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「ゆっくり、いそげ(景山知明)」という本はとてもオススメ!

2015年08月07日 01時00分00秒 | 
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「ゆっくり、いそげ」という本は、JR中央線の西国分寺駅近くにある「クルミドコーヒー」というカフェ経営者が、そのクルミドコーヒーでの経験から、かけるべき時間をかけ、かけるべき手間ひまをかけ、いい仕事をして、お客様にギブを続け、地域での関係を育てることが結局はGDPの成長につながるということ等について書かれたものです。

 数年前に近くに住んでいた頃は、私自身もクルミドコーヒーはよく利用していたお店で、お値段は少し高いながらも、自分で割ってクルミを無料で食べられ、気持ちよい空間が広がり、とても感じが良いお店でした。

 そしてオープン以外の時間にもよく研修らしきものをしているなぁと思っていましたが、本書を読んで、こんなにもギブをし、お客様のことを考えていたとは感動しました。

 食べログでも、2013年はカフェ部門で日本一になっているんですね。
驚きました!

 また本書では、仕事に人をつけるのではなく人に仕事をつけること、人に任せること、仕事の正体は「時間」であることなどについても、書かれていて、考えさせられます。

 「ゆっくり、いそげ」という本は、今後の豊かな世界へのヒントとなることがたくさん書かれ、良書だと思います。
とてもオススメです!!

以下はこの本のポイント等です。

・例えば、ぼくらのお店のコーヒー一杯の値段は650えん。目の前100mのところにあるコーヒーチェーンでは、その1/3の値段でコーヒーが飲める。そして、そちらの方が駅に近い。確かにこのように記号化してしまうと少し不思議な感じだ。なぜ人はわざわざ3倍の値段を払ってまで、よりアクセスの悪いコーヒー屋に足を運ぶのか。ただこうした値段だからこそ、十勝産の小麦粉を使うことができるし、メニューは冷凍品やレトルト品を使わずに一からお店で調理したものを出すことができる。だからこそお店を保ち、運営し、推進していくチームをつくることができるし、殻付きクルミを「おひとつどうぞ」ともできる。そしてぼくらは少なくともここまでお店を続けてくることができた。

・クルミドコーヒーには、1日におよそ120人のお客さんが訪ねて来てくださっている(2014年現在)。これは本当にありがたいことで、これくらいの人数になってくると、食材を購入し、スタッフに給料を払い、家賃を払い・・・としても、お店が経営的に成り立つようになる。これが1日に10人のお客さんだったとすると、それはやはり厳しいだろう。経済・経営が成り立つには一定の規模が必要。これは逃れられない原則だ。つまり「特定少数」ではダメということだ。内輪な関係だけでは経済・経営は成り立たない。「不特定多数」でもなく「特定少数」でもなく、「特定多数」。

・クルミドこーひーにおいて、現在何かしらの価値の周波数を共有する「特定多数」は、5000人ほどではないかと感じている。年間の来店者数がおよそ4万人であることや、またSNS上のフォロアーの数などから類推しての数字だ。そしてこの数字が3000人を超えた辺りから、経営の収支がようやく合うようになってきた手応えを感じた(スタッフに対しての給与水準等は、まったく十分ではないけれど・・・)。一つのカフェを支えるには、それくらいの「ファン」を獲得できればいいということか。お店としての新しい取り組み「クルミド出版」の周囲を考えたときも、やはり3000人がひとつのキーナンバーとなった。もちろん本の作り方にもよるが1000人に支持されれば初期投資を回収でき、支持者が3000人にまで至れば、本を書いたりつくったりすることが一つの職業になるような収支水準となる。

・それはギブすること、つまり、「贈る」ことを身体的に理解するため。そしてお客さんにも、「贈り物」を受け取る経験してもらうため。クルミドコーヒーでは、年に何回かこうしたことをやっており、チーム内で「マゾ企画」と呼んだりしている。まわりから見るとマゾとしか思えないような大変な役回りを、期間限定ながらスタッフが交代で担うのだ。もちろん日々の営業でも同じことは実現できるし、むしろ日々の営業こそ大事とも言えるかもしれない。実際毎日毎日、営業開始の3時間前から粉をあわせ種をつくるところからはじめて、ケーキを焼き続けてきていることなどは、ぼくらのお店としての原点であり、基本動作だ。ただ一方、通常営業と別に、「くるみ餅」のように期間限定で過剰ともいえるような負荷を定期的に背負う経験をすることは、ぼくらのお店の原初的な姿勢が「贈る」ことだと思い出させてくれる貴重な機会でもある。例えば○周年記念などで、「期間限定10%オフキャンペーン」などとやるお店もきっとあり、これはこれでお店としてはお客さんから受け取るものを減らす形でのgivingな取り組みなのだと思う。ただ僕らは、むしろ贈るものを増やす形でのgivingを実現したい。つまりマゾ企画は、ぼくらなりのお客さんへの謝恩企画なのだとも言える。

