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「動機の必然」 1983年度「筑波通信№7」

2019-12-31 13:05:05 | 1983年度「筑波通信」

PDF「動機の必然」(1983年度「筑波通信№7」)

  動機の必然    

 美術の秋などという言いかたについていつごろから言われだしたのかは知らないけれども、毎年いまごろになるとそういう話題が新聞紙上などを飾るようである。ことしは、それにうってつけの事件が起きてひときわひきたった。ご存知の写真模写の一件である。いや、正確に言えば、入選取り消しの一件と、展覧会場から撤去の一件の都合二件である。作者の弁解や評論家諸氏の講釈など、いろいろと書かれてはいたが、ど素人の私には、いま一つ合点がゆかなかった。合点がゆかないというのは、なぜ写真を模写したのがいけないのかが、私にはよく分らないからである。

 決定的な事実は、なにはともあれ、とにかく一度は、これらの絵は二作とも、よいものとして評価されて入選していた、つまり、審査員のお目がねにかない、絵の質として一級のものとして評価を与えられていたということである。しかしその絵が写真の模写であることが判ったとたん、選外と同等のものにおとしめられる、というのはいったいどういうことなのだろうか。

 制作の課程が分ったとたんに画面に変化が起きるわけもなく、従って絵の質に変化が起ったわけでもない。そうだとすると、入選が取り消され、壁から取り外された理由は、ただ一つ、その絵の質が悪かったからではなく、写真を模写したというただそれだけのこと、その制作課程がいけなかった、ということになるだろう。もっとも、制作課程がいけなかった、などといういわば一般的な言いかただと、逆に、制作課程がすばらしいものならば入選して然るべきだ、という論理が成りたってしまうことにもなるから、つまるところ、写真に拠った、ということがいけないことだと見なされたということになるだろう。しかし、どうして写真に拠ることがいけないことなのか、そのあたりのことが、少なくとも新聞紙上で書かれ言われていることからは、私にはさっぱり分らない。「絵としてよいものならよい」としてどうして済まないのかが分らないのである。

 これが写真のコンテストであって、他人の写真を盗んだとか、まるっきりコピーしたとかいうのならば、人選取り消しになっても不思議ではない。だがこの場合はそうではない。写真を模写しようがしまいが、彼女または彼は人の作品をそっくりいただいたわけではなく、あくまでも自分の目を一度通過させた、その意味では創作をしたことに他ならないからである。だからこそ、審査員諸氏もまた、一度は「よいもの」として認めたのである。写真をもとに絵を描くことは、よほどおぞましきこととされているにちがいない。

 もっとも、ともに写真模写が問題とされたのであるが、この二つの事件はそれぞれその問題のされかたが微妙にちがい、一件は単純に実物の写生ではなく写真を写しとったことの当否が問われ、もう一件では、その写真が自分の撮影によるものでなく他人のものであったことが特に問題とされたようである。だが、そうであるならば、写真を模写したことが露見しなければ話が済んでしまうのか。あるいは、その写真が自分が撮影したものだったならよかったのか。そう考えると、これはどうも作品の質とは関係のない論議のように、素人の私には思えるのである。もしも、「だれだれの写真による〇〇」というような題で出品したら、それは審査の対象になるのか、それともならないのか、そこのところがいまひとつ分らないのである。そういえば、音楽では「だれだれの主題による〇〇」とか「だれだれ編曲の〇〇」(つまり、原曲の作者は別にいる)があって、原曲よりも親しまれよく演奏される例がある。

 

 この事作の当事者である彼女や彼がある写真をもとに絵を描こうと思ったのは、おそらくその写真に彼らの心を動かすなにものかがあって、彼らはそれを絵に描きたかったのだと私は思いたい。それとも、そうではなく、自らの手による写生の省略のために、あるいは写真のもつ表示能力の卓越さにかぶとをぬぎ、つまり表示技法上のために写真を援用したのであろうか。そうだとすれば、彼らは写真のような絵を描いたにすぎなくなり、一度はそれらの絵を入選と認めた審査員たちもまた、その点のみで(つまり表示の技法の点のみで)それらを評価していた、ということになるだろう。

 つまるところ、よい絵というのは、その絵が人に訴えるなにかに拠るのか、それともその表現のしかた:技法に拠るのか、はたまたそのいきさつに拠るのか、いったい何なのか分らなくなってくる。素人の私には、そういう絵を描きたい、というそもそもの動機が作者にあった、つまり、それが写真であれ実物であれ何であれ、そこに作者はなにかを見た、そしてそれを表してみなければいられなかった、そしてそれを表現し得て観る人にもそれが伝わり見えた、そういうものが、「よい」ものが備えもつ要件なのではないか、との極めて単純な考えかたしか持てそうにもないのである。たしかに技法のうまいへたはあるかもしれないが、そのもののよさが単に技法の問題ではないことは、たとえば、西欧のロマネスクのものなどを考えてみれば明らかだと思われる。非常に稚拙としか見えないけれども、そこから伝わるなにかがある。それはつまり、観る人の側のなかにわき起るなにかに他ならない。それらの稚拙としか言いようもないものが、観る人をしてそうさせるのだ。私には、その技法が決して洗練されたものではないにも拘らずそのような具合に訴えてくるのは(あくまでもそれは私の目の前に結実しているものがそうさせるのだが)、その結実しているものに表われているところの、そう作らざるを得なかった動機そのもののせいなのではないか、すなわち、単なる結果物そのものの形の上の「よさ」ではなく、そうせざるを得なかった切実さと言うかあるいは執念とでも言うか、そういったものがどんと迫るかたちで伝わってくるからではないか、と思える。

 

 美術の世界でよくモティーフ(motif:仏語)ということばが使われる。通常の意味は、辞書によれば、芸術的表現活動の主題、ということになるが、ややもすると、単に題材ぐらいの意味としてしか使われていないのではなかろうか。このことばの本義である「動機」としての主題という意味が見失われているのである。

 私がロマネスクのものや、あるいは極く素朴ないわゆる民芸と言われているもの(この呼びかたは私は好きになれないのだが)に魅かれるのは、それらを作った動機:極めてさし迫ったそれを作らざるを得なかった動機が、なんのてらいもなく素直に表われているからではないか、そして、その動機というのが、単なる思いつきや単なる感覚的な衝動のそれではなく、彼らの生活上の必然的な動機だからではないかと思っている。考えてみると、いま作られるものの多くには、こういった迫力ある動機を感じさせるものが少なくなり、いわば表面的な、ただいたずらに皮相的な感覚面だけをくすぐるようなものや、技法上の巧みさだけを追うものが多くなっているような気がしてならない。

 これは私白身の経験上でも言えるようで、資金も豊富でゆとりをもって設計できた建物(そう滅多にあるわけではないが)よりも、極めて厳しい条件のもとで、いわばなりふり構わず、ぎりぎりのところで設計せざるを得なかった建物の方が、どうも結果がよいようなのである。というのも、どうやら、前者の(つまり、いわばゆとりのある)場合には、その建物があらねばならない「必然」についてのつめが甘くなり、その甘いつめのまま、いわば上塗りだけにせいをだしてしまいがちになるからのようで、逆に後者の場合はゆとりはないから「必然」をぎりぎりのところまでつめてかからないとものにならず、それゆえできあがりにもその成果がぴりっとしたものとなって表われるのだと思われる。これを先きほどの言いかたで言えば、その建物を作る「動機」が、しっかりとした「必然」の裏づけを持っているかどうかに係わっているのだ、と言えるのではなかろうか。「必然」のつめを忘れたとき、いかに上塗りに技巧をこらしても、結果はふやけたものになってしまうようである。

 

 先月の末、群馬県の東端にある板倉町という町を訪れてみた。そこは渡良瀬川と利根川にはさまれた河川の氾濫原にできた町で、隣接する埼玉県北川辺町(埼玉県のなかで、この町だけが利根川の北側にある)群馬県明和村、そして館林市の郊外を含めた一帯には、一見したところ、のどかでゆたかな田園風景が拡がっている。

国土地理院 5万分の1より

 

 私がこの町を訪れてみる気になったのはTVのせいだ。たまたまそのころ、TVのローカルニュースのなかで利根川流域の風物を紹介する特集があり、そこで、板倉町に現存する「水塚(みづか・みつか)」を報じていた。板倉町は私のから一時間ほど車で西に行ったところにあり、群馬県方面に行くときはいつも通っていたのであるが、古い町だとは思いつつも、ついぞ尋ねてみることもせずにいたのである。

 あたり一帯のどかでゆたかな田園風景である、と先に書いたが、実際はこのあたりはとんでもない地域である。渡良瀬川と利根川という源のちがう大きな河川がこのあたりでぶつかりあい、一帯はしょっちゅう洪水に見舞われていたのである。いま見るようにひとまず落ちついた風景になったのは、巨大な堤防が築かれ排水設備が施されるようになった極く近年になってからで、以前は常に水の脅威におびやかされていたらしい。だからであろう、集落のあちこちに、水神、竜神がまつられている。

 このとんでもない水の脅威にさらされる土地に人々が住みだしたのは、決して古いものではなく、おそらく近世になってからだろう。氾濫原であるから肥えた土地ではあっても、並みのことでは住めなかったはずである。しかし、時がすぎ、人口も増え、新しい耕地を求めて、人々は押しだされるようにしてここに進出、入植する。やたらに進出したのではない。氾濫原のなかのわずかに高い土地を見つけだし、そこを住み家としたのである。いま、このあたりを遠くから見ると、平原のなかに、まるで島のように、こんもりとした樹林におおわれた集落が浮いているが、これらはほんとに、まずほとんどが、氾濫原のなかのわずかに高い土地だといってまちがいでない。北川辺町のあたりでは、地図にはっきり見えるが、平地のなかを蛇行する川が生みだした自然の微高地(自然堤防と呼ばれる)上に、線状に続く集落を見ることができる(もっとも、遠望する限りでは、なかなかそうは見えない。また、蛇行していた川も、いまはもう川の態をなしてないから、予備知識がないと分らないかもしれない)。

 だが、多少でも小高いからと言って、それで水の脅威からまぬがれ得たわけではない。洪水に対しては、それでは役たたずなのである。かと言って、そこから逃げだすわけにはゆかない。そういう土地で、生き続けねばならないのである。そういうなかから生まれたのが「水塚」というやりかたである。生活してゆくのに最低限必要な物資・家財を水害から守り確保すべく、屋敷の一画に土盛りをして小山を築き、その上に倉を建てておき、万一に備えるのである。この小山には、多分水流による破壊を防ぐためだろう、樹木が密に植えられており、しっかりしたものでは、足元を石垣で固めてある。石など手近かにころがっているような場所ではないから、どこか遠方から運んできたはずで、その点から考えると、石垣で固めたのはより近年になってからだろう。こういう小山を「水塚」というらしい。屋敷の中央に主屋が南面して建ち、水塚は大体その西側にある。なかには屋敷全体を土盛りした家もあるが、それは少なく、ほとんどの場合、主屋は原地盤の上に建ち(原地盤に30cmほどの盛土はしてある)、水塚との比高は2~3m、つまりおよそ一階分ある。だから、遠望すると、水塚の上に建つ倉の屋根の方が主屋のそれを越えてそびえている。倉といってもそんなに大きいものではないし、また土蔵のようなつくりではなく木造のままだから、やぐらのようにも見える。水塚をとり囲む樹木がうっそうと茂って、全体の背景となっている。

 主屋は、大体がこじんまりとした平面で、やたらと拡がるということはなく、その代り、屋根裏も使える中二階~二階建となっている例が多い。屋根裏といってもちゃんとした窓が開いている。養蚕をしていた農家にもこういう例があるけれども、この場合もそうなのだろうか、まわりに桑畑がたくさんあったようにも見えず、私には、このやりかたも水害と関係があるのではないかと思えてならなかった(少しばかり水がつく程度の洪水ならば、それで一時しのぎができそうである。)。

 あとになって気がついたのだが、屋敷地のなかで、水塚を西側に設定するというのも、ことによると、水害を考慮した結果のやりかたなのかもしれない。ここの場合、西側はすなわち川の流れ(したがって洪水のときの流れ)の水上にあたる。そこにおかれた水塚は、その上に建つ倉を守ると同時に、その水下側にある主屋への水流を緩和する防波堤の役割ももっていそうに思えるからである。他の土地の例も調べてみなければ分らないが、ただ単純に西側に置いたわけではなさそうである(西側はまた、冬期の赤城下しが吹きおりてくる側でもある)。

 

 このような水への処しかたは、しかし、一朝一夕にして生まれたものではない。おそらく、何度も水に流され、それでもなおその土地にしがみつかざるを得ない、そういう生活を何代も積み重ねてゆくうちに獲得したやりかたなのである。

 いずれにしろ、この土地での暮しかたを決的づけていたもの、そしてまた、家一軒を作るにあたっての決定的な「必然」・「動機」となったもの、というのは、まさに、この地で住む以上はいかんともしがたく対面せざるを得ないところの洪水への対処のしかたであったと言ってよいだろう。

 

 いまでは、この土地を洪水がおそうということも聞かなくなった。利根川の堤防は昔の3倍の高さになったと言い、低湿地では機械による排水が行われ、もう昔のような心配をしなくてもよさそうに見える。あたりには、都会と同じような家々が、低地もものともせず、建ちはじめている。彼らの家づくりは、既に、水に対するのとは別の「必然」・「動機」に拠っているらしい。いったいそれは何なのだろうか。

 考えてみると、いま、多くのもの作りの場面で、なにゆえにそういう結果でなければならないか、という「必然」をつめることが少なくなりつつあるのではなかろうか。「動機」が「必然」とかかわりないところで発生しているのである。

 

水塚のある家―1  館林市赤生田(あこうだ)

主屋は平屋、中二階がある。左手の建物が水塚の上の倉

  水塚へ上る階段

 

水塚のある家―2 北川辺町曽根    

主屋は二階建

 

あとがき

〇コシヒカリの刈り入れが始まっている。このあたりの稲は8割がたがコシヒカリだそうである。ことしは九月の初めに突風が吹き(これは極めてものすごく、組立て中の鉄骨造の体育館が倒壊したほどであった)腰の弱い品種のコシヒカリはほとんど寝てしまい、おまけにそのあと長雨が続いたので芽の出たものもあるとのこと、困っている農家が多いそうである。それでも、遠くからながめるかぎり、水田は黄金色に染まり、豊かな田園風景に見える。昔は8割がたを一品種で作るということはなかったようである。コシヒカリに集中するのは、それがおいしいからなのはもちろんだが、それよりもなによりも、高い値で売れるからのようである。いま、稲もまた換金作物なのである。その昔、水塚に拠って暮しをたてていた農民がこれを知ったら、びっくりするにちがいない。

〇台風10号が過ぎ、秋の空か拡がるようになった。ことしは台風の数は少ないにも拘らず、やたらと水害があったような気がする。とりわけ甲州・信州がひどくやられているようだ。そういえば、ここ数年、甲信地方は毎度のように被害に遭っているように思う。異常に雨が降ったからなのだろうか。しかし、これまでにこの程度の雨が降らなかったわけはあるまい。治水の計画だって、その程度のことは計算ずみだろう。そうだとすると、別の原因があるはずだ。一つ想像できるのは、開発が山の奥まで進んだことだ。たとえば甲州のぶどう園。いまではかなりの急斜面も、立木を伐りとりぶどう園となる。ぶどうは、極端な場合には10m角の土地に1本のぶどうの樹だけで栽培できる。樹木の密度は極端に小さくなる。結果は明らかであろう。降った雨は直ちに急斜面を流れ下るのである。川にそそぐまでにタイムラグがないのである。川は一気にふくれあがる。

〇風が吹くとおけ屋がもうかる、というのは笑い話ではあるが、ものごとが連関しているという点では真実をついている。スイス以外のヨーロッパ諸国の農業のやりかたは、いま日本の農業がやりかけているのと同様に、速効を旨とする(たとえば、穀物飼料による牧畜:草地によらない)やりかたに戦後このかた切りかわっていたのだが、いまようやく、その見直しが始まっているのだそうである。耕地が荒れはてたのだという、(朝日新聞9・ 30夕刊)。

〇人間が持っている知恵というのは、もっとトータルな視界を持っていたのではなかろうか。

〇先号あとがきで、山形県西馬音内と書いてしまったが、秋田県が正しい。

それぞれなりのご活躍を!

              1983・10・3         下山眞司

 

 

★ロマネスク美術:西ヨーロッパの主として11~12世紀に行われた中世美術をいう。(世界大百科事典 平凡社)より

 

ティロル城(Schloss Tyrol)の聖堂入口  1150年頃 北イタリヤ 大理石 

 

同上左側             故人蔵「ロマネクス」より 慶友出版

 

 

「聖母子像」11・12世紀 ツューリッヒ国立美術館 木彫     「ロマネスク」より

 

 

「栄光のキリスト」1167-88 レオン(スペイン)サン・イーシドロ教会パンテオン・デ・ロス・レイエス 壁画  故人蔵「ロマネスク美術」より 学習研究社

 

「マティルド王妃の刺繍(部分)」1080年頃 麻地 毛糸刺繍0.5×70.34m(全体) バイユー司教区美術館 
1044年4月に現れたハレーすい星を王と人々が驚く様をわずかな色糸で描いた部分。  「ロマネスク美術」より

 

 

 

 

投稿者より

この1年間迷いながらも、故人のブログに拙い編集投稿をしてまいりました。

お忙しい中、お寄り頂き、ありがとうございました。

どうぞよいお年をお迎えください。                                   下山 悦子

 


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「第Ⅳ章ー3-C2目加田家」 日本の木造建築工法の展開

2019-12-24 10:40:11 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-C1目加田家」

 

Ⅳ―3 近世の典型-3:住宅建築 

 C 住宅建築-3:武家住宅

 武家の住宅も、先ず全体の空間を構想しそれを分節させて各室を配置する、空間と架構を一致させる、という点では農家住宅商家住宅と同じですが、武家の住宅には、ここまで見てきた農家住宅商家住宅とはかなり異なる点が見られます。

 それは、接客空間の位置づけです。

 農家住宅商家住宅でも、家人の居住空間に加えて接客空間が付設されることがありますが、その場合は、あくまでも、居住空間を先ず正当な位置に設け、次いでその端部に接客空間を設ける、という手順を踏むのが一般的です。

 

 上の図は17世紀半ばにつくられた椎名家の復元平面図ですが、接客空間は東端部に用意されています。

 

 ところが、武家住宅では、接客空間が先ず設けられ、その残りの部分に居住空間をつくる、という手順が踏まれるのが一般的なのです。

 この独特のつくりかたには、すでに観てきた寺院の客殿建築の影響が大きく影響しているものと考えてよいでしょう。下の図は、その典型とされる17世紀初頭:1601年に建てられた園城寺光浄院客殿です。

 

 寺院の客殿は、寺院の本体あるいは庫裏とは別個に設置され、玄関から見て最奥の室で主人・当主が控え、そこへ向って客が伺候(しこう)する、というかたちに応じた室の配置がなされます。

 この接客のために用意された室の裏側に、接客を支えるためのサービス用の空間を並列させるのが一般的です。

 この形式の諸室を備えるつくりは、一般に書院造と呼ばれますが、武家住宅では、このサービス用の空間の位置に、家人用の空間が配置されるのが普通といってよいでしょう。

 

 こういう形をもつ武家住宅は、幕藩体制の崩壊にともない都市に集中した旧武士階級(多くは中級以下)が求めた住居にも大きく影響します。つまり、都市には、これまでの商家や庶民の住居とは別種のいわば書院造の亜流とでも言うべきつくりが生まれてきます。

 

 

