2022年8月NHK総合戦争検証番組は日本軍上層部の無責任な戦争計画・無責任な戦略を摘出し、兵士生命軽視の実態を描出 靖国参拝はこの実態隠蔽の仕掛け(2)

2022-10-31 04:43:44 | 政治
 2022年8月10日NHK総合テレビ放送の記事――《NHK新・ドキュメント太平洋戦争 「1941 第1回 開戦(後編)」》(2021年12月7日)が取り上げている真珠湾奇襲攻撃と東南アジアの戦争から見えてくる日本軍の上層部が本質的に抱えていた無責任体制を窺ってみる。

 〈この頃ハワイでは、その後の命運を分ける出来事が起きていた。アメリカ軍が試験的に導入していたレーダーが偶然、日本軍の編隊を捕らえた。しかし、報告を受けた将校は、この日到着予定だった米軍機と思い込んだ。住民も日本軍だとは思いもしなかった。

 ハワイ住民 ケントン・ナッシュ証言「驚いたな。今日の演習は徹底的だ。飛行機に日の丸を描くなんて」

 アメリカは日本軍の奇襲に気づくチャンスを逃した。〉――

 東條英機の言う「意外裡な事」(=偶然性主体の計算外の要素)が幸いした真珠湾奇襲攻撃の大成功ということだったのかもしれない。結果論ではあるが、物は取りようで、失敗し、手痛い打撃を受けたなら、手を引いていた可能性は考えられ、泥沼の戦争に陥ることなく、余分な死者を出すことはなかったかもしれない。現実には成功し、本格的な戦争に向かうことになる。日本は最終的な勝利を確信できる確固とした戦略に基づき、自存自衛の信念のもと、大東亜共栄圏建設の偉業に挑むことになったはずだ。最終的な勝利を確信できない戦略など存在しようがない。しかも2、3年の短期決戦での成就を頭に思い描いていなければならなかっただろう。  

 真珠湾奇襲攻撃の成功に一般市民は歓喜して迎え入れた。奇襲攻撃という一般的には成功確率の高い要素を誰も省みることはなかった。そのエゴドキュメント。

 〈金原まさ子育児日記「血湧き肉躍る思いに胸がいっぱいになる。一生忘れ得ぬだろう、今日この日。しっかりとしっかりと大声で叫びたい思いでいっぱいだ。大変なのよ、住代ちゃん、しっかりしてね」

 学生や子どもたちも、興奮の中にいた。

 学生西脇慶弥日記「朝の軽い眠りを楽しんでいた自分は、待ちに待った臨時ニュースの知らせに床をけり、階段をかけ下り、ラジオの前に立った。心臓が破れそうの興奮である」

 国民学校六年生絵日記「この時に生まれ合わせたことは、とても幸福なことであると思う。五時間目、住吉神社へ戦勝祈願に行った。皆、真心込めてお祈りした」〉――

 この初戦で日本が早くも情報隠蔽を働いたことを伝えている。〈繰り返し華々しい戦果が報じられる陰で伝えられなかった事実があった。真珠湾で水中からの攻撃を担っていた潜水艦部隊。2人乗りの特殊潜航艇5隻は、すべて帰ってこなかった。さらに、日本軍機の搭乗員55人が命を落とした。〉――

 不都合をなくし、完璧さの装いを情報の隠蔽によって作り上げる。自らの実力とその実力に対する自らの責任に面と向き合う潔癖さの欠如(道徳的勇気の欠如)が自ずと情報隠蔽という働きに向かわせることになる。正真正銘の実力を直視することができなければ、勝利の方程式となるどのような戦略も成り立たせ不可能となる。過大に評価した実力にどのような戦略も立てようがないことは自明の理である。このことは軍隊という組織や各部隊という集団に対してのみではなく、指揮官個人についても当てめることができる原則となる。自らの実力に対する冷徹な直視の回避は水増しした実力での行動に向かわせ、水増しした分を差し引いた結果しか手に入れることができなかった場合、自ずと責任の回避という手を使って、自らの実力に辻褄を合わせるようになる。

 記事は「大東亜共栄圏」なる言葉は開戦1か月前からエゴドキュメントに増えていると記している。記事も一部触れているが、東亜新秩序建設は前々から言われていたが、同じ開戦約1ヶ月前1941年(昭和16年)11月5日第7回御前会議で、〈一、帝国ハ現下ノ危局ヲ打開シテ自存自衛ヲ完ウシ大東亜ノ新秩序ヲ建設スル為此ノ際対米英蘭戦争ヲ決意シ左記措置ヲ採ル〉との「帝国国策遂行要領」を採択していることのうち、「米英蘭戦争ヲ決意」の文言を隠して国民を鼓舞するために「自存自衛」と「大東亜ノ新秩序ヲ建設」の文言のみを宣伝した結果の傾向ということに違いない。

 真珠湾奇襲攻撃大成功のエゴドキュメントが続く。

 〈埼玉の役場職員「大東亜共栄圏建設の世界史的偉業は、光栄ある大和民族の双肩に、すでに現実のものとして、さん然と登場しているのである」〉―― 

 真珠湾奇襲攻撃大成功=「大東亜共栄圏建設はすでに現実のもの」と把握するに至ったという経緯が見て取れる。中国戦線で近代化されていない中国という国の近代化されていない中国軍を相手に手こずっている状況は食糧の配給制度によって知り得ている情報であったろうし、一方で日本という国が国家経営に必要な各種資源の多くを米国に依存していることの情報にも触れているはずだが、真珠湾奇襲攻撃成功の一事で大東亜共栄圏が既に建設されたかのように興奮する状況は、「光栄ある大和民族の双肩」という言葉に現れているように日本民族への買いかぶり――優越性なくして成り立たない。そしてこの買いかぶり、あるいは優越性は「大東亜共栄圏」なる言葉の中の「共栄」という平等性に反することになるが、自らへの買いかぶり、あるいは優越性によって無自覚なまま放置されることになる。

 記事は米英の経済制裁に対抗するためにアジアの資源地帯を押さえる名目としての「大東亜共栄圏の建設」を戦争目的に加えるべきと主張したのは陸軍で、海軍や石井秋穂(陸軍大佐)ら陸軍の一部は、あくまでも自存自衛の範囲内にとどめておくべきだと考えていたと解説している。
 
 〈陸軍大佐石井秋穂回想録「この戦争は油が切れるまで、日本国家としての経済的及び、国防的生命をつなぐ必要に迫られ、やむにやまれず立ち上がるのである。もしも米・蘭から従前通り油が買える様になれば、戦争目的は達したことになる。最低限の戦争目的を規定しておかなければ、和平が出来にくくなる」〉――

 石井秋穂の発言は短期決戦の戦略を頭に置いている。米軍を一定程度壊滅し、日本とのこれ以上の戦争継続は得策ではないと考えさせ、停戦を選択させる局面にまで持っていく。このプロセスは日米戦を想定した際の戦争の困難性、あるいは不可能性を克服する方策として編み出したであろう長期戦の回避、短期決戦の戦略に適う。但し石井秋穂の思惑どおりに進めるためには短期決戦での完遂を確実にするための戦略の再確認が前提となる。再確認もなく述べたとしたら、短期決戦の必要性にすがっただけの思惑で終わる。

 しかし日本軍は長期戦へと突入していく。日本は当初は日本、満州国、中国の3カ国の「東亜新秩序建設」を掲げていたが資源獲得のための南進の必要性からインドネシア、フィリピン、ベトナム、タイ、マレーシア、シンガポール、インド等々の東南アジアの国々を大東亜共栄圏の勢力範囲とすべく謀った。長期戦への突入は大東亜共栄圏の勢力範囲を広く取り過ぎたための回避不可能な到達点だったのかもしれない。だが、大東亜の新秩序建設のために対米英蘭戦争を決意した第7回御前会議は1941年11月5日で、それよりも約7ヶ月半も前の1941年3月18日に「日米物的国力」比較シミュレーションで対米戦争困難性が報告され、当該御前会議1ヶ月余前の総力戦研究所の日米戦想定では戦争の不可能性を宣告されていた。これらのことを無視したとすると、真珠湾奇襲攻撃を仕掛ける段階で既に短期決戦など念頭になく、長期戦を視野に入れていた疑いが浮上する。疑いが事実そのものとすると、当然、長期戦に適応させた戦略を構築していなければならない。

 日本軍は1941年12月8日にマレー半島上陸、そこでのイギリス軍を破り、さらに1942年2月8日から2月15日にかけてシンガポールに上陸、兵力差2倍のイギリス軍を打ち負かし、攻略。破竹の勢いであった。しかし矛盾も見え始めた。

 〈陸軍中尉・三好正顕日記「食い物も探しながら、戦争せんならん。一昼夜2、3時間眠り、あるいは徹夜で行軍して進み、被服は着の身着のまま、何処へでもごろりと転んで、まるで原始人のよう」

 戦争を継続していく上で、不可欠な食糧の調達がままならない。敵から奪うしかなかった。

 同三好正顕日記「今日は兵営を占領して、ビールあり、ジンあり、ウイスキーありの盛況だ。兵隊たち、敵の黒パンをおいしそうに食べる。何もかも友軍より贅沢である」〉――

 要するに補給を無視し、進軍だけを考えた戦略を採っていた。但し緒戦の段階だからだろう、士気盛んであった。このような場合、攻める側の士気・精神力は攻められる側のそれらを往々にして上回る。このことを勝因の一つとして記憶しておく戦略が必要になる。攻略の要因を部隊の戦闘技術の優秀さだけに置いた場合、攻める側と攻められる側の心理的関係性や地理的・気象的要因等との関係性の違いに応じてときに技術的優秀さは相対化される厳粛な事実を無視、あるいは過大評価することになって、戦略そのものを狂わすことがときとして起こりうるだろう。

 〈すでに日本国内では開戦前から、食糧不足に悩まされていた。戦争で輸入が途絶え、銃後の国民どころか、前線や占領地での食糧補給が厳しくなるのは目に見えていた。日本の指導者たちは開戦前からこのことに気づいていた。

 マレー半島上陸1カ月前の1941年11月5日御前会議、賀屋大蔵大臣発言。

 「南方作戦地域の経済を円滑に維持するがためには、わが方において、物資の供給をなすを要すべきも、我が国はそのために十分の余力なきをもって、当分はいわゆる搾取的方針にいづることやむを得ざるべしと考えらる」

 搾取的方針。それを具体的な占領政策に落とし込んだのが、あの石井秋穂だった。食糧の供給が困難になるという見通しのもと、石井は、「作戦軍の自活」を基本方針に据えた。

 陸軍大佐・石井秋穂回想録「占領軍の現地自活のためには民生に重圧を与えても、これを忍ばしめると規定したことは、大英断のつもりであった」〉――

 「搾取的方針」の「搾取」は有償であるべき物品に対する優越的立場からの強制的な相当部分の代価免除を指し、それなりの体裁を保っていたとしても、この優越性を力とした相当部分の代価免除は “奪う”という要素を本質のところで紛れ込ませている。敵軍からは武器や食糧、敵地住民からは食糧を奪う形式で戦いを継続していく。当初から兵站に関しては行きあたりばったり、出たとこ勝負であったことになる。この出たとこ勝負を吉とするためには連戦連勝の勝ち戦を絶対条件としなければならない。負け戦となった場合、奪う形式にまでは手が回らなくなって、「搾取的方針」は破綻することになる。勿論、個々の戦闘に於ける戦略は、こういったことをも計算に入れていたはずで、負け戦は兵站を停滞、最悪、崩壊させることになるとの予測に立っていなければならない。

 一方で大東亜共栄圏の理想を掲げ、一方で「作戦軍の自活」のために現地人に対する搾取も止むなしとした。但し「大英断のつもりであった」の言葉は「大英断」が裏目に出たことの示唆以外の何ものでもない。

 〈しかしその後、現地を視察した石井は、想像以上に軍紀が乱れている現実を目の当たりにする。

 石井秋穂日記「夕刻、コタバル飛び、渡辺大佐と共にケランタン州の政務を聴取す。皇軍の掠奪強姦を嘆す」

 石井秋穂日記「シンゴラ埠頭を見る。ここも皇軍の掠奪強姦に悩めり」〉――

 ネットを調べてみると、石井秋穂がマレー半島東岸の都市コタバルを視察したのは1942年1月1日。「作戦軍の自活」のための「搾取的方針」が勝ち戦の優者心理に正当性を持たせることになって、優越的な正当性に纏い付かせがちとなる規律を自己中心に置く思い上がりを生じせしめて、食糧や生活用品に対する強制的な相当部分の代価免除が「掠奪」という支配欲へと走らせ、同じ思い上がりが女性に対しても掠奪そのものの支配欲を募らせたといったところなのだろう。日本軍はまさしく道徳的勇気を麻痺状態にさせた蛮勇そのままの肉体的勇気発揮の一人舞台を演じていた。そこのけそこのけとばかりに。

 記事は書いている。〈アジアを解放し、共存するという理想も揺らぎ始めていた。〉――

 結果、陸軍大佐石井秋穂をして回想録に次のように書かしめた。

 〈『これが大東亜戦争の性格を、雄弁に物語るものでもあった』〉――

 石井秋穂の目には日本軍兵士が現地住民に対して絶対君主のように振舞っているかのように見えたのかもしれない。個々の兵士が抱えることになる戦争の現実はともかく、日本政府と日本軍が大東亜共栄圏の理想をどう実現していくか、その実現にしても対米英戦争の最終的な勝利が保証することになるが、戦争そのものに対する総合的な戦略と個々の戦いに於ける戦略とが相互関連し合って最終的な結末を演出することになることから、戦争に臨むに当たってそれぞれの戦略をどのように描いていたかがやはり重要となる。一方で国民は様々な矛盾や不都合を抱えた戦争の現実を知る由もなく、矛盾や不都合を隠し去った見せかけの勝利のみを知らされて、天皇を始め、軍や国への信頼を厚くし、さらなる進撃と勝利を望むことになり、大本営は望みに応じるためと軍のメンツを維持するためにさらに見せかけの勝利を伝え続ける。但し自己中心一方の規律しか持ち得ない組織・集団、他の規律との兼ね合いを推し量ることのできない組織・集団は自らが抱え込むことになった矛盾や不都合の傷口を際限もなく広げていき、組織・集団としての纏まりを失い、収拾が効かなくなる恐れが出てくる。

 中華系の住民の一部が日本軍への抵抗を強めていた。

 〈憲兵の分隊長として治安維持にあたった大西覚は、「日本軍の作戦を妨害する者、治安と秩序を乱す者、また乱す可能性のある者」などを選別し、処刑するよう命令を受けたという。 

 元第二野戦憲兵分隊長・大西覚取調証言「華僑(中華系住民)に対しては相当深刻な注意をせなきゃならんと。不逞分子をもう虐殺して殺して処分していいと。これはえらいこっちゃ、そんなこと言ったって十分調べてもおらんし、もう本当の容疑で、これが本当の敵性で、抗日分子で何するという確証はない。それをすぐに虐殺せよということはですね、非常に人道に反するしいかん。嫌だった。でも命令ならしようがない」(1978年3月18日収録 日本の英領マラヤ・シンガポール占領史料調査フォーラム調べ)

 戦後、イギリス軍による裁判でこの虐殺に関わった大西ら5人は終身刑、2人の死刑が確定した。処刑された司令官は、5千人を粛正したと日記に記しており、裁判の証拠とされた。しかし、シンガポールでは、虐殺は数万人規模にのぼるとみる専門家もおり、研究が続いている。〉――

 「Wikipedia」の「シンガポール華僑粛清事件」の項目に、〈1942年2月から3月にかけて、日本軍の占領統治下にあったシンガポールで、日本軍(第25軍)が、中国系住民多数を掃討作戦により殺害した事件。1947年に戦犯裁判(イギリス軍シンガポール裁判)で裁かれた。〉とある。

 規律のないこの虐殺は道徳的勇気を麻痺させた蛮勇でしかない肉体的勇気によって成し遂げられる。強奪・強姦は戦闘から離れた場所での兵士たちの規律の喪失だが、虐殺は戦闘行為の一環として行われる規律の喪失であり、兵士の中で止むを得ないことと正当化された場合、普段の戦闘行為にも持ち込む危険性を抱える。特に負け戦に影響を与えて、規律の維持への忍耐心を簡単に失わせて、ストレートに規律の喪失に向かわせかねない。この規律の喪失が上官が仕向けているとなると、軍の体質の問題となる。1941年12月8日に真珠湾奇襲攻撃からたったの3カ月余の短期間での日本軍のこの有様で、秩序ある組織・集団としての体裁を取ることができなくなると、目先の勝利だけを考え、なりふり構わなくなり、いつかは無秩序が支配することになる。

