被災地の復興の姿を反映せずの復興五輪という名づけも、橋本聖子の五輪への集いが多様性と調和が実現した未来の姿だとする認識も危険な五輪賛歌

2021-07-26 10:20:12 | 政治
 オリンピック・パラリンピックと被災地復興 (東京2020オリンピック競技大会公式ウェブサイト/公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会) 

コンセプト:「つなげよう、スポーツの力で未来に」
スポーツには、「夢」、「希望」、「絆」を生み出す力があります。

2011年に発生した東日本大震災からの復興の過程においても、スポーツが子供たちを笑顔にする一助となってきました。

東京2020組織委員会は、世界最大のスポーツイベントであるオリンピック・パラリンピックを通じて、被災地の方々に寄り添いながら被災地の魅力をともに世界に向けて発信し、また、スポーツが人々に与える勇気や力をレガシーとして被災地に残し、未来につなげることを目指します。

また、東京2020大会が復興の後押しとなるよう、関係機関と連携して取組を進めながら、スポーツの力で被災地の方々の「心の復興」にも貢献できるようにアクションを展開します。



 東京2020大会はかくこのように被災地復興に積極的に関わることを大きな目標としている。勿論、その復興たるやスポーツを通した精神面からの関与ということになる。政治も精神面からの復興への関与を推し進めてきた。東日本大震災発災3年後の記者会見で安倍晋三は「これからは、ハード面の復興のみならず、心の復興に一層力を入れていきます」と発言している。

 「心の復興に一層力を入れていきます」の物言いはこれまでも「心の復興」に力を入れてきたが、今後は今まで以上に力を入れていくという意味を取る。本来なら少なくともハード面の復興と心の復興を同時進行させなければならないのだが、心の復興よりもハード面の復興を先行させてきた。

 2020年9月25日の「復興推進会議」で菅義偉は「来年3月で、東日本大震災の発災から10年の節目を迎えます。これまでの取組により、復興は着実に進展している、その一方で、被災者の心のケアなどの問題も残されております。そして福島は、本格的な復興・再生が始まったところであります」と発言。この「心のケアなどの問題」とは、勿論、安倍晋三が言っているところの「心の復興」に当たる。

 そしてこの半年後の2021年3月11日の「東日本大震災十周年追悼式」で菅義偉は[被災地では、被災者の心のケア等の課題が残っていることに加え、一昨年の台風19号、昨年来の新型コロナ感染症に続き、先般も大きな地震が発生するなど、様々な御苦労に見舞われています。特に、新型コロナ感染症により、地域の皆様の暮らしや産業・生業(なりわい)にも多大な影響が及んでいます」と発言、依然として「心のケアの問題」=「心の復興」が依然として課題として取り残されていることを告白している。本人としたら、告白などしていないと言うだろうが、告白そのものである。

 そして東京2020大会でも競技を通して「東京2020大会が復興の後押しとなるよう」、と同時に「心の復興に貢献できるアクション」の展開を図っている。言って見れば、政治の力だけでは「心の復興」は成し遂げることができずにいた。当然、問題は大会競技を通して果たして「心の復興」の面で「復興の後押し」に貢献できるのかできないのかということになる。できなければ、看板倒れ、見せかけ倒れということになる。

 なぜかくまでも政府にしても大会組織委員会にしても、発災から10年経っても、「心の復興」を全面に出さなければならないのか。勿論、「心の復興」が遅れているからなのだが、その本質的な原因は「ハード面の復興」自体に格差が生じているからである。「ハード面の復興」が被災者各人の生活の復興となって現れていたなら、つまり格差を免れることができていたなら、被災者は自ずと「心の復興」をも果たしていく。その逆の被災者が多い。つまり「ハード面の復興」の格差がそのまま「心の復興」の格差となっている。

 だが、どちらの格差であっても、政府自らがそのことを口にすることができないから、格差是性の言い換えとなる「心の復興」を叫ばなければならなくなり、政府は東京2020大会にコンセプトの一つとして「被災地の復興」を掲げることになった。このコンセプトに従って大会組織委員会は「ハード面の復興」は政治の役目だから、「心の復興」のみを取り上げて、競技を通した「心の復興に貢献できるアクション」を掲げざるを得なくなったといったところなのだろう。
 復興に格差が生じていることは、「2021年2月27日実施 東日本大震災10年・被災3県世論調査」(社会調査研究センター/2021.3.3)を見れば一目瞭然である。(一部抜粋)

 「復興は順調に進んでいる」と「期待したより遅れている」は宮城県では半々で、岩手県では「期待したより遅れている」が「復興は順調に進んでいる」の1.7倍、福島県では1.8倍で、「期待したより遅れている」が半数か、半数以上を占めていて、復興の格差そのものを示すことになっている。格差が生じていなければ、「期待したより遅れている」は0に近い少数派となっていなければならない。「政府の予算の使い方」に対する評価も被災3県共に「適切だと思わない」が「適切だと思う」の1.6倍から1.7倍となっていて、格差が生じていること自体を示している。

 このように復興に大きな格差が生じている状況下で東京2020大会がオリンピック・パラリンピックを通して「心の復興」に、いわば精神面で復興の格差を補う貢献を果たすについてのどのような具体的な手立てを念頭に置いているのかを見てみる。

 先ず大会組織委員会が「東京2020オリンピック競技大会公式ウェブサイト」に挙げた復興に関わる目標を纏めてみる。

1 オリンピック・パラリンピックを通じて被災地の魅力をともに世界に向けて発信する。
2 スポーツが人々に与える勇気や力をレガシーとして被災地に残し、未来につなげることを目指す。
3 スポーツの力で被災地の方々の「心の復興」に貢献できるアクションを展開する。

 以上を以って東京2020大会を復興の後押しとして活用する。

 どのような具体的な手立てを考えているのか、2021年7月21日付「NHK NEWS WEB」記事から大会組織委員会会長橋本聖子の東京江東区メインプレスセンターでの記者会見の発言を覗いてみる。メインプレスセンターのサイトを覗いてみたが、誰の記者会見も載せてなかった。

 橋本聖子「大人以上に感性がある子どもたちの将来の考え方の形成にとって重要だと思っているので、少しでも多くの人たちに見ていただきたかったという思いが正直ある。

 新型コロナウイルスの対策に追われたこの1年も、東北の復興なくして大会の成功なしという思いで活動してきた。東北で最初の試合が行われた東京大会が“復興オリンピックだった”とのちのち思ってもらえるように組織委員会として努力してきたい」

 言っていることが矛盾している。大会の成功は東北の復興があって初めて成し遂げることができるという思いで活動してきたという意味を取るが、現実には東北の復興は十分には成し遂げられていない。菅義偉も「東日本大震災十周年追悼式」で、「震災から10年が経ち、被災地の復興は着実に進展しております」
と言い、「復興の総仕上げの段階に入っています」との表現で復興が未完成であることを伝えている。その上、復興に格差が生じている。当然、このような不満足な復興状況では橋本聖子の発言からすると、大会は成功しないことになるが、東北が復興しようがしまいが、東京大会は粛々と進められていく。現実にも既に進められている。要するに「思いで活動してきた」という「思い」が鍵となる。「思い」なのだから、結果的に現実が伴わなくても止むを得ないと逃げることができる。

 「東北の復興なくして大会の成功なしという思いで活動してきた」がいくら「思い」に過ぎなくても、現実を少しも反映していないのだから、危険な綺麗事に過ぎない。

 大体が「復興オリンピック」と掲げること自体が僭越である。政治が満足な復興を成し遂げることができていないのに東京大会がどう成し遂げることができると言えるのだろう。だから、「思い」なのだと言い逃れるだろうが、論理的に合わないことを「思い」に過ぎなくても、口にするだけで危険なペテンとなる。
 
 橋本聖子は無観客となったことについての残念な思いを特に子どもたちから観戦の機会を奪ったことに置いている。オリンピック観戦が「大人以上に感性がある子どもたちの将来の考え方の形成にとって重要」だとしている。確かにテレビ観戦するのと競技場で直に観戦するのとでは肌感覚として伝わってくる感動や臨場感に大違いがあるだろうし、これらが違えば、記憶の強弱や記憶の時間の長さも違いが出てくる。被災地で行われる宮城の女子サッカーは有観客で、福島のソフトボールと野球は無観客と決まっている。政府が五輪開催に向けて感染を極力抑えることができなかったツケなのだから、悔やむなら、政府の無策を悔やむべきだろう。

 記事は橋本聖子が、〈この中で大会の理念である復興について、選手村で提供される料理に東北の食材が使われていることや、表彰式では被災地で育てた花を使ったブーケを贈ることなどを紹介しました。〉と解説しているが、これらのことで「オリンピック・パラリンピックを通じて被災地の魅力をともに世界に向けて発信する」一助とするということなのだろうが、オリンピック・パラリンピックという世界の一大イベントが持つスケールから見たら、チマチマし過ぎている。これらのことをしただけで、特に風評被害を未だ受けている福島の農水産物全体の売れ行きに良い影響を与えるだけの力を発揮できるのかは疑わしい。

