夢千夜 1000dreams

漱石「夢十夜」へ挑戦する

1110夜

2014-06-13 08:22:23 | Weblog
私はマックのトイレにはいって便器の中を見る。その表面にウンコが付着している。怒りをこめて水を流す。ウンコは強固に付着しままだ。私も緊迫している状態だ。仕方がないから、付着したウンコの上にウンコをする。流す。私のウンコだけ流れる。その下にあるウンコは、私をあざ笑うかのように「また会ったね」と姿を現す。水で流れないなら、店からブラシを借りて自分のウンコをこそぎとるのが、人間としての「最低の常識」ではないか。私は「常識人」としての激怒に燃えてトイレから出る。私が出たのと入れ違えに男がはいった。ごく普通の中年サラリーマンだ。男ははいったとたん、びっくり箱の中の人形のようにドアから飛び出してきて私の背中に「おいっ」と言う。私が振り返ると、「おいっ、ウンコを流したらどうだ」と私に言う。男は月光仮面なみの「正義の怒り」に燃えている。この男も緊急の便意にかられてトイレに飛び込んだはずなのに、「正義の怒り」のために便意も引っこんだらしい。店にいたすべての人たちが「何があったんだ?」と私と男に注目している。現場の状況は私にとってはきわめて不利だ。「私ではない」というセリフが、これほど役に立たない場面もない。しばらく様子を窺っていた店の人たちも、「これ以上騒がれてはかなわない」とやってくる。バイトの若者二人と店長らしい三十代の男だ。「どうなさいました?」と私と男に聞く。「この人がウンコを流さないのだ」と男は言う。店にとっても何年来悩まされてきたトイレを汚す犯人に出くわした怒りなのか、三人ともトイレの中に駆けこみ、流されていないウンコを確認して出てくる。「困りますね、お客さん」と今度は店の人たち三人も加わって私に「正義の怒り」を集中させる。店にいる他の客も「あいつがウンコを流さないやつだ」と私の顔をじっと見ている。私は逃げ出したかった。しかし、男四人に囲まれていては、逃げ出すことは不可能だ。店長が物置からブラシを持ってくる。そして私に渡す。いかに客とはいえ、これほどの罪を犯したものをこのまま釈放することはできないと考えたらしい。四人の男が正当な罰を受ける私の行為をじっと見守っている。悪逆非道の私だから、手に持ったブラシで四人の男をなぐりつけるくらいのことはしかねないと思っているのか、四人の男たちは手にこぶしを作って身構えている。私には選択の道がない。私はトイレにはいって付着したウンコをブラシでこする。四人の男も私のやることを最後まで見届けようとトイレの個室にはいっているから、窮屈でしょうがない。ウンコはなかなか落ちない。私はいろいろ角度をかえてこすってみる。少しずつ落ちてくる。三分ほどこすり続けて、やっときれいになる。男は「これから気をつけろよ」と言い、三人の店の人は「これから気をつけてくださいよ」と言う。私は無言でうなずいて、やっと釈放される。