・交換を「等価」にしてはダメなのだ。「不等価」な交換だからこそ、より多くを受け取ったと感じる側が、その負債感を解消すべく次なる「贈る」行為への動機を抱く。だから、お店が定価以上のいい仕事を続けていけばお客さんは増えていくし、それは提供者サイドにとっての手応えともなり、お店に前向きなムードをつくる。そして、こうしたお客さんの側への「健全な負債感」の集積こそが、財務諸表にのることのない「看板」の価値になる。

・「経済」とは、仕事や価値の交換の連なり/循環と定義することができると思う。誰かが誰かに仕事(価値)を贈る。受け取ったそれに価値を感じた人は、贈り主に何か仕事(価値)を返すこともできるし(恩返し)、誰か別の第三者にそれを贈ることもできる(恩贈り)。そうして仕事や価値がまちを巡る。ということは、一つひとつの交換のありようが変われば、それらの連なりとしての経済の姿も大きく変わってく。そして、そうした人の「贈る仕事」の流通量が増えていくことを経済の成長と呼んでみてはどうかと、ぼくは思うのだ。

・通常の会社やお店で取り組みを進める場合は、そこに会社/経営者からの指示や命令があることが一般的だろ。この場合、ミッションは「与えられるもの」。ただ今回はそうではない。メンバーの自発意思に基づいて、自分たちがやりたいと思ったこと、自分たちが必要だと思ったことを実行に移してくれている。ミッションはそれぞれが「見つけたもの」。他人ゴトではなく自分ゴト。そして会社/経営者、さらにいえば時には他のお店のスタッフも、その過程を支援する側となる。それでは、もしメンバーの表現したいこと/挑戦したいことが必ずしもお店の運営に直結することでなかったとしたらどうだろうか。-そういう状況でも基本的なスタンスは変わらない。きわめて単純化してしまえば組織力/チーム力とは、「個々人の力の総和」×「チーム内の関係性」のようなものだ。後者はプラスにもマイナスにも働きうる(互いを生かし合うことも、足を引っ張り合うこともできる)。ただ、いずれにせよ前者が育っていかないことには会社やお店は成長しない。一人ひとりがそれぞれに多くの人と出会い、技を磨き、経験値を高め、世界を広げていくことは、直接・間接にお店にも必ず還ってくる。

・ぼくは、会社も「ボランティア組織」じゃないかと思うのだ。先ほどのボランティア三原則を会社に当てはめてみよう。
①自発性-会社やお店の発展・成長を自分ゴトと捉え、自ら課題を見つけ、率先して挑戦する。働いているのは「誰かに言われたから」ではない。
②公共性-そこでの働きは自分ではない誰か(他者)に向かっており、その人を喜ばせることが自分の喜びでもある。
③無償性-給料や時給は働く上でのきわめて重要な要素であるし、多くの場合それが職を求めるきっかけでもあるが、かといってお金のために働くわけでもなく(動機の無償性)、むしろそれは自分の仕事や貢献に対して周囲がもたらしてくれる対価と考える。
 会社/経営者と社員/メンバーの関係を「利用(テイク)」し合う関係性」ではなく、「支援(ギブ)」し合う関係性」として構築しようとする場合の重要な原則を、①~③が言い当ててくれている。一人ひとりの人生は会社に先立ってある。会社は、一人ひとりのメンバーを「利用」するのではなく、それぞれの人生であり、そこに根をもった一つひとつの自発性を「支援」する。そうして発揮されるメンバーの自発的な働きや貢献によって会社は形成され、運営され、成長する。もちろん、そうかと言って「なんでもあり」になっていいということでもない。会社や組織には理念や事業の範囲(ドメイン)がある。けれども、それらを固定的に考えてしまうのではなく、たとえば新しくメンバーが加われば、そのメンバーが加わった分だけ、理念や事業の範囲も動的に変化してもいいのではないかと思うのだ。そしてこうした関係においては「給料」の意味も変わってくる。「利用し合う関係性」に基づく組織(会社)においては、会社から見て給料はメンバーの労働を手に入れる(テイク)ための道具だ。あたかも商品・サービスを「購入」するかのように。一方、「支援する関係性」に基づく組織においての給料は、メンバーの働きであり貢献を受け取るための道具であり、「いいものを贈ってくれてありがとう」と表現する手段だ。メンバーがより積極的に貢献をしてくれればくれるほど、会社/経営者は「受け取っているものの方が多いな」「ああ、こんな額じゃ足りないな」と「健全な負債感」を高めていく。そして「なんとかもっと給料を支払ってあげたいな」とまでも考えるかもしれない。お金で足りない部分は、何とか別の形ででも返してあげられないかとまで考えるようになるかもしれない。そして、メンバーにとっての給料は、自分の働きに対する対価だ。自発的な働く意思がが先にあり貢献が先にあって、それへの「反対給付」として給料が支払われる。会社であり経営者がそうしたメンバーの「ギブ」をきちんと受け取る感受性を持ち、受け取ったもの以上のもので返そうとする姿勢を忘れなければ(そしてそれを実際に行動で示せれば)、給料の多寡の問題だけでなく、メンバーは働くことの満足感を得られるようになるだろう。中には、会社/経営者から「いいものを受け取った」「いい機会を受け取った」と感じるメンバーがいるとすれば、こちらも「健全な負債感」に基づき「受け取ったもの以上のものを会社に返そう」とする姿勢で、組織への貢献を考えてくれるようになるかもしれない。こうしてメンバーもメンバーで、会社を「支援」するようになる。片方の「贈る」姿勢と行動が、受け取った他方の次なる「贈る」姿勢とを行動を引き出す。「受贈的な人格」に基づく組織づくりが、こうして実現する。

