夢千夜 1000dreams

漱石「夢十夜」へ挑戦する

1274夜

2017-04-17 14:31:18 | Weblog
交通正義というものがある。車より自転車が上、自転車より人が上。車は自転車や人に対して絶対的な安全厳守の責任がある。こんなドキュメンタリーを見たことがある。左折しようとする車の運転手が自分に対して左手をあげ、行きますよという意味の目礼をした。それに対して歩行者である自分はなんで自分が待たなきゃなんない? お前が待て、と踏み出した。そして一生にかかわるほどの怪我を負った。交通正義からすれば車が待つのが絶対の礼儀であり規則だ。それはわかる。が、しかし、交通正義を貫くために自分の生身を危険にさらす必要があるのか。私自身は歩行者のとき車に対する怒りを感じながらも、交通正義による強行は絶対にしない。交通正義は命をかけるほどのものではない。人をひき殺す事故のかなりの部分が「あうんの呼吸」事故だという。車と人がお見合いをしたとき、歩行者が「私が止まります」という目礼ないし、合図をしたと思い込み、車と人が同時に出てひき殺す。つまり「あうんの呼吸」の失敗である。「止まると思った」という後悔である。私自身は車に乗っているとき交通正義を厳守し、「人も車も止まらない。自分が止まる」と言い聞かす日々である。

1273夜

2017-04-17 13:01:39 | Weblog
私が若い頃「最近の若者は能力がないのにプライドだけ高い」と言われた。あの頃から「引きこもり」というものが登場し、「引きこもり」の青年に「なぜ引きこもっているのか」と聞くと、「私の能力に値する仕事につけない」と答えるのが普通だった。現代のデジタル時代の「引きこもり」とはまったく違う理由である。能力がないならないなりに謙虚になって自分の能力に合致した仕事につくべきだが、自分の能力をきわめて高いところに想定し、きっかけさえ与えてくれれば自分は必ずそこまで行けると固く信じているので、その入り口が与えられないことが容認できない。大江健三郎の小説に、大江のところに何千枚かの白紙の原稿用紙を持ってきて、有名雑誌に掲載の約束をしてくれれば自分はいますぐにでもこの原稿用紙に大傑作を書くことができると迫る青年の話が出てくるが、その青年は決して狂人というわけではなく、あの時代の青年の気持ちを代表している。チャンスさえ与えてくれれば自分はすごいことをやるのに、なぜチャンスを与えてくれいのか、それが不思議だった。

1272夜

2017-04-17 13:01:09 | Weblog
安全第一という言葉の当初の意味は「安全第一、品質第二」というものだったが、いつのまにか「品質第二」の方は忘れ去られていった。現在の理念では品質を犠牲にしてまで安全を優先するということはありえない。「安全第一、品質第二」は労働者の権利を守る思想だったが、今、「安全第一」は単に「気をつけろよ」という注意にすぎない。

1271夜

2017-04-17 13:00:38 | Weblog
かつてミュンヘンオリンピックの水泳において、千分の一秒差で金メダルと銀メダルが分かれたことがあった。それ以来、千分の一秒以下は切り捨てということになった。千分の一秒というと爪の先一ミリの差か。そこまで計ることはないだろうというのが、あの時代の趨勢だった。あれから四十五年たったコンピュータ時代において時間は千分の一秒どころか数億分の一秒にも切り分けられることになったが、オリンピックは依然としてあのときのままである。

1270夜

2017-04-17 13:00:00 | Weblog
最近、衝動的な一人殺人と複数強姦の罪の重さが逆転している。衝動的な一人殺しならせいぜい十数年の懲役だが、複数強姦だと二十年以上の懲役が科されることがある。数十年前には強姦の刑は軽かった。同意ではなく強姦だと女性が証明することも難しかった。床や地面に何かを敷いていれば、それは合意を意味するという俗説が信じられていた。この俗説はいまだに残っていて、つい最近国立大学の医学部生がトイレで泥酔した女性を強姦したとき、下に女性のコートを敷いていたから合意が成立するなどと主張していた。そのような明治時代の刑法に基づいた女性を軽視する判決は戦前にさえ認められていたかどうか怪しい。今から十年ほど前学生のパラパラグループにおける集団強姦事件で首謀者の早稲田大学学生に懲役十三年が課されたとき時代の変化に驚いたが、それも男女雇用均等法と女性裁判官の進出による時代の流れとして当然である。それにしても殺人との整合性はどうなのか。強姦したことを隠蔽するために殺して埋めた上で自首した方が罪が軽くなるという理屈である。ちょうど飲酒運転で人をひき殺してその場で出頭するよりも、その場から逃げて酒が冷めてから自首した方が罪が軽くなるというのと同じである。強姦が最悪の犯罪であることは明確だから強姦の罪の重さは誰しも認めるところだが、それなら殺人の罪も重罰化し、さらに交通犯罪もどんどん重罰化していく流れなのだろうか。