C-1 目加田家住宅  18世紀末~19世紀初頃の建設  所在 山口県 岩国市 横山

 目加田家は天保の頃、岩国藩の御用人役を務めた中級の武士。

 南北39m×東西31mの約1200㎡(約400坪)の敷地のほぼ中央に建つ。

 

 

 

                      図は旧目加田家住宅修理工事報告書より 

 

 接客部分3室を南面に横一列に並べ、その北側に家人の居住部を置く武家住宅の典型的な空間構成。

 いわば、南北2列配置の客殿建築:書院造(例:光浄院客殿)の北側サービス用諸室に家人の諸室をあてがったと見なせるつくり。

 南側に接客用玄関式台を設け、玄関の間東側に脇玄関がある。

 目加田家では、南北2列の間に畳廊下を設けている。

 屋根を瓦屋根とし、主要な諸室に竿縁天井を張っている以外、架構・つくりには農家住宅と大きな差異は見られない。 四畳、二畳、畳廊下は、動線用の空間。

 

南面 式台を見る                             日本の美術№296 武士の住居 より 

塀の内側は、座敷前の庭。 この瓦屋根の葺き方は、この地域独特の方法という。

 

式台・玄関脇玄関        日本の美術№289 民家と町並み(中国・四国) より

 

 

式台 右手は土間入口へ  

 

                    西側外観 縁の左は

 

西側 遠景    

 

                       東側 遠景            モノクロ写真は旧目加田家住宅修理工事報告書より 

 

 

 

使用材料  礎石建て 自然石、式台は方形加工石  柱:マツ 平均4.0寸角  貫:マツ 厚0.65寸×丈3.5寸 継手 略鎌  内法力貫:マツ 厚1.7寸×丈7.0寸(玄関の間~次の間)  足固貫:マツ 丸太材 末口4寸内外 角材 厚2.0寸×丈4.0寸 柱に枘差または略鎌楔締  差鴨居:マツ 幅3.8寸×丈9.0寸(台所まわり

 

 写真説明用キープラン

 

  

次の間から見た座敷視点A)          日本の美術298 武士の住居 より  

       

四畳から裏手に並ぶ裏座敷五畳の間を通して見る(視点B

 

四畳から二畳を見る(視点C  

 

                階段上がり端から見た2階室内視点D)   白黒写真は旧目加田家住宅修理工事報告書より 

 


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「虫に刺されて」 1983年度「筑波通信№6」

2019-12-17 12:00:45 | 1983年度「筑波通信」

PDF「虫に刺されて」(1983年度「筑波通信 №6」) A4版9頁 

  虫に刺されて  (1983年度「筑波通信№6」)

 先日、ものすごく暑い日だったが、久しぶりに池袋から東上線に乗った。昼下がりで空いていたし、冷房もほどよく効いていたから、快適であった。

 川越あたりまではさほど変わった風にも見えなかったが、それから西はわずかな年月の間にすっかり変っていた。沿線にあった緑濃い林は、きれいさっぱりとなくなり、他の私鉄沿線と何ら変りない風景になっている。もちろん、あたり一面に拡がっていた水田も埋め立てられ、見るかげもない。住宅公団の大きな団地や、軒を接した建売住宅が建っているのである。

 そういう新興の住宅地にでも住んでいるのだろう、明らかに都会風のなりをした幼児連れのお母さんが二人、途中の、これも新設の、なんとなく歯の浮くような名のついた駅から乗りこんできた。どうやらスイミングスクールにでも行くのであるらしい。二人ともそのまま青山あたりを歩かせてもおかしくない、いかにも若奥様風のぱりっとしたワンピースを着こなしていたのだが、その脚を見て、やはりここはまだ田舎なのだ、と私は思わずにやりとした。お二人の脚は、出ているところ一面、それはみごとな虫くいの跡。私の経験では、あれはどう見てもぶよの類にくわれた跡のはずだ。いくら林や田んぼがなくなったとはいえ、都心に比べればまだそういう自然は残っているのだ。彼女たちの靴がまたしゃれたものであったから、その虫くいの跡が妙にひきたって見えた。

 私の左足首の近くにも虫くいの跡がある。もういまは二・三箇所かまれた跡が残っているだけだが、十日間ほど膨れあがったままで、いたがゆくてたまらなかった。刺された記憶はまったくないのだが、車の運転席の床に大きなあぶがひっくりかえっていたから、犯人は多分こいつだろう。あぶは、刺しているときには痛みを感じないのである。八月の初句のことである。ちょうどそのころ、車で数日ほど東北めぐりをしてきたのだが、このあぶは、そのときの土産にちがいない。例のごとく、極力主要道や大きな町は避け、発展開発から取り残された町や村ばかり寄ってきたから、多分、その最後の村あたりの産物なのだ。

 

 東北の町や村も、しばらく見ないうちに、大分変ってしまったような気がする。もちろんその印象は外見からくるもので、おそらく生活自体も変ってしまっているだろうが、しかしそこのところは、たまたま通りかかった、いわばよそものの私にはさだかには分りかねる。

 青森県には、北海道へ向って突きでた二つの半島があるが、その東側の半島:下北半島の太平洋に面した海岸沿い、基地の町三沢あたりから北の一帯は、淋代(さびしろ)などという地名もあったりして、わびしい所だった。まさに字の如く風雪を耐え忍んできた、ねじれた細い松林が続き、そこに点在する村々の様子もまたわびしい限りであったような記憶があるが、いまはそうではない。家が、少し大げさに言うと、軒を接するほどにまで増えたのである。その昔は、茅葺屋根の家が数軒、肩を寄せあうように集っていただけで、わびしい風景が延々と続いていたものだが、北の方に行くとまだその気配が多少残っているが、三沢あたりはもうすっかり変わってしまったのである。茅葺の家も数が減り、もう数えるほどしかなく、それも潮風に打たれていまにも朽ちはてんばかりだから、いずれ近いうちに、これらもまた新しいつくりの家にとって代られるにちがいない。

 この、このあたりに増えている新しい家々のつくりは、これはなんと言い表したらよいのか、あえて言えば、まことにけばけばしいものだ。写真を見た人が、まるで盆ぢょうちんだ、と言ったけれども、それはまことに言い得て妙だ。屋根はゆるい傾斜の鉄板で色とりどり、棟や破風は盆ぢょうちんの木部のように模様で飾られ、壁には所々に、これも色とりどりのタイルがはられている。お金は相当かけているのだが、なんとも珍奇に見える。なにも、昔ながらのつくりかたをまるごと経承しろとは言わないが、これではまるで突然変異である。これはいったい何なのだろう。もしかすると、基地の町・三沢が醸しだした独特の空気がそうさせるのかもしれない。たしか、このあたりの人々は、大半が、何らかの形で基地と係わりを持つことで暮しが安定したのだ、というようなことを聞いたことがある。そんななかで、そこから少しはなれた原野のまんなかで、折しもむせるように煙ってきたその地力特有の霧のなかに浮びあがったマンサード屋根の牧舎(ことによると住居)は、軒先までがコンクリートブロック積みだったから最近のものだろうが、なにかほっとするほどさまになっていた。

 

 

 この三沢あたりの風景は、どちらかと言えば特異な風景なのだが、しかし一般に、鉄板葺の家々が多くなっている。しかもそれが、どういうわけか、ほとんど赤茶色:鉄さび色なのだ。屋根だけが妙に浮いて見える。私にとって、東北の普通の町の一般的な印象は、この赤茶色の屋根だと言っても、それほど言いすぎではない。どこの町であったか、国道のバイパスが、川沿いに発展した町をまいて小高い所を通過していたが、そこからながめたその町は、一枚の赤茶色の薄板をもみくちゃにして拡げたような感じであった。

 もとよりこれが初めから赤茶色の鉄板葺であったわけがない。多分、昭和の初めぐらいから徐々に鉄板が出はじめたはずで、それも当初のはコールタール塗りでまっ黒、鉄板も最近のように長尺ものがないから小さいものをひし形や長方形にはいであるし、細工も手がこんでいる。そういうのは見ていて安心できるから不思議である。しかし大部分はより近年になってのもので、赤茶色はトタンによく塗るさび止めペンキの色なのだ。鉄板葺の前は場所によると板葺があったかもしれないが、おそらく大部分は茅葺であったのではなかろうか。だから町によると、茅葺、茅葺の上にそのまま鉄板をかぶせたもの、初めから鉄板葺で考えた(旧い)家、そして最近の鉄板葺、とが混在している所もあり、ちょっとした町では、ほとんどが鉄板葺の建物になってしまっている。そして、更にちょっとした町では、そこへ鉄骨やコンクリートの平らな屋根が続々と進出しだしている。雪が少ない所ならまだしも、雪が降ったらどうするのだろうかと人ごとながら気にかかる。土地土地で微妙にちがった姿をしていた村や町も、どこもどんどん一様になってゆくらしい。そうしてみると、あの三沢あたりの特異な形ときめつけた家々は、ことによると、現代の地域性の表れなのかもしれない、と皮肉に、そして真面目に思えてきたりする。

 それでも、このようにどんどん都会風に、一様になろうとしている町をほんの少し離れると、そこにはあい変らず昔ながらの茅葺の家があったりする。そういう家を見ると、あの町なかで旧い鉄板葺の家にぶつかったときと同じように、妙にほっとするのであるけれども、それは決して私が懐古趣昧だからではないだろう。何と言ったらよいか、あえて言えば、その場にぴったりだからである。屋根だけが浮きあがってくるわけでもなく、壁だけが目だつわけでもない、あるべきものがあるべき姿をして(というより、姿につくられて)そこにある、とでも言う他はない。所を得ているのである。

 