 2022年8月13日NHK総合放送《NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争1942大日本帝国の分岐点(前編)》は、〈1941年から1945年までを個人の視点(エゴドキュメント)から歴史のうねりを1年ごとに追体験する〉形式を採り、〈連戦連勝だった日本が、一転して苦境に陥っていく〉経緯から日本の戦争の実体を浮かび上がらせている。このことに便乗して日本の陸海軍の最高統帥機関である大本営が予定として建てた戦争計画を個々の戦いで如何に具体化し得たのか、それぞれの戦略を見ていくことにする。

 市民は1942年を皇軍の連戦連勝の報道を受けて、目出度い正月、目出度い新年として迎えていた。

 〈人々の気持ちを高揚させたのは、リーダーの言葉。1942年2月18日、内閣総理大臣・東條英機が演説する祝典には、10万人が押し寄せた。

 内閣総理大臣 東條英機「聖戦目的の完遂に向かって、諸君と共に、一路邁進(まいしん)せんことを誓うものであります」

 東京の主婦金原まさ子『2月18日日記』 (祝典の様子をラジオで聞いて)「東條首相のマイクの前における万歳発声。全国の民草、街頭にあるものも、家庭にある者も、一斉に日本バンザイを叫ぶ。盛大に挙行された今日の感激を、一生忘れないだろう」

 愛国心、民族意識の高まりを刺激したのは、今で言うインフルエンサー。人気を集めた思想家や学者たちだった。

 大川周明『米英東亜侵略史』「我等の大東亜戦は、単に資源獲得のための戦でなく、実に東洋の最高なる精神的価値及び文化的価値のための戦であります」

 西谷啓治座談会『大東亜共栄圏の倫理性と歴史性』「大東亜では同じ水準に達しているのは日本だけで、あとの民族はレヴェルの低い民族だ。そういうものを引っ張って育てて行き、民族的な自覚をもたす』〉――

 大川周明は大東亜戦争そのものに「東洋の最高なる精神的価値及び文化的価」を付与し、西谷啓治はアジアに対する日本民族の優越性を丸出しにしている。但しその優越性はアジアではアメリカと「同じ水準に達しているのは日本だけ」だとアメリカを上に見たアジアに対する優越性となっていて、これは本人一人だけのものではないだろう。大東亜共栄圏は日本を中心として東亜の諸民族による共存共栄の樹立を目的としていたが、日本民族以外は「レヴェルの低い民族」とするこのような位置づけ、価値観には日本を支配者とし、他のアジア民族を日本の支配を受ける存在とする上下思想の考え方を潜ませ、「共存共栄」は日本の支配をカムフラージュするタテマエに過ぎないことを暴露することになる。

 連戦連勝の高揚した気分に冷水を浴びせたのは1942年4月18日の「ドーリットル空襲」と呼ばれた米軍機による日本本土爆撃だった。

 〈大統領側近の手記による米大統領フランクリン・ルーズベルトの言葉「日本に爆撃する作戦はどうだ。日本をできる限り早く爆撃することが、アメリカ国民の戦意のために、なによりも重要だ」〉――

 〈1942年4月18日金原まさ子日記「高射砲のとどろき、とうとう帝都、敵機襲来。近くの士官学校裏手から、もくもくとした煙。大爆撃。敏感な住代ちゃん、おびえてかわいそうだった」〉――

 日本軍による真珠湾攻撃を逃れた空母部隊が日本近海にまで接近、空母から発進した16機の爆撃機B25で奇襲するという決死の作戦だという。対して日本軍は地上から高射砲を撃ち、撃墜しようとしたが、目的を果たすことができなかった。日本上空への侵入を許し、撃墜不可。このことは日本軍の失態を示すと同時に本土防衛の大きな欠陥を示す事態だったが、大本営はこの事実を隠蔽、米爆撃機9機撃墜を発表。ラジオと新聞で華々しく報道した。

 〈4月22日作家伊藤整日記「昨日、小島君より聞いた所では、落ちた飛行機を写真にとろうとして歩いても、どこにもその現場がない。多摩川辺に落ちた由を聞き出かけると、憲兵が番をして、そこへは立ち入らせない。九機撃墜と発表しているのだから、落ちた敵機の姿が写真に出ないのは変だ」

 4月19日作家山本周五郎「少年が敵機の落とし去った焼夷弾を持ってきて見せる。民家に落ち、三、四軒全焼したとのことだ。敵機のいずれより来しや。戦果どうなりしや。軍の発表明確ならず。よって人々の不安は、不必要なるほどに複雑深刻なり。報道法拙劣」

 4月19日新聞記者森正蔵日記「昨日の空襲に際して、九機を撃墜したという当局の発表も嘘らしい。まさにわが国防史上の一大汚点である」〉――

 〈実は9機撃墜は、迎撃した部隊による見間違えだった。実際にはアメリカ軍の爆撃機は、すべて国外に飛び去っていた。あってはならない誤報を出してしまったのである。軍のメンツに関わる事態に怒ったのが、首相の東條英機だった。

 佐藤賢了『軍務局長の賭け』「東條大臣は大変興奮のおももちで、『陸軍から九機撃墜したとの公表がでたが、どこにも撃墜した跡が見当たらない』『こんなでたらめな報道をやったのでは、今後の戦果の発表の信を内外に失う』恐ろしい立腹であった」

 軍は、誤報を訂正せず、報道機関にあらたな方針を通達した。

 「空襲被害状況は新聞、ラジオは今後は一切不可」
 「空襲関係の発表は大本営一本に統一する」

 敵機に爆撃を許し、誤報を流し、市民に疑念を広げてしまった軍。以降、情報を、大本営が一元管理する方向へ進んでいく。〉――

 東條英機が言う「でたらめな報道」はこのときが初めてではない。立腹も、「信を内外に失う」も、滑稽そのものである。「見間違え」説は日本軍の実力を過大に見せるための虚偽情報流布(=大本営発表)が遠く離れた海外の戦果なら如何ようにも誤魔化しが効くが、国内のこととあって戦果を大々的に見せることができず、露見しそうになり、その露見を誤魔化すための新たな虚偽情報として「見間違え」説を流したはずだ。対米戦端開始の真珠湾奇襲攻撃の初っ端から特殊潜航艇の乗員の座礁捕虜となった1名を除いた残り9名の戦死と日本軍機搭乗員55人の戦死の事実を大本営は隠し、その経緯を東條英機が承知していなかったはずはなく、東條の怒りは叱責という形で虚偽情報に終止符を打つ猿芝居の類いに過ぎなかったろう。

 特殊潜航艇9名戦死は1941年12月8日の真珠湾攻撃から約3か月後の1942年3月6日に発表。隠蔽から一転して公表に転じたのは軍人の手本として九軍神に昇格、戦意高揚と愛国心高揚の対象として利用するためだった。このことは座礁捕虜となった1名の存在は日本人捕虜第1号の恥ある対象とされ、存在そのものが抹消されたことが証明する。軍にとっての不都合を隠し、不都合を時には好都合に変える情報操作は東條英機も主要な共犯者として加わっていたはずである。

 大本営発表の捏造情報に対して関係する軍部署は自らの実力が生んだ実際の戦果を知っていることから、捏造が度重なるにつれて日本軍全体にそのカラクリが知れ渡って捏造そのものに麻痺し、実力に対する冷徹な直視の回避と責任回避を生み出すことになり、この体質はやがて日本軍の隅々にまで浸透していく。このようなイキサツは道徳的勇気の麻痺を伴い、その欠如を深化させていく。

 実際の展開を考えて見ると、1機も撃墜できなかったことは軍のメンツに関わるから、16機÷2=8機+1機で半分以上撃墜したとすることで軍としての体裁を守ろうとした。だが、実際に撃墜したなら、空襲の時間帯は「正午過ぎ」と言うことだから、エンジンから火を吹き、錐揉み状態で落下するとか、エンジンの火で機体が爆発するとかを誰かが目撃できるはずだし、何よりも地上落下後に残骸という物的証拠が残る。煙の如くに何も残さずに消えることはないから、物的証拠となる9機の残骸を確認したことになり、その残骸の写真を大々的に報道させて、軍の手柄を誇示し、戦意高揚の材料とするのが世間に知られている常道だから、それをしなかったから、おかしいぞと思われ、放っておくことができなくなって、「見間違え」説で収拾を図ろうとした。