1269夜

2017-04-14 09:55:15 | Weblog
かつてこんな話を聞いたことがある。自分の部屋を欲しがる子供に「おじいちゃんが死んだらその部屋をあげる」と親が答える。すると子供が「いつ死ぬんだよ!」と叫ぶ。さてそこでだ、もしその子が自分を偽る術を持っていて「そんなら自分の部屋なんかいらない。おじいちゃんにはいつまでも生きててほしいもん!」とおじいちゃんに聞こえるような大声で叫ぶことができたら、その子は親にもおじいちゃんにも愛されて幸福な人生を送ることができただろう。

1268夜

2017-04-14 09:52:56 | Weblog
最近の若い男は結婚して息子が生まれると「妻を他の男に奪われる苦悩」を味わうという。それまでは「夫が世界で一番大事な人」であり、すべては夫のために生きてきた妻が、息子が生まれた瞬間に激変し、「すべては息子の為に生きる女」になる。かつて「妻に世界で一番愛された男」は息子への憎悪に燃える。妻は息子という王様につかえる奴隷であり、夫にも奴隷となることを要求する。老年の私にもわかるような気がする。

1267夜

2017-04-14 09:48:43 | Weblog
かつて個人の映画シアターを持つことが金持ち、権力者の証明だった。そこで毎日個人が好きな映画を見ることができる。ソ連の独裁者スターリンが個人シアターを持っていたことを知って、私はどんなにその環境にあこがれたかしれない。そして今、私たちのほとんどすべてがケータイ一つで個人シアターを所有することができる。21世紀のデジタル革命は産業革命に匹敵する革命だと言われる。18世紀の産業革命はそれまで約一万年の間遅々として進展しなかった人間の世界を激変させた。そしてデジタル革命は産業革命以来三百年の歴史をさらに激変させている。歴史が激変する時代を生きられたということは幸福である。タイムマシンに乗って二つの世界を経験できたことになるからだ。ちょうどデジタル革命に間に合う年に生まれたのが私の人生の最大の幸福だ。

1266夜

2017-04-13 09:33:20 | Weblog
9・11テロも3・11地震も起こったときは「予想外の出来事」とされた。が、今となってはすべて予想された必然だったように感じられる。これが「結果論」である。人生は「結果論」だ。終わりよければすべてよしということわざがあるが、終わりが悪くても、それを「結果」として受け入れなければならない。私は今六十を過ぎたが、どうしてこういう人生になったのか今もってわからない。「結果論」を受け入れるしかない。

1265夜

2017-04-13 09:32:33 | Weblog
たとえば本を書いてベストセラーを出し数億円もうける確率は宝くじに当たる確率よりはるかに低い。宝くじに当たって数億円もうける人は年に数十人もいるが、ベストセラーでそれだけもうける人は十年に一人だろう。宝くじで数億円当てる確率は四万年続けて一日一枚ずつ買って一回当たる確率だという。一日目で当たる人もいるだろうが、ほとんどの人は一万年以上先である。となるとベストセラー数億円の確率とは恐ろしいほどの数字になる。それなのに社会の底辺でうごめく人は、いつかベストセラーを書いて金持ちになってやると夢想する人が多いという。

1264夜

2017-04-13 09:31:27 | Weblog
一分先の未来が見える男の話が映画にあったが、現実世界において一分先の未来が見えれば、株や為替の取引で手元に今一円あればたった三日で世界中の金をすべて手に入れることができるという。サッカー選手なら相手選手の動きをすべて読めるから簡単に世界最高の選手になれる。映画の男は一分以上先のことはわからないが、それでも自分の能力で世界の危機を救う。ハイデッガーは「生きるとは死なないことだ」と言った。つまり不確定な未来において自分は生きているという予想を堅持している状態が「生きている」という状態であるということだ。「一寸先は闇」とは言いながら私たちは「未来に生きている自分」の像を堅持している。戦争において未来に死が見えている状態で現在生命を維持している状態を「生きている」とは言わない。この「曖昧な未来の堅持」と「未来が見える」ことの差は歴然としている。私たちは一円で世界中の金を独り占めすることはできない。死の恐怖におびえることなく生きていられるのは「曖昧すぎる未来の自分の堅持」がくずれないからだ。未来は何も見えないのに未来の自分は堅持されている。どこかに間違いがあるのだろうか。

