尾木直樹イジメ撲滅の「愛とロマンの提言」/子どもの"居場所と出番"の必要性の方法論には黙する詐欺

2024-03-25 05:56:07 | 教育
 副題:中学校非義務教育化による一教科専門学校化が多様な可能性に応じた居場所としうる

 尾木直樹は2013年2月1日発売の自著『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』の「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」第6節で、「大きな理想を掲げていじめ解決に取り組んでいきましょう」と取り組み可能性を保証する元気一杯の掛け声で、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」を画像で提示。児童・生徒に対する「直接的アプローチ」と「間接的アプローチ」に分け、「直接的アプローチ」のテーマは「ほほえみを以って子どもを丸ごと愛する受容と寛容」、「間接的アプローチ」のテーマは「全分野への大胆な参画・子どもが主人公」とする「権利としての子ども参画」を高らかに謳い上げている。

 その実効性をゆめゆめ疑ってはならない。日本で有数の教育学者尾木直樹の頭脳が生み出した「本気でいじめをなくす」」と銘打った「愛とロマンの提言」である。

 「プログラム」の中の「直接的アプローチ」、「個人への対応」は「保護者への防止プリント配布」、「いじめっ子タイプへのケア」、「アトピーっ子へのケア」、「いじめられやすい子に自己肯定感を」の4項目を"いじめをなくすための愛とロマン"として取り挙げているが、「保護者への防止プリント配布」を除いた以下の3項目と、プログラム外で、「大切な視点」だと断っている、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」についてその妥当性に検討を加えたいと思う。

 特に「どの子にも居場所と出番」は最重要の課題であろう。学校社会で正当とされる"居場所と出番"をどの子も見つけることができたなら、イジメを"居場所と出番"とする必要はなくなる。当然、尾木直樹は「どの子にも居場所と出番」を最重要課題、"取扱注意"の札を貼り付けて取り組み、尾木直樹流の創造的な答を出さなければならない。

 では、最初の(個人への対応)の「いじめっ子タイプへのケア」について見てみる。いじめっ子タイプはどのようにして見つけるのだろうか。「第3章 どんな子がいじめをするのか」の「今日のいじっ子は明日のいじめられっ子」で、次のように解説している。〈1980年代ぐらいのいじめでは、まだ「いじめる子どもたち」が見えやすい状況にありました。いじめをするのは大体が乱暴で勉強嫌い、そのため成績もあまりよくなくて、日頃の素行も悪いことから教師たちに目をつけられている不良タイプが多かったものです。〉――

 だが、現代のイジメは、〈いじめっ子といじめられっ子がわかりやすく記号化されていた時代と違い、教師や親からの信頼が厚い、しっかりとしたリーダータイプの子でさえ、いじめられっ子になり、いじめっ子にもなるのが現代版のいじめです。〉と特定困難性を強調している。但し現場教師だった頃の経験から、「いじめっ子10の特徴」を割り出して紹介している。それはイジメを働いた児童・生徒の性格や行動特性を分析して得たタイプ付けであって、「いじめっ子タイプへのケア」とはそのタイプに当てはまる子どもを選別してケアすることを意味しているはずで、イジメを働いたわけではなく、タイプだからと言って、イジメを働くとは決まっているわけではなく、あくまでもタイプと言うだけでケアする理由をどうように設けるのだろうか。「君はいじめっ子タイプだから、いつかはいじめを働くかもしれない。ケアする必要がある」とでも言うのだろうか。誰が考えても許されるはずもないケアの類いとなるはずだ。

 未遂でも既遂でもない、疑わしい行動を取っているわけでもない、タイプというだけで犯罪可能性の容疑をかけてケアするかしないかの選別をかけるのだから、人権侵害、人間差別となる恐れが生じるだけではなく、逆に反発を受けることになる危険性を招くことになる。

 但しクラスメートを常習的にからかったり、プロレスごっこでいつも技を仕掛ける子がいる場合、それは既にタイプであることを超えて、疑わしい行動を取っていることになり、声掛けという形でごくごく初期的なケアを心がける必要は出てくるが、相手が自分がしている行為を遊び感覚・ゲーム感覚でしていることと頑なに思い込んでいた場合、ケア自体を受け付けないケースが出てくる。尾木直樹自身もイジメているとは認識していない遊び感覚・ゲーム感覚のイジメの始末の悪さを訴えているのだが、こういった現実に存在するケースを一切考慮しないケア設定となっていることからも、有効性は著しく見い出し難い。

「君がしているプロレスごっこは君がいつも技を仕掛けているが、イジメになっていないか?」
「彼とは友だちで、普通に遊びでプロセスごっこをしているだけですよ。自分の方が力があるから、いつも勝つことになるけど、ときどきわざと負けてやって、バランスを取れということですか。わざと負けて、相手が勝ったことにするなんて、彼を馬鹿にすることにはならないですか?」
「彼は嫌がっていないか?」
「彼に聞いてみてください。もし嫌がっているようだったら、彼と遊ぶのはやめます。わざと負けることなんか、彼を馬鹿にすることだから、そんなことはできませんからね」

 「彼」に声掛けをしても、一緒に遊ぶのをやめるという言葉が自身にとって何をされるか分からないという恐怖となって、ある種の威しとなり、「別に嫌でもなんでもないですよ」と答えるケースも出てくる。

 「彼」が精神的と身体的苦痛を訴え出て、既遂状態であることを把握して初めて相手に対するそれ相応のケアは正当性を持つこととなり、人権侵害でも人間差別でもなくなるだけではなく、イジメっ子のイジメ被害者に対する人権侵害であり、人間差別であることを伝えることができるが、この場合はあくまでも「いじめっ子へのケア」ということで、ケアとして成り立つが、タイプというだけでは、誰に対してもケアは成り立たないはずだ。

