「明日のない今日・・・・合理化ということ」  1983年1月

2019-08-29 15:02:45 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №10」1983年1月 A4版8頁 

        明日のない今日・・・・「合理化」ということ・・・・  1982年度「筑波通信 №10」 

なんでもコンピュータ

 コンピュータがないと夜も日も明けないのではないか、そう思わせるほど近ごろの新聞やTVにはコンピュータ:personai computer の略。要するに、手元に置ける小型簡易型コンピュータ:がらみの話題が多い。子どもたちでさえ街かどのゲームセンターのコンピュータゲームに夢中だし、デパートなどの電器売場のパソコンにも子どもが群がり、キーを押すとブラウン管に表われる数字や画像に我を忘れ酔っている。子どもたちにとって、これもまた遊びの一つになっているらしい。遊ぶ場所のない都会の子どもたちに特異な現象かと私は単純に思っていたのだが、そうではなく、遊ぶ場所にこと欠かない田舎の子どもたちにもその傾向が現われているという話を、先日千葉・館山の小学校の先生の口から聞いた。もちろん子どもたちだけではない。

 これもまた先日、中央線の特急でたまたま乗りあわせた某国立大の大学院生らしい三人づれは、塩山から新宿までのおよそ一時間半というもの、その話題は各メーカーのパソコンの能力評定に終始していた。どこそこのそれはキー一つでなにができるけれども、あそこのそれでは二度の操作がいるからおちる、・・・・こういう話がえんえんと続くのである。それはちょうどひところはやった自動車談議(トヨタのなにがどうで、ニッサンのなには・・・・というような類)に似ていた。自動車談議などはいまやもう小・中・高の生徒たちのものであるらしい。これも最近京都の市バスで乗りあわせた少しつっぱり気味の女子高生の一団は、どうやらこれから車好きの男ともだちと会いドライブにでも出かけるつもりらしく、揺れる車内のなかで驚くばかりの巧みな手さばきでアイ・シャドウを描き口紅をぬり・・・・女子高生から女の子に変装しながら、終始一貫して専門的用語を駆使した自動車の話に興じていた。車名ではなく型番でいうのである。だから、車の話題であるらしいと大よその見当はついたものの、詳細は私にはまったくちんぷんかんぷんであった。ところでさきほどの大学院生たちだが、いったい彼らが何の研究のためにコンピュータを使っているのだろうか知りたくなり、私は聞き耳をたてた。しかしそれは徒労に終ってしまった。ついに、新宿に着くまで、それらしきことは一言も触れられなかったのである。これは人から聞いた話なのだが、ある大学の若い先生は、国費で発売されるパソコンを次から次と買い整え、室にこもっていじくりまわし一人悦に入っているそうである。そして、近ごろの大学受験生の志望は、コンピュータがらみの学部や学科に殺到しているのだという。

 こういう世代の人たちに後から押されるせいか、通勤電車のなかで気むづかしい顔でコンピュータ入門書などを読んでいる大人をよく見かけるようになった。その電車の宙づり広告は、盛んにパソコンやワープロ:word processorの略。単なる印字機能の他に、常用文型などを記憶させることもでき、また組替えなどの編集機能、版の拡大・縮小も自動的にできる。文字処理機。:の宣伝をし、いまやそれがなければ、そしてそれを扱えなければ、ものごとの判断一つ、文章の一行も、なし得ないかのごとき気分をかきたてる。そして新聞やTVは、日本の工場のロボット化は世界一であると誇らしげに報じ、やはりコンピュータは万能か、というような気分にさせてしまう。そういうことに疎く育った中年以上の世代は、こうなってくると、いやがうえにも、そこはかとない所在なさ・みじめさを(不本意ながら)感じたりもする。また、感じなければいけないかのようでもある。

 どこかおかしい、そう危惧の念を抱くのは私だけなのだろうか。

 

道具の使用、道具の限界

 私はこの「通信」を、いつも和文タイプライターで書いている。下書きなし、ぶっつけでタイプを打つ。原稿を和文タイプで書いていると思えばまちがいはない。和文タイプといっても昔のそれではない。昔の夕イプライターでは、さかさまになっている活字盤のなかから半ば勘にたよって目ざす文字を拾いあげたのであるが、いま私か使っているものではちゃんと表を向いた文字盤が別にあり、所要の字に指示キーをあてがって軽くボタンに触れると、電動で活字が拾われ印字される。簡単である。馴れると結構早く打てる。測ったことはないが、手書きで原稿用紙に書くのに比べ二・三割がた時間をくうぐらいのようだ。

 文字数は、当用漢字を中心に和洋数字・ひらがな・かたかな・アルファベットもそろい、予備(人名漢字など)もいれて約2200字が常用に用意されている。それだけあれば十分足りるだろう、と思いきや、それが決してそうではない。かなりのひん度で活字の用意されていない字にぶつかるのである。ここに出てきた「危惧」の「惧」の字や「ひん度」の「ひん」の字などがその例である。そういう活字は別途注文しておけばよいのだが、それこそその字の利用ひん度も少なく、また予想もつかないから、用意しないでいる。そういう「無い字」にぶつかったときにどうするかというと、ここでしたように、その字一字を手書きにしたり、ひらがなで書いて傍点を打ったりすることになる。しかしそうすると折角の活字版がだいなしになる。そこで普段は、そういった「無い字」を使う言いまわしにぶつかったときにはやむを得ず、それにほぼ同等の言いまわしを考えるのである。これがなかなかむづかしく、ときにはそのおかげで、そこのところで文の調子が変ってしまうこともある。その前後の文章を全面的に更改しなければならない場合もしばしばある。つまり、文章そのものがタイプライターの機構によって制約を受けるのだ。これが手書きの原稿なら、辞書をひきひきでも、自分の考えたこと、言いたいこと、を言い表わすのに最もふさわしい言いかた、言いまわしが自由にできるのだが、タイプで書く場合にはそうはゆかないのである。

 日本語は特に漢字:表意文字とかな:表音文字との複合でなりたっていて、日常の話し言葉にもその複合語や常とう句(漢字まじり)が入りこんでいるから、それらを全て原日本語たるやまとことばにでも代えでもしないかぎり、かな書きだけにするわけにもゆかず(そうすれば確かにタイプ速度は速くなるが、できあがった文は、電報文のように判読に手間どるだろう)そこのところが、アルファベットだけでこと足りる英語などとは根本的に違うのである。和文タイプライターにしろ和文ワープロにしろ、その手本を欧文のそれにおく傾向があるが、しかし日本語のこの特徴は依然としてその限界となるはずである。全ての(漢)字を用意するとなれば途力もなく、かといって限定すれば文章までも(ことによると、考えまでも)限定してしまいかねないからである。

 私の勤務先でも、ワープロを買おうという話がときどきもちあがるのだが、そのたびに時期尚早だとして見送っている。一つにはもう少し待てばものがよくなると思うからだが、いま一つは、公文書のようにいつもきまりきった内容の文章をつくるのならばいざしらず、考えたこと、言いたいこと、を自由に書きたいような場合にとって、はたしてふさわしい、好ましいことなのかと、ふと疑問に思うからである。ワープロには、常用の言いまわしをかたまりとして覚えこませておくことができ、また一度つくった文章の組み替えが容易にできるなど、確かに書き手の労力を省く利点がいくつかあるわけなのだが、さきに和文タイプは「無い字」に制約されると書いたけれども、それ以上に、一度覚えこませた言いまわしをつい使ってしまい、結果として文章そのもの、言いかえれば考えかたも、それに左右されてしまうというような事態になるのも想像に難くない。ワープロ向きの言いかた、考えかたにならない、という保証はどこにもない。ほんとにこの「合理化」がよいことなのか、ふと考えてしまうのである。まして、日本語には、さきに述べたような特徴がある。

 私がタイプで文章書きをしているのを見て「先生古いなあ。アメリカじゃあタイプに代りもうみんなワープロだよ。ワープロにしなさい。合理化しなさいよ。」などと言う同僚がいるのだが、そのときいつもこう応じることにしている:「ワープロもいいけど、その前にシンプロThink Processorも欲しいんじゃない?」。そんなものが実際にあるわけではない。

 実際のはなし、そのうち「考える」ことまでもコンピュータに委ねて「合理化」をはかろう、などと言いだしかねない、そんな風潮の世のなかなのである。もっとも、そうなったとき、いったい人は何をしていればよいのか、それについて語られた話というのは聞いたことがない。

 

ロボットは熟練工を越えたか

 十一月の末であったか、TVで、近ごろはやりの工場のロボット化にまつわる特集が放映されていた。

 日本の工場でロボット化が急速に進んだ(ロボット化を進めることができた)一つの理由は、欧米と違って労働組合がそれに抵抗しなかったからなのだが、最近になって異議がとなえだされはじめたのだそうである。実際のはなし、日本のロボット化が先端をゆくようになったのは、なにも日本の技術力がとびぬけて高く、欧米にそれが欠けているわけではない。宇宙船をつくりあげた国であるロボットなどちょろいものだろう。やろうとすれば容易にできたはずである。だが彼の国ではためらった。一つには、労働争議は必至とみたからである。彼の国の労働組合は日本と違って職能別がほとんどだから、職がなくなることに対する組合の反発は強烈なのである。組合の結束力を強めるだけなのだ。ロボット化が労働者から職を奪うことは日本においても変りはないのであるけれども、日本の場合、組合の反発はあまりなかった。なぜなら、職場の配転という形で労働者の職能ではなく、給料を保証したからである。つまり、これまで、ロボットの導入によっても名目上は失業者は出なかったのである。労働のなかみではなく給料=生活保証が第一義的に考えられていた、ということだろう。

 ところがここにきて様相が変ってきた。職場の配転というような安易な操作ではすまなくなってきたのである。つまり、全体として人がいらなくなってきた。一方で、配転されたかつての熟練工たちの工場ばなれも目だちはじめたのだという。それはそうだろう。手には熟練の技を持っているのに、かつての自分の仕事を代りにやっているロボットを横目に見ながら工場の掃除をしているなどという生活は、まさに字のとおり所在ないに違いない。彼らは自ら転職する。かといって彼らの職能に応じられる職場はめったにない。はとんどの場合彼らの選んだ(というより選ばざるを得なかった)職場は、彼らの持っている職能とはおよそ縁のないものである。TVの画面では、いまは青果市場のせり係をやっている元熟練工が、そのあたりの経緯を語っていた。

 画面のなかの熟練工のいなくなった(いらなくなった)工場では、熟練工に代り熟連工のしぐさをそっくりまねしたようなロボットが、ぎこちなくしかし正確に、溶接作業を無心に続けている。火花を浴びようが一切(あたりまえだが)ものともせず、製品がつくられてゆく。

 人間はその厳しい労働環境から解放された。機械がそれに代りその厳しい環境のなかで、弱音もはかず、疲れも見せず、休むことも知らず、ただひたすらに仕事に精を出す。仕事の質は高く一定し、熟練工もいらず、その補充も養成も不要で、その上生産性もあがる。・・・・こんな結構なことはないではないか! おそらくこれがロボット化推進の論理のはずである。

