夢千夜 1000dreams

漱石「夢十夜」へ挑戦する

1205夜

2015-10-27 16:55:32 | Weblog
その人は後から見ると普通の人だ。が、前に回って見ると、顔の半分がない。縦割りで真ん中から切れていて、左半分しかない。別に切れたところから血が出ているとかいうこともなく、段ボールの箱のようになめらかな断面である。

1204夜

2015-10-27 16:50:43 | Weblog
妻は七時に家を出て仕事に行った。私は休みだったので、妻が行ったあと、再び布団にもぐりこんだ。しばらく眠った。妻が戻ってきて私を起こす。調子が悪いので今日は休むと言う。私は眠りを覚まされた腹立ちもあるが、やはり今日一日妻といっしょに過ごせるうれしさが勝る。しばらく妻と話していると、ふと私はまだ夢の中にいるのではないかと思う。が、目の前にいる妻も、周囲の状況もあまりにも現実的なので、これが夢だというのは勘違いだとも思われてくる。私はどうしても真実を確かめたくなる。私はベランダまで妻をつれていき、おれはここから宙を飛んでみると言う。夢なら飛べるし、現実なら墜落する。インフルエンザの特効薬タミフルを呑んで眠り、そのまま夢の世界の中から宙に飛び出して死んだ人を思う。彼らは自分がいる世界を夢だと信じて飛んだのだ。私は躊躇するが、目の前にいる妻が現実の妻なのか夢の世界の妻なのか、どうしても試してみたいという誘惑に勝てない。私は飛ぶ。空気は私の体をトランポリンのように受け止め、私は宙に浮いている。この妻は現実の妻ではなかった。と決まってみると、現実世界の妻よりも夢の世界の妻に対する愛情の方が勝ってくるのが不思議だ。

1203夜

2015-10-27 16:35:54 | Weblog
私は看護婦のあとについて歩き、手術室まで行く。手術室の中は、真ん中に手術台とその周りにちょっとした機械があるだけで、幾何学図形のようにきわめてシンプルなものだ。私は看護婦の指示に従い、素っ裸になって手術台にうつぶせになる。看護婦が私の体の首から腰までの辺りにシーツのようなものをかける。これで皮を剥かれた鶏のように完全に医者のメスの前に私の尻の穴が解放された形だ。看護婦が私の股間から尻全体に消毒液を塗る。ヒヤッとした感触で体全体が縮みあがる。手術着の医者がドラマのように颯爽と登場する。局部麻酔だから意識は完全にハッキリしている。医者は私の尻の穴を覗きこんで何かゴソゴソやっている。子供が親に禁じられた秘密のいたずらでもやっているような雰囲気だ。私は壁の時計を見上げる。カキッカキッと一秒に一回秒針が進んでいく。医者が突然「終わります」と言う。今度は麻酔がかかっているので、私は移動式ベッドに乗せられてもとの病室まで運ばれる。看護婦が寝間着を着せてくれる。その日はずっと点滴が続く。手術した尻の穴がベッドに当たらないようにうつぶせになっている。手術が終わってしまうと、快方に向かって突き進んでいるという充実感があるせいか、時間は急流のようにどんどん進んでいく。甲子園出場に向けて練習をする野球少年のような充実感だ。次の朝。少しフラフラするが、もう自分の足で歩ける。私は検査台に乗って医者に尻の穴を見せる。「ウン」と医者はうなずく。自分が苦労して作り上げた芸術作品を眺めているような口ぶりだ。「これで退院していただいて結構です。あまり消化の悪いものを召し上がらないようにしてください。便を溜めると、出すときに負担がかかりますから便意があったら、すぐ出すようにしてください。今日一日はくれぐれも安静にしていてください。それじゃ、お大事に」と医者は別れの挨拶をする。「どうもお世話様でした」と私は言って病院の門を出る。生まれて初めて恋をした少女のように、手術前とは町の風景が変わって見える。最初は一歩ごとに尻の穴にガンガンと鉄の杭を打ちこまれているような打撃を感じる。が、次第に慣れてくる。家に帰ると、手術が終わった自分の尻の穴を鏡に写してみる。プクッとふくれていた部分が見事に取り去られている。口をすぼめたおばあさんのような、かわいい尻の穴がそこに出現している。私は医者のマジシャンのような、あざやかな技術に感動する。二日間メシを食っていないのに、ウンコが溜まるのが恐くて食べ物がなかなか喉を通らない。トースト二枚と紅茶をなんとか腹の中に入れる。私は医者の言葉を無視し、午後から仕事に出る。悩んだすえ、万が一のことを考えて「ドラキュラ」をつける。今日大丈夫だったら、明日からは本当に「ドラキュラ」と「さよなら」できる。私は予備校に行き教室にはいる。教壇がやけに高く感じる。床から五十センチくらいの高さでしかないのに、私の目の前にエベレスト山のようにそびえ立っている。教壇の上に右足をかけ右足一本で体を引き上げるときに、尻の穴に恐ろしいほどの負担がかかる。体が真っ二つに割れそうだ。普段の二分の一くらいの声なのに、手術直後だけあって尻の穴にズンズン響く。私の声はどんどん小さくなる。教室の後ろのほうから「先生、聞こえません」という声がかかる。私はできる限り大きい声を出す。ついに尻の穴が裂けたと思う。「ドラキュラ」を通り越してズボンに血の花が咲いたのを覚悟する。私は教壇で初めて出血に恐怖して以来、ずっと赤いチノパンを何枚も買ってはいている。「赤いチノパン先生」と生徒に影で言われるくらいだ。「やっぱり今日は休めばよかった」と貝を奪われたヤドカリのように弱気になる。なんとか授業を終え便所にはいる。あんなに負担がかかったはずなのに、尻の穴から血は出ていない。軽い便意がある。溜めてはいけないので、私はニトログリセリン溶液の上にすわろうとするかのように便器の上に恐る恐るすわる。便が下へ下りようとするのを、私の恐怖心が下から押しとどめている。私は恐々力む。鉄のかたまりのようなものが私の肛門を押し開き通過する。私は肛門が完全に張り裂けたと覚悟した。下を見ると黒い小さなウンコが一つプカプカと水に浮いているだけだ。それ以外は完全にきれいな水だ。次の日の夜、病院に行って診てもらうと、「順調です」と医者は御満悦だ。その次の日は「ドラキュラ」なしでやってみた。もう「ドラキュラ」なんかいらないんだぞ!と、私は空に向かって叫んだ。

