尾木直樹のイジメを防止法で「バシッと歯止め」をかけつつ学校作りの二刀流療法は教育放棄を詳しく解説

2024-04-30 05:02:04 | 教育
 【副題】《死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった主張をしながら、イジメを"法律によってバシッと歯止めをかける"の矛盾は底なしの無責任》

 2013年発売『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』(以下、『「脱いじめ」論』)から最終章「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の最後の2項目を取り上げて、表題に示した矛盾を摘出したいと思う。

【お断り】書籍からの引用箇所は〈〉、「」カッコ付きとし、黒色太字と茶色太字は書籍のままとする。年号等の和数字は算用数字に変えた。引用箇所以外でも、〈〉、「」の記号は使うが、文脈から判断してほしい。)

 「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の最後の2項目に入る。
 「『いじめ防止法』の制定を日本でも早急に!
 「少なくとも『防止条例』の設置は不可欠です
 
 では、「『いじめ防止法』の制定を日本でも早急に!

 次のように解説している。次々と不幸なイジメ自殺が相次ぎ、多くの子どもたちがイジメで苦しむ状況は一向に改善されていないことを考えると、イジメを堰き止めるための対策が緊急に求められている。2012年11月に国は「犯罪行為に相当するイジメについて警察への早期通報を徹底する」通知を全国の教育委員会、各都道府県知事などに出した。

 その内容はイジメに関係した「校内での傷害事件、暴行、強制わいせつ、恐喝、器物損壊」等々、刑罰法規に抵触する可能性がある事案は警察への早期連絡と連携、被害者の生命や身体の安全が脅かされた場合は直ちに警察に通報する。

 当然、通報を受けた警察は明らかに刑罰法規に抵触すると看做した案件については取調べ後に逮捕・検察送り(検察官送致)、その後家庭裁判所送致もありうることになり、結果として保護観察、試験観察以外に実刑に相当する少年院送致も否定できないことになる。だとすると、尾木直樹は「第5章 本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」の一項目で、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」で、アメリカ・マサチューセッツ州での2010年1月の当時15歳女子高生イジメ自殺事件を例に挙げて、アメリカではイジメ行為が既存の刑法に該当する犯罪と看做された場合は、その刑法の規定に従った刑事罰に委ねられると解説していたが、この書籍出版(2013年2月)当時は何もアメリカに限った話ではないことになり、日本のイジメ対策の欠陥のように触れていたことは虚偽説明となり、尾木直樹の人格の疑わしさがなお浮き立つことになる。

 その上、ここでも八方美人的言説を弄している。〈本来であれば、きちんと解決できる学校や地域をつくり、警察はその後方支援をするという関係性が最も望ましいことです。が、現代のいじめは歯止めとして警察の介入が必要なほど、ひどい状況になっています。理想論では子どもたちの命を救えないところまできてしまっているのが事実です。〉――

 イジメに関わる学校に対する警察の最も望ましい関係性としている"後方支援態勢"だけでは問題が片付かない原因はイジメ対策に関わる学校や助言を撒き散らすだけの教育評論家たちのイジメに手をこまねくだけの無力にも原因の一端はあるはずで、単に「最も望ましいことです」で済ますのは無責任を棚に上げた物言いとなる。

 その最たる一人である尾木直樹の無責任は次の文言にも現れている。

 〈学校や教育委員会が機能不全に陥り、いじめ自殺をストップすることができずにいる状況では、子どもを守るための緊急措置が早急に必要です。警察との連携はそのひとつですが、私はもうひとつ、時限立法でよいから「いじめ防止法」を日本でも検討すべきだと考えています。〉――

 責任を学校や教育委員会に預け、尾木直樹は自身を責任の外に置いている。この無責任は「いじめ防止法」制定の主張にも現れている。

 前の項目、「子ども自身が中心になってこそ「いじめ」を駆逐できるのです」で、「『子どもの問題のスペシャリストは子ども』との観点に立つ」と題して、〈これは現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います。子どもの参画のもと、子どもたちを主役に据えることで、本当の意味でのいじめ克服の実践が可能になるのです。〉と主張していたこと、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」の項目箇所で、死刑制度が犯罪抑止に役立っているわけではないこと、少年法の法の適用年齢を引き下げが必ずしも少年事件の抑制に効果を上げているわけではない等、法の規制に否定的考えを示していたこと、日本ではいわば重大事態に当たるイジメはアメリカでは刑法扱いとなっていて、上に挙げた2010年の女子高生イジメ自殺事件では少年の2人が懲役10年の刑を受けたが、泣いて後悔し、司法取引の末100日間の道路清掃のボランティアとなった事例をアメリカではイジメには刑事罰ではなく、教育罰だと牽強付会まで働かせて教育罰での問題解決を主張していたことと明らかに矛盾する展開であって、無責任なご都合主義を曝け出している。

 但し矛盾との整合性を取るために特大の釈明を持ってきている。

 〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。今でも学校の教育活動、あるいは家庭教育や地域の教育力を高めていくことで、いじめをなくしてもらいたいという願いは変わりません。

 したがって、法律をつくるといったやり方も決して本望ではありません。できることなら、先述したような、「ヒドゥンカリキュラム」による取り組みで、柔らかく、しなやかに「いじめ」など起こらないような学校づくりにもっていきたいのが本音です。けれども、学校という土台の修復メドが立たない以上、土台の立て直しを待って……などと悠長なことは言っていられなくなっています。

 法律によってバシッと歯止めをかけながら、ゆっくりと学校づくりを行っていくといった、対症療法と根本治療の二刀流でいかなければ、もはやいじめの濁流を堰き止めることはできないでしょう。日本でも「いじめ防止法」を制定することは急務の課題です。〉――

 "法律によってバシッと歯止めをかける"とはまだ決めないうちの法律に100%全幅の信頼を置いている。尾木直樹だからこそできる芸当なのだろう。死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった趣旨の主張をしていながら、「法律をつくるといったやり方も決して本望ではありません」と言いつつ、その"本望ではない"をかなぐり捨てて、法律制定への強い期待を見せている。その上、言っていることが一種の教育放棄となることに気づかないのだから、教育学者として最高ランクの八方美人に鎮座させなければならない。

 先ず指摘しなければならないことは法律が規定する対策が必ずしもイジメや犯罪を止めるわけではないことは次の理由による。何らかの欲望や感情に支配されて、その充足に関わる損得の、特に感情的な利害に絡め取られた場合、既に法律の規定に向けるべき理性の働きを失っている状態に自身を置いていることになり、充足できなかった際の"損"を排除、充足させる"得"を優先して欲望や感情の利害に決着をつけることになる。これが様々な法律が存在するにも関わらず、人間がイジメや犯罪を犯してしまうメカニズムとなっている。

 小中学生のイジメの場合、教師や保護者や尾木直樹が言う何らかの「いじめ防止法」や学校の規則を楯に「このように決めている、あのように決めている、イジメてはいけない」と言い諭そうが、理性自体が未熟な状態にあれば、未熟な分、欲望や感情はコントロール機能を失うことになり、その充足に向けた損得の利害に縛られた場合、善悪の理非よりも充足だけを考えて、そのための行動を取ってしまう。

 こういった行動のメカニズムが少年法が法の適用年齢を引き下げて事実上の厳罰化に向かっても、データ上で少年事件が少なくなっていないという尾木直樹が指摘している現実を見せることになっているのであって、尾木直樹はこのような理解がないままに少年法の無効力以外に死刑制度の犯罪抑制無効力や監視カメラの犯罪予防の無効力を口にする一方で、「いじめ防止法」の効力に期待をかけてその制定を望み、その矛盾に気づかないでいられる。

 法以前の問題としての欲望や感情の充足の損得の利害に流されない要件としての善悪の理非が判断できる理性の確立が必要であって、理性の確立は主体性の確立と深く関わっている。備えるに至った人格上の両要素は理性が主体性を支え、主体性が理性を伴走者とさせ、自立心(自律心)の育みを同時進行させる。これらの人格を特徴づける性向によって自己決定意識や責任意識、自他の省察能力を体することになり、これらの諸々の人格上の要素が個の確立へと向かわせ、個の確立が欲望や感情充足の損得の利害に流されない感情のコントロールを備えさせて、イジメの抑制効果へと行き着く。

 勿論、完璧な状態というのはあり得ないが、法律がイジメを止めるのではなく、あくまでも主体性や自立性(自律性)を伴った理性であり、そのような理性が感情のコントロールを機能させうるかどうかに掛かっている。もし法律がイジメを止めてくれるなら、それは法律が規定している罰則が自分に降りかかる影響への損得の打算が働くからであり、損得の打算をコントロールするのも、その本人なりの理性であって、ときにその理性による損得の打算よりも欲望や感情の充足に向けた利害が上回った場合は犯罪に走ってしまうことになる。

 「いじめ防止対策推進法 第23条いじめに対する措置6項」の、〈学校は、いじめが犯罪行為として取り扱われるべきものであると認めるときは所轄警察署と連携してこれに対処するものとし、当該学校に在籍する児童等の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるおそれがあるときは直ちに所轄警察署に通報し、適切に、援助を求めなければならない。〉の規定が生かされることになったとしても、警察がイジメ行為を刑法として扱うのはあくまでも既遂状態にある個別の案件に対してであって、未発生状態にあるイジメの歯止めではない。

 もし尾木直樹が逮捕されたイジメ加害者の受けた生半可ではない刑法上の懲罰を以って他の児童・生徒をしてイジメ行為の損得を打算させ、その打算によってイジメを怯ませる効果を狙った「法律によってバシッと歯止めをかける」だとしたら、これ以上の教育放棄はないだろう。恐怖心や恐れを植え付けて、他人を律する。尾木直樹自身が体罰派の教師の睨みを効かせて学校の秩序を維持する方法は恐怖から来る一時的な状態に過ぎないと反対していたことを率先して勧める矛盾を自ら犯すことになる。

 要するにどのような意味でも法律も警察も、イジメに「バシッと歯止めをかける」役目を担っているわけではない。その役目を担っているのは第一番に学校であって、尾木直樹がその役目を法律や警察に期待するだけで教育放棄となる。イジメが起きる一定の人間集団は学校の管理下にあるのであって、法律や警察の管理下にある訳ではない。この常識が尾木直樹には通じない。

 つまるところ、〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。〉云々にしても、〈「ヒドゥンカリキュラム」による取り組みで、柔らかく、しなやかに「いじめ」など起こらないような学校づくりにもっていきたいのが本音です。〉云々にしても実効性ある方法論を示すことができない綺麗事だから、法律とか警察とかに行き着く。

 この法律頼み、警察頼みは尾木直樹が現代のイジメは悪質で残酷だと言っていることと対応していることになるが、本音は「柔らかく、しなやかに」イジメのない学校づくりをすることだとはどこまで綺麗事を言えば済むのか計り知れない。

 これまでに、「根絶はできなくても、いじめを防ぐ、あるいは克服することはできるのです」、「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」等々言ってきた全てを投げ打って、「いじめ防止法」に頼る、それしか手はないと教育学者の立場を恥知らずにも放棄した。

 尾木直樹はここで少し前の項目、「刑事罰よりも教育罰で意識を変えていきましょう」で取り上げたアメリカ・マサチューセッツ州(以下マ州と表現)「反いじめ法」を日本の「いじめ防止法」の制定に「私がひとつのモデルとして注目している」として再度取り上げている。ご都合主義者尾木直樹のお眼鏡に適ったのだから、効果が十分に見込める信頼に足るイジメ抑制の法律ということなのだろう。