 八甲田山系の北側にある七戸(しちのへ)町から八甲田への道すじのちょうど町の家並みを出はずれたあたりにもそんな家があった。水田から一段上った段丘上の、道に面し、まわりを林と、よく手の入れられた畑とに囲まれた、まだそれほど傷んでいない茅葺の家である。車で町から坂道を上ってくると、まず茅葺の屋根から見えてくる。これはもう、ほんとにさまになっている。小割りのガラスが入った古びた建具がはまっている。後になって取り付けたのではなく、初めからなのだそうである。昭和の初めの建設だ、と柔和な顔つきのおばさんが話してくれた。当時は珍しかっただろう。間取りは普通の農家と同じと言ってよく、ただ、かなりの寒冷地だから、吹き通しになるような縁側はなく、閉じ気味のつくりになっている。土間は向って右:東側にとられ、その一画、東南の角には馬屋が仕切られている。七戸町あたりを、下北半島の下北に対して上北(かみきた、郡名でもある)と呼ぶが、この地方は古代より馬の産地であったらしく、古間木(ふるまき)などの「牧」地名も残っている。 

  東北線の「三沢」駅の旧名は「古間木」:ふるまき:であった。しかし、最近駅の近くにできた引湯の温泉場が「古間木」と書いて「こまき」と読ませたため、こちらの方が幅をきかせはじめたらしい。

  近世、このあたりまでが「南部」に属し、変らず馬の産地で有名で、近代になると軍馬の産地として、戦後は北海道にならぶ競走馬の産地として名が通っている。競走馬は、いま、大きな企業牧場で養成れているが、軍馬ぐらいまでは、個々の農家も農耕馬ともども飼育していたものと思われる。馬屋などは、不用になると改造されてしまい、大抵の場合、復元でもしないとその原形を見ることができないのが普通だが、ここではまだしっかりとした形で改造もされずに残っていたのである。

  南部は曲り家(まがりや)が有名だが、このあたりでは見かけないようである。

 そんな風に思いつつ土間を見せてもらおうとして近づいて驚いた。馬屋はいま納屋としてでも使っているのだろうと単純に思っていたのにそこに何か動物がいる気配がある。しかも大きなもの。それは牛であった。茶色の肉牛である。近づく私に向い、奥から出てきてしきりと威嚇しているのである。奥の力をのぞいて合点がいった。生れたばかりらしいかわいい子牛がいたのである。そういえば、いまこのあたりでは、かつての馬に代り、農家は肉牛・乳牛を飼育していて、あちこちに共同放牧場がある。かつての馬屋は産室として使われているのである。

 土間の一画に馬屋を設ける家のつくりがあるのはかねてより知ってはいても、実際に、馬ではないにしろ、一つ屋根の下に家畜と起居をともにしている生活を見たのは、これが初めてであった。後日、秋田県の田沢湖町の近くでも同じように牛を飼っているのを見かけたから、牧畜・酪農をやっている家では、いまでも古い家をそのように使って暮している場合が多いのかもしれない。

 親牛の威嚇にめげず、近づいて詳さに見てみると、土聞との仕切壁は一応あるものの、板壁はすきすきで向うが透けて見える。あぶが群れて翔んでいる。清潔に整えられてはいるけれども、特有のにおいはあたり構わずである。子牛が育つまでの短い期間だとはいえ、大変そうだ。まして、そんな一時期だけではなく、少なくとも半年以上の長期にわたって、昔は起居を共にしたのであろうから、その大変さは、想像を絶するものがある。そこの所のリアリティには、いま一つ私には近づき難く、まさに字の如く垣間見るのでせいいっぱいだ。

 もんぺ姿のおばさんは、上着も長袖でだぶだぶ、出ているのは顔と手だけ、頭も手ぬぐいをかぶっている。半袖シャツの私は、だから、あぶにとっては格好の標的になる。追っぱらうのに苦労する。昔からの農作業着の姿格好に納得がゆく思いである。あれが体にぴったりだったりしたら、いたる所刺されてしまうにちがいない。私の足首を刺したあぶは靴下の上から刺している。よほど目のつまった厚手の生地でなければ防げまい。そして、そんな厚手の衣服がぴったり体に着いていたら、たまったものではないだろう。体全体をだぶだぶに薄手の布でおおうというやりかたに、変な所で納得する。虫に対しても、陽ざしや暑さに対しても、そしてもちろん作業性も、これはうまくいっている。

 

 蚊帳(かや)というものがあった。後になって聞いておけばよかったと思ったのだが、あの牛飼いの家では、まだ蚊帳をつっているのだろうか。それとも、都会のように、殺虫剤を散いたり、たいたりしているのだろうか。しかしそれでは、どう見ても間に合いそうもない。もちろん、あの東上線の車内で見かけた虫さされのご婦人たちの家では、蚊帳はないはずだ。第一、多分、彼女たちの往む家では、蚊帳をつるにも壁には長押(なげし)はもちろん釘一本打つところがないのではあるまいか。ことによると、彼女たちはもう蚊帳なるものを知らない世代であるかもしれない。いま大学生諸君は昭和三十年代の生れ、もうじき四十年代の生れの人たちが出てくるが、彼らはまず蚊帳というものを知らず、知っていたとしても、実際に蚊帳をつっての生活を味ったことのある人はまず都会育ちの人たちにはなく、地方の人たちでも数少いと思われる。私が高校のころまでは、私の家でも蚊帳をつっていたように思う。もう二十五年ほども昔のことだ。蚊帳をつるのは、子どもにはそれなりに難しく技術がいったし、蚊を入れないようにして蚊帳のなかにもぐりこむのも、それなりのこつがあった。長押の裏側が斜めに切られていることを私が知ったのは、蚊帳つりを通してなのである。それにしても、蚊帳のなかは子どもにとって楽しい世界であった。日ごろ見慣れた屋内に、更に半透明でふわふわした屋内がたちまち出現するのである。それに、麻でつくられたあのはだざわりは清々しい。

     

 

 蚊帳が一般に普及したのは中世以降のようだが、考えてみると、これはなかなかの発明である。とにかく、虫の群れている世界のなかに、虫と無縁の空間をつくりだしてしまおうというのだから、これは並の発想ではない。なにしろ、言ってみれば際限ない虫の群れなのだから、それを一々殺すなどという発想は、どこをたたいても出てこなかっただろう。

 戦後ある時期まで、多分占領軍の指導ではなかったかと思うのだが、蚊の発生源を断つべく、DDTやBHCをやたらと散布したことがあったけれども、これは蚊帳という発想に比べると、たしかに源で断つという局面では合理的ではあるが、かなり無暴で恐しい発想と言うべきだろう。それは、ゲリラを追いだすというたたそれだけの目的で、ゲリラの隠れ家になる密林を根絶やしにすべく枯葉剤を散布したのと一脈相通ずる所のある発想である。日本という湿潤な風土は、必然的に蚊やらその他の虫の世界ともなるわけで、それらだけを不用なものとして除去してしまうことは、それこそ生態系が変りでもしなければできない相談である。実際、最近読んだ「土は訴える」(信濃毎日新聞社刊)という本によると、戦後このかた農業近代化の一環として盛んになった個別害虫対応型の薬剤を初めとした諸種の農薬散布は、土壌の生態をすっかり変えてきてしまっているのだという。そうだとすると、それは、そもそも人々がそれでよしとして拠ってきたはずの風土そのものを、知らず知らずのうちに改変・改悪してきたことに他ならないが、そのことにはだれも気づいていないということになる。

 たしかにもう大抵の所では、蚊帳をつらなければいられないというほどには蚊はいなくなった。私の子どものころには、蚊帳にもぐりこむのに蚊と道づれにならないようにするには相当こつがいったほど蚊がいたものだ。それだけまわりに蚊の住める世界があったのである。蚊帳なしで殺虫剤だけで済ますことができるというのは、言い換えれば、それだけ蚊の往む世界がなくなったということだ。そういえば、私の住む筑波研究学園都市には、不思議なことにせみが少ない。日常的にはすっかりせみが鳴かないことに慣れて気づかなくなっているのだが、旧村部を通りかかって、油ぜみがじーじーと暑くるしく鳴いているのを聞いたりして、そうだ、夏はせみが鳴くんだった、と気がつくほどである。樹木がないわけではない。公園はたくさんあって、多種多様な樹木が植えられている。しかし、まずほとんどせみの声は聴くことがない。おそらく、開発にあたって、地表面をあらかたひっくり返し、改変してしまったため、地中に十年もの年月暮すというせみの幼虫が絶滅してしまったからなのではないかと思うが、さだかではない。東京でさえ、せみは鳴いているのである。せみの声を聴けない夏というのは、考えてみると、淋しいものだが、そのように思うのもまた、私か懐古趣味だからなのであろうか。

 

 つい先日、学園都市に隣接するある町の人たちと懇談する機会があった。その町では、ここ十年ほどの間に簡易水道が普及して、それまでは唯一の飲み水供給源であった井戸が、またたく問に消えていったとのことであった。場所によると夏場枯れたり水量が減ることもあったが、とりたてて汚染がすすんだわけでもないから、いまでもおいしい水を飲みたい人たちが細々と使ってはいるそうである。しかし、コックをひねれば、必要な場所に必要なだけ自由に水が得られる利便性は、たとえ水道料が要ろうが、なにごとにもかえがたく、井戸はほとんど放置され消えつつあるのである。水道の普及による水の白由化が、大きく生活を変えたであろうことは想像に難くない。一例をあげれば、それまでは井戸水が得られず(つまり、掘ってもいい水が得られず)、従って家も建てられなかったような場所(たとえば、低湿地のまんなか)にも家を構えることができるようになり、集落の様相も変り始めている。当然、家うちでの生活にも変化が現われているだろう。

 そして、驚くべきことに、水道化が始まってたった十年しか経っていないのに、既に子どもたちはつるべ井戸が何であるかを知らなくなっている、とその人たちは半ばあきれ、そして嘆いていた。別にこの人たちは町の古老なんかではない。多分、三十代の人たちである。都会ずまいの子どもたちが知らないのならまだしも、現に、使われなくなったとはいえ、まだ姿をとどめているものを見ているはずなのに知らないのだという。おそらく、この記憶喪失の傾向とそのスピードはまさに現代そのものの象徴であると言ってもよいだろう。なぜ井戸が水道にとって代られるのか、つまり、水というものの生活にとっての重さ:意味、水道を敷くということの(本質的な)意味、がまったく省みられることなく、水道の(現実的な)利便性のみをクローズアップし、それをただ使うだけがあたりまえになってしまっているのである。その一方で、「私たちの郷土」のような副読本が編まれ、子どもたちに郷土の昔が教えられるとき、たった十年前の昔のことをいったいどうしてくれるのだ、というのがこの人たちの複雑な思いであるらしかった。