1109夜

2014-06-13 08:20:29 | Weblog
上智大学国際学部。在日外国人の子弟や帰国子女を対象にした国際教育機関。私が通っていた大学から歩いて二十分弱の距離にそれはあった。それはかつてどこかの大使館だった建物を用いていた。輝くように明るい室内。中に一歩はいると、話される会話はすべて英語だった。ハリウッドの青春映画のような世界。私が通っていた大学の地獄のような暗さ、薄汚さに比べて、そこは地球と冥王星ほども隔絶した別世界だった。そこには当時のアイドル、アグネス・チャンや南沙織も在籍していた。南沙織。愛称シンシア。沖縄出身。日本人とフィリピン人のハーフ。なぜあの頃私はあんなにもシンシアが好きだったのか、今となってはわからない。私はシンシアと運命的出会いをするために、上智大学国際学部に通っていた。そこで私はハリウッドの青春映画のようにシンシアと出会い、恋に落ちる。アグネス好きのTがいつもいっしょだった。私は大学のとき、針金のようにやせていた。髪はのばしっぱなしで、腰の辺りまでの長さがあった。脚には踵が三十センチのロンドンブーツ。それを隠すための自分の足より四十センチ長いベルボトムのジーンズ。上半身にはTシャツ。胸にPEASEのロゴ。顔には丸いサングラス。タバコはセーラム。自分では最高のファッションだと信じていた。ロンドンブーツは、年々踵が高くなった。年に十センチ上にのび、三十センチで止まった。この種の靴を専門で製作している靴屋に特注した。お中元の配送で稼いだお金をすべて注ぎ込んだ。靴底が十センチ。さらにそこから下に二十センチ踵が下る。ハイヒールなんて目ではない。牛革。色はピンク。完成まで一ヶ月。実物を目にしたとき、自分の目を疑った。こんなものがはけるのかと思った。イメージより、はるかに踵が高い。靴屋で二十センチのロンドンブーツを脱ぎ、これも特注の、足より四十センチ長いベルボトムにはきかえる。そして、そのブーツを恐る恐る足に入れてみる。はいてみると、つま先だけで立っているバレリーナのような感覚だ。歩いてみる。たった十センチの差がこれほど自分に恐怖感を与えるとは驚く。世界が違って見える。私は三十センチのロンドンブーツをはいて靴屋から出る。人より頭一つ身長が高い。二十センチで訓練しているので、普通の歩行は、なんとかこなせる。下りの階段が最大の鬼門だ。案の定、三日後に階段を降りそこなって脚を骨折した。完治するまで三ヶ月。スニーカーに松葉杖。完治すると三十センチに戻った。国際学部でも、私はいつものファッションだった。アメリカンに混じっても身長では負けない。そっくり同じかっこうをしたTと私は、中にあるレストランにすわって待つ。レストランは学生のたまり場だ。ただすわっているぶんには誰にもとがめられない。レストランの窓から門が見える。しかし、超多忙なアイドルはいつまでたってもあらわれない。丸サングラスの大男二人がじっと黙ってすわっていても不自然なので、私たちもたまには英会話を試みる。私は意を決して「オーイエス」と発音する。私が通っている大学の学力レベルではその程度のボキャブラリーしか持っていない。すると、同じ大学のTも「オーイエス」と答える。それ以上に会話が進まない。またしばらくすると、私は「オーイエス」と言う。Tも「オーイエス」と答える。「オーイエス」ばかりでは怪しまれると思い、私は「オーノー」と言ってみる。Tも「オーノー」と返す。午前中の時間が過ぎていく。昼になる。私たちも何か注文しなければならない。セルフサービス形式だ。私たちも列に並ぶ。カウンターの向こうにいる人が、英語で注文を聞く。「アイ・アム・コーヒー」と私は言う。「アイ・アム・コーヒー・ツー」とTも続く。私たちはコーヒーを前に置いてまたねばる。私の前には一杯のコーヒー。Tの前には二杯のコーヒー。いつまでたってもシンシアもアグネスも来ない。断続的に続く「オーイエス」と「オーノー」のみの会話。たまには私たちに何か話しかけてくる陽気なアメリカンもいる。すると、私はどんな会話に対しても「オーイエス」と答える。陽気なアメリカンは「オーイエス」と両手を広げ笑いながら、私に同じ言葉を返す。夕方になる。私はTに目で合図して、「オーイエス?」と言って立ち上がる。Tも「オーイエス」と言って立ち上がる。今日はもうここで終わりだ。しかし、落胆することはない。まだ明日がある。私たちは静かに国際学部をあとにする。