 この「反いじめ法」が、「全米で最も包括的ないじめ対策法と言われており」としている評価は自分が全米全州の"反いじめ法"の類いに目を通したわけではなく、本人が信頼に足ると見ている他者の評価を参考にしてその法律を自身で目を通して確かめた上での"評価"ということになるが、「ひとつのモデルとして注目している」との物言いは多くの事例を確認した中での一つとして注目という意味を取り、矛盾した言い方となる。正直な人間なら、「マ州の『反いじめ法』は全米で最も包括的ないじめ対策法との評価を受けていて、目を通したところ、日本の『いじめ防止法』の制定の一つのモデルとなるように思える」という文脈で紹介することになるだろう。

 〈「いじめの定義」自体が丁寧で細かく、さらに「教職員向けの研修」と「子ども向けの啓蒙活動」を両立させている点が特徴〉だとしている。以下、具体的内容を枠内に書き入れてみる。

 【いじめの法的定義】

 いじめとは、一人または複数の生徒が他の生徒に対して、文字や口頭、電子的表現、肉体的行動、ジェスチャー、あるいはそれらを組み合わせた行動を過度に、または繰り返し行い、以下のいずれかの影響を生じさせることを指す。

【「いじめ」と定義される具体的な行動】

■ 相手生徒に肉体的または精神的苦痛を感じさせるか、その所有物にダメージを与える
■ 相手生徒が自身の身や所有物に危害が及ぶ恐れを感じる
■ 相手生徒にとって敵対的な学校環境をつくり出す
■ 相手生徒の学校内での権利を侵害する
■ 実質的かつ甚大に教育課程または学校の秩序を妨害する

【特徴】
■ いじめの存在に気がついた教職員に対し、校長などに報告する義務を課す
■ 教職員はいじめの予防と介入方法に関する研修を毎年受けなければならない
■ いじめ問題を扱う授業を各学年のカリキュラムに盛り込む  

 マ州「反いじめ法」は2010年5月3日制定時に併せて刑法も改正、特定のイジメ行為を各種迷惑行為の罪に該当させているとの解説がネットでなされている。尾木直樹自身も前のところでアメリカでは、〈いじめ行為が既存の刑法の規定に該当するようなものであった場合、そこで刑事罰が科せられます。すなわち公民権法やストーカー法といった「既に存在する法律の適用はあるよ」「嫌がらせ罪、ストーカー罪、脅迫罪などに問われることはあるよ」となっているのです。〉と述べているように「反いじめ法」には一定限度を超えた場合のイジメに対しては刑法の罰則の適用を背後に控えさせた防止機能を持たせていると同時にその効果もなく一定限度を超えたイジメに対しては直ちに刑法を適用する車の両輪の役を両法に担わせていることになる。

 もし学校側がイジメを抑えるために頻繁に次のような警告を発した場合、例えば一定限度以上のイジメを働いたなら、警察に逮捕され、法の裁きを受けることになる、進学にも就職にも影響するだろうと刑法が持つ強制力を利用する、それを警告の類いに位置づけていたとしても、威嚇の性格を持つことになる他律的な行動規制となり、教育の先に期待する自律的な行動規制とは異なる点で、一種の教育放棄となるだろう。

 こういった要素を頭に置いて尾木直樹のマ州「反いじめ法」に対する入れあげ状態を見てみることにする。
 
 〈「いじめの定義」自体が丁寧で細かく〉と好印象の評価を与えているが、日本のイジメの定義との比較での指摘であるはずだが、どう細かいか並べて比較させる合理性は備えていないようだ。

 平成25年度(2013年度)からのイジメの定義。〈「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含れる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。〉――

 日本のイジメの定義も警察との連携を謳い、警察の対応次第で刑法扱いとなるケースも出てくることになるが、確かにアメリカ・マ州の「反いじめ法」は尾木直樹の紹介を見る限り丁寧で細かい。但しこの定義と定義が定める具体的行動に触れるかどうかは初期的にはイジメ被害者か教師や児童・生徒等の目撃者の判断によって判定されることになるが、問題はイジメ加害者が対人行動の際に自らの行動を定義とそれが示す具体的行動に抵触するか否かを前以って自覚できるかどうかにかかることになる点である。

 勿論、その自覚には学校側からこういったイジメを働いたなら刑法扱いとなり、自分の進路に悪影響を与えることになるだろうとの限りなく威嚇に近い警告を受けていることによって芽生えさせる自覚も入る。

 イジメを働いたあとにイジメ被害者か教師、他の児童・生徒といった第三者によってそれはイジメだと判定され、その行為をやめることになったとしても、その際に抵触の自覚にまで至っていなかったなら、再びイジメを働く可能性は否定できないし、自覚せずに似た行動を取る児童・生徒が新たに出てきた場合、イジメは繰り返し行われることになる。

 要するに自身の行為・行動がイジメの定義に抵触するか否かを、特に自律的にであることが望ましいが、他律的にであっても自覚できる理性・感性の類いを備えていなければ、年々のイジメの継続を止めることもできないし、認知件数の減少も、少なくとも満足には望めないことになるから、本質的にはイジメの定義がどうのこうのという問題ではない。尾木直樹は「第1章 いじめの現状」でも文科省の当初のイジメの定義がイジメ被害者にウエイトを置き、イジメ加害者を問題視していないことを批判していたが、当方は、〈定義自体がイジメにブレーキを掛ける役目を担っているわけではない。あくまでも児童・生徒が定義を理解するかどうかにかかっている〉のだと、定義に拘ることを瑣末主義だと批判した。

 ところが、尾木直樹はマ州の「反いじめ法」の定義が丁寧で細かいだなどと今なお拘っている。児童・生徒が自身の行為・行動がイジメの定義に抵触するか否かを自覚できる理性・感性の類いは自立心(自律心)や主体性の確立を基盤として自らの行動を省みることのできる自省心を育ませ、責任意識を持たせることが必須要件となるが、この点には目を向けることができずに尾木直樹の関心はイジメの定義から離れない。

 〈読んでいただいてわかるように、「いじめの定義」では、どれがいじめで、どれはいじめではないかという境界線が明確に設定されています。「これ以上の定義はない」と思うぐらい見事な内容です。その定義に基づいて、いじめが及ぼす影響にまで落し込み、いじめの有無の判断材料としているところも優れている点です。〉――

 「どれがいじめで、どれはいじめではないか」、いくら「境界線が明確に設定」されていようと、明確に理解できる者と理解できない者、理解できていても、感情の利害に流されて理解を失ってしまう者、様々に存在するのだから、「これ以上の定義はない」は何の価値があるわけでもない。要するに尾木直樹は定義にのみ目を向けて、その定義がよくできているかどうかを論じているに過ぎない。このことは次の文言に象徴的に現れている。〈五つの行動例のうち、特筆すべき項目が「相手生徒が自身の身や所有物に危害が及ぶ恐れを感じる」です。「危害が及ぶ恐れ」を感じたら、それはもう「いじめ」である、違法であるとしている点は本当に画期的です。〉――

 そのような行為をされた児童・生徒はイジメだとすぐさま自覚できるだろう。問題はそのような行為をする側がイジメだと自覚しないままに行動することである。特に前者が後者を恐れて、誰にも訴えることができずに口を噤んでいたなら、そのような児童・生徒にとって定義などないに等しくなるし、傍観者も定義の外にいる存在ということになる。こういった点を何も考えることができない尾木直樹は幸せな教育学者である。世界一幸せな教育学者と言っていいのかもしれない。

 〈日本で起こっているいじめを照らし合わせてみたら、いじめ加害者の子たちは軒並み全員が法律違反であることは明白でしょう。〉――

 益もないことを言っている。いくらイジメの定義を教え込んだとしても自覚できる生徒、自覚できない生徒がいる。自覚できない生徒にとってイジメの定義は馬の耳に念仏にしかならない。尾木直樹はこの限界を乗り越えて、教育学者であるなら、「『これ以上の定義はない』と思うぐらい」を云々する前に多くの児童・生徒をして「法律違反」だと自覚させうる、分かりやすい言葉の発信を心がけるべきだろう。

 以下、言っていることを纏めてみる。「『いじめ』と定義される具体的な行動」のうち、「敵対的な学校環境を作り出す」、「学校内での権利の侵害」、「学校の秩序の妨害」の3点は教職員と子どもの両方に「いじめ」とは何か、いじめがあった場合はどうするかを正しく落し込んでいく内容となっている、いじめの存在に気づいた教職員は校長への報告義務があり、このように法律で謳われたら、日本の先生たちも「いじめ隠し」には走れなくなる、いじめの解決に向けて教職員は毎年研修を受けなくてはならず、子どもたちはカリキュラムの中でいじめについて学ぶ。いずれも日本では行われていない云々。

 どれも定義の解釈と効用であって、児童・生徒の自覚という点を抜かしている。いわば"定義全能主義"となっている。尾木直樹に定義全能主義者という尊称を奉ることができる。大体が、「このように法律で謳われたら、日本の先生たちも『いじめ隠し』には走れなくなります」と言っているが、一般的な法律が禁止事項を謳っているからと言って、禁止事項が全ての人間によって守られるわけではない。結果、法律は生き続ける。時代に合わなくなれば、改正される。

 イジメの定義も同じで、社会が定義を必要とし、その定義が生き続けるのは定義を守らずにイジメが相当頻度で繰り返し発生し、その中に無視できない重大事態を少なくない数で混じるからに他ならない。マ州はイジメに関わる法律の制定だけではなく、刑法をも改正してバックアップすることになった。尾木直樹は、「死刑制度があるからといって犯罪が減っているかといえば、減っていません」と法律の不完全性を言いながら、イジメの定義に関しては"定義全能主義"に陥る矛盾した無知を曝け出している。

 尾木直樹は定義の内容の素晴らしさだけではなく、学校側による定義の運用の結果として現れるイジメ発生件数の減少を具体的根拠として提示、その運用は定義が丁寧で細かいことが助けとなっているからだと証拠立てることができた場合にのみ、その先に定義に対する最大限の評価を持ってくることができるのだが、肝心のその途中段階を抜け落ちさせて、定義の素晴らしさだけを言い立てる失態を犯して、蛙の面に小便でいられる幸せを満喫している。

 果たしてマ州「反いじめ法」がその素晴らしい"定義"でイジメの発生件数を抑えることができているのか、その情報をネットで探してみた。上記法律の制定2010年5月から5年後の2015年の調査である。尾木直樹のこの書籍出版は2013年2月1日であることを改めて頭に置いておかなければならない。マ州「反いじめ法」がイジメ抑制に効果のある法律であるなら、年数経過と共にその効果は増大していくはずである。

 Microsoft EdgeのAI「Copilot」でマ州のイジメ発生件数の推移を検査してみたところ、2019年度の数値が出てきたから、日本の同年度の数値と比較してみる。

マ州        1000人あたりの件数
小学校  3,333件   6.2件
中学校  2,633件   8.4件
高等学校 1,292件   3.1件

《令和元年度(2019年度) 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について》(文科省)

 日本 認知件数 1000人あたりの件数   
小学校 484545件   75.8件
中校学 106524件   32.8件 
高等学校18352件    5.4件。

 確かにマ州の1000人あたりの件数から見たイジメ認知件数は少ない。だが、こういった統計を先に持ってきてから、このようにイジメが少ないのは「反いじめ法」の定義の効果だとする論理展開とすべきだが、そういう方法は採用せずに「反いじめ法」のイジメの定義にのみ最大賛辞を贈るだけの姿勢というのは論理的な実証精神を欠いているからこそできることだろう。