 私にも、この人たちのいらだちがよく分るような気がする。「歴史」を学ぶということが、なにかこう今の生活とは無縁の対岸にある珍しいものを見ることであるかのように扱われ、人間の生活の正当な、あるいは順当な(もちろん、いろいろな波風をも含んでのはなしだが)変遷のストーリーを知るということがないがしろにされているのは、まったくおかしく、まちがっている、と私は思うからである。

 おそらく、つるべ井戸もそのうち「文化財」となり、そして初めて副読本や教科書に載せられ、そういう回り道をして初めて子どもたちは井戸について知るのだろう。だがそのとき、既に、井戸のリアリティは、生活とはほど遠いものとなっているだろう。生活にとっての大事なことと、稀少価値としての大事なことが、混同され、とりちがえられ、あるいは、すりかえられて教えられることになるのである。

 

 さきほどの蚊帳もまた、多分そのうちに「文化財」として、あるいは「民俗資料」として、郷土資料館などの片すみでほこりをかぶるようになるのだろう。もちろん私も、そういう日常の生活用具で、使われなくなったものを、資料として後世へ伝えてゆくことは必要なことだと思ってはいる。問題は、それでいったい何を伝えるか、なのだ。その点で、私は、文化財の「財」の字にひっかかりを覚えるのである。なぜなら、それは得てして稀少価値としての評価のみにすりかわってしまいそうだからである。

 古代以来の多くの使われなくなったものが、文化財にされてきた。たしかにそれらの多くは、正当な、あるいは順当な道すじをたどって使われなくなったものであるにちがいない。それらが使われなくなったのは、それらの本来の役割が(逆な言いかたをすれば、それらのものを必要としたその「必要」が)、他のもの、あるいは、やりかたにとって代られ、受けつがれたからなのである。そういった本来の本質的な役割を、根本的・絶対的に不要とするような状況になったために消失していったものというのはまずほとんどないだろう。まずは大抵、なにかにとって代ったのである。

 では、蚊帳の衰退はどうなのか。網戸がそれにとって代ったか、殺虫剤がそれに代ったか、あるいはそれとも、虫のいない世界になって、根本的に変ってしまったのか。

 

 戦後にぎにぎしく唱えられ実施された「生活改善」運動や、その後のいわゆる高度経済成長・技術革新にともなう動きのなかで、多くのものや、やりかたが消えていった。それらはいずれまた「文化財」としての評価が与えられるのかもしれないが、しかし、それらの多くのものや、やりかたが、すべて、順当な道すじをたどった結果として消失していったとは、私には思えない。むしろ、その消失や変容は、内からの潜在的な活力によって生じたのではなく、外からの、本質を見失った他動的な力によったものではなかったか。

 もちろん、いまさら、消えていったことを、ただ嘆いてみてもはじまらない。問題なのは、戦後このかたの経緯のなかで、ものごとや、やりかたの発展・進歩・成長・・・・変容は、本来、生活に密接に結びついた、生活に根ざした内的な活力によって、その道すじをたどるものであるという重大なことが忘れ去られたことである。

 それはすなわち、それぞれの土地にはそれぞれの生活のしかたがあった(たとえば、同じ作物をつくる場合でさえ、それぞれの土地なりのやりかたがある)ということが見失われ、いわば全国一律のやりかたが推奨されることにも連なってくる。だれも、子どもたちに、たった十年前まで存在した井戸の意味さえも適格に伝えようとしないのである。ことによると、十年前まで非文明であったことなど、知る必要もない、などと思われているのかもしれない。というのも、多くの場面で、都会の基準が絶対的価値基準であるかのように見なされ、それにどれだけ近づくかが目安にされる傾向があり、それに遠いことをもって恥とするかのような気配さえ感じられるからだ。

 ものごとや、やりかたの発展・成長が本来たどるべき(生活の結びついた)道すじは、俗なことばで言えば、そこでの生活の知恵によってたどられるべきなのだが、こういった戦後このかたの風潮のなかでは、もはや、そういった知恵が生まれる素地をもぶちこわされ、ただいろいろのものが受け売りの形でとびこみで入ってくるだけになり、真の意昧での創造力も根こそぎにされてしまう。いま、あちこちで伝統的なる「もの」の見なおしが盛んになってきているようだが、それは決して、単に伝統的なる「もの」そのものをあげつらうべきではない。大事なのは、それらがなぜそうなったか、そしてなぜ消失したのか、そして更に言えば、なぜいまになって、それらを「伝統」としてもてはやさなければならなくなったのか、その点について考えることなのだ、と私は思う。そしてこの視点が、いまの世のなかでは、決定的に欠落しているのである。

 私の左足首の虫くいも、もうわずかに跡を残すだけである。痛みは一時のもの。私もまた、ときどき、あぶに刺されなければならないのかもしれない。

 

 

あ と が き

〇学園都市ではせみが鳴かない、などと書いたせいでもないだろうが、夕方、鳥にでも追われたのだろうか、5階の私の室の窓に、油ぜみが飛びこんできた。少しは増えてきたのかもしれない。

〇東北もまた、いたるところで新しい道がつくられ、そして、まずほとんどの道は舗装されていた。どんな奥地でも、人家のあるところまでは舗装されている。交通事故も増えているのだろう。山形の西馬音内(にしもない、と読むのだそうである)という町を通りかかったとき、警官が一台一台車をとめて何かしているところにぶつかった。検問かな、とも思ったが、なんとなくその場の空気に険しさがない。私もつかまった。検問ではなかった。そこはちょうど神社(アグリコ神社というらしい)の前、神官ともども、通りすがりの車に、お守りを配り、簡単におはらいをしていたのである。交通安全運動というわけである。その町の名産だというそばまんじゅうはうまかった。

〇隣り町によい木造の学校があるときいたので見に行った。昭和26年の建設というから、そんなに旧いものではない。戦後の資材不足のころのものである。しかし手入れがよいから、見ごたえがある。建具などは元のままで、非常にしっかりとしている。外まわりのペンキは、この夏休みに、父母の労力奉仕で塗ったもので、それまでは建設当初のままだったのだそうである。きけば、この校舎は、そもそもが、地域の父母の普請により建ったのだという。学校は、そのの高台に在るのだが、元はのなかにあり、明治からのものであったが、戦後、学校の統合問題が起き、一時は廃校となるはずだった。それに反対するの人からの声は開きいれられず、そこで、の人たちが自力で全てをまかない造ってしまったのがこの学校なのである。彼らは建築委員会をつくり、いくつかの小委員会のもとで、敷地の取得、資金ぐり、資材あつめ、町との交渉・・・・を実行したらしい。新任の校長先生が散逸していた各種の資料の収拾に懸命になっていたのも好感がもてた。設計も町の大工さんがやったらしく、図面も残っていた。一度、あらためて詳しく調べてみようと思う。参画した人たちは、もう70歳になっている。 30年以上も前のはなしである。そして、いま、若い親のなかには、とりこわして近代的な鉄筋コンクリート建にしたら、などという声も、少しではあるが、出てきているのだという。

〇それぞれなりのご活躍を!   

             1983・8・30             下山 眞司


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「第Ⅳ章ー3-B3 西川家」 日本の木造建築工法の展開 

2019-12-10 11:26:25 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「第Ⅳ章ー3-B3西川家」A4版6頁

 

B-3 西川家  宝永3年(1706年)~   所在 滋賀県 近江八幡市 新町2丁目

 

近江八幡 位置図       黄色部 近江八幡 印  他の近江商人町:湖岸より 能登川,  近くに 五箇荘,  山側 日野       明治20年 迅速図より

 

 

 近江八幡 市街図              旧西川家住宅主屋・土蔵修理工事報告書より

 

 西川(利右衛門)家は、近江八幡を拠点に蚊帳を主とした商いを営んでいた。

 琵琶湖周辺:近江一帯からは、多くの商人が生まれ、全国的に活躍し、商社の伊藤忠、百貨店の高島屋、布団の西川・・・など現在に続く多くの商店等が生まれている。

 その独特な商いに対する考え方は有名で、その点を含め近江商人と呼ばれている。各地にある酒造業、醸造業には、その地に居付いた近江商人が多い。 ただ、近江商人の商いに対する考え方が、継承されているとは言いがたいのが現状である。

 

近江八幡 町割図  色の街路は、西川家のある新町通り   旧西川家住宅修理工事報告書より(着色は編集) 

 

  旧西川家住宅修理工事報告書より(黄円は編集)

 

 

 

 

     

  

平 面 図              ← 新 町 通 り →

 

 

桁行断面図                            図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より

 

 

 

 

 

 

 

  2階 見上げ図

 見上げ図

                梁行断面図   左が新町通り

 

2階キープラン

 

   A 上り端 梯子を掛ける 

 

B 通り側を見る          図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より                       

 

 

 旧西川家住宅修理工事報告書では、開口装置:建具についても時代考証を行い、詳細な図が掲載されている。

 下に、主出入口の摺り上げ戸はね上げ戸の部分の矩計図はね上げ戸詳細図を例として挙げた。

 また、土蔵の土壁部分は新造に等しく、他事例の調査を基に施工され、その工程の記録も詳細に報告されている。ここでは一般図のみ転載する。

 

主出入口の開閉装置(右手が新町通り

 

 

 

  

図面・写真共に旧西川家住宅修理工事報告書より図中の文字・着色は編集)                

 

 

西川家の土蔵  主屋とともに重要文化財指定されている。

 

1階内部                          (文字は編集)  

 

 3階内部  

  

土蔵 平面図 下から1階、2階、3階

 

