開する、歳を重ね成長してゆく、そういう彼らの「体験の内容と成り得る」場所として耐え得る場所を用意すること、こういうことになるだろう。そしていわゆる「教育」は、言ってみれば、その一郭で行なわれる。そしてこれは、当然のことながら、先に説明してきた私たちと場所との関係についての話に収束する。

 

 そして、七戸町立城南小学校は建った。そしてそれが、学校建築の専門家のなかで物議をかもしたのをうすうす知っていた。それが、少なくとも一見したところ、昔ながらの学校はもとより、当時学校建築の専門家によって推拳されていた模範的学校に比べて、どう見ても風変りであったから、専門家の間にさえ、その評価・位置づけをめぐって、少なからず途惑いが見られたのも、それは当然だったかもしれない。もちろん私には、風変りにすることが目標としてあったわけではない。

 私はこの学校の設計にからんで、かなり当時の私の立場にしては過激な表現で文章をものし、建築の研究や専門家のやっていることに対し批判を重ねていたから、そういうことへの言わば感情的反発も微妙に混じったかたちで物議をかもしたのである。私が一番気にくわなかったのは(いまでもそうなのだが)こういう研究者、専門家を自称する人たちが、決して根源にさかのぼろうとはせずに(問題の本質が何であったかと自ら問うことを忘れ)ただいたずらに、一次グラフ的に進む、進めると思っていることだった。そういうのが研究者だというならば、私は潔く研究者であること、そうなること、そう呼ばれること、それを拒否しよう、そう思ったし、いまもそう思っている(だから私は建築学会の会員ではない)。

 そして、いろいろな声やコメントが、直にではなく人や文章を介して私の目や耳に入ってきた。しかし、私にとってそれらはみなとんちんかんなことを言ってるようにしか見えなかった。

  そうは言っても、そういう声やコメントを知っているわけだから、私が彼らの評判を全く気にしていなかったと言ったら、それはうそになる。けれどもつまるところ、彼らは一介の見学者であり観察者にすぎず視線がただその表面をなでてゆくだけだ。建物の評価は、専門家の感想にあるのではない。ほんとの評価は、その建物を体験してゆく人々にとって、それがどうであるかそこにこそあるはずで、私にとってはそのことの方が気がかりであった。この学校がそこで育ってゆく子どもたちにとって、ほんとに「体験の内容」と成るだろうか、なじめるものになっているか、それとも所在ない場所でしかないのか、それが気がかりだった。

 しかし、それを直ちに確かめる術がない。唯一の方法は、それが定着してゆくか、そうでないか、それを十年、二十年と見続けることしかないだろう、そうするなかで見えてくるだろう。私は落成式の日、それはー段落してなんとなく気がぬけてゆくような感じになる日なのだが、これからが正念場、私が試される、びくびくせずに、しょっちゅう見に来よう、帰ってこよう、そう思ったのである。

 

 この設計は、私が責任をまかされた、そういう意味で、私の初めての設計であった。この「初めて」という状況は、こういうある種の判断をともなうことの場合、極めて気のはりつめた一種の極限状況のようなものらしい。できあがった建物をあとになって見てみると、解決のしかたの下手さだとか、技術的対応のまずさだとか、そういった点が確かに目につくのだが、考えられる限り考えてあるという点では、その後の設計より数等ましだと思えるような感じさえ受ける。そういった「初めて」という状況が、問題の所在を明らかにして見せてくれるのだ(というと他動的にきこえてしまうけれども、そうではない。考えてる方が、言わばあとがないというような気分でいるから、かえって問題がその軽重をきれいに整理されたかたちで見えてくるのである)。実際、考えられるだけ考えた、まちがったことは考えなかった、手ぬきはなかった、そういう充実感というものがあって、できあがったものの下手さ、まずさにも拘らずやったことに悔いがないから不思議である。

 むしろ、その後の設計の場合、確かに技術的な対応だとか解決の要領のよさだとかいう点では多少うまくなったとは思うが、どうしても目がそちらの方へ向いてしまって、問題の本質的な確認という点では、それをさぼる傾向があったのではないかと、いまふりかえってみると、思えてくる。

 

