近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-2

2007-06-30 23:39:58 | 建物づくり一般

 大文字屋・西川家は、蚊帳や畳表を卸していた豪商。
 この建物に「店」が構えられているが、江戸、京都、大阪に「出店」を構え、商売の主力はそちらに移り、本宅も京都に移ったあとは、ここは問屋的な性格が濃くなり、丁稚の養成を行う場になっていた。しかし、江戸時代を通じて、この家には歴代当主の家族が住み、番頭、手代、丁稚、女中など多数の人びとが働いていた。

 なお、建設時は「杮葺き」だったが、安政年間に瓦葺きに変えられた。今回の復原では、「杮葺き」に戻さず、防火の観点から、瓦葺きとしている。
 また、付属の「土蔵」は主屋よりも古い建築。

 上掲の平面図と内部写真は「重要文化財 西川家修理工事報告書」からの転載(室名、寸法など、加筆)。図面は拡大してご覧ください。
 
 「店土間」と記したところが建物の主出入口。「くぐり戸」の付いた「跳ね上げ戸」になっている。
 「店土間」の両側に「店」を構える。外観写真で見える板の部分は、柱間に上下2枚の「摺り上げ戸」が仕込まれ、写真は戸を下ろしたところ。昼間は、1枚ずつ押上げ、上部に格納する。「揚げ戸」とも言い、いわば江戸時代のシャッター。

 「下店」に続く「板の間」は、商品を置いたり、仕分けをするのに使われたらしい。
 「玄関」は主客の上り口。「中の間」は、今で言うリビング、茶の間的な性格の部屋。「茶室」は、「店」からは遮断されている。
 「寝間」にある階段は「箱階段」。
 「おもて玄関」「次の間」「座敷」は接客用空間。
 「店」の西北隅に「側桁階段」をかけると、2階の「板の間」に通じる。1階の「板の間」の上にあたる2階「板の間」には、「玄関土間」から梯子をかけて登る。ここは使用人が使ったらしい。
 
 
 今回は「断面図」を省いたが、この「玄関土間」のあたりの空間の構成は、ダイナミックでありながら落ち着いていて心地よい。もっとも、「断面図」があっても、その空間の妙は、図面や写真だけからは分らない。現場に立つと、これはうまい、と思わず感嘆の声が出る。おそらく模型をつくれば分るだろう。 

 この建物は、創建以来、何度も改造が行われていて、調査は大変であったらしいが(調査~復原工事:33ヶ月)、この建物の修理工事報告書は、調査者の熱意が行間にこめられていて、おそらく数ある報告書の中でも最高のレベルではないだろうか。特に、付属の「土蔵」や、主屋の各種開口装置についての考察、図面類は、秀逸。大変に参考になる。
 次回に、断面図と建具、特に出入口の「跳ね上げ戸」「店」の「摺り上げ戸」を紹介したい。その次に「土蔵」の予定。

 関西方面に行かれる機会があったら、是非見学を!

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近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-1 の補足

2007-06-28 11:15:00 | 建物づくり一般

 先の地図が、小さく読めなかったので、大きく再掲。
 また、通りの名の入った「碁盤目・区画割図」も新たに追加。
 いずれも「重要文化財 西川家修理工事報告書」(滋賀県 1988年)からの転載。

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近江八幡・・・・その町並と旧・西川家-1

2007-06-28 02:57:58 | 居住環境

 20年ほど前、京都を訪ねたとき、車で琵琶湖を一周したことがある。12月で、ときおり雪が舞った。
 その時素通りしてしまった近江八幡(おうみはちまん)の町を訪れたのは、それから10年ほど経ってからのこと。もともと静かなたたずまいが感じられ、訪ねてみたいとは思ってはいたのだけれども、なかなか実現できずにいた。
 1988年に滋賀県から刊行された「重要文化財 旧西川家修理工事報告書」を見て、一日割いて訪れることにした。

 近江八幡は、天正13年(1585年)羽柴秀次が築いた八幡城の城下町が発端とされる。八幡城は、通称八幡山(正式名鶴翼山:かくよくさん)に築かれ、その陸地側に掘られた八幡堀は琵琶湖へ通じ、町への船入堀:運河の役を果している。

 八幡堀掘削によって出た残土は、低湿地の埋立てに使われ、そこが現市街地にあたる「町人町」のあたりにあたる。
 市街は、碁盤目状に整えられているが、それは、八幡城天守閣の延長上の「本町通り」「小幡町通り」を南北路の基準とし、「京街道通り」を東西路の基準としている。
 南北路は全部で12、東西路は7筋あり、おおよそ西部が職人町、北東部は職人町に割り当てられている。以下に紹介する西川家は、南北路の「新町通り」にある。
 なお、武家屋敷と職人のうちの「鉄砲町」は、八幡堀の内側にあった。

 八幡を拠点とした商人たちの扱った産品は、蚊帳・畳表・円座・浮御座・灯心・布縞・扇骨・蒟蒻・湖産魚介類など。特に畳表・蚊帳は八幡の代表的な商品。
 畳表の材料の藺草は、湖岸ですでに南北朝のころから栽培されていたといい、湖岸の村々で栽培加工され、蚊帳屋仲間に集荷され、町内および周辺の村々で、町人、農民の内職により生産されていた。藺草のうち、長さが短いものが使われたのが灯心。
 このような八幡産物を扱う商人たちは、今で言う組合:株仲間を組織、その種類と数は、群を抜いて多く、江戸に店を構えるものも続出、その多くは瓦葺きの本宅を八幡につくった(今も、八幡は瓦の産地でもあり、瓦の資料館がある)。

 近江八幡は、このように商人の町として発展してきたのだが、また、メンソレータムを生産販売してきた「近江兄弟社」の所在地でもある(現在はメンソレータムの商標は他社に移り、メンタームの名で販売)。
 その創立にかかわった八幡商業学校の英語教師として来日した宣教師ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1905年:明治38年来日、戦時中も日本にとどまる。帰化名「一柳米来留・ひとつやなぎ・めれる」)は、この地に永住し、学校や図書館、結核療養院、YMCAなどを運営、元来建築家であったため、建築家としても活躍(現在、「一粒社ヴォーリズ建築事務所」に引継がれている)、彼の設計した多くの建物が、近江八幡市内に残っている。

 ヴォーリズがこの地に永住したのは、近江八幡という風土を愛したことはもちろんだが、かつての近江商人たちの心意気に深い共感を覚えたからではなかろうか。彼の八幡での事業は、近江商人たちの行なってきたことに通じるのである。

   註 ヴォーリズについては、07年11月25日に触れている。
      「ヴォーリズの仕事」
      なお、以後数回にわたり紹介。  
 

 旧・西川家は、1706年(宝永3年)に建築された滋賀県内の現存最古の住居遺構で、「大文字屋(だいもんじや)・西川利右衛門(りえもん)」の元邸宅である。
 現在は市の所有となり、重要文化財に指定され、1988年に解体復元修理後、公開されている。
 西川利右衛門・大文字屋は、当地特産の蚊帳、畳表などを全国に行商で販売し、大商人になった人物で、「先義後利栄 好富施其徳(義を先に、利を後にするものは栄え、富を好しとしてその徳を施せ)」がその家訓であったという。

 西川家は「新町通り」にある。この通りは、かつての商人宅が軒を連ね、静かなたたずまい。ただ、写真で分るように、派手なところはなく、地味、堅実な印象を受ける。
 
  註 写真と市街図は「旧西川家修理工事報告書」(滋賀県、1988年)より

 今は「伝建地区」になっているが、他の「伝建地区」のようにはなっていないようだ。「伝建」指定以前から、町の人たちの意識、町で暮すことの意味についての意識、が高かったからだと思われる。
 今回は、西川家の外観まで。

 以上の解説は「日本歴史地名大系25 滋賀県の地名」(平凡社)による。
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近江商人の理念  補足・・・・明治20年ごろの近江八幡周辺

2007-06-27 12:47:52 | 論評
 上図は、「日本歴史地名体系」付録の明治20年ごろの地図。
 江戸時代の様子が、まだ残っているので参考までに。

 主要街道の東海道、中山道に近く、京・大阪、そして日本海へもすぐ。
 近江商人は、主として卸商い。商品は馬や船で先に送っておき、あとから現地へ赴くのが普通だった。
 この地が、地理的に恵まれていたことも、近江商人繁栄の要因のひとつだったろう。
 なお、上図は、スキャンの関係で、原寸ではない(縮尺は20万分の1ではない)。

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近江商人の理念・・・・時代遅れなのだろうか?

