《専門家》のノーマライゼーション・・・・木造建築が「あたりまえ」になるには-その3 (完)

2009-12-11 15:02:59 | 専門家のありよう
      
       会津・喜多方の蔵造り 
        会津では、蔵造りの建屋が人びとの「願望」であった。
        煉瓦蔵は蔵造り相応の暮し易さがあり、蔵造りの技術を継承・発展させ、
        昭和30年代まで、つくられ続けていた。


[今回で終りですが、また長くなります。]

大学入試の社会科で受験生に最も敬遠される科目は、日本史と世界史であるという。
実際、入学した学生に問うてみると、高校で日本史を学んだ学生は半数にも満たない。中学校で学んだのが最後で、以後日本史とは無縁であり、ほぼ完全に忘れている。
仮に覚えていたとしても、平安京に何年に遷都したか、平安時代の文化を代表する作品は何であるか、などということだけで、それさえ覚えているのは珍しい。
当然世界史についても同様である。

《国際化》が叫ばれ、《国際交流》《国際関係》あるいは《比較文化》に関心を持つ学生が増えているが、そういう学生たちでも変りはない。
《国際的》とは、外国語が喋れ、外国に行くこと、と勘違いしているのかもしれない。そして、そういう時代だから、もはや(各国の)『歴史』を学ぶことなど無用である、とさえ思っているのかもしれない。留学生の方が日本について知っていたりすることも不思議でない。

それも無理もない。
わが国の学校教育自体が受験目当てになっているからである。受験が終われば忘れてしまうのである。
おそらく、何故歴史を学ぶのかということの認識が教育の現場から喪失しているのだろう。
とりたてて年号や作品名を覚えることを教えなくてもよいから、何故歴史を見るか、その重要なことだけは教えておいてくれないか、というのが私の願望である。
それさえあれば、逆に、時代や時代の文化の特徴も、ことによれば名前も、そして何よりも、文化とは何か、人の営為とは何か、考える姿勢が自ずと身についてくるはずだからである。

しかし、これも驚くにはあたらない。
大学の建築教育も(建築教育以外でも多分同じだと思われるが)、そしてそれを支えているはずの《大学教師》も、欧米の最新事情には(相対的に)通じてはいても、日本(の建築)の歴史を知らない、踏まえていないのが《あたりまえ》だからである。
日本の建築史は「日本建築史」の講座担当者が知っていればことが済む、おそらくそういうことなのだろう。すでにして、建築を学びあるいは教えることにとって、『歴史』を知ることがいかなる意味を持つのか、その認識が欠如しているのである。

   追記
   国際的:international この互換は、それぞれの語の意味の上で間違っていません。
   国際的:国-際 的 
   「際」:出合うこと、会うこと、交わり の意
   international:inter-national
   inter: 中の、間の、相互の という意
   ゆえに、いずれの語も、「国」「national」が、前提になります。
   その前提がないと、この語は、ともに成り立たちません。

考えてみれば、土地柄から、木材で構築物をつくるのがあたりまえであったわが国で、多くの《建築専門家》が木造を知らない、分らない、難しいと言い、木造を多少でも知っていると自ら《木造建築専門家》と称して憚らない、などという最近* の事態ほど異様なことはない(* 1993年当時の「最近」ではあるが、現在も変らない)。
そしてそれを、少しも異様と思わない《専門家の世界》は、常軌を逸していると言わねばならないだろう。

『建築史』の碩学が、いたずらに様式や細部の差異だけに目をやらず、
人びとにとって建物をつくるとはどういうことであり、
そしてそれをどうやって、何を使ってつくろうとしたか、
それが何故、どのように変ってきたのか、変らなければならなかったのか、
人びとの営為とのかかわりで建築の歴史を見る視点を確立していたならば、

また『技術史』の碩学が、技術を天から降って湧くものとしてではなく、いたずらにそのルーツを探すのでもなく、技術とはそれぞれの地域の人びとの生活を営む上での勝れた知恵の結集であるとの視点で見ていたならば、