1202夜

2015-10-27 16:35:19 | Weblog
子供の頃、私は心の中で父に反抗していた。夢の中では何度も父を殺した。スペインの自称天才画家サルバドール・ダリの本を読んでいたときだ、私は父への反発を明確な形にしうる一つの方法を発見した。ダリは一人故郷を離れ、王立美術学院に入学する。金持ちであるダリの父は息子の勉学のために、一冊で堅実な一家が一ヶ月生活できるくらいの値段がする百科辞典を毎月送る。ダリは百科辞典の最後の一冊が送られてきたとき、その表紙を破り取り、上に絵の具で「クリスマスおめでとう。パパ」と書きなぐって表紙だけ父に送り返した。「これだ」と思った。ダリの父親が買った百貨辞典に比べれば、はるかにグレードが落ちるが、私の家にも百科事典があった。当時、百科辞典は自分が「中流家庭」に属していることを確認するための重要なアイテムだった。父は無理をして十ヶ月の月賦でそれを買った。百科辞典の背中をながめてウットリすることが父の絶大なる楽しみで、家族がそれに触ることは「本が傷む」という理由で絶対に許さなかった。もちろん自分でも絶対に触らない。それは百科辞典のために買ったガラス扉つきの本棚の中に安置してある。ガラス扉には鍵もついていて鍵は父が秘密の場所に隠してある。母が掃除のときハタキをかけるのさえ「傷む」と言って許さなかった。一週間に一度だけニトログリセリンがはいったビンに触れるような感じで、おっかなびっくり自分でハタキをかけた。百科辞典が安置されている場所は我が家では仏壇とともに「神がおわす場所」であり、誰も踏み入ることは許されなかった。私は父が仏壇の位牌の裏に鍵を隠していることを知っていた。私は震える手で鍵を開け、百科辞典を抜き取るとき、千年隠された秘仏に触れるような恐れを感じた。私は真ん中辺りの一巻を選び、表紙をカッターナイフで切り取ろうとする。私は神に切りつけるような恐怖を感じた。鉄板を引き裂こうとしているみたいな抵抗がある。私の中の臆病という安全装置が働いているのだ。頭が切ることを要求しているのに、手がそれを拒絶している。私は自分の手との五分間の格闘のすえ、やっと表紙を切り取ることに成功した。切り取るのは背中から見たのでは絶対にわからない程度の一部分にとどめた。三cm平方程度の大きさだ。私は本を慎重に棚に戻し、鍵を閉める。あとは破り取った表紙を父に送りつけるだけだ。私は週刊誌から活字を切り取り、封筒に家の住所と父の名前を貼りつけた。「バカ」とマジックで書いた表紙を封筒に入れる。電車に乗って遠くの町に行った。封筒をポストに投げこもうとして、また安全装置が働いた。封筒を持って見知らぬ町を歩き回った。ポストが目にはいると心臓が口から飛び出しそうになる。手のひらの汗で封筒が湿っぽくなる。足が棒になり家に帰りたくなったとき、目についたポストに爆弾のように重い封筒を反射的に投げこんだ。ポストの口に手を突っこんだ。が、届かない。歯を食いしばって駅に向かってダッシュした。私はそれから毎日家にいて、郵便配達が来るバイクの音に全身を耳にしていた。郵便配達が来たら真っ先に郵便受けまで飛んでいき、自分が出した父への手紙を取り除こうとした。三日たっても手紙は届かなかった。宛名の活字がはがれたかなんかして、もうあの手紙は家に届かないのではないかと、私はつい希望的観測を抱いてしまった。夕方いつもの時間に郵便配達が来なかったので、今日は郵便は来ないんだと思った。私は自転車で少年マガジンを買いに行くことにした。私が家の見えるところまで帰ってきたそのとき、門のところに父の姿が見えた。父はちょうど郵便受けを開けて手紙の束を取り出すところだった。父のあとについて家にはいり手紙の束をうかがうと、見覚えがある封筒と宛名の活字が見えた。私は自分の部屋で布団を頭からかぶった。しばらくして母に呼ばれた。背骨が溶けそうだった。晩飯の時間だった。だが、へんに怪しまれてもいけないので食卓についた。ご飯もぜんぜん味がしない。ウンコを食っているみたいだ。父の様子はいつもと変わらなかった。たぶん父は自分のところに送られた紙切れが百科辞典の表紙だということを認識できず、ましてやそれが自分の百科辞典だなどという想像は宇宙の外のできごとだったのだろう。父は百科辞典を本棚に安置して以来一度も引き出したことがないのだから、本の表紙がどんなデザインなのかも忘れている。それから数年百科辞典が引き出されることはなかった。数年たつと、父も高度経済成長の波に乗って多少のお金を貯めることができるようになった。百科事典は「中流」を確認するアイテムではなくなり、それにかわって自動車やカラーテレビが「中流」を確認するアイテムになった。我が家にもカラーテレビがやってくると、「神がおわす場所」は百科事典からカラーテレビ(父はチャンネルが傷むという理由で、絶対に子供にチャンネルを回させなかった)へと変遷し、百科事典は物置の片隅に片付けられ、そのまま埃をかぶった。