 また、被災地の全ての競技を有観客で行い、被災地の観客が勇気や力を与えられたとしても、レガシーとなるのは被災地のどこそこの競技場でどんな競技が行われた、競技者の成績、金メダルを取った、銀メダル取った、銅メダルで終えたといった業績であって、被災者自身が置かれている「ハード面の復興」に於いて生じている格差のうち、復興が進んでいる境遇に置かれているならまだしも、遅れている境遇に位置させられているとしたら、その遅れがそのまま「心の復興」の遅れとなって現れていることになり、競技によって与えられたレガシー、競技の業績に対する記憶など、一時的なものとなって、腹の足しにならないものとして打ち捨てられかねない。

 要するに「ハード面の復興」の進展に応じて「心の復興」が進展している境遇に恵まれた被災者にとってはレガシーも業績も精神面の支えとなって役に立つかも知れないが、「ハード面の復興」の停滞がそのまま「心の復興」の停滞となって現れている境遇に置かれた被災者にとっては少しぐらいのレガシーにしても業績にしても精神面の足しにはならないのは目に見えている。スポーツの力を用いて「心の復興」に貢献すべくどのようなアクションを実践しようとも、そのアクション自体が「ハード面の復興」の格差に対しても、「心の復興」の格差に対しても無力だということである。

 大体が政治自体が無力で、10年経過しても無力を引きずったままでいるのだから、いくらオリンピック・パラリンピックが世界の一大イベントだろうと、「復興」ということに関しては政治以上に無力なのは自然の成り行きというものであって、どれ程の復興の後押しができるというのだろう。

 それでも「ハード面の復興」の格差に対応して現れている「心の復興」の格差をスポーツの持つ力を用いた何らかのアクションで埋めたいと願うなら、橋本聖子自身が「大人以上に感性がある子どもたちの将来の考え方の形成にとって重要だ」としている子どもたちのスポーツ観戦を、「ハード面の復興」の格差に対しても、「心の復興」の格差に対しても大人程には切実に受け止めるだけの生活の世界が広くない点を利用して観戦のみで終わらせずに被災地の子どもたちに限ってオリンピック・パラリンピックの競技が行われる被災地の競技場で五輪競技の一種目を行わせ、逆に被災地の大人たちに直接観戦であっても、テレビ観戦であっても、観戦させたなら、「ハード面の復興」の格差も、「心の復興」の格差も解消できなくても、子どもたちの活躍や成績が被災地の一つのレガシーとして子ども自身の記憶だけではなく、大人たちの記憶に残ることになったなら、格差を癒やす妙薬となる可能性は否定できない。

 被災地の子どもたちがオリンピック競技場で何かの競技をプレーすることで将来的にオリンピックアスリートを目指すことになる可能性も否定できない。その子どもの親が自分ではなくても、被災地の子どもであることによって被災地の大人たちの誇りの一つとなったなら、「心の復興」の格差を癒やす役目をも果たす可能性も否定できない。

 だが、被災者の子どもを主役に立てることは何一つしなかったし、子どもが脚光を浴びることによって被災者の大人たちに何らかの勇気や元気を与えるということもしなかった。もしこのようなことをしていたなら、「復興五輪」と名付ける資格は出てくる。

 勿論、政治は「ハード面の復興」の格差を解消して、その解消を「心の復興」の格差の解消に繋げていく努力を果たしていかなければならない。この役目を担っているのはあくまでも政治であって、東京大会が担っているわけではない。だからこそ、「復興オリンピック」と掲げること自体が僭越そのものとなる。

 今東京大会は「閉会式コンセプト」(ガジェット通信)として「多様性と包摂性」を謳っている。(一部抜粋)

 〈“Worlds we share”

 17日間の大会を経て、私たちはそれぞれに違う個性や文化、経歴を持つ人々が、スポーツを通して互いに高め合い、理解し合う姿を目にするでしょう。この経験こそが多様性と包摂性を考える糧となり、また、次に始まるパラリンピックへと繋がっていくと考えます。〉

 「多様性」とは人種や性別の違い、身体状況の違い、年齢の違い等々の違いそれぞれを多様な個性と見ることを言い、「包摂性」はこれらの違いを全て包み込むことを言うと自己解釈している。そしてどちらの状況も、認め合いの意思の介在によって成り立つ構造となっている。

 確かに競技を見ると、「多様性と包摂性」を窺うことができる。スポーツマンシップやフェアプレーの精神がそうさせるのだろう。だが、オリンピック競技ではないが、現実には白人アスリートが競技中に相手チームの有色人選手に対して差別発言を投げつける行為はなくならないし、日本人サッカー・サポーターがプレー中の有色人種に対して差別発言を浴びせる光景もなくならない。

 このような差別発言は自チームが負けている、贔屓チームが負けている、相手チームの点を入れたのが有色人種であるといったことに対する怒りや憎悪が理性を失わせて発せられる。日本の柔道指導者が女子柔道選手たちにパワハラ行為を行ったのも、思い通りの成績や成長を見せていないことに対する怒りや憎悪が仕向けることになった感情の爆発であろう。戦争に於ける残虐行為も怒りや憎悪が理性を奪うことによって形を取る。スポーツの世界のことだけで片付けるわけにはいかない。

 つまり「多様性と包摂性」はオリンピックという場にのみ存在するものであっては意味はなく、一般社会に於いて「多様性と包摂性」が当たり前の態度となっていて、その反映としてあるオリンピックという場での「多様性と包摂性」でなければ意味をなさない。果たして一般社会がおしなべて「多様性と包摂性」を当たり前の態度としているのだろうか。当たり前の態度としていたなら、LGBTの問題は起きないし、女性差別の問題も起きない。子どもに対する虐待も、女性に対する暴力も起きない。

 “Worlds we share”とは「多様な世界の共有」を意味するそうだが、要するにオリンピックという場だけの、それも表面的なことに過ぎないかもしれない「多様な世界の共有」ということで、現実離れした「多様な世界の共有」に過ぎないことになる。

 オリンピック開会式で橋本聖子がバッハと共に「スピーチ」(NHK NEWS WEB/2021年7月20日 19時22分)を行った。(一部抜粋)

 橋本聖子「今、あれから10年が経ち、私たちは、復興しつつある日本の姿を、ここにお見せすることができます。改めて、全ての方々に感謝申し上げます。

あの時、社会においてスポーツとアスリートがいかに役割を果たすことができるかが問われました。そして、こんにち、世界中が困難に直面する中、再びスポーツの力、オリンピックの持つ意義が問われています。

 世界の皆さん、日本の皆さん、世界中からアスリートが、五輪の旗の元に、オリンピックスタジアムに集いました。互いを認め、尊重し合い、ひとつになったこの景色は、多様性と調和が実現した未来の姿そのものです。

 これこそが、スポーツが果たす力であり、オリンピックの持つ価値と本質であります。そしてこの景色は、平和を希求する私たちの理想の姿でもあります」

 江東区メインプレスセンターでの記者会見では「東北の復興なくして大会の成功なしという思いで活動してきた」と言っていながら、ここでは「私たちは、復興しつつある日本の姿を、ここにお見せすることができます」に変わっている。前者は復興完了を前提とした大会開催を言い、後者は復興途次の状態での開催だとしている。一種のペテンでしかない。

 後段で言っていることは当方が解説するまでもなく、五輪への集いが生み出す「スポーツが果たす力」によって「互いを認め、尊重し合い、ひとつになったこの景色は、多様性と調和が実現した未来の姿そのもの」だという意味を取る。つまり世界の未来は五輪への集いを通した「スポーツが果たす力」と「オリンピックの持つ価値と本質」によって「多様性と調和」の実現が約束されると高らかに謳っていることになる。

 東京大会2020がオリンピックの出発点ではない。「Wikipedia」にオリンピック憲章は1914年に起草され、1925年に制定されたとある。100年近い歴史を誇っていることになる。現実世界を見回したとき、「オリンピックの持つ価値と本質」と「スポーツが果たす力」によって「互いを認め、尊重し合い、ひとつ」となる「多様性と調和」がどれ程に実現し得たと断言できるだろうか。社会の力が政治を動かしつつ、未完ながら、「多様性と調和」の実現を少しづつ闘い取ってきたのではないだろうか。だが、まだまだ闘い取れきれていない。決してオリンピックではない。パラリンピックが回を重ねるだけで、障害者が生きやすい社会が実現することはないだろう。子どもが通学路で自動車事故に遭い、死者が出てから通学路の安全が図られていくように障害者が電車のプラットホームから誤って落ちる事故が頻繁に起きるようになってから、ホームドアの設置が始まった。このような現実はオリンピックから遠い位置にある。