そしてまた、『構造』の碩学が、木造を最初からダメなものと決めつけず、過去幾多の事例とその技の移り変りのなかに、人びとの知恵の結集を見るだけの素直な視点があったならば、

そしてさらに『建築計画』の碩学が、過去の生活の姿を、いたずらに《遅れた、改良すべき》生活とは見なさずに、そこに「人びとの生活」=「人びとの営為の真の姿」を見るべく努め、やたらに人びとの生活を《先導的に》《指導・改善》しようなどという大それたことばかりを考えなかったならば、

おそらく、いま目にする建築界の異様な状況は結果しなかっただろう。


かつて、《近代化》にために脱亜入欧が標榜された明治時代、将来の《先導的指導者》を約束されていた当時の帝国大学の学生たちは、捨て去るべきは過去の日本であるという「信念」の下、専ら西欧の《知識》の収集につとめたのであるが、彼らは留学先で日本のことを尋ねられ、はじめて「日本のこと=自国のことについて知っておくこと」も必要らしいと気がつく。
たとえば、わが国のおそらく最初の日本建築にかかわる辞典である『日本建築辞彙』の編著者である中村達太郎でさえ、書簡に「・・・・私は当時石灰は英国の何処に生産するかを知っていましたが、日本のどこに産出するか皆無知っていませんでした。日本建築構造も皆無知りませんでした。・・・・」と記している。
彼はその無知を知り、帰国後、それまで彼らが黙殺しようとしてきた大工・棟梁について日本の建物づくりの技を学び、先の著作にとりかかるのである。

おそらく現在、わが国の大半の《専門家・研究者・建築家》は、「日本建築について皆無知らない」し、知らなくてよいとさえ思っているのではなかろうか。そして、それを改めようとの気配は、ないに等しい。
それでいて日本の建築について《先導的・指導的》であろうとした場合、幾多の誤まった考え方を《先導》してしまうことさえ、十分にあり得るのである。
その一つの例を挙げよう。

会津・喜多方は蔵の多い街である。多くは土蔵であるが、それに混じって多数の煉瓦造の蔵がある。しかも町なかに限らず農村地帯にまで煉瓦蔵はある。
他の地域に例がないこの「異様な事実」に対する解釈として、東北地域の民家研究の第一人者を任ずるある研究者は「・・・・明治30年代にこの地で(煉瓦の生産が)開始(されたが)、必ずしも販路が順調では(なく)、その結果(煉瓦製造者は)出資者への配当や燃料代の支払いも滞りがちで、製品の煉瓦や土瓦を現物で引き取るよう要請されたとも伝えている。『煉瓦造蔵は作りたくて作ったのではない、作らせられたのだ』という住民の苦笑まじりの述懐もあるから、おそらく喜多方の・・・・煉瓦造は似たような事情で増加していったものだろう・・・・」(「喜多方の町並Ⅱ:伝統的建造物群保存調査報告書」より)、「・・・・昭和の初め頃まで、この付近一帯に増加した(木骨に煉瓦を被覆した)煉瓦造は、(煉瓦の吸水のため)内部の木柱が土蔵よりも腐食しやすいなどの欠陥が分って新築が後を絶った。・・・・それでも在来の白い土蔵と茅葺の集落のなかでも結構調和して見えるから奇妙である・・・・」(図説・日本の町並」より)と述べている。

同じく喜多方の蔵を紹介した『写真集・蔵』では、高名な建築技術史の権威は「明治24年の濃尾大地震後、煉瓦造は地震に弱いという評判が地下水のように地方の人々の耳に浸み込んでいた(ので、煉瓦造は日本には定着しなかった)・・・・」と記し、大正12年の関東大震災以後には、地方でも煉瓦造建築は完全に途絶えてしまうという《通説》を展開している。

       
        喜多方郊外の散村 土蔵と煉瓦蔵(手前)が並ぶ

おそらく、何も知らない人が、これら学術図書の部類に入る報告書や解説書・紹介所の類を読めば、そこに述べられている《事実》を「真実」としてそのまま信じてしまうだろう。
なぜなら、学者・研究者が真実の探求者であるとの「通説」が信じられるならば、その言説も真実であると思い込むだろうからである。
考えてみれば、これほど怖ろしいことはない。