 たとえば、先の「かくれんぼのできない学校」とは何か。ここには、その考えかたにおいて何か欠落があったのだ。何かをさぼったのだ。私は「かくれんぼ」という遊びをさんざん考えた。つまるところ、「かくれんぼ」とは、人の意表をつく遊びだと言ってよい。普通なら居そうなところに居ない。隠れる。それを、探す方も考え、探す。つまり、日常の裏返しを楽しんでいるわけだ。一番うまい隠れかたは、私の言いかたで言えば、「私の地図」外のところ、あるいは探し手側の「彼の地図」外のところに隠れることだ。「私の地図」外のところというのは、そこへ行くこと自体言ってみれば冒険であるから、そういうところに隠れていると、見つからぬようにと思う心と同時に、あるいはそれ以上に、なんとなく尻の落ちつかないその場所の不安さに圧倒されて、心臓がどきどきする。おそらくこういう後ろのお化けを気にしながら隠れていたというような体験は、みながもっているはずである。実は、そういう体験の積み重ねで(なにもかくれんぼだけでなく)「私の地図」は拡大していったのである。

 「かくれんぼ」のできた学校、そこでは「私の地図」がいつも一枚しかないというのではなく、初めは狭い「私の地図」が、段々と拡大してゆき、ときには卒業するときになってもついに「私の地図」に載らないところが残ってしまった、そういう学校だと言ってよいだろう。「私の地図」が徐々に徐々に大きくなってゆくような、そういうつくりになっていたというわけだ。

 これに対し、「かくれんぼのできない学校」では、「私の地図」の段階的発達がない、その初めから、たちまち全体が即「私の地図」に描かれてしまうのである。次の段階の「私の地図」は、すぐさま学校外へとびだしてしまうのだ。確かにこの学校は分りやすいのだが、体験に成長がないのである。

 あえて言えば、この設計において私は、体験としての分り易さを追求はしたものの、体験の内容についての本質的な確認を、もうあたかも済ましてしまったかのように勝手に独り思いこみ、忘れてしまっていたのではないか。

 七戸の場合、そこではかくれんぼができる。そこでは私はちゃんと、本質的な問題の確認をやってある。自分で言うのも妙なものだが、いまとかく忘れてしまいそうなことが、ちゃんと考えられている。

 

 いま考えてみると、この学校はそれが私にとっての初めての設計であって、それが「初めて」であるが故に、私がその後考えてきた建築についての考えかたの大わく、骨組み:私にとっての問題の所在を、自ずと、垣間見せてくれたのだと思う。建築について私が考えてゆかなければならない問題が提起され(というより私に見えてきて)それに対してそのときの私なりに解答をだした、そのよし悪しはともかく、問題を考えられる限り考えた、おそらくそれが充実感とある種のさわやかさを私に味わせてくれたのだと思われる。言ってみれば、この設計は、いまの私の原点のようなものなのかもしれない。私はずっとそれを引きずってきた、あるいはそのとき浮んだ考え方の骨組み確認し、問題により深く答えることを目標にして過ごしてきたのではなかろうか。そして、だから、ときおりこの原点自体に不安をもつことがあったのだ。しかし結局、その骨組みを根本的に変えるような事態にはぶつからなかった。

 

 その後私は、いくつかのいろんな種類の設計をやってきた。その際私は、どの場合でも、いまここに書いてきたような考えかた(「体験の内容と成り得る」場所たり得ること)に基づいて、あるいは基づこうとする態度で、やってきたつもりではある。

 けれどもときおり、怠惰になり、ことの本質を忘れ、惰性でことをすすめてきたきらいがある。いまでも多分ときおりそうやっているだろう。そして、いい気になっているとはっとするようなことにぶつかる。分っていたつもりのこと、あるいは考えたつもりのことが、実は少しも分っていなかった、考えられてもいなかった、問題のまま放ってあった。そういうことに気づかされる破目になる。先の「かくれんばのできない学校」の例もそうだし、この通信の一号で書いた「自然発生的集落」についての質問もそうだった。考えられる限り考えた上なら未だ救われるが、そうでないとき、それは救い難い。自分の考えは何だったのか、何を考えてきたのか、ほんとに考えてきたのか、そう思うと情けなくなるときがある。そういうとき、私は無性に七戸へ戻りたくなる、行きたくなるようだ。何を考えていたのか、考えようとしていたのか、あの「初めて」のとき以上に深く考えられるようになっているのか、「初めて」のとき以上に充実感を覚えて考えたことがあるのか、要するに自分を見つめに、簡単に言えば、頭を冷やしに行きたくなる。どうもそのようだ。