 私は、こぜわしく、ぎこちなく、しかし見事に、すばやく、そして際限なく同じ仕事をやり続けるロボットの姿を、半ば驚嘆の目で見ながら、そこに、なにかいま一つにおちないものを感じていた。それがいったい何に拠るものなのか、いろいろ思いめぐらしながらTVを見続けた。単なる感情的・非論理的な反合理化思想による反発でないことだけは確かである。何か重要なことを見落したままロボット化か進んでいる、そういう感じである。そして、まるっきり違う方向へ転職してしまった元熟練工たちの話を聞いているうちに、多分これがそういう感じを抱かせる因なのではないかと思われるある事実に思いあたった。

  それは、ロボットは、同じ作業をどんなにくりかえしても、決して熟練工にはならない、なりえない、という(あたりまえな)事実の発見であった。彼は、仕事がうまくならないのである。

 こう言うと妙に思う人があるかもしれない。ロボットは既にして最高の熟練工と同質の、ことによるとそれ以上に均質で生産性の高い仕事をしているのではないか、それ以上の何の熟練が要るのか、と。

 

ロボットを可能にしたもの

 いったいかくも盛んになった工場ロボットの、その存在を可能にしたもの、その創出を保証したもの、それは何であったのだろうか。

 いま多くの人たちは、それはコンピュータをはじめとする先進科学・技術革新がもたらしたものだと、高らかにまた誇らしげに説き、そしてまた多くの人たちは、その説明を、半ば以上それは日本の誇りであるかのごとく思いつつ、信じて疑わない。だれもが単純に、(神のごとき)コンピュータがロボットを産み落したと信じ、これから先もコンピュータは次から次へと(人間のために!)新たな改革・革新を産みだしてくれるとこれまた単純に思いこんでいる、そう言ったとしてもそれほど言いすぎでもあるまい。

 だが、はたして先進技術・技術革新が即ロボットを産みだしたのであったろうか。そうではない。もしもそのように思ったならば、それは全くの誤りである。確かに先進技術がなかったならば、その実現は不可能であった。そのことを否定するつもりは、私にもない。かと言って、先進技術が目の前にあった。ただそれだけではロボットは絶対に産まれはしなかった。つまり、先進技術の存在は、ロボットを創出する必要条件ではあっても、必要にして十分な条件なのではない、ということである。多くの人たちは、そこのところを勘ちがいし、あたかも先進技術が、ただそれだけが、必要にして十分な条件であるかのように思っているのだ。

 では、ロボットの創出のためには、他に何か要ったか。

 それは、かつて、工場に熟練工がいた、という事実である。

 かつて工場に、いまはロボットのおかげで工場を追われてしまった熟練工がいた。あるいは、熟練工がいなければ成りたたない作業工程があった。そうであってはじめてロボットが可能になったのである。

 工場のロボット化の発端の一つは、この熟練工のしていた作業工程を熟練工に代って機械にさせようとすることからであった。人間がやることを機械にさせる。つまり、人間のものまねを機械にさせるのである。溶接なら溶接という(人がする)作業の詳細な分析が行われ、最も適切な動作を機械にさせればよい。その際にコンピュータが大いに役だった。適切な動作と手順をコンピュータに記録し、そこから放出される指示どおりに、機械が人のようで人でない、ぎこちない動作ながら、見事に寸分違わぬ動作をくりかえす、という寸法である。

 そして、このものまねのお手本となったのが、実は、最も卓越した熟練工の作業のしかたであった。

 すなわち、熟加工と同等の(あるいはそれ以上の)質の作業を熟練工に代ってしてくれるロボットづくりのために、まず卓越した熟練工の存在が不可欠の条件であった、ということである。

 ここに、熟練工を不要とするためには熟練工が必要であるという奇妙で逆説的な論理が成立することになる。ロボット化が急速に進展してしまったいま、多くの人たちは、ロボット化の基にあったこの奇妙で逆説的な論理の存在をすっかり忘れてしまって、なにか天からロボットが降ってわいたかのごとくに思ってしまっているのに違いない。そして、あの熟練工たちは、作業現場のロボット化のための、文字どおり捨石になってしまい、かつての彼らの存在さえ、いまや忘れ去られつつある。

 ところで、熟練する、熟練工と簡単に言うけれども、言うまでもなくある作業に係わる人間が全て、その作業に熟練したり、熟練工となるわけではない。おそらく、その作業の目的、作業の過程と結果全般、すなわち「現場」について、常に関心を持ち研究を重ねる者だけが、その作業に熟練する、熟練工となる、と言うことができるだろう。当然のことではあるが、彼には彼の受け持つ作業が全工程のなかでいかなる位置を占めるのかも見えている。そういう意味での真の専門家である。彼はその受け持つ作業に対して決してワンパターンの作法で応じているのではなく、その作業の過程で生じるかもしれないいかなるレベルの事態にも即座に適切に対応をしてきたのである。なぜなら彼は、その最先端の職能を我がものとするまでの間に、その作業に係わるいわゆるノウハウ:know-how(技術情報)を、我がうちに構造的に蓄積してきているからだ。

 いわゆる技術の進歩とは、なにもロボット化的なそれだけを言うのではないことは言うまでもないし、またそれは決して紙の上での理論を基にしてのみ在ったわけでもない。少なくとも技術の進歩に関するかぎり、「現場」を欠いた、あるいは「現場」との関係を忘れた、進歩も、そしてもちろん理論も、未だかつて存在しなかったと言ってよい。「現場」に根ざした熟練者のノウハウは、技術の進歩にとっては重要不可欠の存在であったのだ。そして、ロボットづくりにおいても、それ以前に存在した熟練工たちのなかに蓄積されていたノウハウがまず出発点となったはずなのである。

 

「合理化」は合理的か

 さきに私は、いまはやりのロボット化にいま一つふにおちないものを感じている、そしてそういう感じを抱かせるのは、ロボットが決して熟練工にならないという事実のためらしい、と書いた。それはすなわち、ロボットにはいかなるノウハウも蓄積されない、ということに対する異和感であると言ってよいだろう。こう言うと、ことによると、作業の目的と結果の間の関係が蓄積としてロボット操作者のなかに残るではないか、と言われもしよう。しかしそれは、あくまでも「操作」に係わる蓄積であって、その作業工程の全体、言いかえれば「現場」、に係わる蓄積なのではない。

 確かにいま工場のロボット化は、質が高くしかも均質な良い製品を、人手をかけず、人件費もいらず、早く大量につくれるようにした。そしてこれを通常「合理化」と言う。それは実に画期的なことであった。

 しかし、この「合理化」には、その先:「明日」があるのだろうか。いまはロボット化がその範囲を拡げつつある段階にある。だから「合理化」が順調に進展しているかのように見える。だがーたび「合理化」が済んでしまった領域に、その先の進展があるのだろうか。あるとすればそれはロボット自体の改良進歩であって、決して「現場」の(たとえば溶接なら溶接ということに係わる)進展ではないだろう。なぜなら、「現場」に係わる情報を蓄積し伝える者がいないからだ。「現場」に直かに係わっているのはロボットであるが、残念ながら彼は熟練工ではない。ただワンパターンの作法に長じているだけで「現場」を考える力はない。つまり、「現場」に係わるノウハウは、ロボットが動きだしたときからその蓄積を停止してしまっているのである。

 いま進行中の「合理化」が、かつてない卓越した状態を確立しつつあるのは確かである。しかしそれは、同時に、その(過去に比べれば)卓越した状態の固定化を進めているのだと見ることもできるだろう。いま考えられる最高のものに固定してしまうのである。いまは「合理化」が進行途中にある。過去のおくれた数等レベルの低い状態と共存している状況である。おくれたものと比べてしまうから、そもそも最高という概念自体が相対的なものであることを忘れ絶対視し、「合理化」が全てバラ色に、人類の進歩であるかのように、単純に見えてしまうのである。

 もとよりそれが(最高の)現状の固定化につながる にとによると、それから先の進展が、ロボットの洗練以外には、期待できなくなる)かもしれない、などとはだれも思わない。

 言うならば、すばらしい「明日のない今日」に酔い痴れている、と言ってもよいだろう。およそ過去において、人々が「明日」をどのようにして生み創りだしてきたのであったか、みなそれを忘れてしまったらしい。

 ことによると、欧米で(やろうと思えばできたのに)ロボット化か進展を見せなかったのは、単に対労働組合の問題すなわち失業問題があったせいではなく、「合理化」がもたらすこの非合理的な側面に気づいていたからなのかもしれない。

 いま彼の国は、日本に比べ、ロボット化は数等おくれてしまった。そして未だに(昔気質の)職能人・熟練工が働いている。日本人の多くは時代おくれだとばかにする。しかし彼らは、おくれていると言われつつも、確実に、(日本の技術をも含め)「場」に係わるノウハウを蓄積し続けている。「財産」がある。一方で日本はロボット化では世界一になった。同時に、当然のことのように、職能人・熟練工を切り捨てた。というより、彼らの蓄えた「財産」をくまなく食いつぶすことによってロボットをつくりあげた。そしてその後、「財産」を蓄えるものは、どこにも、だれも、いない。

 

あとがき

〇私が係わっている設計という仕事をやっていて、いつも自分の所在なさを感じるときがある。それは、いよいよ工事がはじまって現場に出かけ職人たちが私の書いた図面をもとに仕事をしているのを、はたで見るときに起きる。いくら机上で、あるいは図上ですばらしいと思いこんだものを考えたところで、つまるところ、この人たちがいなければ現実のものにならない。まして、私が図面上で考えた以上にうまい方法でことを処理するのを目撃してしまったときなどはなおさらである。考えてみると、私が図上で考え、図上に書きこんでいることは、ほとんど全て、何らかの点で、過去「現場」においてなされてきたことに依拠しているのだ、ということに気づく。しかし設計者はこのことを忘れ、職人よりも自分はえらいのだと思いこむ。そして、机上の空理・空論を職人に押しつける。私は、この所在なさをなんとかしたいと思い、毎回のように、次の仕事では、私の考えたことが職人にも当然のことだとして分ってもらえるような設計にしよう、と考えるのだが、毎回のように宿題が残る。しかし、所在なさは感じても、私は現場が好きだ。得るものが多い。

〇ところが、このごろ現場に出かけても、職人さんに会えることが少なくなってしまった。大工さんなどめったにいない。とんかちやっている人は確かにいるけれども、木との係わりかたを教えてくれるようなほんとの大工さんがいない。そういうことをやれるのは「伝統的工法」といって、これまた文化財:過去の遺物にしてしまおうとするような風潮なのだ。人自体がロボットになりはじめている。それは都会ほどひどい。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。

      1982・12・26              下山 眞司


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「第Ⅳ章-2-3 大徳寺 孤蓬庵」 日本の木造建築工法の展開

2019-08-23 11:53:51 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「第Ⅳ章-2-3 大徳寺」A4版6頁

3.大徳寺 孤篷庵(こほうあん)  小堀遠州により1612年(慶長17年)造営、火災に遭い寛政年間(18世紀末)古図により再建

 孤篷庵(こほうあん)大徳寺塔頭の一であるが、他の塔頭とは性格が異なる。

 幕府の作事奉行を務めた小堀遠州が、自らの菩提所として自ら設計した。当初の建物は焼失したが、後に古図により再建され、当初の姿を持っているとされる。

 孤篷庵(こほうあん)の最大の特徴は、敷地内の方丈庫裏書院茶室などを、当初から一続き・一体の雁行した建物として計画していることにある。各所に用意される坪庭も含め、庭も当初から建物と一体的に計画されている。つまり、敷地内の空間を、建屋か庭であるかを問わず、すべて見通して設計していることになる。

