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中山道六十九次 街道あるき 日本橋~板橋 ②神田神社~染井吉野

2016年07月11日 01時00分00秒 | イベント・外出
 阪急交通社が企画する「中山道六十九次 街道あるき」の第1回目の日本橋~板橋 ②神田神社~染井吉野について紹介したいと思います。

 旧万世橋駅を過ぎて歩くと、神田明神がありました。
神田明神という名称が有名ですが、本当の名前は神田神社とのことです。


↑神田神社の由緒


↑神田神社の鳥居


↑神田神社

天下分け目の関ヶ原の戦いの前には、徳川家康はここで戦勝祈祷を行い、見事に勝利して天下統一を果たしたので、それにより神田神社は幕府の崇拝する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に移し、幕府により社殿が造営されたとのことです。
東京都心108町会の総氏神様で、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として青果市場・魚市場の人々からも篤く崇敬されているとのことです。
縁結び・商売繁盛・社運隆昌・除災厄除・病気平癒などの神様とのことです♪

それからしばらく歩いて東京都水道歴史館で昼食となりました。
かなり風雨が強かったので、良い雨宿りとなりました♪
お弁当を3階で美味しく頂きます。


↑弁当

そして2階には江戸時代の頃の水道について詳しく説明があり驚きました!
当時の江戸の町には木枠で作られて地中に設置された水道がかなり広範囲に整備されていたんですね♪
このインフラはとても素晴らしいと思います。


↑当時の江戸の水道


↑井戸などの仕組み

そして当時のその木枠なども残っていました。


↑木枠の水道

また、汐留では旧伊達家の屋敷からもその木の水道インフラが発掘されたようで、その写真もありました。
地中にこんなに整備されていたとは、江戸の町は凄いと改めて思います。


↑旧伊達家の屋敷の水道設備

この東京都水道歴史観は入場無料だし、水道に関する歴史を学べ、とてもオススメですね♪

それから旧中山道を歩くと、東京大学がありました♪
東京大学といえば赤門が有名ですが、旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門であり、1827年に第12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女、溶姫を迎える際に造られたとのことです。
赤色はおめでたい色とのことでしたね。


↑東京大学の赤門

そして「本郷弥生」という交差点がありましたが、この辺りで土器がたくさん見つかり、それらの土器が作られた時代のことを、この地名の「弥生」から取って「弥生時代」と言われるとのことです。
それは知らなくて驚きました♪
「弥生時代」って、この「弥生」という地名から名づけられたんですね^_^)


↑本郷弥生の交差点

それから、追分一里塚跡がありました。
ここは日本橋から最初の一里塚で、日本橋から約4kmの距離となります。
日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道だったので、追分一里塚と言われていたようです。
当時はヒノキが植えられていたようですね。


↑追分一里塚

それから歩いて行くと、巣鴨に近づいてきましたが、「徳川慶喜 巣鴨屋敷跡地」の案内がありました。
徳川慶喜は、大政奉還後に静岡で謹慎生活を送っていたようですが、明治30年にようやくこの巣鴨に戻ることができたようです。
当時は「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたようですね。
しかし、この巣鴨に鉄道が通ることが決まり、その騒音を嫌って、文京区へ4年程で移ったようです。


↑徳川慶喜の屋敷跡


↑徳川慶喜の屋敷跡の説明

それから近くに「染井吉野」のモニュメントがありました。


↑染井吉野のモニュメント

「染井吉野」とは桜の品種で有名ですが、この辺りで改良され、全国に広まったようです。
近くに「染井」という地名がありますね。
この「染井吉野」は葉が花が咲いた後に生え、そして花弁が大きく美しいため、全国に広まったようです。
今では桜といえば、「染井吉野」が代表的な桜となっていますね。

次回は、③六地蔵~近藤勇です。

お勧めなお話(2016年上半期)

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