 私はほぼ五年に一度、七戸を訪れている。それは、落成式の日に思ったこと、建物がどうなってゆくか見続けることの実行ではあった。しかし、むしろそれは、このことの裏返しとして、実は私は、私自身を見に行っていたのではないか、ふとそんな気がしてきてならない。七戸を訪ねよう、そう思いたつのに先だって、必らずふりだしに戻って考えなおしてみたい。みなければならないと思う何かが私の内にあったのではなかろうか(四年前のときは、「かくれんぼ」の一件のあとだ)。

 

 今年、私はやはり、無性に七戸に行きたくなっていた。どうしても夏までには行くぞ、そう春さきから思っていた。思いあたるふしがある。このところ、私はまた惰性で生きている。本質を見ようと(観念的に思っても)していない。そう指摘する人もいた。何やってんだ。自分が腹立たしかった。(そしてその一つの反省が「通信」になった)。

 予定は次々とくずれ、残すは八月末だけ九月になると忙しくなる、そんなことを考えているとき、七戸町のT氏から連絡が入った。もうじき20年になる。傷んできた。全面改築という話もあるがそうはしたくない。補修でゆきたい。相談したい。そういう電話であった。

 T氏は、この小学校の、言わばプロデュースを担当した、当時町の教育委員会事務局にいた人で、次回書くつもりだが、この20年近く、七戸町のいわゆる町づくりに、文字どおり身を挺してきた人の一人である。 渡りに舟とはこのこと、八月末、七戸帰りは実現した。

 

 故郷というものは見捨てたくなるものだそうである。そして、しかし、所詮見捨てることが、いかんともし難くできないものだそうである。私にとって七戸は、そしてそこでやった「初めて」の設計は、これもいかんともしがたく、いま私は何をしているか、それを量る物指しのO点になってしまっている。これから先もまた、何度も帰ってみることになるのではなかろうか。しかし、このことに気がついたのは、極く最近のことである。「初心不可忘」と言った先達のその言葉の意味が、いま、やっとなんとなく分りかけてきたように思う。

 

 18年後、学校はどうであったか、そしてそもそも、当時東京にいた私がなぜはるか離れた青森の七戸町へ出かけるようになったのか、その話が残ってしまった。特に後者はつまるところ、なぜ七戸町にあの風変りな学校が建つことが許されたか、あり得たか、という話であり、それは、その町の町づくりにかける情熱と、それを支える考えかたが何であったかという話に他ならない。「地方の時代」などと言われだす20年も前から、ここにしたたかな「地方」が在った、そのように私は思う。

 次回はそれについて書こうと思う。

 

あとがき   〇毎号私は、現状に対して批判的なことばを並べてきた。しかしその説明を詳しくせず、しても半ば抽象的であった。いつか具体的に説明する必要があると思っていたし、それを求める意見もきこえてきた。   〇七戸から戻ってきて、七戸の町の話でそれを試みてみようと思った。いままでの話の補足になれば幸いである。    〇ことの性質上、私がどう思ったかという言わば私的体験を語らねばならず、読む方もあまり気分のよいことではないのだが、しかしことの本質を理解しあう為には、ある状況を共有することから始めざるを得ず、止むを得ずそういう形になった。    〇しかし、このある状況を共有するということぐらい難しいことはないようだ。

〇たとえば、一つの言葉に人が思いをこめた、そのこめた思いというものを分る、分ろうとする、人が少なくなってきているのではないか。これは最近、私の同僚としょっちゅう問題にしていることだ。詩が、短歌が、そして俳句が分らなくなる時が真近かに迫っている。たとえば俳句を文字どおりに英訳したらなにがなんだかわけが分らなくなるのは目に見えているが、ところが、それ的理解、それ的解釈しかできない、つまり情景が想定できない人たちが確実に増えている。従ってそれを共有できない。というよりそれ以前である。ある精神科医が、精神科医は詩が分らなければその資格がないと書いているのを読んだが、それは建築家(ひろく私たちの住む揚所づくりに関わりをもつ人)に置き換えてもそのとおりだと思う。そして、言葉においてこういう状況であるならば「もの」に対しては推して知るべしである。

〇なぜ「かくれんぼができない」のか。その説明は、実はこの数年私の宿題であった。いまこの文を書いていて、自ずとその宿題が解けたように思っている。収穫であった。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。   

      1818年.10.1                       下山 眞司

 


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