 当然、こういった事態を避けるためにも、イジメっ子タイプだからとケアすることによって生じる人権侵害や人間差別を避けるためにも、特定の児童・生徒を対象とするのではなく、児童・生徒全員を対象とした主体性の確立、精神的な自立(自律)を先に持ってこなければ、イジメは簡単には抑えることはできないし、抑えることができたとしたとしても、個々の解決で終わり、イジメは繰り返されることになるだろう。

 多くの犯罪者の中から共通する性格を抜き出して犯罪者タイプを導き出すことはできても、犯罪者タイプだからと言って、犯罪予備軍と看做すことは人権上、優生思想に繋がりかねない問題が生じる。2015年から2022年までの間の犯罪に於ける再犯率は48~49%台でほぼ一定していると言うから、半数は更生していることになり、タイプは常にタイプであるとは限らないことを認識しなければならない。だが、尾木直樹は認識不可としている。

 尾木直樹自身、「第3章 どんな子がいじめをするのか」の「これが『いじめをしているときの子どもの特徴』です」で、外見は圧倒的に普通で成績のよい子でも、イジメっ子になるし、人望があって信頼が厚いクラスのリーダーみたいな子が、裏に回ると大変なイジメの首謀者だったといったこともあり得ると警告していることは誰がイジメ加害者になるかはイジメが発覚してから分かることで、このことはタイプでイジメっ子を識別することの不可能性の指摘となり、「いじめっ子タイプへのケア」は人権侵害、人間差別という点でも成立させ得ないことを示す。

 当然、尾木直樹の「いじめっ子タイプへのケア」は無駄・無効と言うだけではなく、危険な上、小賢しいだけの発想としかならない。

 「アトピーつ子へのケア」はアトピー性皮膚疾患が顔等の見える場所に現れて、容姿を気にし、他人の目を意識するあまり、全てに臆病となって、引っ込み思案を招き、何事につけてもハキハキした態度を取れなくなる。そういっところを突け込まれてイジメを受けやすいことから、ケアが必要ということだろうが、アトピー性皮膚炎は皮膚のバリア機能の低下によって引き起こされ、ストレスが悪化の一因となる心身症に発展、心のケアは治療過程で行うとされている。学校ですべきことは、同じ「第3章 どんな子がいじめをするのか」で、「どんな事情があっても『いじめるほうが100%悪い』のです」と指摘しているのだから、クラス全員・全校生徒対象にアトピー性皮膚炎は伝染しない病気であること、完治までにときには何年とかかる治療困難な病だが、完全治癒するということを誰もが理解しなければならないと強く求めて、「もしアトピー性皮膚炎の児童・生徒が引っ込み思案でいるようなら、仲間に入れてやる、仲間に誘ってやるぐらいの強い意志を持たなければならない。強い意志を持てずに逆にからかったり、冷やかしたり、『キモっ』などと侮蔑の言葉を吐きかけたり差別するようなら、そういった差別をする児童・生徒の方こそが精神の病に罹っていると言える。最低限、そっとしておいてやるぐらいの思い遣りは持たなければならない。そっとしておいてやる思い遣りは無視することとは違うことぐらいは理解しているはずだ。そっとしておいてやる思い遣りはそれなりに相手を気遣う態度だが、無視は相手の存在自体を認めまいとする軽蔑や敵意が僅かでも混じっていて、相手の気持ちを傷つける態度で、この違いが分からないようでは理解力を疑われるだけではなく、人間としての育ちの点でも疑われることになるだろう」等の言葉かけを行って、周囲のイジメや差別を止めることを優先させるべきだろう。

 尾木直樹は「いじめっ子タイプ」や、「アトピーつ子」へのケア取り上げるよりはイジメそのもの、差別そのものを問題視すべき課題だとする留意点を忘却する、見当違いも甚だしい過ちを犯して平然としている。この程度の教育者でしかない。

 (個人への対応)の「直接的アプローチ」の最後に、「いじめられやすい子に自己肯定感を」と提唱している。「いじめられやすい子」と特定すること自体が尾木直樹は差別や人権侵害になると気づいていない。特にほかのところで、〈実際に起きたいじめ事件を丁寧に分析してみると、決して「弱い者」だけがいじめられているわけではない。〉と指摘している以上、「いじめられやすい子」は選別不可能となるはずだが、この不可能を忘れて、可能とするのはご都合主義以外の何ものでもない。

 既に書いていることだが、イジメもイジメる能力や才能に基づいた一つの活動であり、その活動に自身の可能性の追求を置き、追求の成果を自己活躍と看做し、自己活躍自体が自己実現の一つとなり、その自己実現を自己肯定感の根拠とする。自己肯定感に繋がる才能・能力の何らかの発揮は誰にとっても必要だが、その自己肯定感は自身にとって有意義であっても、学校社会に於いて誰にも有害とならない、多くの生徒に参考となる自己肯定感の保持でなければならないのであって、当然、こういった道理を全児童・生徒を対象に理解させなければならない。

 いわば、「いじめられやすい子」に限ったことではなく、誰にとっても他者に迷惑や有害とはならない、誰の目にも有意義と見える自己肯定感を持つことは必要であり、持てるように全員を指導していくのが学校教育の本筋であるはずだが、そういった大局に立った教育を通してイジメ加害者を出さないようにしていくことが重要だが、尾木直樹は「いじめられやすい子」を特定する差別や人権侵害まで犯して、そのような子に限定した自己肯定感を云々する姿勢はあまりにも局所的で、狭い視野しか見えてこない。

 主体性や自立性(自律性)といった資質を育むことの肝心要の必要性に何ら視点を置かない事柄を取り上げただけでも尾木直樹の「学校におけるいじめ防止実践プログラム」はイジメ防止の目論見としては欠陥製品だと断定せざるを得ないが、「いじめっ子タイプ」や「アトピーつ子」、「いじめられやすい子」に対して意識もできずに見せている差別観や人権侵害になるという点から見ても、有害な数々の提案であり、これが、「人権・愛・ロマン」だと言うから、悪臭フンプンとしたニセモノの教育論だとする評価がふさわしい。