 当然、「オリンピックの持つ価値と本質」と「スポーツが果たす力」が未来社会で「多様性と調和」を実現させ得る保証はどこにもない。戦争や不景気が生み出す生活困窮が人間を不寛容な生き物に変え、それまで築いてきた「多様性と調和」をたちまち後退させてしまうこともある。

 橋本聖子のオリンピックに関する発言・認識は現実世界を反映していない綺麗事に過ぎない。物事を相対化できずにオリンピックを絶対善と取る橋本聖子の認識は危険な五輪賛歌以外の何ものでもない。今回のオリンピックを復興五輪と取る考え方にも五輪を至上価値とする五輪賛歌が覗いている。
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相変わらず学習しない、相変わらず非効率な同じ繰り返しの自然災害時の救出・捜索活動

2021-07-19 11:01:06 | 政治
 梅雨前線に伴う7月1日からの大雨は各地に土砂災害をもたらし、7月3日午前10時30分頃、静岡県熱海市伊豆山地区逢初川中流部山腹を起点に土石流が発生、土石流は山中の谷に沿って1キロメートル下り、傾斜地の伊豆山地市街地に襲いかかって、住宅を押し流し、家々を破壊し、さらに東海道新幹線と東海道本線の高架下を潜り、海にまで達したという。流速は時速約40キロに達したと報道されている。

 土石流の発生要因は降雨であるが、逢初川上流部山腹の盛土が長雨を受けて崩落、約5万立方メートルの盛土が土石流となったと推定されている。10トンダンプの平均積載量が6立方メートル前後ということだから、約8333台分の土石となる。この約8333台分が盛土崩落地点から下流に約500メートル程の場所にあった高さ10メートル(ビル3階建に相当する)、長さ43メートルの砂防堰堤を乗り越え、逢初川沿いに流れ下って市街地を襲った。砂防堰堤上流側に約7500立方メートルの土砂がたまっていたと報道されているが、堰堤に貯まった岩、土砂や流木は次の土石流に備えて取り除くことになっているということだが、今年の梅雨前に万が一の大雨に対する危機管理として堰堤内の土砂等を取り除いていたとしたら、約7500立方メートルの土砂はほぼ盛土の一部と推定できて、その量の土砂を堰堤内にとどめたと計算可能となるだけではなく、約5万立方メートル+約7500立方メートル=5万7500立方メートルの土砂が崩落したことになる。

 逆にもし取り除いていなかったとしたら、既に土砂が内側に埋まっていた堰堤は最初からスキージャンプ競技で言うところのジャンプ台の助走と踏切台の役目を果たして、土石流の時速、いわば勢いを早めたと想定することもできる。堰堤はその内側に土石が溜まっていないことによって土石流に対して最大限の力を発揮するのだから、大雨に備えて土石を取り除いていなかったのか、いたのかも検証しなければならない。

 土石流によって120棟あまりの住宅が被害を受け、合計7人の死亡が確認された。安否不明者は当初113人としていたが、215人記載の住民基本台帳上と避難所の名簿を照合、64人へと変更、市内の他の場所、市外・県外の家族のところ、あるいは旅行といった形で移動しているケース、別荘を所有する県外居住者が多いことから、被害に巻き込まれたケースを考慮して、64人の氏名を公表、安否情報を求めることになった。

 氏名公表後、7月7日の時点で県と市は安否不明者を27人に絞ったが、他にも安否不明の通報が警察に6人あり、確認作業が進められることになった。そして安否確認作業と捜索活動の結果、7月17日時点で13人が遺体となって発見され、安否不明として15人が残された。

 人間が飲まず食わずで生き延びることができる生死を分けるタイムリミットが3日間、72時間とされていて、72時間以降、生存率が下がるとされているが、一般的な自然災害の場合であって、建物を破壊する衝撃力を持った土石流に建物ごと飲み込まれた場合、酷な話だが、水や泥濘が破壊された建物内の隙間全てを埋め尽くすして空気をシャットアウトする(空気を閉め出してしまう)確率が高く、先ず数十分のうちに窒息死してしまうことになり、救助活動はその数十分内に行われなければ、生存は難しく、その数十分以降は救出活動ではなく、遺体の捜索活動となるはずである。

 地震で建物が破壊された場合でも、津波に襲われなければ、水が破壊された建物内の隙間全てを埋め尽くして空気をシャットアウトする(閉め出してしまう)ということは殆どなく、身体自体が倒れてきた柱や落ちてきた天井によって受ける何らかの衝撃を避け得て、壊れた家具や折れた柱が支えとなって少々の空間に恵まれた場合、少なくとも72時間か、体力があれば、それ以上は持ちこたえる可能性は出てくる。

 東日本大震災の地震で家が倒壊した2階に閉じ込められ、その後津波に襲われて、水位が倒壊した2階にまで到達、水位の上昇は収まらず、天井近くにまで達したが、天井との間に10センチだか、20センチだかの隙間を残して水位が止まり、その隙間に顔を突き出して呼吸して生命を維持、後に救出された事例が確かあったと思う。

 大きな怪我をしていなくて、空気さえ確保できる状況なら、大体は72時間の生存は可能で、その間の救助活動がその後の生存を左右することになるが、こういった幸運は津波や土石流に襲われた場合は皆無に近い。救援隊は救助活動ではなく、遺体捜索となると分かっていても、被災者に1日も早い日常を取り戻して貰うために一刻も早い遺体発見が求められることになる。

 当然、残る安否不明者15人は遺体の捜索活動の対象となる。7月17日時点までの13人の遺体発見に約2週間かかったことになるが、警察や消防、自衛隊が1000人体制で捜索に当たったものの、全てスコップ等を使った手作業で行わなければならなかったからである。勿論、大量の土砂が障害となって重機を現場に持ち込むことができなかったから、止むを得ず効率の悪い手作業となった。土石流の最も被害が大きかった熱海市伊豆山地区に中型・小型の重機が投入されたのは7月16日となっている。7月3日土石流発生から13日目である。重機投入によって遺体の捜索活動は捗ることになる。

 だが、土砂災害や地震や津波、大雨・洪水等々によって唯一の交通路だった道路が寸断された、崖崩れて道路が塞がった、橋が落ちたといった理由で重機の搬入ができず、手作業での非効率な救出・捜索活動を強いられ、重機搬入までに多大な時間を取られる同じケースが繰り返されている。遺体捜索活動となりがちな土石災害や津波被害だけではなく、津波を伴わない地震による、生存の可能性は決して否定できない建物倒壊被害であっても、重機が入れずに手作業を強いられ、72時間を費やしてしまう同じ繰り返しが延々と続けられている。非効率な手作業によって救える命が救えなかったケースが存在しなかっただろうかといったことは考えないのだろうか。

 但し過去に道路が寸断されて、重機が搬入できず、手作業で捜索活動を強いられていたが、道路復旧前に重機を搬入した例がある。2008年6月14日午前8時43分発生のマグニチュウード7以上の岩手・宮城内陸地震の際、宮城県栗原市を流れる北上川水系迫川(はさまがわ)の支流三迫川(さんはさまがわ)上流の東栗駒山の斜面を崩壊源とした大規模な土石流が発生、栗駒山側の中腹にある「駒の湯温泉」を直撃、建物を倒壊し、1階部分が泥流に埋没、宿の住人と宿泊客7人が行方不明となり、後に5人が遺体で発見され、残る2人の捜索に手間取った。手間取った理由は例のごとく道路が寸断されたために重機が搬入不可能だったことと、寸断された道路が復旧して例え搬入できたとしても現場付近が大量の土砂と川水でぬかるみ、重機が使えなかったからだという。

 足場が大量の土砂と川水でぬかるんでいたとしても、元々の地面は固い土で覆われていたはずで、重機さえ搬入できれば、重機のマフラーは一般的にはバケットで容量以上の土を掬い取っても、前に突んのめらないように車体尻部分にカウンタウェイト(重り)を取り付けていて、カウンタウェイトの運転席側がエンジン部であって、そのエンジン部の後尾に垂直に取り付け、口を斜め上に向けている。あるいは運転席とエンジン部が一体となって回転するエンジン部の下側、キャタピラの上部に取り付けてある。どちらであっても、運転席に水が入らず、キャタピラが8分目程度が水に埋まっても、マフラーに水が入る心配はない(カウンタウェイトの上部に取り付けてあるのが最適であるが)。例え水深が目視できない状態で急に深くなっている場所があったとしても、アームを前に降ろして、バケットで水深を測りながら前進することができ、水深の程度で作業ができるかどうかは判断できる。

 要するに川水でぬかるんでいたとしても、水深が作業の可否を決める。キャタピラの上部まで水が達して、作業できない水深なら、近くの山肌の土を削って、それを埋めて足場を作る方法を取る。重機なら、簡単にできる。

