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東海道五十三次 街道をゆく 東戸塚~藤沢宿 (2)戸塚宿~八坂神社

2015年09月28日 01時00分00秒 | イベント・外出
 前回に引き続き、阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」の第5回目の東戸塚~藤沢宿の(2)戸塚宿~八坂神社編について紹介したいと思います。

 これから戸塚宿となります。

戸塚宿の成立は1604年で、隣の宿である藤沢や保土ヶ谷の宿が成立した1601年には3年遅れたようです。

というのは、柏尾川がたびたび氾濫して洪水が多かったというのもその理由のようです。

しかしながら、保土ヶ谷宿~藤沢宿間が比較的長いことと「権太坂」と「大坂」の二つの難所に挟まれていること、江戸の日本橋から5番目の宿場町で、距離は10里半(約42km)と、江戸を朝出発した当時の旅人の一番目の宿泊地として最適であり、さらに鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せたことから成立したようです。

戸塚宿の本陣は2、脇本陣は3、旅籠は75軒と東海道五十三次の宿場の中では10番目に宿泊施設の多い宿場だったとのことです。

なお、当時の東海道五十三次の双六(すごろく)では、江戸を出発すると戸塚でほとんどの人が泊まるので、戸塚は「一回休み」というものが多かったようです^_^)

 それからよく「不届き者!」(東京ディズニーシーのインディジョーンズのアトラクションでもたまに言われますね^_^;))と言いますが、この不届きというのは、当時の人馬制度で届出がない無許可のな商売のことで、とくにこの戸塚宿は隣の宿より3年成立が遅れたので、当初は不届き者が多かったようです^_^;)
「この不届き者めが!」と言われて捕まっていたようです^_^;)

旧東海道を歩いているとフォルクスというファミレスがあり、そこに昔は江戸方の見附があったとのことです。
この見附からが戸塚宿になるとのことです。
その石碑がありました。


↑戸塚宿の見附

それから、この辺りを歩いていると、マンホールが浮世絵っぽくなっていて、そして箱根駅伝のランナーが走っているカラーの柄で驚きましたね^_^)
なかなか良いと思います。


↑マンホール

それから、吉岡の一里塚跡がありました、江戸の日本橋から10番目なので約40kmとなります。
もうすっかり都市化され、一里塚の面影はまったく見ることはできませんね。


↑吉田一里塚跡


↑戸塚一里塚跡の説明

それから、戸塚の有名な安藤広重の浮世絵の吉田大橋に到着しました。
橋には4枚のカラーの浮世絵を見ることができます。
ちなみにこの浮世絵の「こめや」と書かれている看板は、どこかに現存しているとのことです^_^)


↑戸塚の浮世絵

現在の吉田大橋は昭和55年に堤防ができて、昭和61年に橋が完成したとのことです。
伊勢湾台風や関東大震災の時にも壊れた歴史を持つようです。
この柏尾川は約1kmで1mの高低差しかなく、しかも川幅が狭くてそもそも洪水がおきやすい条件だったようです。
なお、現在の吉田大橋の照明は、当時の大名行列の先頭のぼんぼりをイメージしているとのことです。なるほど・・・


↑現在の吉田大橋の照明

それから、内田本陣跡、脇本陣跡がありますが、都市化しているので当時の面影は全くありませんね^_^;)


↑内田本陣跡


↑脇本陣跡

澤邊本陣跡は少し立派に跡が残っていました。


↑澤邊本陣跡

それから、八坂神社へ到着しました。
この神社は京都の流れで1572年頃始まりますが、北条氏滅亡後荒れはて、徳川五代将軍綱吉の時に再興したようです。


↑八坂神社

この八坂神社では、「お札まき」がという踊りが有名なようです。
このお札が巻かれると、人々は急いで拾い、家の戸口や神棚に貼って、厄除けとしていたようです。
江戸時代中期には江戸や大阪で盛んにこの「お札まき」が行われていましたが、現在まで残っているのはこの戸塚宿の八坂神社だけとのことです。


↑お札まき

それから当時の道しるべがありました。
「かまくら道」と書いてあるようです。


↑道しるべ

今回も色々と歴史の勉強となりました^_^)

次回は、(3)冨塚八幡宮~浅間神社です。

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