 では、「どの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現」について尾木直樹が実現可能性あるどのような提言をしているのか見てみる。だが、〈またどの子にも居場所と出番のある学級づくりの実現も大切な視点となります。「間接的アプローチ」 では、心安らぐ学習・生活環境の整備と規律の確立がポイントとなります。厳しい校則や詰め込み授業など、子どもにとってストレスフルな環境をいかに緩和できるかということも学校の取り組みとしては重要になります。〉(蛍光ペンは当方)と謳い、要求するのみで、「実現」に向けた具体策についての助言は何一つ示していない。

 ここでポイントとして挙げている、「心安らぐ学習・生活環境の整備と規律の確立」も、「居場所と出番のある学級づくりの実現」と深く関わっていて、この実現によって手にするであろう積極的な生き方が活力ある精神的な安定性への獲得に向かい「心安らぐ学習・生活環境」を自分なりに工夫して確立することになるはずで、当然、「居場所と出番」云々を先に持ってこなければならない。

 このことだけではない、「居場所と出番」こそが児童・生徒それぞれの可能性追求の機会と場を保証し、そこから自分たちなりの生きる姿が導かれていくのだから、学校は目標としては一人残らずの児童・生徒に対して「居場所と出番」を用意できる体制の構築に向けて努力しなければならない重要事項に入るはずだが、このような認識を尾木直樹は僅かでも持つことができないでいる。

 「居場所と出番」を見い出せない象徴的現象が不登校であろう。尾木直樹の書籍出版前年の2012年度の文科省調査「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」によると、小学校に於ける不登校児童数は小学校児童数676万4619人に対して2万1243人(0.31%)、中学校に於ける不登校生徒数は中学校生徒数355万2663人に対して9万1446 人(2.57%)と学年を追うごとに増えていて、因みに2022年度の調査を見ると、小学校に於ける不登校児童数は小学校児童数619万6688人に対して10万5112人(0.8%)、中学校に於ける不登校生徒数は中学校生徒数324万5395人に対して19万3936人(6.0%)となっていて、少子化傾向であるにも関わらず10年間で小学生の不登校児童数は約8万4千人近く増加、中学生の不登校生徒数は約10万3千人近くに増えている。

 「居場所と出番」を見い出せない児童・生徒は不登校児童・生徒に限られているわけではなく、義務教育だからと学校の勉強についていけないままに惰性で学校に行き、惰性で授業を受けている児童・生徒、あるいは参加したい運動部活動、文化部活動もなく、単に学校に機械的に顔を出すだけの児童・生徒、自らの「居場所と出番」だと心得違いをしてイジメを働く児童・生徒等々を含めると、相当数存在することが推定できる。2012年当時を考えても、無視できない人数が存在していたはずだ。

 尾木直樹は「第5章」を「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」と大々的に名付け、その線上で「学校におけるいじめ防止実践プログラム」を実効性を前提としてであろう、掲げた以上、「居場所と出番」づくりの建設的で有意義な案を優秀な教育学者としての知恵をフルに絞って提供すべき責任を負っていることになるはずだが、何一つ助言も指導も行う気配すら見せていない。尾木直樹は1972年4月から高校教諭として教師生活を出発させ、学校教師を22年間、1994年から教育評論家としての活動をスタートさせている。この書籍出版の2013年初頭まで40年余、教育に携わってきた。「居場所と出番」はイジメ問題の克服にも役立つはずだから、何かしらひとかどの見識――一家言があって然るべきだが、黙して語らず。語るべきアイディアが頭にないから、何も喋れないのだろう。

 《こどもの居場所づくりに関する調査研究報告書》(内閣官房こども家庭庁設立準備室/2023年令和5年3月)は、〈社会的居場所とは、「自分自身がポジティブに活動でき、他者から存在や能力を認められ、評価してもらえる活動場所」を指す。〉と解説している。

 当方は「居場所」とは主体性をベースとして子ども自身が持つ何らかの能力・才能に基づいた有意義と思える可能性の追求によって自己実現を見い出すことのできる機会と場と解釈している。自分から進んで行う主体性を纏うことができていればいる程、自分にとっての「居場所」は確固とした有意義性を増す。

 「居場所」を見つけることができれば、「居場所」そのものが「出番」のチャンスを与える機会と場となる。

 「居場所」を見つけ得ない児童・生徒の存在の原因の一つは価値観の多様化を言いながら、学校社会が各教科の成績を主体に運動部活動、文化部活動の成績で色付けした限られた価値観で児童・生徒を評価、結果的に可能性の追求に応じたそれなりの自己実現の機会と場がこういった画一的な価値観が占拠することになった「居場所」となっていて、価値観の多様化を反映していないことが一部の価値観以外を排除する力学を働かせることになっているからだろう。

 当然、どのような価値観にも可能な限り対応できるようにする「居場所」の多様化・広範囲化を図らなければならないことになる。この方策として実は2008年11月18日「gooブログ」投稿の《日本の教育/暗記教育の従属性を排して、自発性教育への転換を‐『ニッポン情報解読』by手代木恕之》の中で、価値観の多様化時代に合わせた子どもの多様な価値観に応えるための学校改革を提案している。「居場所」の確保については直接触れていないが、間接的には触れている。

 この記事は私自身のHP『市民ひとりひとり』の第9弾《提案します『中学校構造改革』》(2006年10月2日)に書いた内容を参考にしたもので、中学校を非義務教育化し、同時に学区制を廃止、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性を採って、好きな教科を学ばせる無試験入学の"専門学校化"とすることを提案している。「自ら学ぶ」形式の選択は自ずと自立性(自律性)と主体性を必須要件とすることとなり、そのような態度の育みへと向かう。

 但し一教科を選択後、自身が学びたいこととの違いが気づいた場合は、自己責任に於いて他教科への中途転籍を許すこととする。中学校を例え非義務教育化しても、最低限高卒の学歴は獲得したい一般的な学歴主義から、小学卒で終える生徒が出てくるとは考えられず、中学校を非義務教育化しても、中学校へ進むだろうと予想されること。この記事には書かなかったが、非義務教育化しても、国が授業料その他を現在通りに負担すべきだろう。