2007-06-26 12:19:18 | 論評
どうも最近世間を騒がせているニュースを聞いたり見たりしていると、世の商売をする人たちの考え方はどうなってるんだ、と考えてしまう。

最近のTVは、偉い人の「お詫び」の姿を見ない日はない、と言っていいほどだ。むしろ「今日のお詫び」なんていう番組を組んでもいいくらい(スポンサーはつかないにちがいないが・・)。
そして、それと同時に頭に浮んできたのがかつての「近江商人」の考え方である。今の世のまったく対極にいる商人たちの考え方・生き方。
  
近江商人というのは、近江国、現在の滋賀県の近江八幡、五個荘(ごかしょう)、日野、能登川などの町を拠点に、全国的に展開して商いをした商人たちのこと。

近江商人の基本は行商。近江周辺の物産を全国に行商で販売。諸国へ商売に赴き、帰りは旅先の物産を持ち帰って関西で商いをする。こういう形態をとっていた。「諸国産物廻し(しょこくさんぶつまわし)」と言い、広い範囲の需要と供給を調整し、利益を挙げたという。

八幡は江戸前期に、日野は中期、五個荘は後期に商人の活動が始まり、八幡は蚊帳、畳表、麻布、蝋燭など、日野は漆器、煙管、繊維、薬、茶など、五個荘は呉服、編笠、麻布などを主に扱っていた。

近江の本宅・本店を中心に、各地に「出店(でみせ)」「枝店(えだみせ)」を設け、商いをし、各地の「出店」がその地に根付くという例も数多かった。関東から東北にも多く、真壁の有名な酒屋さんは、たしか日野の出身である。また、現在もある大店の元をつくった例も多く、伊藤忠、高島屋(飯田新七の創業。琵琶湖対岸の高島出身ゆえ「高島屋」)などもその例(最近球団が問題を起こした西武鉄道の創業者堤一族も、近江出身だが・・)。

なぜ、近江商人が財をなしたのか、まだ定説はないようだが、彼らの身の処し方、考え方が、一つの、そして大きな要因であったことはまちがいない。

近江商人のそれぞれが、いろいろな「家訓」や「書置」「遺言」を後継者に残している。
それらを、同志社大学経済学部教授 末永國紀氏の書かれている解説から要約紹介しよう。

   註 詳しくは下記参照
     「近江商人の商法と理念」
    現在はアクセスできません。[2014年12月25日追記]

最も代表的な例は、近江商人の真髄といわれる「三方よし」という言葉。麻布商の中村冶兵衛が1754年、養嗣子にのこした「書置」であるという。なお、「三方よし」という語自体は「書置」にはなく、後世の研究者が「書置」の内容を要約し生まれた語であるという(上記「近江商人の商法と理念」から「三方よしの理念」「三方よしの原典」へと進むと解説あり)。

そこには次のようにしたためられている。

・・・たとへ他国へ商内に参り候ても、この商内物、この国の人一切の人々、心よく着申され候やふにと、自分の事に思はず、皆人よき様にと思ひ、高利望み申さずとかく天道のめぐみ次第と、ただその行く先の人を大切におもふべく候、それにては心安堵にて、身も息災、仏神の事、常々信心に致され候て、その国々へ入る時に、右の通りに心ざしをおこし申さるべく候事、第一に候・・・

・・・たとえ他国に行商に出かけても、自分の持ち下った衣装等をその国のすべての顧客が気持ちよく着用できるように心がけ、自分のことよりも先ずお客のためを思って計らい、一挙に高利を望まず、何事も天道の恵み次第であると謙虚に身を処し、ひたすら持ち下り先の地方の人びとのことを大切に思って商売をしなければならない。そうすれば、天道にかない、心身ともに健康に暮らすことができる。自分の心に悪心の生じないように神仏への信心を忘れないこと。持ち下り行商に出かけるときは、以上のような心がけが一番大事なことである・・・

端的に言うと、「売り手よし、買い手よし、世間よし」、これが「三方よし」。
 
「天性成行(てんせいなりゆき)」というのは、繊維商「外与」を起こした外村与左衛門ののこした言葉。
取引における基本的な立場は、自分の都合や勝手だけを優先させず、また思惑もしないで、自他がともに成り立つことを考える。売買価格の設定は、そのときの天性成行にまかせる、損益は長期的にみる、ということを教える語。

「利眞於勤」(りは、つとむるにおいて、しんなり)は、後の「伊藤忠」の礎を築いた伊藤忠兵衛の座右の銘といわれている。
いわく、商人の手にする利益は、権力と結託したり、買占めや売り惜しみをしたりせず、物資の需給を調整して世のなかに貢献するという商人の本来の勤めを果した結果として手にするものでなければならない。そうした利益こそが真の利益である、という意。

「押込め隠居」というのもある。当主を罷免すること。
正当な利益を積み上げて築かれた家産を、私欲のために傾けるような当主が出現した場合は、後見人や親族が協議して当主を押込め隠居の処分にする、というのである。
今の世では、こんな後見人、親族はおそらくいない。すすんで当主に加担するのではないか?

最近の介護サービスの件で矢面に立った某人材派遣会社会長などの場合、自分から仕事を奪わないで・・などと平気で言うのだから、こういうのは近江商人たちなら、どう扱っただろう。もっとも、かつてはこんな商売人はいなかっただろうが・・。

「布団の西川」の基を創った西川甚五郎は、家訓として、たとえ品薄のときであっても余分の口銭を取るような商いを禁じていた。
売る側が悔やむくらいの薄い口銭で我慢すること、「薄利多売」「薄利広商」が商人のなすべきこと、というのが近江商人共通の認識であったようだ。


こんなこと、やってられないよ、というのが現代の商売の本音なのかもしれない・・と、つくづく思う今日このごろ。
 

近江八幡しか訪れていないが、こういう商人たちの「本宅」が並ぶ町並は、派手ではなく地味だが、端正で、今でも気持ちがよく、活きている。次回、それについて触れる。⇒近江八幡・・・・その町並と旧 西川家(以後数回触れています)
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言葉の重み

2007-06-24 19:07:46 | 論評
[記述ならびに註記追加:6月24日、11.31PM]

 62年前の沖縄の地上戦で、住民:民間人が集団死に追い込まれた件について、教科書の検定は、軍に強制された、との文言の削除を求めた。これに対し、沖縄では、事実を葬るとして、県議会が全会一致で撤回を求める決議をした。
 昨日、沖縄を訪問したわが宰相は、実際に目の前に当の「事件」にまきこまれた人々の存在を目にしながら、「教科書検定の調査審議会が学術的な観点から検討している」として、記述の復活は難しいとの認識を示した、と新聞は報じている(毎日新聞6月24日付朝刊)。

 「学術的な観点からの検討」とは何を言うのか。目の前に「事実を体験した人びと」が厳然として現存することよりも、審議会委員たちの「学術的」調査を信用する、とのニュアンス。端的に言えば、目の前の人たちの体験は信用できない、と言っているに等しい。

 この短いやりとりの中に、現代の根深い病根が観てとれるように思う。
 それは、次の言葉について、考えればよいように思う。
 ①「学術」的の意味、②「審議会」の存在について、③審議会の委員に選ばれる「学識経験者」「有識者」「専門家」・・の定義。
 そして最も端的に言って、問題は、「学識経験者」「有識者」として指名される人たちの「学識」「有識」「専門」・・の内容だろう。