 桂離宮と類似してはいるが、桂離宮の場合は、増築を重ねた結果であり、孤篷庵(こほうあん)とはかなり異なる。

 

 配置図                           西沢文隆「実測図ー建築と庭」より転載・編集


 

                              日本建築史基礎資料集成二十茶室より転載・編集

本堂~書院 平面図配置図橙色枠内)  方丈部分は畳1畳を6尺3寸×3尺1寸5分とした内法制の柱割。書院分は、基準柱間を6尺5寸とした芯々制の柱割。 芯々制内法制の切替えは、畳廊下東の壁面で行なっている。

          

 

庭の西南隅から書院~本堂を見る  入り隅の刈込み生垣の右手が忘筌 画面左には山雲床への路地が続く 日本建築史基礎資料集成 二十茶室より

 

 

書院部分平面図   基準柱間 芯々 6尺5寸 柱径:約4寸3分、山雲床(さんうんじょう)は3寸5分

 

 

                         平面図・断面図・展開図共に 日本建築史基礎資料集成二十茶室より

書院部分 桁行断面図    たすきがけ筋かいは修理時の追加。

 

 


山雲床 展開図  

                   

山雲床 北面                        原色日本の美術15 桂離宮と茶室 より 

 

書院部 天井見上げ図                     日本建築史基礎資料集成二十茶室より

 

 

書院部 梁行断面図

 

 

畳廊下部分 梁行断面図                   重要文化財孤篷庵本堂・忘筌及び書院修理工事報告書 より

 桁行、梁行とも方丈建築と同じ桔木を使う架構法を採っている。 特に、梁行桔木は、小屋裏深くから始まっていて、軒を支えるだけでなく、小屋組全体の強度増強の役を担っている。

 

 

 

                                       日本建築史基礎資料集成二十茶室より

本堂 平面図 畳長さ6尺3寸を基準とした内法制柱割 柱径 内部は4寸7分 外回りは4寸9分  忘筌は4寸1分~4寸6分 

 

 

                         重要文化財孤篷庵本堂・忘筌及び書院修理工事報告書 より

本堂 桁行断面図   架構法は、方丈建築を踏襲。

 

 

 忘筌への軒下路地    写真共に日本の美術83 茶室 より

        

 西側の  

 

  忘筌西側のを見る

 

 

 

                                                                              

                                       日本建築史基礎資料集成二十茶室より

 本堂 天井見上げ図 南側の3室:十二畳・室中・十畳は一続きの天井で欄間はない。

 

 本堂 梁行断面図                                           重要文化財孤篷庵本堂・忘筌及び書院修理工事報告書 より      

         

忘筌 東側を見る                日本の美術83茶室より

 

 

 


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「今日のない明日・・・・近代化ということ」前半  1982年12月

2019-08-16 14:05:31 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №9」1982年12月 A4版15+2頁 

       

       今日のない明日・・・・「近代化」ということ・・・・1982年度「筑波通信 №9」

新幹線は沿線を発展させるか・・・・鉄道と地域の「開発」

 上越新幹線が開通した。

 開通を数週間後にひかえた新聞紙上では、開通にいたるまでのいろいろな裏ばなしが特集で組まれていた。例のごとく、政治がらみの生ぐさい話である。その記事のなかで私の目をひいたのは、ある駅が決定されるにいたった経緯:その解説であった。三国山系から越後平野にさしかかった最初の駅の位置についてのものである。それは在来の上越線の一小駅に設定されている。それゆえ、政治がらみの駅なのではないかという疑惑があるというのである。これに対して、それは全く技術的な検討の結果であって、政治的な圧力などによって決まったのではない、というのが国鉄側の説明であった。そして私の目をひいたのは、この「純粋に技術的な検討の結果」ということばであった。

 それによると、ある標高で三国山系をぬけでた列車の、そのスピードと安全を保つべく、こう配、カーブを地図上で検討してみたところ、妥当と思われる線が決ってきた。そしてその線上に上越線の交点を探したところ、それがその小駅の近くだった、というのである。技術的に合理性が追求されたのならば、やむを得ない結論なのかもしれない、大概の人はそう思って納得し、いささかふにおちない思いを抱いた人たちでも、なにやらむづかしそうな技術的な解説などもちだされると、それに対抗できる反論の用意もまたなかなかむづかしいと思うから、結局うやむやのままになってしまう。「技術」だとか「専門」だとかいうことばはまるでいまでは魔法のことば、そのひとことで大抵の人は恐れをなして口をつぐんでしまう。

 だが、この国鉄の説明に素直に従うと、上越新幹線はその路線の決定に際し、いわば山越えの技術的解決にのみ熱心で、どこの土地:町を通るか、駅はどこがよいか、といったことは特に考えてはいなかった、ということになる。通常の感覚で考えるならば、これではものごとの順序が逆ではなかろうか。つまり、鉄道を敷設するのであるから、まずその鉄道の通過地点をいろいろ考える、そしてそのためにはとこでどう山を越えるのがよいか、それにはどう技術的に対応しなければならないか・・・・ざっとこういう具合に話がすすむのがあたりまえではないか。先の国鉄の説明では、新幹線の目的は単に山を越えることにだけ意味がある、そんなことにもなりかねない。

 しかしふと考える。この国鉄の説明は少しもうそは言ってない、本音なのかもしれない、と。確かにはじめから通過経路が考えられなかったわけではなく、ちゃんと考えはした。ただそのとき考えのなかにあったのは、始点の東京、終点の新潟、そして途中の主だった分岐点の大宮、高崎などだけで、その他のところはあくまでも単なる通過点(主目的を達するためにやむなく通りすぎる途中)にすぎない、そう考えられていたと見ることもできるかもしれない。そもそも、新幹線網という思想がそういうものなのだからである。主目的は東京と新潟をいかに速くつなぐかにある。途中は、いわばついでなのだ。

 しかし、新幹線の思想がどうあれ、鉄道というものに対して、人々は近代以降鉄道というものがはたしてきた効果・役割についてのバラ色の夢を持ちたがる。鉄道が通り駅ができ・・・・そしてそこには繁栄がある。幾多の例でそうなった話を人々は知っているから、そうなることを夢みて誘致合戦が行われ政治家がからんでくる。世のなかもまた、鉄道というとすぐに政治色で見るようになる。だが、「途中はついで」の新幹線に、近代の鉄道がはたしてきたと同じような発展の期待を、その沿線の人々は持つことができるのだろうか。私にはそう思えない。

 

 近代になっての鉄道の敷設は、たしかに世のなかを変えてきた。鉄道があるかないかは、その町の繁栄の度合に大きく影響した。鉄道が通ってしまったために、考えもしなかったほどの繁栄をみた町もあった。鉄道はその通過する沿線を発展させてきた。いまでは、鉄道を通すことが新たな「開発」を促進させる、というのがあたりまえなこととして理解される。

 だが、一概に鉄道と言っても、その敷設にあたっては、どうも明らかに異なる二つの思想があったように、私には思えてならない。一つは、先に書いた「新たな沿線開発」の促進を目的とする思想である。最近の東京西部から神奈川へかけての田園都市線の新設などは、その思想に拠った典型だろう。けれども、全ての鉄道が当初から、このような未開の地の開発を目ざしていた、と思ってしまっては、どうもまちがいであるように私には思えるのである。

  江戸期の関東平野のありさまを示した地図を載せました。この図と、お手元の地図帳とを、あわせ参照しつつお読みください。 

 


東武鉄道・・・・もうからない鉄道

 東京の浅草を起点にする東武鉄道伊勢崎線という私鉄がある。日光に行くので知られている。ことによると、日光に行くことだけが知られていて、伊勢崎線などという名称は知られていないのかもしれない。浅草を出た電車は、途中で伊勢崎行と日光行の二線に分れる。伊勢崎行が本線の伊勢崎線で日光行は支線であり、この日光線は本線より大分おくれて開通したのだが、おそらくいまはこちらの方がよく知られているはずなのだ。いまは途中まで地下鉄日比谷線と相互乗入れをし、沿線も宅地化が進行しつつあるが、それも昭和三十年代の後半になって住宅公団の大団地が田んぼをつぶしてつくられるようになってからで、そのころまでは、東京の町を出るとすぐに、窓の外一面に田園風景がひろがったものであった。いまでも、沿線からひとかわはずれ、あるいは東京を少しはなれると、あいかわらずの風景が残っている。田園のなかを、いまはもうめったには見られない旧型の電車が、これも昔ながらの音をたてて走っていたりして、いまや一つの風物詩のおもむきさえただよわせている。

 東武鉄道というのは、その営業キロ数で関東一の規模を持つ私鉄である(約500kmに達し、キロ数では全国で一・二位を競う。因みにバス路線も長大で、近年減ってはいるが、それでも約3500kmあるという)。伊勢崎線、日光線の他にも多数の線があり、そのいずれもほとんど田園地帯のまんなかを走る、言いかたは悪いが、田舎電車である。沿線に、東京へ通う人たちの家がたてこんできたのも極く最近で、敷設以来半世紀以上もたってはいるのだが、その間ずっと田園のなかを走り続けてきたのである。ということは、この鉄道は敷設以来長期間、今日的な意昧での沿線開発という役割ははたしてはこなかったということになる。実際、その走っている地域は埼玉、栃木、群馬に重心があり、また沿線は田んぼで住宅むきな土地ではないから(いまでは田んぼでもなんでも平気で家を建てるけれども、そうなったのはつい最近のことだ)、開設当初のありさまは決して「開発」にむいているなどとは言いがたかった。

 実は、この鉄道のこういう特徴、そしてその一大起点が浅草という山の手線からはなれ、いささか不便な地にあること、について、まえまえから私は不審に思っていたのである。(この不審は、少し大げさに言うと、子どものころにまでさかのぼる。ご多分にもれず、私も電車が好きだった。いまでこそ東京近郊を走る電車はみなきれいだし差が見られないが、私の子どものころ、京王線、西武線、東武線のおそまつさは定評があった。東横線、小田急線、井の頭線に比べるとどれも田舎電車、おんぼろであった。従って、私たち電車キチには評判が悪かった。当時の私たちに分ったその理由は極めて単純にして明快、もうかっていないからさ、というものであって、なぜもうからないのか、その理由にまでは思いがいたらなかったように思う。この格好いい電車、おんぼろ電車の差は、その路線敷設の理由:動機の差一一これから書こうとしていることに連なるのだが一一によるのだと気がついたのは、ずっとあとのことである。)