1108夜

2014-06-13 08:18:01 | Weblog
私はノックの音にドアの穴も覗かずノブを引いてしまった。NHKのおばさんがいた。「あっ」と思ったが、もう遅い。おばさんは恐い顔をして書類を取りだす。「ここにNHKの受信料を払うことを約束するサインをして、とりあえず今三ヶ月分を払え。それ以後は銀行払い込みだ」と宣言する。このわたしを殺すなら殺せ、殺されても動くもんか、という意気込みだ。一瞬「払ってしまおうかな」と弱気になりかける。しかし、そう簡単に主義主張はまげられない。「NHKは見てない」と私は大声を出す。「テレビかあるならNHKを一秒も見ないということはありえません」とおばさんはマニュアル通り言う。「NHKなんて一秒も見ない」と私の大声。「チャンネルをかえるときにチラッとでも見ることがあるでしょう」とおばさんの冷静な声。一度ドアを開けさせたからにはもうこっちのものだ、あとはこんなアホーは簡単に言い負かしてお金を取るだけだ、というおばさんの氷のような使命感がヒシヒシと伝わってくる。「チャンネルを換えるときは、いつも目をつぶってる」と私の弱気な声。「音が聞こえます」とおばさん。「おれ耳が遠いんだ」と私。「払っていただかないと法的手段を講じなければならなくなります」とおばさんの決意の声。NHKは必ずこうくる。このセリフが水戸黄門の印籠だと思ってやがる。たいていの不良視聴者がこの「法的手段」という印籠の前で「へへー」と降伏する。しかし、私は違う。「やるなら、やってみろ」と窮鼠猫を噛む私の声。どうせそんなことやるもんか。おばさんは怒った大魔人のように動かない。そのときふと私の悪い頭に、いいアイディアが浮かんだ。私はテレビを十四インチから二十一インチに買い換えたところだった。泣く泣く月賦で買った。映りも悪くなった古いテレビが部屋の隅に置いてある。夜中に川にでも捨ててきようかと思っていたところだ。新しいテレビはおばさんから見えない角度にある。私は部屋の隅に行って十四インチのテレビをかかえあげ、入り口のドアのところまで持ってくる。私はテレビをおばさんに渡そうとして言う。「そこまでうるさいことを言うなら、もうおれはテレビなんか見ない。こんなものいらないから持っていけ」。さすがの鉄の女も困惑の表情を見せる。もう一息だ。「持っていかないんなら、こんなものこうしてくれる」と言って、私はテレビを入り口の靴脱ぎ場の上に叩きつける。ブラウン管がバチンと割れる。「また今度来ます」とおばさんは捨てセリフを残して逃げ出す。ブラウン管のガラスが飛び散って、あとの掃除がたいへんだった。

1107夜

2014-06-13 08:17:20 | Weblog
昔は水銀式の体温計しかなかった。体温計のメモリは37度のところが赤くなっていて、そこを水銀が越えれば「病気」であることが万人に証明される。私は学校に行きたくない朝、「体の調子が悪い」と言って母に体温計を出させる。「あがれ、あがれ。どんどんあがれ」と私はひたすら祈る。しかし、水銀は36度9分のところでピタッとストップしてしまうのだ。36度9分の私はランドセルを背負わされて学校へ送り出されるのだった。あるとき私はとてつもない事実を発見した。ガスコンロを使えば体温計のメモリを人為的にあげることができるのだ。私はそのときまで、「体温計」は「体温計」というだけあって、体温にしか反応しないものだと思い込んでいた。たまたまテレビに出てきた悪の科学者が試験管の中に入れた毒薬を火であぶっているのを見て、私もやってみたくなった。私は体温計を試験管に見立て、台所のガスコンロの火であぶった。ほんの数秒あぶっただけなのに水銀のメモリは見る見る上昇していき、42度を突破した。私はどうしても学校に行きたくない朝、深刻な顔をして「体調が悪い」と母に言う。母は「熱を計れ」と言う。私はうれしさをこらえ、体温計で熱を計るふりをする。そして「便所に行く」と嘘をついて台所に行き、ガスコンロで体温計をあぶる。一秒あれば十分だ。私は体温計を脇の下にはさみ直して母の前に帰り、出して見せる。熱は見事に37度を越えている。母は私の休みを認めざるを得ない。私はあるとき体温計をちょっと長くガスに当てすぎてしまった。振って水銀を下げる余裕もなかった。私はそのまま体温計を脇の下に押しこみ居間に帰る。体温計を見て母の顔は真っ青になった。42度ある。「往診だ。往診だ」と家族が騒ぐ。医者が来る。医者は私の額に手を当てたり、聴診器で胸や背中の音を聞いたりする。熱を計る。不思議なことに私の体温は36度2分しかない。母は証拠として体温計を持ってくる。昔の体温計は放っておいたのではメモリは下がらない。メモリを下げるためには何度も体温計を振って水銀を根元に戻すしかない。確かに42度ある。医者は「うーん」とうなることしかできない。次の週、私はまた体の調子を崩す。今度は母も手段を講じていて、私が体温計をあぶっているところを台所の扉を細くあけて見ていた。私は父に有無を言わさずなぐられた。