 だが、マ州のイジメ発生件数の少ないことが「反いじめ法」の背後に刑法を控えさせていること、いわばいじめ行為を刑法上の犯罪として位置付け、さらに刑法への適用が厳格であることがイジメ抑制に効果を上げているとしたら、教育力を用いた自律的なイジメの抑制から遠ざかることになり、刑法が持つ規制力利用の他律的なイジメの抑制と親密性を持つことになって、教育放棄というプロセスへと際限もなく足を踏み込んでいくことになる。

 尾木直樹が日本でも「いじめ防止法」の制定を急務の課題とし、「法律によってバシッと歯止めをかけながら、ゆっくりと学校づくりを行っていく」等、様々に言っている趣旨からはマ州のイジメ発生件数の少なさが「反いじめ法」単独の力によってではなく、背後に控えさせている「刑法」の力に負うところが大きいことを窺わせることになる。

 理由はこれまでの尾木直樹の主張からも明らかなのだが、「反いじめ法」単独の力によるマ州のイジメ発生件数の少なさだったなら、尾木直樹の日本でも制定は急務の課題だとしている「いじめ防止法」を以下のところで刑法の罰則を背後に控えさせたアイディアとして明確に提示することはないだろうからである。教育学者としてバンザイしたということである。本人はこのような自覚は全然ない。

 〈いじめ問題に対する一貫した私の考えは「教育力」によって克服していきたいというものです。〉は教育学者としての体裁を保つ綺麗事に過ぎないことになる。真の教育学者であるなら、教育力によって克服する方法論を創造する責任を負っているはずだが、その責任を役にも立たないイジメ未然防止論だか、イジメ克服論だかどっちつかずのご都合主義な綺麗事を並べただけで早々にバンザイした。

 マ州の「反いじめ法」が、この法律と連携・援護させるために刑法を同時に改正したことを取り上げずに「反いじめ法」が4カ月で立法化された、「アメリカならでは(?)の政治力」だなんだと「反いじめ法」のみの効力であるかのように宣伝しながら、〈法律によって、いじめ問題のすべてが解決するわけではありませんが、「いじめは犯罪行為であり、法律に違反すれば罰せられるよ」「法律ではこうしたことをすべていじめとして扱うよ」と明確なメッセージにすることで、「いじめは許されない。こんなことはやめよう」といった強力なアピールができます。〉と、刑法での罰則を頼みとする。まさに教育の放棄であり、教育者という立場からの刑法への依存に他ならない。「本気でいじめをなくすための愛とロマンの提言」だとわざわざ1章を設けた理由がこの程度なのだから、尾木直樹の『「脱いじめ」論』は底が割れている。

 アメリカではイジメとされるシーンをテレビスポットで流し、「これはいじめです」と映像でも教育している。ここまでやらなければイジメはなくならない。「絶対に子どもたちをいじめから守るのだとのアメリカ国民の強い意思を感じます」と教育以外の方法でのイジメの抑止に期待を置く、この滑稽な逆説に教育評論家尾木直樹は死ぬまで気づかないだろう。

 そして日本のイジメ対策法の遅れを強調している。1986年の鹿川裕史君イジメ自殺から何10年経っているが、イジメ問題は全く放置されてきたといっても過言ではない。国としての対応のスピードの遅さもさることながら、「いじめとは何か、いじめがあったらどうするか」に関しての啓蒙教育すらきちんとできていない。「これは恥ずかしいことだと思います」

 長年の学校教育経験者として、イジメ問題を論ずる教育評論家として自分たちの無力を省みる自省心は
持ち合わせていない。そして結論。〈加害者の子どもたちを罰するためのものでなく、「いじめは犯罪行為であり、やってはいけないことであるとの認識を定着させるために、早急に日本でも「いじめ対策法」を実現させていかなくてはなりません。〉――

 マ州の「反いじめ法」は罰則規定はない。尾木直樹のこの書籍出版2013年2月から7ヶ月後の2013年6月28日に施行された日本の「いじめ防止対策推進法」にしても罰則規定はない。いわば、"加害者の子どもたちを罰するためのものでない"が、両者共に犯罪行為として取り扱うべき性質のイジメは警察署の取り扱いとし、取り扱いの結果、場合によっては刑法の罰則を当てる。

 このようなシステムとなっているのは、尾木直樹自身は「いじめ防止法」に〈「いじめは犯罪行為であり、やってはいけないことであるとの認識を定着させる〉効果を見ているが、現実問題として「いじめ防止法」のみでは認識定着は困難としていることからの「いじめ防止法」のバックに控えさせた刑法の強制力をイジメ抑止の次善の策として据えているということであって、尾木直樹が「いじめ防止法」が"イジメは禁止行為"の認識定着を目的としているかのようにさも見せかけているのは誤魔化し以外の何ものでもない。

 既に尾木直樹自身が、〈いじめ行為が既存の刑法の規定に該当するようなものであった場合、そこで刑事罰が科せられます。すなわち公民権法やストーカー法といった「既に存在する法律の適用はあるよ」「嫌がらせ罪、ストーカー罪、脅迫罪などに問われることはあるよ」となっているのです。〉と"イジメは禁止行為"の認識の定着を刑法頼みで指摘しているのである。そのことも忘れて、このようなの認識の定着を「いじめ防止法」が可能であるかのように装う。ご都合主義はどこまで行けば済むのか、底なしに見える。

 〈スピーディーな対応はアメリカだからできたのだなどという言い訳は通用しません。スピードの違いは危機感の違いなのです。人が、社会が、そして国が本気で子どもを守りたいと考えているか否かの違いです。その本気度を日本も示してほしいものです。〉――

 言っていることは立派過ぎる程に立派だが、刑法頼みが教育の放棄というステップを踏むことを教育学者であるにも関わらず一切気づかない言説の垂れ流しとなっている。イジメのなくならない現状と自身がイジメの未然防止論だか、イジメの克服論だかで論じているイジメの抑止の方法論との大きな食い違いに背に腹は代えられない気持ちにさせたのかもしれない。だが、刑法頼みは自身がこの書籍で書いている教育を用いたイジメの抑止を、あるいはイジメの克服を、尤も実現のための具体的な方法論は満足に書いていないのだが、全て無益なことに貶めることになる。

 「少なくとも『防止条例』の設置は不可欠です

 尾木直樹は「いじめ対策法」の成立に時間を要するなら、全国全ての自治体で「いじめ防止条例」を制定すべきだと、あくまでも法的措置に下駄を預ける方向に熱心となっている。

 〈条例には罰則規定はありませんが、市民の意識を高め、学校の先生、保護者、子どもたちに向けて、お互いを思いやる心を大切にし、大人も子どももそのような生き方をしていこうというメッセージの発信としては大変に重要です。〉――

 教育でしなければならない市民意識の向上、相互共感能力(=お互いを思いやる心)の育みを「いじめ防止法」の制定までの間、自治体の条例に期待する。どこまで教育の放棄へと突き進もうとしているのか際限が知れない。結局は自身の教育評論家としての能力不足の裏返しでしかない。綺麗事、ご都合主義、矛盾だらけの『「脱いじめ」論』の当然の行き着くべくして行き着いた「いじめ防止法」任せ、条例任せといったところなのだろう。

 〈いじめへの認識が不足している今の日本には、条例によって 大人社会、そして子どもたち自身に「いじめ」についての認識と理解を高めていくことがとにかく必要とされています。〉――

 「いじめへの認識が不足」は第一番に学校の努力不足、教育力不足を挙げなければならないはずだが、挙げたら、教師や保護者向けに現実には役に立たない綺麗事のイジメ防止教育論しか垂れ流していないことに気づかれてしまう。

 この書籍の締めくくりとなる最後の言葉。
   
 〈2012年10月に公布された岐阜県可児市の「子どものいじめ防止条例」は、子どもに特化した防止条例としては全国初のものです。内容も、ロマンのある高い理念を掲げ、さらに市・学校・保護者・地域に対する「責務」を明確に記し、専門委員会の設置や市長の是正要請の権限にまで踏み込んだ網羅的な内容になっているという点で、条例作成のモデルとなるものです。  

 可児市の条例を参考に、温かく「人権・愛・ロマン」あふれる防止条例が速やかに全国に広がっていくことが早急の願いです。

 もちろん法律や条例ができたからといって、それだけでいじめが完全に克服できるわけではありません。しかし、事態は急を要します。大人が総力を挙げて、いじめの泥沼からひとりでも多くの子どもたちを救い上げていかなくては、この先も命を絶つ子どもたちのニュースに心を痛め続けることになります。

 子どもたちをいじめから守るためにいかに行動を起こすか。社会全体でどう子どもを救っていくか。私たち大人たちには、今その覚悟が問われているのではないでしょうか。〉――

 岐阜県可児市の「子どものいじめ防止条例」を「条例作成のモデル」として推薦しながら、「もちろん法律や条例ができたからといって、それだけでいじめが完全に克服できるわけではありません」と逃げの手を打つ責任逃れの用意周到さは八方美人の面目躍如といったところである。

 可児市の「子どものいじめ防止条例」が「子どもに特化した防止条例としては全国初のもの」であろうが何だろうが、「ロマンのある高い理念」を掲げていようが掲げていまいが、「市・学校・保護者・地域に対する『責務』を明確に記し」ていようがいまいが、法律、条例を制定しただけ、あるいは存在させているだけでイジメのどのような制御弁となるわけではない。イジメを働く主体に位置する児童・生徒が自身の、特に対人関係行為・活動が有意義な可能性の追求となっているか、有害な可能性の追求となっているかどうかを自省できる理性・感性の類いを備えているかどうかに掛かっているのであって、尾木直樹大先生は決定的に思い違いをしている。

 ネットで可児市のイジメに関する情報を探してみた。条例自体は「ロマンのある高い理念」を掲げていようがいまいが意味のないことだから、要は条例がイジメの抑制にどれ程の効果を上げているかに尽きる。効果の程度を可児市の次の記事から見てみる。

 《令和3年度 可児市いじめ防止基本方針3つの指標について》

 小学校調査児童生徒数5141人、いじめ認知件数581人から1000人当たりを計算すると、113人となる。「調査児童生徒数」となっているが、長期欠席者や不登校児童を除いた全児童数ということでなければ性格な数字は出てこない。

 対して《令和3年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要》(文科省/令和4年10月27日)から小学生のいじめ認知件数は500,562件、1000人当りは79.9人で、全国計算よりも1000人当りで33.1人も多いことになる。

 要するに可児市の「子どものいじめ防止条例」の制定当時は教師も児童・生徒もイジメ防止に意識を高く持つだろうから、多少なりとも効果を上げるだろうが、肝心なことは継続性である。実質的に効果が見込める条例なら、年々の効果の積み重ねによって現状では取るに足らないイジメ問題に帰していなければならないが、そうはなっていない現状しか浮かび上がってこない。
 
 尾木直樹のロマンのある高い理念を掲げているだ、責務の対象を明確にしているだ、専門委員会の設置や市長の是正要請の権限にまで踏み込んだ網羅的な内容になっているだはイジメの抑止という点に関してはさしたる意味を持たないことになる。

 児童・生徒に対して条例の目的や定義を如何に理解させ、理解させた上で如何に自身の行為・活動に反映させるかが決め手となるのだから、教育の責任が全てと言っていい。尾木直樹が並べ立てている、いじめの泥沼からひとりでも多くの子どもたちを救い上げていく、そうしなければ、この先も命を絶つ子どもたちのニュースに心を痛め続けることになる、子どもたちをいじめから守るために如何に行動を起こすか、私たち大人たちには、今その覚悟が問われている云々の問いかけは如何にも喫緊の課題であるかのように見せかけてはいるが、イジメの本質的な解決策、どうすべきかから離れているゆえに巧みな言葉を用いた見せかけの危機意識に過ぎない。