 ではいったい、この鉄道は、なにを目的として敷設されたのだろうか。

 東武鉄道伊勢崎線は、浅草を出たあと、北千住、草加(そうか)、越ヶ谷(こしがや)、春日部(かすかべ)、杉戸(すぎと、現「東武動物公園」)、・・・・このあたりまで田園の宅地化が及びつつある・・・・久喜(くき)、・・・・久喜で東北本線と交わる・・・・加須(かぞ)、羽生(はにゅう) このルートは江戸期の「日光道中」に大体重なる。・・・・ここまで埼玉県そして利根川をわたり群馬県に入る・・・・館林(たてばやし)、足利(あしかが)、太田(おおた)、そして伊勢崎(いせざき)の順に走る。 途中春日部で野田線(のだせん。高崎線大宮から春日部を通り常盤線の柏、総武線の船橋へと走る)、杉戸で日光線、羽生で高崎線熊谷へ通じる羽生線、館林ではそれより北、渡良瀬川をわたり栃木の佐野へ通じる佐野線それとは逆にほほ利根川に平行し小泉(こいずみ)を経由し太田へ直行する小泉線、そして太田では桐生(きりゅう:群馬県)へ行く桐生線、といった具合に実に多くの支線を分けている。地図を見ると分るとおり、関東平野の中央低地部から利根川を越え、赤城山をはじめとする平野外縁・北辺の山々のすそ野へかけて、その大地の上に点在・散在する大小の町々を、この鉄道は実にこまめにこまやかに、一つ一つつないでいるのである。 

 この他に、東武鉄道には、東京・池袋から秩父へ向う東上線がある。大体昔の川越街道に沿っている。これも、旧くからの町々をつないでいる。

  一方、この地域を走る国鉄線は、東京・上野から、浦和、大宮、熊谷、本庄を経て高崎へ出る高崎線、その途中の大宮から分れ、久喜、古河、小山、宇都宮・・・・とぬける東北本線、そして高崎の先、前橋から伊勢崎、桐生、足利、佐野、そして東北本線小山へと至る関東北辺の赤城・足尾・日光連山のすそをまいて走る両毛線(りょうもうせん。上毛野:かみつけのと下毛野:しもつけのを結ぶゆえ両毛という。上毛野はいまの群馬県、下毛野は栃木県あたりをいう。)、この三本があるだけである。

 参考に載せた地図には「下野国」「上野国」と書きそれぞれ「しもつけのく」「こうづけのくに」と読みがなが付いている。「毛」をぬいて書く表記法が慣習化してしまう一方、読みかただけは元どおりに行われた結果だろう。子どものころ、なぜそう読むのか不思議に思ったことがある。なお、「こうづけ」は、もちろん「かみつけ」の音便である。

 

 地図を見るとすぐに分るのだが、この国鉄東北本線の東側にあたる部分には、太平洋岸沿いの常磐線までの聞、国鉄線は一本もない。わずかにあるのは、その地域の北辺を走る水戸線があるだけである。これはあとで詳しく書くつもりだが、この地域(それは関東平野の東半分を占める広大な地域である)は、ながい間鉄道というものに縁がなかった。同様に、この三本の国鉄がかたちづくる三角形のなかも、関東平野の西北部を占める利根川をはさんだ豊かな田園地帯なのだが、ここもしばらくの間鉄道に縁がなかった。そして、先に東武鉄道の通過地点として列挙した土地は、まずどこも、このいち早く敷設された鉄道:国鉄とは縁のない所であったことが分るだろう。東武鉄道がなかったとき、これらの土地へは国鉄だけを使って行くとなると大変であった。このことはいまでも同じであり、東武鉄道のやっかいにならない限り、これらの町へはなかなか行きにくい。この地域の交通は(明らかにもうかるわけはないのだが)東武鉄道が補っているわけなのだ。

 二・三分も待てば電車が自然と来てくれる都会に住みなれてしまうと、鉄道の偉大さ・ありがたさをつい忘れてしまう。私が住む筑波研究学園都市は、先の鉄道空白地帯:関東平野東半分の東端に位置している。学園都市などというとすぐ都会風な姿を想像するかもしれないがとんでもない。もともと、どの駅を最寄りの駅と呼んだらよいか、首をひねってしまうほど、どの駅からもはなれている。いまだってバスが通うようになっただけで基本的には少しも変っていない。自動車が普及しだす前・・・・それはほんの10年前なのだが・・・・大げさにきこえるかもしれないが、ここには江戸時代が残っていたのである。最寄りの駅がないわけではない。しかし、駅からあるいは駅まで、10kmなどはざら、ことによるとどの駅へ行こうにも3 ・40kmは歩かなければならない所がいっぱいあった。バスがほそぼそと通い、車が普及したからそれほど気にもならなくなったが、これも基本的にはなにも変っていない。鉄道がどこにも通っていない時代にはどの村もまあ均等にどれかの街道や舟運路に面していたが、鉄道が通じた結果、逆に[辺地]が生まれてしまった。辺地とは、言わば相対的な概念なのである。この土地に住むようになって、それこそはてしなく続く大地の上に、これもはてしなく散在する村々を見出して、この大地のふところの深さに驚嘆した。いくら車で走っても、えんえんと同じような風景が続くのである。その深いふところのどこにも人が住みついている。それがあたりまえなのだが、都会に染まってしまっていた私には、このあたりまえに住んでいるという極くあたりまえなことが、衝撃的でさえあった。そして私は、私の不明を思い知らされた。

 

 ところで、いまここで次々にでてきた地名の内、いま東京に住んでいる人たちのどれだけが、どのくらいまで知っているだろうか。ことによると草加はせんべいで、足利や伊勢崎や桐生はそこで産する織物:めいせんで、そして館林はぶんぷくちゃがまで・・・・といった具合に、その土地がらみの物や話で知っているだけで、そこへどうやって行くのかとなると一瞬とまどうのではなかろうか。まして加須などともなれば、読めもしないだろう(もっともいまは東北自動車道の入口があるので知られだした)。関東では関西とちがって国鉄への依存度が高いから、たとえ私鉄が発達していても、私鉄の駅名:私鉄の通る土地の名の知名度は低い。おまけに国鉄沿線の方が圧倒的と言ってよいほど発展してしまっているから、これらの町々の名は、ともすれば忘れられかかる。

 たしかにいまこれらの町々の名の知名度は低くなりつつあり、なかにはさびれかかっている町もある。けれども、これらの町々は、いまの姿とは比べものにならないと言ってよいほど、ほんのつい最近まで栄えていた、それなりに知名度の高い町々であっだ。これらの町々は、近世まで(鉄道という新しい交通手段が導入されるまで)交通路上の要所として、いま以上に繁栄していたのである。

 だが私自身がこのことに気づいたのは数年前のことだ。筑波から埼玉平野の中央部へ向って車を走らせていたとき、「加須」という場所に偶然さしかかった。見わたすかぎりの田んぼのなかに突然島のような家々のかたまりが見えてくる。そして、うらさびれた風情の(しかし少し手を入れればそれなりの格好となる)街なみが続く町なかにとびこんでしまった。明らかに街道すじの町だ。どうしてこんな所に、と私はとまどった。かなり広い構内を持つ駅まである(東武伊勢崎線の加須駅だというのはあとで知った)。そして、あとで調べてみてはじめて、そこが近世までの交通の一要所であったことを知らされたのである。「加須」と書いて「かぞ」と読むと知ったのもそのときである。そしてそのとき、加須だけではなく、先に書き連ねた東武線の諸駅がほとんど全て、鉄道以前から、というより鉄道に拠るのではなくして、栄えていた町々であったということも知ったのである。

 私がこのことを知らなかったのは、そして多分大かたの人が知らないというのも、私の(あるいは大かたの人々の)関東平野についての知識:それぞれの人々の頭のなかにある関東平野の地図:というのが、鉄道の網目、しかも国鉄のそれによって構成されているからに他ならない。それに加えて、鉄道:国鉄が通ってかれこれ一世紀に近くもなると、現状があたりまえに思われ、今栄えている所が昔からずっと栄えていた、国鉄沿いが昔から交通の要路でめった、そういう錯覚をも持ってしまいがちだからである。ある意味ではこういう誤解もいたしかたない。かといって、誤解を放っておいてよいわけではない。

 

なぜ浅草が起点になったのか‥‥関東平野の繁栄:その昔といま

 そこで、あらためて関東平野の地図を拡げて見てみよう。そしてこの地図の上から鉄道線路という線路を全てとりはずしてみる。ついでに今栄えている町々の地名だけ残して(たとえば〇印に地名を付すことにして)その市域・町域を示す図上の表示(市街化部分を示すしるし)をもとり去るともっとよい。そこにいったい何か見えてくるか。学校の教科書の地図帳でそれを試みてみる。そうすると、地図の上の平野を表わす一面の黄緑色のなかに、そこを貫流するいくつもの河川が見えてくるはずである。それらの河川は、水の流れという自然現象ゆえ、平野の外縁をかたちづくる山々から海:特に東京湾へ向って走っている。図式的に言えば、東京湾をかなめにした扇の骨のような具合に河川が平野を刻んでいる。利根川だけがその全体の大勢をはなれ東進している(もとはといえば、やはりこの川もこの大勢に従い東京湾にそそいでいた)。

 そしてこの東京湾にそそぐ諸河川のいわば集中点に東京:昔の江戸:の中心がある。よく見ると、東京から地方へ通う道もまた放射状に、めったなことでは河川を横切らずほぼ河川と河川との間を河川に並行して走っていることが見えてくる。今の国道も(所々でバイパスが通ったため変ってはいるが)そうなっている。そして、その国道のほとんどは、江戸期の諸街道を踏襲したものだ。そこで、先に書き連ねた一連の町々の所在を見なおしてみる。するとこの町々はこれらの街道の上に位置していることが分る。

 次に、(これはただ地図帳をながめているだけではだめで、ある種の発想の転換を要するのだが)、鉄道敷設以前の陸上交通以外のもう一つの交通手段:水運・舟運の経路をこれに重ねてみる。関東平野を貫流する諸河川は、単に農業用水としてだけではなく、同時に(ときには農業用水としてよりも)交通・通運の要路としての役割をもたされていたのである。利根川に、壮大な高瀬舟が通っていた(高瀬舟は京都・高瀬川だけのものではなかったのだ)。利根川を東京湾に流入させず東進させた江戸期の大事業も、単に江戸を洪水から防ぐという目的だけではなく、舟運路の一定水位化を目ざすものだったという解釈が最近では有力だという。かくして、地図上に陸路、水路という二種類の交通網が描かれることになる。 

 自然河川の他に、いくつもの人工河川をつくり使用した。加須の近くには17世紀中ごろにつくられた葛西(かつしか)用水やいくつかの「堀」がある。

 そこで更にあらためて先きほどの町々の所在をながめてみる。もう明らかなように、これらの町々:いまは忘れ去られようとしている町々:のほとんどが、この二種の通運路と深い関係にあったことが判明する。江戸の町の(あるいは鉄道敷設前の東京の)生活を保証する物資の集積地、商業の町としてそれらは栄えたのであり、江戸(幕府)はそのためその通商路の整備に腐心したのでもある。

 では、江戸に向った物資は、江戸のどこに向ったのか。当然のことだが輸送量では舟運にはかなわない。食糧をはじめとする生活物資も、建築資材の木材も・・・・そのほとんどは舟運によった。そして、それらの江戸での集積地、それが隅田川沿いの一画であった。いまの浅草かいわいである。「蔵前」という地名は端的にそれを示している。蔵が軒をならべていたのである。その少し下流に「木場」がある。関東平野を下ってきた木材、海運によって関東諸国以外から運ばれてきた木材がここに集められた。とにかくこの一帯は人通りもはげしく、にぎわっていたのである。遊興地も、そこに集まる人々を相手に生まれ、にぎわいをみせた。

