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東海道五十三次 街道をゆく 小田原~畑宿 (2)風祭の一里塚~早雲寺

2016年02月22日 01時00分00秒 | イベント・外出
 前回に引き続き、阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」の第9回目の小田原城~畑宿 (2)風祭の一里塚~早雲寺について紹介したいと思います。

 昼食を食べた後、さっそくウォーキング開始です。
まず風祭の一里塚がありました。
江戸の日本橋から21番目の一里塚で、約81.9kmとのことです。一里は約4kmですね。


↑風祭の一里塚


↑風祭の一里塚の説明

この風祭には実は北条家の忍者である風魔党がいたようです。
字も似ていますよね。
特にこの風魔が活躍したのは、上杉家との川越城での戦いで、上杉連合軍8万に対して北条家は1/10の8千だったようですが、寝静まっている夜に音が出る鎧を脱いで切りかかり大勝利したようです。
川越夜戦として有名なようです。

 それから、紹太寺(しょうたいじ)へ行きます。
小田原藩主稲葉家の墓所で、広大な敷地です。
稲葉家に嫁いで後に将軍徳川家光の乳母となった春日局の墓もあるようです。
春日局の夫の稲葉正成は関ヶ原の戦いで小早川秀秋を西軍から寝返らせた立役者とのことです。


↑紹太寺の看板

それから、ここの隠元(いんげん)禅師は中国から精進料理をもたらし、あのインゲン豆やタケノコ、レンコン、スイカももたらしたようです。
インゲン豆は、隠元が名前の由来とは知りませんでしたね^_^)
勉強になります!


↑隠元禅師が伝えた精進料理の看板

それから、この紹太寺入口からは、豊臣秀吉が北条攻めの際に一夜で建てたように見せかけた一夜城の山が見えました!
実際は山の中で城を造り、夜中に一斉に城の前にある木々をを切り倒したようです^_^;)
結構本格的に城は造られたようです。


↑一夜城があった辺り

それから少し歩くと、源頼朝が富士の巻狩の帰りに乗っていた馬が暴れ、その馬の爪跡が石橋に残ったと言われる「駒ノ爪橋跡」がありました。
石に足跡をつけた頼朝の馬の頑強な足にあやかりたいと、旅人が祈願していたようです^_^)
面白いですね。


↑駒ノ爪橋跡の案内

それから、その近くに日本初の有料道路の説明がありました。
明治8年(1875年)に、小田原の板橋から湯本まで全長4.1kmの日本初の有料道路ができたようです。
開通した日から5年間通行料が取られたようですが、人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘だったとのことです。
当時は1銭は現在の30円くらいの価値だったようです。
人力車や大八車というのが時代を感じますね^_^)


↑日本初の有料道路の説明

そしてしばらく歩くと湯本駅などが見えてきました。
いよいよ箱根の山を登ることになります。


↑湯本駅方面

そして、早雲寺がありました。
北条五代の墓があるお寺です。


↑早雲寺の説明


↑早雲寺

天正18年(1590年)に豊臣秀吉軍により北条家は滅びることとなり、このお寺もその際に一度は焼かれたようです。
北条家は五代続いたのですが、親子関係は上手くいったようで、骨肉の争いは戦国の世には珍しかったようです。
教育がしっかりしていたようで、他家へ嫁ぐ娘に対しても嫁入り21か条などがあったようです。


↑北条五代のお墓


↑北条五代の説明

それから話が変わりますが、箱根で温泉が有名になると、箱根宿や小田原宿に泊まる客が減り、宿場町の人は幕府に願い出て、飯盛女をおく許可を得たようで、それから箱根宿や小田原宿は景気がよくなったようです^_^;)

今回は、春日局などについて理解できたのは良かったし、日本初の有料道路があったとは驚きましたね^_^)

次は、(3)一里塚~畑宿です。

お勧めなお話(2015年下半期)

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