 いまだかつて、「学識経験者」「有識者」・・の肩書こそ示されても、その人に委任するにあたっての判定根拠は、何ら「学術的」に表示されたことがない。
 たとえば、教科書検定の審議会委員の指名根拠が、納得のゆく説明をともなって示されたことがあるだろうか?
 これは、第二次大戦後の行政で、急激に増えた各種審議会のすべてに共通する問題である。
 審議会が、行政の隠れ蓑になっている、と言われるが、まさにその通りだろう。
 偉い先生方が決めたことに従ったまで、と言っておけばよいのである。
 その裏側には、一般人は、偉い人の意見に従えばよい、従え、従うだろう、・・という「考え」が潜む。

 たとえば、建築がらみで言えば、木造建築の法令諸規定の策定にあたっても「審議会」がもたれるが、その委員に、木造建築のまさに有識者である大工さんが主体を占めた話など、まったくない。各地の大工さんの多くに接して話をきいた形跡も痕跡もない。そしてもちろん、日本の建築の歴史について、心底学ぼうとする形跡さえうかがえない。歴史の専門家ではないから・・とでも言うのだろう。だったら、歴史の専門家とも話をすればいいのに、した痕跡もない・・。
 それでいながら、大工さんをも差配する、大工さんたちが納得しかねる「指導」がなされる。
 怖いのは、これが半世紀も続けば、多くの人たちが、大工さんも含め、「それでいいのだ」と思うようになってしまうことだ。現にその気配をひしひしと感じる。

 それにつけても、最近の建築法令の改変・・。ますます偉い人たちの「責任」は、深いベールの裏側に隠された。責任を負うのは、いつも偉くない人たち。どんなに間違っていても、偉い人は決して責任を負わない、そして、彼らの退職後の仕事場はますます増え、安泰・・、という構図。実によくできている。

  註 改訂、改正というのは、内容が誤っていたのを正すことを言う。
    法令の《改訂》をするには、何が誤っていたかを示すのが「常識」。
    そこのところは、うやむやのまま。正されたところも何もない。
    だから「改変」。
    まさにお役所仕事の:偉い人の、よくやるやりかた・・・。

 先に「地方功者」の話を書いた。彼らがもしも現代に生きていたなら、自らを「学識経験者」「有識者」「専門家」・・と位置づけただろうか。
 そのようなことは、絶対にないだろう。
 なぜなら、そのように分類するような社会ではなかったからだ。偉い人:エリートがいて非エリートを先導・指導する、などという発想がなかった時代だったのだ(公務員のなかに、キャリア、ノンキャリアの別があるなんていうのは近・現代になってからの話)。
 おそらく、現代の「学識・・」たちに会ったら、彼らはきっと絶句したにちがいあるまい。
 もちろんかつても指導者はいた、しかし、現代的な位置づけの指導者ではなかったということ。もしも現代的な意味の指導者がいたとすると、かならず「一揆」などが起きていた。明治の自由民権運動の発端は、明治政府の強圧的な県令(先回ふれた福島の三島通庸が有名)の赴任が契機になった場合が多い。
 
 言葉というのは、その意味を十分に考えないで使うと問題を起こす。
 すでに何度も触れた「科学」「科学的」「理科」「文科」・・、「在来工法」「伝統工法」・・、「断熱」「耐震」・・、そして最近触れた「経済」「観光」・・「まちづくり」、何となく、あいまいなまま使っているのではなかろうか。
 日本語は、思われているほど、決してあいまいな言語ではないのである。 
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風景・環境との対し方-3 の補足・・・・「大内宿」

2007-06-22 16:52:17 | 居住環境
 
 『図集 日本都市史』(東京大学出版会 1993年)に大内宿の配置図と建物の一例が載っていたので、転載。
 あわせて大内の位置図を「日本地図帳」(平凡社 1985年)から転載。

  註 参考出版物
    「大内宿 福島県文化財調査報告書28」(福島県教育委員会 1971年)
    「大内の町並 伝建群保存基本計画書」(下郷町教育委員会 1981年)

 宿場全体は17世紀半ばの整備。
 旧来の道およそ170間を直線状に改め、両側にそれぞれ20余の間口約7間半の短冊様の屋敷地を区画し、宿所・住居を構えさせた。
 道には両側に用水が通っているが、当初は、街道の中央に一本だけだった、という説もある(昨日の右側の写真が用水堀の様子)。

 建物は宿所と住居を兼ね、短手が梁行。
 現在建っている建物は、おおむね18世紀中頃の建設で、梁行4~4.5間、桁行11間の例もある。

 上の図面の建物は、街道の東側(配置図では下の並び)の例。
 左手の縁が街道に面し、ウワザシキ、シタザシキが宿所用。ウワユルエ(カッテ)、ヘヤ、ニワが居住用、ナカノマは宿所と住居部分とのつなぎ。二階は、宿所にあてられたか?

 各建物は、いずれも、妻側(短手)を壁面線をそろえて街道側に寄せ、建物の北側:背面にあたる:を敷地の境界に沿わせる。
 その結果、建物は長手が南に面することになり縁がまわる。
 その南側の隣地との間が建物へのアプローチとなる。
 敷地奥には、蔵や物置、菜園などが並ぶ。
 この配置は、他の町家でもほとんど同じである。

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風景・環境との対し方-3・・・・続・観光――観光と暮し

2007-06-21 15:10:26 | 居住環境

1.北アルプス山麓の温泉宿

 北アルプスの麓にある温泉旅館、その北側の昼なお暗い布団部屋のような部屋が、最高の部屋として扱われるようになったのも、大正・昭和の頃だそうだ(昨日紹介の「残雪抄」中にある話)。
 その部屋の窓から、北アルプスが一望に見えるから。

 それまで、この旅館の客は、湯治客が主。湯治は、今の「温泉めぐり観光」とは違う。当時は、農家の人たちにとっては年中行事の一つ。つまり「日常」の一部。つかれた体を休めるための長期滞在。北アルプスを眺めることなど、脳裡にはない。
 ところが、その頃から、都会に暮す人の間に、西欧流のtouring:《観光旅行》が流行りだし、そういう都会の客が旅館を訪れるようになった。そして、彼らが部屋にいても北アルプスを眺めることを望むことを知った館主が、布団部屋を改造したのである。

 そして、湯治客主体であった旅館には、宿泊棟と湯治棟の二つを設ける例が増えてくる。
 青森の酸ヶ湯(すかゆ)温泉、蔦(つた)温泉、近いところでは群馬の四万(しま)温泉などはその一例。
 湯治棟には自炊室がある。そして、朝夕、日用品・食料品の行商が、泊り客を訪ねて歩く。御用聞きもする。
 あるとき、酸ヶ湯温泉で、大きな布団包みが玄関先においてあるのを見たことがある。それも一つや二つではない。布団も自前、持参してくるのだという。布団だけが一足先に宿に到着したところだった。長逗留なのだ。

 時代は変った。温泉は、湯治主体から「観光」主体に変ってもやむを得まい。しかし、多くの温泉場は、「観光」のために、もともとの町並みが壊されだしている。

2.「大内宿」のRC造の住まい

 栃木県の鬼怒川上流、藤原ダムのあたりから山王峠を越え、阿賀野川の上流:大川沿いに会津盆地へと向う「会津西街道」(裏街道ともいう)が、あと一山で会津盆地というあたりの山間に、「大内宿」という宿場があった。
 今の街道は大川沿いに会津盆地へ向うのだが、江戸時代は増水の際に通行不能に陥るため、最後の行程は山越えで、その山越え前にこの宿場、大内宿があったのである。
 しかし、明治政府が任命した県令・三島通庸が交通網の大整備を行い、それにより街道が大川沿いに付け替えられ、大内宿は一挙に寂れてしまう。