 政府は地震発生の6月14日から12日後の6月26に陸上自衛隊の大型ヘリで吊り下げて中型ショベルカー(重さ4・4トン)を搬入している。重機搬入を阻んでいたという「道路寸断」を一気にクリアしてしまった。結果、道路が寸断され、重機搬入ができず、手作業での捜索活動で安否不明者の所在発見に手間取ることになったという経緯は時間と手間をムダに費やしたという結末を迎えたことになる。

 この岩手・宮城内陸地震が発生した2008年6月14日から約1カ月遡る2008年5月12日午後のマグニチュード7.9~8.0、死者7万人近くの中国中西部の四川省で発生した四川省大地震では中国政府は大型のヘリコプターMi-26 型(最大吊り下げ重量20t、世界最大)2台を用いて大型重機を運搬している。

 このMi-26はソ連製で、中国が買い取ったのか、中国でライセンス生産したのか、いずれかであろう。

 日本で自然災害現場に自衛隊の大型ヘリでの重機搬入例は後にも先にもこの一件で、再び自然災害が起きるたびに道路寸断等の理由で重機搬入ができず、手作業での捜索活動で行方不明者の所在発見に手間取ることになった、あるいは難航しているという光景が再び繰り返されることになった。今回の熱海市伊豆山地区土石流災害でも同じである。多くの報道で「手作業」という文字を散見することになった。泥と苦闘し、捜索活動が難航している云々と。

 勿論、手作業であっても、安否不明者の遺体発見はできる。重機で行うよりも時間と手間がかかるだけのことでしかないのかもしれない。あるいは土石流災害の場合は短時間で生存可能性はゼロに近づくから、72時間の壁は意味を持たない制約でしかなく、単純に遺体捜索と認識しているから、重機の搬入は通路の確保後だと、従来どおりの発想で割り切っているのかもしれない。だが、手作業が長くなればなる程、つまり重機の搬入が遅くなればなる程、遺体捜索の次の段階の瓦礫撤去完了が遅くなり、遅くなれば、街の原状回復が先送りされることになって、生存被災者の日常生活への戻りが順送りされる可能性が生じる。

 但し国家の大事を預かる国側としたら、数百人の住民の日常生活への回復が少しぐらい遅れても大したことはないと考えているのかもしれない。考えていないとしたら、自然災害発生のたびに初期的には手作業という人力に頼る光景が繰り返されることを当たり前の光景としていることから少しぐらいの工夫はあっていいはずである。

 例えば画像で載せておくが、この自走式除雪機は歩きながら作業する器械で、バッケとを持ち上げることができないが、3馬力の力があるから、雪を押し寄せる代わりに土砂や残材を寄せ集めたりすることができる。1馬力とは「75kgの重量の物体を1秒間に1m動かす(持ち上げる)力」のことで、「コトバンク」に「成人で短時間なら0.5馬力程度、連続では0.1馬力程度である」と出ているから、3馬力となると、スコップを動かして土石を取り除くよりも遥かに仕事量も仕事のスピードも早いことになる。

 使い方は雪かきとほぼ同じで、瓦礫の山の端に機械を斜めに据えて、瓦礫の山を斜めから少しずつ削っていく形で取り除いていく。雪かきと異なる点は一人が瓦礫が取り除かれていくときに瓦礫の中に万が一埋まっていた遺体を発見した際はバケットで傷つけないように監視役を務めることである。この監視役は重機を使うときも同じように務めるはずである。衣服の端らしき物を見つけたら、重機をストップさせて、手作業で周囲の土砂・残材を慎重に取り除き、遺体かどうかを確かめる。

 この除雪機は本体乾燥質量が71kgだから、4人が天秤棒でロープに釣るせば、1人当て18kg程度の重量だから、少しぐらい足場が悪くても必要現場に持ち込むことができる。
 
 除雪機では力不足なら、2020年7月の当ブログに使用したものだが、動画で紹介している除雪にも使用する日立歩行型ミニローダーML30-2は7馬力で、スコップ使用とは比較にならない大量の仕事をするが、バケットを最大限に持ち上げ、ダンプ姿勢を取ったときの地上よりバケット刃先までの高さを表す「ダンピングクリアランス」が1350ミリ。2トンダンプの床面地上高が940ミリ、軽ダンプの床面地上高が710ミリだから、両ダンプに積み込む作業ができる。この機体質量は335kgだから、道路寸断状態であっても、一般的な重機に先んじて災害現場にヘリコプターで吊り下げて、簡単に持ち込むことができる。

 軽ダンプは車両総重量が1430kg前後だから、これもヘリで持ち運び可能で、本格的な重機が入るまで土石を邪魔にならない場所にできるだけ集めておけば、重機が入ってからの片付けの期間短縮を図ることができる。

 道路が寸断されたからとスコップを主として使う手作業で安否不明者の捜索も瓦礫の片付けも時間をかける、相変わらず何も学習しない非効率な同じ繰り返しをするのではなく、街の可能な限りの早期の原状回復に務めて、生存被災者の日常生活の確立に手助けすることが国や自治体の役目であるはずである。だが、そうはなっていない。何も学習しない、非効率な同じ繰り返しが続いている。

 菅義偉は2021年7月12日に被災地熱海市伊豆山地区を視察し、現地で会見を行っている。一部抜粋。

 菅義偉「今日、災害現場を訪れました。大量の砂にうずもれた家屋だとか道路、2メートルを超えるそうした残土をかき分けながら人命救助のために取り組んでおられる皆さんから、お話も伺いました。大変厳しい中で、こうした行方不明の方の捜索をされている皆さん、正に警察、消防、海上保安庁、自衛隊の皆さんに心から感謝申し上げたい、そのような思いであります。

  ・・・・・・・・・・・・・・・

 皆さんが前を向いて生活することができるように、被災者生活・生業(なりわい)再建チームで、国の中で、そこはしっかり受け止めて、連携をしながら前に進めていきたいと思っています。それと同時に今お話がありました大規模被害、これは毎年続いています、線状降水帯、そういう中でその発生を予測するための資機材だとか、あるいは開発、これは思い切って前倒しで進めたいと思っています。こうした中で、大規模の災害対策というものをしっかりと進めていきたいと思います」

 警察、消防、海上保安庁、自衛隊の各メンバーの労苦に感謝申し上げる前に労苦を少しでも軽くすることを考えるべきだろう。前と変わらない同じ状況で繰り返す労苦を軽くする方策を考えもせずに言葉だけの感謝で済ます同じ繰り返しを見せるだけなのは芸がなさ過ぎる。

 「皆さんが前を向いて生活することができるように、被災者生活・生業(なりわい)再建チームで、国の中で、そこはしっかり受け止めて、連携をしながら前に進めていきたい」

 前を向いて生活することができる気分になるには少なくとも街が原状回復に向けてスタートを切り、それをキッカケに生存被災者たちが日常生活の遣り直しに向けて気持ちを新たにすることができてからであろう。安否不明者の捜索に手間取り、最も被害が大きかった熱海市伊豆山地区に重機が本格的に作業を開始したのは7月16日からで、作業開始4日前の、いつ重機が入るのかも分からない、原状回復どころではない、いわば被災者に対して前を向いて生活できる状況を与えることができていないままの7月12日に前を向いた生活の話をする。要するに被災者を真に思い遣った発言ではなく、自然災害時に決められた政府の手順を自らの責任として一つ一つ消化していくための発言だったのだろう

 街の原状回復と生存被災者たちの日常生活の遣り直しを早めるにはが安否不明者の捜索と瓦礫撤去を早めなければならない。当然、道路寸断等の理由で災害現場に重機搬入ができない状況下では、効率の悪い手作業での捜索活動や瓦礫撤去を効率が悪いままに繰り返すのではなく、効率よくする方策が必要になる。その効率化が被災者をして前を向いて生活する意欲・気力を早めに充実させる機会となり得る。
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菅義偉のメリハリのないコロナ対策が人流抑制の動機づけを失わせ、東京大会開催中の首都圏緊急事態宣言発出と無観客を招いた

2021-07-12 11:22:58 | 政治
 大相撲の正代を見ると日本の首相菅義偉を思い出す。菅義偉を見ると、なぜか正代の顔が思い浮かぶ。両者共に覇気のない顔をしている。

 これまでブログで東京大会は無観客にすべきだと何度か書いてきた。理由は菅義偉が東京大会という一大イベントを取り巻く一般社会のコロナ感染対策と対策を受けた国民の安心・安全と同時並行させて東京大会という一大イベントのコロナ感染対策と対策を受けた選手や関係者の安心・安全を策すのではなく、一般社会と切り離して東京大会だけのコロナ対策の安心・安全を優先させているからである。この思考は東京大会が無事済めばいいという自己中心主義で成り立たせている。特に殆どの競技会場を占めている東京都のコロナの感染状況と医療体制の改善を徹底的に図った上で東京大会を感染対策と共に開催していたなら、開催反対の声や無観客とすべきという声はこれ程までに大きくはならなかったろう。