・コンビニのお弁当がおいしくないのは、味が悪いからでも、使っている食材の産地のせいでもなくて、きっとそれはそこに作り手の存在が感じられないからだ。反対に、娘のにぎったおにぎりだったら、それがどんなに不格好だったとしてもきっと間違いなくおいしい。だから、お店でのチャレンジの一つひとつの向こうには必ず誰かの存在があって欲しい。そのことをお客さんに説教臭く語ることはないにしても、そのモノやコトの向こうに、「この人がいたから」という、固有の存在としてのスタッフの顔が浮かぶようなことをしたい。

・「仕事に人をつける」-それを突き詰めていくと人はどんどん「替えのきく」存在になっていく。Aさんがいなくなっても、何事もなかったようにBさんが現れその役割を代替する。BさんがいなくなったらCさんが。そうして組織は淡々と回っていく。しかしそのことを徹底すればするほどメンバーにとっては、「自分なんていなくなったって誰も困らない」と、自分の存在意義自体への疑念にたどり着く。「一人ひとりが、かけがえのない存在である」なんてのは経営者としてはロマンチック過ぎる判断かもしれない。けれども、少しはそう思える余地があったっていいじゃないか。そう思うから、クルミドコーヒーでは「人に仕事をつける」。それぞれの人生から必然性をもって立ち上がってくる動機に機会を与える。だからお店が、その向こうにつくり手の気配が感じられるようなモノゴトで満ちる。そして、メンバーが卒業するたびにお店の大事な何かしらを失っていく。こうした店づくり、会社経営は、メンバー一人ひとりを「利用」するのではなく「支援」しようとする原則に立ったときの、当然の帰結のようにすら思える。そして内部の「交換」原則がギブになることによって、外部(お客さん)とのギブの交換も無理なく自然に行うことができるようになる。つまり、「支援し合う」組織づくりは、その過程において一人ひとりの個性をいかした働く人の満足感が高い経営を実現できる点においてのみ価値が高いわけではない。そのことが外に向けての組織の生産の量と質とを高め、結果、組織としての高い売り上げや利益の実現にもつながえい得るという点において、可能性を秘めているのだ。

・開業してから当初1年は、「自分がリーダーなんだから、自分がなんとかしなければ」と多くの荷物を勝手に背負い込んでいる感覚があった。ただやってみて分かったのは、自分がいかにできないことだらけかということ。当時36歳。それまでの経営コンサルティングやベンチャー支援の領域であれば、それなりの経験も積んでいるしそれなりの実績もあるし-自分に対しての自信もあった。ただ、ことがカフェ経営となると、コーヒーのことは知らない、ケーキもつくれない、季節の植物も分からない、棚の一つもつくれない・・・と、ないないだらけ。その自分の無能さに頭を抱える日々となってしまった。だが結果的には、それくらいできないことだらkだったことが、逆に自分を吹っ切れさせてくれたところもあったように思う。「もう、まわりに助けてもらうしかない」と。