 大体が撃墜できなかった事実を撃墜したと見間違えること自体が軍の能力にも関わってくる大失態であり、見間違えは日本の領空から飛び去った16機の飛行航跡をレーダーで追跡できなかったことになる新たな事実を炙り出すことになる。その程度の性能のレーダーで日本の空を守っていることの方が問題となるあってはならない見間違えであろう。

 真珠湾奇襲攻撃の連合艦隊司令官山本五十六が米空母発進の日本本土空襲を阻止する方策として思いついたのがアメリカ軍の飛行場などがある重要拠点の太平洋に浮かぶ小島・ミッドウェー攻略だと記事は解説している。日本の攻撃に対するハワイから援軍の米空母部隊を壊滅するという戦略だったというから、ミッドウェー攻略は囮ということになる。ミッドウェー攻略は1942年(昭和17年)6月5日から。真珠湾奇襲攻撃は1941年12月8日。約半年後にハワイの米空母部隊は無視できない規模の戦力を回復していたことになる。

 〈山本五十六手紙「帝都の空を汚されて、一機も撃墜し得ざりしとは、なさけなき次第にて」、「米残兵力をおびきだして、一挙に撃滅できれば結構」〉――

 〈空母「赤城」に乗組み、戦闘の一部始終の記録が任務の大橋丈夫主計中佐手記「印度洋で、英空母ハーメスを易々と撃沈したときのような気分で、又、ミッドウエイの周辺に群棲する伊勢蝦(いせえび)のテンプラを夢みながら、黙々として行進した』〉――

 〈「赤城」には、『戦えば必ず勝つ』という楽観的な空気が満ちていた。〉と記事にあるが、「赤城」だけの気分ではなく、連合艦隊全体を覆っていた安心感なのだろう。「赤城」以外の艦艇全体がピリピリと緊張していたなら、「赤城」も呑気に構えていることができなくなり、大橋丈夫中佐にしても、それなりの緊張感で戦いの場に臨むことになったはずだが、国民総生産米日差12倍、粗鋼生産量も航空機生産量も遥か上を行き、石油の9割をアメリカに頼っていて、禁輸措置を受けた日本の国力に対してアメリカの真珠湾奇襲攻撃で失った空母、航空機等、軍事面の回復力、個々の戦いに於ける戦略や体制の立て直しを頭に置くこともせずに戦う前からのこの警戒感のなさ、危機感のなさ、安心感は軍隊という組織では致命的な欠陥となる。個々の戦いに於ける戦略に狂いを生じさせ、その狂いが日本の戦争計画全体に関わる総合的な戦略をも狂わせていく危険性が生じることになりかねない。

 米空母部隊は日本軍の暗号を解読、日本軍の次の攻撃目標はミッドウエーだと掴んだ。暗号解読能力も、戦争の準備・計画・運用の方法としての戦略そのものに影響を与え、戦略遂行の重要な要素の一つとなる。解読によって日本側の進軍を待ち構えることができ、逆にアメリカの空母から奇襲を受けることになった。航空母艦「赤城」の艦上爆撃機は陸用の爆弾装着、米空母への反撃用に魚雷装着への転換作業が加わり、現場は大混乱に陥った。取り外した陸用爆弾を格納庫に無造作に放置。米軍の急降下爆撃機が襲い、格納庫が火災を起こし、放置された陸用爆弾と魚雷を誘爆。大勢の乗組員と共に沈没することになった。

 問題なのは軍隊という組織にはあってはならない「戦えば必ず勝つ」という楽観論が予想外の突発事態に遭遇して必要以上の狼狽を誘発しただろうということである。狼狽が防御の際に発揮されるべき冷静さのエネルギーをかなり殺ぎ、奇襲をかける側の満を持した姿勢によって発揮されるプラスアルファのエネルギーとのプラスマイナスの差が大きく出る結果となる。

 〈攻撃開始から22時間。山本五十六は作戦の中止を命令する。

 この戦いで日本が失ったのは、空母4隻。死者3057人。遺骨は船と共に5000メートルの深海に沈んだ。

 ミッドウェー海戦の結果を報じる新聞では空母4隻喪失の事実は伏せられ、日本側の戦果が強調されていた。

 日本軍は負けていないと受け取った市民。なぜ、真相が隠蔽されたのか。

 1942年6月5日、大本営にミッドウェー海戦の敗北が伝えられた。衝撃が広がるなか、海軍報道部の士官たちは、大本営発表の準備にとりかかった。

 田代格海軍大佐回想録「驚愕の一語に尽きた。ハワイ海戦(真珠湾攻撃)、マレー沖海戦の赫赫(かくかく)たる勝利も、一度に吹き飛んだ思いであった。大本営発表文中、最大に苦しかった発表であった。軍令部と軍務局の意見が真っ向から衝突して、容易にまとまらず、私は両方を走り回るのみであった」

 議論は三日三晩続いた。報道部は真相を国民に知らせるべきだと主張したという。

 冨永謙吾『大本営発表 海軍篇』「すぐに作戦部の強硬な反対を受けた。軍務局も同意しなかった。課長と主務部員は、国民に真相を知らせて奮起を促す必要ありとして、夜の目も寝ずに関係者の説得に、重い足を引き摺りながら飛び回った」

 真相の公表に反対したのは、作戦指導の中核を担っていた部署だった。公表することは、戦争遂行を危うくすると訴えた。

 吉田尚義『大本営発表はかく行なわれた』「これは当然発表すべきではありません。これだけの大損害を、大本営発表をもって確認することは敵に一層、傍若無人な積極作戦をとらせるだけであります。抗戦持続不可能になる恐れありとすら言えます。戦争中の報道は、当然、作戦の目的にそわしめることが第一義であります。そのため同胞が欺かれる結果となっても、戦争中のことゆえ、真にやむをえないと考えます」〉――

 〈実際の損害を公表すれば、アメリカの攻勢を招きかねない。戦争を続けていくという大義のために国民を欺くことは正当化された。こうして、大本営発表は、真相とはかけ離れたものになった。

 発表された損害は、空母1隻喪失、1隻大破。戦果は、空母2隻撃沈。損害は半分、戦果はほぼ倍。戦果が喪失を上回り、勝ったことになってしまった。〉――

 「同胞が欺かれる結果となっても、戦争中のことゆえ、真にやむをえないと考えます」と虚偽情報の発表を自己正当化しているが、国民だけが「欺かれる結果」となるのか。

 同胞を欺くことができても、大本営発表のカラクリを知ることになる戦闘現場で直接戦う戦闘員は、特に敵の物量が優っていると一目で分かる戦闘では心の底からの戦意を持って戦うことができるだろうか。敗退しても勝ったことになるんだとの冷笑がどこかに芽生えて、その分の戦意喪失と軍上層部への何がしかの不信感を抱えて戦うことになったなら、計算通りの実力は出てこない。結果、「作戦の目的にそわしめることが第一義」の意図に反する事態となる可能性は否定できない。

 日本海軍の中央統括機関である軍令部はこの見せかけの損害と戦果を昭和天皇にもそのまま報告したという。つまり天皇まで欺き、その存在まで蔑ろにした。このようにできたということは、大日本帝国憲法上の「第1章天皇第1条 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」は形式的なことで、天皇は国民統治のために軍部・政府に利用された存在に過ぎなかったことが分かる。

 大体が戦果を偽ること自体が大本営なりに果たすべき責任履行の放棄――責任回避に当たる。この責任を取らない責任回避の体質は真珠湾奇襲攻撃成功の当初から自前のものとしていた。「やむをえない」で済ますことはできない重大な問題となる。

 〈ミッドウェー海戦で従軍したニュース映画のカメラマン牧島貞一は日本へ逃げ戻る船のなかで、大本営発表を聞いた。

 牧島貞一著『ミッドウェー海戦』「ラジオを聞いていると、軍艦マーチとともに、例の聞きなれた平出大佐の声が聞こえてきた。ミッドウェー強襲の大戦果だった。『平出大佐のバカ野郎っ!』『こんなでたらめな放送をして、国民をいい気にさせておいていいのか!』と叫びたくなった。ダイアルをまわすと、今度はアメリカの放送が入ってきた。アメリカの勝利と日本の敗北を報じていた」〉――