1263夜

2017-04-12 11:12:56 | Weblog
かつてアグネス・チャンの歌に「五分おきに時計見て」という文句があった。遅刻した恋人を待ちきれない切なさを歌ったものだが、なんと時間はゆったり流れていたのだろうか。五分に一回とは、あまりにものんびりした話だ。今なら「ケータイをずっと見つめて」ということになるだろう。「五分ごとに時計見て」も、今から四十年前の世界では、現代人が持つ時間感覚の慌ただしさを指摘したものだったはずだ。昔は時間など気にしないでゆっくり待ったものだというわけだ。ケータイは一秒でも時間を無為に費やすことに我慢できない現代人の必須ツールだが、いずれは0・1秒でも時間を無駄にできない感覚にとらわれた未来人が、自分の目やてのひらに直接ケータイを埋め込むことになるのだろう。てのひらケータイはそんなに未来の話ではなく、現在において着々と実用化に向かって開発されているという。

1262夜

2017-04-12 11:12:25 | Weblog
株取引のディーラーが、どうしても我慢できず便所に行ってモニターから目を離しているうちに五億円損したという実話があったが、そんな話も「今は昔」となった。今、株取引の世界はコンピュータ取引となって人間を介さずコンピュータ同士が取引し、その取引は一秒間に千回だという。かつては一秒間に百回だった。いずれは一秒間に一万回となり、さらに無限に時間は細分化されていって一秒間に一億回、一秒間に百億回となっていく。コンピュータには人間が持っている時間という感覚はないから、機械の性能が進む限りどこまでも時間を細分化できる。未来世界においては一秒間に何回になるのだろうか。無限に細分化していった先は無限であり限界はない。時間を無限に細分化し、ついにその限界までたどりついた男と、時間を無限にたどってついに永遠の果てにたどりついた男が。その限界において出会うというSFを読んだことがあるが、無限とはなんなのだろうか。宇宙には始まりがあり終わりがあるというのが科学の定説だが、始まりの前には何があったのだろうか。何もない。終わりの先には何があるのだろうか。何もない。何もないところに、あるとき時間が始まり、いつか時間は終わり、空無に帰る。私の頭では理解できない。

1261夜

2017-04-11 14:29:01 | Weblog
夢と現実、ヴァーチャルとリアル、幻想と実体の境目は、どこにあるのだろうか。ヴァーチャル、夢の中にいるとき、私はそこで起こっていることを「おかしなこと」とは決して思わず、現実、リアルとして受け入れている。それを「おかしい」と思うのは、夢から覚めたあと、旅の途上の出来事を思い起こすように「おかしなことがあった」と思い出すときだ。リアル、現実の中にいるときは、もちろんそこで起こっていることを現実、リアルとして受け入れている。二つの世界の中に生きることにおいて、両者における私の認識に差があるのだろうか。私は妻が死の挨拶をする夢をよく見入るが、今、私がこれを書いている現実の中で妻は生きている。が、本当は現実の中で妻は死んでいて、私がこれを書いているのは夢の中かもしれない。私は妻の死という現実を受け止めきれず発狂して精神病院の中で幻想に生きている。私自身が本当は自分がどちらの世界にいるのか認識することはできないのだ。リアルを生きる者は、ヴァーチャルの中にいる者を笑う。「現実からの逃亡者、引きこもり」と。が、ヴァーチャルを生きる者はヴァーチャルを生きているという認識を持っていないし、リアルの中にいてヴァーチャルを笑っている者が本当はヴァーチャルの中にいるのかもしれないという可能性は否定しきれないのだ。

1260夜

2017-04-11 14:27:04 | Weblog
日本のマスコミの歴史は「後出しじゃんけん」の歴史である。日本の主要なマスコミは戦時中軍部に屈して戦争に協力し、戦争賛美の記事を書き、多くの国民を戦場に向かわせた。戦争が終わったとたん、彼らのすべてが「実は私は戦争には絶対反対であり、心に反して仕方なく戦争に協力しているかのような記事を書いた」と言い張った。これが「後出しじゃんけん」である。「後出しじゃんけん」は必勝である。日本国民もマスコミに踊った戦争反対記事を読んでマスコミの「後出しじゃんけん」を受け入れたから、マスコミは自分たちは許されたと思い込み、平和の使徒として生まれ変わった。