 大内宿は、中山道の宿場町とは違い、上の写真のように茅葺の宿屋が並ぶ。街道付け替えで、宿屋は廃業、農業主体の生活となったのだが、改造もままならず、昔の姿のまま残ってしまった。それが1960年代に「発見」され、宿場の典型としての歴史資料的価値が話題になり、現在は「伝建地区」(伝統的建造物群保存地区」)になっている。

  註 上の写真は、「伝建地区」指定前の姿。訪ねて来る人はまばら。
    それでも、右の写真には、「みやげもの」を売っている姿がある。 

 「伝建」の指定を受ける大分前、喜多方へ行く途中で、何度か訪れたことがある。今のように「観光客」であふれるようになる前である。
 宿場のなかの、やや上り坂の道を歩き、街道が山にぶつかる少し手前に(その先は廃道で行き止まり)、新築のRCの建物があった。土地の大工さんの住まいだという(大工さんが施主、というのが面白い。今どうなっているかは不詳)。
 今なら、つまり「伝建地区」になってからでは、町並みを乱す、として、とてもではないが建てられなかった建物。
 たしかに、陸屋根の建物は異質ではある。しかし、RCは絶対にだめなのだろうか。

 町並みというのは、一時にできあがるものではない。数十年、ときには100年のオーダーでできる。そして、建物が常に変るのが木造主体の日本の町並み。「大内宿」は、たまたま、そういった時を経ても茅葺が続いていただけで、もしも宿場が繁盛し続けていたなら、おそらく、少しずつ瓦葺きに変っていたにちがいない。そして、それを誰も町並みを壊す、などと言って非難することもなかっただろう。

 それは、材料が変っても、「つくりかたの根底にある考え方」は変らなかったはずだからだ。かつては、新築にあたって(もちろん改築にあたっても)、常に既存の近隣あるいは近接する方々の住まい・暮しを尊重する、損なわない(自己の権利だけを主張しない)のが「常識」だったのだ。
 この「常識」は、各地域で、少なくとも、昭和の初めごろまでは健在だった。
 関東でも、明治期の建物、大正の建物、昭和の建物・・(ときには江戸期の建物もある)と、外観も材料も異なる建物の並ぶ町並みが各地にあるが(群馬の桐生など)、少しも違和感がない。これがあたりまえ。これであたりまえ。

 だから、大内宿の大工さんの建てたRCの住宅を、RCというだけでけしからん、というのは、本当は見当違い。昭和の初めなら、違和感のない建物を、RCでつくったはずだからである。残念ながら、そこで見た建物は、いささか違和感を感じるものだったが・・・。

 多くの「伝建地区」で行われているのは、いわば「時間を止める」作業。古き時代の姿を求めて「観光客」が来て金をおとす。町が潤う・・。だから、新たに建てる建物は、既存の建物(つまり「指定」をうけた建物)同様の建物にすることを求められる。ゆえに時間が止まる・・。先に触れた「奈良・今井町」もそうなった。

 「伝建地区」になってしばらくして訪ねたら、大内地区にあった中学校が、統合で廃校になり、子どもたちは、夏場はスクールバスで、そして冬場は下の町の寄宿舎から、下の町の学校へ通うようになっていた(大内は、大川沿いからは、直線距離では大したことはないが、かなりの急坂を登らなければならない高地にある)。過疎で学校の維持費が大変だからだという。
 その一方で、「観光客」目当ての本陣の建物の復元が始まっていた。
 私には納得がゆかなかった。
 これは本当に「まちづくり」と言えるのだろうか。これでは「映画村」だ。今も、今の人が暮している、このことが忘れられている。 
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風景・環境との対し方-2・・・・観光

2007-06-20 13:49:04 | 居住環境
臼井吉見(うすい・よしみ)といっても、今や知る人が少ないだろう。
信州安曇野の出身、1940年、同郷、同年の古田晁の創設した「筑摩書房」に唐木順三とともに参画、戦後社会に影響を与えた同書房の評論誌『展望』の編集長をつとめた評論家である。
晩年に著した小説『安曇野』全五巻は、安曇野を舞台に、明治・大正・昭和にかけての文人たちの活躍をとおして世相を語った大作である。

臼井吉見の同じく晩年の著作、随筆集『残雪抄』のなかに「幼き日の山やま」という一文がある。そのなかに次のような一節がある。

・・・宇野浩二に「山恋ひ」という中編小説がある。諏訪芸者と、作者とおぼしき主人公との古風な恋物語である。この主人公が、諏訪の宿屋の窓から、あたりの山々を眺める場面が小説のはじめに出てくる。湖水の西ぞら、低くつづく山なみの上から、あたまだけのぞかせている一万尺前後と思われるのを指して、あの高いのは何という山かね?ときかれた番頭は、さあ?と首をかしげる恰好をして、たしかに高い山のようですが、名前は存じませんという。木曾の御嶽ではないのかねとかさねて訊くと、さあ、そうかもしれませんね、ともう一度首をひねってみせる。君はこのごろどこかよそから来たのかね?と問うと、いいえ、私はこの町の生れの者でございます、と答えて、気の毒そうな顔つきをするのである。
この小説の書かれたのは大正の中頃だが、当時の読者だって、この番頭変ってると思ったにちがいない。いまの読者なら、なおさらのことだ。・・・
 
臼井は、番頭と客の喰いちがいについて、次のように続けている。

・・・信濃のように、まわりを幾重にも山にかこまれている国では、この番頭のようなのは、当時としては決して珍しくはなかった。むしろあたりまえだったといってよい。生れたときから、里近くの山に特別に深く馴染んでいるので、奥の高い山などには、とんと無関心で過ごしてしまうのが普通だった。わらびを採り、うさぎを追い、きのこを探し、すがれ蜂を釣ったのは、みんな里近い山でだった。近くの山なら、松茸はどこどこの松の根もとだとか、うさぎの道は、どこそこの藪かげだとか、知識経験の豊富な蓄積があった。おとなたちが、木を伐り、薪を集め、炭を焼くのも、これまた近くの山だった。・・・

   註 いま盛んになっている「里山復活運動?」も、この時代の「里山」を
      どこまで承知の上での話なのだろうか。

では、客は何だったのか。
端的に言えば、彼は、「名前でものを見る癖」あるいは「知識でものを見る癖」をもった「近代人」のはしりだったのだ。
彼は、信州の南には「木曾の御嶽山」という名峰がある、という《知識》をどこかで仕入れた。諏訪に行けば、それを眺めることができるはずだ。
だから、宿屋の窓から、彼はそれを探す。そればかりを探す。だから、前景をなす低い山なみなどは目に入らない、どうでもよかったのである。そしておそらく、もしも御嶽を視認できたなら、それで彼は「安心」したのだろう。

番頭は、といえば、彼も御嶽山の名は知ってはいたが、目の前に広がる風景のなかのどれがそれか、などということには全く関心がなく、比定する必要も感じていなかった。つまり、どうでもよかった。それが彼の暮しそのものだったからだ。

これが当世の番頭なら、逆に、とうとうと《観光案内》をしたにちがいない。なぜなら、客の大半が、この客同様の、あるいはそれ以上の「求め」をする時勢だからだ。

「観光」という語は、「新漢和辞典」(大修館書店)によれば、①「他国の文化を観察すること」、②転じて「他国の風景などを見物すること」、とある。他の辞書もほとんど同じ。
①の意はどこかへいってしまい、今は、「観光」と言えば、この転じた後の②の意で使われるのが普通である。
そして、この一文には、世の中一般に②の原義から転じた意が広く通用するようになる転換期の様相が、書かれていると言うことができる。

その結果?、今では、他国・他地域を「観光」しても、その地の「文化」を理解するには至らないで終るのが普通になった。つまり、「物見遊山」で終わってしまう。

   註 「光」には、「文物の美」「文化」の意がある。
      同様の義の語に「観風(かんぷう)」がある。
      その場合の「風」は風俗、風習といった意。
      「文化」とは、①文徳:人を心服させる学問・教養の徳:で
      教化すること、②学問・芸術・・などが進歩して、世の文明が
      開けてゆくこと。文明開化。③人間が自然状態から脱し、
      自然に手を加えその理想を実現してゆくこと。またその結果
      得られたものの総合体。cultureに相当。