 学区制を廃止するのは一教科選択の生徒数がクラスを編成するには少人数過ぎる場合は近隣の中学校の同じ教科の生徒との合同の学級を組むためである。それでも頭数が少ないときは、学年を超えたクラス編成とする。早い時期からの異年齢による形式的ではない集団生活は社会に出てから役立つはずである。教室が不足なら、一つの教室を衝立で仕切ればいい。自分で選んだ教科に同じ教科を選んだ仲間と協同して、一人一人が自分から取り組むのである。私語の暇もないはずだし、衝立を通して聞こえる他のクラスの声も気にならないはずである。

 例えば一教科選択の例としてマンガを読んだり描いたりするのが好きな生徒のためにマンガ科を設けたり、土いじりの好きな生徒が望んだなら、陶芸科を用意する。好きな教科の選択が児童・生徒の価値観の多様化に応じる体制とすることができ、結果的に「居場所」の確保に繋げることができる。

 自己選択による一教科を「自ら学ぶ」方式で無限な深度に向けて探究させる。いわば井戸を地球の中心に向けて可能な限り掘り下げていくように一つのことを究めさせることで、そこから全般的な教養や常識への反転照射を行わしめ、それと同時に、想像力(創造力)や思想・哲学といったより高い段階への到達を策す構造とする。

 譬えて言えば、月への到達を徹底研究しながら、宇宙全体を知る教科教育の構造を取る。一教科を究めていく過程で「自ら学ぶ」姿勢を自分の血肉(スタイル)としたとき、それは未知の事柄に関しても条件反射され、一般教養や社会性・社会的常識の獲得にもつながる一教科を超えた幅広い知識へのパスポートとすることが可能となる。いわば自己選択した一教科を学問への昇華へと持っていく。

 具体的にはマンガ科に於いてもただ単にマンガのストーリー作りと絵の描き方を学ぶだけではなく、世界各国のマンガの歴史についてとその伝統、現代のマンガ状況、それぞれの国における外国のマンガの影響、マンガ表現に現れたそれぞれの民族性、あるいは国民性、文化、さらにマンガに関する数々の評論について学ぶ。それはマンガ科に限ったことではない、人間や社会を知るプロセスとする。人間を知り、社会を知り、それぞれの営みを知ることで、生徒はそれぞれに世界を広げていく。

 このことは土いじりが好きな生徒の陶芸科に於いても準拠するプロセスとする。各国の陶芸について学び、その歴史について学ぶ。日本各地の陶芸について学ぶ。記事では触れなかったが、勿論、中間試験、期末試験等の試験は行う。出題の素材は無限と言えるだろう。

 以上、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性の中学校非義務教育化の"専門学校化"によって、価値観の多様化に応じた「居場所」の確保について大体纏めてみたが、中学校の非義務教育化が非現実的に過ぎるなら、義務教育のまま一教科選択性の"専門学校化"とすることも一つの手である。

 だが、学校社会は「価値観の多様化」を言いながら、その多様化に応えて、一部の児童・生徒以外に対してはそれぞれに相応しい「居場所」を提供できず、不登校やイジメ、無気力、その他の問題行動を抑えることができないでいる。

 尾木直樹はイジメ対策として「居場所と出番」づくり以外に「厳しい校則や詰め込み授業など、子どもにとってストレスフルな環境」の緩和、「子どもたちがこれまでの自分とは異なる一歩前進した『新しい自分づくり』に挑戦できる」サポート体制の構築等々の必要性を挙げているが、これらの必要性はそれぞれの児童・生徒のそれぞれの「居場所と出番」を用意できる体制を前以って整えておかなければ、満足な解決は期待できないはずだ。

 にも関わらず尾木直樹は、〈理念に基づいた確たる構想抜きにしては、学校からいじめを吹き飛ばすことなど叶いません〉と、「構想」だけでイジメを吹き飛ばすことができるかのような言説を弄して得意になっている。この点だけでその悪質性の程度は小さいとは言えないが、「構想」の必要性だけを口にしてその実現は学校現場への丸投げとなっているのだから、綺麗事を口にしているだけの無責任は底が知れない。

 綺麗事に過ぎない「」は必要ない。それぞれの児童・生徒が自分で見つけるか、父母や教師の手助けを得て見つけるかした、自らが得意とすることのできる何らかの才能・能力を自身の可能性追求の素材として何らかの有意義な自己実現を目指すことのできる「居場所と出番」を学校社会に用意する具体的な計画と実行こそが求められている。

 義務教育のままであっても、非義務教育化であっても、学区制を廃止する「自ら学ぶ」形式の一教科選択性採用の児童・生徒の多様な価値観に対応させる中学校の"専門学校化"は決して非現実的な提案ではない。このことは大学の「一芸入試」が十分に証明してくれる。自己選択によって一つの教科を学問としてそれなりに極めることができれば、手にする知識・教養はほぼ暗記教育で成り立っている従来の教科教育で手にする知識・教養よりも遥かに柔軟性に満ちた生きる力を与えてくれることになるだろう。

 何らかの才能・能力を試行錯誤する可能性の追求を自己選択を通して何らかの有意義な自己実現へと持っていく。この一連の試みを自らの「居場所と出番」とする。有意義な活動に向けた自己選択は自ずと主体性を育み高め、自立性(自律性)の確立を伴い、自己責任意識を確固としたものにしていき、自己実現のさらなる高みに向けた引き続いての可能性の追求を試みる方向に向かう。

 イジメという活動に基づいた可能性の追求など、取るに足らないちっぽけなものに見えてくるに違いない。

 尾木直樹は日本の教育にとって害以外の何ものでもない。
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八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(1)

