《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには-その1

2009-12-05 00:06:37 | 専門家のありよう
倒壊した「木造3階建住宅・震動台実大実験」の試験体について、主催者の「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」に、その設計図・仕様などの詳細な資料の「事前開示」を要望し、先月(11月)19日に「事前開示の準備中、今しばらくお待ちください」との旨の連絡をいただいてから、半月近く経ちました。
おそらく準備に手間がかかるのでしょうから(設計図はあったはずだから、普通はそんなに時間がかかるとは思えないのですが・・・)もう少し待ってみようと考えています。

本当は、今回の「倒壊」事件の検証は、実験当事者ではなく、「第三者委員会」で検討すべきことがらではないか、とも思っています。
なぜなら、実験だからよかったものの、もしも実際の建物であったならば大ごとで、当然、設計者ではない第三者が原因究明にあたるはずだからです。

ところで、「(財)日本住宅・木材センター」のHPから、当該実験についてのニュースが消えたことはすでに触れましたが、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」のHPでも、そのニュース:「実験の案内PDF」:が読めません(それ以外の記事:PDFは、時間が経ったものでも載っています)。
それゆえ、その実験がどんな実験だったかを知るには、「公式」には「(独)防災科学技術研究所」のHPの報道機関向け9月28日付け「案内」だけになりました(ケンプラッツの10月30日記事は見ることができます。4日には最新のコメントも入りました。http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20091030/536517/)。

その一方で、「一般社団法人 木を活かす建築推進協議会」「(財)日本住宅・木材センター」HPでは、ニュース筆頭に「木造建築のすすめ」「伝統的木造軸組構法実大静加力実験結果速報」の「PDFによる公開」が掲載されています。
まるで、「木造3階建て住宅の震動台実験」が行われ、そして想定外の事態が起きた、ということ自体が、この世になかった、かのようです。

その実験以外の記事の記載は残っているわけですから、人の噂も75日、今は静かに静かに、「噂」が頭上を通り過ぎるのをひたすら待っているのでは、と言うより、そうありたい、という願望が、「歴史的事実」の抹消に走らせたのかもしれない、などと思ったりもします。

しかし、いやしくも専門家・研究者集団です。しかも国費の補助も受けているのですから、そんなことはないと信じて、約束の履行を待っています。


先回、四半世紀前に書いた一文を載せました。
その10年後、1993年に、「《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が『あたりまえ』になるには」という標題で、当時の《木造建築推進》の動きと、それに係わる建築家、専門家・研究者の様態について論評した一文です。やはり「尖がった」文でした。
これは、「建築設計資料 40:木造の教育施設」(1993年 建築資料研究社 刊)に、「筑波第一小学校体育館」(下の写真・図版)を載せていただくにあたって書かせていただいたものです。
今でも通用する話なので、転載します。

これは先回のよりも長く、一回では紹介しきれませんので、数回に分け、また中途を略して載せさせていただきます。


筑波第一小学校体育館 原設計の模型・平面図・断面図(「建築文化」誌1987年5月号より)  
原設計は、小屋(屋根)の架構に「甲州・猿橋」「越中・愛本橋」の工法を援用していた

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  《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには

    ・・・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象を与えたのは、
    ・・・・廊下を歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。
    その言葉を生きることは、
    知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも、
    ・・・・極めてむずかしいことだろう。
    「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。
    「幸いにして」と私が応じると、「幸いにして」と彼は繰り返した。 
          加藤周一「山中人話・スタインバーグは言った・・・より」

最近*、木造の学校建築が増えてきているという(* 1993年当時のこと)。
周知のように、文部省もそれを支援する「通達」を出すまでになっている。
明治以来、第二次大戦敗戦後も含め100年を越える年月をかけて、わが国は《専門家》を中心に、官学あげて《木造からの脱却》に向けて邁進してきたわけであるから、これが本当に方向の転換を意味することであるならば、まことに画期的であり、結構なことと言わねばなるまい。

ところで、私は、最近にわかに活発になってきた木造推進の動きと、各地につくられている木造建築に対して、いくつかの疑問を感じている*(* 1980年代後半~1990年代初め頃の動向)。

一つは、木造を推す理由についてである。

たとえば、昭和60年(1985年)に出された「文部省教育助成局長通達」には、「ゆとりと潤いのある環境の確保」と、《林業振興の一環としての木材需要拡大促進》のため、《柔らかで温かみのある感触を有する》木材を用いて《温かみのある》教育環境をつくることを推奨している。

木造の建物は《暖かで、人間的である》、だから木造を、という趣旨は、木造推進を唱える人たちの口からよく聞く言葉である。

最近のTVでも、東北の村の木造の廃校を借りて夏季市民大学を主宰している高名な文化人類学者が、木は生き物、木材になっても生きている、石や煉瓦に比べ質感が暖かい、だから木造建築は人間的である、木造の学校がよい、と説いていた。