 東京都のコロナの感染状況を徹底的に改善できれば、地方都市はこの改善に準じる傾向にあるから、全国的に改善することになり、東京大会の開催を受けた人流の増加による感染リスク自体、低く抑えることができることになる。だが、菅義偉は競技場に観客を入れたとしても、プロ野球やサッカーが緊急事態宣言下で観客を入れて試合を行っていても、「感染拡大防止をしっかり措置した上で行っている」という事実を以って、つまり感染が起きていないから、東京大会も同じように対応できると自信の程を見せていたが、野球場でも、サッカー場でも、東京大会のどのような競技場でも同じだが、社会的ディスタンスを維持できる範囲で入場制限を行いさえすれば、人と人の間隔を固定化できる。観客席に入ってから自分の席に行くまでに他者と近接することはあるが、知り合いでなければ先ず言葉を交わすことはないから、席に着けば、相互に距離を取ることになって、感染リスクは低く抑えていることが可能となる。つまり競技場内での感染リスクが高いから、無観客にすべきだと専門家にしても、誰にしても要求しているわけではない。

 但し観客が競技終了後に距離を取って出口まで進むことになるだろうが、競技場外の街中に出た途端、観客以外の街中の人とも交差することになって、競技場内での人と人の間隔の固定化はたちまち崩れることになる。マスクをしていても、友達同士がお喋りしながら歩行し、そこに他者が近接した場合、会話で生じる飛沫がマスクから漏れて他者にかからない保証はなく、その確率が高ければ、それだけ感染リスクは高くなる。専門家が有観客にすることによる人流の増加を感染リスク要因とする理由がここにある。だが、菅義偉は東京大会開催だけを考えて、このことを理解する頭を持たなかった。

<「緊急事態宣言」から日を置かずに「まん延防止等重点措置」に移行した東京都は感染がここのところ前週比で縮小せず、徐々に感染拡大の傾向を見せたために政府は東京都に第4回目の「緊急事態宣言」を発令することを決めた。東京都は日本の経済・文化・商業の各活動の中心地であること、そして東京大会の殆どの競技が東京都で行なわれることから、東京都に発令された「緊急事態宣言」と「まん延防止等重点措置」の推移のみを図に纏めてみた。ネットで調べ直して図にしたが、間違っていたらごめんなさい。

 2021年の東京都民は1月8日から現在に至るまで3月22日から4月24日までの約1ヶ月間を除いて政府指示の行動の制約を受けていたことになる。

 菅義偉は記者会見で「感染の抑制とワクチン接種、全力で取り組んで、1日も早くかつての日常を取り戻すことができるように全力を挙げるのが私の仕事だ」などと言っていたが、東京大会開催までには感染の抑制は最優先の課題だったはずだが、何もできずじまいでここまできた。

 菅義偉は緊急事態宣言なら「五輪の無観客も辞さない」という態度を取っていたが、2021年7月8日の東京都への4回目の「緊急事態宣言」の発令その他を伝える「記者会見」で東京大会について次のように発言している。

 菅義偉「オリンピックの開幕まであと2週間です。緊急事態宣言の下で異例の開催となりました。海外から選手団、大会関係者が順次入国しています。入国前に2回、入国時の検査に加え、入国後も選手は毎日検査を行っており、ウイルスの国内への流入を徹底して防いでまいります。選手や大会関係者の多くはワクチン接種を済ませており、行動は指定されたホテルと事前に提出された外出先に限定され、一般の国民の皆さんと接触することがないように管理されます」

 東京大会を契機として懸念される世間一般の「安心・安全」は相変わらず脇に置いて、東京大会という一大イベントの「安心・安全」だけを言い募っている。このこととプロ野球やサッカーの試合が一定の観客を入れて試合を行っていながら、感染騒ぎがなかったことを以って東京大会も同じ基準とする考え方方かるすると、あくまでも有観客を押し通すように思えた。

 だが、この記者会見後の同日、2021年7月8日夜の大会組織委員会と政府、東京都、IOC=国際オリンピック委員会、IPC=国際パラリンピック委員会の5者協議の末、東京 神奈川 埼玉 千葉の全会場は一転して無観客開催と決めている。菅義偉のこれまでの態度と違うこの決定は理由はなんだろう。

 菅義偉は国会で、「国民の命と暮らしを守る、最優先に取り組んできています。そこは念入りに言わせて頂きます。オリンピック・パラリンピックですけども、先ず現在の感染拡大を食い止めることが大事だと思います」と言い、「国民の命と健康を守るのが私の責任だと。守れなければ、やらないと。これは当然のことじゃないでしょうか」と答弁している。このような発言からすると、政府は東京大会開催に一定以上の決定権を握っていることを窺うことができる。当然、有観客か無観客かの決定権にしても一定以上有していることになる。だが、従来の有観客の態度を一転させて、なおかつ有観客一辺倒の大会組織委員会の意向とは逆の無観客に舵を切ったのは東京都のコロナ感染の縮小の見通しが立たない中、開催によって競技会場外の感染が万が一拡大した場合の責任問題の浮上が自民党総裁選や10月21日に任期満了となる衆院選に悪影響を及ぼすことが目に見えていたことを避ける意味合いがあったはずである。

 大体が「先ず現在の感染拡大を食い止めることが大事だと思います」と言っていながら、これまで感染拡大に手をこまねいてきた。

 東京 神奈川 埼玉 千葉の全会場は無観客開催と決定したが、北海道札幌ドームのサッカー競技は大会組織員会が上限を設けた上で観客を入れて開催するとしていたが、北海道知事のの鈴木直道の養成を受けて大会組織員会は無観客開催へと変更した。「NHK NEWS WEB」2021年7月10日 0時57分)

 北海道知事鈴木直道(7月9日よる記者団に対して)「1都3県から競技の観戦に訪れることを控えてもらうため、大会組織委員会とその取り扱いについて協議したものの、実効性を担保することは無理だと判断し、無観客とすることを決断した。道民の安全、安心を確保し、不安な気持ちにしっかり対応できるかを最優先に考えた結果として、大変残念ではあるが、無観客という形で行うことが適切だ」

 要するに1都3県からの競技観戦者を抑える措置を大会組織員会と協議したが、実効性を担保できる案を捻出できなかった。競技場内は入場制限を行うことによって人と人の間隔を一定以上に固定化できるが、競技場外の人流にまで社会的ディスタンスを厳格に守らせるアイデアは見い出せなかった。あくまでも競技場内の「安心・安全」を問題にしていたのではなく、競技場外の「安心・安全」を念頭に置いていた。菅義偉みたいに競技場内の「安心・安全」だけを問題にしていたわけではなかった。

 北海道のこの決定にソフトボールと野球を福島市で開催する福島県知事内堀雅雄は2021年7月10日に無観客で行うよう、大会組織委員会に要請し、了承を得ている。(「NHK NEWS WEB」)北海道が観客を入れずに開催すると前夜に発表したことで、東京など1都3県以外は観客を入れて実施するという前提が覆ったためだと理由をのべているということだが、ソフトボールと野球は人気種目である、チケットを持たないファンが競技場のすぐ外で競技場内で上がる歓声を耳にして熱戦の雰囲気を味わいながら、スマホでテレビ実況を楽しむ熱狂を演じない保証はない。また、そうすることを自身の一つのステータスにとし、自らの人生のレガシーの一コマとすることもある。

 結局のところ菅義偉は「ワクチン接種というのは、正に感染症対策の切り札です」と常々言いながら、東京大会開催までに大半の国民に接種できなかったばかりか、切り札以外の対策でコロナ感染の縮小を図ることはとてもとてもできず、結局のところほんの少しを除いて無観客という変則的な開催を強いられることになった。

 その原因は誰もが承知しているように日本の経済・文化・商業の各活動の中心地であり、東京大会の殆どの競技を担う東京都が大会期間中に緊急事態宣言の発出を受けたからに他ならない。そして緊急事態宣言発出の何よりの原因は感染者の増加傾向を受けてのことであることは当然だが、菅義偉は前々から同じことを発言しているが、2021年7月8日も同様のことを口にしている。

 菅義偉「残念ながら首都圏においては感染者の数は明らかな増加に転じています。その要因の1つが、人流の高止まりに加えて、新たな変異株であるデルタ株の影響であり、アルファ株の1.5倍の感染力があるとも指摘されています。デルタ株が急速に拡大することが懸念されます」

 但し変異株が感染拡大のそもそもの原因ではない。極端なことを言うと、変異株感染者が他に誰もいないところで2次感染源になることはない。そもそもの原因は人流の多いか少ないかの程度次第ということになり、感染抑止は人流の抑制にかかることになる。人流を抑制できれば、それが自動的な社会的ディスタンスとなって現れ、結果的に感染抑止策に繋がっていく。緊急事態宣言を発出しても、まん延防止等重点措置を発出しても、人流を抑制できず、人流の高止まり状態を許すようなら、目に見えた感染抑止を果たすことができないのは論理的帰結でもあるし、現実もそのとおりのことを示している。