2024-03-16 04:00:55 | 教育
  以下の記事は《八方美人尾木ママの"イジメ論"を斬るブログby手代木恕之》から転載したものです。

 2013年発売『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』(以下、『「脱いじめ」論』)の「子ども自身が中心になってこそ『いじめ』を駆逐できるのです」から。

 ここでは「『いじめ』を駆逐」、いわばイジメの撲滅、イジメの消滅を謳っている。「発生は防げなくても、いじめは克服さえできればいいのです」の主張を忘れた二枚舌となっている。

 1997年に北欧に視察に行った。スウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」という話をした。スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっていて、どんなに善意からであっても大人の独断専行は許されていない。イジメ問題に対しても小学校でさえ子どもたち自身による取り組みが重視されているとの説明を受けた。

 この"視察"から尾木直樹は、〈「子どもの問題のスペシャリストは子ども」との観点に立つ。〉姿勢を、いわば教訓とするに至ったのだろう。ここまでの記述で尾木直樹が如何にどうしようもなく単細胞で、底の浅い解釈と発想しかできないことに気づかなければならない。理由は少しあとに述べる。
 
 この教訓が、「現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います」と早くも安請け合いでしかない確約を推定するに至っている。この推定も次の瞬間骨抜きにして、〈子どもの参画のもと、子どもたちを主役に据えることで、本当の意味でのいじめ克服の実践が可能になるのです。〉とほぼ確約に近づけている。その方法論、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」の中でも取り上げているが、生徒会の中に「いじめ対策委員会」をつくり、〈「いじめをしない、させない、見逃さない」をスローガンに掲げた「三ない運動」を立ち上げていく。〉――

 そして最後は、〈こうした子ども自身の手による自主的な活動こそ、いじめをなくすための最善の方法かもしれません。〉と、ほぼ確約から「しれません」の推定に戻してしまっている。視察先のスウェーデンの子ども問題の専門家から「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と聞かされた話まで持ち出していながら、「最善の方法となるでしょう」と確約することもできず、「最善の方法かもしれません」では情けなさすぎると自分自身では気づかない。

 スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっている。意見を聞き、その意見を参考にすることを可能とするには意見聴取対象の子どもたちが主体性と自立性(あるいは自律性)をそれぞれの年齢相応に備えていることが条件となるはずだ。主体性も持たない、自立性(あるいは自律性)も欠いているでは、意見らしい意見を持つことはできないからだ。

 前のブログで尾木直樹が学校の主人公に子どもを据えることは、21世紀の学校づくりを展望したとき、国際的動向や子どもの権利条約の精神から考えても当然の観点で、歴史的な流れと言えると解説したのに対して、〈当方の考えでは子どもは学校の主人公足り得ない。教師と児童・生徒はあくまでも教える・教えられる関係にあるが、児童・生徒を一個一個の人格を有した個人と看做して、それぞれの主体性が幼稚な状況にあったとしても、その主体性を可能な限り尊重する関係を取らなければならない。教師のこのような可能な限りの主体性尊重の姿勢が児童・生徒の自立心(あるいは自律心)の育みに繋がり、自立心(あるいは自律心)の確立に向かう過程で児童・生徒の主体性はより確固とした姿を取っていく。〉と書いているが、尾木直樹はスウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と指摘した時点か、あるいは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞く慣習となっていることを聞かされた時点でスウェーデンの子どもたちは子ども問題のスペシャリストとして耐えうる、あるいは意見聴取に耐えうる主体性や自立性(あるいは自律性)を備えていることに気づかなければならなかった。気づかないから、"単細胞"で、底の浅い解釈と発想しかできないと書いた。

 主体性も欠いている、自立性(あるいは自律性)も欠いている子どもたちが「子ども問題のスペシャリスト」になり得ないし、子ども関係の法律に関する意見聴取の対象になりうるはずはない。このことを事実だと証明するためにネット上を探し、次の記事、《「主体性」を重視するスウェーデン教育》(日本私立大学協会/平成24年8月22日)に出会うことができた。

 次の一文がある、スウェーデンの〈教育制度で「主体性」が重視されていることだ。スウェーデンの教育の目標は、社会で経済的に自立して生きていける人を生み出すことであり、教育制度はそれを支えるものである。〉――

 記事を纏めてみると、先ず9年制一貫の小・中学校初等教育卒業後、中等教育として高校進学と成人教育プログラムへの進学(他の記事を調べたところ、就職を目指す一般教養も含む職業プログラムのことらしい)の二つの選択肢があり、高校では進学コースと就職コースに分かれていて、就職コースはホテル・レストランコース、保育士・教師コース等の17のプログラムが用意されている。一方高校に進学せずに成人教育プログラムを選択した場合でも、卒業後は就職以外にも大学進学も可能で、個人の選択(=自己決定)に任されている。就職したとしても、学び直しをしたくなって、大学入学を目指すのも個人の選択にかかることになる。

 さらに記事はスウェーデンの統計局実施の高校生意識調査を伝えていて、「卒業後3年以内に大学に行きたいか?」の設問に対して、「はい」は6割、「いいえ」が4割。大学進学猶予期間を4割が3年以上に置いているという。Google AIに聞くと、高卒後から大学進学までの間に、あるいは在学中、卒業から就職までの間に一般的にはということなのだろう、1年間の猶予期間(Gap Year)を置き、留学や旅行、インターンシップ、ボランティア等の社会体験活動を行うことがありますと、個人の選択として根付いている社会的慣習であることを紹介している。

 個人の選択という自己決定行為は主体性と深く関わり、主体的選択としての行動志向を育む。そして個人の選択としての主体性を持たせた自己決定行為は自己責任意識を自ずと芽生えさせ、自己責任意識を裏打ちとした自己決定行為という形を取ることになって、主体性をより確固とした資質とすることになる。