 大体が尾木直樹のこの『「脱いじめ」論』自体が綺麗事、ご都合主義、矛盾で成り立たせた本質的なイジメ解決策とは的外れの論考に過ぎないのだから、尾木直樹自身の覚悟の無さこそが問われるべきだろう。

 この書籍出版が2013年2月。7ヶ月後の2013年6月28日に「いじめ防止対策推進法」施行。約8ヶ月後の2014年3月初版発行立憲民主党小西洋之の著作を紹介している小西洋之自身のネット記事、《いじめ防止対策推進法の解説と具体策》(2015年5月21日)にはかの著名な教育評論家尾木直樹の推薦の言葉を彼の上半身の写真付きで載せている。文飾は当方。

 〈教職員•保護者のための立法者による初の解説書
「本書は、子どもの命を救う法律に息を吹き込み、血を通わせる、いじめ対策のバイブルである」 教育評論家 尾木直樹氏推薦〉

 尾木直樹大先生は2013年9月28日施行の「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」と見ていた。法律こそがイジメの未然防止、あるいはイジメの克服に役立つと位置づけていた。死刑制度も、少年法の適用年齢引き下げも、犯罪の歯止めには役に立たないといった趣旨の主張をしていながら、自身のこの著作にも見えるようにイジメ防止に関わる法律には全幅の効用と信頼を置いていた。

 このことの裏を返すと、自身の著作『「脱いじめ」論』には全幅の効用と信頼を置くことができていなかったことの暴露となる。大体が的外れの綺麗事を並べただけの言葉の羅列に過ぎないから、役立つはずはないのだが、教育学者の立場で、『「脱いじめ」論』を書きながら、イジメ防止の法律を頼みとする、これ程のペテンはないだろう。

 尾木直樹は「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」と最大限に評価しながら、いつ頃からか、盛んに法の改正を叫んでいる。例えば一例。

「旭川女子中学生凍死事件 ~それでも「いじめはない」というのか~」(NHKクローズアップ現代+/2021年11月9日)

 2021年3月23日の旭川女子中学生イジメ凍死事件を受けて尾木直樹は「NHKクローズアップ現代+」の番組に出演、インタビューを受けている。イジメはイジメっ子が100%悪い、イジメをしなければ、イジメ被害者は出ない、出さないように「加害者指導」が必要、この力量を教育的に学校現場や教育委員会はつけなければいけない、新たな被害を生まないための対策を盛り込んだ「いじめ防止対策推進法」の改正にも着手できることが理想だなどと発言している。

 「いじめ防止対策推進法」を「子どもの命を救う法律」だと太鼓判を押しながら、そのような法律とはなっていない現実を突きつけられて、その改正に期待をかける法律頼みの姿勢は変えないままでいる。

 この法律頼みは法律そのものがイジメを止める力があるわけではないという事実に対する無知と法律どおりに行動できるかどうかは人間の理性・感性の類いが決め手となるという事実に対する無知、さらには法律どおりの行動への期待は一にも二にも啓発という名の教育を必要とするが、その放棄になるという事実に対する無知――尾木直樹は何重もの無知を犯しながら自らを教育学者として立脚させている。

 尾木直樹が「NHKクローズアップ現代+」で語ったようにイジメをしなければ、イジメ被害者は出ないは100%その通りの事実である。誰にも分かっていることだが、尾木直樹はたまには正しいことを言う。だが、同じく発言している「加害者指導」はイジメが起きる前ではなく、イジメ被害者本人がイジメられていることを訴え出るか、教師か他の児童・生徒の誰かが目撃して公になるか、進行中のイジメが学校側に認知されて、誰が加害者か判明するのを待ってから初めて「加害者指導」は可能となるのであって、当然、イジメ被害者は出ない、出さない段階での「加害者指導」は不可能であるにも関わらず不可能を可能であるかのように尤もらしい言説を垂れる。

 自身の論理矛盾に気づかずに、ハイ、優秀な教育評論家でございますといった顔で得々と喋るから始末に負えない。だが、"得々と"に多くの人間が騙される。天下のNHKでも騙される。

 「加害者指導」の力量を教育的に学校現場や教育委員会がつけたとしても、事後解決の力量を身につけるだけであって、イジメ被害者は出ない、出さないといったイジメ未然防止の力量とは異なる。この手の力量に関する考え方は尾木直樹の頭の中には存在しない。存在したなら、イジメ防止法に頼ることも、類似の条例に頼ることも、イジメ防止法の改正に頼ることもない。

 誰が加害者となるのか分からないのだから、「加害者指導」ではなく、全児童・生徒対象の「イジメ防止指導」でなければならないのだが、「加害者指導」などと尤もらしい呼称を掲げて自身の独自性をウリにする。最たる綺麗事に過ぎない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川勝知事新規採用職員訓示に日本の教育の反映を見る 日本最優秀の教育学者尾木直樹先生はそうは見なかった

2024-04-05 15:31:57 | 教育

 2024年4月1日、川勝静岡県知事が新人職員への訓示の中で職業差別とも捉えられかねない発言をしたとマスコミから一斉に批判を受けた。訓示自体が日本の教育を反映していると読んだが、川勝知事自身が日本の教育で育ち、日本の教育を血肉としているということであろう。2024年4月2日付け「asahi.com」記事が訓示全文を紹介しているから、必要な箇所だけ利用させて貰う。

《川勝知事の訓示全文 静岡県の新規採用職員へ「県庁はシンクタンク」》

静岡県の川勝平太知事(75)が1日に県庁であった新規採用職員に対する訓示で、特定の職業に携わる人などへの差別とも受け止められかねない発言をした。訓示の全文は以下の通り。(静岡県の公式チャンネルでも配信されています)

 静岡県知事の川勝平太でございます。この度、令和6年度4月1日をもって、静岡県庁の職員として、職員を選んで頂いて、ありがとうございました。

 静岡県庁の職員5800人ぐらいいるんですけれども、県庁の職員すべてを代表いたしまして心からご歓迎を申し上げたいと思います。難関だったんじゃないですか? そうでもないですか?

 聞くところによると県庁の職員になるには、かなり高度な試験をマスターしなくちゃいけないと。かつ、そのための準備もひとかたならぬものがあるという風に聞いております。こういう形でみなさま方、同期になられた数は233名であります。そして、きょう、この本庁に配属になった方たちが77名いらっしゃる。残りの156名の方たちは、きょう1日からそれぞれの出先機関で辞令を受けるなり、そして、いま研修を受けられているという風に承知しておりますが、ともあれ、本当は全員にお顔を見せていただき、また、お話をしたかったんですけれど、70何名の方だけとはいえ、こうした形でお目にかかれて大変うれしゅうございます。

 今年はご案内の通りですね、能登半島ですさまじい地震がございまして、まだ厳しい生活を受けられている方がたくさんいます。一番最初にですね、心得ておくべきことは危機管理です。静岡県はみなさま方、生まれるはるか前、1979年、昭和で言うと54年になるでしょうか、その頃にですね、東海地震説というのが唱えられまして、で、東海地震で確実に静岡県は被害を受けると、1979年のことでございましたが、それ以来ですね、毎年、危機管理のための防災訓練をしていました。

 そのうち東海地震だけで単発で起こるんではなくて、東南海地震と連動する可能性があると、いや南海地震と3連動する可能性もあるということにもなりまして、いまはですね、南海トラフの巨大地震、これはプレートテクトニクスによって起こる地震ということですが、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む時にズレてですね、起こる地震ということで、この地震が仮に起こりますと、何もしなかった場合、30万人ぐらいの方たちが犠牲になると言われています。そのうち静岡県だけで10万人ぐらい犠牲になるという、そういう数値が2013年ぐらいに出ました。

 静岡県では、もうその時からそれをゼロにしようということで、現在は8割ぐらいの人が想定ですけれども助かる形になっておりまして、ただし、まだ全員が助かるというのは。ですから、能登半島の大きな地震というのは決してひとごとではありません。

 従って、いつ何時そういうことが起こるかもしれないと、私どもはパブリック・サーバント、公僕ですからまずは自分が元気でなくてはいけませんので、自己の危機管理を最優先にしつつ、同時に人を助けるということですから、人助けのために何をするべきか、それぞれの班なり、部局で何をするべきかということが共通認識になっておりますので、また抜き打ちの、場合によっては防災訓練が行われる可能性もあります。その時にですね、戸惑わないで、落ち着いて、人を助けるためにまず自分が何をするべきかということを心得ておかねばならないという風に思います。

 これが、まず静岡県の、県庁としてですね、360万人の人たちの生命と財産を預かっておりますので、これを守るという危機管理をしっかり胸の中にたたみ込んでですね、仕事してください。

 それからですね、公務員ですから、人の役に立つと、それから社会の役に立つということがとても大切です。なかなか自分でそういう気持ちを持っていてもですね、それが出来るものではありません。そのためにはですね、やはり「職員のみなさま方は立派だ」という風に尊敬されていくことがとても大切で、これからコンプライアンスといって、法令順守のこともいろいろ言うかもしれませんけれども、基本的にですね、公務員として身に私を構えないと、公務においては身に私を構えない、これも大切なことですね。それから、公の仕事をしていますから、心は素直でうそ偽りを言わないと、これもとても大切なことです。

 それからですね、ちょっと難しいかもしれませんけれども、上にへつらわない、下に威張らない、まあ、下がいませんね……。ですから、上にへつらわないと。そういう気持ちが出てきてもですね、逆に仮に威張る人がいたらですね、こういうような上司にはならないということで反面教師にしてください。上にへつらってはならない、下に威張らないと。

 で、言葉遣いはとても大切です。ですから「です・ます」調というのが基本になるようにしていただければと思います。上司の方々もですね、それを心がけていますけれども、やはり年齢が離れていたり、責任が違いますので、場合によっては口語調あるいはため口になるかもしれませんけれども、基本的に言葉遣いは礼儀正しくするということがとても大切です。

 それから何より、人の艱難(かんなん)はこれを見捨てないと。人が困っている時にですね、助けるというのが我々の仕事です。ただ、それぞれ預かっている部局によって、これは自分の担当ではないということがあるかもしれません。だけど、静岡県庁に来られる人たちはですね、何か助けを求めて来る人、返事を求めて来る人がいますから、どうしたらこの人に力になれるか、それを一緒に考えるということが大事ですね。そういう癖を持つと。これは先例がない、前例がないということではなくて、どうしたらこれを解決できるかというように考えると。やがてみなさんもこれから60過ぎくらいまでお仕事されるわけですけれども、様々な部署に行かれると思います。その時にどういう風にすると一番いいかなということをですね、仮にその決定権を持っていなくても考えるということが大切ですね。で、もし可能なら、その担当局の方に紹介して差し上げるということも、それを出来る勇気を持っていたら大したもんです。人の艱難(かんなん)はこれを見捨てないということですね。

 それからですね、我々はふじのくに静岡県といいます。富士山、これは2013年6月22日に世界文化遺産になりました。信仰の対象、または芸術の源泉ということで、あの品格のある姿、その姿を自分の心の姿にしていただければと思いますね。富士山に向かって恥ずかしいことをしない。つまり自分、天知る、地知る、己は己のことを知っていますから、天知る、地知る、そして自らも知っているということで、そこに富士山をかがみとして恥ずかしいことはしないということです。