 と言うことは最終的なコロナ対策は人流の抑制に絞られることになって、それができず、人流の高止まりを招いているということは菅内閣のコロナ対策の失敗を示すことになる。

 改めて東京都に発令された2021年の「緊急事態宣言」と「まん延防止等重点措置」の推移を見てみる。2021年の1月8日から現在に至るまで途中の約20日間を除いて緊急事態宣言下かまん延防止等重点措置下にあった。人流はどのように変化したのだろうか。「東京都時間帯別主要繁華街滞留人口の推移(2020年3月1日~2021年7月3日)」(中段辺りに表示)から見てみる。詳しくはサイトを覗いて頂きたい。

 暮の2020年12月26日から2021年1月2日まで滞留人口は徐々に減少しているが、1月3日から緊急事態宣言発出の1月8日向かって一気に上昇、1月9日以降、発出を受けて減少するが、1月16日以降、増減を繰り返しながら上昇していき、東京都の3月21日緊急事態宣言解除を受けても上昇していき、3月27日から減少に転じるが、4月10日に上昇に転じて、4月12日にまん延防止等重点措置を発出、4月25日に緊急事態宣言発出、この日を境に滞留人口は一気に減少に向かうが、5月8日を境に今日に至るまで上昇している。

 要するにまん延防止等重点措置を発出しても、緊急事態宣言を発出しても、見るべき人流の抑制を図ることはできなかった。よく言われている原因として「宣言疲れ」、「コロナ疲れ」がある。だが、この「宣言疲れ」、「コロナ疲れ」の何よりの原因は東京都に関して2021年1月8日から今日までの半年以上、宣言、措置のいずれかが解除されていた期間は3月22日から4月11日までの約20日間のみの短期間であり、特に若者の人流が減らなかった理由を如実に読み取ることができる。

 結局は宣言、措置のいずれかをメリハリもなくダラダラと続けることになった。ダラダラではなく、適宜息を入れる短い期間を設けてメリハリあるものにして、「宣言疲れ」や「コロナ疲れ」を癒やす機会を設けるべきではなかったのか。

 東京都の場合、2020年10月末から第2回目の緊急事態宣言発出の2021年1月8日に向かって感染者数が徐々に上がってきて、12月末のうちに緊急事態宣言の発出を促されていた。1月8日の発出は遅きに逸したと批判を受けている。先に挙げた2021年7月8日の記者会見で菅義偉は「先手先手で予防的措置を講ずることとし、東京都に緊急事態宣言を今一度(ひとたび)、発出する判断をいたしました」と発言しているが、もし10月末に感染拡大の傾向を読み取って「先手先手で予防的措置を講ずる」ために緊急事態宣言を発出、感染拡大を抑える目的からだけではなく、12月20日以降の暮から2021年1月1日を間に挟んで1月末までの皆さんの年始年末の自由な活動を保障するためだとして12月20日以前に宣言を解除したなら、宣言中の人流抑制・外出自粛の動機づけを各自が身につけることが可能となって、感染を抑えることができ、抑えることができた分、解除後のリバウンドにしても少しは抑えることができる。

 だが、そうした手を打つことはせずに逆に正月気分も醒めない1月8日に宣言を発出した。

 年始年末の自由な活動中にリバウンドが生じたなら、次の自由な活動の保障期間を4月の入学・入社・異動シーズンとすると前以って告知し、4月に入ったときの人流抑制・外出自粛の動機づけを与えつつ、リバウンドが生じた期日以降から3月下旬前のいずれかの時点で宣言か措置のいずれかを発出したなら、リバウンドを一定程度か、それ以上に抑えることができて、4月の宣言・措置に対する解除は難しくなくなる。

 このようなメリハリをつけた手順で次にお盆を挟んだ夏休みを自由な活動の保障期間としてそれ以前に感染拡大に合わせて宣言か措置のいずれかを発出していたなら、発出期間中の人流抑制・外出自粛の動機づけを自由な活動に置かない者は先ず考えられないから、同時に感染を抑えることができる。人流抑制や外出自粛に倦んで、「宣言疲れ」や「コロナ疲れ」に見舞われる余裕を与えないことになる。

 だが、菅政権はこういったメリハリをつけた対策は取らずにダラダラと自由な活動を制限し続けてきた。その結果の「宣言疲れ」や「コロナ疲れ」であり、このような疲れからの「人流の高止まり」であり、感染の高止まりという悪循環に陥ることになった。

 西村康稔は2021年4月23日衆議院議院運営委員会で、「この新型コロナウイルスは何度も流行の波が起こるわけであります。諸外国を見ていてもそうであります。そして起こるたびに大きくなってくれば、ハンマーで叩く。つまり措置を講じて抑えていく。その繰り返しを行っていく。何度でもこれを行っていくことになります」と発言していた。この発言を受けて2021年4月26日の「ブログ」に次のように書いた。

 〈もし東京オリ・パラを開催予定でいるなら、今回の緊急事態宣言で感染者が減らないようなら、6月中を期限とした緊急事態宣言と言う「ハンマー」を前以って打ち下ろして、徹底的に感染者を減らしてから、開催すべきだろう。

 感染拡大防止にも無策、緊急事態宣言で与えることになる社会経済活動の打撃に対しての配慮をも欠いているようでは菅政権の責任は決して小さくはない。〉

 これもメリハリのススメである。だが、メリハリとは逆のダラダラで対策で国民の多くに「宣言疲れ」や「コロナ疲れ」は発症させていて、思ったような人流抑制を図ることができず、感染の高止まりを招き、肝心の東京大会中の宣言の発出となった。

 菅義偉は2021年7月8日の記者会見で、「ワクチンを1回接種した方の割合が人口の4割に達した辺りから感染者の減少傾向が明確になったとの指摘もあります。今のペースで進めば、今月末には、希望する高齢者の2回の接種は完了し、1度でも接種した人の数は全国民の4割に達する見通しであります」と発言している。2021年5月28日の記者会見では「イギリスでは1回目を5割打ったら大体ものすごい効果が出たということで、今、マスクなしにしていますけれども」云々と発言している。

 だが、ネットで調べてみると、イギリスのワクチン接種率は1回目終了が86%を超え、2回目終了が64%を超えているが、ここにきて感染が急拡大し、2021年7月19日時点の新規感染者数は31800人、7日間平均で30040人となっている。その理由はインド型の変異株だと言うが、何よりもワクチン接種が進んだことによる社会活動の活発化、つまり人流の大幅な増加にあるとされている。

 日本もインド型の変異株が拡大し続けると、「1回接種した方の割合が人口の4割に達した」としても当てにはならなくなる。菅義偉は情報把握をしっかりとして、安易な希望的観測となるような情報の垂れ流しはやめるべきである。責任問題である。
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八街市自動車児童5人死傷事故から見える子どもの命と成長よりも予算を優先させた道路行政とそれを見過ごした政府の怠慢

2021-07-05 10:52:24 | 政治
 「NHK NEWS WEB」(2021年6月30日 18時22分)

 2021年6月28日、千葉県八街市で下校途中の小学生の列に大型トラックが突っ込み、小学3年生男子(8)と小学2年生男子(7)の2名が死亡、8歳の女子が意識不明の重体、7歳と6歳の男子が大怪我をする酷い事故を起こした。運転手は酒を飲んでいた。供述によると運転手は「右側から人が出てきたので、よけようと急ハンドルを切った」ところ、道路左側電柱に衝突し、その後約40メートル進み、小学生の列に突っ込んだ。

 このような急ハンドル操作の場合、初心者や加齢によって敏捷性を欠くことになった高齢者が慌ててしまう以外は反射的にブレーキを踏む。要するに急ブレーキを踏んだが、制動距離が足りなくて、左側電柱に衝突してしまったという経緯を一般的には取る。だが、電柱衝突後に小学生の列に突っ込み、停車するまでの約40メートルの間に目立ったブレーキ痕はなかっただけではなく、警察の取調で防犯カメラの映像などからは道路に出る人の姿は確認できていないと記事は書いている。「右側から人が出てきた」という供述は大分怪しくなる。

 大型トラックが一定のスピードで電柱に衝突した場合、かなりの衝撃を受ける。映像で見ると、電柱は斜めにかしいでいる。なまじっかな衝撃でなかったはずで、衝撃を受けると同時に右足がブレーキに伸びるものだが、目立ったブレーキ痕なしにそのまま40メートルも走ったということは飲酒だけではなく、居眠り運転の可能性が出てくる。