噂、伝聞が誤まった情報を伝えることはよく言われることである。流言蜚語(飛語)の名のとおり、その多くは、文書によらない伝聞の過程中に捻じ曲がるのであり、発信源は必ずしも誤まっているわけではあるまい。
しかし、発信源が誤まっており、しかもそれが《権威ある学者の著した文書》に明記されていたならば、これはとんでもないことになる。
《権威》のお墨付きで《世論操作》がきわめて容易に行なわれることは、明々白々だからである。

ところで、喜多方の煉瓦造建築は、明治30年代、登り窯による煉瓦製造の開始とともに始まり、大量生産工場による他地域の廉価な(しかし喜多方向きではない)煉瓦や瓦に圧倒され、登り窯の操業が経済的に困難になる昭和30年代までのおよそ60年以上にわたり建て続けられ、しかも、その後も喜多方産の煉瓦による地元の人びとの煉瓦蔵建設の潜在的需要は変らずに強かったというのが事実である。
喜多方の人びとにとっては、喜多方向きにつくられた地場産の煉瓦は、喜多方の建物づくりにとって重要な材料の一つとなっていたのである。
つまり、喜多方の煉瓦造は、他の地域がどうあれ、喜多方の人びとの、それをよしとする独自の判断によりつくられてきたのである。

ということは、先に引用した《学者・研究者・権威者》の著述はすべて《嘘》《いいかげん》であるということになる。
考えてみれば、借金の返済のために、嫌なものを60年もつくり続けるほど喜多方の人びとがお人よしのはずはなく、木柱が腐るような建て方を、60年も黙って認めるはずもない。
そして、大地震の被害のニュースを知っても、彼らは彼らの煉瓦造を断念しなかった。彼らには喜多方の煉瓦造に自信があったのである。

   註 喜多方の煉瓦造建築についての詳細は下記参照
      「『実業家』たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築-1」

いったい、なぜ先の著作に見られるような《嘘》や《いいかげん》な著述が平然となされるのか。
それは、《専門家・学者・研究者》が、地域を見る目を持たない、しかも養わないからである。
彼らにある《視点》は、常に《中央》からの視点である。
《地方》は、常に《中央》のおこぼれにあずかるもの、このいかんともしがたい『地方』蔑視、地域に生きる人びとへの蔑視が、先のような著述を平然と生み出す真因になっていると見なして、まず間違いない。
地域・地方研究を標榜する一群の《研究者》たちでさえ、はたして『地方蔑視観』を根底から拭い去っているかどうか、はなはだ疑わしい。地域は単なる一つの《研究対象》にすぎないかもしれないのである。

研究社の英和中辞典の“local”の項には、わざわざ注釈として「首都に対するいわゆる『地方』の意ではなく、首都もまた local である」と記されているが*、このような注釈が施されるということは、わが国にいかに『地方蔑視観』が根強いか、『地方』“local”という語が誤解されているか、を如実に示していると言ってよい。

   * 研究社「新英和中辞典」の local の項には次のようにある。
     ①場所の、土地の
     ② a (特定の)地方の、地元の、地域特有の〈首都に対するいわゆる「地方」の意には
       provincial を用いる;首都もまた「一地方」なので local である〉。
       ・・・・
       b 以下略

かつて人びとは、ものごとの真実を自らの身をもって判断していた。判断の「基準」は、それぞれの地域の人びと自身のものであった。同じものごとが、異なる地域によって別の意味、別の理解を与えられることも、またあたりまえであった。
むしろそうであるからこそ、明治以前、人びとは、他国を含めて他の地域との『交流』により、いろいろなことを虚心坦懐に学び得たのである。

すなわち、判断の基準が、地域により、人により、つまり(それぞれの)「生活の必然」の違いにより異なり、画一的ではないこと、これが人びとにとっては当然すぎるほど当然の認識であった。
その意味では、古代以来江戸時代までの日本人は、現在よりも数等『国際的』であった、と言うことができるかもしれない。

