ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

正直は学問の前提

2005年06月10日 | カ行
NHKのラジオドイツ語講座は素晴らしい番組だと思っています。点を付けるならば99点だと思います。特に近年は会話教育に力を入れていて、これだけでも真面目に聞いて練習すれば会話が相当出来るようになると思います。現に、本当に勉強したいと思っている人はほとんどこれを聞いていると思います。


しかし、中級以上の文法なり本当の語学となると問題が多いと思います。レベルは低いし、間違いも多いし、そもそも語学とは何か、ドイツ語(個別言語)を研究するとはどういうことかが分かっていない(考えていない?)ようです。

これは特定の講師の低さではなくて、(世界のことはいざ知らず)日本のドイツ語学界の低さなのだろうと推定しています。と言いますのも、NHKの講師をする人達は慶応とか独協と
かいったドイツ語教育(と研究)に熱心な大学の教員なのですが、その人達がお粗末なことをしているからです。

会話に力点を置いているNHKで久しぶりに読解を掲げた講座がこの春から開かれました。題して「読んで味わうドイツ語」。講師は諏訪功氏(一橋大学名誉教授、独協大学特任教授)。期待が高まりました。しかし、がっかりしました。

私は直ちに2回質問状を送りました。答えはありません。そこで、NHKに対して、「諏訪さんはドイツ語を研究しておらず、実力がないから、代えてほしい」という手紙を送りました。返事はもらっていません。

5月20日(金)の放送はカフカの短編でした。その冒頭に次の句がありました。

Der Kaiser, so heisst es, hat Dir, .. eine Botschaft
gesendet.

文頭の語が Der Kaiser と定冠詞を持っていることについて、何か説明が必要だと思ったけれど、説明が出来なかったのでしょう。そこで、氏は次のように言いました。

「Der Kaiserとありますね。Der Kaiser、皇帝です。いきなり定冠詞付きで出てきますね。so heisst esというのは~」。


これが諏訪さんの「ドイツ語学」です。説明できない所は検討もせず、素通りしてしまうのです。

 4月8日の最初の時はメーリケの詩を取り上げました。4月15日の放送と合わせて私の送った手紙の中で次のように書きました。

─4月8日の放送でメーリケの詩の中の Du bist's及び Er ist's についての説明の最後に貴下は次のように述べました。

「なお、『あなただ』『あなたなんだ』ですが、英語では It's you と言いますし、フランス語では C'est toiと言いますが、ドイツ語では Es ist duとは言いません。必ず人称代名詞の du を文頭に置いて、Du bist esまたは Du bist'sとします。

標題の Er ist's もそうで、Es ist er とは言いません。この辺は詮索し始めるときりがありません。今回は Du bist's. Er ist's. という形のまま覚えていって下さい。」

私の問題とするところは、「この辺は詮索し始めるときりがありません」という言葉です。そもそも「この辺」とは何を指しているのですか。Du bist esの語順の事だけですか。それ以
外にどんな事を含んでいるのですか。それがまず分かりません。

貴下は「詮索し始めるときりがありません」と言いますが、貴下は実際に「詮索」しているのですか。しているならば、貴下が追究している問題を3つか4つで結構ですから、具体的に提示してください。関口さんならそうしたでしょう。

例えば、 es を dasに代えたら語順はどう変わるか、意味ないしニュアンスはどう変わるか、そのように es を dasで代えることはどんな場合でも可能なのか、といったように具体的に貴下の詮索している問題を出してくれませんか。それが生徒の研究心を刺激し、本当の語学教育になるのだと思います。貴下は大学の教師としてそのように指導して来なかったのですか。


しかも貴下は「今回は Du bist's. Er ist's. という形のまま覚えていって下さい」と言いましたが、この「今回は」という言葉は、普通に理解すると、「次回以降に関係する事柄が出
てきたらその時に更に深めましょう」という意味だと思います。

しかるに、第2回には次の文がありました。

Das war es, was es so besonders still machte: sein Atem fehlte.

この文についての貴下の説明は次の3点でした。

第1に、 wasの先行詞は es である。
 第2に、 dasはコロン以下の内容を前もって指している。
 第3に、これは強調構文の一種である。

この貴下の説明は第1点と第2点はその通りだと思います。第3点の説明もその通りだと思いますが、不十分だと思います。この文のどこが強調構文の一種なのかがはっきりしないからです。放送を聞いていたら、多くの人は、不明確ながら、「Das war esという表現が強調構文の一種なのだな」と思ったと思います。これでいいのですか。

しかも、もしそれが「一種」だとするならば、同じ事を強調する他の方法も1つか2つくらいは提示したらどうですか。関口さんならそうしたと思います。

しかし、ここで特に問題にしたいのはその事ではありません。 Das war es はは第1回の Du bist es と関係があると思うのですが、貴下はその点について全然触れなかったのです。私が先に「貴下は実際に詮索しているのですか」と聞いたのはここに根拠があります。「今回は」という言葉を取り上げたのもここに根拠があります。

Das war es はNHKの放送でもその最後にドイツ人が Das war's fuer heute という形でよく口にします。このように関係文なしに使われた場合と関係文の付いた場合との異同はどうなのか。これくらいの事は説明するべきではないでしょうか。─

つまり、第1回の場合は、詮索してもいないのに、「詮索したらきりがない」と言って、詮索しているかのようなフリをして逃げたのです。逃げているのは同じことです。これが大学教
授です。

一般にも語学の勉強用の読本のテキストには、その後ろなどに「編者による注解」があります。それを見ますと、書いてないことが沢山あります。私見では、「書いてない」理由には3つの場合があります。

第1は、これは書かなくて好いと判断して書かなかった場合、
 第2は、これは説明が必要だなと思ったが、答えられないので逃げた場合、
 第3は、編者自身がそこに問題のあることに気づいてすらいない場合、

です。

私は、勘ですが、なぜ書かなかったのかが推定できるようになりました。確かめる方法がないので、確かではないと言うかもしれませんが、私は相当の自信を持っています。

私は最近、板倉聖宣(きよのぶ)さんの仕事にとても興味を持ち、少しずつ調べています。仮説実験授業で有名なあの板倉さんです。興味を持った理由は、何よりも問題意識が私と共通しているからです。

板倉さんは私より少し年長ですが、東大で学生運動と関わり、その中で学生運動があまりにも非科学的だと思って、科学的思考とはどういうものか、それを育てるにはどうしたら好いか、という風に研究を進めてきたようです。これは私も同じです。

そして、自分たちの科学史研究運動などでは「分からないことは分からないと言おう」というスローガンを掲げたそうです。

関口さんではあるまいし、外国語について分からない事があるのは当たり前です。いや、どんな学問でも分からない事があるのは当たり前です。正直に分からないと言おうではありませんか。
(メルマガ「教育の広場」2005年5月22日発行に掲載)