 運転途中で飲酒する場合、事故を起こさないように運転に神経を注ぐ。事故を起こして、原因が飲酒と判明すれば、最悪、免許取り消しの処分を受け、仕事ができなくなり、生活の糧を失うことになりかねない。他のNHK NEWS WEB記事によると、仕事からの戻りで、事故地点は工場まで200メートル程の場所だったと伝えている。目と鼻の先で運転から解放されると思い、安心して、運転に振り向けていた注意が安心感に取って代わってしまうと、その際眠気を我慢していたなら、睡魔に安々と誘い込まれる要因となる。

 マスコミ報道を見る限り、警察が飲酒だけではなく、居眠り運転までしていたと発表しているわけではないが、飲酒運転事故のこういった成り立ちを意識にとどめておくことができたなら、飲酒がときには居眠り運転につながることまで考えて、酒など飲んで運転はできないはずだが、飲酒運転で2人の子どもの命とその成長を奪い、1人を意識不明の重体に陥れて、無事回復を祈るが、自分に起きたことがトラウマとして残った場合、以後の命と成長が脅かされないことはないだろうし、重症を与えられた2人にしても、同じようにトラウマにさせて命と成長を脅かしかねない酷い目に遭わせることになった。

 特に子どもの命を奪うということはその後の長い成長まで奪うことになるということを考えなければならない。命と成長を奪われることになった子どもたちの家族や親しい友達が見舞われることになる喪失感とその原因が飲酒運転の自動車事故だという不条理は計り知れないだろうし、簡単には癒やすことができずに生涯、その喪失感と不条理を抱えていくことになる可能性は否定できない。

 記事は八街市の話として現場の市道は2008年度から2012年度までの4年に亘って小学校のPTAが毎年ガードレールの整備などを求めていたと伝えている。その要望に対して記事は、〈市は、予算などの制約があるとして優先順位を付けて道路の整備を進めていましたが、より優先順位の高い場所があるとして現場の道路へのガードレールの整備は実現していませんでした。

 また、現場での最高速度の制限については警察との間で検討したことはなかったということです。〉と伝えている。

 要するに子どもの命と成長よりも予算を優先させた道路行政に徹していた。他の予算を振り分けてでも子どもの命と成長を優先させる道路行政を志すことはしなかった。このことは子どもの命の尊厳の軽視に値する。

 この点についての2021年7月1日付「時事ドットコム」記事は次のように触れている。

 市教育委員会教育長加曽利佳信(八街市長北村新司の記者会見に同席)「(2016年度から事故現場を道路の狭さなどから危険と認識していたと説明した上で)看板の設置などはしたが、ガードレールの設置まで至らず、痛恨の極みだ」

 道路の危険性をガードレールの設置ではなく、看板の設置で解消させていた。そしてその程度の予算で片付けていた。

 同記事はPTAによるガードレール整備要望に対しては市は「用地買収、建物移転などから多額の費用を要し、非常に難しい」と回答していた。担当者は「ガードレールの設置は、他の事業を優先して先送りされ、検討していなかったのが事実」

 この市の態度にも子どもの命と成長よりも予算を優先させた道路行政が否応もなしに見えてくる。子どもは国の宝だと言いながら、口先だけで、宝とは程遠い粗末な扱いで済ませている。
  
 もう一つ、2021年7月1日付「asahi.com」から、PTAによるガードレール整備要望に対して市の説明を見てみる。

 〈市は2009年8月、当時の長谷川健一市長名で「歩道の設置とガードレールは、(そのために必要な幅となる)有効幅員の確保が不可能。道路拡幅は用地買収、建物移転など多額の費用を要し非常に厳しい」などとPTA側に回答。PTA側などと協議して、近くの交差点の改修を優先したという。〉

 この発言も予算の点からのみガードレールの設置を捉えていて、子どもの命と成長を守ることよりも予算を優先させた道路行政の域を一歩も踏み出せていない。

 この記事はPTA側からの事故現場のガードレール整備について2012年度以降から要望がなくなったために整備の必要性が認識されなくなったといった趣旨の市幹部の話を伝えている。

 市幹部「毎年度の要望がないと、数多くの道路要望のなかで優先度が下がる」

 記事が、〈実際に今年度時点では、事故現場のガードレール整備の必要性を市建設部は認識していなかった。〉と解説している以上、「優先度が下がる」と釈明しているものの、次年度への申し送り事項としていなかったに過ぎない。その年度に出された要望しか目を通していなかった、つまり優先度を決める対象に入っていなかったということで、「優先度が下がる」云々は責任追及を逃れる薄汚い誤魔化しに過ぎない。

 ガードレール整備に関わる要望の実現の必要性を認めていながら、予算の都合で実現できなかったとしても、その要望を次年度に引き継いで、予算の点からの実現可能性を探るべきを、引き継ぎの努力すらしなかった。怠慢以外の何ものでもない。

 こういった怠慢が事故死を防ぐことができなかった遠因の一つと数えられても、頭から否定することはできまい。

 では、最初のNHK NEWS WEB記事に戻って、過去に小学校PTAが毎年ガードレールの整備等を要請していたことに対する現在の八街市長の2021年6月30日の臨時記者会見発言と市の説明を見てみる。

 八街市長北村新司「幼い子どもが命をなくすのは胸が張り裂けそうな思いだ。残念で悔しい。財源が限られる中、今回の場所は申し訳ないが十分な措置ができなかった」

 北村新司の「幼い子どもが命をなくすのは胸が張り裂けそうな思いだ。残念で悔しい」と言っていることが代償の取り返しのつかなさを真に痛感した言葉であるなら、「財源が限られる中、今回の場所は申し訳ないが十分な措置ができなかった」とする、子どもの命と成長を後回しにして、予算を優先させたことを正当化する発言は出てこない。

 命に関わる危機管理は命を失う前に失わないための創造的な対策を構築することである。失ってからの命の危機管理は他の命には役に立つかもしれないが、当然のことだが、一旦失った命には役立たない。この当たり前の道理を行政を預かる者として厳しく認識していたなら、「今回の場所は申し訳ないが十分な措置ができなかった」程度の責任では済ますことはできない。辞任ものであろう。

 市の説明。予算などの制約があるとして優先順位を付けて道路の整備を進めていたが、より優先順位の高い場所があるとして現場の道路へのガードレールの整備は実現していなかった。現場での最高速度の制限については警察との間で検討したことはなかった。

 この程度の子どもの安全と命に対する危機管理しか弁えることができなかった。結果、現在は60キロとなっている最高速度をより低い最高速度に抑えることを警察に要望することになった。

 要するにスクールゾーンとしての時速制限も、各地で進んでいる通学路の最高速度を30キロに制限する「ゾーン30」も設けていなかった。例えて言うなら、朝陽小学校の登下校路は荒野の中に存在していたようなものだった。

 最高速度を抑えたとしても、飲酒運転や居眠り運転に役には立たない場合がある。歩道やガードレールのない狭い道路の車の運転は対向車が近づいてこない限り、歩行者がいなくても、左側からの飛び出しを用心するためにほぼ道路の中央を走ることになるが、学童を含めた歩行者を見かけた場合、対向車がなければ、速度を緩めながら、道路中央よりも右側に進路を取って走行、歩行者を遣り過してから、道路中央に進路を戻し、対向車がある場合は、歩行者の脇を十分に走行できる間隔があったとしても、歩行者の手前で道路中央よりも左側に車を寄せて徐行、対向車が通り過ぎるまで待ち、対向車が通り過ぎてから、道路中央に進路を戻して制限速度内の走行をするのが一般的な運転の慣習となっているが(あるいは最近の道路交通法改正でそういう取り決めとなっているのかもしれない)、このような歩行者優先の運転を殆どのドライバーが実践していたとしても、歩行者優先のこの運転方法をプリントして、行政は自区分内のトラックや乗用車を所有する全ての事業所に対してこのプリントした内容を用いた説明会を道路交通法が定める講習会とは別の要請という形で最低月に1度はドライバーに行うように持っていき、歩行者優先の意識を常に新たにさせるように努力すべきではないだろうか。

 この努力を受けてドライバーが歩行者優先の運転を日々心がけるようになったなら、日々の習慣は体に染み付き、例え酒を飲んで運転する不届き者が出現したとしても、アル中にまで発展していない限り、最大限の注意を払う可能性は否定できない。

 NHK NEWS WEB記事は八街市教育委員会が事故現場の市道を通学路とする児童の精神的な負担を考慮して、当面、登下校のためのバスの運行を決めたと伝えている。登校用に午前2便、下校用に午後4便の運行予定で、この通学路を使う八街北中学校の生徒も利用できるようにし、さらに現場付近に警察の移動交番車の配備や市の職員などによる見守り強化も行なわれるとしている。