 次も記事が触れていないことだが、スウェーデンの教育理念が"主体性重視"であるなら、親が学校で植え付けられた"主体性重視"の態度を日常的に子どもに求めるようになるだろうし、日本の幼稚園・保育園に当たる、1歳半頃から預かる就学前学校でも、"主体性重視"の行動を求められ、ある年齢に達したなら、父母等の身近な存在から成長過程の節目節目で自己決定に基づいた個人の選択を求められることを実体験としても、社会的慣習となっているということも見聞きして成長していくことになれば、成長と共にハッキリとした意味、場面を取って体験を積み重ねていくこととなり、体験の積み重ねと共に自己決定に基づいた主体性を持った姿勢・行動が常態化していく。

 そして主体性が育まれるに伴って自立心(自律心)は芽生え育っていき、自立心(自律心)を獲得する程に主体性はより確かな姿勢となり、相互に影響し合って育んでいくことになると同時に主体性や自立心(自律心)はこれらとの関連で常について回る自己決定意識や自己責任意識を高めていき、これらの一連のサイクルの各要素は人生の各進路や日常生活の各場面で発揮することが求められて、あるいは自分から進んで発揮していき、自明の資質としていく。

 勿論、言葉通りに理想の姿を取るわけではないだろうが、"主体性重視"という目標を立てなければ、自分から進んで自立的、あるいは自律的に行動するという姿勢・行動も、その姿勢・行動に責任を持つ意識も自覚な育みに向かいにくくなり、このことに応じてこれらの姿勢・行動を自覚的に取る傾向も可能な限り全体的趨勢とすることは難しくなるなるはずである。

 とは言っても、スウェーデンでもイジメは存在していて、《OECD 生徒の学習到達度調査(PISA)2015年調査国際結果報告書『生徒のwell-being(生徒の「健やかさ・幸福度」)』(概要)》の解説によると、〈「いじめの被害経験」指標の平均値を見ると、日本の値は「-0.21」で、OECD平均の0.00よりも小さい。日本について指標を構成する各項目の割合を見みると、最も割合が多いのは、言語的ないじめの「からかわれた」である。次いで、物理的ないじめである「たたかれたり、押されたりした」、関係的ないじめである「意地の悪いうわさを流された」と続く。日本は「からかわれた」及び「たたかれたり、押されたりした」の2項目の割合についてOECD平均を上回り、「仲間外れにされた」「おどされた」「物を取られたり、壊されたりした」「意地の悪いうわさを流された」の4項目の割合がOECD平均を下回る。〉(文飾は当方)としているのに対してスウェーデンの「いじめの被害経験」指標は「-0.11」で日本の約半分となっている。この非常に少ないということ自体がスウェーデンの子どもたちの多くが主体性や自立心(自律心)を獲得するに至っていることの反映と見なければならない。

 視察期間(2015年9月9日〜9月14日)の『スウェーデン王国視察報告書』(YEC(若者エンパワメント委員会))によると、〈スウェーデンでは60、000人の子供と園児がいじめを受けており、これは各クラスに 1、2人がいじめを受けていることになる。〉と伝えている。

 対して尾木直樹書籍『「脱いじめ」論』2013年2月出版近辺の文科省調査2012年度の小学校の
イジメ認知件数は11万7384件で、1000人当たりでは17.4件となっているが、上記報告書では1000人当たりは出ていないから、分からないが、園児を混じえていながら6万人というのは日本の小学校のイジメ認知件数を1件1人としたとしても、約2倍近くの多さになる。1件2人としてほぼ近似値を取ることになるが、園児を差し引くと、日本の方の多さは変わらない。

 上記「報告書」には主体性や自立性(あるいは自律性)重視が如何に生かされているかを伝えている箇所がある。文飾は当方。

 〈政治との近さである。スウェーデンの若者には政治家と触れ合う場が日本と比べて圧倒的に多い。大人だけでなく若者自身が政治家と対面する場を積極的に作り出している。そして、政治家の中にも「若者がこれからの社会で一番長く生きるのだから、若者の意見を聴くことは当然である」と考え、積極的に若者を意思決定の場に参加させている。日本では、若者は知識がなく、未来を担う存在として彼らが社会の決定に参画することは敬遠されがちである。スウェーデンではこういった考えがあるからこそ、19歳や20歳で議員になる若者が当たり前にいる。〉――

 スウェーデンの選挙権も被選挙権も共に18歳だと言う。18歳であったとしても政治を任せるに足る主体性や自立性(あるいは自律性)を背景とした自己決定意識や自己責任意識を備えていると見られているということであろう。

 何度でも取り上げているが、尾木直樹自身が、〈子どもの発達の視点から見ると自立できていない子、もっとやさしく平らな言い方をすると"自分を持てていない子"というのが、「いじめているときのいじめっ子」の非常に大きな特徴〉と解説していることの裏を返すと、イジメの抑止には子どもたちの自立心(自律心)の獲得如何にかかっていることになるにも関わらず、『学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像』は勿論、その他の解説でも、獲得如何にかかっていることを思いつかないままに、あるいは抜かしたままに『「脱いじめ」論』を得々と展開している。自立心(自律心)は主体性の獲得と共に育まれていく。

 また前のところで、傍観者の存在は主体性や自立性(自律性)の欠如と深く関わっていることをあとで述べると書いたが、イジメの目撃者が主体性や自立性(自律性)を行動様式としていたなら、イジメ加害者が怖い存在であったとしても、友人の何人かに働きかけて自分たちから多数派を形成してイジメを止めるか、教師に訴えるかしてイジメをやめさせる行動に出るだろうし、少なくとも自らをいつまでも傍観者の位置に沈めることは避けるはずで、こういったこともスウェーデンのイジメが少ないことの理由と見ることもできる。

 要するにスウェーデンの子ども問題専門家の言葉はスウェーデン子どもたちが主体性や自立心(自律心)、自己決定意識や自己責任意識等の態度・姿勢をそれ相応に備えていることに信頼を置いた、「子どもは、子ども問題のスペシャリスト」の位置づけであり、子どもたち自身の意見を聞くというシステムであって、そのことに一切気づかず、考えずにスウェーデンの子どもたちと日本の子どもたちを同列に置き、同じ役割を機械的に課して、そこにスウェーデンの子どもたちと同様の効果を期待する安易さは底の浅い解釈と発想に基づいているとしか言いようがなく、"どうしようもない単細胞"とする以外の評価は下しようがない。