しかし、私は、この論には強い疑問を感じている。あまりにも短絡に過ぎる論理であるからである。

この論理にしたがえば、西欧の石造や煉瓦造の建物は、その無機質の質感ゆえに、すべからく冷たく、非人間的な建物であるということになるだろう。
しかし誰もそうは思うまい。

むしろ、西欧をはじめとする諸国の古来の石造や煉瓦造の建物の方が、最近のギラギラした日本の木造建築よりも数等人間的である。
私も木材という材料は、煉瓦や石などとともに好きであるが、このような・・・・一面的な視点からの木造復権論議は、贔屓の引き倒し、かえって建物をつくることについて、建物と材料の関係について、誤解をひきおこす恐れがあるように思えるのである。

私は、建物を木材でつくれば、あるいは仕上げに木材を使えば、直ちに学校校舎が人間的になる、よい建物になるなどとは、いささかも思っていない。そのような考え方は誤りであるとさえ思っている。
鉄筋コンクリートであれ、鉄骨であれ、はたまた石や煉瓦であれ、その主たる材料が何であれ、よい建物をつくることができる。
現に、人は昔から、その住む地域で最も得やすい材料を使いこなし、自らの住む空間をつくってきた。

材料が木材であるか石であるか、はたまた土そのものであるかは、まさに、その人が住まねばならない地域の特性次第であった。
人びとは、得られる材料で、住める空間=「人間的な」空間に仕上げたのである。
要は、つくりかた、材料の使い方次第なのであり、それに先立つ第一の問題は、『何がよい建物なのか=人が住む空間とはいかなるものか』ということなのである。
最近の木造建築推進論議には、この肝心な点についての論議が抜け落ちている。

もう一つの疑問は次のような点についてである。

すなわち、最近の木造建築が、そのどれもが《木造でつくったこと》を《高らかに》標榜すること、そしてさらに《意欲的》で《斬新な木造》であること、を《追求すること》にのみ神経が払われているように見えることである。

そしてまた、何でもよいから木材を多量に使えば、木造振興⇒木材利用・木材需要の拡大⇒林業振興・地域振興に連なると単純に考えているように見えることである。

私が先年その設計にかかわった「筑波第一小学校*体育館」(* 現在は廃校になり他施設に貸し出されている)・・・・は、(地盤が転石だらけの急斜面であったがゆえに)木造で設計することにしたのであり、「木造を見せる」ことや「構築法を見せる」ことはその第一の目的にはなく、もちろん《斬新》であることも念頭になかった・・・・。
しかし、残念ながら、・・・・訪れる見学者の多くは、木造の特殊な構築法と誤解し、骨組みを見上げるばかりで、「体育館」は見てゆかないようだ。

この体育館を木造で設計することにしたとき、私は、在来* の普通の技法の応用でつくれることを念頭においていた(* 語彙の本来の意味。在来工法の意味ではない)。特殊な技術・工法を採ることは考えなかった。
特殊な技量や技術をもつ人だけがつくれる構築法ではなく、誰にもあたりまえにできる方法でつくろうとしたのである。
木材も多量に使っているように見えるが、特に多いわけではなく標準的な量である。

最近*、かつて林業で生きていた町村が、その林業再建振興策の一環として、公共施設を木造でつくることが流行している(* 1993年当時のこと)。・・・・話題に(なっている)例を見ると、その多くは特殊な工法:たとえば木材をボールジョイントを用いて接続する工法など:を前提とした設計である。
ある事例の設計者によれば、「《ほぞや継手のような目を見張る名人芸》によって組み立てられるかつての木造工法を復活普及させるのは、職人がほとんど姿を消してしまった現在、不可能である」から、ボルトナット工法も積極的に受け入れるのがこれからの新しい方向である、という*(* 現在でもこう考える方々が多い)。

この工法の場合、たしかに木材の継手に、かつての工法を必要としないが、その一方で、ボールジョイントの製作を必要とする。しかし、この部材は、町の金物屋で容易に手に入るものではなく、町の鉄工所で簡単につくれるものでもない。いわば特注品であり、製作所も限定され、作業にも特殊な技術を必要とするから、町の職人・技術者に普通に扱えるとは限らない。
それゆえ、施工は町の業者(ではなく)大きな企業に発注することになる。つまり、町の支出する費用は、町の外へ持ち出され、町の経済的振興にはならないことになる。
したがって、こういうやりかたが《あたりまえ》である限り、林業の町のシンボルとして木造の建物が華やかに誕生しても、木造普及の波及効果はまったく期待できないだろう。木造は面倒だと思われるだけである。