 

 今年の通信第3号「水田の風景」のなかで、大ざっぱではあるけれども、関東平野の開拓の手順をながめてみた。けれどもそのときには、いまここでみたような交通網のはなしには全く触れなかった。それではほんとは片手おちなのだ。平野の開拓と交通網の整備は互いに関連し、並行していたのである。関東平野の全域に目を配りつつ計画的に開発が行われたのは、江戸期に入ってから、江戸に都をつくりだしてからである。江戸の町の自給自足体制の確立のためには関東平野(当代随一の穀倉地帯)の掌握が不可欠であり、その政策の一環として、新田開発(利水・治水計画をともなう)と輸送網の整備は並行したのである。しかし、こういう書きかたはほんとは正しくない。これらの政策は、江戸に町をつくりだしてから考えだされたのではなく、むしろ、こういう施策をほどこせば江戸に町がつくれる、という計算が先にあったと見るべきだからである。つまり、関東平野が開拓さえすれば豊かな穀倉地帯になし得る可能性を秘めた土地であることを見通し、それさえ掌握すれば絶対的と言っていいほどの自給自足体制が確立できるとの確かな見通しを持ち得たからこそ江戸に幕府を構える決断がなされたのであり、そしてそれが実際そのとおりであったからこそ、徳川は三百年という長期にわたって生きながらえたのだということができるだろう。その三百年間に、この関東平野の上に、当時としてでき得る限りの整備がほどこされた。江戸の町の成熟と相たずさえて、江戸の町と持ちつ持たれつの関係のなかで先にかかげた(いまは忘れ去られつつある)町々も、それらを網の目のようにつなぐ通運路もまた成熟していった。

 そして明治が来る。この平野の上にも「近代化」の波が押しよせる。

  

 明治に入り、この平野の上にも鉄道の敷設が計画され実施にうつされはじめた。いま、それらの鉄道をほほ敷設順に記してみよう。

 1881年(明治11年)民間の日本鉄道KKが設立され、その会社によりまずいまの高崎線が1884年に開通し、翌年1885年東北線が大宮と宇都宮の間で開業する。これらはいずれも東京と信越、東京と東北・奥羽を結ぶといういわば国家的なスケールの計画の一環であった。高崎線の路線はそのときまでの最重要陸路の一つ中山道をほぼ踏襲しているけれども、東北線は大宮から分れているため、既存の街道とは無関係なルートを通っている。先にも書いたが、陸路の多くが河川の横断を極力避け、ほぼ河川に並行しているのに対し、東北線はむしろそれらに直交するような形で平野を横切っているのが地図の上に認められる。そしてその結果、東北本線は既存の町をはなれて通ることになった。

 それよりほんの数年おくれて、1888~1889年にかけ、両毛鉄道:いまの両毛線が開通している。これは、もとから在った街道(旧くは古代の東山道にまでさかのぼる)に沿って既存の栄えた町をつないでいる。ただ、先の二本(高崎線、東北線)が東京と地方を結ぶことを意図しているのに対して、これは前橋・伊勢崎・桐生・足利・佐野・栃木・小山という具合に、江戸時代に成長した江戸とをつなぐ通運路の端末の拠点の町:平野外縁の山々のきわ、水路としての河川のそばにできあがった町々を横につなぐ役割だけを持っていた。いわば地方線なのである。

 1884年からわずか五年ほどの間に、はじめに書いた現国鉄の三角地帯が形成されたわけである(因みに、前橋から先のいまの上越線は大分開通がおそく1931年になってからである。信越線全通が1893年だから、実に38年後のことだ。上越線が開通するまでは、新潟は長野よりも遠かった。鉄道による経済的波及効果、いわゆる近代化という点で、新潟はその分だけおくれをとったということができるだろう。もしかしたら、その苦い経験が上越新幹線を我れ先に建設させようという政治的行動の動機になっているのかもしれない)。

 

 鉄道敷設の経済効果は極めて大きかった。物流の構造改革が成されはじめたのである。大量輸送機関であった舟運も鉄道の速さにはかなわない。集積地が変りはじめる。平野の西半分は、それでも、まだよかった。鉄道がほぼ従来の街道沿いだったからである。それまでの大動脈であった東部の河川すじは真向からその影響を受けだした。上流で舟運路に直交する鉄道に、荷がさらわれだしたのである。当然、町々の拠ってたつ基盤がゆるぎだす。鉄道の通った町がうらやましく思われる(生活が乱されると鉄道の敷設に当初反対した人々が多かったわけであるが、それが後悔にかわったという話もめずらしくない)。 

 両毛線のはたした、あるいは目ざした役割が何であったか、よく分るだろう。

 

 こういう状況の大変化にみまわれた関東平野の東半分、かつての繁栄の中心地帯、そして最初の鉄道計画の恩恵に浴さなかった地帯で、鉄道への願望が高まってくる。そしてそれに応えるべく計画されたのが東武鉄道伊勢崎線であった。

 伊勢崎線は、東北本線におくれること20数年後、1907年(明治40年)に全通している。支線日光線はずっとおそく1929年(昭和4年)、それより前の1913~14年(大正2~3年)にかけて桐生線、佐野線が開通した。

 平野の西部に重心をおいた鉄道敷設以来およそ四半世紀、国の近代化政策とともに産業構造も大きく変りはじめ、鉄道の沿線が繁栄の中心になりつつあった。かつての繁栄の中心であった舟運に拠った商業町、街道沿いの町々はさびれはじめていた。それらの町々のまわりで生産されるもの、その集積地としての役割で町々は栄えた。しかし、その役割はみな鉄道沿いの町々に奪われだしていた。東武鉄道は、まさにそういったさびれはじめていた町々の、夢よもう一度という期待、町々にある既存の生活の維持への願い、を背負って建設されたといってよい。鉄道の経営者の願いもまた、それらの町々の人々の既存の生活の繁栄とのいわば共存共栄にあったと見てよいだろう。

 そのように見るとき、その路線経路の決定理由が自ずと明らかになってくる。すなわちその路線は、かつての重要な通商路であった舟運路や街道すじ、しかも当初の鉄道敷設計画においては不幸にも見捨てられてしまった通商路、その代替機関として建設されたのである。背後には、それを支えてきた町々の生活があった。だからこそこの鉄道は、かつて繁栄の中心であった町々を一つ一つていねいにつなぎ、最終的にはこれもかつての終着駅、一大集積地にして繁華な場所すなわち浅草へ到着する。起点は浅草でなければならなかったのである。

 この鉄道の第一の目的が、かつての繁栄の復興をねらった、あるいは少なくとも、「近代」からとり残されかかった関東平野の東半分に点在する既存の町々の人々の生活の維持・救済にあったということは、日光線の開通時期を見てもわかる。いま東武鉄道のドル箱路線である日光線の開通は、先に見たように、本線開通より20年以上もあとのことだ。これが現在なら、もうけにすぐつながる日光線の方が先に着手されるだろう。観光で商売をしようなどという発想が、当初全くなかったと言ってよい。つまり、鉄道開設にあたって、沿線に新たな変化を生もうなどという発想はさらさらなく、あくまでも、かつてのあるいはそのときまでの人々の生活を維持持続させることに意義を見出していたと理解できる。言うならば「保守的」なのである。だが、そうであるが故に、決して既存の生活、既存の繁栄を越えて急激に発展することなどは期待できず(なぜなら、既存の繁栄がしがらみとなって、「近代化」しにくいのである)、その意味ではもうかることも期待できなかった。

 ここでもうからないと書いたのは、あくまでも相対的な意味、すなわち、あとで触れる、昭和になって大都市の近郊に建設されだしたより近代的「進歩的」な発想による鉄道と比べてのはなしである。

 

 この東武鉄道と前後して、各地にこういうもうからない(現代の経営者からするとあほみたいな、つまりもうけにならない)鉄道がいくつも建設されている。それらはほとんど、基幹線からとり残された地域のかつての街道すじや舟運すじの代替として設けられた鉄道で、後に国鉄に編入されていまに至っているものもある。いずれにしろその発想は「東武型」だと言ってよい。   

 いくつか例を挙げよう。常磐線の取手(とりで)と水戸線(東北本線の小山と常磐線の水戸を結ぶ。1889年に開通)の下館(しもだて)とを結ぶ常総鉄道。鬼怒川と小貝(こかい)川・・・・ともに舟運路として重要だった・・・・の間に在った集積地の町々をつなぐ。 1914年の開通。(因みに、東北本線敷設の4年後:1889年には、前橋から小山を通り水戸へぬける、関東平野の北辺を横断する鉄道が既に在った(両毛線十水戸線)。 常磐線はそれよりもおそく1901年、それも水戸側から着手された。前橋~水戸は中山道より分れた江戸期の重要街道の一つ、いまも国道50号線が通っている。) 群馬県、前橋と桐生を結ぶ上毛鉄道。この二つの町は、先に示したように両毛線が結んでいる。けれども両毛線は、伊勢崎に寄るためにかなり南へ下りてくる。その結果、前橋から桐生へかけて、赤城山のふもとにほぼ等高線上に展開していた町々がとり残された(大胡、大間々などの町である)。それらの町を結んで1928年に開通した。 そして、長野の長野電鉄河東線。関東平野でなくてもどこも状況は同じ。ここ善光寺平でも、最初の鉄道信越線の経路からとり残された地域があった。鉄道は元来の主要道であった千曲川東側の北国街道沿いを通らず、西側の低地部をまっすぐ善光寺の門前町の長野へ向ってしまった。このかつての主要道沿いの復興を願った地元の運動の結果開設されたのがこの河東線なのだという。これは1922年(大正11年)の開通。信越線におくれること実に29年である。だが、ときすでにおそく、繁栄の中心はすでに長野市や国鉄線沿いに移っており、それが現在まで続いている。

 

 ここに例として挙げてきた鉄道の沿線は、東武鉄道も含め、正直言って、現在繁栄しているとは言い難い。中心はみな新興の地に移ってしまい、町々のほこりもまた過去の栄光にのみある、と言っても言いすぎではない。多少でも人通りが多くなったとすれば、それは、その町の過去の栄光すなわち「文化財」目あての観光客たちであり、その町の「生活」に縁あっての人たちではない。

 要するに、当初の鉄道敷設からは大分おくれてつくられた、こういう言わば過去の栄光の町々をつなぐ鉄道は、今日的な意味では、決してもうからないのである。

 しかし、近世までの「生活」の上に突然敷かれたたった一本の鉄道がかくもその地域を変容させるなどということには、当初はだれも気がつかなかっただろう。なにしろそれは、過去において一度も味わったことのない類の経験だったのである。 

 いま赤字線として切捨てられようとしている鉄道も、国鉄線ではあるが、いずれもかつて栄えた町々をつなぐもの、あるいはかつて人通りのあった街道すじを通るものである。

 