しかしながら、おせっかいな人たち(先の《肩書》の人たち=《先導的》であることを自負する人たち)は依然として、地域により、人により基準がまちまちでは、ものごとがいいかげんになる、と思っているようだ。

しかし、よく考えてみよう。
人は、自らのために、自らの生活遂行のために必要なものごとを、いいかげんに為すものだろうか。
人びと=「一般大衆」は、それほど愚かなのだろうか。
《学者・研究者》は、それほど賢いのであろうか。


ここでもう一度喜多方の煉瓦造に触れれば、煉瓦を多用した喜多方の人びとには、とかく一般にありがちな、煉瓦でつくれば洋風になる、という考えはなかったことに注目すべきである。
彼らにとって煉瓦は、たまたま目の前に現われた、彼らの建物づくりに使えると判断された一材料にすぎなかったのである。

彼らは、《中央》の人たちのような煉瓦造に対する思い入れはなく、それまでに培われていた自前の技でそれを巧みに使いこなしたにすぎないのである(使えないと判断すれば、使わなかったに違いない)。

そして、これも重要なことなのだが、煉瓦を使うようになっても、それ以前の技術はもとより、職人の仕事も、決して切り捨てることがなかったことも、注目してよいだろう。それまでの職人組織が破壊されることなく、新たに生まれた「煉瓦職」とともに共存したのである。

この柔軟さこそ、本来、地域の人びとそれぞれが持っていた力なのであり、その連続的行使が明治以前の日本の建築の歴史であったということを、いまあらためて確認する必要があるだろう。
そこには明らかに、現代の切り捨て・廃棄が当然の《合理主義》とは根本的に異なる「思想:考え方」が背景にあったのである。


木造に関するここ数年の動きをいろいろ見聞きするなかで、私によく分ったのは、関係者はもとより、木造に関心を持つ人びとが、あまりにも、わが国固有の木造建築技術・その歴史について、そして、わが国の木造建築が現在の状況になった『いわれ』について、知らない、知りたがらない、触れたがらない、ということであった。
私には、最近の動きは、《単なる木造に関心を引くためのキャンペーン》にすぎないように見えた。《この春の流行は〇〇色・・・・・・》という化粧品のキャンペーンと何ら変らない一過性の動きにさえ見えたのである。熱が冷めれば、季節が、時代が変れば、また関心は別の所に向いてしまうかもしれない、そういう類の動きである。

わが国の木造建築をとりまく状況は、たしかに早急な対症療法とリハビリテーションが必要に思える状態であることは事実である。出血があれば止血しなければならず、社会から遠ざけられていたからには社会復帰のためのリハビリテーションも必要であると考えたくなるのも事実だろう。

けれども、その「症状」の原因の認識を欠いた《姑息な》対症療法・リハビリテーションは、単なる病の転化にもなりかねない。必ず、症状の真因を究める必要があるはずである。
残念ながら、最近の木造再興に関する論議には、この視点がまったくない。

   追記
   この文章を書いてからおよそ15年、相変わらず木造で林業振興を、国産材を使おう、という動きはあります。
   しかし、山林の多くは相変わらず荒れたままです。
   一部の《篤林家》が居ることは居ますが、それを《ブランド》にしてしまう場合も多く見かけます。
   どこまで行っても、稼ぐことが先行する、ここでも近江商人がいないようです。
   しかしそれは、林業家のせいではない、けしかける《建築家・専門家そして行政》のせいなのです。
   「症状」の原因の認識を欠いた《姑息な》対症療法・リハビリテーションを考えるからなのです。
   そして一方では、原始林を伐採した廉価な外国産材が相変わらず大量に輸入されています。
   極端な話、外国産材の量が減れば、否が応でも国産材を使うはずなのですが・・・・。

この「真因」:わが国の木造建築の現在の悲しむべき状況を生みだした根本的な原因については、・・・・「新建築」誌1987年6月号の「流浪の木造校舎:木造建築の悲哀」* において概略のべさせていただいたが(* 先回転載してあります)、
一言で言えば、(「真因」は、)木造建築を取り巻く《専門家・建築家》の世界の《異様さ》にあると考えている。