たしかに、町や村に職人・技術者は少なくなった。しかし、木材をいかに大量に使っても、これ以上さらに彼らにできる仕事を減らして、何がいったい地域振興なのか。それは彼らの「切り捨て」である。
切り捨てることが本当に「必然」なのか。彼らを切り捨てる権利が《建築家*》にあるのか。
《建築家*》のこういう単純で底の浅い《合理化思想》は、払拭しなければなるまい。
なぜ「職人・技術者」が少なくなったのか、その根本的な理由を、《建築家*》はいま、率先して考えてみる必要がある(* この《建築家》は、建築にかかわる人たち、という広義の意味である)。

・・・・・中略・・・・・

最近の《建築家》は《斬新》であることを非常に好む。《新しい》という言葉にとりわけ弱い人種である。おそらくそれは、自らの《独自性》、いわゆる《アイデンティティ》の表出が、《新しい》《斬新》であることによってのみ可能なのだ、と信じているからだろう。

しかし、「新しい、斬新な創造」とはいったいどういうことなのだろうか。
あるノーベル物理学賞受賞者は、「豊かな創造」は「過去のしがらみにとらわれない」ことにより生まれると語ったという。
しかし、この言葉が、過去との訣別、過去を忘れることだと理解されたなら、発言者の真意にもとるだろう。それは大きな誤解だからである。
われわれは、いったん出来上った一つの結果=形・形式にとらわれやすいという性向がある。それにしたがっていると無難に思える。
そのとき、いったいそれがなにゆえの結果=形・形式であったかが忘れられる。
そうなれば、それから先、そこに何の進展もないのは明らかである。

「過去のしがらみにとらわれない」という言葉の真意は、ものごとを根本的に、根源的に*考えろ、ということであって、過去を忘れろということではない(* 英語の radical は、根源的な、という意味で、根源的に考えるとその時代の「普通の考え方」に比べ「過激に見える」ため、「過激な」と訳される)。

同様に、「新しい」「斬新」ということは、決して、過去との訣別、過去を忘れることではない。
しかしながら、過去を全否定し、というより、過去の蓄積についてまったく知らず、知ろうともせず、一見《目新しい》こと、いままでにないことを行うのが創造であると誤解されがちだ。

かのノーベル賞受賞者は、物理学の過去の蓄積について十分に知った上で、事象の解釈の理論を「新たに」構築しなおしたのである。

それに対して、過去について十分に知らず、知ろうともせず、適当に、恣意的な(ほとんど思い込みに近い)理由を付け、《目新しい》ことに突っ走るのが《新しい》と思い込んでいる、それが現代の建築の《専門家》である。

鎌倉時代、東大寺の勧進であった重源(ちょうげん)は、「新しい」構築法により東大寺の再建を行なった。いわゆる「大仏様(だいぶつよう)」といわれる貫を多用する、前代までの工法に比べ、まさに「革新的」な技法である。
これは、当時の中国・宋の技法の導入といわれ、重源の元には宋の技術者もいたようであるが、調べてみると、宋の方式を丸のまま移入したわけではないようである。

彼らは、わが国において前代までに到達していた技法にも精通しており、当然、平安末期には技術が停滞し、形式化・様式化していたことも十分に知っていた。
それゆえにこそ「過去のしがらみ」=「形式・様式」からの脱却、技術の根本的な見直し、建物をつくることと技術の関係についての根本的な見直し、真の意味での合理化を彼らは行ない得たのである。
それは決して過去の技術や職人との訣別を意味するものではなく、もちろん切り捨てでもない。むしろ、その延長上の革新であった。だからこそ「革新的」なのである。
もちろん、《時代》を表現しよう、《目新しさ》を示そう、などということは彼らの念頭にはなかった。彼らの目的は、唯一、それまでに蓄積されてきた技術を真に合理的に駆使して、東大寺を再興することであった。

ところで、先のボールジョイントを多用した事例の設計者は、重源を引き合いに出し「・・・・コンクリートと木造の混成、大架構立体トラス、バットレスの採用など、かつて鎌倉時代の初期に重源が東大寺の建立に際して創出した唐様(からよう)の現代版と自負していいのではないかと考えている。唐様によって、和様のスケールをはるかに越す巨大建築を可能にしたようにである。しかも文化的にもまったく新しい形を世に示すことでもあって、あの時代の革新、公家から武家社会への転換を見事に表徴したようにである。・・・・(原文のまま)」と記している。

おそらく、比べられた重源がこれを知ったら、驚き、呆れることは間違いない。
重源の仕事のなかみはもとより、日本の歴史、文化や建築の流れについての理解が、あまりにも浅薄すぎる。手前みそすぎる。
「歴史」が形式的にしか見えておらず、むしろこれは、最近の《建築家》の多くに見られる恣意的な思い込みをまさに《表徴》する文章といってよい。

[長くて、お疲れ様でした。以下は次回です]

コメント (3)
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