 それからみなさん優秀ですから、なかなか物をわかってくれない人がいるかもしれない。その時にですね、情理を尽くすということが大切です。理屈ではわかっていても、腹にストンと落ちない場合があります。ですからハート・トゥ・ハートで、その心からこうすると本当に良いというように言って差し上げるとストンと落ちる場合がある。ですから情と理、情理を尽くして、自分が正しいと思う信念を貫くということが大切です。

 そしてですね、そのためにはですね、やっぱり勉強しなくちゃいけません。実は静岡県、県庁というのは別の言葉でいうとシンクタンクです。毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです。ですから、それを磨く必要がありますね。で、それは磨き方はいろいろあります。知性を磨くということ。それからですね、やっぱり感性を豊かにしなくちゃいけない、それから体がしっかりしてないといけませんね、ですから文武芸、三道鼎立(ていりつ)と。文武両道というのは良く聞くでしょう。しかしですね、美しい絵を見たり、良い音楽を聴いたり、映画を見たり、演劇を見たりした時にですね、感動する心というものがあると望ましい。

 ですから、自分の知性がこの人に及ばないなと思ってもですね、知性というものを大切にするということが大事ですね。そのためにはやっぱり勉強しなくちゃいけません。それから体を鍛えると。しかし、スポーツが苦手な人もいらっしゃるでしょう。でも、スポーツを楽しむことはできますね。見たり、楽しむこともできます。まあ、無芸大食の人もいるでしょう。しかし、芸術を愛することはできますから、文武芸、三道鼎立ということでですね、豊かな人間になっていただきたいと思います。

 人に情けをかける、もののあわれを知ると昔からそういう風に言われますけれども、人に情けをかけることはですね、情けは人のためならずという言葉がありまして、つまり人のために助けるんですけども、結果的には自分のためになっているということが多いんです。ですから、人に情けをかけるという、困っている人は助けるということを、こうしたことをやってください。(以下略)

 能登半島地震が起き、静岡県も南海トラフの巨大地震の発生が予測されている。これはプレートテクトニクスによって起こる地震ということで、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込む時にズレて起こる地震で…云々は静岡県庁の職員としては災害関連以外の部署に配属される予定でいたとしても、東日本大震災や今回の能登半島地震の例もあるから、前以って一般常識としていなければならない危機管理上の知識・情報であるはずだが、それを新入職員の訓示で改めて伝える。

 この過剰な世話焼き、過干渉は日本の学校教育で一から十まで、"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼く姿と通底している。日本の学校はこうすべきと教える対象者を一個の人格として扱うことができず、基本を教えて、あとは本人の判断に任せるということができていないために中高生に対しても"ああしなさい、こうしなさい"がなくならない。現在も残っている暗記教育にしても基本のところで"ああしなさい、こうしなさい"と一から十まで教える力学によって成り立たせている。

 こういった現象は個々の生徒を判断力を有する一個の人格と看做して、教えることを最小限に抑えて、あとは自分で考えて答を考えさせるという訓練を行ってきていないことから生じているのだろう。結果、教えるに時間がかかることになって、教師の長時間労働に繋がっている。

 家庭教育でも子どもをそれなりに判断能力を有する一個の人格と認めることはせず、"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼き、入学一年のスタート地点から自分から考えさせて自分の行動を自ら決めさせる発想の元、一人前に持っていくという思想を欠いているために一から十まで教える過剰な世話焼きが延々と続き、社会人になっても、一個の人格としての扱いができず、"ああしなさい、こうしなさい"が入庁の訓示にまで続き、入庁後も各部署の上役から、"ああしなさい、こうしなさい"と指示を受けて、結果、指示の範囲内で効率を上げていく程度だから、目を見張る創造的な発展性や生産性の向上が望めないことになる。まさしく日本の教育課程で植え付けられた思考構造の反映を川勝知事が自ら演じている。

 災害発生の予測不可能性から、最優先とした自己の危機管理を対県民ということだろう、救援・救命や生活保全に備えて何をすべきか、各部署でのルールに則った「共通認識」で動き、防災訓練の場合は、〈戸惑わないで、落ち着いて、人を助けるためにまず自分が何をするべきかということを心得ておかねばならない〉云々と、自分の常識として備えていて自ら考えて行動しなければならないことを任せることのできる信頼性を持ち得ず、信頼性を持ち得るには何かが足りないのだろう、手を取り、足取りのように指示する。

 指示を受ける側も手取り、足取りの指示を当然のこととして抵抗もなく受け入れ、日常慣習化している。中には腹の中ではそんな指示を受けなくたって、常識じゃないか、分かってらあと反発しても、上に向かって悪しき慣習を改めさせる勇気はなく、表面的に従い続けるうちにそのこと自体が自身の慣習となっていく。

 公務員として人の役に立ち、社会の役に立つことは大切なことで、役に立つ基礎として県民に尊敬される対象となること、第一にコンプライアンス(法令順守)を先に持ってきて、身に私を構えないこと(「出水兵児修養掟(いずみへこしゅうようおきて)」(出水市)には、「身に私(わたくし)を構(かま)へず」は、「自分よがりの考えをもたないこと」と現代語訳されているが、要するに私情(個人的な感情や利己的な心)を挟まないことということなのだろう、そういった姿勢が大切で、公務という性格上、「心は素直でうそ偽りを言わない」ことが肝要であると、一から十まで、"ああしなさい、こうしなさい"と手取り、足取りの世話を焼く。

 さらに上にへつらわず、下に威張らずの態度の必要性を言い、下に威張る人がいたら、反面教師にしろと、表面をなぞるだけの指示も暗記教育の反映であろう。なぜなら、上司の部下に対する威張り、その行き過ぎたパワハラは諌める部下の不在の証明でもあり、その不在の証明は部下自体の従属性を纏う一方の姿の証明となるだけだが、当然、変えるべきは部下自体の従属性であるはずが、そうはせずに反面教師にするということは上司の威張りにじっと我慢する従属性はそのままにすることになるからだ。

 さらに常識として弁えていなければならないはずの言葉遣いを"ああしなさい、こうしなさい"と世話を焼かなければならない。大体が言葉遣いをあれこれと世話を焼かなければならないような、時と場合を弁えないままの人材の採用に判を押したこと、あるいは採用し続けること自体を問題としなければならないはずだが、方向違いにも言葉遣いに世話を焼く。親や教師の子どもに対する世話を焼くことと共通している。

 困難な状況に立たされて相談に来た来庁者に対しては粗末に扱うのではなく、親切に相談し、対応することと極々当たり前のことに世話を焼かなければならない。相談が自分の担当ではなくても、「どうしたらこの人に力になれるか、それを一緒に考える」、先例・前例がなくても、あるいは自身に決定権がなくても、何か解決方法がないか模索する、担当違いなら、「その担当局の方に紹介して差し上げる」、〈それを出来る勇気を持っていたら大したもんです。〉云々と常識としていなければならない姿勢、行動をあれこれ指示し、要求する。

 指示され、要求される側も世話を焼かれるのを子どもの頃からの当たり前の慣習としているから大人しく当たり前の様子で静聴する。

 あの品格のある富士山の姿を自分の心の姿にして、富士山をかがみとして恥ずかしいことはしないようにして欲しいは自らの身はそれぞれに自らの方法で律する術を相当程度に学んでいなければならない年齢の人間にそれぞれの方法に任せることができずに富士山の姿を自分の心の姿にしろと一律にある種の強制となる世話を焼いていることになる。

 依頼事に納得のいかない来庁者に対しては優秀なみなさんは情理を尽くし、ハート・トゥ・ハートで自分が正しいと思う信念を貫きなさいと自ら学ぶべきこと、あるいは自ら学ばなければならないことをそれぞれに任せることができずに一つ一つ手ほどきする。こういったことも学校教育の慣習を受け継いだ過剰な世話焼きに入る。川勝知事はそういった学校社会の空気を吸って育った。学校教育の慣習を一般社会の慣習として受け継いでいるから、県知事にまで上り詰めても、その慣習が抜けきれずに、手取り足取りの世話焼きから抜け出ることができない。

 川勝知事は県庁をシンクタンク(研究機関)と称しているが、福祉、災害、教育等々、それぞれの在り方や政策の向上、住民利益の向上や公平性、政策執行の効率化といった役割に於いてシンクタンクの一面を担っていないわけではないが、ここまではいいとして、〈毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです。ですから、それを磨く必要がありますね。〉は、勉強のできる子とスポーツのできる子はいい子で優秀な子という学校社会で通用させている価値観、いわば多様な可能性に対する差別をそのまま一般社会に引きずってきている、日本の学校教育の反映が如実に現れることになっている姿であろう。

 学校社会の悪しき慣習を一般社会にまで持ち込んだまま年齢を重ねても断ち切ることができない川勝知事も悪いが、もしこの発言が職業差別とも捉えられかねない発言であるとするなら、先ずは学校社会の多様な可能性をそれぞれに等しく認めていない可能性に関わる差別をなくすべきだろう。なぜなら、多くの日本人がホワイトカラーよりも肉体労働者を差別とまでいかないが、一段低く見る偏見は学校社会での可能性に関わる差別の延長にある現象だからだ。

 勉強のできる子やスポーツのできる子が勉強のできない子やスポーツのできない子に持つ意識・無意識の優越感を解消し、可能な限り対等関係に持っていくためにはどのように学校の成績が悪い子どもであっても、何らかの可能性を見つけ出す手伝いをして、見つけ出した可能性を尊重し、伸ばしていくための助言を与えて、勉強のできる子が勉強を自らの居場所とし、スポーツのできる子がスポーツを自らの居場所としているように勉強のできない子であっても、自らが見つけた可能性の追求を自らの居場所とできて、学校生活を充実させて送ることができるようになれば、彼らが勉強やスポーツのできる子に持つ下位意識は自然と薄まり、彼らにとって勉強やスポーツのできる子が彼らに持つ上位意識は相対的に意味が薄れていくことになり、このこととの連動でこのような意識を優越的な立ち場で一般社会にそのまま引きずっている川勝現象も余程の例外を除いて消えていくことになって、世間的に肉体労働者をホワイトカラーよりも差別とまでいかないが、一段低く見る偏見は少なからず是正されていくことになるだろうからである。

 学校教育での上下の物差しで計られることになる優劣の価値観が一般社会に於いても影響していて、牛の飼育で生活するのも、野菜を売ったりするのも、モノを作ったりするのも、一つの可能性であると同時にそれぞれがそれぞれの可能性への挑戦であることが蔑ろにされている。

 知性を磨け、感性を豊かにしろ、三道鼎立(ていりつ)(文(学問)、武(スポーツ)、芸(芸術)の3つが調和することだとネットに出ていた)だ等々、それぞれの自覚に任せるべきを任せることができずに口出ししてしまう。親や教師が子どもがすることなすことを任せることができずにあれやこれや口出ししてしまうように。

 「美しい絵を見たり、良い音楽を聴いたり、映画を見たり、演劇を見たりした時にですね、感動する心というものがあると望ましい」、「知性というものを大切にするということが大事だ」、「人に情けをかける」、「結果的にじぶんのためになる」等々、どこまで行っても、それぞれの判断に任せることができない。

 できていたなら、言うべきは次のようなことであるはずだ。

「みなさんがどう成長していくか、どのように成長した姿を見せるか、その成果はみなさんの自覚と努力次第でもたらされることになるが、年々の成長に具合を周囲に見せることになるし、自分自身も自分の年々の成長の具合を判定できる目を持たなければ、不足を補い、伸ばすべきは伸ばす点を弁えることもできなくなる」