梁行 断面詳細図     図、写真共に 旧西川家住宅(主屋・土蔵)修理工事報告書 より 

 

 

 以上観てきたように、商家住宅では、継手仕口に刻み:加工に手間のかかる技法が使われているほかは、居住空間確保の原則すなわち、先ず全体を当初に構想し、次いで部分をその全体の中で構築してゆく、所要空間と架構を整合させる(間仕切と架構の一致)、必要以上に大寸の材料は使わない、横材の継手は柱通り上に設け、持ち出した位置で継がない・・・などは農家住宅とまったく変らないと言えるでしょう。 註 破風板付長押など一部の仕上げ材、化粧材などでは関係なく継いでいます。

 

 残念ながら、これらの原則と、それを具現化した工法について、現在の建築教育の場面で説かれることはありません。 そして、木造建築の一例として下図のような工法が、「在来軸組構法」の呼称で示されているのが現状です。 

 

 

 

 図で明らかなように、これは、全体から部分を考えるのではなく、部分を足してゆくと全体になる、という考え方の架構であり、横材は柱から持ち出した位置で継ぎ、材寸を場所ごとに細かく変える・・・など、明らかにこれまで観てきた農家住宅、商家住宅とは異なる考え方による架構です。

 建築の教材の中には、奈良・今井町高木家住宅が「伝統和風木造」の呼称で紹介されているテキストもありますが、「在来軸組構法」と「伝統和風木造」の両者の違い、あるいは関係についての解説はなされていません。おそらくそれは、その教材を使う人に委ねられているものと思われますが、その点について知り得る的確な資料などは、どこにもないと言ってよいでしょう。

註 上記のような工法は、木造建築についての解説などでも多用されていますから、一般の人が、これが「模範的な」木造建築という「理解」を持ってしまってもおかしくありません。

 

 このような「工法」が生まれた背景には、近代:明治になってから急増したいわゆる「都市居住者の住宅」が、他の既存の住宅に比べ、震災などで大きな被害を蒙ったことと無関係ではありません。

 このような「都市居住者の住宅」がどのようなものであったか、次に、武家住宅とともに観てみたいと思います。

 なぜなら、「都市居住者の住宅」の被災には、その立地とともに、「武家住宅」特に中小以下の「武家住宅」のつくりが、大きくかかわっていると考えられるからです。 

 


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「現代 頼母子講・・・・父母による『施設』普請」 1983年8月

2019-12-03 10:20:45 | 1983年度「筑波通信」

PDF1983年度「筑波通信 №5」 A4版10頁 

  現代 頼母子講・・・・父母による「施設」普請・・・・ (1983年度「筑波通信 №5」)

 頼母子(たのもし)講あるいは頼母子無尽という中世以来庶民の問に脈々と生きながらえてきた制度がある。大言海によれば「相救ヒテ頼もしキ意」とあるが、要するに、数人が集まって一定の口数と給付すべき金品を予定し、定期にそれぞれ引き受けた口数に応じた金品の掛込を行い、抽選、入札その他の方法により、順次金品の給付を受ける組合類似のしくみのことである(平凡社・世界大百科事典他による)。

 鎌倉時代に、一団の人々が相寄り、少しづつ金穀を出しあい、これを一団中の困窮者に融通し救済したのにはじまり、神社・仏閣の維持修繕あるいは社寺への参拝費の融通などにも利用されたという。そのしくみは、室町時代にはほぼ現在行われているものと大差ないまでに整えられたらしい。言うならば、いまの共済組合のごとき性格がある。親もしくは親方と呼ばれる一人または数人の発起人とその発起人が募集した数人ないしは十数人の仲間から成り、それを講というのである。江戸期になると、講の目的によっていろいろな目的に広がった。たとえば、特定人の救済のための「親頼母子]、被救済者の特足しない純然たる相互扶助のための「親なし頼母子」などかある(以上、いずれも同上書による)。

 先号で紹介した「 S   園  」の話について、いろいろな声がきこえてきた。建物についてもさることながら、あの「施設」の建設の経緯や、前文で「現在の状況」としてしか触れなかった状況について詳しく知りたいというのである。そして、これをどのように説明したらよいものかと考えていたとき、ふと思いついたのが、なんとなく知っていた「頼母子講」というしくみのことであった。この施設の建設は、言ってみれば現代風頼母子講によって建てられたといえるのではないか、と。そこで事典などをあたって「頼母子」について調べてみたのが前述の内容である。わたしが頼母子になぞらえたのは、それほどまちがったことでもなさそうである。

 

 いま私の手元に、「 S   園  」の建設を願った親たちのガリ版刷りの文集がある。親たちが考えていたことを知るのには、そのいくつかを紹介するのが一番手っとり早いだろう。

 

〇子どもが小学校3年生のころでしたでしょうか。片道1時間半位かかる養護学校に親子で通っていたのですが、電車のなかで、私の向い側に座っている子どもに知らない女の人が何かしきりに言っています。そばに行ってきいてみると、赤ちゃんを抱いた人が立っているので、席をゆずってあげるように話をしていたとのことです。「この子は知恵おくれだから」と言いかけて、思いなおして、子どもを立たせ席をゆずりました。

 「知恵がおくれていても身体はしっかりしている。知恵は遅れていても、世問は、9歳の子は9歳にみる」。だから、頭を使うことは無理としても身体を使うことはできるだけ歳なみにさせなければと思いました。そして、親としてその努力をするつもりでした。ところが、どんなに秀れた教育者の子どもでも、その学業の修業は親ではできかねるように、この子たちの生活習慣の訓練をすることは、なかなか親では難しいのです。人にあずけると「とても良い子」なのに、将来をだれにもまして案じている親には「とても困った子」なのです。かと言って、精神年令が3歳にもならない、身体は大きくなっても、パンドラの筐(かご・かたみ・キョウ)から出てきたといううそとかねたみとかを身につける以前の人間のような人を他人にあずけることはできません。あずける未来も考えられません。私と子どもとは30歳違うので、真剣にその差を縮める方法がないかと考えたものです。考えに考えて悩みに悩んで到達した答が、親がつくり、親が(集って)育ててゆく施設だったのです。・・・・

 

〇・・・・知恵おくれだと分ったとき、あちらこちらと病院めぐり、とうとう大阪では納得がゆかず、治療と教育の場所を求めて上京し、・・・・なけなしの財布をはたいての母娘での東奔西走の明け暮れ、文字どおり、髪ふり乱してのいだ天走り、何とも哀れで、他人の目にはちょっとおかしい姿ではあったのです。泣いた涙の量は計り知れず、眠れぬ夜は数えきれず、・・・・武蔵野の雑木林の中に立ち、闇を見つめたこともあったのです。

 

〇・・これまで親は、先生や近所の方がたの理解と協力を得て、なんとかがんばってきましたが、この先どうあがいても、この子を残してゆくわけで、親なきあと、安心してまかせておける生活の場をつくっておかなくてはなりません。・・・・

 

〇私はこの子がかわいいです。いとおしいのです。またにくらしくもあるのです。こんな澄んだ目をしているのに、こんなにかわいい手をしているのに、努力しないのだろうか・・・・。たとえ少しでも良い効果があってほしい。「生あるものは変り得る」私はこのことばを信じます。現在の社会のなかでは、障害児の生きてゆく基礎はまだまだ非常に微弱だと思います。私たちの子どもがこれからどんなに成長したとしても、それだけで生きてゆくことができるとは考えられません。

 

〇名前を呼んでも何を話しかけても知らん顔、視線をあわせることはほとんどなく、おもちゃなど全く興味を示しませんでした。夜中にきまって目をさまし、大好きなひもをふっては明けがたまで遊んでいる状態が来る日も来る日も続きました。・・・・真夜中に子どもと二人で起きているときなど、「いっそのこと・・・・」と考えたのも一度や二度ではありませんでした。4歳をすぎたころ、幼児グループという(非公認の)通園施設があるのを知り、通いはじめました。そこに2年、(理解ある)幼稚園に1年、(養護学校が義務教育として制度化されてから、その)小学部へ入り、そこを終えて、いまは中学部にいます。・・・・私たちの一番気がかりなのは、学生生活を終えてからのことなのです。・・・・

 

〇土曜日の午後、寄宿舎を尋ねると、待ちかねていたらしく、体じゅうで喜びを表して、ぴょんぴょん跳びはねています。一週間よくがんばったね、というと、おかあちゃん、とこたえます。こういうように呼ぶようになったのは、この養護学校の寄宿舎に入ってからです。それまでの12年間、おかあさん、と呼ばれてみたいというのが夢だったのです。その夢がかなうことになったきっかけは、皮肉にも、主人の入院という不幸があったからです。核家族ゆえの窮余の策で寄宿舎に入れたのでした。それは大きな試練であったとみえ、おねしょをしはじめたり、わざといたずらをしたり、自分の体を傷つけたりして困らせました。それを見るたびに、家庭から離すことはマイナスなのではないかと悩みながらもどうすることもできず、親子ともども耐えるしかありませんでした。

そんなとき、ある日突然、おかあちゃん、と言いだしたのです。それをきっかけに、好きな先生や友だちに愛情を示すようになり、土曜日、おかあちゃん、おむかえ、と自分に言いきかせながら、月曜から土曜までは寄宿舎にいなければいけないのだと納得できるようまでに成長したのです。たまたまやむを得ず家庭から離したわけですが、それまでどおり家庭においたら、はたしてこれだけの成長をしてくれたろうかと思うとはっきり言って私には自信がありません。家庭という温床はもちろん必要条件ですが、この子たちの能力を最大限伸ばしてやるには十分条件とは言えないのだと認めざるを得ません。よき指導者のもとでの生活が望まれるのです。

 