 ミッドウェー海戦での大敗北以降、戦況は悪化の一途を辿る。真珠湾奇襲攻撃大成功から半年しか経っていない。短期決戦であったとしても、早すぎる形勢逆転であり、長期戦覚悟であったとしたら、話にならない程のあっけない攻守逆転となる。だが、日米の国力と物量の差を考えた場合、順当な経緯と言えないことはない。形勢の悪化は個々の戦いに於ける戦略の狂いが日本の戦争全体の戦略を狂わしていく道筋を取っていくことになる。繰り返しになるが、戦果を偽れば、敗因を直視することに忌避感が生じかねず、その厳格な分析を避けた新たな作戦計画を次々に立てていけば、その可能性大だが、同じ失敗を繰返す欠陥を抱え込んだままとなりかねない。

 〈ラジオとニュース映画で使われた言葉から「大戦果」や「撃破」「圧倒」など、勝利に関連した言葉を抽出した。ミッドウェー海戦以降も、日本軍の優勢を示唆する言葉が、ニュースでさかんに使われていく。大本営発表は、太平洋戦争全体で見ると、損害はおよそ5分の1に、戦果は6倍に修正されたという。情報の隠蔽や改ざんが、当たり前となっていった。〉――

 日本側がミッドウェー海戦での形勢の逆転を受けてから以降、形勢逆転のまま推移した事実は個々の戦いに於ける暗号解読の情報処理能力をも含めた戦略の拙劣さが日米の国力の差を克服できなかったための総合的な戦略への悪影響を要因と考えると、戦略の拙劣さも国力の差も、如何ともし難い壁となって立ちはだかり続ける欠陥となるから、当然、戦争方針の次なる戦略は名誉ある撤退ということも選択肢として考慮しなければならないはずだが、自らの欠陥をものともせずに日本軍はさらい突き進むことになる。もしかすると、大本営も陸軍大臣兼総理大臣の東條英機も日本の自存自衛のために南方の石油資源や鉄鉱資源を獲得し、そのために大東亜共栄圏を建設するという目的のみを立てて、その目的を実現させるために物量も影響することになる日本軍と米軍の能力の差や、人的・物的資源の応用としての質などの反映としてあるトータルとしての国力の差に裏打ちされた、アメリカとどう戦うのかの総合的な戦略を厳密に立てずに東條英機が言うところの「意外裡な事」(=偶然性主体の計算外の要素)に期待する類いの精神論に依拠し、我々には大和魂がある(2022年11月1日12時40分加筆)、日本は負けるはずがないといった思い込みのもと対米開戦に踏み出し、確固とした戦略を築かないままにズルズルと戦線を拡大していった可能性も考えられる。なぜなら、アメリカと正面からぶつかり合う本格的な戦いに入って以降、総力戦研究所等が出した日米戦の結論、「戦争の不可能性」あるいは「戦争の困難性」を見事なまでに覆す決定的な戦略を一度も発揮し得ず、逆に「戦争の不可能性」あるいは「戦争の困難性」を色濃く見せる戦いを続けることになるからだ。

 最後に2022年8月15日再放送のNHKスペシャル選「戦慄の記録 インパール」から、ここでは個々の戦いを任された各現地部隊の司令官の戦略、その質、全体的な戦況への影響等を見ることにする。インパール作戦は1945年8月15日の終戦より1年5ヶ月前の1944年3月8日に開始された。

 〈73年前、日本軍が決行したインパール作戦。およそ3万人が命を落とし、太平洋戦争で最も無謀と言われたこの作戦は、なぜ決行されたのか。新たにイギリスで見つかった膨大な機密資料や兵士の証言などから、その真相を追う。〉――

 インパール作戦はイギリス領インドに部隊を構えるイギリス軍相手の戦闘となる。当時のヨーロッパ戦線を見ると、ドイツが1941年6月に独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻。1942年8月23日開始のスターリングラード攻防戦で激しい戦闘を繰り広げた末に1943年2月2日にドイツ軍は敗北。ヨーロッパ戦線攻防の転換点になったと言われている。以後、ドイツは敗戦に追い込まれていく。このことを裏返すと、ヨーロッパに於けるイギリス等の連合国側はアメリカの支援もあり、士気・戦力に余裕が生じていく段階を迎えたことを意味する。スターリングラード攻防戦ドイツ敗北の1943年2月はインパール作戦開始の1ヶ月前である。大本営はこのことを計算に入れたインパール作戦遂行の戦略を立てたはずである。

 〈1944年3月に決行されたインパール作戦は、川幅600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越え、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点インパールを3週間で攻略する計画だった。しかし、日本軍はインパールに誰1人、たどり着けず、およそ3万人が命を落とした。〉――

 記事によると、決行1年前の1943年3月に大本営はビルマ防衛を固めるためにビルマ方面軍を新設、ビルマ方面軍司令官河辺正三中将は着任前、首相の東條英機大将から太平洋戦線で悪化した戦局を打開してほしいと告げられていたと書いている。1943年3月当時の陸軍参謀総長は杉山元(任期1940年〈昭和15年〉10月~1944年〈昭和19年〉2月)で、これ以降、東條英機がその後任を引き継いで、首相兼陸軍大臣と共に兼職、権力を集中させているが、ビルマ方面軍に戦局打開の任を与えるか否かは陸海軍の最高統帥機関である大本営であり、その戦略は陸軍の場合は参謀総長をトップとした参謀本部が作成、大本営の認可を受けて河辺正三の任務という経緯を取るから、東條英機の口出しできる戦局打開の任務ではないはずだが、インパール作戦自体は既に発令されていた関係から、東條英機自身の希望としてインパール作戦が決行されることを願い、その決行を以って戦局打開を期待したという可能性はある。

 〈同じ時期、牟田口廉也中将がビルマ方面軍隷下の第15軍司令官へ昇進。インパールへの進攻を強硬に主張した。しかし、大本営では、ビルマ防衛に徹するべきとして、作戦実行に消極的な声も多くなっていた。〉――

 牟田口中将が第15軍司令官へと昇進したのは1943年(昭和18年)3月18日。要するにその当時の大本営の主流はビルマ方面軍の任務はビルマ防衛に限定していた。だが、ほぼ1年後の1944年3月8日に牟田口中将の指揮のもと、インパール作戦決行の軍事行動は開始されることになった。牟田口自身、勝利の方程式となる戦略を思い描いていたことになる。但し実行不可能として反対していた部下の参謀も存在していたのだから、成功するか、失敗するかは自身の勝利の方程式となる戦略が現実に即して実行可能か不可能かを判断する能力にかかることになる。牟田口は実行可能と判断したことになる。

 〈作戦部長眞田穰一郎少将手記「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ」

 冷静な分析より組織内の人間関係が優先され、1944年1月7日、インパール作戦は発令されたのだ。〉――

 1944年1月当時の陸軍参謀総長は1943年に軍の最高階級である元帥に昇進していた杉山元だから、1944年1月7日のインパール作戦発令は杉山元陸軍参謀総長による寺内南方軍総司令官の「所望」という形でその実現を眞田少将に依頼。陸軍参謀本部の参謀次長下で作戦、兵站、編成、動員などに関する戦略実務を担う第一部長であった眞田少将は杉山総長の人情論に負けてインパール作戦計画の段取りを付け、大本営がその計画を認可、1944年1月7日に作戦発令を行ったという経緯を取ることになる。

 ネットで調べてみると、寺内寿一(ひさいち)は陸軍中将で、広田内閣では陸軍大臣を務めていたことがあり、当時、タイ、ビルマ、フィリピン、マレーシア、シンガポール等々を管轄する南方軍総司令官に就いていた。以上のようなことからNHK記事は、〈インパール作戦は、極めて曖昧な意思決定をもとに進められた。〉と伝えているが、問題は南方軍総司令官だった寺内寿一がインパール作戦の決行を望むに当たって、勝利の方程式となるどのような戦略を思い描いていたかであり、眞田少将は陸軍参謀本部で作戦、兵站、編成、動員等の実務を担っている関係から、杉山元陸軍参謀総長から「なんとかしてやってくれ」と頼まれた際、どのような戦略を用いてインパール攻略を考えているのかを尋ねたはずだし、役目上、尋ねなければならなかった。だが、「結局、杉山総長の人情論に負けたのだ」と手記に記してある言葉から推測すると、本来なら作戦の決定はそれを進める戦略の適否に従うべきを、戦略に関しては話題としなかったか、話題としても、取り上げる程の戦略ではなかったからか、議論されず、「何とかやりのけるだろう」程度で話をつけた可能性から、結局のところ、人情論が決め手になったという印象を持つに至ったということなのだろう。だが、陸軍参謀総長の杉山元にしても、眞田少将にしても、作戦決行に向けた戦略は結果はどうであれ、計画上は完璧を期す立場にあった。例え人情論に左右されたことであっても、大本営に作戦の進言をするについては人情論で済ますことはできず、最適な戦略を立てた上で取り掛からなければならなかったし、インパールを攻略できる戦略が見つからないということなら、杉山元に「インパール攻略は無理だ」ということを伝えなければならない立場にあった。何もしなかったのは杉山元の無責任は元より、眞田少将にしても、「杉山総長の人情論に負けた」で完結させるのは無責任な振舞い以外の何ものでもなく、無責任が満遍なく横行していた状況が見て取れる。