 任せる信頼を寄せることが信頼関係の構築に重要なことのはずだが、世話を焼くばかりで、それができない。学校教育の悪しき慣習の反映に過ぎない。

 以下、「身に私を構えず、上にへつらわず、正直であること」も、「情理を知って、人に情けをかける」ことも、いわば「見返りを求める親切はいけない」ことも、世話を焼いてさせるよう仕向けることではなく、自ら学んでその必要性を自覚しなければできないことで、自覚が意志の形を取ったとき、誰に言われるまでもなく自分から進んで行うことのできる行動、働きかけとなる。

 相手が置かれた立ち場立ち場で"できる"という相手の可能性を信頼して、「あなたがたは年齢相応に応じた、あるいはそれ以上の可能性を備えているはずで、その可能性を既に備えてここに立っているはずだ。あなた方にとっては何を今さらといった指摘でしょうが、それぞれの可能性は自らの意志・判断に基づいて責任ある行動を心がけることのできる主体性と、他の助けや支配を受けずに自ら立ち、自ら行動できる自立心、同じく他の助けや支配を受けずに自ら立てた規律に従って自らの行動を律することのできる自律心の三つの行動特性を確固とした柱としているはずだから、どのような部署に配属されても、自ら学び、自ら行動する力を発揮することになるだろうし、他の部署に移動になったとしても、あるいは他の県に自然災害が発生して自然災害関連以外の部署からその県庁に災害関連の応援に駆けつけることになったとしても、その場に自身を置けば、その場の状況に応じて自身の可能性の柱としている主体性・自立心・自律心がその場の状況に応じて学びながら臨機応変に対処していく態度を随時発揮することができて、困ることはないだろう」

 相手の可能性と可能性が年齢相応に備えているはずの主体性・自立心・自律心に期待をかける訓示のみで相手を信頼していることになり、相手への信頼が相手の主体性・自立心・自律心をよりよく引き出す力となって、積極的な行動を促すことになる。

 当然、学校教育に於いても成績の優劣に関係なしに自分の可能性を見つけ出すことができていな子どもに何らかの可能性を見い出すことができるようにし、見つけ出した可能性を自ら発展させていく過程でその"自ら"という姿勢が主体性や自立心、自律心を育むキッカケとなり、育んでいくことになるだろうから、そうなれば、川勝現象は限りなく必要性を失い、姿を消していくことになる。

 当方は川勝静岡県知事の新規採用職員訓示をこのように読んだ。一方、日本の著名が教育学者は自身のブログで次のように読んでいる。

 《こりゃ〜即首ですよ!6月まで待てません!》((尾木ママ)オフィシャルブログ「オギ♡ブロ」Powered by Ameba/2024-04-02 19:11:25)

静岡県知事さんの『暴言』

桁はずれに酷すぎます

農業や畜産、ものづくりの職業を侮辱するとはーー

更に

公務員をシンクタンクで持ち上げるとはーー

国家公務員、地方公務員問わず

国民・県民の為に働く『公僕』たれ

と訓示、期待を表明すべきところを

どうかしていますねーー

今すぐの辞職と詫びを期待したいです

みなさんはどうですか?

尾木ママ

久しぶりに怒りでいっぱいです

 要するに訓示を"農業や畜産、ものづくりの職業を侮辱する、桁はずれに酷過ぎる『暴言』"とのみ読んで、頭に血を上らせた。

 読みの正当性は読者の判断を仰ぐしかない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍派政治資金パーティキックバック裏金:22年4月と8月の会合を作り話とすると、全てがスッキリする

2024-04-01 11:29:17 | 政治
 今回の政治資金パーテー収入のキックバック裏金問題は、「Wikipedia」をなぞって説明すると、〈2022年11月にしんぶん赤旗が5派閥の政治資金収支報告書への多額の不記載をスクープ。同月から神戸学院大学教授の上脇博之は独自に調査を開始し、東京地方検察庁への告発状が断続的に提出され、2023年11月に読売新聞やNHKなどが報じたことで裏金問題として表面化した。〉ということで、同「出典」によると、読売新聞は2023年11月2日に報道し、NHK NEWS WEBは2023年11月18日に報道している。つまり安倍派や二階派の政治資金パーテー収入キックバック裏金問題は2023年11月に入ってから世間を騒がすことになった。

 安倍派は派閥の政治資金パーティのパーティ券販売で所属議員にノルマを掛け、ノルマを超えた分はキックバック、キックバック分のカネの収支については派閥側も所属議員側も収支報告書への不記載が発覚、告発を受けて東京地検特捜部が取調べに入ったが、所属議員はキックバックと不記載に関して嫌疑なしで不起訴処分となり、安倍派清和政策研究会会計責任者のみが在宅起訴となり、初公判は5月10日という。

 収支報告書不記載は事実安倍派清和研究会の会計責任者と各個人の政治団体の政策秘書間の独断行為で派閥幹部議員は関知していないことで、現金還付について知ったのは2022年4月の安倍晋三と派閥幹部4人との会合だったとしているが、世論と野党は納得せず、政治倫理審査会が2024年3月に衆参で開催されることになった。同じく虚偽記載を問われた二階派を代表して出席することになった二階派事務総長の武田良太の質疑は除外して、安倍派幹部西村康稔、松野博一、塩谷立、高木毅、下村博文、世耕弘成のうち、2024年3月1日の西村康稔に対するトップバッター、自民党の武藤容治の、安倍晋三が現金還付中止の指示を出した際の具体的な経緯に対する質疑応答のみと、同じく西村康稔に対する立憲民主党の枝野幸男の追及、2024年3月18日の下村博文に対する同立憲民主の寺田学の追及、2024年3月14日の世耕弘成に対する同立憲民主の蓮舫の参院政倫審の追及を文字起こしして、幹部たちは慣習と称しているが、ほぼ制度化していたキックバック確立と政治資金収支報告書不記載に関与していないとする釈明、あるいは弁明の正当性を窺ってみる。野党もマスコミも解明の鍵となるのが政倫審開催当時(最後が下村博文の2024年3月18日の衆院政倫審)は安倍晋三がキックバックの中止を指示したとされる2022年4月の幹部会合と、一部の議員からノルマ超過分を戻してほしいとの要望があり、その対応を話し合ったとしている8月の幹部会合と見ていたから、政倫審ではその点をどのように追及するか焦点を当ててみたいと思う。

 では、最初に武藤容治、68歳、岐阜3区、麻生派。必要なところだけを抜き出す。

 武藤容治「還付・不記載があったということは、(西村康稔本人は)これは知らなかったという内容ですね。どういうカネと言いますか、不記載があったということ、それが(清和研究会の)事務局長さんだけが長年の慣行としてやってきたのか、色々な情報が出ている中で今の西村さんの認識をもう一度確認させてください」

 同じ自民党だからだろう、手ぬるい質問となっている。

 西村康稔「ノルマについてもどういうふうに決まっていたのか承知していない。会長と事務局の間で何らかの相談があって決められたのではないかと推察するが、どういう会計処理がなされていたのか承知をしていない。ただ今思えば、事務総長として安倍会長は令和4年、2022年4月に、『現金の還付を行っている。これをやめる』と言われて、幹部でその方向を決めて、手分けをして若手議員にやめるという方針を伝えた。

 安倍会長はその時点で何らかのことを知っておられたのだと思う。どこまで把握していたのか分からないけれども、現金は不透明で疑念を生じかねないから、こうした現金の還付をやめると、還付そのものをやめると、いうことで我々で方針を決めて、対応したわけでありました。

 その後、安倍会長は亡くなられて、その後ノルマを多く売った議員がいたようでありまして、返してほしいと出てきた。それを受けて、8月の上旬に幹部で議論し、そしてどうするか。還付は行わないという方針を維持する中で返してほしいと言う人たちにどう対応するか、色々な意見があったことと結局結論は出ずに私は8月10日に経済産業大臣になったので、事務総長は離れることになります。

 その後、どうした経緯で現金の還付が継続することになったのか、その経緯は承知をしておりません」

 西村康稔のこれだけの答弁の中で現金還付中止の理由と再開の事情についての表面的な経緯は十分に手に取ることができる。あとは事実を話しているかどうかである。

 4月と8月の会合が事実あったこととする前提で扱ってみる。先ず安倍晋三の「現金は不透明」の言葉は現金を使った還付方式の性格を言い表した言葉であって、その場に居合わせた安倍派幹部、塩谷立、西村康稔、下村博文、世耕弘成は安倍晋三の指示を受けて中止の方針を決め、その方向で対応したなら、「現金は不透明」の言葉に対して現金を使った還付方式の性格を目の当たりにし、納得し、中止に応じたことになる。なぜなら、現金で還付しても、還付側が政治資金収支報告書にその金額と何らかの項目の支出を記載し、還付された側が同じく政治資金収支報告書に同じ金額と同じ項目で収入として記載すれば違法とはならないのだから、その現金還付を「不透明」と性格づけている以上、どちらの収支報告書にも不記載か、あるいは政治資金規正法に触れる何らかの工作をした記載となっていることを承知していなければならない。承知しているからこそ、「現金は不透明」だから、その手の還付は中止するという指示に納得できた。

 要するに現金の扱いの何を以って「不透明」としているのか、安倍晋三と4人の安倍派幹部の間で暗黙の了解があった。暗黙の了解がなければ、還付中止へと話を進めることも進むこともない。

 現金還付が収支報告書不記載となっていることも知らなかった、「不透明」な性格だと気づいてもいなかった、ということなら、子どもではないのだから、「現金はどう不透明ですか」と「不透明」の理由を問い質さなければならない。当然、2022年4月の幹部たちの会合での安倍晋三との遣り取りの全容を追及しなければならないことになる。その遣り取りの中から、派閥幹部は不記載を承知していたかどうかを炙り出さなければならないことになる。

 参考までに政倫審の質疑応答でも取り上げているが、2022年の安倍派清和研究会の政治資金パーティー開催日は5月17日、安倍晋三銃撃死は約2ヶ月後の2022年7月8日。第26回参議院議員通常選挙が2日後の2022年7月10日。改選となる参議院議員にはパーティー券の販売ノルマは設けずに、集めた収入を全額キックバックしていたとマスコミは伝えている。いわば安倍晋三の4月のキックバック中止の指示は守られなかった。その結果、収支報告書不記載も続けられた。

 4月の会合で幹部たちは収支報告書不記載を事実承知していなかったのか、8月の会合で安倍晋三の中止の指示がなぜ有耶無耶になったのか、この二つが重要なポイントとなるのは誰の目にも明らかである。いくら不慮の死を遂げたと言っても、連続在任7年8ヶ月の2822日で、これまで最長だった佐藤栄作の2798日を抜いて堂々たる歴代1位の記録を達成し、この長期政権の恩恵を受けて自民党内で一番の派閥勢力を誇る安倍派内で幹部としての地位を築き、その利益によって安倍派勢力をバックに相対的に自民党内でもそれ相当の実力者としての存在感を手に入れることができている面々にとって安倍晋三はある意味絶対的存在であったはずだが、その効力は死んで一ヶ月かそこらで失うはずもないのに還付中止の指示が長くは持たなかった。その結果として幹部たちもその他の派閥所属国会議員も知らないままに、秘書だけが承知の上で収支報告書不記載が続けられることになったということになる。

