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置く、措く、擱く

2018-07-31 | 文法文章論
措定の意味に措辞を思う。その字そのものに、おく とはどうすることか。措定は哲学の用語、論理学からドイツ語の翻訳語となる。   >そ‐じ【措辞】の意味 出典:デジタル大辞泉(小学館) 詩歌や文章などの、言葉の使い方や辞句の配置のしかた。「巧みな措辞」「措辞を練る」 . . . 本文を読む

日本語論67 日本文法助辞「は」 

2018-07-31 | 現代日本語百科
日本文法助辞「は」と口語法助詞「は」  いまここに形態論の用語にある接辞のうち、日本語類型による膠着現象に特徴を持つ、国語で助詞と分類される付属語「は」について、日本語助辞waとする。この表記は日本語助辞「は」について、発音の混同を避けて便宜、助辞waと用いる。ハ行音のワ行音への点呼は語中語尾における現象である。助辞waについても、音韻変化によって文法機能辞の熟合すなわち熟語として、語形式とみることができ、音のままに表記する。  日本文法の説明に助辞について、この用語をもってする先行文献があるので、触れておかなければならない。松下大三郎氏による日本文法研究書の緒言に触れるところである。そこには、「助辞」として言及し、それまでの文法の分類で品詞扱いをすることへの疑義を指摘している。明治30年、西暦で1905年にはすでにその発想を得ていたことがわかる。その後に「標準日本文法」を著わし、大正13年、昭和3年を経て昭和5年、1930年には「改撰標準日本文法」として訂正版を刊行している。 . . . 本文を読む

エドテック

2018-07-31 | 新語・社会現象語
江戸テクと変換が出て、エドテックとなおす。教育、科学技術だが、Education Technolog、教育とテクノロジーの造語となる。この略語が意味するのはビジネス領域で、パソコンで実現する融合技術を、教育に実行する分野となる。どうするか、端末機器のブラウザ上で完結してインタラクティブに行うことを提供する、となる。プログラミングの勉強、オンライン動画を見て勉強と、パソでなくてタブレットになるところから、スマホの延長にある。ICT、Information and Communication Technology教育と言ってきたが、衣を替えたわけでもなかろうに、2020年までに小、中学校で1人1台タブレットを支給するという文科省の方針によるところが大きい。>ネットを通して高水準の教育を、誰にでも無償で、どこででも受けられる動画サービス。初等教育から大学レベルの講義まで、物理、数学、生化学から美術史、経済学、ファイナンスまで、内容は多岐に渡っている(wikipediaから引用) . . . 本文を読む

パパ活の用語

2018-07-30 | 新語・社会現象語
インターネットテレビのドラマだそうだ。ウイキペディアによると、女性が経済的に援助してくれる男性、ここで、いわゆるパパを探す活動を指す俗な言い方とある。パパという語のニュアンスがつかめない。そして、援助交際の女性目線の言葉として、肉体関係の有無を含めどのような支援をして貰うのか交渉を行い支援をして貰うことだそうである。2017年に放送されたドラマ作品を知らないと、用語もわからないか。辛坊議長のNP、そこまで言って委員会に、アイドルだった若い女性が、と言っても、早婚をする、お金は自分で稼ぐ、という主張をかかげて、事業主になるからパパ活を認めろ、とか言っていたので、それは何だろうと、朝活、夜活、就活、妊活と、カツカツしている世相の流行語である。ついでに、その番組で、官僚の飲み会に付き合う女性官僚が、その席にいるための残業代をつけろ、などとも言っていた。さて、隠語として、P活、P などと言うそうだが、P活女子なのか、パパ色思い、パパ活歴2年ちょっと、現在継続中25人、とあるサイトより、不可思議な情報がある。  . . . 本文を読む

現代の政治状況は

2018-07-30 | 思い遥かに
2007年から始まった。11年前、2007年参院選挙が行われた7月29日から、二大政党制がいびつになり始める。選挙の記録を検索すると、衆議院・参議院 選挙の歴史 | NHK選挙WEB というサイトがあった。参院に続き衆院選挙で議会のねじれ現象が起こり始める。 . . . 本文を読む

日本語論66 コピュラ

2018-07-30 | 現代日本語百科
日本語のコピュラは何か。繋辞という。文法用語であるから、そのものを指す。すなわち、~ハ~ダ となる。コピュラに着目をした明治期の文法学者の慧眼による。論理学が言語形式に合わせて分析をする。分析を受けるのは、日本語では意味的に当てはめているから、コピュラ構文という呼称ができる。この日本語構文は形式をとることを指すので、その繋辞なるものは、主辞、賓辞、繋辞の語順の位置にあって、用語の解釈に揺れを起こすことになる。さらにそれだけでなく、議論が日本語にあわせたものと、日本語そのものの現象の部分を切り出したものとなる。コピュラは、形式上、AハBデアル とする限り、意味上の存在動詞にだけ、合わせて、議論するのは不可解なことになる。A、Bデアル と表現して等置することがあり、AガBデアル という形式もあって、無助詞とすること、主格を明示することと、同様に議論して、辞書義において誤解を起こさせている。日本語文法の根幹を捉えることがない。 . . . 本文を読む