1201夜

2015-10-27 16:34:28 | Weblog
私は予備校の国語教師となったとき、若者たちの国語力が私の高校時代と比べてあまりにも激しく低下していることに驚愕を禁じえなかった。昔は文学に淫することは不良の仕業であって、太宰治などを読んでいると「馬鹿になる」と叱られたものだ。今若者は文学自体を読もうとはせず、感動は漫画から得る。「五十□百□」の□の部分に適当な文字を入れて五字熟語を作れという問題で、「五十嵐百恵」と書いた生徒がいた。その生徒は私がバツをつけた答案を返すと「納得できない」と言って講師室までやってきた。「いがらしももえという人は私の高校に実際にいたんです」と生徒は目を真っ赤にして訴える。私がどんなに説明しても決して納得しなかった。その生徒は狂気に捕われているわけでもなければ、教師をからかっているわけでもない。真剣に自分の答案の正当性を信じているのだ。そんな時代になった。

1200夜

2015-10-27 16:33:15 | Weblog
かつてエノケン(榎本健一)という偉大なコメディアンがいた。エノケンは全国民にその名前を知られていた。私が通っていた高校の先生に、誰が見てもエノケンに似ている人がいた。生徒の間で彼はエノケンで通っていた。が、本人はそのことを知らなかった。学校一真面目で温厚な先生だったので、あだ名で呼ばれることが似合わなかった。ある授業のとき、生徒の一人が聞こえるか聞こえないかの声で「エノケン」と先生を呼んだ。その生徒は下を向いていたし、咳よりも小さな声だった。先生はエノケンと発せられたとたん、激怒した。エノケンと発した生徒の胸倉をつかみ、往復ビンタをくり返した。もし学級委員が間にはいって止めなかったら、先生は本当にその生徒を殺していただろう。私はそのウサギよりも温厚だった先生が怒ったのを今まで一度も見たことがなかった。その先生が怒ったこと自体にまず驚いたし、なぜ「エノケン」の一言でそんなに怒らなければならないのかが、まったく理解できなかった。今まで「君たちは将来について真剣に考えなければなりません」といった丁寧語でしか話したことがなかったその先生が、「テメー、今なんて言った!」と叫びながら、生徒にビンタしているときの形相は、人間とはこんなに激怒できるものだろうか、と私に不思議がらせた。