 まず最初に西村康稔の政倫審質疑応答に先立って行われた本人の弁明から。安倍派清和研究会の代表兼会計責任者松本潤一郎は所属議員から集めた合計6億8千万円の収入と所属議員側に還付したりしたほぼ同額の支出を収支報告書に不記載、収入・支出共に過小に虚偽記入し、それを総務大臣に提出した政治資金規正法違反の罪で東京地方裁判所に起訴されたが、自身も検察の捜査を受けたものの立件する必要がないとの結論に至ったものと承知している。いわば会計責任者に違法行為があったとされたが、自身にはなかったと無罪宣言をしている。

 さらに2021年10月から2022年7月8日の安倍晋三銃撃死後の2022年8月まで安倍派清和会の事務総長を務めたが、役割は若手議員の委員会や党役職等への人事調整、若手議員の政治活動への支援・協力・指導、翌7月予定参議院選挙の候補者公認調整・支援等の政治活動で、清和会の会計には一切関わっていない。

「実際、今の時点まで私は清和会の帳簿、収支報告書など見たことはありません」

 パーティ券売上ノルマを超えた分の還付については自前で政治資金を調達することの困難な若手議員や中堅議員の政治資金を支援する趣旨で始まったのではないかとされているが、いつ始まったのか承知していない。還付にかかる処理は清和会歴代会長と事務局長との間で長年の慣行で行われてきたことで、会長以外の私達幹部は関与していないし、派閥事務総長と言っても、自身は関与していない。今回の問題が表面化するまで、収支報告書不記載は知らなかった。とは言え、国民の皆様の政治不信を招いたことを清和会幹部の一人として深くお詫び申し上げます。

 「承知していない」、「関与していない」が事実だとすると、安倍晋三の2022年4月の"現金は不透明・現金還付中止"の指示に少なくとも不審の念を抱いて、どういうことですかと詳しい説明を求めなければならなかったはずだが、そのような状況説明はないのは矛盾することになる。

 2022年の還付金については安倍会長の意向を踏まえ、幹部の間で行わない方向で話し合いが行われたものの、一部の議員に現金での還付が行われたようであるが、その後の還付が継続された経緯を含め、全く承知していない。だが、経産大臣となり、安倍派事務総長の任から離れたが、安倍会長の意向を託された清和会幹部の一人として少なくとも2022年については還付を行わないことを徹底すればとよかったと反省している。

 私自身は5年間で合計100万円の還付を受けていたが、その事実は把握していなかった。秘書によると、その還付金は自身の政治資金パーティの収入として計上していたことが分かり、個人の所得や裏金にしていた訳ではない。今後このようなことがないように丁寧に報告を受け、的確に対応していきたい。

 以上で西村康稔の全面無罪とする弁明が終わり、立憲民主党の枝野幸男の追及を取り上げてみる。枝野幸男は前の質問者自民党の武藤容治が2022年の4月の幹部会で安倍晋三が現金還付中止の指示を出した点について質問したことを持ち出して、「これ間違いないですか」とか、「直接個人として呼ばれて話をされたのか、他の幹部と何かのことで集まっているときに話されたのか」とか、安倍晋三の指示とその指示に対する幹部たちの対応に何の疑問も持つことができずに追及のテクニックとして的を的確に捉える嗅覚も鋭く切り込む勢いも言葉遣いも一切感じられない質問の仕方にこれはダメだなと感じた。

 西村康稔は4月の会合では安倍会長の元で還付をやめるという方針を決めた際、幹部で手分けして派閥所属の国会議員に電話して中止を伝えたことと出席者として安倍晋三以外に西村自身と当時会長代理だった塩谷立、同じく会長代理の下村博文、自民党参議院代表・幹事長の世耕弘成世、清和会事務局長(松本潤一郎)の名前を挙げた。

 そしてその後還付はしないという方向で進んでいたが、7月の安倍晋三銃撃死後、ノルマ以上売った議員から返してほしいという声があって、8月上旬に集まって議論したが、結論は出なかったと弁明で喋ったことと同じことを繰り返した。

 枝野幸男が4月の会合ではなく、8月上旬の幹部会合に追及の焦点を移して、下村博文が2024年の1月31日の記者会見で述べた、その会合で還付に代わる案として出た、ノルマを超えた分の還付は派閥所属議員が個人として開く政治資金パーテイに上乗せする形で行い、収支報告書では合法的な形で出すとした考えは西村自身の案なのか質問したのに対して西村康稔は、返してほしいという声に応えるために所属議員が開くパーティのパーティ券を清和会が購入する方法がアイデアの一つとして示されたが、採用されたわけではなく、どう対応するかは結論は出なかったと答えている。

 下村博文が2024年の1月31日の記者会見で述べた収支報告書に「合法的な形で出す」とした発言が8月の会合で西村自身が述べたのか、述べていなかったとしたら、他の誰かが述べたのか確かめなければならなかった。述べたとしたら、還付した現金は"合法的でない形"で収支報告処理されていることになり、このことを幹部たちは認識していたことになるからだ。だが、枝野幸男は「それ(その案は)、西村さん自身ですね」と確認しただけで終えてしまった。西村はそういう案があったと説明しただけで、そういう発言があったかどうかも述べずじまい済ませてしまう。 

 枝野幸男は西村康稔が5年間で還付を受けた100万円を秘書が西村個人が開いた政治資金パーティの売上に加えて収入として計上した点を捉え、その他追及するが、肝心なことは西村等清和会幹部がキックバックされたカネの収支報告書不記載を秘書のみの判断で行っていたことで、幹部たちは事実関知していなかったことなのかどうか、安倍晋三が「現金は不透明で疑念を生じかねないから、こうした現金の還付をやめる」と指示したとしている発言との関連で追及しなければならないのだが、このことを置き去りにした追及を続けるのみだから、文字起こしは見切りをつけた。この政倫審での枝野の追及に関してネット上の様々なマスコミ報道を見ても、肝心な点の追及とその効果に触れている記事は見当たらなかったから、見切りをつけたことは間違っていなかったはずだ。

 次は順番が後先になるが、2024年3月18日の下村博文に対する立憲民主党の寺田学の衆院政治倫理審査会の質疑を取り上げてみる。

 先ず本人の弁明。ノルマを超える分が派閥からの還付という扱いになっていることは知らなかった。そのカネが自身の選挙支部に補充されている認識もなかった。一部は現金として事務所内で保管していたが使用されないままとなっている。他は専用口座に預け入れたままになっていて、これらのことを東京地検が確認していて、いわゆる裏金として何かに使用された事実はなかったことは明らかである。但し派閥事務局から誤った伝達(収支報告書に記載しないでほしいという伝達)があり、収支報告書に記載されないままになっていたので、今般寄付として訂正した。

「私自身は知らなかったこととは言え、収支報告書に記載すべきものを記載していなかったことは事実であり、あらためて深く反省すると共に政治資金規正法並びに収支報告書記載義務に対する認識の甘さによって多くの方にご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げていただきます」

 以上の「知らなかった」、「認識もなかった」はやはり安倍晋三2022年4月の"現金は不透明・現金還付中止"の指示に何ら疑念を介在せることなく従ったことになり、指示伝達に対する了承が思慮のない、無条件の従属性を見せることになって、派閥幹部としての良識を疑わせることになる。

 逆に収支報告書不記載を承知していたからとした方が、派閥会長の「不透明」という言葉に即座に反応することができたと解釈することが可能となって、前後の整合性が矛盾なく収まることになる。

 更に2018年1月から2019年9月まで清和研の事務総長の立ち場にあったが、清和研の会計には全く関与していない、収支報告書について何らかの相談も受けていない、事務局に対して指示をしたこともない、清和研派閥政治資金パーティのパーティ券販売のノルマを超える分が還付されている事実も知らなかった。知ったのは2022年4月頃に当時の安倍会長から派閥からの還付をやめようという話を聞いたときだが、その還付金が収支報告書に不記載となっているという話はなかった。

 と言うことは、安倍晋三が「現金は不透明」の言葉をそのままスルーさせてしまったことになる。

 ノルマを超えた分を現金で還付しても、正当な名目付けで収支報告書に記載し、その名目付けどおりの
使途を行っていれば、何ら問題は生じないのだから、安倍晋三が"現金は不透明"を口にした時点では収支報告書不記載を事実知らなかったとしても、少なくとも"不透明"とした性格付けの中に不記載への疑いを選択肢の一つとしなければならなかったはずだが、そうしなかったとしたら、政治性善説に立ったあり得ないお人好しとなる。

 清和研としては当時の安倍会長の意向を受けて還付はやめようという方向となっていたものの、会長がお亡くなりになったあと、派閥の事務局に於いてこれまでの慣例に則って還付が行われたもので、当時は清和研の会長代理だったが、清和研の令和4年(2022年)のパーティに関してノルマ超過分の還付を決めたり、派閥の事務局に対して収支報告書の不記載を指示したり、了承したりしたことはない。還付を知ったのは清和研事務局から還付金の確認があった際にその取扱いについて確かめた令和5年の暮れ以降である。今後は収支報告書の正確な記載を徹底し、透明性を持った政治活動をお約束しますと弁明を終えた。

 想定内の自己無罪判決となっている。知り得ていたのは秘書のみで、自身は関知していなかった。但し、「安倍会長から派閥からの還付をやめようという話を聞いたときだが、その還付金が収支報告書に不記載となっているという話はなかった」と述べている点は当方が既に指摘しているように西村康稔が明らかにした2022年4月の安倍晋三の指示伝達に対する了承が常識外となっている点に留意しておかなければならないだけではなく、現金還付は「派閥の事務局に於いてこれまでの慣例に則って還付が行われたもの」と言っているが、安倍晋三が現金還付中止の指示を出した4月の会合には安倍派清和会の事務局長松本潤一郎が出席していて、事務局長として現金還付中止の指示に立ち会う形になっていたのである。にも関わらず下村の現金還付継続は事務局の慣例に則ったものだとする発言は矛盾することになるが、寺田学は気づかなかったようだ。

 寺田学は冒頭、「正直に話して貰いたい、期待しています」と政治の世界にふさわしくない人の良さを見せて切り出し、下村さんは様々に会見を開いて、唯一重要な会議だと8月の会議の存在を初めて申し上げた、他の議員は存在自体を話していないが、下村さんが話したことによって焦点が少しではあるが絞られてきたと下村の証言で疑惑解明が前進するかのような人の良さを見せて追及を開始した。

 下村博文は8月の会議での還付を継続するかやめるかという話は本来中心ではなくて、安倍会長が亡くなったあとの清和研の会長等、派閥の今後の運営の仕方、安倍会長の当時の派閥への対応等が中心で、5月に清和研のパーティがあり、4月には全員還付はやめようと連絡したにも関わらず、4月から5月の間ということで既にチケットを売っている方もいると思うが、還付についてノルマ以上に売上があった方から、戻して貰えないかという話があったものの還付はやめようという前提での議論で、このときに還付そのものは不記載であるとかいう認識は私は持っていなかった。

 西村康稔と同種の弁明を引き出している。

 下村博文は還付は不記載という認識は自身になかったことを印象付けようと何度でも同じ言葉を繰り返している。ウソつきが「この話は本当のことだよ、ウソなんかじゃないよ」と何度でも念押しするのと似ている。寺田学は「なぜ還付は不記載という認識は自分にはなかったと何度でも言う必要があるのですか。実際は不記載を承知していたから、それを知られないために何度でも認識はなかったと言わなければならないんじゃないですか」と追及しなければならなかったが、しなかった。