・CSRとは、「利用してきた者」による「利用されてきた者」への還元活動である、と。もし企業の活動が、本気で顧客を、従業員を、自然環境を、社会を「支援(ギブ)」するものであるなら、その本業以外にCSRという用語が登場する余地がこれほどまでにあるだろうかと思うのだ。また企業にとって顧客が、従業員が、自然環境が、社会が、「私たち」、もしくは「自分の一部」としてすら認識されるような大事な存在としてあるのなら、そこに貢献することは自らの存在理由そのもの-その貢献が、短期的に会社の売上・利益、あるいは広報効果などにつながらなかったとしても、「自分の一部」を守ろうとすることは、極めて自然で合理的な行動でさえあると思うのだ。

・2011年3月11日。東日本大震災。ぼくは3月25日に緊急支援ボランティアで被災地に入った。1995年の阪神・淡路大震災のときには「動かなきゃ」と頭で考えながらに、実際には動けず、悶々とした日々を送ったことを覚えている。なのに、このときばかりはフットワーク軽くスッと動けたことが、当時、自分自身不思議なくらいだった。それはきっと、クルミドコーヒーをやってきていたからだと思う。不思議なことに、その瞬間、被災地のことが「自分の一部」と感じられたのだ。東北地方と直接の取引関係があったわけではない。仙台にこそ親類縁者はいるもののぼくにとってはそれほど近しい関係ではなかったし、ましてや三陸地方には何のゆかりもない。ただお店をやっていると、スタッフ、お客さん、取引先・・・、色んな縁に支えられて自分があるということを日々実感するようになる。ぼくは自分一人においてここに在るわけではない、と。

・お店と(地域)社会との関係は、植物と土の関係に似ている。植物(お店)が育つためには土(地域社会)が必要であることは言うまでもない。土から水を吸い上げ、栄養を吸収し、植物は育つ。ただ植物(お店)は同時に根を張り、ときに菌を寄生させ、花や実をつけ、葉を落とし、土壌(地域社会)を豊かにする。どちらかがどちらかを一方的に利用(テイク)する関係ではない。互いが互いを支援(ギブ)し合い、結果生み出される豊かさを互いに分けあっている。これは、お店がスタッフを支援し、お客さんを支援し、地域を支援し、また逆にそれぞれから支援をされ、互いに育ち合う関係と同型のものに見える。つまり、支援(ギブ)する経済活動は、地域社会という土壌、関係性という土壌を育てるのだ。

・前向きな関わり合いを実現するにはやはりコツがある。ーそれが「支援の話法」。「話すより聞くこと」と「違いを楽しむこと」だ。こうした関わり合いは、もちろん過程での摩擦やすれ違い、ときに感情的な対立なども内包しながらも、基本的には「楽しい」ことでもある。哲学カフェ-「クルミドの朝モヤ」がそうであるように。

・”書物の一冊一冊には、時の流れのなかで、我々が加えた解釈がこびりついています。我々はシェイクスピアを、シェイクスピアが書いたようには読みません。したがって我々のシェイクスピアは、書かれた当時に読まれたシェイクスピアよりずっと豊かなんです。(中略)傑作は最初から傑作なのではなく、傑作になってゆくんです。”ここで傑作を「50年や100年といった長い年月を超えて人々に愛される作品」と定義したとすると、傑作が傑作たるためには、そうなるための時間とプロセスが必要なんだということになる。その作品が誰かの手に取られ、何かしらのインパクトを残し、想像もしなかったような波及効果を生み、それがまた別の誰かのところに届いていく。

・ぼくらが提供しているのは「時間」。これはクルミドコーヒーにおいても常に意識してきたことだった。ぼくらが提供しているのはコーヒーやケーキといった「コンテンツ」ではない。それは、「いい時間を過ごしてもらう」こと。取り扱っているのは「時間」なのだと。そのためにはどうしたらいいのか?そう考えたときにたどり着いたぼくらなりの(ひとまずの)結論が、「存在を傾けた、手間ひまのかかった仕事をちゃんとすること」だった。まずこちらが時間をかけること。コーヒーをおいしくすること、ケーキをおいしくすること、気持ちのいい接客をすること、空間を清潔に保つこと・・・。これらはすべて必要条件ではあるが、十分条件ではない。変に楽をしようとせず、手間ひまをかけた丁寧な仕事をちゃんとすること。加えて、ぼくらならではの必然性ある仕事をすること。