 ところが昭和に入ると、特に大都市の近郊に、それまでにない発想による鉄道が生まれてくる。鉄道が地域を変える、その影響力を初めから計算に入れた鉄道が経営されだすのである。ほほ同じころ、観光客の輸送に目標をしぼった観光線も増えてきた。

 それまでの鉄道が、これまで見てきたように既存の町々をつなぐことを主目標にしていたのに対し、新しく生まれたやりかたは、むしろ人のあまり住んでいない所をねらって敷設される。関西で阪急電車がはじめにやりだした方法で、未開の地に鉄道を使って新たに人を住まわせ、それによって商売をするのである。そのためには、沿線には既存の町などない方が好ましい。東京の東横線もその例で、人を寄せるために大学なども誘致している(慶応大学の日吉校舎など)。最近の田園都市線も同じ考えかただが、もっと巧妙になっている。観光線では先の日光線、関西の南海電車の高野山行、近鉄の奈良や伊勢行、関東の小田急箱根行などがあいついで昭和になってからつくられる。それらの観光対象地が、つまるところは江戸期以来の人々の参拝地だというのはおもしろい。もっとも阪急のように観光地まで新たにつくってしまうのも表われる。宝塚劇場・宝塚歌劇というのは、まさに人寄せのためのものだった。

 これらの鉄道の経営者たちは、それまでの鉄道のように既存の町々を相手にしていたのでは利潤の上らないことを、既存の鉄道群の状況のなかに見てとったのである。それまでの鉄道が本来の意味でのサービス業に徹し、それへの応分の報酬が支払われることによって成りたっていたのに対し、「サービス」が一つの商品となり、その売上げによる利潤確保が目的となってきたのである。人寄せが行われる由縁でもある。これらの新しい鉄道の特色の一つは、たとえば「自由ヶ丘」のごとく、既存の地名とは全く無関係に、ことばがただよわすムードによって駅名をつくりあげ、人々の気持をくすぐったことである。(それは、まんまと図にあたった。) だが、それ以前の鉄道、たとえば東武鉄道には、(最近までは)そういった類の駅名は全くなく、どこも昔からの土地の名がつけられている。

 

 (「筑波通信№9後半」 に続きます。)


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「今日のない明日・・・・近代化ということ」後半  1982年12月

2019-08-16 14:05:02 | 1982年度 「筑波通信」

(「筑波通信№9前半」より続きます。) 

 

「近代化」・‥・その背景をなす二つの発想

 この文のはじめに、鉄道敷設にあたって二つの思想があったように思えると書いたが、その二つとは、いまここで見てきた明らかに異なる二つのタイプの鉄道の背後にある考えかたに他ならない。

 けれどもその二つの考えかたは、これもいま見てきたように、そのはじめから併存していたのではない。昭和になってでてきた新規開発型とでも呼ぶべき発想は、先にも書いたが当初はだれも思い及ばなかったに違いないのだ。実際、この世にはじめて表われた鉄道の及ぼす影響力など、想像を絶することだったろう。もちろん鉄道以前にだって、進歩や改変ということは存在した。けれども、その進歩や改変は、常にその前代を承けた形での変化や進歩であったから、仮に一つの手段に変化があっても、それにともなう事態の変容のさまもまた、十分に感覚的に予測し得る範囲にあった。人々は、進歩や改変を、目の前の現実からスタートさせたのである。考えるまでもなく、今日のありさま(それはすなわち来しかたでもあるが)を基に明日(すなわち行く末)を考えるというのが、人間にとって一番素直な発想なのだ。だから、鉄道の敷設が、単なる交通手段の変革の域を越え(それまでの交通手段の代替としての役割を越え)これほどまでの状況の変化をもたらすなどということは、それこそ字のとおり予想外だったはずである。けれども、この単なる手段の近代化が進んで半世紀、意外な結果があらわになってきたとき、その結果自体を目的化した考えかたが現われる、それ自体を商売にすることができる、そういう発見である。阪急・東急型の考えかたの誕生である。

 現在普通に「近代化」と言うときは、多くの場合、この阪急や東急のやりかたを支えている考えかたを指すと言ってよいだろう。けれども、ここまで見てきたように、明治以降各方面で行われてきたいわゆる「近代化」を全て、この極めて今日的な意味での近代化として理解してしまうことには、私としては賛成できない。当初目ざした近代化では、多少ぎくしゃくした点はあったにしても、未だ「現在:来しかた」に基をすえるという姿勢がうかがえるのに対し、今日的な意味での近代化を目ざすとなると、「現在:来しかた」に基をおくことは、むしろ足手まどいとなってしまう。なぜなら、それに基づく限り、よほどのことでもなければ、「現在」を越えての発展・成長は期待できないからである。すなわちどう見ても「近代化」のなかみ、拠ってたつ思想が違うのである。

 

 そしていま、「今日的な意味での近代化」が目的とされだしてから、いったい何が行われるようになったか。

 そこでは、「現在:来しかた」の徹底した切り捨てがなされはじめたのである。つまり、それぞれの土地に密着して代々人々が成してきたところの「生活」、人々の営為の積み重ね(これを本来は「文化culture=cultivateされたもの、と呼んだはずなのだが)を一切見捨てることであった。そんなものにかかずりあっていては、より高い発展は期待できず、理想とする近代化社会を描く自由が束縛されるからである。そして人々の(旧き)営為の積み重ねには、いとも簡単に「非近代的」というレッテルが張られ、全ての白紙化(言いかたを変えれば、人間の「歴史」の断絶)へ向けて突進しだしたのである。いま私たちが身のまわりに見る「近代化」、「開発」は、全てこの白紙の上の作業である。

 そし、その作業の向う側に、かつての人々の営為の積み重ねが、「文化財」というていのいい名前を付けられて、一見大事そうに放置されている。せいいっぱい観光価値といういう付加価値を背負わされて!

 「近代化」「開発」ということばは、いまやこの今日的な思想で理解されるのが普通になってしまっているけれども、しかし、そういった思想をもって近世まで(あるいは明治初頭まで)の人々の営為を見てしまうことは絶対に正しくない。この今日的思想とは全く逆に、近世までの人々(あるいはもう少し時代が下るころまでの人々)の拠りどころは、常に、その生きている「現在」にあったのだからである。彼らは、「明日」のために、まず「今日」をcultivateすることからはじめたのだ。そして、あらためて言うまでもなく、「人間の歴史」とはそういうものであった。

 

 今日的「近代化」「開発」という作業を白紙の上で平然としている人たちは、いったい何をその作業の「拠りどころに」としているのであろうか。 現在を欠落した未来、過去のない現在、突発的現象としての人々の営為。「歴史」も「土着性」も切り捨て、その上(いつも書くことだが)「主体性」はもとより「感性」までも失ったとき、「近代」はいったい何を拠りどころにするのだろうか。唯一考えられるのは、もうかるという意味での(言いかえれば、投資に倍する以上の利が潤う、あるいは成長率が高い、という意味での)繁栄・発展のために、それだけである。私はここまでの文章のあちらこちらで、繁栄する栄える発展する・・・・ということばを使ってきた。だが、このことばにも明らかに二様の解駅のしかたがあるように思う。いまならば、もうかるという意味で理解さるのが普通だろうが、しかしその解釈を近世までの町々の繁栄発展にまであてがうのは、これも誤りではなかろうか。近世までのそれは、あえて言うならば、「その町で暮す限り、人々は(程度の差はあれ)可もなく不可もなく、大過なく、生活をおくることができる」という意味であったと理解した方がよさそうなのである。もちろんもうかることもあった。しかし、それは目的ではなく、あくまでも結果であった。先に、東武鉄道はもうからない鉄道だと書いた。しかし正確に言うならば、もうかることを目的としなかった鉄道だと言うべきだったろう。結果としてはもうかった。(その証拠に、これは余談だが、東武鉄道の創設者は甲州出身の根津嘉一郎という人物なのだが、彼は故郷に錦をかざるべく甲州じゅうの小学校にピアノを贈ったそうである。もうけがなかったわけではないのである。)ただ、もうけかたが、今日的なそれではなかったのである。

 

そして、いま‥‥

 関東平野を東西に横断すると、二箇所で新幹線を横切ることになる。田園のなかをえんえんと続く柱脚の列。さしづめ現代の万里の長城である。平野は長城により二分される。古代の長城は、少なくともその内側に人々の安住の地を確保しようとした。そのための大地の二分法であった。だが、この現代の長城は、人々の安住の地を、わけもなく二分した。何のために・・・・「近代化」という至上命令のために。多分そこには、たとえ何十年が過ぎ去っても、「風物詩」の一つも生れはしないだろう。柱脚の足もと、「途中のついで」の足もとなど、そこの土地の人々の生活とは何の係わりもないからである。鉄道が、その土地の生活とともにないからである。そしてもちろん、その柱脚の足もとが繁栄するわけもない。かつての鉄道がそうであったように繁栄が沿線に及ぶ、などということもない。繁栄は言うならば沿点に集約されるのだ。それが、それこそが「合理的近代化」の目ざしたことに他ならない。「近代化」とはつまるところ新たな「辺地」づくりである。

  最近の国鉄の特急・急行の増強と、それにともなう各駅停車の削減もまた、辺地づくり以外のなにものでもない。いったい「便利」とは何なのだろう、「便利」とはだれにとっての「便利」なのだろう。

 

 上越新幹線は動きだした。約二時間で雪国に着いてしまうそうである。 トンネルの向うとこちらの気象は、新幹線が通ろうが通るまいが変りはしないけれども、しかしこれによって、「トンネルをぬけると雪国だった」というような新鮮な感激は、人はもう味わう必要がなくなるのかもしれない。

  

あ と が き

先号は少しおくれ、問いあわせなどもいただき、大変恐縮いたしました。物理的な忙しさも峠を越えましたので、平常に戻れそうです。(ここ二年ほど係わってきた知恵おくれの人たちの家の設計がひとまず終り、ようやっと着工にこぎつけたのです。八・九・十月とそれに忙殺されていたのです。)

今号は、少し長くなってしまいました。別に先号、先々号の埋めあわせをしようなどと考えたわけではありません。書いていったらそうなったのです。

ここ数日、冬らしくなりました。関東北辺の山々がくっきりと見えます。この二週間ほどの間に、上州、甲州、安房、とまるっきり方角の違う所へ行ってきました。上州では赤城神社に寄り、目の前に広がる広大な関東平野のその大きさに感嘆し、甲州では、これも目の前に仰ぎ見る富士山の姿にあらためて驚嘆し、そして安房に行く途中の車中では、東京湾岸沿いでいま人々が夢中になって行っている「開発」に慨嘆にいたしました。(安房に行く内房線は、湾岸に沿い台地と低地との境い目あたりを走るのですが、十年ほど前には線路のまわりは大体田んぼでした。田んぼはいま、市松模様に埋立てがすすめられ、住宅が密集しはじめています。埋め立て残った田んぼ・・・・とは言ってももう田んぼとしては使ってないようです・・・・の中に、一羽微動だにせず立っていたしらさぎの姿は、なにか場違いのようでもあり、象徴的でまた印象的でした。それでも、一時間も過ぎたころから、昔どおりの照葉樹林がうっそうと茂った風光が見えてきてほっとします。)

落葉樹の並木の葉もすっかり落ちてしまいました。はじめはまともに北風を受ける側の列の、それも風を受ける側だけが落ち、順次裸になってゆきます。最後には一列片側にだけ葉がついている時期が数日続き、とある朝、すっかり全部が冬姿になり、ゆうべ木枯しが吹いたことが分ります。そんな夜を車で走っていますと、落葉がまるで動物がとびはねるかのようにヘッドライトのなかを横切り、はっとします。寒くなりました。

年が暮れます。毎年いまごろになると、ことしはいったい何かやれたのだろうかと、少しばかり落ちつかない気分になります。

よい年をおむかえください。

〇また、それぞれなりのご活躍を!