1106夜

2014-06-13 08:16:26 | Weblog
三十の頃、私は日本海に接したところにある予備校に、夏期講習の講師として呼ばれて行った。私は時間割を見て怒った。九時からの一限に授業があり、次の授業は三時過ぎの四限だ。待ち時間五時間。これは、いくらなんでもひどすぎる。私は電話で文句を言った。すると、相手はのんびりした声で「先生、海水浴に行ってください」と言う。その土地に着いてみると、小学校の時に習ったフェーン現象というものが、どういうものかやっとわかった。一日目の一限が終わって、さっそく海水浴に行くことにした。海は予備校から自転車で十分たらず、私は職員の人から自転車を借り海へ向かって出発する。道は単純だからすぐわかる。目の前にエメラルドグリーンの海が広がる。この地方については豪雪のあまり冬は二階の窓が入り口になるというイメージしか持っていなかった。だから、日本海にこんなに美しい海水浴場が広がっているとは不思議で自分の目を疑った。しかし、ハイレグやビキニの若い女はどこにもいない。じいさん、ばあさんと子供ばかりだ。よしず張りの小屋で着替える。高校の時の海パンをはき、海パンに巻き込まれていたキャップをかぶる。高校の水泳の授業のときのキャップだ。白いキャップで、前のところに「一級」と黒々と書いてある。何十m離れていても「一級」の文字が読めるくらいだ。高三の夏に友達に借りて、それっきりになっているキャップだ。私の高校では水泳を熱心にやっていて、力量によって一級、二級、三級と厳格に等級わけされている。オリンピック候補にはなったが、オリンピックには出られなかった、日体大出身の体育教師がやってきてから、水泳に力を入れだした。その等級が見てすぐわかるようにキャップに記してある。最低のものは級なしで、真っ白のキャップをかぶらなければならない。これは私の高校では人間失格とさえ言える。真っ白のキャップをかぶってプールにいるところを通りかかった女子に見られることは、自殺したいほどの恥だった。泳げないものは誰よりも早く三級に、三級のものは二級に、二級のものは一級になりたかった。一級というと、クロールで何千mも泳げなければならない。一級の栄冠を勝ち得たものは皆の尊敬とあこがれを集め、キャップに記された「一級」の刻印を高々と誇示した。一級の帽子を体育教師から渡されるとき、年来の苦労を思って涙を流すものさえいたほどだ。私は級なしだった。級なしというと、平泳ぎでは二十五m泳げるが、クロールの息継ぎはできないというレベルだ。級なしのものが一級のキャップをかぶるのは、庶民が徳川の葵の紋章を使うような厳罰行為だ。一週間の停学くらいで済めば、幸運だ。私が一級のキャップをかぶったのは学校ではなく町立のプールで、一度くらいは「一級」の気分を味わってみたかったからだ。自分のキャップを他人に貸すことは厳罰行為だ。友達が自分のキャップを私に貸したのは、高三の夏の最後の日で、高校でそのキャップをかぶる機会がもうないからだった。砂は火の上のフライパンのように焼けている。ゴム草履を持っていかなかったので、水際までロケットダッシュする。水際でしっかり準備体操をする。前に水中でこむらがえりになって死にかけたことがある。慎重に体をほぐした。海にはいる。つめたい。三四歩歩くと急に深くなった。ズズズッとすべって少し水を飲む。しかし、「一級」のキャップの手前ジタバタはできない。最初はブレストだ。少し体が慣れてきた。高校のとき以来私は水泳なんてほとんどやっていない。しかし、昔取った杵柄だ。自分は本当に「一級」なのかもしれないという錯覚に陥りかかる。次はクロールだ。しかし、私は息継ぎができない。空気を思いっきり吸い込み、一息で進めるところまで進む。我慢できなくなるとブハッと上体を起こし、ハーハー息を吸う。そして、またガムシャラに両腕を振り回す。私はそれを何度かくり返した。ブハッと上体を起こすと、恐い顔をしたおじさんが三人、私の周りを立ち泳ぎして囲んでいる。田舎の連中はやることがわからない。「どうも」と私はおじさんたちに笑顔を向けた。おじさんのうちの一人が私に寄ってきようとした。しかし、もう一人が止めた。「待て。あいつにはまだ体に余力が残っている。今行くと、しがみつかれて二人とも溺れるぞ。もっとあいつの体力が弱るまで待て」ともう一人は言う。「えっ」と私は自分の耳を疑った。「あいつ」って、私のことなのだろうか?この三人は私を救助に来たってわけか。「それは誤解ですよ。この一級の帽子を見てください」と私は言って、黒々と記された「一級」の紋章を高々と示す。しかし、「一級」の威力もこの地では通用しない。私のところへ一人のおじさんが意を決してやってくる。私の腕をつかむ。「いや、違うんです」と私はその腕をふりほどこうとする。おじさんは、「溺れる者は藁をもつかむ」の言葉通り、私が相手にしがみつき、水の中に引きずり込もうとしていると、誤解する。引きずり込まれてはたいへんだと私の腹に蹴りを三発入れる。私の首を必死で締め上げる。このままだと本当に死ぬと思った私は、体の力をすっと抜き、おじさんのなすがままに水の上を引きずられていく。私は海岸に横たえられる。「一級」のキャップが、むなしい。皆が集まってくる。「死んでるの、死んでるの?」と子供たちが騒ぐ。「人工呼吸だ」と誰かが言う。薄目を開けて見ていると、さっきのおじさんが私の唇に唇を近づけてくる。私はこのおじさんに唇を奪われてはかなわないと思い、パッと目を開け、立ち上がる。「大丈夫ですか、大丈夫ですか?」と皆が聞く。私はエヘヘと笑ってジャンプする。私は皆の腕を振りきって速攻で着替え、自転車でロケットダッシュする。予備校に到着する。私がハーハーしているので、「何かあったんですか?」と職員は私に聞く。「ん、ちょっとね」と日本語特有の意味のない答をし、私は教員室の椅子にすわる。午後の授業はきちんとこなした。

