「流山の素浪人」の時々雑感・日々雑感

初老になった私の身の回りで起こる、何気ない出来事をブログにし、回転がめっきり遅くなった脳みそに「喝」を入れたい。

秩父札所巡礼に行ってきた

2019年03月22日 12時25分22秒 | 日記

午前中は小雨模様の天気予報だったが、10時頃に秩父鉄道の和銅黒谷駅に

つく頃には青空も見え、気温がぐんぐん上がってきた。

札所巡礼初日は、和銅黒谷駅を出発し、1番札所から5番札所までの5寺を

徒歩での巡礼となる。

1番札所の「四満部寺」へ、街並みを抜け田畑脇を通り、約1時間で四満部寺に到着、

四萬部寺(しまぶじ)は、発願寺らしい華麗な観音堂で知られており、元禄10(1697)年

建立だけあって、風格が感じられます。

 

次は、高篠山の中腹にひっそりと経つ真福寺ですが、ここへの山道は舗装されているが

急峻で、約1時間の登りが続き息が切れ、汗が吹き出します。

参道には、少し時期は遅かったが紅白の梅と花モモが咲き乱れる桃源郷です。

12時となり花モモの花を見ながらお昼を採ることに。

ここからは、のぼりとは反対に急峻な下り坂、そして3番札所の常泉寺へ、観音堂を

見上げると、鳳凰、上り龍、下り竜と風雪に耐えてきた彫り物はお見事です。

 

また、寺宝の子持石は抱くと子宝に恵まれると言われていますが、我々には関係なさそう。

4番札所の金昌寺へ、大きなワラジのかかった立派な仁王門をくぐると、1,300体もの

石仏に目を見張ります。石仏の中には大杯を頭上にかざしてなんとも言えぬ顔をしている

ユーモラスな禁酒地蔵(酒呑地蔵)もあります。 

  

そして今日最後の5番札所の語歌堂へ、街中にひっそりと佇んでいて、危うく見逃す

ところだった。

ここにお参りをすると和歌が上手になるという言い伝えがあり、小さな仁王門と観音堂は

文芸や学問上達を願う人が多く訪れるそうです。

  

朝10時過ぎに和銅黒谷駅を出発し、今日のゴールとなる大野原駅に15時30分に

無事到着したが、上り下りが厳しく、股関節と足の筋肉が悲鳴を上げていた。

全行程14Km、2、500歩だった。

秩父34寺を巡礼したいと思っているが、さて無事完結できるか心配だ。



 

 


東日本大震災から1年経った福島原発事故避難区域に入る(その1)

2019年03月11日 16時57分30秒 | 日記

 今年も3.11がやってきた。東日本大震災当時の記録として、当時の投稿文章をブログに残します。

東日本大震災から1年が経過した3月16日(金)、東京電力福島第1原子力発電所の20Km圏内を

車で移動しながら現地訪問をレポートします。

 今回、どうして避難区域に入ることになったかと云えば、福島第1原発20Km圏内から私の住む

流山市に避難してきた南相馬市小高地区の人と知り合い、甚大な津波被害を受けた上に、原発事故で

緊急避難地区となった小高地区の現状を一人でも多くの人に知ってほしいとの願いから、

申請書類の作成から、何から何までお世話になり、現地訪問が実現した。

 一時帰宅者の、警戒区域滞在時間が5時間以内、と決められていることから、早朝5時に流山を出発、

常磐高速を使い富岡インターまで、途中休憩で飲み水を調達し約2時間30分、警戒区域に入るゲートと

なっている

 