          1982・11・29             下山 眞司 


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「第Ⅳ章ー2ー1,2 園城寺光浄院 勧学院 客殿」 日本の木造建築工法の展開

2019-08-07 13:10:11 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「第Ⅳ章-2-1,2 園城寺 光浄院, 勧学院」A4版8頁

 

Ⅳ-2 近世の典型-2:客殿(きゃくでん)建築そして書院造・・・・方丈建築の変形

 世情が安定すると、諸寺院に客殿建築をつくる例が増えてきます。寺院内に設けられる接客を旨とする建物で、中世以来の方丈建築同様、外壁部・間仕切は壁ではなく、ほとんどが開口装置です。

 建物は、外観・形および架構法は禅宗寺院の塔頭:方丈建築に類似しますが、玄関部を本体の屋根に一体に取込むようになります(中門廊と称す)。

 しかし、最奥に構える当主に客が伺候(しこう)するという動きに対応するため、空間の利用法が方丈建築とは大きく異なる点が注目されます。すなわち、方丈建築では、建物南面に配した玄関を上り広縁→上控の間→広縁→方丈(室中)という経路をたどる、つまり南側広縁から正面に向うのに対して、客殿では、玄関を建物側面に置き(多くは東面。玄関を示すのは階段と唐破風のみで唐突な感じがあります)、そこから控の間→次の間→上座の間上段の間へと建物内を横に貫通する動き採るようになります。 

 また、多くの場合、上座の間には押板(おしいた)(床の間の前身)、違い棚が設けられます。

 このような空間内に上・下を明確に区別するつくりは、身分関係:地位の上下関係を重視する武士階級の意に合うこととなり、武家の屋敷内あるいは住居には同様のつくりの接客空間がつくられ、場合によると上座の床面を次の間よりも一段上げることも行なわれます。

 このような、いわば堅苦しい空間で行なわれる接客・面会の気分をほぐすために、後にはそれ専用の場:茶室茶庭を別途に設けることも行なわれます。

 註 このような空間形式のつくりは、一般に書院造と呼ばれますが、武士の住居にも大きな影響を与え、明治以降は、都市に移住した旧武士階級の住居:都市住宅:にも影響が見られます。

 以下に、客殿建築書院造の代表事例を見てゆきます。

 

1.園城寺(おんじょうじ) 光浄院(こうじょういん) 客殿 1601年(慶長6年)建立  所在:滋賀県 大津市 園城寺町

 園城寺は、天台宗の寺院、通称三井寺(みいでら)(三井の晩鐘などで有名)。

 寺内にあるこの建物は、書院造の典型原型と言われている。

園城寺 光浄院 位置  図の印が光浄院  南西に伸びる水路は京都への琵琶湖疏水   国土地理院1/5万地形図より

 

配置図   西澤文隆実測図集 日本の建築と庭 より 

図の上方(北)の建物が庫裏(くり)、下方(南)が接客専用の建物 光浄院客殿。 

 

東南からの全景 手前が中門廊 右側の階段が玄関  原色日本の美術12城と書院より  

 

    

東面全景 唐破風・階段のところが玄関      日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

 上段の間 日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

上座の間 正面   日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより転載・編集

 

 光浄院客殿では、上座の間から広縁に飛び出した小室を上段の間と呼んでいる。この場所を書院書斎にあたる)と言う。

 一般には上座の間上段の間と呼び、広縁側への飛び出しは、出窓様のつくりで済ますことが多い。その場合を付書院(つけしょいん)と呼ぶ。

 

 

桁行断面図 印は  小屋貫は表示せず   ではなく化粧桁化粧肘木上)ただし同様の働き

 

 

平面図 基準柱間 芯~芯6尺5寸2分  平面図・断面図共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより転載・編集 

 訪問者は、玄関~玄関の間(六畳)~次の間~上座の間へと進む。西側以外に壁はなく、間仕切も含め、すべて開口装置。 六畳の間を、鞘の間(さやのま)と記してある図もある。

 

 

梁行断面図 印は  ではなく化粧桁化粧肘木上) ただし広縁部は化粧貫 いずれも同様の働き 

 

広縁の西端につくられた上段の間の突き出し 

 

 

 広縁東端の中門廊 板戸の左手が六畳玄関の間:鞘の間)  写真は共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

矩計図は共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

参考 匠明(しょうめい)の示す書院造の諸寸法の決め方      伊藤要太郎 著  匠明五巻考(鹿島出版会)より

 

 匠明は、現存する江戸時代の木割書の一つ、江戸幕府に仕えた棟梁平内(へいのうち)家に伝わる1608年に書かれた書。

上図は、そのなかの主殿:殿舎の諸寸法の決め方を図示したもの。基準を柱径aとして、他の材の寸法を含め、諸寸法を決める。

      

しかし、この指示どおりの事例はない。また、この指示寸法で設計すると、異様な姿になる。実在の事例では、後出の表のような数値になっている。

 

                       写真・図は共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

  

室内床面との段差切り替えに設けられる材を切目長押(きりめなげし)と呼ぶ。 建具は、外側の切目長押~内法付長押間に蔀戸、内側は、敷居~内法付け長押間に明り障子を入れる。付樋端(つけひばた)。なお、この明り障子は、見込1寸強を二分し、一本の溝内で引き違いにしている。

 

参考 方丈、客殿、書院造 諸事例の柱間と柱および内法貫の寸法 

 

 

 

2.園城寺 勧学院 客殿 1600年(建長5年)建立  所在:滋賀県 大津市 園城寺町

 園城寺の学問所:教場として建てられた。三の間~天狗の間の列が客殿の役を担う。天狗の間付書院押板がある。

平面図 基準柱間 芯~芯6尺5寸1分   平面図・断面図・モノクロ写真は日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 

梁行断面図 広縁~二の間の断面 

 

 

広縁を望む 右手の突き出した部分が中門廊 書院はない    

    

東南からの全景 右手階段部が玄関           カラー写真は原色日本の美術12 城と書院より

 

中門廊から見た広縁 入隅の柱を抜いている  小壁の中段の横材は化粧貫 

 

二の間より一の間 正面  押板だけ、違い棚付書院は設けていない  付長押の裏側に貫              

 

竜銀庵方丈など方丈建築と同じ架構法であることが分る。

 

桁行断面図 天狗間~東広縁の断面            日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより

 


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「 『身』も 『心』も 」 1982年11月

2019-08-01 13:28:25 | 1982年度 「筑波通信」

 PDF「筑波通信 №8」1982年10月 A4版6頁 

        「身」も「心」も          1982年度「筑波通信 №8」

 健康であることを言い表わす言いかたに「心身ともに健やか・・・・」という常とう句がある。まさに字のとおり、身体も精神もともに健やかであるということである。けれども、日ごろ私たちがこのことばを使うとき、私たちはなにもわざわざ己れを身と心とに分けてそのそれぞれの健やかさを確認し、あらためてその結果を総合し・・・・などという過程を経て言っているのではない。まったく単純に自分が(あるいは他人が)健康である様を言うのである。「お体を大切に・・・・」と言ったからといって、だれも、「心」の方はどうでもよい、などと思っているわけでないのと同じである。それが常とう句というものの性質でもある。

 しかし、先日のこと、大学時代の恩師からの葉書に「心身ともに健やかなご様子・・・・」の一節を認めたときの私の思いは少し違っていた。この「心身」ということばが、とりたてて私の目をひいたのである。

 それというのも、その葉書を読んだ前日の新聞で、ここに引用する文章を見たばかりであったからである。

 

 ご存知の方が多いと思うが、これは、大岡信氏による古今の詩歌の紹介のコラム「折々のうた」の一編である。わずか二百字たらずの文章による氏の評釈は、紹介される詩歌とともに、私にとって毎朝のたのしみである。はじめて知ったうたはもとより、なじみのあるものも、あらためて新鮮に見えてくる。

 閑吟集なるものの存在は知っていても、内容も知らず読んだこともなく、もちろんこのうたにははじめてお目にかかった。

 はじめこのうたにざっと目を通したとき、(無粋にも)なんのことなのかとっさには分らなかった。評釈を読んで納得。もう一度うたを読みなおして、あらためてものすごく納得。読み人の情景まで浮びあがり、思わずほほえみがわいてきた。読み人がなんともいとおしく、そしてこの想われ人がねたましくさえ思えるではないか。

 だが、無粋な私は、このうたにひどく納得すると同時に別のことをも思っていた。正直言って、己れ自身を「身」と「心」とに分けていることに、いささか奇異な感じを持ったのである。現代に近い時代ならまだしも、もうこの時代(閑吟集は室町時代:1500年代初頭の編だという)に己れを身と心とに分けてみる見かたがあったのかと、いささか驚いたのである。それどころか、評釈によれば、既に平安時代にも同趣のうたがうたわれているというではないか。少々認識不足だったようである。いまの私たちなら、というより現代では、だれでも人間を身と心とに分けることに慣れてしまっている。心身障害、心身症・・・・だれも疑わない。むしろ、そのようにものごと(人間を含めて)を分けて見る見かたこそ、まさに現代の現代たるところのものである。こういう一見現代風な見かたがそんな昔からある。これはいったいどういうことなのか。

 

 ある一人の人間のなかに、己れを身と心とに分けて考えるという見かたが生まれるなどということは、よほど自己を見つめるという作業をおしすすめない限り、そうすんなりとはでてはこまい。人々の多くは、己れが生きてゆくこと自体のなかで、己れ以外との対比を通じて辛うじて己れを知るのがせいいっぱいのはずで、ことによると、己れだけがあって他との対比さえしないかもしれない。おそらくそれが、古今に拘らず通常ではあたりまえだろう。だから、それを越えて、己れを身と心とに分け、その対比で見るというのは、言うならば相当次元の高い状況においてのみあることのように、私には思われる。そうだとするならば、そういう見かたがでてくる背景、時代の状況についての興味がわいてくる。

 身と心とに分ける見かたが、いつごろから現われてくるのか、詳しくは知らない。平安期には既にあったという。けれども、その時代、人々がみなそういうように思っていたとは、とても思えない。そういう時代のようには思えない。多くの人々にあったのは、せいぜい己れということの認識ぐらいではなかろうか。「身と心」という認識を持ち得たのは多分限られた少数のいわゆる「教養人」だけだったろう。その「教養」は、おそらく仏教の教えに触れることによって得たそれで、かならずしも自らが自らをつきつめて得た結果ではなかったのではないだろうか。その時代の「身と心」のうたも、言ってみれば、そういう「教養」として得た「身」と「心」という概念の論理的操作のおもしろさによったうたづくりであったように思えてならない。その論理が伝わってくるだけで、たしかに論理的に言いたいことは分っても、読み人の想いを直かに伝えるという点では、なにか弱いのではないかという印象を持つ。その点、万葉の恋歌の直裁的な、まさに己れの想いのたけをぶつけたようにうたいあげた歌の方が、論理を越えての強さがあるように思う。うたいあげたいことのなかみそのもの、それがそのままことばとなり、表現上の技術的な操作などは消しとんでしまっている。詳しくは知らないが、おそらく、万葉の時代、たとえ「身」ということば、「心」ということばが存在していても、己れを身と心とに分けて見る見かたとはおよそ無縁な時代であったのではないか。己れを代表せしめるのに「身」をもってしたり、あるいは「心」をもってすることはあっても、決してその二つの足し算とみなすようなことはなかったにちがいない。