・あらゆる仕事の正体は「時間」であると思う。それも機械が働いた時間ではなく、人が働いた時間(「働かされた時間」ではなく)。そして、仕事に触れた人は、直感的にその仕事に向けて費やされた時間の大きさを感じ取るセンサーを持っているのではないかと思う。そしてその費やされた時間の大きさと、そこから生じる「快」の感覚は一定の相関性を持っているのではないか。それは言語的なものではなく、ときには意識すらされないものであったとしても、「なにか落ち着く」「気持ちがいい」「からだがよろこんでいる」のような形で感得されるもの。「いい時間を過ごせる」ことの正体は、そういうものなのではないかと思っている。だから雨が降ろうが、雪が降ろうが、毎日お店を開ける。冷凍品やレトルト品を使わず、一品一品手でつくる。季節ごとに変わるメニューを、毎回手で書いて、皆で貼り替える。できるだけ物事をお金で解決しない。もちろん、そうかと言ってすべてを一か手でつくれているわけではない。コーヒー豆は焙煎したものを仕入れているし、小麦粉だって自分たちが育てたものではない。電気だって人がつくったものだ。でも、お互いがお互いの持ち場を見極め、他の人の仕事の機会をつくることも経済の重要な側面だと思うし、そうした分業があるからこそ、それぞれがそれぞれの仕事を究めていけるという面もきっとある。ただぼくらは、誰のどういう仕事にお金を払うのかを選択することはできるし、また少しずつでも、その道の人に負けないレベルで、自分たちで自分たちの使うものを作り出せる領域を広げていけたらいいなとは思う。

・自分がずっと考えている仮説がある。時間をかけること、手間ひまをかけること、贈る仕事をすること、を突き詰めてやっていけば、実はきっとGDPすら成長させていくのではないか。今は金銭的な価値を追求すること、GDPを成長させることを(半ば無意識的に)目的として人が働いている。ただ逆説的だが、そうしようとすればするほど人の仕事の中身は空っぽになり、経済成長は遠ざかり、気がつけば日本の一人当たりGDPは世界24位と落ち込んでいる(2013年)。そこで、やり方を変える。お金のために働くこと、お金のための経済をやめる。お金以外の価値の大事さを見直す。一つひとつの仕事に、時間と手間とをちゃんとかける。自分の目的のために目の前の人を、利用するのではなく支援するために力を尽くす。こうした経済のありようは、お金以外の価値を含めた「価値の総和」を大きくする方向に寄与するのみならず、実は人の可能性を引き出し、仕事の内実を高め、結果として長い目で見ると、世の金銭的価値そのものも大きくする方向にも働くのではないかと考えている。

・「時間を味方にして」生きるにはどうしたらいいだろう?一つには、人間関係をギブから始めること(支援する関係)はそれに寄与するだろう。こちらがギブをし、そのことを相手が覚えており、感謝までしてくれていたなら、それはいつか思いがけないお返しとなって還ってくる。そうしたことが未来に起こり得ると想像できることは、時間の経過を「楽しみ」なものにしてくれる。反対に日常が「利用する関係」の連続だとすると、関係性は日々やせ衰えていく。相手の気持ちが離れていくことが分かり、自分に困ったことが起こったとしても、その人はもう助けてくれない可能性が高い。そうした人間関係で楳尽くされた人生は、常に不安感と背中合わせだ。もう一つは、目的や目標を絶対視し過ぎないことだ。「いつまでにこれをやる」「こういう自分になる」が強く意識されると、「今」という時が常にマイナス状態となってしまう。常に自分が「目的地に辿り着いていない自分」「目標を達成していない自分」と認識されてしまうのだ。そういう点でも、京都・龍安寺にあるつくばいで有名な「吾唯足知(われただたるをしる)」は深いメッセージだ。「常に足りている」と自覚し、在るものに感謝し、不足を嘆かない。この境地に達することができれば、確かに不満や不安を超越し、感謝と満足感とで日々を過ごせるようになるだろう。もしくはそこまではいけなかったとしても、常に今を「ゼロ」と捉える心の持ちようもある。うまくいかないことも、心配なこともあるかもしれない。何かを失ってしまうことも、傷つくこともあるだろう。ただそれでも、その時をゼロと考える。何せ過去は変えられないのだから。そしてもしそう考えれたなら、ほんの些細な状況の改善でもプラスに捉えられるようになる。時間が常に加点方向に向かうようになるのだ。
良かった本まとめ(2015年上半期)

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