 〈インパール作戦は雨期の到来を避けるため、3週間の短期決戦を想定し、3つの師団を中心に、9万の将兵によって実行された。南から第33師団、中央から第15師団がインパールへ。北の第31師団はインパールを孤立させるため、北部の都市、コヒマの攻略を目指した。大河と山を越え、最大470キロを踏破する前例のない作戦だった。

 1944年3月8日、作戦が敢行。3週間分の食糧しか持たされていなかった兵士たちの前に、川幅最長600メートルにおよぶチンドウィン河が立ちはだかった。空襲を避けるため夜間に渡河したが、荷物の運搬と食用のために集めた牛は、その半数が流されたという。

 さらに河を渡った兵士たちの目の前には、標高2,000メートルを超える山が幾重にも連なるアラカン山系。車が走れる道はほとんどないため、トラックや大砲は解体して持ち運ぶしかなく、崖が迫る悪路の行軍は、想像を絶するものだったという。大河を渡り、山岳地帯の道なき道を進む兵士たちは、戦いを前に消耗していった。〉――

 「Wikipedia」記事のインパール作戦の目的、〈イギリスの植民地インドを独立させて、イギリスの勢力を一掃するという政治的な目的に加えて、ビルマ防衛のための攻撃防御や援蔣ルート(英領インドから中国蒋介石政府への援助輸送路)の遮断を戦略目的としていた〉と紹介、構想自体はなかなか壮大ではあるが、この構想はこうすればこうなるという成り行きを壮大に述べたものに過ぎない。イギリス軍の兵員規模、兵器の種類と種類それぞれの破壊規模、兵站、それらの予想に立った総合的な攻撃能力、対する同じ内容を持たせた自軍の攻撃能力とその差引き計算、攻撃能力が劣る場合はそれを補う攻撃方法の構築、さらに地理的条件や気象条件等々を組み込んだ戦略を構築し、勝利の方程式を導き出していなければならない。まさかインドの独立だ、援蔣ルートの遮断だといった壮大な構想に酔い、その酔いが成功を確信させ、始めたわけではあるまい。

 但し戦闘遂行に不可欠の兵站面はいつもの物量不足からだろう、この物量不足自体が新たな作戦を仕掛ける資格をもはや失っていることを証明するが、9万の将兵で3週間で攻略する計画だから、3週間分の食糧を持たせた。と言うことは、兵站部隊利用の食糧の後方支援は予定していなかった。想定していた準備・計画・運用そのままの戦略どおりに事は狂いもなく進むことを前提としていた。戦略に狂いが起こりうることを前以って備えていた場合、最低限、狂いに備える心構えで事に当たることになるから、その狂いが修復不可能であっても、何らかの予防策を講じることになるが、前以って備えていなかった場合、狂いにどうにか対処できたとしても、生じるはずもない狂いが生じたことになる予想外の思いが戦略そのものへの疑心暗鬼を駆り立て、その思いに囚われて作戦を遂行することもありうる。 

 3週間分の食糧の中には荷役も兼ねた集めた牛も入っていた。ところが、渡河作戦の途中、半数は流されてしまった。同じ「Wikipedia」記事の「インパール作戦」の項目に牛が渡河中に水の流れに驚かないように訓練したことが書いてあるが、要するに訓練が役に立たなかったということは訓練の方法が間違っていたか、訓練の効果を無効とする流れの状況だったか、そういったことだろうが、結果が全てだから、作戦遂行に狂いが生じて、満足な運用に至らない準備・計画の不完全さが露わとなり、戦わずして戦力の低下を招くことになった以上、戦略に狂いが生じた段階で戦闘継続困難のシグナルと受け止めるべきだが、中止命令は司令官の能力の問題に降り掛かってくるから、できなかったのだろう。

 作戦開始から2週間後のイギリス軍との最初の遭遇戦は大規模な戦闘となり、第33師団は1000人以上の死傷者を出す。イギリス軍は戦車砲や機関銃を用いたとあるが、日本側の地の利が悪かったからなのか、重火器類の数に見劣りあったからなのかは不明だが、前者・後者いずれであっても、戦略の不備か見劣りに関係してくる。特に後者の戦略の見劣りがイギリス軍と比較した場合の装備品不足の影響だとしたら、インパール作戦は精神力でカバーしようとしていたことになる。

 牟田口司令官第15軍〈第33師団の柳田元三師団長は、「インパールを予定通り3週間で攻略するのは不可能だ」として、牟田口司令官に作戦の変更を強く進言。牟田口司令官のもとには、ほかの師団からも作戦の変更を求める訴えが相次いでいたという。牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、牟田口司令官と参謀との間で頻繁に語られていたある言葉を記録していた。

 齋藤博圀少尉の回想録「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5,000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした」〉――

 両人の会話から想定される状景は重火器類を駆使して戦闘を決するのではなく、敵重火器弾丸が飛来する中を相手陣地に向けて突入させて、相手弾丸を撃ち尽くさせ、生き残った兵士で陣地を占領、あるいは撃ち尽くす前であっても、命と交換の気持ちになると異常な力を発揮することになって、弾丸をかいくぐって敵陣地に突入、占領し、勝敗を決するというものであろう。但し数人、あるいは十数人が敵陣地に到達できたとしても、その代償に到達人数の何十倍もの兵士の命を差し出すことになるはずで、結果、「何千人殺せば、どこがとれる」という話になる。そして軍上層部の兵士の命を何とも思わないこのような戦略は道徳心のカケラなりとも存在していたなら成り立たないし、兵士自身が自らの命の消耗を前提とし、その上、上官の兵士の命の消耗を前提とした戦略は道徳心に関係しない肉体的勇気への要求でしかないから、 “蛮勇”以外の表現を見つけることはできない。そしてこのような戦略を推し進める基本要素は精神主義以外にない。上官は兵士それぞれに精神力を求めて、味方兵士の命よりも戦闘勝利を重視する。物量が劣勢にあるときはそれをカバーする特別な戦略が必要になるが、二人の会話からはそのような戦略を模索する意思も姿勢も窺うことはできない。窺うことができるのは上官としての兵士の命に対する責任意識の欠如――責任放棄のみである。要するに上官の兵士に対する精神主義の要求は兵士の命に対する道徳心のカケラもない責任意識の欠如・放棄によって成り立つという図式を取ることになる。このようにして兵士の命は軽視され、無駄死にに向かわされることになった。

 終戦直後にイギリス等連合軍がインパール作戦に関与した日本軍司令官や幕僚17人に行った聞取り調査資料を発見。特にインパール作戦の勝敗の鍵を握ることになった第31師団が担った「コヒマの戦い」について詳しく聞き取られていたという。コヒマは第31師団によって一度攻略したが、イギリス軍に奪還された。

 〈第31師団長佐藤幸徳中将調書「コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった」
 
 3週間で攻略するはずだったコヒマ。ここでの戦闘は2か月間続き、死者は3,000人を超えた。しかし、太平洋戦線で敗退が続く中、凄惨なコヒマでの戦いは日本では華々しく報道された。

 日本軍の最高統帥機関、大本営は戦場の現実を顧みることなく、一度始めた作戦の継続に固執していた。東條大将の元秘書官は、現地で戦況を視察した大本営の秦中将が東條大将に報告したときの様子を語っている。

 元秘書官西浦大佐の証言「報告を開始した秦中将は『インパール作戦が成功する確率は極めて低い』と語った。東條大将は、即座に彼の発言を制止し話題を変えた。わずかにしらけた空気が会議室内に流れた。秦中将の報告はおよそ半分で終えた」

 この翌日、東條大将は天皇への上奏で現実を覆い隠した。

 東條英機上奏文「現況においては辛うじて常続補給をなし得る情況。剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」〉――

 「Wikipedia:佐藤幸徳」の項目に、〈作戦が始まったが、佐藤の予想通り、第31師団の前線には十分な糧秣・弾薬が補給されなかった。第15軍司令部からは「これから物資を送るから進撃せよ」などの電報が来るばかりで、佐藤はその対応に激怒していた。〉

 3週間分の食糧を持たせた。弾薬も3週間分だったことになる。何らかの状況の急変で食糧や弾薬が底をついた場合はどうするかという予備対策は戦略構築の要である。戦闘に悪影響が出たら、元も子ない。だが、糧秣・弾薬共に補給されなかった。敵側が用意周到さの点で上回る戦略を用いたために敗北や失敗を招くのはある意味仕方がないが、用意周到さの点で無頓着な戦略を用いたことからの敗北や失敗は指揮官の重大な責任となる。3週間攻略予定のインパール作戦にあってその手前140キロ近くのコヒマの戦闘は2か月間続き、死者は3000人を超えたが、国内では実情を隠す大本営発表が行われていた。

 大本営の秦三郎中将が現地で戦況を視察(インパール作戦1944年3月8日開始2ヶ月後の5月初旬から中旬にかけてか)、同じく大本営(陸軍部)に詰めていた東條英機に作戦の悲観的成功可能性を報告した。不都合な事実を受け付けなかっただけではなく、海軍軍令部がミッドウェイ海戦の戦況報告で天皇を欺いたように東條は不都合な事実を覆い隠して天皇を欺く報告をした。前者の戦況報告に関して天皇は国民統治のために軍部・政府に利用された存在に過ぎなかったと書いたが、こういった経緯から政府・軍部等が、勿論東條英機をも含めて、天皇の存在理由をどこに置いていたかを明瞭に汲み取ることができる。彼らにとって天皇の存在理由としていた絶対性は見せかけに過ぎず、その絶対性は国民のみに向けられていたもので、国民統治の格好の道具として利用されていた。要するに天皇の絶対性を信じていたのは国民だけで、だから、「天皇陛下万歳」と言わせて命を投げ出させることができた。

 東條の天皇への上奏は補給(後方支援)は滞りなく行うことができる体制を辛うじて維持している、そのような体制のもと、堅固な不屈の意志であらゆる手段を尽くして既定方針の貫徹に努力することが必要というもので、努力を条件に成功する見込みを告げた言葉だが、補給に関してはウソで塗り固めた報告でしかなく、戦いの条件とし得ない以上、「剛毅不屈万策を尽くして」は精神力頼みの域を出ないことになる。柔道で相手も体一つ、こちらも体一つの戦いなら、精神力がモノを言う場合がある程度あるだろうが、敵の弾丸が雨あられと飛んでくる中でこちらは打つ弾に事欠き、突撃ありの精神力だけでは相手に与える打撃は少なく、味方の打撃が増すばかりなのは目に見えているが、東條英機はそこに目を向けずに精神論だけをブチ上げ、精神論に勝機を預けていたということは補給や戦況の進捗・遅滞に応じて進撃・待機・投降・撤退等を臨機応変に選択する柔軟な戦略は考慮の外に置いていたことを証明することになる。このことは1941年8月の総力戦研究所の日米戦想定机上演習の結果報告「戦争は不可能」に対して40年近く前の日露戦争を持ち出し、"意外裡な事"(=偶然性主体の計算外の要素)が戦争勝利の要因となる云々を説いたことが戦略を頭に置かない精神論で終わっていたことをも証明することになる。そしてこういった精神論は陸軍統率の参謀総長(1944年2月から就任)としてお、一国の国民を率いる総理大臣としてのそれぞれの責任の放棄をも証明することになり、その無責任体制は救い難く、その体制は否応もなしに兵士の命だけを消耗させる構図を取ることになっていた。   

 第15軍牟田口司令官は苦戦の原因は師団長、現場の指揮官にあるとして全師団、第15師団、第31師団、第33師団の師団長全員を更迭。作戦中の更迭は異常事態だと記事は書いている。牟田口は自ら最前線に赴き、第33師団で陣頭指揮を執る。〈全兵力を動員し、軍戦闘司令所を最前線まで移動させることで、戦況の潮目を一気に変える計画を立てたのだ。〉――とあるが、食糧や武器の補給なくして戦況の潮目を変えるという殆ど不可能事そのものに挑戦した。当然、本人の頭にあったのは個々の兵士が持つ精神力の発揮、精神力頼みだった。

 〈ビルマ奪還に当たっていたイギリス軍のスリム司令官の証言「われわれは、日本軍の補給線が脆弱になったところでたたくと決めていた。敵は雨期までにインパールを占拠できなければ、補給物資を一切得られなくなることは計算し尽くしていた」〉――

 イギリス軍は日本軍が順当に補給を受けていたと見ていたことになる。だが、記事は触れていないが、第31師団長佐藤幸徳中将は何ら補給のない状況での進撃は不可能と見て、上官の命令は絶対の軍ルールを無視し、ビルマ方面軍宛に司令部批判の電文を送り、コヒマから無断撤退している。要するに食糧・弾薬の
補給を重視・優先し、補給がないままに相手に損害を与える手段として兵士自らの命と交換させるといった精神主義は限界と見て、途中で放棄した。

 〈インパールまで15キロ。第33師団は、丘の上に陣取ったイギリス軍を突破しようと試みる。この丘は、日本兵の多くの血が流れたことから、レッドヒルと呼ばれている。作戦開始から2か月、日本軍に戦える力はほとんど残されていなかった。牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けた。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たちは、1週間あまりで少なくとも800人が命を落とした。〉――

 日本軍は作戦を裏付ける戦略がないままにインパール作戦を開始し、進軍を裏付ける戦略もないままに開始した作戦を闇雲に進めていった。進軍を支えていたのは補給の裏づけがない徒手空拳の精神力がウエイトを占め、このことは「100メートルでも前に進め」と前進の目標を「100メートル」にしか置くことができないにも関わらずにそれを敵陣地までと期待する精神力頼み自体に現れているが、イギリス軍の補給の保障を受けた、少なくとも日本軍よりも豊富な物量とその豊富さが兵士に与える戦力的にも精神的にも優位な士気の差によっていたずらに日本軍兵士の死者の数を積み増していくことになっていった戦闘しか頭に浮かべることができない。当然のことだが、こういった展開には軍戦闘司令所を最前線にまで移動させ、陣頭指揮を取った第15軍牟田口司令官の精神論に依拠しない作戦の準備・計画・運用の方法としての戦略というものに対する責任意識、兵士の命そのものに対する責任意識はいずれも感じ取ることはできない。このように見てくると、インパール作戦がやれ、インドの独立だ、援蔣ルートの遮断だといった壮大な構想に酔い、その酔いが成功を確信させただけで満足な戦略もなしに始めたように見えてくる。

 インド、ビルマ国境地帯は1944年6月に降水量世界一と言われている雨季に入った。日本、イギリス共に悪条件は同じだが、戦闘を優勢に進めている側と劣勢に立たされている側とでは悪条件の程度が違ってくる。こういったことも計算に入れるのも戦略策定能力に関係してくる。この年は30年に1度の大雨だったという。3週間で攻略するはずだった作戦の開始から3ヶ月が経ち、推定1万人近くが命を落としていた。大本営の作戦中止決定は1944年7月1日。1944年3月開始から4ヶ月後。但し戦死者の6割が作戦中止後の発生だという。つまり救出作戦は行われなかった。大本営の作戦中止決定には救出作戦という項目は設けられなかった。兵士という戦争資源の処遇に対して、その命に対して軍という立場上、負わなければならない任務及び義務を果たす責任を放棄した。この責任放棄はインパール作戦でのみ見られた現象ではなく、他の戦闘でも広く見られた現象であることから、日本軍全体の体質となっている責任放棄であろう。大体が精神主義自体が戦略放棄に相当することになり、軍という集団の戦略放棄は軍組織としての体質そのものとしてある責任放棄と表裏一体の関係を取る。

 〈レッドヒル一帯の戦いで敗北した第33師団は、激しい雨の中、敵の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされた。チンドウィン河を越える400キロもの撤退路で兵士は次々に倒れ、死体が積み重なっていった。腐敗が進む死体。群がる大量のウジやハエ。自らの運命を呪った兵士たちは、撤退路を「白骨街道」と呼んだ。

 一方、コヒマの攻略に失敗した第31師団。後方の村に食糧の補給地点があると信じ、急峻な山道を撤退した。しかし、ようやくたどり着いた村に、食糧はなかった。分隊長だった佐藤哲雄さん(97)は隊員たちと山中をさまよった。密林に生息する猛獣が弱った兵士たちを襲うのを何度も目にしたという。