八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(2)に続く
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八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(2)

2024-03-16 03:58:30 | 教育
 大体が日本の子どもを子ども問題のスペシャリストと位置づけることの効果を、「これは現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います」と最大限に持ち上げているが、尾木直樹がこれまでに解説してきたイジメ解決の困難性を忘却の彼方に放り投げて180度転換させた、無責任過ぎる期待感となる。この無責任は尾木直樹を信用できない人間という評価に変えうる。

 日本の子どもたちが主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等をそれ相応に備えないままに、あるいはこれらの資質を育むことを頭に置かないままに「いじめ対策委員会」を立ち上げようと、「いじめをしない、させない、見逃さない」の「三ない運動」を展開しようと、学校が用意したお仕着せをそのまま纏う
他力本願の取り組みとなる可能性が高く、他力本願が与えることになる従属的対応のままに推移する恐れが生じる。この恐れは、イジメが主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等の欠如に端を発していることと考え併せた場合、イジメ認知件数の変わらない推移か、逆に増加傾向という姿となって現れたとしても、止むを得ないことになる。いわばイジメ認知件数と主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等の資質の欠如の度合いはほぼ正比例の関係を取るということである。

 以上のことを頭に置いて、尾木直樹の以後の解説を眺めてみる。子どもたちが自らの課題としてイジメ問題に取り組んだとき、初めてイジメのない学級や学校の実現が可能となる。理由は学校の中にいじめがあることを一番よくわかっているのは子どもたちであることと、教師には発見できていなくても、子どもたちは身近にイジメがあることを知っているから…。

 子どもたちが自らの課題としてイジメ問題に取り組むには主体性や自立性(自律性)といった資質を積極的な行動要素としていなければならない。例え教師には発見できていなくて、子どもたちが身近にイジメがあることを知ることになったとしても、現実問題としてクラスの殆どを占める数で存在し続けているイジメ傍観者は教師より先に知るイジメの存在の把握を無効としている姿であって、同時に主体性や自立性(自律性)といった資質を行動要素として抱えていない姿を示していることになり、イジメ問題を自らの課題とさせることは難しく、学校側の指示に従う形の取り組みであった場合、言われたからするという積極性とは正反対の従属性や惰性に陥りやすく、その分、効果は減じることになり、尾木直樹のイジメのない学級や学校の実現が可能となるという約束は額面通りには受け取れなくなる。

 尾木直樹は引き続いて主体性や自立性(自律性)といった資質の必要性を頭に置くことができずに仲間の同調圧力(ピアプレッシャー)や自身が次はイジメのターゲットになる恐れや思春期のプライドからイジメを話したがらない傾向を考慮して、〈そこで仲間内の生徒会が「3ない運動」を立ち上げてくれたらどうでしょうか。〉と、主体性や自立性(自律性)といった資質を個々に育む方向には向かわずに、あろうことか逆の他力本願を勧めている。断るまでもなく、他力本願の姿勢・行動は主体性や自立性(自律性)といった資質を欠いていることから発する姿勢・行動である。

 だが、尾木直樹はこの他力本願のイジメ根絶の効果を高々と謳い上げている。

・スローガンとして打ち出されていれば、「ほら、3ないだよ。やめなよ」と言うことができる。
・「みんなで決めたこと」という錦の御旗があることで、全体の意志をバックに「3ないだから、いじめやめよう」と明るく堂々と言うことができる。
・元々どの子の中にも「いじめはよくない」、「人の心を傷つけることは恥ずかしい」という気持ちはあるのだが、一人声高に言い、前面に立つ勇気がなかなか持てないだけのこと。
・生徒会という子どもたちの自治の最高機関が「いじめない、させない、見逃さない」を謳い、校内のあちこちにスローガンを掲示してくれれば、俄然行動もしやすくなる。
・一人ひとりの心のうちにあった認識が、逆の同調圧力(ピアプレッシャー)として良い方向に作用し、周りにつられて「みんながいじめを追放したがっている。自分も行動していかなくては」と動き出す子も増えていく。
・それが全体の大きなうねりとなって行き渡れば、いじめの駆逐は夢ではない。――

 全てが自分から動くのではなく、他を頼り、他の動きを見て、自分が動く。周囲の形勢を見ることになり、形勢に応じて動くことになるから、例え「それが全体の大きなうねり」となったとしても、精々付和雷同を正体とすることになって、一時的か、その場限りか、その程度で、ホンモノのうねりとはなり得ない。主体性や自立性(自律性)の行動様式に従って自分たちから立ち上がるという形式を、それらを欠いているがゆえに取ることができないだろうからだ。 

 当然、「子どもの問題のスペシャリストは子ども」という発案も、「子どもが中心」という熱い期待も、綺麗事の幻想に過ぎないことを暴露することになる。

 〈子どもが中心にならない「いじめ対策」は、形式的、表面的にいじめがなくなったように見えても、いじめの根を残したままになってしまいます。根っこを埋もれさせたままにしないため、極論をいえば、私は「子ども問題のスペシャリスト」である子どもたちに任せてしまうのがよいと思います。〉――

 子どもが中心のイジメ対策はイジメの根を残さない、教師指導のイジメ対策はイジメの根を残したままになる。それ程にも子どもを万能な存在と見ることができるのは尾木直樹の教育者としての人徳の深さなのだろう。子どもと言えども、感情の生き物である。その上、イジメ加害者にしても主体性や自立性(自律性)といった資質が成長途上であった場合、あるいは未成熟な状態にあった場合、そのような状況に応じて感情のコントロールも未成熟な状態にあると見なければならないから、これらの事情が障害となってイジメ被害者側との関係修復に素直に割り切ることができなければ、否でも根を残すケースも出てくる。出てこないという保証はどこにもない。

