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中山道六十九次 街道あるき 日本橋~板橋 ①日本橋~旧万世橋駅

2016年07月04日 01時00分00秒 | イベント・外出
 阪急交通社が企画する「中山道六十九次 街道あるき」の第1回目の日本橋~板橋 ①日本橋~旧万世橋駅について紹介したいと思います。

 今までは東海道五十三次のウォーキングについて紹介してきましたが、阪急交通社で中山道シリーズも始まるとのことなので、さっそくその第1回目に参加してきました♪

 中山道は全長約534kmで、東海道の約495kmと比べると約40km長いとのことです。
しかしながら、宿場町は東海道の53に対して中山道は69と、16多いのが特徴です。
というのは、やはり中山道は坂道が多いので、それだけ1日で歩く距離も東海道と比べると短くなるようです。

当時は、江戸から京都まで行くには夏場は中山道、冬場は東海道を歩くのが主流だったようです。
というのは、冬場は積雪のため中山道は避けられ、夏場は川の増水があり川を渡れなくなるため東海道は避けられたようです。

まず、9時30分に日本橋近くの公園に集合し、簡単な説明や準備体操をして10時に出発します♪
近くの日本銀行の横を通っていきます。
日本銀行は上空から見ると、「円」という形になっているのはさすがですね^_^)


↑日本銀行

そして、すぐに日本橋に到着します。
今や、その上を首都高速道路が走っていて、当時の面影はまったくありません。
日本橋は江戸時代の五街道(東海道、中山道、奥州街道、甲州街道、日光街道)の起点となり、近代でも日本国道路元標が設置され、同様の役割を果たしたようです。


↑道路元標

それから「ひげのかじさん」によるラジオイヤホンを使った解説がありました♪
上記の東海道と中山道の違いや、中山道は約30藩の大名行列があり加賀の前田家が有名だったとか、幕末の新選組も江戸から中山道を通って京都へ行った、中山道は碓氷峠までは坂道は大変ではない、草津で東海道と中山道が一つになるなどの話が、楽しく面白く語られました♪


↑ひげのかじさん

旅を楽しく続けるコツは以下の3つとのことで、確かにそうだと思いましたね^_^)
楽しく人生を続けるコツとも共通するかと思います♪

(1)プラス思考(雨の日にもいいことがあると考える)
(2)当時をイメージしながらウォーキング(街並みを想像したり、歩く人もちょんまげしていると想像する)
(3)自分の楽しみを見つける(甘味や地酒、各地のお土産など)

それから日本橋を渡って中山道を進みます。
現在の日本橋は明治44年に石橋となり、橋には麒麟像がありますが、この起点から全国に飛び立つという意味が込められているようです。
素晴らしい像だと思います。


↑日本橋の麒麟像

それから、日本橋は江戸時代の頃から明治時代は魚河岸だったという説明がありました。
江戸時代の頃は、まずは魚などは将軍や諸大名に調達され、その残りをこの日本橋で売り出したことに始まるようです。
江戸時代には一日に千両もの取引があったようですね。
 ところが、大正12年(1923)の関東大震災にこの界隈は焼失し、魚河岸は現在の築地へ移ったようです。
ちなみに「築地」という地名は江戸は湿地帯だったので、地面を固めた(築いた)ようで、そのため「築地」と言うようです。
 

↑魚河岸の碑


↑日本橋魚河岸の説明


↑当時の震災前の写真

それから旧中山道を歩きます。
三越や三井住友信託銀行の由緒あるビルがありますが、江戸時代には有名な呉服店の越後屋があったようです。


↑三越や三井住友信託銀行の由緒あるビル

 「越後屋」(ゑちごや)は、江戸時代の1673年(延宝元年)に創業し、「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名を馳せたお店です。
現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、広く一般市民のものにしました。
井原西鶴の日本永代蔵にも記述がありましたね♪

それから、追分に到着しました。
ここで、中山道と奥州街道、日光街道が分岐されたようです。
辺りはビル群で、当時の面影あまったくありませんね^_^;)


↑追分

それからしばらく歩くと、石町の「時の鐘」跡の説明がありました。


↑石町の「時の鐘」跡

江戸時代には、日本橋石町、浅草寺、上野寛永寺、本所、横川町、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の9カ所に時の鐘があり、時刻を知らせていたようです。
その鐘が聞こえる所に住んでいる町人は、年間4文(当時の約100円)を支払わなければならなかったようです。
また当時の時刻はそんなに正確ではなく、特に市ヶ谷は尾張藩があり早く仕事を終わらせたかったので、早めに鐘を鳴らしていたようです^_^;)
そして四谷は酒を飲んでいる客が多いため、その客を早く帰らせるために、早めに鐘を鳴らしていたようです^_^;)
面白いですね。

それから、しばらく歩くと筋違門などの説明がありました♪
この辺りで風雨が強くなって大変でした^_^;)
この日は爆弾低気圧?が通過していて、雲の流れがかなり速かったですね。


↑筋違門の説明


↑筋違門前の広場など


↑筋違門

この辺りには江戸時代には筋違門(すじかいもん)とその門前の広場があったとのことです。
当時は江戸城三十六見附と言って、江戸には三十六の城門があり、江戸市中を出入りする人々を監視していたようで、その一つです。

この筋違という名は、日本橋から本郷に通じる中山道と江戸城から上野寛永寺に至る将軍家の御成道(おなりみち)が斜めに交差していたからで、当時はこの広場は筋違八ツ小路と言われ、江戸でも最も賑やかな場所だったようです。
八ツというのは、筋違門・昌平橋・淡路坂・駿河台紅梅坂・御成道・須田町・柳原土手・小柳町の八方向の道に通じていたためです。

この筋違門は、万世橋が建設された明治5年(1872)に石垣などが取り壊され、その後、東京でも屈指の繁華街だった須田町交差点前に中央本線のターミナル・万世橋駅ができたようです。


↑万世橋駅の説明

その広場には日露戦争の英雄、廣瀬武夫と杉野孫七の巨大な銅像が建ち、また東京市電(路面電車(ちんちん電車))の各系統が集まってますます賑わいを増したようです。
しかし、1914(大正3)年に東京駅が開業し、1919(大正8)年に中央本線が東京駅まで開通すると万世橋駅はターミナルとしての役割を終えて中間駅となり乗降客も減っていったようです。
しかも、1923(大正12)年の関東大震災で駅舎が焼失してしまったようです。


↑関東大震災で被災した万世橋駅

大宮にある鉄道博物館のミニ列車の駅名に万世橋駅というのがありましたが、当時はそんなに賑わっていたとは驚きましたね。
今ではその面影がまったくなく、ただ驚くばかりです・・・。

次回は、②神田神社~染井吉野です。


お勧めなお話(2016年上半期)

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