 佐藤哲雄さん証言「(インドヒョウが)人間を食うてるとこは見たことあったよ、2回も3回も見ることあった。ハゲタカも転ばないうちは、人間が立って歩いているうちはハゲタカもかかってこねえけども、転んでしまえばだめだ、いきなり飛びついてくる。」

 衛生隊にいた望月耕一(94)さんは、武器は捨てても煮炊きのできる飯盒を手放す兵士は 1人もいなかったという。望月さんは、戦場で目にしたものを、絵にしてきた。最も多く描いたのが、飢えた仲間たちの姿だった。

 第31師団衛生隊元上等兵望月耕一さん証言(94)「(1人でいると)肉切って食われちゃうじゃん。日本人同士でね、殺してさ、その肉をもって、物々交換とか金でね。それだけ落ちぶれていたわけだよ、日本軍がね。ともかく友軍の肉を切ってとって、物々交換したり、売りに行ったりね。そんな軍隊だった。それがインパール戦だ。」〉――

 軍としての責任と義務を放棄した救出作戦の不履行――軍上層部の兵士の命への軽視が兵士たちを人間以下のケダモノに変え、軍組織を収拾の効かない最悪の無秩序集団に変えた。撤退時に於いても後方支援できる食糧の調達が不可能だったとしたら、勝利を絶対条件としたインパール作戦の立案と立案に基づいて構築することになった戦略自体が身の程知らずの高望みだったことになり、現状把無能力の責任の有無が問われる。

 〈齋藤博圀少尉の日誌「七月二十六日 死ねば往来する兵が直ぐ裸にして一切の装具をふんどしに至るまで剥いで持って行ってしまう。修羅場である。生きんが為には皇軍同志もない。死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしよう」〉――

 結果的にインパール作戦の補給・兵站無視の無責任な戦略が徐々に育んでいった、だが、この手の戦略の必然とも言える最終場面での飢餓地獄の一場面、一場面ということになる。

 〈太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万人、傷病者は4万とも言われている。軍の上層部は戦後、この事実とどう向き合ったのか。

 牟田口司令官が残していた回想録には「インパール作戦は、上司の指示だった」と、綴られていた。一方、日本軍の最高統帥機関・大本営。インパール作戦を認可した大陸指には、数々の押印がある。その1人、大本営・服部卓四郎作戦課長は、イギリスの尋問を受けた際、「日本軍のどのセクションが、インパール作戦を計画した責任を引き受けるのか」と問われ、次のように答えている。

 大本営服部卓四郎作戦課長「インド進攻という点では、大本営は、どの時点であれ一度も、いかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は、大本営が担うべき責任というよりも、南方軍、ビルマ方面軍、そして第15軍の責任範囲の拡大である」〉――

 イギリス側は計画と責任を一対の項目と捉えて質問している。牟田口廉也の「インパール作戦は、上司の指示だった」が事実だとしても、直接指揮したのは第15軍司令官牟田口廉也である。食糧・弾薬の後方支援の最終調整者は牟田口廉也自身であった。進軍だけを命令し、食糧・弾薬の後方支援要請を無視した。後方支援が不可能な状況であったなら、撤退の命令を下すべきを不可能を可能とする万能薬とはならない精神論をあたかも万能薬であるかにように頼って、傷口を広げていった。

 陸軍参謀総長東條英機の前任者杉山元陸軍参謀総長は1943年3月当時、大本営陸軍作戦部長眞田穰一郎少将に対して「寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ」と言い、インパール作戦が大本営の承認を得るよう取り計らいを請い、その結果、1944年1月7日に大本営によってインパール作戦は発令された。

 東條英機にしても陸軍参謀総長に就任、首相と陸軍大臣とを兼任することになってから、現地戦況を視察した大本営の秦三郎中将が東條英機に作戦の悲観的成功可能性を報告した際、その報告に取り合わず、天皇への上奏で作戦続行を伝え、精神論を手段とした作戦の成功可能性を臭わせている。にも関わらず、作戦、兵站、編成、動員などの戦略実務を担う大本営の作戦課長服部卓四郎はビルマ各現地軍が責任範囲を拡大させて行った作戦であって、大本営には関係しない責任事項だと言ってのけている。百万歩譲って、言っていることを事実と認めた場合は天皇直属の最高戦争指導機関、陸海軍の最高統帥機関である大本営がビルマ各現地軍をコントロール下に於いて統率・指揮できなかった責任を新たに発生させることになるが、このことに無頓着な無責任を見せている。

 この大本営の部隊に対する責任転嫁は卑怯で卑しい。責任を潔く認める道徳的勇気は見当たらない。インパール作戦は無責任な戦略で始まり、無責任な途中経過を経て、撤退する兵士を見殺しにする無責任な戦略で終わりを告げ、そこに軍上層部のより下位の部署への責任転嫁が加わった。この責任転嫁は倫理観の欠如と道徳観の欠如が動機づけとなっている。

 以上見てきたように日本軍上層部は言葉だけで作り上げた立派な精神論を振りまわして組織や階級や自らの立場に威厳ある装いを施しはするが、それは程度の低い戦略立案能力をカムフラージュする狡猾な外観に過ぎず、結果、無責任を恣にすることになり、全体的に道徳心のカケラも、倫理観のカケラもない、それゆえに道徳的勇気も肉体的勇気も欠如させた日本軍人とは名ばかりの見せかけの存在でしかなかった。この愚かしい見せかけによって700万人余の陸海出征兵士の多くが過酷な労苦を強いられ、うち日本軍人軍属戦死230万人、その9割方は占める下層兵士200万人余の運命を希望なき死へと向かわせただけではなく、国外で民間日本人30万人、国内では本土空襲等によって民間日本人50万人を死に追いやり、その影響で終戦直後に12万人の戦災孤児を作り出し、その多くに艱難辛苦の人生を歩ませた。

 この罪・責任は本人たちは道徳観や倫理観を欠いた無責任集団であることから自己弁護や自己弁解で言い逃れはできても、「人間として」という意味合いに於いて、また歴史の教訓としていつまでも記憶しておかなければならない究極の罪悪であろう。

 であるにも関わらず、保守党政治家、その代表格安倍晋三が靖国参拝の目的について頻繁に使う常套句「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に尊崇の念を表するために参拝した」の「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊」という戦死に至るプロセスのうちの「国のために戦い」は確かに国を対象とした兵士の自発的行為と位置づけることは可能であるものの、「尊い命を犠牲にした」の丁寧語である「尊い命を犠牲にされた」を同じく国を対象とした兵士個人個人の自発的行為の文脈で捉えることは日本の戦争の実態から言って、狡猾な歴史改竄を紛れ込ませていることになる。

  “尊い命の犠牲”はその多くが日本軍上層部の精神論だけで突っ走った無責任な戦争計画、無責任な戦略、個々の戦闘に於ける強引で無責任な作戦から発した被害としてある理不尽な犠牲だからであり、言ってみれば、日本軍上層部の愚かさの生け贄にされた“尊い命の犠牲”が実態だからである。その無責任な愚かさがなかったなら、むざむざ犠牲になることはなかった。

 当然、かつては安倍晋三を筆頭として、兵士の自発性と見せかける「国のために」云々の靖国参拝は日本軍上層部の無責任で愚かしい戦略や兵士の命を何とも思わない生命軽視の無責任や責任を負わない組織的体制、軍上層部個人個人の本来的な性格傾向と見える無責任体質等々の日本軍の実態を隠蔽する仕掛けを施していることになり、逆に戦争主体の国家・軍部の無能・無責任の罪を問わない仕掛けとなり、このような両面を持った仕掛けが毎年、終戦の月の8月と春と秋の例大祭の靖国神社を舞台に繰り返し演じられるに至っている。

 2022年も銃撃死する前の安倍晋三、その他高市早苗、西村康稔、萩生田光一、小泉進次郎、超党派議連等々の右翼の面々が日本軍の無能・無責任を受けて無駄死にさせられた多くの日本軍兵士に対して理不尽な犠牲という実態隠蔽の仕掛けを一方で施すと同時に戦前日本国家の無能・無責任の罪を問わない仕掛けを施すことになる靖国参拝が例年どおりに演じられた。そして毎年繰り返されるだろう。

 《2022年8月NHK総合戦争検証番組は日本軍上層部の無責任な戦争計画・無責任な戦略を摘出し、兵士生命軽視の実態を描出 靖国参拝はこの実態隠蔽の仕掛け(1)》に戻る

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