1105夜

2014-06-13 08:15:41 | Weblog
私は中学生のとき太宰治に熱中した。太宰は「自分は人間失格だ」と叫び、「生まれてすみません」とつぶやいて、みずから命を絶った。私はある深夜、太宰の『人間失格』を読んでいた。「生まれてすみません」という言葉が心にしみた。「そうだよな。おれなんか生まれちゃいけなかったんだよな」と私は思った。私は影響されやすかった。私は太宰と同じように、このまま自殺しようと固く決意した。「今すぐ首をくくろう」と私は思った。が、「待てよ、その前に親に別れの挨拶をしてから、この世を去ろう」と思い直した。私は母が起きてくるまで待った。朝になって母が起きてきた。私の部屋は二階だ。下の台所で母がトントントンとみそ汁の具でも切っている音が聞こえる。私は階段をトントントンと下り、母の目を見て言った。私は泣きそうだった。

「おかあさん、生まれてすみません」

母は私をじっと見た。そして言った。

「そのとおりだ」

私は怒った。ふざけんな、バカヤロー。それが死を決意した息子に向かって言う言葉か。そんなこと言うんなら生きてやるよ。誰が死んでやるもんか。私は自殺を中止した。

1104夜

2014-06-13 08:15:01 | Weblog
昔は汲み取り便所しかなかった。汲み取り便所とは、上から落とした糞尿を下にある穴に溜めておくという原始的な装置である。便器の穴からは、この世のものとは思えない臭いが立ち上がってきた。家の便所はまだきれいに整備されているところがあった。しかし、学校の便所は、この世界の汚濁の核であり、この世で最も地獄に近い場所だった。穴の中は暗黒で、地の底どこまでも続いているようだった。私が高校生の頃、まだ便所は汲み取りの名残を残していた。校舎の中にある便所は水洗式になっていたが、校舎から離れた所にあるいくつかの便所は旧世紀のままだった。当時の高校生にとって煙草と便所は同義語だった。私は普段どんなことがあっても、旧世紀の便所の周辺には近づかなかった。数十メートル先からでも、その存在が認識できるほど猛烈な臭いを、そこは周囲に放っていた。しかし、校舎の中で唯一煙草が吸える場所は、そこだった。禁じられたことを、命を賭けてもやりたいと思うのが、高校生の常である。校舎内で煙草を吸ったことがバレたら、一週間の停学どころではすまない。しかし、タブーを犯したいという欲望は、高校生の胸の中で地球ほどにもふくれあがる。私はポケットに煙草を隠して地獄の穴につながる扉を開ける。試験一週間前の放課後で、校庭には誰もいない。私は扉を硬く閉める。とたんに地獄の穴から立ち上る猛烈な臭いが私を窒息させる。しかし、ここまできて後には引けない。煙草を取り出す。震える手で火をつけ、唇に持っていく。私はここにはいってからまだ息をしていない。煙を吸い込むと同時に地獄の穴から立ち上る臭いが私の全身に侵入する。が、私はタブーを見事に犯した快感のために、地獄の臭いを感じない。タブーを犯す味は、天国の味だった。

