ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第 188号 独断論と不可知論

2005年06月28日 | タ行
教育の広場、第 188号、独断論と不可知論

ここ2回の本メルマガで取り上げました田中正史著『?(なぜ)と!(びっくり)を見つけよう』(KKベストセラーズ、本体1800円)の目玉の1つが、「育てて、解体して、食べる授業に賛成か反対か」の議論でした。その最後( 235頁)に田中教諭は締めくくってこう書いています。

- あなた達の意見を読んで、私はこう思いました。「考える」だけでは十分ではない。「考え続ける」ことが大切である。違う意見を聞いて、何度も何度も考えていくと、今まで思いもしなかったことが見えてくる。

あなたの今の生活や将来の希望も、違った方向から見ると変わって見えるはずです。その違った方向を教えてくれる人や話をおろそかにしないでください。テスト問題と違って、生きていく中での問題には、明白な正解はありません。答えは、求めつづける中にある。と私は思います。 -

ここには3つの事が書いてあると思います。

① 考える以上に考え続けることが大切である。
 ② 自分の考えは違う意見を聞いて又考える事は有益である。
 ③ テスト問題には明白な正解があるけれど、生きていく中での問題には、明白な正解はない。

こう整理すると色々な感想が浮かびます。

 第1に、①はそのまま肯定できると思います。

 第2に、②もそうでしょうけれど、これは大人、特に「偉い人」にこそ求められることだと思います。例えば小泉首相とか東京都教育委員会とかです。田中教諭にとって身近な例を出すならば、校長とか教師とかです。②だけ言って、誰に必要な事かを言わないのは片手落ちでしょう。

 第3に、③は大問題です。テスト問題には確かに「明白な正解」がありますが、その「正解」とやらは本当に「真理」でしょうか。それはなぜ「正解」とされているのでしょうか。教科書検定委員が「正解」と決めただけではないのでしょうか。田中教諭は教科書に書いてある事を本当に「真理」だと思って教えているのでしょうか。そうだとしたら、とんでもない間違いです。

 逆に、「生きていく中での問題」には、本当に「明白な正解」はないでしょうか。どうしてこんな事を断言できるのでしょうか。

もしそうだとすると、テスト問題で扱っている事は「生きていくなかでの問題」と無関係だということになりますが、そんな下らない事をどうしてテストに出したりするのでしょうか。

哲学を知らない田中教諭は独断論と不可知論の間を揺れ動いているようです。しかし、これは大多数の教師の考え方でもあると思います。こうなっている一因は哲学がこういう現実の問題を扱わず、しっかりした事を言わないからだと思います。

私見を箇条書きにしておきます。

1、人間の認識は何らかの意味で認識対象を反映している。その意味で「正しい」。

 2、しかし、その反映の正確さには度合いがあるから、「正しさ」にも程度がある。従って、正しいか否かの問題は何%正しいかの問題でしかない。

 3、しかし、所与の場合には真偽を分ける基準が決まっていて、それを境にして真偽に分かれる。つまり何%以上正しければ真理とされ、それ以下の認識は虚偽とされる、そういう基準がある。

4、従って真理は相対的であり、歴史的である。これはどんな認識でも同じである。

 5、学校教師にとって大切な事は、自分の教えている事は決して絶対的真理ではないことを自覚しておくことである。それは教師個人の能力による部分と歴史的制約による部分との2つがある。

 6、換言するならば、学校で教えている事の8割は間違いである。今「真理」として教えられている事の内、何%の事が50年後の学校でそのまま「真理」として残っているか考えてみれば分かるであろう。

 その内のいくつかは完全な間違いとされているであろうし、残りの大部分もより正確な真理(理論)の1部に格下げされているであろう。

7、では、8割も間違っているのにそれを教えるのは間違いか。否、現在真理とされている事、自分が科学的に正しいと思う事を教えればよい。それ以外のやり方はない。それを絶対的真理と思い込まないことであり、「現在はそうなっている」と断って教えることであり、「自分と違った意見(生徒の意見)」を聞く耳を持つことである。

個人によって変わる事柄については、私の哲学の授業のように、「自分の考えを自分にはっきりさせること」を授業の目的として断ればよい。しかし、それは「明白な正解がない」という不可知論ではない。正解があるからそれを求めて考えるのである。どんな正解でも歴史的な正解(その時点での正解)でしかないだけである。

   (2004年11月19日発行)