〇・・・・多勢の人のなかほど孤独を感じるということがありますが、(障害児が)普通児のなかへ入ってゆこうとすればするほど、みじめな気持になることも事実で、幾度も挫折感を昧ったものです。健康な人も、障害のある人も、いたわりと謙虚な気持で互いに認めあう社会であってほしいというのが、障害児を持つ親の一番の願いではないでしょうか。いままでの施設はもちろんのこと、老人ホームでさえも、人里離れたさびしい所に建てられることが多かったのですが、(私たちの望む施設は)そうあってはほしくないのです。(私たちの望んだ施設ができ、子どもたちをそこに入れたら)親の役目は済んだとは、わたしたちのだれも思うわけもなく、親だけでは限界がある生涯教育を、専門の方の指導の下でしていただき、そして物心両面でできるだけ支えてゆきたい、というのが、私ども親の心境です。

 

〇児を抱き想いのままに雲を追う 流れゆきたる病児との日々

 

 この文集は、建設予定地の地元の人たちに施設建設の意義を理解していただくために編まれたもので、ここに引用したのはごく一部である。

 おそらく概略お分りいただけたのではないかと思うが、この親たちをして、いわば無暴な施設づくりに走らせたものは、おおよそ次のように要約できるだろう。すなわち、親たちは平均すると30代後半から40代。子どもの年令が10代前半、いわゆる中程度から重度の障害のある子どもを持っていて、家庭だけでの保護に先行きの不安を抱いている。つまり、養護学校を出たあとの行く末が不安なのである。もちろん、通園施設、通勤寮、更生施設、授産施設、あるいは収容施設等、建前の制度としては整えられつつあるが、それでもなお全般的に不備といってよく、入所を待たされることはあたりまえになっている(たとえば、この「そだち園」は更生施設にあたるが、入所志望者は30名の定員に対し、5倍以上の167人もいたのである)。そしてまた、それらの施設の多くは(全てではないのはもちろんだが)人里から隔離されすぎたり、まったく収容所であったりして、子どもそれぞれの個性に対応した指導や教育の点では頭をかしげたくなるものになりがちなのである。ひどい場合には、大きいことはよいことと、という企業論理がもちこまれたりさえするのである。

 親が望むような施設ができるようになるのを待っていても、国などの動きは決して早くない。まして、それを待っていたのでは親子とも歳をとり、先きゆきの不安は増えるばかり。であるならば、指導者を探して自分たちで望ましい施設をつくってしまえないだろうか。

 

 実際、自らの手で自分たちの望む施設を、といういわば無暴な夢は、とある日の午後、喫茶店での(障害児を持つ)数人の母親の会話からはじまったのだそうである。彼らは既に、それぞれ自分の子どもを抱え東奔西走してきているから、いろいろな施設や指導・教育のさまを知っていた。実現の可否は別として、夢に実体をもたせることはむしろ簡単なことだったろう。問題は、実体を実現させ得るかどうかなのである。おそらくそれが母親たちの強みなのであって、父親たちであったならば、実現の見込みなどあるわけはないとして夢は夢として放りだしたにちがいないが、母親たちは逆にかすかな手ざわりをもとに調べだした。一定の自己資金と土地がありさえすれば、国からの補助金によって設立が可能なことが判ってきた。そこまで判ると、さしもの現実的な父親たちも心を動かしだす。数人の母親たちが発起人となり、施設設立を願う集団が発足する。 25の家族(当初は26)が結集するのは、そんなに時開がかからなかった。ほんの数ヶ月なのである。もちろんそれには、この親たちの熱意もさることながら、現在園長をつとめているT氏をはじめとするその道の先導的な指導者・専門家たちの側面あるいは正面からの援助があったことは言うまでもない。

 彼らはいろいろな施設の見学会や、結集した全家族親子の参加する合宿をするなどして意志の結束につとめるとともに、一家族200万円の資金積みたてを行い、あわせ土地選びに奔走した。 200万円という金額は決して小さいものではなく、土地選びはずぶの素人にとっては初めての、しかも海千山千の不動産業者が必らずかんでくる厄介な代物だったといってよい。

 

 土地ははじめから山梨県の東部に白羽の矢がたれられ、いろいろ探された。その理由は、大きく言って二つあった。一つは、東京都内には土地がないこと、仮にあったとしても法外な値であって手がでないこと、あるいは人里離れた場所になってしまうこと、そしてもう一つは、園長自身、ここ十数年山梨県営の心障者施設で活躍されていた関係で、なにかと地元の関係者とのコンタクトが得られやすいことが、運営上も得策だったからである。更に言えば、そこは東京からは車で1時間ちょっと、父母が容易に訪れることができるのも決め手であった。(毎土曜・日曜には東京へ送迎車を出すそうである。)

 土地は、現在の地に決定するまでにいくつもの候補地があった。そして、これが決るまでの経緯は、まさに筆舌に尽し難い。別にとりたててこの種の施設の建設反対が(都会でのように)あったわけではない。むしろ、町を構成している各のなかでの微妙な人間関係の確執が内での対立を生み(たとえば、あれが賛成するならば反対だ、というようなことも起きるのである)あえて反対をとなえる理由として逆に施設反対を持ちだすこともあったようである。もちろん、施設アレルギ一が皆無であったわけではないが、日夜を問わぬ父母の説明(一戸ずつまわるのである)に、まずほとんどの人たちは納得してくれたのである。いまも、まず友好的だし協力的である。いずれにしろ、土地が最終的に決ったのは、開園予定の8ヶ月前、それまでに1年半以上もかかったのである。その間に、一方では国の補助金の申請は着々と(というと簡単であるが、やたらと書類がおびただしい)進み、その面での可能性は、まず確実なものになってゆきつつあった。いまだからこそ言えるのではあるけれども、この1年半以上にわたる地元の人たちとの接触は、決して無用なことではなかったと私は思う。いまの地元の人たちの理解と好意は、それによって醸成された面が多分にあると思うからである。もっともその時点では、なかなか土地が決らず、土地が決らないことは即補助金も下りないことであったから、いらいらのしどおしであった。

 

 設計者としての私がこの設立に係わりをもったのは、父母たちの結集が終り、土地選びがはじまりだしたころのことであった。つまり、いまから2年半ぐらい前になる。この人たちとの出会いは、まったく偶然だと言ってもよいだろう。大分前に、ちょうど中野の江原小改築問題というこれまた前代未聞の父母の運動に傍から参画していたころ、これも折から制度化された都立養護学校の設計について、その学校へ子どもを通わせることになる母親から相談を受け、都の教育行政に精通していた江原小の母親たちに都への仲介をお願いしたことがあった。養護学校の相談に見えた人が、この今回の「 S  園 」設立のそもそもの発起人(喫茶店で夢を語った人たち)の一人だったのである。江原小の人たちは、ことによると忘れているかもしれない。

 私も何度か、土地選びの段階で、現地を訪れたけれども、しかし、あの父母たちのようには地元の人たちと接触したわけではない。私のしたことは、その段階では、候補地の建設敷地としての可否や問題点を示し、場合によると、そこでの建物の姿を図にしてみること、そして地元の人たちに説明する程度であった。むしろ私はそのとき、この父母の、まさに驚嘆すべき熱意・迫力と、地元の人たち(主にぶどう園などを営む農家の人たちである)のしたたかさと村の人間関係の微妙さ・複雑さに、文字どおり、教えられる、との思いでいっぱいであった。普通の(都会の)設計ならビジネスライクにすいすいと割り切って進む話が、ここではそうはゆかない。おそらく、ビジネスライクにすいすいと事を進めること自体が、どこか重要な点を見失っているのではないか、というようにさえ私は思ったものだ。多分それはまちがっていないだろう。

 土地がさまざまな曲析を経てほほ落着をすると、設計図をひかなくてはならなくなる。てんてこまいをするのは、今度は私たちの番だ。仕事は敷地の高低測量を自前でやることからはじまった。

 そのときまでに、別の敷地での計画案として数案既に提示し、いろいろな検討は行われていたのであるが、敷地が変り、急挙また三案ほど計画案をつくりなおした。そして、いま建っている建物の基本は、実は、ほんの2・3時間で、園長の自宅でつくりあげたものである。昨年の七月半ば、猛烈な雷雨のさなか。いま決めないともう時間がない、まるで試験を受けているような気分で、せっぱつまってつくりあげたものである。とにかくこの案でGOサインがでて実施図面作成に移行するわけであるが、そこに至るまでの諸々の経緯もまた筆舌に尽し難いと言ってよい。しかしそれは、設立運動そのものに比べたら小さな小さなことなのだ。

 

 私が(正確には私たちなのだが)この設立・設計にあたって考えたことは、先号で、少しまわりくどい言いかたではあったけれども、言わせてもらったので、あらためて詳しく言うつもりはない。けれども、一言だけあえて付け加えさせてもらうと、私は、心障者の更生指導・教育(の理想的な形)はかくかくしかじかなものである、あるいはあらねばならない、などということをあらかじめ設定して事をはじめることはしなかった。

 なぜなら、指導も教育も、心障者をしていわゆる社会復帰せしめることをもって目標としても、それへ向っての具体的なやりかた・展開は定型があるわけでもなく、絶対的な姿があるわけではない、ただあるのは、試行錯誤・模索の連続だけだと私は思うからである。だが、ともすると建築家の多くは、その建物での生活のしかた(この場合で言えば、指導・教育のしかた)を定め、それに合うように室を用意すればよい、とする考えかたをとってきたから、そのあるべき生活の型の設定に意をそそぎがちであったように思う。この考えかたは、なにもこの種の建物でなくても、まちがいだと私は思う(これについては、なかば逆説的に「建物は雨露がしのげればよいか」1983.3 昨年度第12号で、分かりにくい書きかたであるが、書いたとおりである)。ならば、この設計で私は何を考えたか。それは極めて単純な話であって、一軒の「家」をつくることなのであった。

 