1103夜

2014-06-13 08:14:18 | Weblog
予備校の授業にもいろいろな形式のものがある。その中に「テスト授業」というものがあって、それは九十分一回完結型だ。レギュラーの授業とは別に、単発で行われる。授業の初めに教師が生徒にテストを配る。そのテストを生徒が三十分で解いて、あとは教師が解説する。年があけて二月だった。もう大学の入学試験が始まっている。授業は一限から九十分授業、二十分休み、二限の九十分で昼休み、という時間割で進んでいく。私は二限目の担当だ。私は一階の教員室で三百三十枚のテストを教務の人にもらって、七階の教室に行くためにエレベーターに乗りこんだ。予定では生徒は三百人教室に三百人来ることになっている。それに予備の枚数が一割加わっている。予備とは、立ち見でも出ることを想定しているのだろうか。私はそんなに人気があったのかと、不思議でたまらなかった。三百三十枚は重くて腕が痛くなる。教室につくと、三百人教室に三百人。生徒がビッシリいっぱいだ。おまけに予想通りというか、後のほうに立ち見の生徒も何十人か壁に張り付いている。この忙しい時期に、これだけの生徒が私を慕って教室に出てきてくれるとは、感動のあまり涙が出そうになった。東京ドームで私の授業をやっても満杯になるのではあるまいか。私が前のドアから教室にはいろうとすると、いや待てよ、教壇にまだ教師がいる。英語の看板教師のSだ。甘いマスクとソフトな声で、この予備校の英語を背負って立っているSだ。いやな野郎だ。前にSが手帳を開いているところを偶然覗いたら、こいつ日本人のくせに、スケジュールを全部英語で書きこんでやがる。長いことイギリスに留学していて「ぼくたちイギリス人は、こうは思わない」と授業中に発言したという伝説がある。そのSが一限の担当で、二十分以上授業を延長しているのだ。Sは私に気づくと「ソーリー」と言って、授業を終わらせた。「さあ、これから私の授業だ」と思って教壇に立つと、目の前にいる三百数十人の生徒が、魔法の杖を一振りしたようにスーッといなくなった。ザーッと椅子を立つ音がして、四つ五つある出口に電気掃除機の吸入口のように人が吸いこまれていく。私はそれをじっと見ていることしかできない。三百数十人が教室からいなくなるのに、三十秒とかからない。誰もいなくなるのだろうかと思ったら男が三人残った。泣けてきた。さっきはあんなにかわいい女の子がいっぱいいたのに。私は三百三十枚もらったテストを、三百二十七枚持って帰った。教務の人も「あっ」と言って、そのあと声も出ない。

1102夜

2014-06-13 08:13:30 | Weblog
私が生まれ育った町は、東京から私鉄で約四十分の距離にあり、「小江戸」と称された、古い城下町だった。城は、もうない。かつて天守閣があったところが小山となって残っていて、その上に小さな神社が建てられていた。私が子供の頃には、城下町の雰囲気が、まだ、陰鬱な模様の絨毯のように町全体を覆っていた。侵入してきた敵を惑わすためにわざと複雑に作られたという道が、迷路のように町の中を走っていた。道の両脇には、黒い瓦屋根の古い家が櫛比(しっぴ)していた。徳川家光が生まれたという寺が、森の中に沈んでいた。病気の象のように、町自体が、暗く沈鬱にうずくまっていた。かつては、この県随一の都市だった。県庁が置かれて当然だが、固陋(ころう)な町の老人が「町の近代的な発展は、城下町の静かな趣を破壊する」といって強行に反対し、古い伝統を守ったと私は教えられた。私が小学校低学年のとき、そんな町にもストリップ劇場ができた。それも町の真ん中に堂々と看板を出した。町の人たちは、それを諾々と許した。私には不思議だった。この町も、かつてはこの町よりはるかに劣っていたはずの県庁所在地に経済的に追い越され、固陋な老人たちも、さすがに自信を失って、発言力を喪失していたのだろうか。小さな町なのに、全盛時代には三つものストリップ劇場がこの町で営業していた。人口もせいぜい十万のこの小さな町で、三軒ものストリップ劇場が黒字を出していたというのは、今となっては夢の世界のできごとのようだ。固定的にストリップ劇場の宣伝が出ている、巨大な掲示板が何カ所かに設置してある。営業を競っている劇場も、宣伝の点では協力している。掲示板には三つの劇場のだしものや踊り子の情報が派手に配置されていた。そのほかの場所にも、家の塀や壁に、ポスターは町中至るところに貼り巡らされていた。今と違って、女性の体の部分の、どこまでなら露出してもいいという法律の規制はなかったのだろう。さすがに股間の三角地帯は覆われていたが、乳首や尻の割れ目は、一般市民に向かって、何はばかるところなく露出されていた。ストリップ劇場のポスターというものが初めてこの町に現れた、最初のポスターを、私は今実際に目にしているように鮮明に記憶している。まず三角地帯を覆う布だ。その布は、青赤金銀のビーズやラメで装飾された、天国的にもきらびやかな布だった。何かの羽根もついている。それが紐やベルトで腰からぶら下げられているのではなく、見せてはいけないところを覆うのに必要最小限の布が、ピタッと三角地帯に付着していた。あれがどういう力で、あんなにもピタッと付着し得ているのか、私は不思議でたまらなかった。足にはハイヒールをはいている。そして頭にはまた、股間の布と同じような装飾がある冠をかぶっている。女が身につけているのは、三角地帯の布、ハイヒール、冠、それだけだ。ポスターの上部には「輝ける女体」と書いてある。それが私が生まれて初めて覚えた難しい漢字だ。豊かな乳房。あまり大きくない乳輪。適度な大きさで固そうな乳首。肌の色も乳首のピンクも、明らかに修正された派手さだ。ポスターの大きさは、縦一メートル五十センチ、横一メートル。当時の私の身長よりはるかに大きい。だから、そこにいる女は、写真ではなく、私には生きている人間のように感じられた。それはポスターと同じ大きさの板に貼られた立て看板となって、町中いたるところに配置された。どの街角を曲がっても、街で出会った恋人のように、女は私に笑いかける。あの三角地帯の下に隠されているものは、いったい何なのか、私は激しくそれを見ることを欲した。しかし、願いは叶わない。彼女たちが住んでいる秘密の場所に自由に出入りできる大人たちに、私はどんなにあこがれたかしれない。私が大人として認められるまでには、前方に万里の長城のような、あまりにも長い時間の壁が横たわっている。私はその時間の重量を思って呆然とした。彼女たちの笑いだけが、この死んだように沈鬱な町にうがたれた明るい希望の窓だった。地獄の廊下を通るような学校への行き帰り、私にとって彼女たちの笑いだけが救いだった。女が一人後を向いて立っているポスターが現れたとき、私はいつにない興奮を感じた。女の顔は見えない。彼女はアップにした後ろ髪を見せるだけで、完全に後ろを向いている。ハイヒールをはいているが、ほとんど直立した姿勢だ。おまけに白黒写真だ。形のいい尻だけが、割れ目を真っ直ぐに私のほうに向けて写っている。尻の割れ目の奥にあるものは、私がどんなに目を凝らしてみても見えない。それはマリワナ海溝のように黒く深い秘められた溝だ。こちらに尻を向けて、ただ立っている女。このあまりのシンプルさ。しかし、これは決して予算不足でも手抜きでもないと私には直感できた。女たちがこちらを向いてきらびやかに笑うポスターをくり返してきた果てに、初めて許される高等戦術だ。男たちがさすがに派手すぎる女に見飽きてきたところに現れる、地味で清純な女。私はどんなにこの女にあこがれたろうか。私は「このポスターの女と将来結婚したい」と学校の作文に書いて、親が学校に呼ばれたことさえあった。私は父にこっぴどく叱られた。しかし、それはストリップ劇場に行ってこの女を見た父こそが、家族を捨ててこの女と逃げたいと考えているからだと私は信じた。

1101夜

2014-06-13 08:12:26 | Weblog
大学のとき、私は東京郊外の中学生の塾で教えていたことがある。郊外も郊外、田んぼの中の小さな塾だ。私は授業中、カマキリがどんなに嫌いかという話をした。「あんなもの、この世から消滅しろ」などとしゃべった。生徒も「エヘヘ」と笑って聞いていた。休み時間になった。教員室へ帰ってお茶を飲む。十分してまた教室へ行った。私が教卓に両手をついて授業をしていると、何か股間がゴソゴソする。気になったが、授業中にチンチンの確認をしているわけにもいかない。授業中に一度でもチンチンに手が行けば、次の授業のときには、ちゃんと黒板にでっかく「チンチン先生」と書いてある。そのときから私はこの塾にいる限り、ずっと「チンチン先生」だ。私は股間のゴソゴソは気のせいだろうと思って耐える。しかし、ゴソゴソゴソゴソ、私の股間にうごめく何かは、ずっと静かにならない。快感さえ覚えてくる。私の股間を小刻みに満遍なく刺激する快感は、絶妙だ。私はついに我慢できなくなる。股間を見る。カマキリ数十匹。数え切れない。緑のも茶色のもいる。私はその場に卒倒した。三分は意識を失っていた。子供たちはたった十分の休み時間のあいだに、近所の田んぼでカマキリを何十匹もつかまえてきたのだ。そして私の教卓の中にしこんでおきやがった。私が目を覚ましたときには、もちろんカマキリは一匹もいない。子供がカマキリをつかんで窓から外に逃がしたのだ。ここは子供を叱るべきなのか。それとも、大人としての寛容さを発揮して、笑って済ますべきなのか。どちらか判断をつけようとする気力もそのときの私にはなかった。ただオロオロするばかりだ。私はシドロモドロになり、早々に授業を切り上げて家に帰った。その塾で教えた思い出は、それしかない。