「道の駅 ならは」で、白衣の防護服に着替え、各自に放射線積算カウンターの貸与を受けると、

これから放射能に汚染された警戒区域に入るのだと、改めて実感するとともに緊張する。

ただ、「道の駅ならは」はトイレ利用ができる程度で、売店も自動販売機も稼働していない

ここは販販売制限区域となっており、やはり飲料水を途中調達してきたことが大正解だった。

 8時15分、役場職員の誘導に従い二度、三度の確認と注意事項の説明を受けるが、

みんな親切で「ご苦労さまです」「お気をつけて」と声をかけてくれる。

でもマスクをしている人は2割程度で、やはり放射能に麻痺しているのではないかと心配する。

 5時間以内に入門したゲートに帰って来ないといけないことから、持ってきた3台の放射線測定

カウンターのスイッチを入れ、早々に出発。<車内:0.25マイクロシーベルト>。

 富岡市内に入ったとたん2台のカウンターがピーピー鳴り出し、表示される数字が跳ね上がります。

6号国道富岡市役所交差点<車内:2.03マイクロシーベルト>。

桜の名所、夜の森交差点<車内:3.11マイクロシーベルト>。

9時、大熊町に入る。 ますますカウンターの数字が上がり<車内:3.87マイクロシーベルト>。

右に福一原発の排気塔が見え隠れする国道6号<車内:12マイクロシーベルト>。

双葉町に入る手前で最高値を示す<車内:15マイクロシーベルト>。

双葉町山田地区走行中<車内:6.15~15マイクロシーベルト>。

低地で高くなり、登り坂の上では低くなる傾向がみられる。

双葉町から左折し、浪江町の山側に向かう。原発から離れていくが、線量は低くならず、

結構高い値を示し続ける。<車内:3.50~12マイクロシーベルト>。

 里山に入り、常磐高速の真っ白いコンクリート橋が見えるが、通行止めで、走る車は見えない。

その時、私たちの車の前を野生化した牛が3頭、5頭と道路を横断する。

 TVのニュースで見ていた光景と同じだ。ほとんどの田畑は茶色に枯れた雑草が生え茂っているが、

野生化した牛が草を食べる田畑は雑草が伸びていなく、牧草地のようだ。

 今回お世話になった人の生家が、高速道路の橋脚のそばに建っているが、進入道路が陥没して車が入れない。

現地確認は諦めて300m程の所から眺めるだけ。

 近くの民家では、洗濯物が干したままで放置されている、子供の服も干されたまま、当時は相当慌ただしく

避難したことが伺える。でもあれから1年がたっても一度も家に帰っていないことが悲しい。

 山道に入り、道路が陥没しているところが非常に多く、ロープが張られたり、簡易的にガードされているが

慎重な運転を要する。

福一原発から10Km程度の山道でも、谷間で<車内:12~25マイクロシーベルト>。

高所で<車内:3.50~8.00マイクロシーベルト>。

放牧牛の殺処分で話題になった「吉沢牧場」では、放牧された牛がゆったりと枯草を食べている。

牧場入口には殺処分反対の立て看板や牛の頭蓋骨で作ったモニュメントがある。

<地面:1.9~2.1マイクロシーベルト>。

 今回の目的地である小高地区の実家に帰る。飼っていた猫の姿が見えない、

置いておいた餌はなくなっているので、生きていると一安心する。

 家の周りには、フキノトウが芽吹いている中、先日降った雪が残っていた。

屋根の瓦も無事で、石積みの塀の一部が壊れている程度、今日からでも住むことができる

状態を保っているが、家の中はカビ臭く、長い間人が住んでいなかったことがわかる。

 庭先で作っていた家庭菜園も雑草が生え茂り、野菜のほとんどを自給していた菜園の面影は

なくなっているが、雑草の中ニンニクだけが緑の芽を出していた。

 雨樋の流れ落ちる所の放射線量は高い。<地面:7.52マイクロシーベルト>。

 あと残り時間は2時間ちょっと、里山を下る途中民家の庭を走るサルを見つけた。

ふつうこんなところでサルなんか見たことがなかったと、サルの食べ物が納屋に残されて

いることから、無人となっている街の近くまでサルが山から下りてきているのか。

常磐線小高駅近くのメインストリートに入ると、今まで見てきた光景が一変する。

地震で崩れ落ちた民家が3.11当時の姿を留めている。傾いて今にも倒れそうな家が何軒もある。

半年前に来た時より倒れている家が多いように思うと話す。

 

常磐線の高架橋にさしかかると、目前に津波で押し流されてきた瓦礫と自動車などが、海水は引いて

湿地帯のようになっているが、当時の姿そのままで残されている。

さらに進み、原町区の小沢と堤谷「ここには100戸を超える集落があったはず」というが、

津波に押し流されて寸断された道路の海側に残されているのは集会所一棟のみ、全く人の住んでいた

形跡すらない。

 

高台まで打ち上げられた小型ボートを見ると、津波の高さは10mを超えていたのではないかと思われる。

次に、松原を背景にきれいな海水浴場のあった村上地区へ、 比較的大きな家を持つ農家を中心に

100戸近くが住んでいたそうだが、

海水に浸かった荒涼とした湿地帯があるだけ、温泉施設があった場所は建物の基礎すら確認できない。

そして、湿地帯の中に瓦礫が集められているが、自衛隊や警察の皆さんが胸まで浸かりながら行方不明者を

捜索した名残りだという。あちこちに集められた瓦礫の小山に旗が立てられている、捜索が終わったしるしだ。

もう声も出ない、車の中から思わず手を合わせ、亡くなった人のご冥福を祈るとともに、

行方不明者の一日も早い発見を祈るだけ。

 

津波に押し流され、腹を見せた状態の自動車や農業機械がいたる所に放置され、

一階が柱だけになった家屋がそのままの姿で、窓のカーテンだけが風に揺れている。

村上地区  

村上地区では、道路に設置されていたはずのガードレールがすべてなくなり、

湿地に落ちるのを恐れ道路の中央を走る。

 国道6号線に戻る交差点には、信号機の柱に絡みついたワゴン車と乗用車が無残な姿で放置されている。

信号機の柱に絡みついたワゴン車  

あまりの悲惨な状況に、放射線量を記録することを忘れていた。それほど生々しく、

悲惨な光景が震災後1年経っても残っていることにショックを受け、地震に津波を加え、

原発事故という人も寄せ付けない現状に、当地の復旧・復興にはまだまだ長い時間がかかることを心配した。

帰りに東電福島第1原発の正面玄関ゲートに寄ってきた。

福島第1原発の正面玄関ゲート  

途中は30マイクロシーベルトを超える場所があったが、玄関ゲートでは1マイクロシーベルトを少し超える程度、

ここは除染しているのではないかと思った。

 南相馬市小高地区から国道6号を、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町を通り、「道の駅ならは」に戻った。

全行程4時間30分だった。

 貸与された積算線量カウンターは「8マイクロシーベルト」を示していた。

これが、体にどのような影響を与えるのかわからないが、一時帰宅者でも20マイクロを超える人も

いるとの話だった。

なにはともあれ、南相馬市小高地区は3.11以降時間が止まってしまっている。

地震と津波の悲惨な被害が今もそのままの状態で残っている。そして、この地区での原発事故が大きく

取り上げられるが、小高地区の状況はニュースに取り上げられることもなく、忘れ去られていることに

「やりきれない気持」を持った。


2ヶ月近く振りの投稿で、お久しぶりです

2019年03月09日 10時54分05秒 | 日記

1月25日に行われた「流山市ゆうゆう大学」の卒業以来の投稿です。

2月に入り結構忙しい日々が続き、ブログアップが面倒臭くなり、とうとう3月と

なってしまいました。

2月は、持病の循環器系定期健診、自治会の餅つき大会の準備に始まり、当日は

300人近くの老若男女で大いににぎわいました。

  

それから、サラリーマン時代のOB会の総会に向け議案書の作成、ゆうゆう大学の

卒業謝恩会、 

「千葉県生涯大学」で一緒に学んだ仲間男女7人での、房総一泊旅行、

   

(小湊鉄道)  (いすみ鉄道) (勝浦雛祭り会場) (鴨川シーワールド)

4月の自治会定期総会に向けて議案書作り、そして、毎週金曜と土曜日は相変わらず

女房殿と二人でワインカフェを営業しています。

4月からは、生涯大学のOBで組織する「学習会」に月に一度、片道1時間かけて

千葉市に通う予定。

今後、ボランティアリーダー研修会、自治会定期総会、サラリーマン時代のOB会の

全国大会と地区定期総会等々、スケジュールがびっしり詰まっている。

忙しいことは「元気の素」とはいえ、少し忙しすぎることを女房殿が心配している。

でも、元気に動ける間は、世のため・人のため、そして自分のため、女房殿のため、

これからも出来る範囲で頑張っていきたいと考えている。