 要するに尾木直樹がここで解説している、子ども中心であればイジメの根を残さない解決策が可能という見方はイジメ解決側の事情からのみ見ていて、イジメ加害者側の利害を抜きにしているからである。教師指導でのイジメ解決であろうと、子ども中心のイジメ解決が可能であったとしても、現実問題として解決後、暫くは監視を続けなければならない事情はイジメ加害者側が感情の生き物として悪感情を再発させる恐れや可能性を予測しているからだろう。尾木直樹は教師を何十年、教育評論家も何十年とやってきて、実際にはイジメの何たるかを何も弁えていない無知蒙昧の輩のようだ。だから、何の根拠もなしに子ども中心のイジメ解決は根を残さないなどいうデタラメを言うことができる。

 イジメを抑制していくためにも、イジメ傍観者を少なくしていくためにも、既に述べているようにどのような能力・才能に基づいた、どういった活動に自らの可能性を置いて学校生活で望ましい自己実現を見い出そうとしているのか、見い出しているのか、あるいは将来的な生活に向けてどういった活動で自らの可能性を試し、望ましい自己実現を見い出そうとしているのか、機会あるごとに問いかけて、それぞれの行動を自己省察させる"可能性教育"を行う。

 自己省察は自ずと他者省察に向い、自他の省察能力を育み、この自他省察の自分という人間を考えさせて、他人という人間を考えさせる働き合いによって、「こうあるべきだ」、「こうあるべきではない」と考えるようになり、そのように考える働きが自分の意志や判断に基づいていて自覚的に行動する態度や性格を指す主体性を育む方向に進むと同時に自分の考えで自ら行動するという点で意味の重なる自立心と自律心を併せ育んでいく。主体性や自立心(自律心)が社会的な規範との兼ね合いで正しいことか正しくないかを判断させて、自己の価値観を正しい方向に形作っていき、それが良心という形を取って、例え突発的な感情に流されてイジメてしまったとしても、その行為に負けてしまうことなく、身に付けた諸々の行動要素によって感情のコントロールが働くこととなり、自己抑制の理性が機能するという道筋を取り、自分からイジメを止めることになるだろう。

 一方でイジメを許していることになる傍観者となることは倫理的に許すことのできない自己の価値観(=良心)との間に心理的なねじりを生み、そのねじりに人間の自然な感情によって後ろ暗さを感じることとなり、その後ろ暗さを主体性や自立心(自律心)によって備えることになる自己責任意識から解消すべく、知恵を働かす。働かせなければ、主体性や自立心(自律心)を自らの資質としたこと、姿勢・行動とした意味を失う。

 イジメの抑止についても、イジメの傍観者を減らしていくためにも、児童・生徒に責任ある行動を取らせるためにも主体性や自立心(自律心)の育みに視点を置いた教育が必要だが、尾木直樹にはこの視点は一切なく、イジメを「本気でなくす」だ、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」だと、役に立たない綺麗事を撒き散らしている。

 当然、子どもたちを「子ども問題のスペシャリスト」との位置づけを行う場合にしても、その資格は主体性や自立性(自律性)、自己決定意識、自己責任意識等々の資質のそれ相応の体現者であることを頭に置かなければならないが、尾木直樹はこういったことにも頭を置くことができないのだから、尾木直樹の「いじめ対策」に於ける"子どもスペシャリスト論"は幻想そのものの砂上の楼閣に過ぎない。現実問題としても、イジメ傍観者内には"正義派"が3人はいて、その3人を中心にイジメ加害者に対抗する多数派を形勢、イジメ問題を解決すべきという発案自体が当方が指摘したとおりに矛盾に満ちている上に主体性等々の資質の育みの重要性を忘却しているのだから、子ども自身にイジメ問題に立ち向かわせることはイジメ加害者側の勢力次第という当てにならない成り行きを示すことになるだろう。

 尾木直樹の最後の纏め。〈大人が躍起になっていじめを封じ込めるのでなく、子どもたちの知恵と勇気と努力を信頼して、子どもたちが主役となり、自分たちの周りから「いじめ」を遠ざけていく方向にもっていくことだと思います。いじめ問題に関する教師や親の役割は、子どもたちが自発的に取り組んでいけるよう、パートナーとして支えていくことではないでしょうか。〉――

・子どもたちの知恵と勇気と努力を信頼する
・子どもたちが主役となり、自分たちの周りから「いじめ」を遠ざけていく
・いじめ問題に関する教師や親の役割は、子どもたちが自発的に取り組んでいけるよう、パートナーとして支えていくこと

 尾木直樹は「子どもたちが主役」を何度か取り上げている。子どもたちを信頼する思い遣り、理解する優しさに満ちた姿は見て取れる。これだけ信頼され、深く理解されたなら、信頼と理解に応えることになるだろう。既に触れていることだが、信頼と理解に応えるには子どもたちがそこに存在するだけで可能となるわけではないことは尾木直樹も認識していなければならないが、そこに存在するだけで可能となるような言い回ししか窺うことができない。

 子どもたちが主体性や自立性(自律性)を年齢相応に育むまでに至らずに自己決定意識や自己責任意識を欠いていたなら、このことはイジメを目の前にしてもクラスの殆がイジメの傍観者に成り下がることが証明していることで、このような状況下で子どもたちを主役に位置づけ、尾木直樹が信頼と理解を寄せて期待する役割を十分にこなすことは不可能なのは目に見えている。

 結局のところ、1997年のスウェーデンの教育視察は深く理解できずにその上っ面だけを参考にして、「子どもの問題のスペシャリストは子ども」だと自らの底の浅い解釈と発想を得意げに振り回したものの、役にも立たない見当違いを大真面目に演じているだけのことで、尾木直樹は教育評論家を名乗るピエロに過ぎない。だが、そのことに誰も気づかない。

 今回はここまで。

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