笑いのツボ

2018-07-29 | ほんとうのところは
ツボにはまる、そのツボとは、壺に嵌まる であると、その壺であるところに嵌まる、ということは、落ちこむ、陥ることになる。それはよしとして、笑いのツボにはまるときはどんなときか。笑いのツボに入らない俺が完全にツボった理由を徹底検証、という、ブログのタイトルがある。さて、ツボを押すと、このオスは圧すのことだが、そうなると、壺は指圧のツボの捉え方である。足つぼマッサージとか。さてさて、そうなると、赤ん坊の笑顔は最高に良い、その笑顔はどうすれば見ることができるか。赤ちゃんの笑うツボはどこに。笑い話が人を笑いに誘うのは、意外性、新奇性、衝撃性、斬新生、古臭い、ださい、しくじり、などの、説明が合うようであるし、その、笑いに生きているのは、日常性と非日常性の間にある、笑いによるカタルシスがある。 . . . 本文を読む

唱導文学と話芸

2018-07-29 | 話芸の会・話芸の探究
唱導文学は折口信夫の命名で、そのもとには、唱導文芸のことを指す。しかしそれをも、唱導芸能というのがよいと言っている。唱導文芸はまた、説経であるところ、唱導文学とする説経文学は、その名称から、宗教文学をも包含する。唱導そのものを文学とのかかわりで見ることは実は困難ことである。折口自身が認めているように、この文学は旅行する、漂遊者の文学、巡游伶人の文学であるから、その発生は、文学の根本義に立ち戻る。後世から見れば説経は門付け、ささらがあり、法話の席での節談がある。その流行によって唱導の内実が説経であることを示している。唱導を仏教の宗派に合わせて言えばさらに、その場面に応じたことであるが、説教とする、法座、講説、演説、説法、説経、法説、勧化、法談、法話、講義など、さまざまに呼び分ける。かつて法談をとらえてその演説の形式を分析したことがわたくしにあり、因縁、比喩譚の仏教による講話のスタイルを話し言葉に見ようとした。いまもそれは変わらぬ文献に証するところがあって、文芸、芸能そして文学とする捉え方を折口の思いにも寄せる、旅行する話芸なのである。 . . . 本文を読む

脳字解

2018-07-29 | 日本語百科
日経新聞にコラム、遊ぶ遊ぶ漢字学、29日付け、現代の「脳」科学に通じる発想 阿辻哲次さんの一文がある。コラム読者にはファンが多いことだろう。このわたしも、その一人であるから、毎回の感想は事欠かないのであるが、今回は目立ってしまった、活字の伏字に気をとられてしまった。字形が、旁の下、白について、白の一がメとばかり注が繰り返しつく。文中の文字には「腦」という形としてあるのだから、これは何だろうかと思わせるに十分である。ひよめき、泉門、おどりこ、などと、古代に命名することであったその中身である。さて、脳という語は、骨に覆われいる図形なるものか。なづき、というのは、日本語読みである。脳髄という、その意味には、何がどの部分にあたるか。そこを古語の用例で見ると、日本語は、それをよくとらえることが分かる。白の字は、>頭顱(とうろ)の形で、その白骨化したもの、されこうべ。雨露にさらされて白くなるので、白色の意となる。偉大な指導者や強敵の首は、髑髏(どくろ)として保管された。覇者を示す(覇)はもとに作り、雨にさらされた獣皮の意。白・伯と通用する。"白", 字通, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2018-07-29) . . . 本文を読む

日本語論65 ウナギの話

2018-07-28 | 現代日本語百科
僕はウナギだ文における問題は、ぼく、うなぎ というところを、ぼく、うなぎだ といおうとしたのか、ぼくはうなぎだ といってしまったのか、ぼくは、うなぎ ぼくが、うなぎ というふうにいっても、これは結局、僕はウナギだと言ったことになる。正しくは、この読点に文法機能を認めて、僕は、ウナギだ としなければならないものである。語用論の意味内容を表現の関係で、僕 は ウナギ だ というのを、それぞれをそのままにして、僕はウナギだと続けて発話しても変わらないから、典型例文として取り上げられる。日本語を知って、わかって、僕がウナギである、と言う文が、成立しない、意味的に文法とならないことはすぐに察知する。しかし、発話上で、そこにポーズが入れば、僕が、、、うなぎ ということになって、この読点の連続は、文法上では一点を打つことになるので、聞く方には、誰がウナギを食べたいのか、僕が、ウナギ ということになる。それではそのままに、僕はウナギ とだけ言って、同様の意味を表すかとなると、僕がウナギを食う 僕はウナギを食う と同じ意味を表すには、僕がウナギだ は、言えないのに対して、僕はウナギだ と言える。それは、やはり、僕は、うなぎだ となるか、ならないか。 . . . 本文を読む