しかし残念ながら、この《異様さ》は、建築界では一向に実感されていないように思われる。《異様さ》は気付かれもせず、気付こうともしない。
《異様さ》が日常になる、それに気付かなくなる、これは最も怖ろしい症状である。
私自身も、ともすれば、その《異様な日常》に埋没してしまいかねない。
それを放置したままでの木造再興論議は、かつての建築界の過ちを再び犯すことになるだろう。

今回私が、「木造建築を増やすための提案」という趣旨の編集者の依頼に反して、いろいろな局面の《異様な》症例を多々書き連ねてきたのは、《建築界の異様な日常》をより詳しく具体的に示すことにより、《異様さ》を思い起こす一つの契機になれば、と願ったからである。


これからのわが国の学校などで木造建築が増えてくるには、木造でそれらの建物をつくることが、何ら特別のことではなく、かつてのように『あたりまえ』に扱われるようになることが必要だろう。
したがって今後、木造建築が増えるために必要なのは、木造が『あたりまえ』になるための条件・環境整備である。
すなわち、『異様さ』を改めることである。《専門家》はそれに係わる必要があるだろう。

しかしそれは、木造復活のためと称するまた新たな《先導・指導》《管理》のための画策を企図することではない。
《専門家》自らが率先して、自らの考え方、その拠って立つ立脚点を正常に戻すことである。
そして、わが国の建築の歴史について、わが国の木造技術について、その持つ豊饒(豊穣)な可能性について、あらためて根本的に学び直すことである。

もちろん、このような根底に戻る、文字通りの radical な論議は、やっている暇がない、それほど事態は切迫している、との異論を唱える人もいるだろう。
しかし、この《異常さ》は、普通の人びとの意志とは関係なく、
《専門家》と称する一握りの人たちの手によって、ここ1世紀以上という長きに* わたって(* 明治以降)、
「それ以前の人びとの営みの積み重ね」=「歴史」を徹底的に破壊し、切り捨てることにより、人為的につくられてきたものである。

その結果として生じた《異常さ》の修復が、一朝一夕でできると考えることの方がおかしい。
田畑の耕土は、一朝一夕にはできない。耕土にするための人びとの長い年月をかけての営みが必要である。
しかし、その耕土を破壊することは容易である。一日でもできる。
そして、一度破壊された耕土の復活には、ほとんどゼロからの出直しに近い営みが必要なのだ。

もしも《専門家》が、これを一晩で再興できると思っているのならば、
あるいは対症療法で再興できる程度の認識でことにあたっているのならば、
そのような木造復権論議は、あまりにも事態の認識が浅すぎる。事態の理解が甘すぎる。

そうであれば、そうであるからこそ、今先ず必要なのは、
『《専門家》のノーマライゼーション』なのではあるまいか。

    ・・・・たとえば、農村、漁村、散村、どれもこれも国土の大事な一部分です。
    そこに住んでくれる人がいなくては荒廃してしまう。住む人なしでは、
    そこに祖先が長い歳月をかけて育て上げ、そして伝えてきた文化も消えうせてしまう。
    それぞれの土地の食事や祭といった文化を担っているのはあくまでも人です。
    その人がいなくなっては、なにもかもなくなってしまう。
    ・・・・・・・・
    自分たちの食事や自分たちの祭りを手放すということは、
    自分たちの立っている大地と切れてしまうのと同じこと、やがてわたしたちは、
    どうして自分たちがこの日本という土地に住んでいるのか分からなくなってしまいそうです。・・・・
                       「毎日新聞」1992年10月26日『井上ひさし 響談』より  
                                                      〈完〉

   追記
   おしまいまで読んでいただきありがとうございました。

   正直な気持ちを言えば、
   ノーマライズできない人、したくない人、現状のままでいたい人・・・・は、
   「名誉専門家」の称号を差し上げますから、今すぐ引退していただきたい、という思いです。
   普通の人びとを馬鹿にしてはいけません。
   フランス映画だと思いますが「自由を我らに」というのがありました。
   そうなのです、「自由を我らに!」なのです。何か封建領主との斗いみたいですが・・・。    

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする