いいね~おいしいね~

食べたり買って良かったもの等を実体験に基づき厳選紹介!ぜひご利用頂きより良い人生や日本経済等活性化につながれば幸いです♪

中山道六十九次 街道あるき 日本橋~板橋 ③六地蔵~近藤勇

2016年07月18日 01時00分00秒 | イベント・外出
 阪急交通社が企画する「中山道六十九次 街道あるき」の第1回目の日本橋~板橋 ③六地蔵~近藤勇について紹介したいと思います。

巣鴨に到着し、真性寺へ行きます。
六地蔵の一つがあります。


↑六地蔵の一つ

六地蔵の一つは旧東海道の品川寺にありこのブログでも紹介しましたね♪

 江戸深川の地蔵坊「正元」(しょうげん)が24歳の時に不治の病にかかってしまい、地蔵菩薩に祈願したところ、無事治癒したことから、その感激のあまり京都の六地蔵に倣って、約7万人から浄財を集め、江戸市中街道沿いの6箇所に地蔵菩薩を12年かけて建立したものです。
その六つとは以下とのことです。
いずれも街道沿いにあり、旅人を見守っていたのだと思います。

第1番 品川寺 現存 旧東海道 東京都品川区南品川三丁目5-17
第2番 東禅寺 現存 奥州街道 東京都台東区東浅草二丁目12-13
第3番 太宗寺 現存 甲州街道 東京都新宿区新宿二丁目9-2
第4番 真性寺 現存 旧中山道 東京都豊島区巣鴨三丁目21-21
第5番 霊巌寺 現存 水戸街道 東京都江東区白河一丁目3-32
第6番 永代寺 現存せず 千葉街道 旧:東京都江東区富岡一丁目(深川公園内)


↑六地蔵の地図

どうして六かというと、以下の仏教の六道からのようです。

天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)

勉強になります♪

それから巣鴨商店街に入り、とげ抜き地蔵にいきます。
この辺りはすっかり晴天となり良かったです。
しかも、天候が良くなかったので、珍しくおばあちゃんの原宿である巣鴨商店街が空いていました^_^)


↑とげぬき地蔵


↑とげぬき地蔵の説明

とげぬき地蔵の由来は、毛利家の女中の一人が、誤って口にくわえた針(とげ)を飲み込み苦しんだが、地蔵尊の御影一枚を飲むと、その飲み込んだ針(とげ)が出て来たことから「とげぬき地蔵」と言われるようです。

それからせっかく商店街を歩いたので、「昔ながらの味 日本一のあんぱん」に惹かれて「あんぱん」216円を食べてみましたが、美味しい♪


↑KIFUKUDOのあんぱん

それからかなり老舗そうな「むさしや」の「元祖 地蔵尊 せんべい」のごませんべい12枚入り?400円も堪能しました♪
昔ながらの固いせんべいです^_^;)
この隣は目黒でも有名なウナギの「八つ目や にしむら」ですね。
巣鴨が創業のようです。


↑元祖 地蔵尊煎餅 むさしや 

それから、巣鴨商店街を歩いていると、巣鴨の種子屋の説明がありました。
中山道の旅人は、この辺りの農家で見慣れない野菜を見つけて、その種子を欲しがる人が多かったため、農家は副業として種子を販売するようになったとのことです。
この先の中山道沿いにも種子屋がありましたね♪
明治時代中期には種子問屋が建ち並んだようです。


↑巣鴨の種子屋の説明

そしてしばらく歩くと庚申塚(こうしんづか)がありました♪


↑庚申塚の入口


↑庚申塚の説明

庚申塚は庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いようです。
庚申講とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、60日に1度訪れる庚(かのえ)申(さる)の日の夜の寝ている間に、天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習のことです。
まあ個人的には宴会の口実だったのだと思います^_^;)
申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿がここでは彫られていましたね。
神道では猿田彦神とされ、この庚申塚も猿田彦大神と書かれていました。
この巣鴨の庚申塚は板橋宿の一つ手目の立場として旅人の往来が激しく、休息所として賑わっていたようです。

そういえば、旧東海道にも至る所にこの庚申塚はありましたね。

なお、庚申塚の建立が広く行われるようになったのは江戸時代初期(寛永期以降)とのことで、多数の庚申塚が建てられたようです。
しかし明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進め、さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになったようです。

それから、JR板橋駅の近くに板橋処刑場(近藤勇墓所)がありました。
新選組で有名な近藤勇局長は板橋宿の入口にあった平尾一里塚近くの馬捨場で斬首され、胴体はここに埋められ、供養碑が建てられたとのことです。
近藤勇雄の首は京都まで運ばれたようです。
なお、新選組副長の土方歳三も併記されています。
この供養碑には新選組戦死者40名やその他病死者等64名の名前も刻まれているとのことです。
また、供養塔の建立者で新選組の永倉新八の墓もあります。
土方歳三の生家の資料館には行ったことがあるので感慨深いものがありましたね。


↑近藤勇墓所


↑近藤勇、土方歳三、永倉新八


↑供養塔の説明等

中山道の旅も、地理や歴史の勉強になりとても良かったですね♪

なお、旧東海道ウォーキング(日本橋(東京)~田子の浦(静岡県))まとめはこちらです。


お勧めなお話(2016年上半期)

<今日の独り言> 
Twitterをご覧ください!フォローをよろしくお願いします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする