安倍晋三靖国参拝:尊崇の念表明対象の「ご英霊」は戦前日本国家をコアなポジションで支えた要職者たちで、下級兵士は除外

2020-10-26 09:34:39 | 政治
 首相辞任という手で首相としての自身の立ち位置をコロナの影響外に一時避難させることでアベノミクス等の政治評価下落回避を狙った安倍晋三が首相退任後の2020年9月19日に続いて1ヶ月後の2020年10月19日朝、東京・九段の靖国神社を参拝したという。10月19日の参拝後に記者に問われて、次のように答えたとマスコミは伝えている。

 安倍晋三「ご英霊に尊崇の念を表するために参拝いたしました」

 靖国神社とは幕末および明治維新以後の国事に殉じた人々を英霊として祀っている。「英霊」とは「死者、特に、戦死者の霊を敬っていう語」だとgoo国語辞書が紹介している。つまり戦死者という存在に特別な意義を持たせている。「国家のために殉じた」という意味づけからであろう。

 日本の場合、この思想自体が個人よりも国家を優先させる国家主義を纏っていることになる。その国家たるや天皇独裁国家だったからである。個人の自由を全面的に認めた民主国家のために殉じたわけではない。

 日中戦争と太平洋戦争での軍人軍属の戦死者数は230万人とされている。対して靖国神社は英霊を祭神として246万6千余柱を祀ってる。「Wikipedia」によると、日中戦争での戦死者19万1250柱、太平洋戦争での戦死者213万3915柱、合計232万5165柱となる。つまり靖国神社祭神は戦前の日本の戦争の戦死者が大方を占めている。

 と言うことは、安倍晋三や他の靖国を参拝する政治家の「ご英霊」は日中・太平洋戦争の戦死者を主に対象としていることになる。
 
 靖国神社に代わる国立戦没者追悼施設建設の建設が取り沙汰されると、「戦友と別れる際、『靖国で会おう』と誓い合い、日本人の心の拠り所となってきた」、あるいは、「無宗教の追悼施設の御霊に参拝して追悼といえるのか。『靖国で会おう』と散っていった戦友たちは、どこに行けばいいのか」といった声が上がることからも、「ご英霊」は日中・太平洋戦争の戦死者が殆ど対象となっていることが分かる。

 但し安倍晋三は日中・太平洋戦争の戦死者全てを「ご英霊」の対象としているのだろうか。

 例えば2006年8月7日放送、2007年8月5日再放送のNHKスペシャル《「硫黄島玉砕戦」・~生還者61年目の証言~》では、陸海軍合わせて2万人もの兵士が送り込まれたものの、その多くは急遽召集された3、40代の年配者や16、7歳の少年兵で、中には銃の持ち方を知らない者もいたと伝えている。

 硫黄島の戦いは1945年(昭和20年)2月19日開戦、1945年3月26日組織的戦闘終結となっているが、要するに大本営は日本軍の精鋭部隊を硫黄島に送り込んだのではなく、戦い方を満足に心得ていない雑多集団を送り込んだ。この事実は当時の日本軍が置かれた戦力に関わるお粗末な実情を物語っているようにも見えるが、開戦2月19日に8日遡る2月6日策定の『陸海軍中央協定研究・案』で、「硫黄島を敵手に委ねるの止むなき」と決めていたと番組が解説していたから、大本営はどうせ捨て石にするなら、精鋭部隊を送り込むのは勿体ない、頭数さえ揃えれば十分だと、常套手段としている人命軽視を発揮、雑多集団を送り込んだ疑いは拭えない。

 そうである以上、急遽召集された3、40代の年配者や16、7歳の少年兵は戦前国家の犠牲者、戦争の犠牲者に位置づけることができる。勿論、戦前国家の犠牲、戦争の犠牲となった兵士は、硫黄島の兵士に限らない。さらに言うと、民間人の中にも戦前国家の犠牲者、戦争の犠牲者は数多く存在する。

 「Wikipedia」は硫黄島の戦いでは守備兵力20933名のうち96%の20129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となったと書いているから、この中に銃の持ち方も知らない者を加えた3、40代の年配者や16、7歳の少年兵も混じっていたはずで、靖国神社に「ご英霊」として祀られていることになる。

 安倍晋三はこのような「ご英霊」に対しても靖国神社参拝の際には「尊崇の念」を表したのだろうか。

 安倍晋三は国家主義者である。国家主義者とは常に国家の立場から物事を捉えて、個人よりも国家に絶対的価値・優位を置く思想の持ち主を言う。安倍晋三が国家主義者であることは自身の著書で書き出している次の一節が証明してくれる。

 『美しい国へ』(安倍晋三著・2006年7月20日発刊)

(p24~p27)
 
 大学にはいっても、革新=善玉、保守=悪玉という世の中の雰囲気は、それほど変わらなかった。あいかわらず、マスコミも、学会も論壇も、進歩的文化人に占められていた。

 ただこの頃には、保守系の雑誌も出はじめ、新聞には福田恆存氏、江藤淳氏ら保守系言論人が執筆するコーナーができたりして、少しは変化してきたのかな、と感じさせるようになっていた。

 かれらの主張には、当時のメインストリームだった考え方や歴史観とは別の見方が提示されていて、私には刺激的であり、新鮮だった。とりわけ現代史においてそれがいえた。

 歴史を単純に善悪の二元論で片付けることができるのか。当時のわたしにとって、それは素朴な疑問だった。

例えば世論と指導者との関係について先の大戦を例に考えてみると、あれは軍部の独走であったとの一言で片付けられることが多い。しかし、果たしてそうだろうか。

確かに軍部の独走は事実であり、最も大きな責任は時の指導者にある。だが、昭和十七、八年の新聞には「断固戦うべし」という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化する中、マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していたのではないか。

 百年前の日露戦争のときも同じことが言える。窮乏生活に耐えて戦争に勝ったとき、国民は、ロシアから多額の賠償金の支払いと領土の割譲があるものと信じていたが、ポーツマスの講和会議では一銭の賠償金も取れなかった。このときの日本は、もう破綻寸前で、戦争を継続するのはもはや不可能だった。いや実際のところ、賠償金を取るまでねばり強く交渉する気力さえなかったのだ。

だが、不満を募らせた国民は、交渉に当たった外務大臣・小林寿太郎の「弱腰」がそうさせたのだと思い込んで、各地で「講和反対」を叫んで暴徒化した。小林も暴徒たちの襲撃にあった。

こうした国民の反応を、いかに愚かだと切って捨てていいものだろうか。民衆の側からすれば、当時国の実態を知らされていなかったのだから、憤慨して当然であった。他方、国としても、そうした世論を利用したという側面がなかったとはいえない。民衆の強硬な意見を背景にして有利の交渉をすすめようとするのは外交ではよくつかわれる手法だからだ。歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではないからだ。

この国に生まれ育ったのだから、私は、この国に自信をもって生きていきたい。そのためには、先輩たちが真剣に生きてきた時代に思いを馳せる必要があるのではないか。その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっと大切なことではないか。学生時代、徐々にそう考え始めていた。

だからといってわたしは、ことさら大声で「保守主義」を叫ぶつもりはない。わたしにとって保守というのは、イデオロギーではなく、日本及び日本人について考える姿勢のことだと思うからだ。

現在と未来にたいしてはもちろん、過去に生きた人たちにたいしても責任を持つ。いいかえれば、百年、千年という、日本の長い歴史のなかで育まれ、紡がれてきた伝統がなぜ守られてきたかについて、プルーデント(慎重)な認識をつねにもち続けること、それこそが保守の精神なのではないか、と思っている。

 安倍晋三は歴史認識は〈その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直すこと〉で成り立たせるべきだと主張、〈それが自然であり、もっと大切なことではないか。〉と言い切っている。

 安倍晋三のこの論理を当てはめると、軍部の独走は事実(ファクト)として認めるものの、〈その時代に生きた国民の視点〉は〈マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していた〉ことを以って歴史認識とすべきだと言うことになる。

 この歴史認識は戦前国家擁護をガッシリとした骨格としている。戦前国家擁護の歴史認識であることは2013年4月23日の参議院予算委員会国会答弁からも十分に窺うことができる。

 安倍晋三「特に侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」

 この答弁は戦前の日本国家の戦争は侵略戦争ではないを真意としていて、その真意は戦前国家擁護論そのものとなる。歴史認識は〈その時代に生きた国民の視点〉から発すべきだとしている戦前国家擁護と同じ骨格となるのは整合性の点から当然の成り行きでなければならない。

 安倍晋三のこの戦前国家擁護はA級戦犯に関わる歴史認識にも現れている。

 2006年(平成18年)10月6日衆議院予算委員会

 岡田克也「A級戦犯の話について確認をしておきたいと思います。この議論は総理とも2月に予算委員会でやらせていただきました。

 まず、小泉総理は、私はA級戦犯というのはさきの戦争において重大な責任を負うべき人ではないかというふうに聞いたところ、総理はさらにそれを飛び越えて、A級戦犯は戦争犯罪人であると断言されたんですね。そのことについて、当時官房長官だった安倍さんに同じ質問をしたところ、安倍さんは、日本において犯罪人ではないと答弁されました。その御認識は今も変わりませんか。

 安倍晋三(首相)「日本において、国内法的にいわゆる戦争犯罪人ではないということでございます。遺族援護法等の給付の対象になっているわけでありますし、いわゆるA級戦犯と言われた重光葵氏はその後勲一等を授与されているわけでありまして、犯罪人であればそうしたことは起こり得ない、こういうことではないかと思います」

 安倍晋三の「重光葵」云々は詭弁そのものである。「Wikipedia」によると、重光葵はA級戦犯として有罪・禁固7年の判決を受け、4年7ヵ月の服役の後、巣鴨拘置所を仮出所、1952年の講和条約の発効後、規定に基づいて恩赦により刑の執行終了を経ている。日本では政府や軍の要職にあって戦争遂行に関わった誰をもその罪を問わなかったゆえに戦後の活躍となったのである。しかも巣鴨拘置所にA級戦犯として拘置されたまま勲一等を授与されたわけではない。

 安倍晋三は重光葵の例を以って、「日本において、国内法的にいわゆる戦争犯罪人ではない」と東条英機にまで免罪符を与えていることになる。戦前国家擁護の歴史認識でなくて、何であろう。

 戦前国家擁護は安倍晋三が常に国家の立場から物事を捉えて、個人よりも国家に絶対的価値・優位を置く国家主義者でなければ成し得ない事柄そのものである。

 もし個人よりも国家に絶対的価値・優位を置く国家主義とは正反対の、個人の意義と価値を重視し、その権利と自由を尊重する個人主義に立っていたなら、個人の自由、思想・言論の自由に著しい制限を加えていた軍部が天皇に代わってその独裁体制の実質的な運用主体であった天皇独裁体制の戦前日本国家を擁護することはあり得ない。例え国家のために尊い命を殉じた「ご英霊に尊崇の念を表する」行為を装っていても、その行為自体が戦前国家擁護そのもとなる以上、安倍晋三は決して個人主義の立場に立っているわけではなく、国家主義と一心同体であることの証明としかならない。

 いわば戦前国家擁護と国家主義は同義語の関係にある。国家主義を自らの思想としていなければ、戦前国家を擁護できないし、戦前国家を擁護できるのは国家主義を体現しているからこそである。

 当然、安倍晋三が戦前国家を擁護する国家主義者である点を考慮すると、安倍晋三が靖国神社参拝で「ご英霊」として「尊崇の念を表する」対象者は主として軍部が代行していた天皇独裁の大日本帝国国家をコアなポジションで支えて戦前の戦争遂行に大きな役割を果たした政治家、外交官、軍人等のうちの処刑されたり、戦死したりして靖国神社に祀られることになった要職者と言うことになって、硫黄島の戦いの例で言うなら、急遽召集された3、40代の年配者や16、7歳の少年兵を含む下級兵士は対象者から排除していなければならない。

 もし下級兵士までをも「ご英霊」として「尊崇の念を表する」対象者に入れていたなら、国家の立場から物事を捉えて、個人よりも国家に絶対的価値・優位を置く国家主義の原理から外れることになる。国家主義者はあくまでも個人に対してよりも国家に価値を置き、その優位性を体現し続けなければならないからである。

 大体が急遽召集された3、40代の年配者や16、7歳の少年兵等々をほんの一例として加えた、人命軽視からの数知れない多くの戦前国家の犠牲者、戦争の犠牲者を「ご英霊」として「尊崇の念を表する」こと自体、悪趣味そのもので、「尊崇の念を表する」「ご英霊」の対象に入るはずはなく、特に国家主義の立場からすると、対象者として論外な扱いとするはずである。

 犠牲者の側からすると、人命軽視を受けていながら、“尊崇の念を表される” 対象となる皮肉な結果を突きつけられることになって、許しがたいふざけた行為に映るはずである。

 要するに天皇独裁・軍部代行の戦前日本国家の国家主義が戦争遂行に当たって下級兵士をいとも簡単に人命軽視の犬死の犠牲に付すことができ、一般国民までをもその犠牲に巻き込むことができたのはあくまでも国家主義から発しているお国のための国家優先だったからであり、そのような戦前日本国家を安倍晋三自身も国家主義者として擁護しているからこそ、心置きなく「ご英霊に尊崇の念を表する」参拝を可能としているのであって、参拝の対象となっている「ご英霊」
はやはり安倍晋三自らの国家主義との関係上、大日本帝国国家を政治や外交や軍の分野などなどをコアなポジションで支えて戦前の戦争遂行に大きな役割を果たした要職者たちであり、下級兵士たちは除かれていなければ国家主義の座りを悪くすることになるはずである。

 簡単に言い直すと、安倍晋三は国家主義者である以上、靖国参拝によって「ご英霊」として「尊崇の念を表する」対象には下級兵士は決して入っていないということである。同じ軍人でも、国家主義によって将校と下級兵士では命の価値そのものが大きく違っていたこと、その国家主義を安倍晋三は受け継いでいることが最大の理由となる。

 安倍晋三は自著『美しい国へ』で、「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」ことを歴史認識とすべきであると述べているが、A級戦犯を「日本において、国内法的にいわゆる戦争犯罪人ではない」と答弁した、先に挙げた2006年10月6日の衆議院予算委員会では歴史認識について次のように答弁している。

 安倍晋三「あの大戦についての評価、誰がどれぐらい責任があるのかどうかということについては、それはまさに歴史家の仕事ではないか、政府がそれを判断する立場にはないと私は思います」

 一方では「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」ことを以って歴史認識とすべきだと言い、もう一方では後世の歴史家が決める歴史認識だとしている。ご都合主義者らしい安倍晋三の言い分となっている。

 参考までに。

 《「硫黄島玉砕戦」から読み解く原爆投下 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》(2007年8月12日)

コメント
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日本学術会議会員6名任命拒否は国民主権が関わっている人事である以上、加藤勝信の「人事の話だから詳細は控える」は説明責任回避の詭弁

2020-10-19 09:49:05 | 政治
  ご存知のように日本学術会議会員は1983年(昭和58年)11月の政府側証人の国会答弁によって会議側の推薦に基づいて総理大臣が推薦どおりに任命するのが慣例となっていたが、今回、初めて推薦どおりではなく、6人の任命拒否者が出た。但し任命拒否に関わる人事について政府は具体的な説明責任を果たしていない。公正・公平に行われた人事なのか、反政府姿勢に対する不明朗極まりない拒絶意識からの恣意的人事なのかが問われることになった。
 
 2020年10月7日の衆議院内閣委員会閉会中審査と翌日の2020年10月8日の参議院内閣委員会閉会中審査で政府側証人内閣府副大臣の三ッ林裕巳(ひろみ
)と内閣府大臣官房長の大塚幸寛が憲法第15条第1項を持ち出して、任命拒否の正当性論理を展開した。

 三ッ林裕巳「憲法第15条の規定により明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が推薦のとおりに任命しなければならないというわけではなく、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提としております」

 大塚幸寛「憲法第15条第1項を引用させて頂きますが、これはやはり公務員の選定・罷免権が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者である内閣総理大臣が、推薦どおりに任命しなければならないということはないということでございまして、これは会員が任命制になったときからこのような考え方を前提としておりまして、考え方を変えたということはございません」

 日本国憲法「第3章国民の権利及び義務第15条」の第1項と第2項を見てみる。
 
 1 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
 2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

 日本学術会議法の第7条2項に〈会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。〉と規定されている。第17条は日本学術会議が会員の候補者を選考し、内閣総理大臣に推薦すると定めている。

 つまり憲法第15条が規定している公務員を選定し、及びこれを罷免することが国民固有の権利であることに基づいて日本学術会議の会員任命に関しては任命権者となっている内閣総理大臣が国民に代わって行うという組み立てとなる。そうである以上、それが正しい任命か、正しくない任命か、常に国民に対して説明責任を負うことになる。

 逆説するなら、説明責任を負わずに任命を行っていいという道理には決してならない。

 常に国民に対して説明責任を負うことは先に上げた2020年10月8日の参議院内閣委員会閉会中審査で政府参考人の答弁も間接的に指摘している。

 内閣法制局第一部長の木村陽一が憲法第15条第1項の「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とする規定は国民主権の原理に基づくとの趣旨の発言を行った上で次のように答弁している。

 木村陽一「このような国民主権の原理を踏まえますと、内閣が国民及び国会に対して責任を負えない場合にまで申し出のとおりに必ずしも任命しなければならない義務があるわけではないと一貫して考えてきております」

 「申し出のとおりに」とは「日本学術会議法の候補者の選考どおりに」との意味を取ることは断るまでもない。

 このことを言い換えると、国民及び国会に対して責任を負うことはできないと考える任命を拒否することは国民主権に対しても、当然憲法に対しても、日学法に対しても何ら法律に違反することではないとの主張となり、6名任命拒否は国民及び国会に対して責任を負うことのできる措置であったということになる。

 国民及び国会に対して責任を負うことができることによって憲法第15条第1項を通して国民主権を尊重していることの証明となる。

 当然、6名任命拒否が実際に国民及び国会に対して責任を負うことのできる措置となっているのかどうかの説明責任が任命当事者たる内閣総理大臣からなければ、責任云々に関して国民及び国会は何ら判断できないことになる。次も当然ということになるが、記者会見や国会で追及を受ける前に内閣総理大臣も官房長官も説明責任を果たさなければならないのだが、任命拒否に至った詳しい経緯を求める質問に入ると、菅義偉は具体的な決定経緯については何一つ述べずに「法律に基づいて任命を行っている」と通り一遍の説明責任のみで済まし、特に詭弁家加藤勝信は「人事の話だから詳細は控える」と言い逃れて、一向に説明責任を果たそうとしない。

 6名拒否が明らかになってからの2020年10月9日、首相の菅義偉はマスコミ各社によるグループインタビューで「会員任命を最終的に決裁したのは9月28日で、会員候補リストを拝見したのはその直前だったと記憶している。その時点では最終的に会員となった方(99人)がそのままリストになっていた」と発言したと報道されている。

 つまり学術会議が選考した会員候補者105名の名簿は見ていなかったということは6名任命拒否に関与していなかったことを意味する。既に6名は排除されていて、残り99人のリストとなっていた。菅義偉は単に機械的に任命を決裁したことになる。では、日本学術会議会員の任命権者は内閣総理大臣となっているにも関わらず、誰がどのような根拠に基づいて6名を排除したのか。ますます説明責任が求められることになった。

 任命拒否された6名の人物像を「時事ドットコム」記事が「任命拒否が判明した推薦候補」と題して記事に乗せていた、ブログに一度使った画像から見てみる。

 6名には一定の共通した政治姿勢を窺うことができる。安倍晋三の国家主義的な強権政策に対する顕著な拒絶姿勢である。もしこのような特定の政治的傾向を持つ人物を狙い撃ち的に排除したなら、憲法が保障する思想・信条の自由の侵害そのものに当たる。

 当然、疎かにできない重大な問題であり、国民主権のみならず、思想・信条の自由に関係する任命に関わる「人事の話」である以上、説明責任は最必須の義務行為となる。益々菅義偉のような「法律に基づいて任命を行っている」といった通り一遍の説明責任では片付けることはできない。加藤勝信の「人事の話だから詳細は控える」は説明責任からの卑劣極まりない逃げ口上となる。

 この菅義偉の10月9日のグループインタビューを受けて、各マスコミ記者は誰がどのよう根拠に基づいて6名を排除したのか、官房長官の加藤勝信に対して記者会見で追及することになった。詭弁家官房長官加藤勝信の2020年10月12日午前記者会見と翌2020年10月13日午前記者会見を取り上げて、どのような経緯を踏んで日本学術会議105名の候補者が結果的に6名拒否、99名会員任命となったのか、どのようように説明されているのかを見てみる。そして最後に両日の記者会見中の任命問題に関係する箇所の全文を載せておく。

 先ず2020年10月12日午前の記者会見から。加藤勝信の発言から分かったことは99名の任命は内閣府が起案したということ。決裁文書には推薦名簿が参考資料として添付されていたが、参考資料までは詳しく見ていられなかったということで菅義偉は推薦名簿は見ていないと発言することになったということ。内閣府の起案から決済までの間には総理には今回の任命の考え方の説明が行われていたということ。そして最終的な決済が菅義偉によって為されたという手続きを踏んでいたことになる。

 では、加藤勝信が言う「任命の考え方」とは何を意味するのか。10月13日の午前記者会見になって、その最初の方で説明している。

 加藤勝信「(任命の)考え方というのはこれまで説明させて頂いているところであります。まさに推薦に則って総理が任命するという学術会議法の規定があり、他方で憲法の15条を含めてですね、国としてこれまでの総合学術会議等の提言でも、総合的・俯瞰的的扱いをされている等の指摘があり、そうしたことを踏まえて、まさにそうした任命についての考え方が説明されですね、共有されたということであります」

 これは日本学術会議会員の任命に関わる手続きの説明であって、周囲が説明責任として要求している、どのような理由・根拠で6名を任命拒否したのかの「考え方」を説明したものではない。つまり加藤勝信のこの物言いは任命に関してどういった手続きを取るのかの「考え方」の説明だけで、6名の任命拒否を決めたという矛盾を曝すことになる。

 「総合的・俯瞰的的扱い」を以ってさも任命拒否したかのように取り繕っているが、具体的説明がないと、理由・根拠にまで至らない。
 いずれにしても10月12日午前の記者会見の内閣府の起案から菅義偉の最終決裁までの手続きに関わる加藤勝信の説明によると、6名任命拒否は内閣府が決めて、内閣府から任命の考え方(=任命の手続きに関した考え方)の説明が一応行われ、菅義偉はその任命の考え方そのものを受け入れて、内閣府が決めたとおりに機械的に決裁文書に判を押したことになる。機械的な決裁だから、菅義偉は推薦者名簿を見る必要がなかったということで納得できることになる。

  この経緯は次の記者と加藤勝信の遣り取りが証明する。

 記者「決済までについては総理には考え方が示されているということを今お話されましたけども、今回6人除外というのは最終的に総理の判断で除外されたという理解でよろしいでしょうか」

 この記者の質問は加藤勝信の説明からいくと、間違っていることになる。内閣府から説明を受けた任命の考え方は任命の手続きに関した考え方に過ぎない上に105人の推薦名簿は参考文書として添付されてはいたものの、菅義偉は目を通していなくて、99名の決裁文書しか見ていないのである。菅義偉は決裁はしても、判断していないことになる。

 加藤勝信「6人除外ではなくて、99人を任命されたということでございます。それについては最終的には勿論、総理が最終決裁であります」

 決裁文書が既に99人の名前のみとなっていた。それに判を押した(決裁した)のだから、「6人除外ではなくて、99人を任命された」という経緯を取ることになる。菅義偉は6人任命拒否にノータッチだった。但し「それについては最終的には勿論、総理が最終決裁であります」と言っているが、管義偉自身が105名の中から9名を排除して99人任命の決裁をしたとは言っていなくて、既に99名となっていた決裁文書を承認しただけのことだから、厳密な意味で憲法第15条第1項に基づいた任命でもなければ、内閣法制局第一部長の木村陽一が言っているように国民主権の原理に基づいて内閣が国民及び国会に対して責任を負うことのできる任命であったかどうかは極めて怪しくなる。

 この怪しさを晴らさないことには説明責任を果たしたことにはならない。
 記者がさらに追及すると、加藤勝信は「詳細について人事の話ですので、詳細は控えさせて頂きますけれども、そういったプロセスがあったということでございます」と詳しいことは説明責任を拒否している。

 総理大臣たるものが憲法第15条第1項に則って「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とされている国民主権の原理に忠実であったかどうかが問われている「人事の話」であるにも関わらず、国民主権の原理から切り離して、単なる「人事の話」だとして説明責任を回避する。

 説明責任を回避できない「人事の話」を説明責任の回避に付すことは意図的な秘密仕立てを意味することになる。秘密仕立ては隠蔽が必要だから、秘密仕立てとする。つまり加藤勝信が国民主権が絡んでいる日本学術会員会員任命問題を「人事の話」だとして説明責任を回避するのは詭弁家らしく、詭弁で以って事実を隠蔽する振る舞いに過ぎない。

 誰がどの段階で、どのような根拠で6名任命拒否を決めたのかという追及になると加藤勝信は「決裁までの間には今回の任命の考え方について総理には説明があった」ことと「詳細について人事の話ですので、詳細は控えさせて頂きます」を決り文句にして自らの説明責任の代わりとしている。

 加藤勝信の次の発言などは詭弁中の詭弁である。

 加藤勝信「日学法の中に於いて、推薦を基にですね、質問からちょっと外れますが、推薦を基にその中から選ぶということであります。従って中から選ばれた者について総理は決裁をされたということでありますから、適法に行われているものと承知をしております」

 誰がどのような理由・根拠で推薦会員の中から選んだのかの説明責任を省いておいて、「推薦を基にその中から選ぶということであります。従って中から選ばれた者について総理は決裁をされたということでありますから、適法に行われているものと承知をしております」云々と理由・根拠を省いて、単に表面的な手続きで説明して済ましている。詭弁家の面目躍如と言ったところだろう。

 加藤勝信のこの日の午前中の記者会見の最後の発言は「最後の決裁の段階では99名にする、まさに任命行為です。99名を任命するという決裁文書は起案をされ、そのまま最終決済されたということであります。

 そこに至るプロセスについては先程申し上げたように総理に対して説明をされたということでありますから、当然、説明に当たってはそうした法律を踏まえた説明を成されていると思います」となっている。

 「最後の決裁の段階では99名にする、まさに任命行為です」と菅義偉が主体的に99名を選んだような発言をしているが、真っ赤なウソである。菅義偉のグループインタビューでの自身の発言と加藤勝信のこれまでの説明から、菅は105名の名簿には目を通していなくて、6名を抜いた99人の決裁文書しか見ていない。99人の決裁に基づいて文書に単に判を押したに過ぎない。

 最初から最後まで誰がどの段階でどのような理由・根拠で6名を除外したのかの説明責任を抜きに「最後の決裁の段階では99名にする、まさに任命行為です」と、表面的な手続きだけの説明責任で、さも正しい任命が行われたかのように取り繕う。薄汚い限りである。

 続いて「99名を任命するという決裁文書は起案をされ、そのまま最終決済されたということであります」と言っていることも、最初に言ったことの繰り返しに過ぎない。同じく誰がどの段階でどのような理由・根拠で6名を除外したのかの説明責任を抜いたまま表面的な手続きだけの説明で終えているからだ。
 
 次に2020年10月13日午前の記者会見から任命と任命拒否について、いわば菅義偉の関わりについて加藤勝信がどのようように説明しているのかを見てみる。

 記者「事務の官房副長官(杉田和博内閣官房副長官のこと)がですね、内閣府の提案に基づき任命できない人が複数いると決裁前に総理へ報告。口頭で報告したということですが、日本学術会議法には会員は総理が任命するとございます。今回の任命について総理が総理以外の方が判断された可能性について、また改めて任命に総理がどのように関与していたのか、ご説明をお願いします」

 加藤勝信「まさに任命については最終的には総理が決裁をされて、決定されたということであります。で、そのプロセスに於いてはこれまで申し上げましたように任命の考え方について説明があり、共有されたということは間違いありません。個々の遣り取りについては人事に関することでありますから、誰が何をということは今までも説明を差し控えさせて頂いております。

 その上で内閣官房副長官のお話が出ましたけども、一般論として申し上げれば、内閣官房副長官は官邸に於ける総合調整の役割を果たして頂いております」

 国民主権の原理に耐えられる任命なのか、国民及び国会に対して責任を負うことのできる任命なのかの説明責任は一切排除・無視して、ここでも表面的な手続きのみを以って任命は正しく行われたと強弁し、任命拒否の理由・根拠には何一つ触れていない。

 ここで問題なのは「任命の考え方について説明があり、共有されたということは間違いありません」と言っている点である。2020年10月12日午前の記者会見では内閣府から菅義偉に対して「任命の考え方については説明があった」とのみ述べていて、「共有」という言葉は一度も使っていない。「共有」という表現がない場合は99名任命の決裁文書を見せられ、任命に関わる手続きの「考え方について説明」があり、その「考え方」を受け入れて菅義偉が機械的に決裁したと受け取れるが、「共有」という言葉を入れると、内閣府からの「考え方について説明」に菅義偉が理解・同意して、いわば「共有」して決裁文書にサインしたという手順を取ることになり、菅義偉が任命に主体的とまでいかなくても、自身の意思をかなり加えた6人任命拒否・99人任命の決裁と言うことにすることができる。つまり日学法が規定している任命権者としての内閣総理大臣の役割を一応は保つことができる。

 では、なぜ2020年10月12日午前の記者会見では「共有」という言葉を使わなかったのだろうか。2020年10月12日22時04分発信の「時事ドットコム」が6人任命拒否の判断に内閣官房副長官(兼内閣人事局長)の杉田和博が関与していたことが関係者の10月12日の話によって明らかになったと伝えている。

 記事は書いている。〈関係者によると、政府の事務方トップである杉田副長官が首相の決裁前に推薦リストから外す6人を選別。報告を受けた首相も名前を確認した。首相は105人の一覧表そのものは見ていないものの、排除に対する「首相の考えは固かった」という。〉

 「共有」という意思関与がなく、単に「任命の考え方について説明があり」決裁しただけでは機械的な意思関与となるだけとなって、国民主権との兼ね合い、国民及び国会に対して責任を負うこととの兼ね合いから不都合が生じるゆえに主体的な意思関与があった如くに見せる必要からの、「共有」という言葉を後付けで付け加えた可能性は高い。

 この「共有」という言葉を入れれば、内閣官房副長官杉田和博が決めた6人任命拒否であっても、総理大臣の菅義偉が機械的な意思関与から決裁したのではなく、多少なりとも主体的な意思関与を示すことになって、国民主権との兼ね合いと国民及び国会に対して責任を負うこととの兼ね合いに対して少しは座りを良くすることができる。

 だが、2020年10月13日付時事ドットコム記事、「杉田副長官、審議会人事に介入 前川元文科次官が証言」の記事を読むと、国民主権との兼ね合いも、国民及び国会に対して責任を負うこととの兼ね合いも大分怪しくなる。
 
 前川喜平元文部科学事務次官が2020年10月13日に立憲民主党などの野党合同ヒアリングに出席して、2016年の文化功労者選考分科会委員の選任の際、杉田和博官房副長官に人事案の差し替えを指示されたことを明らかにしたという。

 2016年8月頃に委員のリストを杉田副長官に提出したところ、1週間ほど後に呼び出され、2人の差し替えを命じられた

 前川喜平氏「杉田氏から『こういう政権を批判するような人物を入れては困る』とお叱りを受けた」

 「こういう政権を批判するような人物」は今回、任命拒否された6人と重なる。この6人の任命拒否は杉田和博自身の拒絶反応から出たことなのか、安倍晋三が自身は表に立つことができないゆえに杉田和博を使い、裏から手を回す形で自身の6人に対する拒絶反応を菅義偉に伝えることになったことから出たことなのかである。2016年は安倍政権下であったことと安倍晋三自身が思想・信条の自由に拒絶意思を持っていることを考えると、大いにあり得る話となる。

 調べてみると、2020年10月12日午後の記者会見からであるが、加藤勝信は内閣府からの「任命の考え方の説明」のプロセスに加えて、菅義偉によるその考え方の「共有」というプロセスを付け加えて、法律に則った任命だと説明するようになった。

 だが、「共有」というプロセスを付け加えただけで、誰がどのような理由・根拠で任命拒否に至ったのかの説明は一切なく、2020年10月12日午前の記者会見同様、13日午前の記者会見も表面的な手続きだけの説明で任命を正当化する詭弁は些かも衰えない。次の発言が典型的な例となる。

 加藤勝信「ちょっと背景がありますけども、基本的には一つの考え方があり、全体としてですね、作業を変えていくわけです。一つ一つ、例えば今お話があったように一人ひとり総理が任命を一つ一つチェックしてわけではなくて、一つの考え方を共有し、それは事務方にそうしたものは、いわば任せて処理をしていく。

 別に本件に関わらずそうしたまさに通常の遣り方に則って作業を進める、作業が進められたということです」

 ここで言っている「基本的には一つの考え方があり」という言葉と「一つの考え方を共有し」という言葉は恰も6人命拒否の考え方のように聞こえるが、先に挙げた「まさに推薦に則って総理が任命するという学術会議法の規定があり、他方で憲法の15条を含めてですね、国としてこれまでの総合学術会議等の提言でも、総合的・俯瞰的的扱いをされている等の指摘があり」云々と説明している手続きの「考え方」とは矛盾することになる。

 だが、実際は共通する政治姿勢を持った6人の任命拒否なのだから、「一つの考え方」は任命拒否の理由・根拠に関係した「考え方」でなければ、前後の整合性が取れない。加藤勝信は詭弁家らしく手続きの「考え方」で誤魔化そうとしたが、不注意にも任命拒否の理由・根拠に関係した「考え方」として顔を覗かせてしまったのかもしれない。

 大体からして6人が任命拒否という結果を受けたことを見れば、6人の共通する政治姿勢から判断しさえすれば、菅義偉が内閣府から説明を受けたとしている「任命の考え方」、あるいは上に挙げた加藤勝信の発言を参考にすると、「一つの考え方」とは安倍晋三の国家主義的な強権的政策に拒絶姿勢を示す人物を、あるいは内閣官房副長官杉田和博の言葉を借りるなら、「政権を批判するような人物」を任命拒否に持っていくための「考え方」、あるいは「一つの考え方」でなければならない。こうすることによって任命拒否に関する一連の騒動の整合性が取れる。

 結果から見て、それ以外の「考え方」は存在しない。そして菅義偉たちはそのような「考え方」を「共有」し合った。

 となると、既に触れたように特定の政治的傾向を持つ人物を狙い撃ち的に排除したことになって、憲法が保障する思想・信条の自由の侵害そのものに当たるばかりか、憲法第15条第1項と第2項の悪用、日本学術会議法の第7条の悪用、国民主権の悪用に相当する。

 内閣総理大臣菅義偉のこのような悪用とその悪用に「人事の話だから詳細は控える」と秘密仕立ての隠蔽を策して説明責任を回避する官房長官加藤勝信のさらなる悪用は内閣総理大臣としての、あるいは内閣官房長官としてのそれぞれの資格に値しないことになる。即刻辞任すべきであろう。

 特に菅義偉は「雪深い秋田の農家の長男に生まれた」と庶民性をウリにしているが、とんだ食わせ者である。

 加藤勝信2020年10月12日午前記者会見

 記者「日本学術会議で憲法23条の学問の自由に関連してお伺いします。菅首相は5日のインタビューで、『学問の自由は全く関係ない。どう考えてもそうじゃないですか』とご説明されていました。この『どう考えても』というの、何をどう考えるべきか、学問の自由と全く関係がないとうことをもう少し政府の考えをお伺いできますでしょうか」

 加藤勝信「そのときの遣り取りではでね、記者の方々から独立の機関であって、研究者の中には学問の自由の侵害ではないかという指摘があることに対する答が今言われた『学問の自由とは全く関係ない』ということでありますから、これに対してその前に総理がこの学術会議についてですね、国の行政機関である等の話を、またこの場に於いても特別職の国家公務員ということ。当然、これによって日本国憲法第15条との絡み、縷々説明させて頂きました。まさにそういうことを踏まえた発言だということであります」

 記者「続けてお伺い致します。いま15条の話もありました。学術会議の任命拒否の問題についてですね、憲法上の条文との関係について、以前の関係で15条でしたりとか、その他65条、72条、併せて23条のことも仰っていたと思います。菅総理の説明云々にこの学術会議の任命拒否、そのことについては政府の見解としては23条というのは全く関係がなく、23条の観点から検討することはないというご認識でしょうか」

 加藤勝信「ですから、(5日の記者会見の)ご質問の趣旨が独立の機関であるから、学問自由との関係を仰ったもんで、それはそうではないということで言われたということでありまして、これは独立の機関ではなくて、国家行政機であるし、それから先程申し上げた特別職の国家公務員である。そうした事情の中で当然、憲法15条が指定される。

 そうした中で云々しているということ踏まえて、学問の自由とは関係ない。だから、あくまでも言葉の(聞き取れない)。だからあくまでも学問自由だけを取って言ったのではなくて、『独立の機関だから、学問の自由を侵害されているんではないか』っていうご質問に対してそういう答をされたということですから、質問と答の結構を考えて頂ければ、ご理解頂けると思います」

 記者「日本学術会議についてお伺いします。菅総理が9日のグループインタビューで任命をされなかった6人を含めて105人の会員の推薦者リストを見ていないと説明をされました。先月28日の決済直前に任命する99人のリストを見たとの説明でしたが、総理はその105名の学術会議側のリストをご覧になっていないのであれば、どのタイミングでどの方が6名を任命されないというのを決められたのでしょうか」

 加藤勝信「先ずは99名任命することについては内閣府に於ける起案から総理大臣による最終的な決済まで、過程、これは一貫していたということであります。

 総理が推薦者の名簿について見ていないと答えられたのは決裁文書には推薦名簿、参考資料として添付されてますけども、参考資料までは詳しく見ていられなかったということを指されているんだろうと思います。決済までの間には総理には今回の任命の考え方の説明は行われているところであります」

 記者「決済までについては総理には考え方が示されているということを今お話されましたけども、今回6人除外というのは最終的に総理の判断で除外されたという理解でよろしいでしょうか」

 加藤勝信「6人除外ではなくて、99人を任命されたということでございます。それについては最終的には勿論、総理が最終決裁であります」

 記者「確認ですが、決裁文書による確認後にはリストに載っていたということで、そこは十分ご覧になったのかどうか分からないということでございますが、105人の候補者が99人に絞られたという認識は総理はお持ちだったということですね」

 加藤勝信「決裁文書そのものは任命どおりですから、99名のリストを見てですね、(ハンコを打つジェスチャー)これを決済すると、これが基本です、ということになるわけですね。

 先程申し上げた決裁までの間にには今回の任命の考え方について総理には説明があったということで、詳細について人事の話ですので、詳細は控えさせて頂きますけれども、そういったプロセスがあったということでございます」

 記者「詳細について総理に考えを示されたということでございますが、総理の先日のインタビューを受けて、日学法に基づいていないのではないかという専門家からの指摘もあります。

 つまり105人の推薦を十分に見ることなく任命決裁をしたことは違法行為という指摘ですけど、政府としてはこうした指摘は当たらないという認識ですか」

 加藤勝信「日学法の中に於いて、推薦を基にですね、質問からちょっと外れますが、推薦を基にその中から選ぶということであります。従って中から選ばれた者について総理は決裁をされたということでありますから、適法に行われているものと承知をしております」

 記者「今回の任命の考え方について総理にご説明があったというお話でした。逆に菅総理の側からこういった方針で任命する対象者を選んでほしいとかですね、そういった方針が起案する事務局に当たる部分なのか、起案者に何らかの指示があったのでしょうか、その辺をお聞かせください』

 加藤勝信「人事上の判断にかかりますので、そこら辺の細かい遣り取り等は控えたいと思いますが、先程申し上げたように決裁までの間に総理に対して今回の任命の考え方が説明の機会があったということです」

 記者「会員の総理の任命権というものは非常に重いものがあると思います。任命をし、推薦をされた方がですね、見送られるということに関してはより慎重な任命の行使というものがひつようかと思うのですけども、105人はですね、段階で見ていないと、99人のリストしか見ていないということはですね、首相が任命権を行使されたということに関しては適切であったとお考えでしょうか」

 加藤勝信「ですから、先程申し上げたように任命の考え方については説明する機会があった。それを踏まえて最終的に判断でですね、それを決裁、99名の任命をして頂いたということでございます。

 全く法律上ですね、出てきた推薦の案そのものを全然無視してやっているのではなくて、その中に日本学術会議から頂戴した推薦リスト、これに基づいて任命を行ったというわけであります」

 記者「今までの説明で全く法律上の推薦の案を無視してやっているわけではないというご説明がありました。例えば日学法17条を見ますと、日本学術会議は会員の候補者を選考し、内閣総理大臣に推薦するものというふうにされています。そうしますと、この105人のリストを参考資料として検討したとしても、推薦者として示されていたのが99人であれば、これは直接99人の推薦を総理に見せるという行為とこの17条の整合性はどういうふうにご説明されるのでしょうか」

 加藤勝信「ですから、最後の決裁の段階の話させていただいて、最後の決裁の段階では99名にする、まさに任命行為です。99名を任命するという決裁文書は起案をされ、そのまま最終決済されたということであります。

 そこに至るプロセスについては先程申し上げたように総理に対して説明をされたということでありますから、当然、説明に当たってはそうした法律を踏まえた説明を為されていると思います」

 

 加藤勝信2020年10月13日午前記者会見

 記者「事務の官房副長官がですね、内閣府の提案に基づき任命できない人が複数いると決裁前に総理へ報告。口頭で報告したということですが、日本学術会議法には会員は総理が任命するとございます。今回の任命について総理が総理以外の方が判断された可能性について、また改めて任命に総理がどのように関与していたのか、ご説明をお願いします」

 加藤勝信「まさに任命については最終的には総理が決裁をされて、決定されたということであります。で、そのプロセスに於いてはこれまで申し上げましたように任命の考え方について説明があり、共有されたということは間違いありません。個々の遣り取りについては人事に関することでありますから、誰が何をということは今までも説明を差し控えさせて頂いております。

 その上で内閣官房副長官のお話が出ましたけども、一般論として申し上げれば、内閣官房副長官は官邸に於ける総合調整の役割を果たして頂いております」

 記者「日本学術会議の任命についてお伺いします。内閣府は99人を任命する決裁文書を起案したのは9月24日ですが、昨日の説明ではそれまでの間に首相に対して考え方が説明され、共有化され、それに基づいて具体的な作業がされたというご説明を頂きました。

 この考え方、共有とはどのような内容なのか、改めてお伺いします」

 加藤勝信「考え方というのはこれまで説明させて頂いているところであります。まさに推薦に則って総理が任命するという学術会議法の規定があり、他方で憲法の15条を含めてですね、国としてこれまでの総合学術会議等の提言でも、総合的・俯瞰的的扱いをされている等の指摘があり、そうしたことを踏まえて、まさにそうした任命についての考え方が説明されですね、共有されたということであります」

 記者「考え方の説明をされました。共有化後を確認させていただきたいのですが。昨日の会見でもですね、共有化というのは総理から指示があったのか。それとも事務方で判断したのか、そこら辺を昨日の会見でもはっきりしたことは私の方も至らなかったこともあるのですけども、共有化の遣り取りってどういう遣り取りがあったのでしょうか」

 加藤勝信「これも先程申し上げましたように人事に関してですから、誰がどこで何を言ったかと言うことについてはこれは差し控えさせて、これまでも控えさせて頂いているのですが、いずれにしてもそういう説明についてお互い共有したということです」

 記者「確認ですが、9月24日の99人推薦の起案までに首相が基本的な考え方の説明を受けて、共有化されたものの、この105人の名簿見ていないということでよろしいでしょうか」

 加藤勝信「ちょっと背景がありますけども、基本的には一つの考え方があり、全体としてですね、作業を変えていくわけです。一つ一つ、例えば今お話があったように一人ひとり総理が任命を一つ一つチェックしてわけではなくて、一つの考え方を共有し、それは事務方にそうしたものは、いわば任せて処理をしていく。

 別に本件に関わらずそうしたまさに通常の遣り方に則って作業を進める、作業が進められたということです」

 記者「総理は先週のインタビューでですね、会員は後任を事実上指名することもできる仕組みだと述べられています。内閣府の事務局や学術会議からはそうした使命は不可能との指摘が出ているんですが、総理の発言の趣旨をお聞かせください」

 加藤勝信「まずは総理から会員の人選は推薦委員会などの仕組みがあるものの、現状では事実上、現在の会員が自分の後任を示すことも可能な仕組みになっているということを言われたわけです。学術会議の選考に当たってはまさに現在の会員・連携会員から候補者の推薦を受けて、選考の上に、候補者が発生されている。そして選考委員会の選考を経て、候補者名簿を作成するので、推薦をされた者(シャ)が必ずしも候補者となるとは限らないというのが、そのとおりでありますが、総理の発言はまさに現在の会員が候補者を推薦できてる。

 そして結果として現在の会員に推薦された者(シャ)が候補者名簿に載り、総理から現在の会員が後任を推薦こともあり得るということを述べられたということであります」

 記者「総理の発言の趣旨を長官が度々説明されたり、先日も菅総理の名簿を見ていないという発言、真意を巡って昨日も長官、度々説明されました。
やはり改めて菅総理が国民に向かって説明するということ必要だと思うんですけども、記者会見を開く対応などについて官房長官の考えがあれば、お願いします」

 加藤勝信「まさに総理の発言に対して皆さんから質問があるので、私は勉強しているわけでありまして、私が積極的に何か解説をしているわけではありません。従って、こうした場に於いて、まさにこの記者会見は政府の考え方を説明する場所でありますから、基本的に総理の考え方を説明する場所と言ってもいいんだろうと思います。まさにそういった場でその役割を果たさせて頂いているというふうに思っております」

 記者「先程の基本的な考え方が共有化されたということについてなんですけども、結果的に除外された6人の個人名やどういった業績があるかということを首相が事務方から説明を受けたっていうことはそれはいつなんでしょうか。

 この24日までの間にこの99人とは別に6人の個人名を総理は把握されていたという理解でよろしいでしょうか」

 加藤勝信「それは先程申し上げておりますように個々の人事の関係がありますから、個々の遣り取りについては申し上げておりませんが、まさに今申し上げた任命するに当たっての考え方について説明があり、そのことが共有化され、それに則って作業が為された。そしてそれに基づき起案が為され、最終的に総理が決裁をされた。まさにそういうプロセスであります」

 記者「24日までに説明があり、遣り取りがあったというのは全て口頭の遣り取りがあったということでしょうか」

 加藤勝信「すみません、個々の詳しい遣り取りは私は承知をしておりません」

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菅内閣の日本学術会員6名任命拒否は憲法第15条と全体の奉仕者であることを忘却したとんだ食わせ者の無責任の蔓延

2020-10-12 09:38:42 | 政治
 日本学術会議の会員任命は1938年当時の国会答弁では「学会の方から推薦をしていただいた者は拒否しない、形だけの推薦制である」としていた政府側の日本学術会議法解釈が今回菅義偉によって6名が任命拒否されたことに政府側が “任命をそのまま受け入れなくてもよい”とする法解釈を掲げたことは明らかに日本学術会議法の法解釈変更であって、この法解釈変更は前以って国会及び国民に説明する責任を負うと前のブログで書いた。

 だが、政府側は解釈変更ではないとする新たな根拠を掲げた。2020年10月7日の衆議院内閣委員会閉会中審査と翌日の2020年10月8日の参議院内閣委員会閉会中審査で政府側証人が答弁で披露した。もちろん、その根拠の正当性如何が問われることになる。

 政府側が掲げた根拠に正当性があるのかどうか、衆議院内閣委員会閉会中審査からは自民党の薗浦健太郎と立憲民主党の今井雅人、参議院内閣委員会閉会中審査からは立憲民主党の元TBS記者杉尾秀哉の関係する質疑応答を取り上げ、窺ってみる。

 薗浦健太郎は東京大学法学部卒、48歳、元読売新聞社記者、麻生太郎衆議院議員政策担当秘書、千葉5区当選4回、靖国神社への内閣総理大臣やその他の国務大臣の参拝は問題ない、選択的夫婦別姓制度の導入に反対、伝統と創造の会幹事長等の顔を持っている。

 薗浦健太郎「今話題になっている学術会議についていくつか質問します。学術会議の会員は特別職の国家公務員です。国民の税金で運営されています
。今は大変な時期で枠を超えた科学的知識の結集というのが求められている。

 学術会議は政府機関ですが、どういう役割が期待される組織なのか、また任命権の話が出ていますけども、今回の措置が日学法違反ではない、学問の自由を侵害したものではないということを国民に分かるように明確にご説明して頂きたいと思います」

 自民党議員らしく政府の任命拒否を全て肯定する立場から質問をしている。

 三ッ林裕巳(ひろみ・内閣府副大臣)「日本学術会議は我が国の科学者の内外に対する代表機関として科学の向上・発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映・浸透させることを目的として設置された国の行政機関であり、その会員の任命権者は日本学術会議法に於いて内閣総理大臣とされております。

 憲法第15条の規定により明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が推薦のとおりに任命しなければならないというわけではなく、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提としております。

 任命権者たる内閣総理大臣がその責任をしっかりと果たしていくという一貫した考え方に立った上で会員を任命する仕組みは時代に応じて変遷しており、その中で日本学術会議に総合的・俯瞰的観点からの活動を進めて頂くため、任命権者である内閣総理大臣が日本学術会議法に基づいて今回の任命を行ったものであり、法律違反という指摘は当たらないものと考えております。

 また憲法23条に定められた学問の自由は広く全ての国民に保障されたものであり、特に大学に於ける学問・研究、その成果の発表、教授は自由に行われるものであることを保障したものであると認識しております。

 従いまして先程述べた任命の考え方は会員等で個人として有している学問の自由への侵害になるとは考えておりません」

 薗浦健太郎「(1983年(昭和58年)11月の参議院文教委員会の)政府側答弁から解釈変更があったのかどうか」

 三ッ林裕巳「昭和58年の日本学術会議法改正の際に形式的な発令行為という趣旨の政府答弁があったということは承知しております。日本学術会議の会員は特別職の国家公務員であり、憲法第15条第1項の規定に明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権は国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者である内閣総理大臣が推薦どおりに任命しなければならないというわけではない。

 昭和58年の法改正により、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提にしており、解釈変更を行ったものではありません」

 6人の任命拒否は法解釈変更ではないとする新たな“法解釈”が国会で示されたことになる。実はこの新手の法解釈が示されている文書をこの衆議院の閉会中審査が開催された2020年10月7日の前日、2020年10月6日に内閣府と野党とのヒアリングで内閣府が野党に対して公表したと各マスコミが伝えている。その中で2020年10月8日付の『東京新聞」がその文書にハイパーリンクをつけて紹介している。『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』(内閣府日本学術会議事務局/2018年11月13日)

 広く知るべし・広く知って貰いたいという意味でハイパーリンク付きで紹介したのだと思う。記事は「内部文書」扱いしている。2年間も公表せずに身内だけの了解事項としていたのだから、内部文書なのは当然で、それ以上にハンコを打ってなくても、マル秘文書扱いしていたと批判されたとしても、文句は言えまい。

 この文書の核心部分は首相が学術会議の推薦通りに任命する義務はないとしている点だとマスコミが伝えている以上、野党側は2020年10月7日と10月8日の国会での学術会議6名任命拒否の追及に当たって、この文書の総理大臣の日本学術会議会員任命規定は法解釈変更に当たるか、あるいは正当性に何らかの欠陥があるとする理論武装を打ち立て、追及に臨まなければならなかった。

 この手の理論武装が何一つできなかったなら、法解釈変更だとする反旗を早々に降ろして、政府の言い分を全て認めるべきだろう。なぜなら、野党の法解釈変更の追及に対して政府側は「日本学術会議の会員は特別職の国家公務員であり、憲法第15条第1項の規定に明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権は国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者である内閣総理大臣が推薦どおりに任命しなければならないというわけではない」ことと、「昭和58年の法改正により、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提にしており、解釈変更を行ったものではない」を今後とも法解釈変更否定の正当性論理として用い続けるのは火を見るよりも明らだからだ。実際にも10月7日だけではなく、10月8日も使い続けて、法解釈変更否定の論拠としている。

 10月7日の今井雅人にしても、10月8日の杉尾秀哉にしても、両者共に『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』の文書に触れているから、理論武装して論戦に臨まなければならなかったが、果たして臨んでいたのだろうか。先ずは今井雅人の追及から。

 今井雅人「この問題について色々と言われているのはこの問題の本質はただ一点だけだと思っている。それは人事の公正性です。安保法制のときに集団的自衛権に慎重だった内閣府法制局長官が更迭されました。中立であるべきNHKのトップにお友達人事というのがあった。

 最近記憶の新しいところでは黒川検事長。これは検事総長にしたいからと言われているけれども、それまでの解釈を捻じ曲げて定年延長するということも行われてきた。そして今回学問の世界にまで恣意的人事が行われているんではないだろうか。そういう疑義が出てきている。ですから、今日の私の質疑は果たしてそうしたことは行われたんだろうかということについて質疑をさせて頂きたいと思っています。

 少し私の方が整理させていただきますと、日本学術会議は昭和24年に設立されましたが、昭和58年に法律の改正が行われております。このときに推薦する会員を選挙制から推薦制に替えたのは皆さんご存知です。このときの議事録を今日読ませて頂きますが、2つあります。一つは『実質的に総理大臣の任命で会員の任命を左右するものではない』

 二番目はこちらの方が大事ですね。明確に書いてありますけども、210名の会員が会員・連携会員から推薦されておりまして、ここから入りますから、『そのとおり』、そのとおり、『内閣総理大臣が形式的な発令を行うというように私どもは解釈してございます』という答弁をされています。

 このとおりですね、憲法15条、65条、72条を根拠とした上で、こういう解釈をしている。そういうことなんですね。そして平成16年、今度ね、協力研究学術団体を基礎とした推薦制から日本学術会議が会員候補を推薦する方向に変更するという案に改正されました。このときの議事録を全部読ませて頂きましたが、この形式的な任命ということを変更するということに関しては何も議論されておりません。

 ですから、58年の見解をそのまま踏襲しているというふうに考えられます。問題はそのあとなんです。次のページに添付しておりますが、平成30年の11月13日、『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』というペーパーがここにございますけども、これが出てきてるんですけども、問題となっているのは2ページ目ですね。上のところです。3行目です。『内閣総理大臣に日学法第17条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えないと考えられる』。そういう整理がされているんです。

 そこで質問させて頂きます。昭和58年の答弁はですね、『推薦されたものをそのとおり内閣総理大臣が形式的に発令するというふうに私共は解釈しています』

 このように答弁しております。しかし平成30年は『必ずしもそれは義務ではない』ということですね。これは両方とも憲法15条を照らした上でこういうふうになっていて、これは小学生が読んでも表現は違いますね。片方は『形式的に任命してくださいねというふうに私共は解釈しています』

 もう一つは『それは義務ではない』ということです。明らかに違うことを言っていることになる。この違いは私は解釈変更だと思うんですが、当時はこれは解釈変更だと思われませんか。憲法がどうのこうのってやめてくださいね。両方とも、憲法第15条に基づいた上でこういう答弁が、別々の表現があるので、その整合性はどうなのかということを聞いている」

 大塚幸寛(内閣府大臣官房長)「お答え申し上げます。あの、今回任命につきましては任命権者である内閣総理大臣がこの法律に基づきまして特別職国家公務員として会員としたのでございます。憲法第15条第1項を引用させて頂きますが、これはやはり公務員の選定・罷免軒が国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者である内閣総理大臣が、推薦どおりに任命しなければならないということはないということでございまして、これは会員が任命制になったときからこのような考え方を前提としておりまして、考え方を変えたということはございません」

 今井雅人「じゃあ、お伺いしますけども、58年のときの答弁、間違っているということですか、これ。だって、推薦された者をそのとおりに内閣総理大臣が形式的に発令を行うという解釈をしておりますよ。明確に答えられておりますが、そのときからそうじゃなかったという答弁をされておりますけども、そのことはその答弁は間違っていたということでございますか」

 大塚幸寛「58年の答弁は承知してございますが、今回の任命につきましては先程申し上げましたようにあくまでも任命権者である内閣総理大臣が推薦どおりに任命しなければならないわけではなく、これにつきましては任命制になったときからこのような考え方は一貫しており、その考え方のもとで採用したということでございます」

 ここで一言入れる。「任命権者である内閣総理大臣が推薦どおりに任命しなければならないわけではない」規定となっていて、「任命制になったときからこのような考え方は一貫している」なら、なぜ昭和58年のような全員任命の答弁になったのかという質問も成り立つが、「それは当時の答弁者に聞いてみなければ真意は分かりません」と巧妙狡猾な言い抜けで逃げるのは目に見えているが、巧妙狡猾な言い抜けであることを知らしめるために質問する価値はあると思う。

 今井雅人「時間がないので、何も答えていないですよ。何も答えていないですよ。だって、明確に言ってるじゃないですか。『そのとおり内閣総理大臣が形式的発令行う』って言ってるんですよ。先程参考人は違うことを仰ったんですよ。そういう答弁をしているから、副大臣、どうですか。今伺って、おかしいと思いませんか?おかしいと思いません?どうですか」

 三ッ林裕巳(内閣府副大臣)「昭和58年の国会答弁、私も承知はしております。決して今回の任命につきましては任命権者である内閣総理大臣が日本学術会議法に基づいて特別職の国家公務員として会員を任命したということでことであります。憲法第15条第1項に明らかにされているとおり公務員の選定・罷免軒は国民固有の権利であるという点からすれば、任命権者である内閣総理大臣が推薦とおりに任命しなければならないわけではありません。

 日本学術会議が任命制になったときからこのような考え方を前提としており、考え方を替えたということではありません」

 今井雅人「私の日本語の能力が足らないんでしょうか。このとおり形式的な発令を行うということは必ずしも義務ではないことと一緒なのか。とても理解できないですよ。ちょっともう一回整理して、きちっと整理してください。言っていることがメチャメチャですよ。いいです、(答弁を)求めておりません。

 その上でですね、突然、平成30年の11月13日にこういう(手に持ったペーパーのこと――『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』のこと)論点整理みたいなことが行われているんですね。こういうことが行われるということは必ず端緒があるはずですよ。きっかけ。

 なぜこのときにこういう議論をしなけれがいけなかったのか。それを説明してください」

 福井仁保(内閣府日本学術会議事務局長)「私の方から説明させて頂きます。平成29年に今の期前の第24期の半数改選がございます。このあと1年程経って、今回の25期の半数改選に於きまして、非任命者よりも多い候補者を推薦すること、これについて推薦と任命の関係の法的整理を行ったものと承知をしております」

 今井雅人「事実関係だけちょっと申し上げますね。決めつけるわけではありませんが、平成30年の11月13日、この直近5年間で色んな重要な法案が可決されています。平成25年特定秘密保護法、平成27年安保法、平成29年(「テロ等準備罪」を構成要件とした)共謀罪法(正確に聞き取れなかった)。このとき多くの学者が反対しました。この翌年にこのペーパー。時系列で行くと、そういうところなんですよね。

 だから、みなさんが、これ関係あるんじゃないのっていうふうに思ってしまっている。事実は分かりません。しかし時系列から行くと、そういうことになるんです。で、お伺いしたいのですが、この検討は官邸の方から検討して頂きたいと、こういう指示がありましたか」

 福井仁保(内閣府日本学術会議事務局長)「官邸の指示に基づいて始めたものではないというふうに承知をしております」

 今井雅人「官邸関係から一切指示はなかったですか」

 福井仁保「そのように承知をしております」

 今井雅人「分かりました。私は先程申し上げたとおり、この文章をどう読んでも解釈の変更としか読めません。であれば、やはりこれは変更したときに国会なりに報告をすべきだと。つまりこの答弁、58年の答弁と違う整理をしてるんですね。それは解釈変更だと言われても仕方ありません。それをなぜ公表しなかったか教えて下さい。公表と根拠です」

 福井仁保「当時事務局としても当たるべき当面の(?)現状ということで始めさせて頂いたので、特に公表するようなものとして理解しておりませんでした」

 今井雅人「先程の私の議論を聞いて頂いたと思いますが、58年のときはそのまま推薦者を形式的に任命するというふうに解釈をしています。しかし今回の整理は必ずしも全てを推薦する義務はないというふうにですね、明らかに違うことを言っているんですね。58年のときは『解釈』という言葉まで使っています。そういう解釈をしています。で、ご丁寧にその後ですね、『内閣法制局に於きまして法律案の審査のときに於きまして十分にこの点を詰めたところでございます』

 ご丁寧に『内閣法制局で見解まで詰めました』ていう、ここまで言ってるんですよ。ここまで言っておいて、これと違う内容を言ったのに解釈の変更じゃないと、報告の義務はないと。おかしいと思いませんか」

 大塚幸寛(内閣府大臣官房長)「解釈の変更ということに関しましては改めてお答え申し上げますが、58年の答弁についても形式的な発令行為と発言されている。これは事実でございます。

 ただ、必ず推薦のとおりに任命しなければならないという言葉では言及されておりません。その前提と致しまして憲法第15条第1項の公務員の選定・罷免軒は国民固有の権利であるという考え方が当時からございまして、任命権者である内閣総理大臣が推薦とおりに任命しなければならないわけではない。その解釈は一貫しているものでございます」

今井雅人「話になりません」

 以下、今井雅人の追及は続くが、堂々巡りの罠にはまってしまって、そのことに気づかずに堂々巡りを続けているから、この辺で切り上げることにする。

 次は立憲民主党杉尾秀哉。

 杉尾秀哉(政府側作成の「答弁問答」のペーパーを手に持ち)「1983年5月2日(検索してみたが、出てこない)参議院文教委員会、そして1983年5月12日の同じく参議院の委員会。中曽根総理、丹羽大臣、政府側証人、繰り返し繰り返しですね、『学術会議は政府の指揮監督を受けない』、『総理の任命で会員の任命は左右されない』

 中曽根総理に至っては『政府が行うのは形式的任命に過ぎない』。この答弁問答どおりに答弁されている。11月には丹羽大臣が『学会の方から推薦を頂く者は否定しない』とはっきりと仰ってます。これがなぜ、資料(閣府日本学術会議事務局作成文書のこと)、お配りしましたけども、資料3でございます。それがなぜ2018年、『推薦どおりに推薦する義務はない』。こういう文書になったんです」

 大塚幸寛(内閣府大臣官房長)「お答え申し上げます。1983年、昭和58年の日本学術会議法改正の際に先程私も読み上げました形式的発令であるという趣旨の政府答弁であることは承知をしております。一方で憲法第15条第1項の規定に明らかにされているとおり、公務員の選定・罷免権は国民固有の権利であるという考え方からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が推薦どおりに任命しなければならないというわけではない。

 これは1983年、昭和58年の法改正によりこの学術会議が任命制になったときからこのような考え方を前提でしているものでございます」

 杉尾秀哉「今答弁したように憲法15条、67条、72条、こういう議論というのは1983年当時にやった記録というのはあるんですか」

 木村陽一(内閣法制局第一部長)「この58年の法改正のときに法制局として何か、例えば答弁しているという記録は恐らくないと思います。ご指摘の答弁問答ですございますけども、当時総理府が撮影したものでありまして、その記載がなされるに当たりましてどのような議論がなされたのかにつきまして詳らかではございません。

 昭和58年の対象になっております日本学術会議法の一部改正の立案の以前から、政府と致しましてはこれも学問の自由や大学の自治に関係する文部大臣による国立学大学学長等の人事に関してで憲法第15条第1項の規定に明らかにされている公務員の選定・罷免権は国民にあるという国民主権の原理との調整の必要性については累次答弁をしてきております。

 このような国民主権の原理を踏まえますと、内閣が国民及び国会に対して責任を負えない場合にまで申し出のとおりに必ずしも任命しなければならない義務があるわけではないと一貫して考えてきております。

 従いまして昭和58年の日本学術会議法の一部改正に於きましてもこれと同様の考え方に基づいて立案が成されているというふうに考えているところでございます」

 杉尾秀哉「1983年当時、そういう議論をしたことを示す文書はまったくない。学者の間でも今のような説明は明らかに詭弁だと。2016年、2017年に事実上解任して、このあと義務はないと言う文書を創ってるんですよ。後付の理屈以外に考えられない」

 杉尾秀哉も堂々巡りの罠にはまり込んでいる。これ以上質疑を文字起こししても意味はないから、切り上げることにした。

 今井雅人も杉尾秀哉も1983年(昭和58年)11月当時の参議院文教委員会での日本学術会議会員任命に関する政府側答弁と今回の6人任命拒否の実態乖離に拘り過ぎて、つまり解釈変更ではないか、解釈変更ではないかの一点張りで、政府側が任命拒否の正当性論拠としている、あるいは法解釈変更否定の論拠としている2018年11月13日付の内閣府日本学術会議事務局作成文書(『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』)内容の正当性に注意を向けていない。

 注意を向けない結果、実際に質疑応答を見てきたとおりにこの文書を論拠とした政府側の任命拒否の正当性、あるいは法解釈変更否定正当性は延々と繰り返されて、追及は野党側が望む答えを何一つ見い出すことができない堂々巡りに陥ることになる。

 今井雅人は「平成30年の11月13日、『日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について』というペーパーがここにございます」と言い、杉尾秀哉は「このあと義務はないと言う文書を創ってるんですよ。後付の理屈以外に考えられない」云々の表現で内閣府日本学術会議事務局作成の文書に触れているから、目を通していないはずはない。目を通していなければ、質問もできない。だが、この文書が結論の一つとしている「内閣総理大臣に、日学法第17条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えないと考えられる」と1983年(昭和58年)11月当時の政府側答弁の違いに拘ることになった。
 
 先ず2018年11月13日内閣府日本学術会議事務局作成の「日本学術会議法第17条による推薦と内閣総理大臣による会員の任命との関係について」は法解釈変更そのものの文書となっている。

 この文書の4ページに次のような記載がある。

 〈3 日学法第7条第2項に基づく内閣総理大臣の任命権の在り方について

 内閣総理大臣による会員の任命は、 推薦された者についてなされねばならず、推薦されていない者を任命することはできない。その上で、 日学法第17条による推薦のとおりに内閣総理大臣が会員を任命すべき義務があるかどうかについて検討する。〉との文言で検討開始を伝えている。

 総理大臣が学術会議の推薦通りに任命する義務はないとする法解釈について内閣府副大臣の三ッ林裕巳は「昭和58年の法改正により、日本学術会議会員が任命制になったときから、このような考え方を前提にしており、解釈変更を行ったものではありません」と言い、内閣府大臣官房長の大塚幸寛も「これは会員が任命制になったときからこのような考え方を前提としておりまして、考え方を変えたということはございません」と両者共に法解釈変更を否定して、学術会議の推薦通りに任命する義務はないとする規定は、いわば1983年当時からの終始一貫したものであることを正当性論拠としているが、総理大臣が学術会議の推薦通りに任命する義務はないとする法解釈が1983年当時からの終始一貫したものあるなら、〈日学法第17条による推薦のとおりに内閣総理大臣が会員を任命すべき義務があるかどうかについて検討する。〉(内閣府日本学術会議事務局文書)必要性は生じない。

 もし別の結論を得る検討なら、検討内容は〈日学法第17条による推薦のとおりに内閣総理大臣が会員を任命すべき義務があるかどうか〉でなく、総意的な可能性として望んでいる別の検討内容が記されていなければならない。あくまでも〈推薦のとおりに内閣総理大臣が会員を任命すべき義務があるかどうか〉を総意的な可能性として望んだ検討である。

 そして検討の結果、望んだ通りの結論が同じ4ページに次の通り記載されている。決して前々からある結論ではない。前々からある結論を踏襲しているなら、そうであることを伝える文言が記されなければならない。

 〈(1)まず、
 ①日本学術会議が内閣総理大臣の所轄の下の国の行政機関であることから、憲法第65条及び第72条の規定の趣旨に照らし、内閣総理大臣は、会員の任命権者として、日本学術会議に人事を通じて一定の監督権を行使することができるものであると考えられること

 ②憲法第15条第1項の規定に明らかにされているところの公務員の終局的任命権が国民にあるという国民主権の原理からすれば、任命権者たる内閣総理大臣が、会員の任命について国民及び国会に対して責任を負えるものでなければならないことからすれば、 内閣総理大臣に、日学法第17条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えないと考えられる。〉・・・・・・

 まさに法解釈変更を行った瞬間である。三ッ林裕巳と大塚幸寛が内閣総理大臣のこのような任命規定を前提として1983年の日学法改正が行われたとする答弁は真っ赤なウソそのものとなる。

 問題は法解釈変更ということだけではない。法解釈変更の主たる論拠を憲法第15条第1項の規定に置いているが、第1項の規定に基づいて任命拒否を可能とするにはそれ相応の責任が生じる点について触れていない点が問題となる。先ず憲法第15条そのものを見てみる。

 日本国憲法「第3章国民の権利及び義務第15条」
 
 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
 2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
 3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

 国民主権の原理から言って、国民にあるとする公務員の終局的任命権は総理大臣の学術会議会員の任命権よりも優先することになる。いわばあくまでも国民固有の権利に基づいて総理大臣が国民の任命権を代行することになる。代行である以上、誰に対してどのような任命権を発令したのかの説明責任を国民に対して自動的に負うことになる。日本学術会員の任命権は直接的には総理大臣が握っているからと言って、好き勝手に、あるいは自らの思想信条の好みで選定・罷免していいわけではない。

 公務員の選定・罷免に関して内閣総理大臣が国民に説明責任を負うことは上に挙げた内閣府文書にも、〈任命権者たる内閣総理大臣が、会員の任命について国民及び国会に対して責任を負えるものでなければならないことからすれば、〉と明確に触れている当然の役割であろう。説明責任がなければ、〈会員の任命について国民及び国会に対して責任を負えるもの〉かどうかは国会も国民も判断不可能となる。

 公務員の選定・罷免が総理大臣個人の恣意性に流されるといった障害を避けるためにも、公務員の選定・罷免を固有の権利としている国民に対して直接的任命権者である内閣総理大臣による選定・罷免の説明責任は必須の条件となる。選定・罷免の説明責任を疎かにして国民固有の権利に基づいて公務員の選定・罷免を行いましたではその選定・罷免が正しく行われたのかどうかは国民は知り得ない立場に置かれることになり、憲法第15条第1項の規定を総理大臣自らが蔑ろにすることになる。

 憲法第15条第1項の蔑ろ・軽視は憲法第15条第2項の規定、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」の「すべての公務員」の中に総理大臣も入るのだから、「全体」の中から国民を抜いた「一部の奉仕者」に成り下がる。

 だが、6名任命拒否を首相の菅義偉は「法に基づいて適切に対応した結果だ」とし、官房長官の詭弁家加藤勝信も「任命権者である総理大臣が法律に基づいて任命を行った」と述べるのみで、6人をどのような理由で任命から外したのか、一切の説明責任は果たしていないし、果たそうとする姿勢すら見せていない。まさに「全体の奉仕者である」ことを忘れている。
 菅義偉と加藤勝信のこのような態度は菅内閣全体で憲法第15条違反を侵していることになる。

 菅義偉はこのような日本国憲法違反だけではなく、日本学術会議法違反も侵していることが分かった。「菅首相、推薦リスト「見てない」 会員任命で信条考慮せず―学術会議会長と面会も」(時事ドットコム/2020年10月09日19時49分)

 ここで別「時事ドットコム」記事の「任命拒否が判明した推薦候補」の画像を参考のために引用しておく。
 記事は2020年10月9日の午後4時半頃から30分程度行われた内閣記者会加盟報道各社のグループインタビューでの菅義偉の発言を伝えている。

 菅義偉(日本学術会議側が作成した105人の推薦リストは)「見ていない。広い視野に立ってバランスの取れた行動を行い、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべきことを念頭に判断した。

 (会員任命を最終的に決裁したのは9月28日で)会員候補リストを拝見したのはその直前だったと記憶している。その時点では最終的に会員となった方(99人)がそのままリストになっていた」
 憲法第15条第1項の規定「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」を根拠に日本学術会議会員の任命権者である内閣総理大臣が「国民固有の権利」を代行して会員任命を行う規定に基づいて、〈会員の任命について国民及び国会に対して責任を負えるものでなければならないことから〉、会員の選別も止むを得ないと内閣府文書で法解釈変更を行っていながら、憲法第15条第1項の規定と内閣府文書の法解釈変更をも反故にして、6人の任命拒否は私が行ったのではないとしている。

 しかも、説明責任をないままにして「広い視野に立ってバランスの取れた行動を行い、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべきことを念頭に判断した」と平気で言える無責任はとんだ食わせ者である。説明責任があって初めて総理大臣の任命が「広い視野に立ってバランスの取れた行動を行い、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在である」かどうか、個々の会員についても、団体そのものについても、判断可能となる。

 記事は、任命拒否は〈学者個人の思想・信条が影響したかについても「ありません」と否定した。〉と伝えているが、任命拒否理由の具体的な説明責任がないままである以上、否定どおりに受け取りなさいとすることはできない。

 菅内閣な日本学術会員6名任命拒否を巡ってかくまでも無責任を曝した。菅義偉は「雪深い秋田の農家の長男に生まれた」との庶民性をウリにしているが、とんだ食わせ者である。

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菅義偉の「雪深い秋田の農家の長男に生まれた」がウリの庶民性はとんだ食わせ者の日本学術会議推薦会員候補6人任命拒否の思想統制

2020-10-05 06:27:02 | 政治
 菅義偉の日本学術会議候補委員6人任命拒否の直近の騒動に関わるこのブログ記事はマスコミ報道をほぼ纏めたもので、ほんの少したいして役にも立たない自分の考えを述べている。

 先ず2020年10月1日午後、各マスコミは10月1日から任期開始の日本学術会議新会員の6名を菅義偉が任命拒否したと伝えた。初めて知ったことがだ、「日本学術会議法」というのがあって、新会員は日本学術会議が推薦、その推薦どおりに首相が任命する仕組みになっているという。その6人というのは特定秘密保護法批判、安全保障関連法反対、安倍式9条改憲反対、改正組織犯罪処罰法案批判の態度を示してきた学者たちだという。

 2020年10月1日付「東京新聞」が拒否の経緯を画像に纏めているから、参考引用しておくことにする。

 要するに任命拒否された学者は安倍晋三の復古主義的国家主義思想に反対の面々ということになり、後継の菅義偉が任命拒否したということは安倍政治のみならず、安倍晋三の復古主義的国家主義思想をも引き継いで、任命拒否に法的正当性の有無に関わらず自分たちの政治思想に反する学者を排除し、一種の思想統制を謀ったことになる。

 簡単に言うと、思想面で気に入らない者は遠ざけ、気にいる者のみを近づける。このようなことは法律に縛られている人事については到底、許されない。法律に縛られない人事、例えば国家主義者団体日本会議は法律に縛られているわけではないから、特定の思想に基づいて誰を会員にするか、誰を役員にしないかは自由である。日本会議の国会議員懇談会が安倍晋三と麻生太郎を特別顧問にしようがしまいがお好きにどうぞである。

 先ず「日本学術会議法」の主な規定を拾ってみる。文飾は当方。

 「第2章 職務及び権限」

 第3条 日本学術会議は、 独立して左の職務を行う。
一 科学に関する重要事項を審議し、 その実現を図ること。
二 科学に関する研究の連絡を図り、 その能率を向上させること。

 日本学術会議は独立機関だと謳っている。独立機関である以上、「職務及び権限」が第三者の介入を受けて許した場合、第三者のヒモ付きとなって、独立機関足り得ないことになる。当然、会員任命の人事に関しても第三者の介入を受けて許した場合、独立機関としての意味を成さないことになる。

 「第3章 組織」

2 会員は、 第17条の規定による推薦に基づいて、 内閣総理大臣が任命する。

 「第17条」とは、〈日本学術会議は、 規則で定めるところにより、 優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする。〉とあって、人事に関しても独立機関としての意味を成すためには日本学術会議の推薦に基づいて政府は内閣総理大臣任命という格付けを与えるに過ぎないことになる。いわば内閣総理大臣任命は取捨選択はできない法律の建付けとなっている。

 こういったことが「日本学術会議法」に対する一般的な法解釈であろう。ところが菅義偉も、官房長官の詭弁家加藤勝信も、任命拒否を「法律に基づいた人事だ」と言っている。

 京都弁護士会所属弁護士渡辺輝人氏が、「菅総理による日本学術会議の委員の任命拒絶は違法の可能性」(Yahoo!ニュース/2020年10月1日)と題した記事の中で2020年10月1日午前の官房長官加藤勝信の記者会見発言を紹介しているから、参考引用させて貰う。

 朝日新聞キクチ記者「重ねてお伺いします。今回任命に至らなかった理由として、今、明確な理由はないように私は受け取りましたけど、首相の政治判断で任命しなかったと理解してもいいんでしょうか。またあの、もしそうであれば、憲法が保障する学問の自由の侵害に当たると思うんですけれども、官房長官のご認識を」

 加藤勝信「まず一つは、個々の候補者の選考過程、理由について、これは人事に関することですから、これはコメントは差し控えるということはこれまでの対応であります。それから、先ほど申し上げたように、日本学術会議の目的等々を踏まえて、当然、任命権者であるですね政府側が責任を持って行っていくってことは、これは当然のことなんではないかという風に思います。で、その上で、学問の自由ということでありますけれども、もともとこの法律上、内閣総理大臣の所轄であり、会員の人事等を通じて一定の監督権を行使するっていうことは法律上可能となっておりますから、まあ、それの範囲の中で行われているということでありますから、まあ、これが直ちに学問の自由の侵害ということにはつながらないという風に考えています」

 要するに安倍晋三・菅義偉・加藤勝信等一派は「日本学術会議法」について「会員の人事等を通じて一定の監督権を行使するっていうことは法律上可能となっている」と法解釈していることになる。

 「法律上可能」と法解釈するためには可能と解釈し得る文言の所在を指摘しなければならない。「ここにこれこれこういうことが書いてある。依って一定の監督権を行使することに何の差し障りもない」と説明し、その説明の正当性を周囲に納得させ得て初めて、任命拒否は妥当性を持つ。ところがそういった説明は一切なしで「法律上可能」を一方的に言い立てている。

 国家の上層に位置する政治集団によるこのような説明を尽くさない一方的な言い立ては民主主義を蔑ろにする独裁・専横の意思を僅かなりとも潜ませていないと成り立たせ得ない。

 「日本学術会議法」には政府による会員の人事等を通じた一定の監督権行使を可能と解釈し得る文言はどこにもない。単に「法律上可能」を一方的に主張しているに過ぎない。一方的に主張すれば、主張していることの正当性・妥当性を獲ち得るとする態度は国民に対して丁寧な説明をするという謙虚さを欠き、政府を何でもかんでも正当づけるための強弁を働いているに過ぎないことになる。要するに国民をバカにしている。安倍晋三や菅義偉、加藤勝信等にはふさわしい態度であろう。

 渡辺輝人氏の記事が加藤勝信の発言と1983年(昭和58年)11月24日の参議院文教委員会での国会答弁との矛盾を指摘していることに案内されて、質疑を国会会議録検索システムから参照、関係箇所を列記することにしたが、渡辺輝人氏とは列記箇所が異なるところもあるから、異なりについては渡辺輝人氏の記事を参照して貰いたい。

 1983年11月24日の参議院文教委員会

 吉川春子(共産党参議院議員 2007年7月引退)「日本学術会議の発会式、昭和24年の1月のことでございますが、その中で総理大臣(吉田茂)の祝辞として次のように述べられているわけです。

 まず、『新しい日本を建設することを決意した私どもは、単に自国の平和と自国民の幸福をはかるのみならず、文化の発達、なかんずく科学の振興を通じて、世界の平和と人類社会の福祉に貢献しようとする大きな理想を持たなければなりません。まことに科学の振興こそ新日本再建の基礎であると共にその目標であると思うのであります』と述べまして、そしてその『日本学術会議は勿論国の機関ではありますが、その使命達成のためには、時々の政治的便宜のための制肘(わきから干渉して人の自由な行動を妨げること。goo国語辞書)を受けることのないよう、高度の自主性が与えられておるのであります』と、こういうふうにこのときの総理大臣自身が述べているわけですが、そういうことも踏みにじって今度の法改正を急ぐ。

 これは、政府の意のままに動く学術会議にしようとする、悪く言えば御用機関化しようとする何物でもないというふうに思うわけです。そういう意味では学術会議の自主性尊重、自主改革尊重と言ってきたのはウソだったのじゃないかと、そういうことがこういう経過で明らかになっているんじゃないかというふうに思うんですが、今度の法の改正の中で、政令事項についても、政令事項に大分任されているわけですけれども、学術会議と相談しながら進めると言っておりますけれども、いままでのこういう経過を見てくると、もう学術会議の意思を踏みにじって政令も何か決められちゃいそうな懸念があるんですけれども、その点長官、いかがですか」

 丹羽兵助(総理府総務長官)「ただいま、これが設立された当時の総理が、そのお祝いの席で述べられた挨拶でございますか、それはその気持ちと、そして学術会議がこういう性格のものであるというようなはっきりしたことを言っておられますが、そのことについてはいまも私は少しも変わった考えは持っておりません。あくまでこれは国の代表的な機関であると、学術会議こそ大切なものだという考え方、政府がこれに干渉したり中傷したり運営等に口を入れるなどという考えは、少しも、ただいま申し上げましたように、総理がその当時言われたことと変わってはおりませんし、変えるべきではないと思っております。

 ただ、今度の改正は、そういう大事な学術会議でございますから、学術会議がりっぱに機能あるいは使命を果たしていただくために選出方法を、近ごろいろいろと選出方法について意見も出ておりまするし、また学者離れだ云々というような嫌なことも耳にしておりまするので、今度はいわゆる推薦制にしていこうということでございまして、その推薦制もちゃんと歯どめをつけて、ただ形だけの推薦制であって、学会の方から推薦をしていただいた者は拒否はしない、そのとおりの形だけの任命をしていく、こういうことでございますから、決して決して総理の言われた方針が変わったり、政府が干渉したり中傷したり、そういうものではない」

 「日本学術会議法」はこの参議院文教委員会が開催された1983年(昭和58年)11月24日4日後の11月28日に何度目かの改正となっている。この改正に「日本学術会議」は昭和58年5月19日の「第89回総会」で反対意思を示している。

 従来の会員公選制を廃止して、全面推薦制の採用となっていること、会議の独立性の制度的保障となっている公選制が全く否定されていること、公選制廃止によって「日本学術会議」の会員外の選挙権を有する23万の学者の意思が活用されないこと等を挙げている。野党も同調することになって、吉川春子議員も改正に対する危惧の念を示すことになったのだろう。

 吉川春子議員は「日本学術会議法」改正は政府による組織の「御用機関化」ではないのか、「学術会議」の意思を踏みにじっているのではないのかと追及。対して、丹羽兵助は吉田茂が昭和24年1月の「日本学術会議」発会式で「時々の政治的便宜のための制肘を受けることのないよう、高度の自主性が与えられておるのであります」と、吉田「総理がその当時言われたことと変わってはおりませんし、変えるべきではないと思っております」と確約、いわば「政府がこれに干渉したり中傷したり運営等に口を入れるなどという考えは」は毛頭ない、高度の自主性尊重に何らの変化はないといった趣旨で政府側の法解釈を示している。

 さらに会員の選定は公選制から推薦制に変わるが、「形だけの推薦制であって、学会の方から推薦をしていただいた者は拒否はしない、そのとおりの形だけの任命をしていく」歯どめを設けているから、つまり任命を拒否するといった政府側の意思を示すことはないのだから、「決して決して(吉田)総理の言われた方針が変わったり、政府が干渉したり中傷したり、そういうものではない」と、ここでは学会の推薦と任命に関わる法解釈を明確に示している。

 事実、「日本学術会議法」の「第3章 組織」2が〈会員は、 第17条の規定による推薦に基づいて、 内閣総理大臣が任命する。〉となっているのだから、丹羽兵助の答弁は当然の法解釈を示しているのだが、菅義偉も、官房長官の詭弁家加藤勝信も、1983年当時の政府の「形だけの任命をしていく」、いわば “任命をそのまま受け入れる”とする法解釈を違えて、法律上可能となっている一定の監督権行使可能に基づいた任命拒否、いわば“任命どおりとはしない”とする法解釈を示していることになる。

 同じ法律でありながら、こうも正反対の法律解釈を可能とし得る根拠を政府という立場上、当然、国民に対して説明責任を負うことになる。だが、加藤勝信は詭弁家らしく、懇切丁寧な具体的説明はしないままに「会員の人事等を通じて一定の監督権を行使するっていうことは法律上可能となっておりますから」と一方的に言い立て、「人事に関することですから、これはコメントは差し控えるということはこれまでの対応であります」と、法律解釈でありながら、説明責任放棄を貫き通して正々堂々・平然としていられる。

  加藤勝信が一定の監督権行使可能の主張を何に依拠させているのか、教えている記事がある。参考のために全文引用することにした。

 〈18年にも任命拒否検討 内閣府、法制局に法解釈照会「拒否できるでいいか」〉(毎日新聞2020年10月3日 20時40分)

 菅義偉首相が科学者の代表機関「日本学術会議」から推薦された新会員候補6人を任命しなかった問題に関し、内閣府は2018年と今年9月の2回にわたり、任命権を巡る日本学術会議法の解釈を内閣法制局に照会していた。このうち、18年は「任命は拒否できるということでいいか」と尋ねており、この際も任命拒否を検討していたことになる。政府関係者が3日、明らかにした。菅政権と第2次安倍政権より前は学術会議の推薦通りに任命されているため、法解釈や運用が変更された可能性がある。

 日本学術会議法は17条で「優れた研究・業績がある科学者のうちから会員候補者を選考し、首相に推薦する」と定め、7条で「推薦に基づき首相が任命する」としている。中曽根康弘首相(当時)は1983年の参院文教委員会で「実態は各学会が推薦権を握っている。政府の行為は形式的行為」などと答弁。このため、学会側が実質的な任命権を持つとの法解釈が成り立つという指摘がある。

 内閣法制局は2日、立憲民主党など野党が国会内で開いた合同ヒアリングで、18年に内閣府から照会があったと認め、「法令の一般的な解釈ということで内閣府から問い合わせが来て、解釈を明確化させた」と説明した。今年9月2日にも内閣府から口頭で照会があり、「18年の時の資料を踏まえ変更はない」と回答したという。

 ただし、18年の照会で「明確化させた」という法解釈について、政府は詳細な説明を避けている。加藤勝信官房長官は今月2日の記者会見で、照会の中身について「推薦と任命に関する法制局の考え方が整理されていると承知している」と述べるにとどめた。

 政府関係者によると、18年の照会は会員の補充人事の際のもので、「学術会議から推薦された候補を全員任命しなければならないわけでなく、拒否もできるということでいいか」という趣旨だったという。16年の補充人事の際にも政府が複数の候補者を差し替えるよう求めたが、学術会議が応じず、一部が欠員のままになった経緯がある。

 野党合同ヒアリングでの内閣府の説明によると、今回の新会員人事は内閣府が9月24日に推薦候補者リストを起案し、28日に首相官邸が決裁した。内閣府は6人の名前が削除された時期や理由は明らかにしなかった。【佐藤慶、宮原健太】

 要するに内閣府は、安倍晋三の指示と、菅義偉の指示も受けてのことなのだろう、内閣のトップの指示なくして内閣府が動くわけはない、2018年と今年2020年の9月の2回に亘って内閣法制局に対して任命権を巡る日本学術会議法の解釈を照会したと政府関係者が10月3日に明らかにした。

 〈2018年の照会は会員の補充人事の際のもので、「学術会議から推薦された候補を全員任命しなければならないわけでなく、拒否もできるということでいいか」という趣旨だった〉。2020年の9月の紹介内容は6人の任命拒否の結果を見れば、2018年の紹介内容と同じということになる。

 要するに「日本学術会議法 第3章 組織 2」の、〈会員は、 第17条の規定による推薦に基づいて、 内閣総理大臣が任命する。〉の条文に対して1983年(昭和58年)11月24日の総理府総務長官丹羽兵助の「形だけの推薦制であって、学会の方から推薦をしていただいた者は拒否はしない、そのとおりの形だけの任命をしていく」、いわば “任命をそのまま受け入れる”とした法律解釈を内閣法制局は “任命をそのまま受け入れなくてもよい”とする法解釈に変え、任命拒否可能のお墨付きを菅内閣に与えたことになる。

 当然、このような法解釈の変更による任命拒否可能のお墨付きに正当性があるか否かの問題が生じる。記事が、〈内閣法制局は2日、立憲民主党など野党が国会内で開いた合同ヒアリングで、18年に内閣府から照会があったと認め、「法令の一般的な解釈ということで内閣府から問い合わせが来て、解釈を明確化させた」と説明した。〉と伝えていることからして、内閣法制局は法制局としての立場から「日本学術会議法」の推薦に対する総理大臣の任命に関して「法令の一般的な解釈」、いわば一般的な法解釈を示したということになる。

 但し「一般的」という言葉の意味は「特殊な事物・場合についてでなく、広く認められ行き渡っているさま」(goo国語辞書)を言う。法律は内閣や内閣府、内閣法制局のためにあるのではなく、国民のためにあるという点からしても、内閣府にしても、任命拒否可能を広く認められる法解釈とし得るかどうかの観点から内閣法制局に照会しなければならないし、内閣法制局にしても、任命拒否可能を広く認められる法解釈とし得るかどうかの観点から照会に応じなければならないことになる。

 だが、報道を見る限り、菅内閣にのみ認められる法解釈の変更としか見えない。菅内閣の利益を最優先事項とする結果、菅内閣は内閣法制局の法解釈の変更を国民に広く知らさないままに内閣法制局の法解釈の変更一つで任命拒否に出ることになった。しかもこのように国民に広く知らさないという不誠実この上ない保身的な経緯を取りながら、菅義偉も、官房長官の詭弁家加藤勝信も、「法律に基づいた人事だ」と自己正当化を謀り、加藤勝信に至っては任命拒否は「人事に関することですから、これはコメントは差し控えるということはこれまでの対応であります」と、国民に広く知らせることに注力を注がずに、さも慣例となっているかのような薄汚い誤魔化しを言う。

 菅義偉は「雪深い秋田の農家の長男に生まれた」との庶民性をウリにしている。だが、その庶民性に反して内閣法制局の法解釈の変更を国民に広く知らさないままに変更した法解釈で安倍晋三や自身に都合のいい人事を行った。

 しかも任命拒否のその人事たるや安倍晋三の国家主義的強権的政策に反対した学者ばかりである。任命拒否という形で安倍晋三の政治思想を拒絶する学者を排除したのだから、一種の思想統制に当たらないはずはない。ある組織に対する思想統制は共産党元参議院議員吉川春子が同じ言葉を使っているが、その組織に対する御用機関化の意思なくして成り立たない。

 御用機関化の意思を潜ませた思想統制の片棒を菅義偉は担いだ。「雪深い秋田の農家の長男に生まれた」だと。とんだ食わせ者としか言いようがない。

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