1100夜

2014-06-01 21:15:48 | Weblog
満員電車。アリのはいりこむ隙間もないという感じだ。若い予備校講師の私は、そのときつきあっていた女の子とはぐれないように、手をつないで乗っていた。ちょっと手を離すとすぐ離ればなれになってしまうくらい、人の波、波、波がうねっている。私は女の子の手を、ギュッとにぎる。女の子は田舎者で、こんな絶望的な人の波に慣れていない。私の手をギュッとにぎりかえす。駅が来る。私たちは降りようとする。私は女の子の手を引っ張り、出口に向かってダッシュする。油断をすると、ここで降りられない恐れがある。人の波が出口に向かって奔流となって流れる。女の子は私の背中にしがみつく。私は女の子の手をさらに強くにぎる。コーラのびんを思いっきり振ってからポンと栓を抜いたような感じで、ドアが開く。炭酸が噴き出すように人が噴き出す。先頭の人は宙を飛ぶようだ。私も炭酸の泡の一粒となって飛び出す。私は必死で女の子の手をつかむ。女の子も必死で私の手をにぎる。しかし、努力むなしく、私の手と女の子の手が一瞬離れる。私は後ろ向きで懸命に女の子の手をさぐる。運良く一瞬後、私は再びガシッと女の子の手をつかむ。女の子も私の手をガシッとにぎり返す。私たちは手をにぎりあったまま一体となって、電車の外に放り出される。巨人の手で背中をドンと押されたように、そのままトトトトトトトと数メートル進む。そして、やっと体の勢いを止め、「ああ、よかった」と私は後ろを振り返る。すると、そこにいるのは、女の子ではない。どこかの見知らぬおやじだ。歳は五十くらい。小柄。赤ら顔でハゲ。ちょっと年期のはいったスーツを着ている。その人は私の手をギュッとにぎっている。「あっ」と思って私は反射的に手を離す。私はいつ、この人の手をにぎったのか。この人もこの人だ。なぜ私に手をにぎられて、ここまでついてくるのか。私とその人はお互いに照れ笑いをするでもない。ちょっと深刻な顔で目を見つめあう。そして、人の波に押されて離ればなれになる。いったい、なんなんだ、あの人は。私は唖然とする。そして、一瞬あと、女の子がどこにもいないことに気づいて慄然とする。私は焦る。ホームの上には、いない。階段の下にも、いない。女の子は慣れない東京で、人の波に押し流されて、どこか、とてつもないところにつれていかれてしまったのかもしれない。それとも、私の手から離れて電車に乗ったまま、次の駅まで行ってしまったのか。当時は携帯電話というものが存在しない。だから、とっさに連絡のしようもない。私は駅の中をフラフラして探したが、見つかるわけもない。隣の駅まで行ってみたが、無駄な努力だ。私はそのまま女の子とはぐれた。ディズニーランドに行く計画もぶち壊しになった。一時間くらいたってから公衆電話で留守電を聞いたら、女の子が泣きながらメッセージを入れていた。やっぱり電車に乗ったまま運ばれ、降りるきっかけがつかめず、ほとんどの人が降りる渋谷でやっと電車の外に押し出されたのだという。「一旦自分の部屋に帰って待ってる」と女の子は泣いて言った。私は女の子の部屋に直行する。「なんで手を離したの」と女の子は私を責める。「なんであたしがいないのに、先に降りちゃうの」と女の子は泣く。私はあの人の話をしたほうがいいのか、しないほうがいいのか、悩む。結局やめた。女の子がこんなに泣いているのに、する話ではない。