 全てが命を失う前の命の危機管理ではなく、尊い命が失われたあとからの対症療法の部類に入る危機管理となっている。

 別記事によると、現場は朝陽小から西に約1・5キロの見通しの良い幅6・9メートルの直線個所だそうで、ドライバーの抜け道になっていたと伝えている。

 事故があった市道は県道77号線と1キロ程離れた間隔でほぼ平行に走っていているから、県道は渋滞が多く、時間短縮のために市道が抜け道として利用する道路となっているということなのだろう。抜け道を利用するドライバーは急いでいるからで、渋滞で失った時間を取り戻すために自然とスピードを上げてしまう。スピードを上げない抜け道利用者がいたら、抜け道利用の意味をなくしてしまう。

 今回の事故を起こしたドライバーの会社は事故地点から200メートル程の場所にあるそうだから、抜け道として利用していたわけではないだろうが、通学路が抜け道となっていた場合は、抜け道利用を防止するために大型トラックを所有している近辺一体の事業所に通学路を抜け道として利用しないように要請したり、県道から抜け道の市道に入る各枝道入口に「通学路につき学童の命と将来を守るために抜け道として利用しないこと」という看板を立てるのも一工夫だが、自身の時間短縮を優先させて、看板を無視するドライバーはなくならないだろう。

 そういった場合に備えて通学路の信号機を工夫すれば、抜け道としての利用価値を低めることができる。先ずスクールゾーンの信号機の数を多くして、メインストリートの各車両用信号機を一斉に青にするのではなく、最初の信号機を青にしたら、次の信号をすぐに赤にして、しかも赤の時間を長くする。信号の形式を知ったドライバーは急加速、急スピードが役に立たないことを学習して、ゆっくりと発進して、スピードを抑えて次の信号まで走ることになる。スクールゾーンの終了地点までその方式とする。

 但し車両用信号機の赤信号が長いと、歩行者用信号機の赤信号も長くなって、歩行者はなかなか横断歩道を渡れないことになる。現在は車両用信号機が青となると同時に歩行者用信号機も青になるが、歩行者用信号機を先に青にして、歩行者が渡ることができる一定の時間後に車両用信号機を青にすれば、車両用信号機を長く赤にしておくことができるし、巻き込み事故を減らすこともできる。

 このようにスクールゾーンの信号機が多いことも、車両用信号機の赤信号の時間が一般よりも長いことも、車両用信号機の赤信号が青になるよりも先に横断歩道の歩行者用信号機を青にすることも、ドライバーの多くは学童の命と将来を守るためだと否応もなしに学習し、自らの認識としていくはずである。

 この学習と認識が飲酒運転や居眠り運転の戒めとすることもできる。勿論、信号機の増設はそれなりの予算を必要とするが、道路拡張よりも少ない予算で子どもの命と将来を守る、命を失う前に失わないための創造的な対策の部類に入れることができる危機管理とすることができる。

 マスコミ報道に誘導されて、菅義偉が2021年6月30日に開いた八街市の自動車事故を踏まえた交通安全対策の重要な課題を話し合う「交通安全対策に関する関係閣僚会議」(首相官邸/2021年6月30日)を覗いてみた。菅義偉の発言だけが載せてある。

 菅義偉「この度、下校中の小学生の列にトラックが衝突し、5名が死傷するという大変痛ましい事故が発生いたしました。亡くなられたお子様の御冥福をお祈り申し上げますとともに、負傷されたお子様、そして御家族の皆様方に、心よりお見舞い申し上げます。

 今回のような大変痛ましい事故が、いまだ後を絶ちません。必要な捜査と原因究明を直ちに行い、関係する事業者に対して、安全管理を徹底してまいります。

 トラックの運転手において、飲酒の疑いもあると聞いております。飲酒運転は言うまでもなく、重大事故に直結する極めて悪質で危険な行為であり、根絶に向けた徹底を行います。

 これまでに取りまとめた、子供や高齢運転者の交通安全のための緊急対策は、今回の事故の発生を受け、速やかに検証を行うことにしました。今後このような悲しく痛ましい事故が二度と起きないように、通学路の総点検を改めて行い、緊急対策を拡充・強化し、速やかに実行に移してまいります。

 関係大臣においては、子供の安全を守るための万全の対策を講じることとし、必要な対策を速やかに洗い出していただくようお願いいたします」(以上)

 菅義偉は重大事故の「根絶に向けた徹底を行います」との文言で、「根絶」を目標とすることと、「これまでに取りまとめた、子供や高齢運転者の交通安全のための緊急対策は、今回の事故の発生を受け、速やかに検証を行うことにしました」ということで、「子供や高齢運転者の交通安全のための緊急対策」の「検証」を約束した。 

 前者の約束「根絶」の目標は政府が「国民の命と健康を守る」役目を負っている以上、当然である。「未就学児等及び高齢運転者の交通安全緊急対策について」(内閣府)の「第2節 子供の交通事故の状況」には、〈近年の12歳以下の交通事故死者数の推移を見ると,全体として減少傾向にある中で,5歳以下については2008年の44人から2019年は24人に,6~12歳については52人から21人に減少した。〉とあるが、減少を以って良しとすることは子ども一人ひとりが持つ命の尊厳を蔑ろにすることになる。減少したとしても、12歳以下の45人もの子どもの命とその成長が自動車事故で無残にも奪われている。子どもの先々の成長を楽しみにしていた親の希望や夢までを奪う。

 自民党はネットで探したところ、2012年6月5日2019年5月28日に政府に対して「道路交通の安全対策に関する緊急提言」を行っている。単数、あるいは複数の重大な自動車事故が発生するたびに「緊急提言」行っているのかも知れないが、ネット上に2回分しか見つけることができなかった。但し言えることは2012年6月5日の「緊急提言」を約7年後の2019年5月28日に再び提出しなければならなかったということは2012年6月5日の「緊急提言」が実のある形を結ばなかったことを物語ることになる。

 2012年6月5の「緊急提言」は危険箇所の交通指導取り締まり、信号機やガードレールの設置、歩道の拡幅、通学路の見直し、PTAによる安全パトロールの効果的な改善措置、学校及び幼稚園・保育所等周辺の最高時速30kmの「ゾーン30」の原則的設定、交通指導・取り締まりの徹底よる「人優先空間」の形成、自動車のスピードリミッター(自動速度抑制装置)の早期実用化等々を提言し、2019年5月28日の「緊急提言」では全国的な通学路の安全点検に加えた園児等が日常的に利用する道路、 園外活動のための移動経路の安全点検、危険箇所の信号機、道路標識・標示やガードレールの設置、通学路の見直し、保護者や民間ボランティアによる子供の見守り活動の実施、警察官等による現場での交通安全指導、「ゾーン30」(最高時速30km)整備の加速化、幼稚園・保育園の散歩等の園外保育に備え、ドライバー等に周知させるためのキッズゾーン(仮称)設定の検討等を提言している。

 この両提言に見る肝心な対策については今回の自動車事故を受けた千葉県八街市の学童通学路には殆ど形を取っていない。2012年6月5日だけではなく、2019年5月28日も提言を繰り返し、これらの提言が八街市の学童通学路で具体化できていないということは、千葉県八街市だけを抜け落としていたというわけではないはずだから、政府が提言を受けて通学路の総点検を各自治体に指示し、その報告を受けたものの、改善点を必要とする自治体に対して子どもの命と成長を守る危機管理の構築に必要な、国からの予算づけを行なわなかったのか、最優先の解決事項として自治体の予算そのものの見直しを指導して、改善の実施を求めなかったのか、実施したこと・できなかったことの結果報告を自治体から受けて、その報告を検証しなかったのか、いずれかの手続きを厳格に実行していなかったことになる。

 政府が全ての手続きを厳正に実行していたなら、千葉県八街市の子どもの命と成長を守る危機管理の実現よりも自らの予算だけを頭に置いた道路行政を阻むことができたはずだ。つまり政府は全自治体に対して全ての手続きを厳正に実行していなかった。そして既に断っているように千葉県八街市だけを緊急提言が求めている各施策の実施対象から省いていたわけではないはずだから、提言のうち、改善すべき点の取り組みは各自治体の予算任任せになっていたことになり、千葉県八街市のように子どもの命と成長を守る危機管理の構築に振り向ける予算を欠いていた自治体は提言を受けた取組みを実施せずにスルーしてしまっている例も存在することになる。

 と言うことは、政府は自民党の提言を受けて、通学路の総点検を各自治体に指示し、その報告を受けて改善点の取組みを要請したものの、その取組みの成果に関しては全ての自治体に亘って厳密に検証していなかったことになる。

 となると、菅義偉が「交通安全対策に関する関係閣僚会議」で、八街市の事故を「5名が死傷するという大変痛ましい事故が発生いたしました」と言ってはいるが、各自治体の児童安全対策に関わる取組みの成果を厳密に検証していなかったことが八街市の子どもの命と成長よりも予算を優先させた道路行政を見過ごすことになり、このことが事故の遠因となったと指摘できないことはない。政府の怠慢そのものであろう。
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