 実施設計は八月と九月のニケ月。ここで考えられたことのポイントはいかにローコストで質を高めるか、という点に尽きる。建物は約1000㎡の平家建、一部二階。鉄筋コンクリート造が要求される(耐火建築=コンクリートという規定がある。当初、工期短縮をねらい、屋根を鉄骨で考えていたのだが、この規定ゆえに全面的にコンクリートとなる)。かけられる費用は、建物(電気・給排水・暖房・調理設備などを含む)に対して約1億6000万円、坪当り約53万円、おそらくこれは普通の小学校よりも安いだろう。こうなると、重点的に費用を使うしかない。構造を極力簡単にし、既製品を最大限使い(アルミサッシは住宅用の一番安いのを使う、など共通のおさまりを各所に使う一方で、配管の保全を容易にするため全館に床下のピット(トンネル)を設け、温風の床暖房をしくんだりしている。暖房等は、いわゆるセントラル方式をやめ、ブロックごとに制御するようになっている。これも保全経費を安くするためである。こういう施設の場合、建設費もさることながら、運用上の経費が安価になることも重要なのである。床材は相対的には高いものを使っているが、壁や天井材は、多分、これより安いものはないという材料:石こうボードを使っている。しかし実際に見ていただくと判るのだが、それほど安いなあとの感じは受けないはずである。それは、ほぼ全館にわたって、木製の幅本(床と壁の境)、腰長押(こしなげし:床よりの高さ約80cmの位置にまわした帯)、長押(なげし:床より約180cm)、そして天井の回り縁を盛大に設けたためである。天井にも、要所に、木製の縁を付けている。壁の保護にもなるし、またものをはりつけたり、かけたりするのに都合がよい。使った木自体は決して高い材ではないが、たったこれだけで、非常に木村を使ったような錯覚を与え、全体が暖か味を帯びてくるから不思議である。これはなにも私たちの独創でもなんでもない。その昔、フランク・ロイド・ライトという建築家(昔の帝国ホテルを設計したアメリカ人)が多用した手法であり、元をただせば、多分、彼は日本の建築からその手法を学んだはずである。

 

 とにかくローコストに徹し、設計はあがったのだが、次の難題は、いかに年度内工事として完了するかであった。十一月初旬の着工で工期は正規には五ヶ月、大目に見てもらっても六ヶ月しかない。工事は敷地への取付道路からはじめなければならず、足場も悪い。おまけに冬であるから作業時間も短かく、その上寒冷地。これ以上はないという悪条件。実際に本体に手がつけられだしたのは、十二月も末、だから主体は年が開けてからとなってしまった。それでいて、五月の連休前にほぼできあがってしまったのであり、この問の経緯もまた、筆舌に尽し難い、としかまったく言いようがないのである。

 

 そして六月一日、建物はできあがり、施設は開園した。「夢が実体を帯びてくるころは、まさに夢であって楽しかった。しかし、実体が実現するまでは、これはまさに、スリルとサスペンスに満ちた綱渡りの連続であった]とだれかが述懐していたが、それはほんとに実感である。私が先号に付けた「 S  園 によせて」という文の末尾で「・・・・建物は、いま、何事もなかったかのように静かに建っていますが、それは、天から降ってわいたかのごとくに何事もなくそこに在ったわけではないのです」などと言わずもがなのことを書いたのも、この実感が強烈だったからなのである。

 

 施設の建物はできた。しかし、この施設建設を目ざした現代頼母子講は、目的を達したとして解散できるわけではない。目的は建物そのものをつくることではなかったからであり、第一、この大事業は自己資金だけでは成し得ず、補助金の他に、7000万円という多大な借入金をかかえている。それを今後20年間、返し続けなければならない。そして、もう一つ根本的な問題がある。それは、頼母子講とは根本的に違う点なのだが、出資者必ずしもこの施設を利用できない、という点である。それはなぜか。補助金の性格ゆえである。補助金は公共の事業に対する補助であるから、建前としては、入所者を出資者の子どもに限定することはできない、というのである。 200万円という出資が可能な恵まれた人だけが補助金の恩恵を受けられるというのでは不公平である、という行政側の説明は、確かに一理ある。つまり、この講に参加した25人の家族は行政側に言わせると(建前の上では)数少ない秀れた施設づくり:施設運営にのりだした篤志家・ボランティアということになってしまうのである。

 もちろん、ここに結集した父母たちが、単に篤志家たらんとしたわけではないのは言うまでもない。彼らは、それぞれ、将来この施設に自分の子どもたちを入れることを望んでいるのである。そして、現に、この父母たちだけではなく、実は他に多くの父母たちが、自分たちの施設づくりを望んでいるのが実際なのである。これはいったいどういうことなのだろうか。

 端的に言えば、確かに一時に比べれば各種の心障者施設は整備されてはきているが、未だ十分なわけではなく、更に重要なことは、父母たちが心底から自分の子ども(の未来)を託し得ると信頼できる施設がないということを意味しているのである。国や都道府県などが建ててきているいわゆる公共団体立のこの種の施設でさえもが、決して父母の願望に応えているとは言い難く、むしろ、公共団体立の方に問題が多いようである。建物にかけられる費用も多く立派なのだが、建てかたも、規模もそして運営も、単に制度上の施設にすぎない場合が多く、父母たちの目には、字のごとく収容所としか見えないことがしばしばある。実際、父母たちが信頼できる施設というのは、経済的にもきりきりの民間の施設のようである。だが、こういうことは、公共団体立の公共の施設の本義から言って、おかしなことだ。しかし、おかしな現象は、なにもこの種の施設についてだけではない。他のいわゆる「公共施設」が、まずほとんど、その「公共」の本義からかけはなれているのである。ただ、他の公共施設の場合、それを使う側がなんとかやりくりし、また設立側も適当にお茶をにごして済ますことができるけれども、この種の施設ではそうはゆかない。そのありかたのありさま、そのまずさは、ことばの上の説明や弁解では済まず、直接的にしっかり見えてきてしまうのだ。本来、全ての公共施設が、本当の意味で対応していなければならないはずの、その「公共」を構成している「個」の問題に対する想いの欠落が、この種の施設では如実に明らかとなってくるからである。

 その意味では、この「 S 園 」の設立を願う父母の運動は、そしてそれに類するいろいろな、そして各地での運動の顕在化は、まさに「行政]のありかた、いわゆる「地方公共団体」「国」の「公共」に対する理解のしかた:認識のありかた、、を問うていることに他なるまい。人々は、税金という掛金を毎年積んでいるにも拘らず、「地方公共団体」あるいは「国」という頼母子講は、少しも「頼もしく」ないのである。そして、だからこそ彼らは、自らの頼母子講を組織したのである。

 

 だが、ここで、ことによると、一つの疑問が提起されるかもしれない。この人たちは200万円用意できたからいい。借金をしようがしまいが、とにかく 200万用意できた。借金もままならない人たちはどうするのかという疑問である。正直に言って、私にはそれに十分に答える回答がない。そして、こういう疑問があるからといって、この彼らの運動を、ぜいたくな運動だとは思わない。 200万の有無に拘らず、いまの世のなかで、公共施設のありかた・建てられかたの本来のありかたを問う意味では、必要不可欠なことだと思うからである。できる所からやらなければならないと思うし、現に、「 S 園 」設立に係わった父母たちも、200万がない人たちはどうでもよいなどとは、少しも考えていないからである。

 

 まさに筆舌に尽し難いことがいっぱいあった。しかし、この運動の傍に参画できたことは、建築の設計に係わる者の一人として、設計者の係わりかたを問われる意味で、望外の幸であり、そして、現実に建物ができあがったなどということは、まさに信じられないくらいである。

 

 開園後一ヶ月半経った七月半ば、泊りかけて訪れてみた。皆が歓迎してくれた。設計のまずさも目についた。だが、入居者たちは、どうやらそれぞれ好みの場所も見つけ、なじんでくれたようであり、建物は生きていた。そして、全ての職員は、さわやかに、情熱をぶつけていた。多分、この人たちの力で、「 S    園 」が名実ともに「 S 園 」として結果したとき、そこでまたあらためて「公共施設」とは本来何であったかが、世に問えるのではなかろうか。

 

あとがき

〇筆舌に尽し難い、ということばは便利なことばである。これによって、大分話が簡単になる。たとえば、農民のしたたかさ、としか書かなかったことも、具体的に書きだしたらどれだけの分量になるか知れたものではないし、そしてまた都会の生活に慣れた父母の行動原理もまた、この農民のそれと対比して書いてみたくなる。実際のはなし、同じ日本人でこれだけものの考えかたが違う、と感嘆したものであった。

〇私が一番感心し、そして困ったのは、建物づくりはつまるところ人間関係次第でよくもなりまたわるくもなる、ということを、なかなか分ってもらえないことだった。たとえば、同じ一つの細工を仕上げるのでも、職人が気分よく仕事できるかできないかが仕上りを左右してしまう、ということが、近代的契約に慣れてしまっている人たちには不思議のことのようだった。仕様の指示が同じなら、気分のよさわるさとは関係なく仕様どおりに仕上って当りまえだ、と信じてしまっている。理屈は確かにそのとおりなのだが、しかし、それはそうではない。ロボットではなく人間だからである。彼らは同じ10万の仕事だって、仕事にのれば、その10万を、それ以上の価値にすることを心得ていて、そうだからといってやりすぎたとか損をしたとか、決して思わないはずなのだ。

〇この父母たちが、実際に出資した額は200万である。しかしそれは、あくまでも、帳面づらのはなしである。彼らが地元に、ときには泊りがけで日夜訪れ、また勤めを休み役所と話し合いをもち、あるいは集会をもつ、といった諸々の日常的な活動は、もとより手べんとうであり、それは数字に単純に置きかえてみても、多分、出資額に倍する以上のものになってしまうだろう。つまり、単に金さえあればできるというものではないのである。

〇ハングリーな条件の方がよいものがつくれるんですね。いまのところ、見にくる人たちにはわりと好評で助っているが、そのうちの一人が語った皮肉ともなんとも分りかねる評語である。意外とあたっているかもしれないとも思う。

職員は皆若く20代が多い。その活動のさまを何と言い表したらよいかといろいろ考えたけれども、さわやか、ということばしか浮んでこなかった。

暑中お見舞申しあげます。それぞれなりのご活躍を!

       1983・7・28                 下山 眞司


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