 

 この閑吟集のうたの場合は、これもまた身と心という二つの概念:ことばの論理的操作であると言えば言えなくもないが、しかしこれは単なる論理的操作(のおもしろさ)を越えて、素朴に強く恋人への想いを伝えてくるように、私には思える。単なる歌の題材:対象の一つとしてたまたま「恋」が選ばれた、あるいは恋人への想いという「題材」を「身」と「心」ということばをもって言い表わすならこうなる、というようないわば表現技法演習的なものではなく、いかんともしがたい恋人への想いのリアリティそのものがことばになった、そういうように感じられるのである。

 既にこの時代、おそらく、己れを身と心とに分ける見かたは、単なる「教養人」の教養としての「知識」ではなくなり、より一般的に、いわば人々の身についた見かたになっていたのかもしれない。というのも、中世という時代が、どうもそういう世のなかであったようにも思えるからである。宗教の説く解説が、単に宗教の場面にのみ、従ってそれに触れ得る特定の人々にだけ通用するのではない時代、己れをそのように見つめてなんの不思議でもない時代、またそうしなければいられない時代。よく、ある時代にある宗教が普及し、また別のある時代には他の宗教が流布したというようなことが、いとも簡単に言われるのだが(学校で習った歴史ではだいたいそんな具合だったように思う)、しかし、ことはそんな簡単なはなしであるはずはなく、人々がそれを必要としないような状況では、宗教家がいくらがんばったところで、そんなに容易に普及するわけがない。

 実際、この閑吟集が編まれる前、十三世紀ごろから、世のなかは、拠るべき(古代的)秩序もくつがえり、たよるは己れしかない、生きるため、生きかたとして、己れを見つめ、自己を確立せざるを得ない時代になっていたのである。時代が、人々をして自己を見つめさせ、主体性の確立をせまった、そう言ってよいだろう。選ばれた人だけではなく、ほとんど全ての人がその必要にせまられていたと言ってもよいのではないか。そうだからこそ、そういう時代の状況に見合った宗教の解説が(単に一宗教としてではなく)自ずと広く広まったのだろう。そういう時代をうけて編まれた閑吟集(当時の俗謡の類を集めたのだという)のなかに、あの「身と心」の恋歌が現われるというのも、おそらく、極く自然ななりゆきだったのである。

 

 それでは、いま私たちが「身と心」という見かたをするのは、そしてそう見るのをあたりまえに思い、とりたてて不思議とも思わないというのは、私たちが(あの中世の人々のように)己れをとことんつきつめざるを得なかった結果としてなのか、それとも(あの平安人たちのように)それを「教養」として知っているからなのだろうか。

 そのいずれとも異なるように私には思える。

 

 私たちはいま、少し大げさに言えば生まれ落ちたそのとき以来、全てのものごとをそれを構成する要素に分けてみる見かたを教えこまれる。いわゆる「科学的」な見かたである。というよりもむしろ、そういういわゆる「科学的」なものの見かたの結果としての「諸要素」「諸知識」が、それこそ山のように群れをなして私たちの目の前に積まれている。そしてその量は増えるばかりである。「科学的な子どもたち」を育てようとして、いま学校では、これら「科学的諸知識」をいかに効率的に覚えさせるかという点に全精力がつぎこまれていると言ってもよいだろう。いまの子どもたちが覚えなければならないことがらの量は、私の子どものころのそれに比べると、まさに驚嘆に値する。そういう教育が行われる根底には、「科学的であるためには、科学的な知識の総量を増やさなければならない」という信仰があるとしか思えない。 学校を終えれば、あるいは(入学)試験が済めば御用済となる知識を教えたところで、「科学的」になるわけがない。であるにも拘らず、その信仰は衰えるどころかますます盛んになっている。そして、その結果として、その目標とする「科学的な見かたをする子ども」とは全く逆に、サン・テグジュペリがいみじくも言った(昨年7月の「通信」N0.4に引用)ように、単なる「えせ物識り」=辞書的人間、端的に言えば「非創造的」「非科学的」な子どもたち、自らものごとを認識しようとするのではなく与えられたことがら(知識)を「操作する」ことだけにたけた子どもたち(私はこれをマーク・シート人間という)が生まれてくる。

 言うまでもないことなのだが、「科学的である」ということは「科学的知識を身につける」ことではない。たとえて言えば、「単語」をいくら覚えても、「文法」にいくら精通しても、「言いたいこと」が確としてないと、ことばは使えない。外国人のかたことの日本語が私たちに通じることがあるのは、彼の「言いたいこと」が分るからで、その「ことばの形式:文章」が分ったからなのではない。そして、「言いたいこと」とはすなわち私たちのものごとへの「認識」の結果に他ならない。そして、まさにこの「認識」を深める、自らが自らのものごとへの「認識」を持つ、そうあるべく努めることこそ本来の意味の「科学的」ということの内容ではなかったろうか。因みに、科学の「科」の字の意味することは、ものごとを一定の基準によって分類・区分することだという。一定の基準が天から降って先験的にあるのではない。それは、ものごとを分けてみようとする主体が自ら設けるものだ。つまりその人の「認識」のしかたなのである。

 しかし、いま「科学的」ということばを使うとき、この本来の「科学」の意味は忘れ去られ、専ら「自然科学的」の意味が優先してしまう。(これはまことに「非科学的」な現象である。)だが、自然科学もまた、人間のものごとに対する(特にいわゆる「自然」に対する)「認識」の一形式にすぎず、人間の「認識」はそれで全てではないのはもちろんである。

 

 私たちが「身と心」を気楽に使うとき、「心身障害」などと簡単に言って済ますとき・・・・、はたして私たちはそれを言う前に「認識」を持っていたか。人間というもの、あるいは己れという存在についての「認識」を持っていたか。否である。万葉人も、平安人も、そして中世の人も、自らの想いを語るについてそれぞれの形式はとっているが、いずれにしろ、その根には「自らの」想いがあった。「主体」があった。そこが違うのである。

 いまは、自らの想いなどとは関係なく、「人間って身と心に分けられるんだってさ」とばかり、それになんの疑いもさしはさまずに、それに従ってしまうのである。そうなのだ、「科学的」であることの根本は「不思議に思う」ことなのではあるまいか。そして、「不思議に思う」には、他のだれが何を言おうと不思議に思う、「思う主体」が不可欠なのである。いまはこの「主体」がない。「主体」があって、すなわち、まずもって一人の人間が在ったうえでの「身と心」なのではなく、「身」と「心」との単純な足し算としての人間?が考案されている。

 

 ここ数年の間、いわゆる心身障害者を子どもに持つ父母たちの集まりとおつきあいする機会があった。その会合には、このいわゆる心障者の子どもたちも同伴されてくる。彼らは会場の一隅にいて、自らの世界にふけりながら、会合の終るのを待っている。数回の会合を重ねるうちに私はあることに気がついた。子どもたちのなかに、いつもことばにならないことばを発し続けている子がいた。その子の発することばの調子が会合のふんいきに応じて、どうも微妙に変化しているように、つまり、会合のなかみがなごやかで談笑しているようなときは明るく高らかに、とげとげしくなればきつく、白けてくれば沈静する・・・・といったように感じられたのである。彼はみごとに(なかみそのものはともかく)ふんいきを察知している、そのように思えるのである。私は(内緒のはなしだが)会合の方をそっちのけにして観察を続けた。やはり、どうみてもそうなのである。正常な人たちのなかには、場のふんいきなどこれっぽっちも分らない、分ろうともしない人たちがいるというのに、いったいどういうことだ。彼の方が高級な感覚を持っている!これは、通常の意味で言えば「心」がなければできないことだ。いったい「心身障害」ということばはなんなのだろうか。私は分らなくなった。相変らず分らない。ますます分らなくなってきた。

 ラベルを(勝手に)つくって、ものにはりつけることはたやすいことだ。しかし、ラべルをはったからといって、それは決して「分った」わけなのではない。まして、「私」の認識を経ないあてがいもののラベルで扱い済ますぐらいおかしなはなしはない。いまの世のなか、「私」を忘れたラベルが多すぎる。まずもって「私」があり、そして「わが身」と「わが心」があるのである。その逆はない。あり得ない。

 

 あ と が き

関東平野の夕日はすばらしい。そして、それがとりわけすばらしい季節になってきた。東の空から西の空へ、星がまたたきはじめたかすかに青色を秘めた黒い色からほんとに燃えるような火の色へと、その途中をありとあらゆる色に染めて、見事な天空がひろがり、見る見るうちに変ってゆき、やがて日は完全に平野の向うに没してしまう。あとには夕やみがせまり、なんの煙か、地表数メートルの高さに白い帯がただよっている。やがてそれもやみのなかに消え失せる。家々の燈りがここかしこに見えはじめる。まだ家々をかこむ林のかげも認められる。そしてそれも定かではなくなり、夜のやみにつつまれる。このほんの数十分の光景は、人の足をとどめるのに十分である。夕日がすばらしい日、近くの建物の屋上に、きまって一人、二人と人がよってきて、じっとこの光景に見入っている。というより、浸っている。私も好きだ。

日が沈み、日が昇る。その光景に日ごと浸って生きる人たちが天動説でその現象を考えたというのもよく分る。天動説より前に地動説は絶対に生まれなかったろう。しかしいま、子どもたちまでもが、それこそものごころついたころから、したり顔の地動説だ。それをして「科学的」と呼んで、はたしてよいのだろうか。日が沈みまた日が昇る、それにまず感激し、そして不思議に思う。そのことのない人たちに「科学」の心ははたしてあるのだろうか。日の出、日の人という現象に「非科学」的な説明をもってこたえようとした未開の人々の方が、てんから地動説の現代人よりも、ことによると、数等「科学的」なのかもしれないとも思う。

弱い、少数を尊重しないで、自由も平和もありません。一つの少数が抑圧されてしまったら、次は、新たな少数が抑圧されるだけですものね。・・・・・ダーヒンニエニ・ゲンダーヌ(北海道に住む少数民族、ウイルタ族)さんのことば。朝日新聞10月25日付夕刊。

決して絶望せず、しかも決して過度の希望も持たず、いかなる状況においても屈伏しないで日々の仕事を続ける。・・・・いろいろといささかくたびれかかった私の状況を察知して、こういうことばがありますよ、とわざわざ書き写して贈ってきてくれた人がいる。要するに、くたびれるとはなにごとか、というわけ。

それぞれなりのご活躍を!

        1982・11・2         下山 眞司   


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