先回の話と関連するのだが、私たちの普通の暮しは、本来、先の文に書かれている状況が普通。景勝だとか名峰だとか・・とは、直接的に関係ない(もちろん、当時のように山に入るわけではないが・・)。
しかし、ややもすると、「関係させなければいけない」かのように思われるのが現在。

「まちづくり」と称して地域を「観光」で売り出そう、という動き、「観光」で訪れる人が多いと「まちづくり」になるのか、私はいつも疑問に思う。
この発想は、「まちにある『もの』」を見に来る人が金を落してくれること、まちに多くの金が落ちることを期待してのものだ。
なるほど金が落ちるかもしれない。金はないよりある方がいい。しかし、それがどのように「まちづくり」につながるのか。その「脈絡」をきいたことがない。そこでの商売が潤ったところで、それだけで「まち」がつくられるわけがない。

ところで、対象になる「まちにある『もの』」とは何か。多くの場合、かつてつくられた建物や、それらの織り成す家並み。いわゆる「伝建地区」などはその典型。
見る(「観る」ではない)対象が『もの』だから、新しくつくられる建物が、その家並みとは違う形だと家並みを壊すとの理由で、古風になぞらえることが要求される。
これが実はおかしい。
これらの建物、家並みは、そんな制約なしに建てられ、つくられてきたのだからである。そしてだからこそ、今見る《商品価値》が生まれたのだ。

本当の「観光」ならば、なぜそれらの建物、家並みが、今でもいわば「観賞に堪え得る」ものになり得たのか、について考えなければならない(そして、昨今つくられる建物、家並みが、なぜ観賞に堪えられないのか、を)。
多分その先に、今、建物をつくるにあたり、何を考えなければならないのか、何が欠けていたのか、が見えてくるはずなのだ。
そのようにして対象に対することができたとき、それは、「見る」ではなく「観る」になり、「観光」の原義に戻ることができるだろう。

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風景・環境との対し方-1・・・・借景

2007-06-18 20:35:51 | 居住環境

 私の住まいは、広めの町道から30mほど入ったところにある。町道からは少し下り坂、幅は5m強。天気のよい日には、下ってゆくと畑や林を前景に、真正面に筑波山。一昨日は六月というのに秋のように空気が澄んでいたから、いつもよりも間近に見えた。
 筑波山の姿は、二つの峰がくっきりと屹立して見える石岡からの眺めが一番よい(特に恋瀬川から)と私は思うが、当地からでも、そこまではいかないが、結構いい眺めだ。

 大分前のこと、訪ねてきた人が、筑波山を望めるようにつくらなかったの?と訊いてきた。その人は建築系の人。建築系の人は、たいてい、いい景色があると、それを取り込んで建物から望めるように設計するもの、と思う人が多い。いわゆる借景。

 上の写真は、京都北郊、国際会議場のある宝ヶ池の西にあたる幡枝(はたえだ)の「円通寺」の書院から、庭越しに見た比叡山。最初から、このように風景を切り取り、取り込むことを意識してつくっている。これは、後に修学院離宮を営む「後水尾(ごみのお)上皇」のつくった山荘である。
 修学院ができてからは、禅寺として保存され、現在に至っている。古来、「借景」の典型として有名である。

 この写真は、大分古いもの。「原色日本の美術10 禅寺と石庭」:初版1967年:所載の写真(原版が2頁にわたり大きいので、残念ながら全部はスキャンできず、おまけにまんなかにスジが入ってしまった)。つまり、40年以上も前の姿。
 今は、このようには見えなくなった。宝ヶ池のあたりには、国際会議場近くに高層のホテルが建ち、円通寺寺域まで、住宅の波が押し寄せて、前景の竹林ももうすぐ開発でなくなり、当初の「借景」の寿命が切れるのも遠くはない、とのこと。
 ゆえに、寺では、これまで禁止していた写真撮影を、見納めとして許可しているという(円通寺のHPには、書院の縁と鴨居がつくる額縁に入った比叡山の写真が載っている)。

  註 円通寺の「借景」をだめにしてしまったホテルや宅地開発は、
    比叡山の眺めを「売り」にしている。
    東京国立の《マンション》が、その建設が破壊することになる
    大通りの「景観」を売りにしているのと同じ。
    こういう絵に書いたような矛盾が平気で通る世の中。

 ところで、最近の開発以前にも、あたりには古くからの集落がひっそりと散在していた。今は、それに接して新興の住宅が建っているが、もちろん、古くからの集落は、あたりを歩くだけでも心和む、新興住宅地とは歴然として異なる雰囲気のある家並みである。
 そういう集落の住まいは、比叡山にどう対しているのだろうか。
 これは、あたりを歩けば直ちに判明する。
 古くからの住宅には、比叡山を取り込むようなつくりの住まいは、一つもないと言って過言でない。言ってみれば、そういうつくりは「円通寺」だけなのだ。

 これと同じようなことは、景勝地をかかえる別荘地、たとえば浅間山の山麓などでも見ることができる。山荘の多くは浅間山の景観を取り入れることに精を出すが、地元に暮す人の住まいには、そんなつくりはない。

 考えてみれば、これはあたりまえ。その地に常住する人たちが目にする比叡山と、他の土地からときどき訪れる人の目にする比叡山とは、まったく意味が違う、生活のなかでの重さが違うからである。
 この地幡枝に暮し続ける人にとって、比叡山は地面の続き、いつも見ている。意識しないで見ている。そこは後水尾上皇とはまったく違う。

 しかし、もちろん、比叡山なんかどうでもいい、というわけではない。
 ここに暮す人が比叡山を意識的に感じるのは、それは、この地を遠く離れたときである。「遠くに在りて想う」ときに忽然として比叡山の姿が脳裡に浮かんでくるのである。言ってみれば、比叡山は、人々のなかに深く沈みこんで存在している。
 だからこそ、住まいの中からいつも比叡山を眺める、などというつくりは必要ないのである。
 このことは、ある土地に住まいをつくるとの「本質」に触れているように、私は思う。それについて次回も触れる。

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桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-6

2007-06-16 23:45:58 | 桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介

5.耐久建築研究のすすめ

 いまや近代建築の理論的再構築に関する議論がきわめて盛んである。しかし、そうした議論を聞いていると、何かますます混迷を深めるために努力しているように思われることが多い。建築の問題はそうした思想的課題にも確かに関係しているが、その核心は主として実務や研究のなかにあると思う。社会の複雑化・多様化に対して、建築の理論・実務・流行はあまりにひと色であり、一本調子ではないか。
 これからの建築は設備だ、超高層だ、都市だ、環境だ、省エネルギーだと、ただ目先の風潮だけですぐ右往左往したり、建築に何か深遠不可思議な秘密や秘儀があるかのような議論は、全く無意味とはいえないが、より重要な問題から目をそらすためのトリックのように思われる。本論で建築の耐久力の問題をとり上げたのは、それが根本的課題のひとつであり、改めて真剣に研究されてよいテーマと考えるからである。

 建築の耐久力を重点項目とすることは、さまざまな面で近代建築の不健全さを是正する転回点となるかもしれない。構造家は、安くできるがあまり保証できない躯体、しばらくは適当にもつ躯体、絶対に壊れない躯体、200年は確実にもつ躯体など、さまざまの構造を区別してゆく。鉄材を用いて永久建築を目差すというむずかしい課題にも取組む。設備家には、建物の躯体を傷めずに更新できる設備のくふう、ランニング・コストを低減する建築的諸元の提示、そして耐久性があり維持容易な設備機器の発明、などを期待したい。

 こうしたアプローチが近代建築に真実の意味での多様性をもたらすことは疑いをいれないばかりか、真実の意味での合理性と科学性の確立につながると思うのである。
 近代建築は、近代の衝撃におびえて、いくつかの迷路にふみ込んでしまった。その第一は、他の先端的産業のパターンを模倣し、それに追随しようとしたことである。第二に、やはりそれらに追随して目先の経済性の追及を建設業の目的としたことである。すでに述べたように、建築がビジネスである以上、そうした行動はある程度は当然であろう。しかし、建築という仕事をそれひと色に塗り込めることは不当であるし、近代建築運動の教義のように、排他的に他のアプローチを圧殺するようなことも困るのである。

 耐久建築の研究は、建築設計家にも大きな影響をもたらすはずである。
 近代建築が誇った自由度は、建築を自由な造形芸術とみなした表現主義に典型的にみられたように、他の造形芸術の影響力に圧倒された結果の産物である。ル・コルビュジェの初期作品は、始め建築のおさまりを知らない素人の遊びと嘲笑された。ル・コルビュジェの天才は、こうした嘲笑を圧殺しきる偉大さをもっていたが、それだからといって、この嘲笑の背後にある建築のロジックと伝統の重味をそのまま無視することはできない。

 表現主義と近代主義の差は、後者が偽似科学的な言論とイメージで、近代建設産業の論理に密接できたということにほかならない。耐久性とメンテナンスに配慮した建築は、そのディーテイリングにまで大きな制約を受け、これまでの自由度の多くは失われるかもしれない。
 しかし、過去数十年間の近代建築のとりとめのない自由さこそ、建築の世界では異常なものだったのである。そして、このことは、日毎に現われる新材料部品や新設備機器との応接に忙殺される良心的な建築家の胸に絶えず去来する疑惑のひとつであったはずである。

 われわれは、耐久建築だけが唯一の正当な建築だといっているのではない。今日の社会では、10年もてば十分という種類の建築も多数要求されていることは熟知している。20年で十分という商業建築も多いであろう。しかし、モニュメンタルな建築や、少なくとも三世代の使用に耐えて欲しい住宅に同じ原理を適用することは明らかに不合理であり、不条理な傾向であることを指摘したい。

 建築の目差す多様性とは、単なる意匠の多様化ではなく、むしろ耐久性や維持費を配慮した多様性である。数年から10年で減価償却できる建物と、殆ど生産性のない記念建造物や住宅とは、建てかたが本来違うべきであるという主張なのである。
 現代の高度の技術水準をもって、この問題を追及する活動がこれまで全くなかったことが、現代の不思議のひとつではあるまいか。あえて耐久建築の研究を提案する所以である。(了)
コメント (1)
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桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-5

2007-06-15 21:18:10 | 桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介

4.鉄筋コンクリート造の耐久性(2)

 近代建築の発展によって、建築の構造や形態は確かに自由度を増した。理論的にはどのような形の建築もつくれるといって過言でない。しかし、これらの新技術と新しい建築理論のおおかたは、建築の耐久力を低下させ、その犠牲の上に新しい工法や新奇な造形を成立させる方向を辿ってきたといえる。新しい建築技術は、実に矛盾に満ちた方法で適用されている。
 つまり、一方では経済性・合理性の追求の名のもとに、耐久余力を殆どもたない建物をつくり、他方では機能性・近代的利便の追及の名のもとにフレキシビリティを全く欠いた建物をつくる。
 更に過度の近代的安全のために莫大な設備費を投下させ、また近代的造形と称して、殆ど維持不可能な細部や仕上げを提供し、そのために高騰するメンテナンス・コストやランニング・コストについては、これをすべて建築主に負担させるという建築のシステムを形成しているのである。
 これらはすべて、物理的・経済的な耐久力を無視ないしは軽視することから生じている。

 つまり、あらかたの近代建築の実態は、どのように見ても建築的・人間的に合理的でなく、健全でなく、5000年の歴史をもつ建築の本道にそむいているというよりほかはない。
 上記のような近代建築の諸特性を合理的だと説得するためには、いくつかの非建築的立場或は非建築的イデオロギーを前提としなければならない。
 例えば、非常に短期的な「目先の経済的利点」が建築の目標だとしたとき、上記のすべての傾向はつじつまが合い、すべての行為が合理的となる。
 しかし、そうだとすれば、すべては建設関連企業の目先の利益のためということになり、近代建築の開拓者たちの立派な言葉も、お人好しどものたわ言となってしまう。

 またひとつ、伝統的建築手法及び伝統的生活の絶滅を目差すことが近代日本の建築家の目標だったとすれば、これまたつじつまが合ってくる。
 ボールディング教授の日本観察によれば、近代日本人は日本の社会構造の複雑さを理解できず、その割り切れなさに苛らだって、古い日本のすべてを破壊したい衝動にかられるという(原註3)。

  原註3:Boulding,Kenneth “A Primer on Social Dynamics”1970
      Chap.Ⅷ
      横田洋三訳「歴史はいかに書かれるべきか」講談社学術文庫
      昭和54年刊。

 木造建築の絶滅とコンクリート造の普及は、明治・大正以来の日本建築界の宿望であり、都市の木造建築が許されていたのは、もうひとつの原理「目先の経済的利点」のためだけであったとみても、殆ど誤らない。
 ここでいう「目先」とは、せいぜい20年か30年と判定される。事実、ある著名な建築構造の専門家が、建築の躯体も造作も、ちょうど20年経ったとき同時に駄目になるのが理想的だ、と語るのを筆者は耳にしたことがある。

 建設もひとつの産業であり企業であるから、ビジネスとして遂行し、応分の利益を追求するのは当然である。ただ殆どすべての建設事業が上記のようなイデオロギーのもとにしか動いていないことを奇妙に思い、不気味に感ずるのである。
 特に奇怪なのは、そのような傾向に対して、大半の建築家、そして殆どすべての建設業者が、何の疑惑ももっていないように見えることである。建築研究や建築教育すら、そうした建築的現象への着目や分析を全く欠いているように思われる。

 その証拠として、現在では、半ば永久的存在を期待されている記念的建造物でも、当座の用だけを目差す商業建築でも、全く同じような構法や細部で設計されていることがあげられよう。
 第一流の建築家が、明らかに耐久性を欠く構法でモニュメンタルな建築を設計したりする。コンペの審査員も、建物の耐久力や維持管理の方法まで含めて判定しているとは思われず、30年経てば無残な有様となることが目に見えている建物に易々として賞を授けたりする。そこでは、記念建築の生命である耐久性という観点が全く抜けているのである。

 建築の方法が、いわばひと色に統制されているばかりでなく、建築の施工にはっきりした等級がないのも奇妙な現実である。
 日本料理によくある松竹梅や上・並の区別と同じように、かつて和風建築の工事には上等・中等・並等の区別があった。これは材料・工法・仕上げなどのすべてに亘る質の表示であると同時に、耐久力の表現であり、保証の程度の契約条件でもあった。
 現在の建築にも当然それが存在するはずであるが、故意にあいまいにぼかされて、たたひと色に偽装されている。この建築は20年しかもたないから単価はいくら、50年もたせるならいくら、100年保証せよというならいくらという単価の表示がなければ、とうてい正常な建築契約とは思われない。
 それとも現在では、すべての建築がすべて並等で20年の耐用年限を基準とし、それを知らないのは建築主だけなのであろうか。これはどう見てもフェアな状態とはいえない。
 
 もともと建築のコストとは、建設費だけでなく、メンテナンス・コスト、ランニング・コストの総和である。このトータル・コストが建築主の支払う総費用なのだから、耐久力というファクターが抜けていてはどうにもならない。
 ある建物に対して妥当なメンテナンス・コストを出す算式はないのか、とある建築経済の専門家に尋ねたことがあるが、そういうものはないという話であった。これで官庁・大学の建物が年毎に傷んでゆく理由がよくわかる。メンテナンス費用の算式がなければ説得力のある予算請求はできないからである。
 つまり、古くなった建築は、早く荒廃させて建て直した方がよいという結果になるのである。

 実際、今日の建築の状況が混乱を招いている要因のひとつは、確かに主導的建築家(かつてのコルのごときリーダーたち)の欠如であるかもしれないが、より大きな原因は、かつての指導者たちによって建築の実務があまりにも建築の本道から離れて、単なる経済行為・技術行為に堕してしまったからである。その最大のファクターは耐久力の無視であろう。

 世の中の誰一人として求めていない建築の短命化や造形には集中的な努力が傾注されているが、皆が要望している雨もれ防止や耐久力の増大、修理費・維持費の低減などに心を向けてくれる建築家はあまりにも少いのである。


  [次回は最終、5.耐久建築のすすめ]

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桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-4

2007-06-14 18:47:29 | 桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介

4.鉄筋コンクリート造の耐久性(1)

 木造建築は耐久力がないという常識の押しつけのもとに、鉄筋コンクリートの普及が推進されてきたというわが国の歴史的構図は明らかであるが、一般大衆が抱いている「コンクリート造は耐久建築」という誤ったイメージはいまだに修正されていない。一般大衆ばかりではなく、かつては建築家も鉄筋コンクリート造を永久建築と信じていた証拠がある。例えば、明治末・大正初期の論客であった建築家高松政雄は、近代日本における理想的な構法と意匠の原型を追求し、鉄筋コンクリート造こそ永久建築の基盤と断じている(原註2)。

  原註2 高松政雄「人の心と建築材料(三)」
      読売新聞:明治43年12月4日号、
      「高松政雄君の制作と著作」昭和10年、pp160~162。

 しかし、この結論が事実にも理論にも反していることは明白である。
 コンクリートはアルカリ性の物質で、それゆえに内部にある鉄骨や鉄筋の酸化を防いでいる。コンクリートの中性化は表面から内部へ進行して、中性化がかぶり厚さいっぱいに達したとき、コンクリートの防錆能力も尽きてしまう。鉄錆びは膨張し、コンクリートを破壊し、あとは通例の鉄材の酸化が容赦なく進行する。従って、鉄筋コンクリートの寿命はかぶりの厚さに準ずるが、かぶり厚さをやたらに大きくすることはできない。理論的な寿命の値にも各説あるようだが、まず60年から、せいぜい100年とみる点では多くの人が一致している。

 しかし、これは理想的に施工され、亀裂を全く生じなかった場合の話で、実際の建物にはあまり当てはまらない。施工のぞんざいな建物では30年もてばいい方だろうという声もある。公認の償却期間さえもたないだろうと思われる建物も少なくないのである。
 わが国で最も古い鉄筋コンクリート造建築は神戸和田岬に建てられた三菱の倉庫(明治39年、1906年)で、その寿命は60年に満たなかった。旧帝国ホテルは建設後45年で破壊されたが、その鉄筋コンクリートもやはり寿命がきていたという。現存最古の鉄筋コンクリート造建築は三井物産横浜支店(明治44年、1911年)で、ようやく寿命70年に達した。ヨーロッパの初期鉄筋コンクリート造の作例がどうなったかは、詳細を知らないが、いずれも寿命が尽きかけていることだけは間違いない。

  筆者註 以上の数値は、桐敷氏の執筆当時:1980年が基準である。

 近代建築の寿命が恐ろしく短かいことは、ライトのロビー邸(1908年)、グロピウスのファーグス工場(1911年)やバウハウス(1926年)、コルビュジェのサヴォア邸(1928年)などが、すでに文化財保存事業の対象になっていることからもわかる。最近では、メンデルゾーンのアインシュタイン塔(1921年)やペレーのル・ランシイのノートル・ダム聖堂(1927年)などの保存、コルビュジェのエスプリ・ヌーヴォー館(1925年)の再建などが話題になっている。それぞれの内容は別として、何か近代建築のはかなさを感じさせるニュースである。

 これらは経済的耐用年限の問題だという反論も可能であるが、それはフレキシビリティの欠如と同義であり、これは機能主義の裏返しの結果ではなかろうか。
 つまり、機能主義に徹すれば徹するほど、その建築はすぐに古くなる。
 その意味で近代建築はオーダーメイドの子供服に似ている。成長変化する内容に耐えられず、他の用途にも転用できないものが多い。修理も利かず、建て直した方が早いものが多い。いずれにせよ、耐久力がないのである。

 近代建築の基本構法や設計理論の基本そのものに、建築の耐久力を減殺する要因があることは、それらに付随するさまざまな表現や細部にも欠陥があることを予想させるが、これも残念ながら事実である。
 例えば、近代建築の基本形となったいわゆるインターナショナル・スタイル(箱型、白い平坦な壁、陸屋根)は、全く地中海型の建築であって、他の地域にはまず適合しない。
 特に多雨多湿のわが国で、陸屋根の大半が雨もれを生じ、二度も三度も修理してどうにか間に合わせていることは、建築界では常識化している。
 壁面を雨にぬらすことは、むかしの建築家たちが最もおそれたことであるが、軒蛇腹や蛇腹のないのっぺらぼうの壁、窓まわりの単純さは、そうした1000年の常識にさからっているのである。

 ミース式の総ガラス張り建築に至っては、いかなる場所に建てようが、暖房負荷・冷房負荷の点からエネルギー浪費のための建築としかいいようがない。
 もともと総ガラス張り建築は、イギリスか北フランスの温室建築か展示場建築として考えられたもので、人間の居住には本来向かないものである。スカンジナヴィア諸国や中近東諸国における総ガラス張り建築ほど不合理で無駄なものは考えられない。ハンコックビルのような超高層ビルの壁面ガラスが次々に破れてゆく事件などは、こっけいを通り越して冗談ではないかと思う。
 何のために何をしているのかがわからなくなっているのである。耐久力どころではなく、単なる浪費なのである。

  [以下、次回につづく]

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桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-3

2007-06-13 16:43:30 | 桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介

3.木造建築の耐久力

 われわれは、伝統的日本建築には耐久力がないことを無造作に常識化している。これは、鉄筋コンクリート造は耐久力があるという常識の裏返しである。
 しかし、事実はそれほど簡単ではない。日本建築といっても、社寺と住宅とは異なるし、住宅といっても、本格的な書院造や民家と、貸家・建売り・バラックの類とはまるで違う。
 しかし、ふしぎなことに、建物の維持管理には一定の通則があるようで、毎年の点検、10年毎の小修理、30~50年毎の大修理、100~300年で解体修理というのが一般的な手入れの仕方である。社寺・宮殿のような文化財建造物でも、ほぼ似たような数字があげられている。ていねいな維持管理をすれば、木造建築の寿命もかなりのものとなるのである。

 わが国の伝統建築では、このような手入れや修理がしやすいような工法が用いられてきた。
 例えば屋根であるが、瓦もタルキもはずしやすいようにつくられている。また柱も、腐りやすい下端部は根継ぎによって比較的簡単に補修できる。日本壁、ふすま、障子、タタミ、押縁下見に至っては、始めから定期的に修理、或は更新されることを前提にしている。適切なメンテナンスと結合されれば、伝統的日本建築はやはり耐久建築なのである。

 これに対して、現行の木造建築は、始めから耐久性を放棄しているように見える。当座の強度だけを問題にし、しかも、それを法的に、或は技術的に正当化しているのである。
 まず柱が4寸(12cm)角以下でもよい、10㎝角でもよいと、むしろ伝統規格より弱化させている。これは構造的な面ばかりでなく、建具のおさまりが無理になるという点からも改悪であろう。まして、耐久力の劣る外国材を用い(原註1)、合理化と称して柱数を最小限にすれば、耐久力は更に落ちる。柱を細くした結果、厚い貫が通せず、代りに筋違い(すじかい)を奨励した。これも柱の上下を切り欠き、桁を突き上げ、結局金物を使えという結果になってしまう。

  原註1:これは現在(1980年当時)輸入されている外国産木材の
      ことで、伝統的西欧建築に用いられているオーク材は
      300~500年の耐久力がある。

 金物を多用せよというすすめには、始めは心ある大工たちが強く反抗した。金物をできるだけ用いないことがよい仕事のしるしだったからである。
 日本では「釘を全く使っていない」というのが、建物の優秀性をあらわす表現だった。釘を全く使わない木造建築などあるわけがないが、金物をやたらに使ってようやく立っているような木造建築は下等であるという事実はよく表現されている。

 更に、防火性を高めると称してモルタル塗りを奨励したが、モルタル塗りの厚さが薄すぎて、亀裂による浸水が軸組を傷めてしまう。モルタル塗りは少なくとも3cm以上の塗厚がなければ耐久性がなく、日本でも大正・昭和初期にはそのように行われていた。
 また最近は、断熱性を高めると称して、壁のなかにやたらに詰物をすることが流行している。軸組が早くむれて早く腐るほうがよろしいとしているような状況である。

 どんな建物にも布基礎と土台を入れるという実務も耐久力を落している。
 布基礎にボルトで緊結された土台は、腐朽してもまともに入れ替えることができない。そのうえ、一般に行われている布基礎の規格程度では、不同沈下を起こしやすく、起こしても直しようがない。
 せめて土台だけは檜の4寸角としたいが、そのようにしている住宅を見ることは殆どない。わずか2間か2間半のスパンに鉄梁を組み込んでいる住宅などをみると、わが国の木造建築の衰退堕落もここまできたかと痛感するのである。

 屋根を軽くせよという一言で、鉄板葺きを流行させたのも同じ傾向である。正直に見れば、今日でも瓦にまさる葺材はないことが誰にもわかる。
 鉄板葺きのメンテナンスの苦労と費用を考えれば、瓦葺きの維持の楽なこと、耐候性、雨音防ぎ、落着きと重厚さなど、多くの長所が明らかである。第一、瓦葺きであるか、ないかで、大工の評価や意気込みがまるで違う。鉄板葺きであるというだけで、心ならずも気が入らず、手を抜いてしまうのである。
 しかし、瓦葺きが断然すぐれているという建築家の発言を聞いたことがない。
 確かに鉄板葺きは勾配をゆるくできるので、屋根のおさまりが楽になる。だが、緩傾斜の屋根は台風に弱い。風による屋根の吸い上げや、軒先のあおりを防ぐため、またしても手違いカスガイなどの金物でタルキを留めなければならない。

 雨押えを鉄板でするのも悪いプラクティスのひとつである。雨押えの取り替えは容易でないから、当然銅板を標準工法とすべきであるのに、銅板をぜいたく品のようにみなすのはおかしいのである。

 どの国のどの時代にも、一般建築の良心的な規格や標準工法というものがあるが、以上のような明々白々たる技術的低下、水準の引下げを公然と行い、それを進歩と考えている国は、残念ながらわが国ぐらいしか見当たらない。
 もちろん表向きの理由には、耐震性と防火性能の向上という大義名分がある。
 布基礎を入れ、土台を入れボルトで緊結し、金物を多用し、屋根を軽くすれば、確かに耐震性能は上る。しかし、所詮たいしたことはない。モルタルを塗り、鉄板や石綿板で蔽えば、確かに防火性能は高まる。しかし、これもたいしたことはない。耐震防火のためだけに、耐久力と意匠を犠牲にしているからである。

 建築にとって、耐震・防火・耐久力・意匠のいずれも大切な項目である。そのなかで、むかしから「便利・耐久力・意匠」といわれている建築の三大項目の二つまでを犠牲にして耐震防火を達成したところで、建築学の進歩とはとうていいい得ない。現に日本住宅の建築的水準は、設備・備品を除いて、史上最低のみじめさに低迷している。

 ローコストの住宅を提供するという名目は、社会的にはいかにも立派で、大衆にはアピールするかもしれないが、建築的には良心的ではない。
 建築は高価なものだから、より耐久力があるようにつくるという方がよほど健全である。このように考えれば、現代といえども、それほど多種多様の工法が残るわけではない。良心的で健全な建てかたとは、かなり限られた手法となるはずである。これが意匠にも反映する。
 健全な工法から生まれてくる意匠だけが健全なのである。日本の木造建築の再生はそこからしか現われないだろう。
 しかし、そうした耐久建築の研究がどこかで行われているという形跡さえ、いまは全くないのだ。

  [次回は、4.鉄筋コンクリート造の耐久性(1)]
 

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桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-2

2007-06-12 16:10:27 | 桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介

2.ヨーロッパ都市建築の耐久力(2)

 [先回のつづき]

 近代都市と歴史的都市が両立しがたいことを、いち早く悟ったのはヨーロッパ先進諸国であった。建築界におけるル・コルビュジェの圧倒的な影響力にも拘らず、ヨーロッパの古い町々や大都市の歴史的中心部では、コルビュジェ流の建築革命は殆ど拒否された。今日でも、代表的なヨーロッパ都市は、いわゆる「歴史的都市」の形態を中核として成立している。

 第二次大戦による破壊ののち、少なくとも四つの都市が、その主要部を全く戦前の姿のままに再建するという驚くべき事業をやってのけた。ドイツのニュルンベルクとローテンブルク、ポーランドのワルシャワ、ロシアのレニングラードがそれらである。他の町でもオールドタウンは殆ど復原的に再建された。近代的都市計画は、ただ新興住宅地と再開発されたスラム地区のみに許されるというのが一般的なパターンであった。

 実をいうと、ヨーロッパの都市にとっては、これは二度目、或は三度目の体験だったのである。すでに19世紀の中期から後期にかけて、都市の膨張と近代化は著しいものがあった。パリやウィーンのように、旧城壁を破壊して近代都市への脱皮を図った町も少なくなかった。
 しかし、この時すでに都市の個性についての自覚が生まれ、モニュメントやランドマークに関する意識が次第に明確化されていった。アルトシュタット(旧市街)とノイシュタット(新市街)をはっきりと区分した町も多い。
 ルネサンスの衝撃をすでに経ていたヨーロッパ諸都市が近代建築の衝撃に強く抵抗したのも、都市のアイデンティティ(自己証明)がその独自の「形態」にあることをよく知っていたためである。

 筆者の手許には20世紀初頭のベデカー(ドイツの著名なガイドブック)が数冊あるが、交通機関やレストランなどの案内を除けば、その内容は今日でも殆どそのまま通用する。つまり、ベデカーにのったものはモニュメントであり、ランドマークであって、その町から取りはずせないものになっているのだ。
 都市についての愛着や意識はそのように高いが、そればかりではなく、個々の建築、或は建築というものについての意識にも、市民と建築家の双方に、われわれとは大いに違ったものがある。
 それは、建築とは本来耐久的なものであり、人間が壊すつもりがなければ壊れるものではないという意識である。壊すも残すも人間の意志次第だという自覚である。近代建築は、耐久力に対する配慮が足りないという点で、こうした伝統的意識と合致しないところがあったのであろう。

 近代建築が普及するためには、ヨーロッパ人が日本人と同じように、建築を「仮の宿り」と考えるような意識の変革が必要だったと思う。
 日本人のもつ「仮の宿り」的建築観は、仏教の死生観、風水火災の見舞う風土、花鳥風月的生活観、木と草と紙の伝統的建築に養われたものと考えられるが、これが明治以降の使い捨て文化の進展と実によく合致して今日の先端的繁栄を築く大きな要因となった。

 西欧の場合はむしろ逆である。伝統的な「あなぐら」と「とりで」の建築観は、もともと防衛的・戦闘的な生活観から出ている。たとえ人は亡びても、建築や都市は残るという前提のもとに人々の生活が営まれている。
 人も建物もともに生々流転するというわれわれの生活観はむしろより近代的なもので、近代建築の思想によりよく合致していたとみるべきであろう。
 しかし、西欧も変りつつある。アメリカに押えられ、いままた日本に凌駕されるという経済力競争の屈辱が、ヨーロッパをも建築の近代化競争に巻きこむかも知れない。もしそうなったら、それはヨーロッパ文明の終末ともいえるし、少なくとも過去のヨーロッパの消滅を意味することになろう。

  [次回は、3.木造建築の耐久力]

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