 還付はやめるが、還付以外の戻し方の問題として個人の派閥パーティを開いたときに派閥がパー券を購入して協力する。但しこれを行うという結論が出たわけではない。8月の会合で還付を継続するということを決めたということは全くない。

 寺田学は下村の2023年1月31日の記者会見を取り上げて、ある人から個人の寄付集めのパーティのときに上乗せして収支報告書に合法的な形で出すという案があったと話しているが、一方で世耕さんが政倫審の中で上乗せという案は出ていないと思っていますと真っ向から否定している。8月の会議で上乗せするという話はあったのではないのかと質問した。

 事実そのとおりを話しているから、同じ場にいた者同士で話が似てくるのか、あるいは事実とは違うことを口裏を合わせて作り出したストーリーとして話していることだから、同じ内容となるのか、その点を見極める追及が必要だが、その必要性には気づかない。

 下村博文は還付をやめるという前提で8月の議論があったが、ノルマ以上を売り上げた人から何らかの形で戻して貰えないかという話があったと西村康稔と同じようなことを言い、自身としても繰り返しとなる同じことを口にする。繰り返しは寺田学の追及による誘導に過ぎない。

 既に触れたように「合法的な形で出す」とはそれまでは"合法的な形で出していなかった"ことを知識としていた言葉となるが、追及すべき点と気づかなければ、何も出てこない。

 還付が不記載であることは知らなかったが、還付に代わる形として個人のパーティに派閥として協力できる方法はこれではないかという話をしたと、さらに同じ話を繰り返す。対して寺田学は下村が話していることは上乗せではなく、単純に個人のパーティーからパーテイ券を買うだけのことで、(下村の記者会見では)上乗せ案という言い方ではなかったと、還付継続の"なぜ"に関係ないことを突く。

 下村は個人の立ち場の個人のパーティでは派閥がそれを協力するという意味で上乗せという言い方をしましたと言い抜ける。寺田学はパーティ券を買うよりも他の派閥でもやっている、合法的な方法でもある派閥からの寄付というアイディアが出なかったのかと質したが、現実問題として非合法の還付・不記載を継続させていたのだから、出なかったと答えられれば、それまでのことでしかない。下村博文は出なかったと答えずにこれまでの答弁を冷静沈着にと言うか、鉄面皮にもと言うか、4月の会合で安倍会長から中止の話があって、幹部で手分けして派閥としてやめることをみなさんに話して、復活する話は8月の会議では出ていなかったと同じ答弁を繰り返すことで寺田学の追及を不発に終わらせた。

 寺田学は政倫審で誰に聞いても還付継続を決めたのか分からないという話をするが、まさか松本事務局長が決めたということはあり得ないですねと問い質すと、下村博文は私自身が知っている場所で決めたということは全くない、だから、いつ誰がどんな形でどのように決めたのか私自身は何も知らないと糠に釘である。

 寺田学は安倍派の5人衆が森喜朗に逐一相談しながら派閥の運営の在り方を決めていく、それが派閥の運営じゃないのかと森喜朗が清和政策研究会に今なお隠然たる影響力を持っているかのような質問をすると、下村博文は8月5日は還付の継続は決めていなかった、その後決まったが、(その決定に)私自身は立ち会ったとか関与したことはない。どこでどんな形で決まったかわからないと同様の繰り返しを続ける。

 寺田は森喜朗は派閥の人事について口出しているとか、派閥の運営にかなり影響力が強かったのではないのかと、鉄砲の弾尽きて竹の棒を振り回すような自棄っぱちの手に出た。2024年3月27日付けのマスコミ報道が首相の岸田文雄が2022年4月の会合出席の安倍派幹部から3月26日、27日に事情聴取したところ、幹部の一部から「キックバック再開の判断には森元総理大臣が関与していた」と新たな証言をしたと明かしているが、寺田が何らかのツテでこのことを把握していたとしても、報道が出る前の追求であることと、もし事実森喜朗が関与していたなら、5人衆の罪一等を減ずることになる。つまり森喜朗関与説は5人衆に少なからず利益を与えることになり、その利益は森喜朗一人を一定程度ヒール役にすることによって生じるという構図が出来上がる。要するに5人衆にとってこのような構図が出来上がることによってある程度の利益を手にすることになる。果たして何らかのカラクリがあるのか、ないのかである。

 下村博文は森喜朗の派閥に対する影響力は聞いたことがないと一蹴する。寺田は萩生田光一の発言からノルマ超の現金還付・収支報告書不記載は2003年頃からではないかとか、解明の的を外していることにも気づかすにムダな発言をして、ムダに時間を費やし、最後に「時間がきたから終わりますが、真実を少しでも解き明かそうという姿勢がないということは残念です」と自分から幕を下ろすことになる。相手に真実を解き明かすことを求めること自体が間違った姿勢だということに気づかない。自身の追及次第だという覚悟がないのだろう。

 では最後に2024年3月14日の世耕弘成に対する立憲民主の蓮舫の参院政倫審の追及を見てみる。

 世耕弘成の弁明。ざっと取り上げてみる。弁明の機会を与えてくれた政治倫理審査会の先生方に感謝を申しあげる。清和政策研究会の政治資金パーティ券売上に関わる還付金問題で国民の政治に対する信頼を大きく毀損したことについて清和政策研究会の幹部の一人として深くお詫び申し上げる。

 謙虚なのはここまで。

 収支報告書作成を始め、清和会の会計や資金の取り扱いに関与することは一切なかった。パーティ券販売のノルマ、販売枚数、還付金額、超過分の還付方法について関与したこともなく、報告・相談を受けていない。安倍会長が亡くなったあとも、私が出席している場で現金還付が決まったり、現金による還付を私が了承したこともない。

 こうしたことを踏まえて、東京地検特捜部が多大な時間と人員を割いて私から事情聴取を行い、関係先を家宅捜索するなどして徹底捜査された結果、法と証拠に基づいて私については不起訴、嫌疑なしと判断された。

 私自身は派閥で不記載が行われていることを一切知らなかった。とは言え、今回の事態が明らかになるまで事務的に続けられてきた誤った慣習を早期に発見・是正できなかったことはについては幹部であった一人として責任を痛感している。

 ここからウソつきの本領発揮とくる。不記載に関して一切知らなかったが事実とすると、早期に発見・是正という機会を持つことも恵まれることもないからだ。当然、「責任を痛感」はポーズに過ぎない。

 今回の事態が明らかになるまで、自分の団体が還付金を受け取っているという意識はなかったため、還付金について深く考えることはなかった。

 深く考えることはなかった、いわば"反省"、あるいは"後悔"は最初の段階として考える対象の是非を深く意識する作用を持ってこなければ、真の"反省"、あるいは"後悔"とはならない。だが、世耕弘成は是非を深く意識する作用を欠いた状態で"反省"、あるいは"後悔"らしきものを持ってくる。当然、中身を伴っていないことになって、口先だけのポーズだからこそできる是非を深く意識する作用を欠いた"反省"、あるいは"後悔"の類いに過ぎないことになる。

 もっと早く問題意識を持って、還付金についてチェックをし、派閥の支出どころか、収入としても記載されていないこと、議員側の資金管理団体で収入に計上されていないことを気づいていれば、歴代会長に是正を進言できたはずだとの思いであります。

 知らなかった、承知していなかったでは問題意識を持つことも、議員側の資金監理団体で収入に計上されていないことに気づくことも、歴代会長に是正を進言することも不可能事であって、不可能事を可能事であるかのように言う。ウソつきの常套句に過ぎない。

 私が積極的に還付金問題について調査をし、事務局の誤った処理の是正を進言しておれば、こんなことにはならなかったのにと痛恨の思いであります。

 知らなかった、承知していなかった還付金問題に調査を思い立つキッカケなど訪れようがない。当然、事務局の誤った処理の是正を進言にまで進むことはない。現実には実行しなかった話を持ち出して、"痛恨の思い"を披露する。

 ウソの演技もここまでくれば、天才と言える。できなかった事実、しなかった事実をすることができた事実であるかのように尤もらしげに喋り立てる。明瞭なハキハキした力強い言葉遣いと自信に満ちた態度で確信的に話すから、多くの人間が騙される。

 こういった態度・口調もウソ付きの才能の主たる一つで、この才能は清和会実力者に上り詰めるに役立ったに違いない。

 繰り返しになるが、西村康稔の証言が正しければ、安倍晋三は4月22日の会合で、現金還付は不透明な性格のものだと指摘した。にも関わらず、世耕一成はそれ以後、還付金問題について調査をすることはなかった。考えられる理由は安倍晋三と他の幹部が収支報告書不記載を共に共通認識としていた正犯と従犯の関係にあり、安倍晋三死後は幹部同士が臭い物に蓋の共犯関係にあったために調査という選択肢は当初からゼロだったからと疑うことができる。

 蓮舫はこういった数々のウソを突いて、信用できない人間像を印象づけるべきだったが、2022年4月の会合場所はどこか、明らかにしても問題はないことから追及を始めた。頭から一発ショックを与えるという考えはなかったようだ。このことが蓮舫の追及の性格を表すことになる。蓮舫は既に明らかになっている会合出席者の名前を挙げてから、会議内容を手控えのメモを取っていないか、取っていたとしても正直に答えるはずはないことを聞いた。世耕は当然否定した。

 蓮舫がすべきことは会合でどんな遣り取りがあったか、しつこいくらいに記憶を呼び起こさせて、そこに矛盾がないかを嗅ぎ取り、矛盾点を見い出した場合はその点を突いて、表沙汰とした事実を覆し、隠されている事実を炙り出すことだろう。蓮舫は現金還付について話し合ったのはその一回か尋ね、世耕はその一回だけと答え、「話し合ったというよりは安倍会長の決定を伝達され、それを参議院側に伝えてほしいということで呼ばれたというふうに理解している」と、何の問題はないとした答弁で片付けている。

 中止の理由を言わずして、いきなり現金還付の中止を伝達し、参議院側への連絡を依頼するというプロセスはいくら安倍晋三を絶対的存在と位置づけていたとしても、あり得ない状景であるはずだが、蓮舫は「中止の理由はどう述べたのですか」と聞く折角の機会を逃して、なおのこと4月以外の会合に拘り、3月に会合を持った記憶はないかと追及した。世耕は否定し、「残念ながら、私のスケジュール表にも、私の記憶にありませんと」と一蹴した。

 世耕にしても、中止の理由を「安倍会長から指示されたから」のみでは済まないはずで、済むとしたら、中止を伝えた側も伝えられた側も収支報告書不記載なりの何らかの不法行為を共通認識としていなければならない。

 但しマスコミが2024年3月29日付けで一斉に蓮舫の指摘どおりに世耕一成が3月29日い記者団に対して2022年の3月2日に安倍晋三、前衆議院議長細田博之、西村康稔と自身の4人が会合を持ったことを明らかにした。スケジュールを改めて精査した結果だとし、現金還付の議論は否定したと伝えている。

 もし蓮舫が自分の指摘を手柄としたら、自身の小賢しさを証明するだけのことになるだろう。いつ始まったのか、誰が始めたのか知らない、自身は関与していないとするノルマ超の現金還付を2022年の4月の幹部会で安倍晋三に伝えられて初めて知ったのか、その還付が清和会の収支報告書にも議員側の政治団体の収支報告書にも不記載となっていたことを双方の秘書のみが承知していて、議員自体は彼らの言葉通りに関知していないことだったのか、政倫審という事実解明の機会を与えられながら、事実なのか虚構なのか、どちらか一方に整理をつけることが肝心な点で、それが誰もできていないからだ。

 世耕一成は蓮舫が指摘した3月の会合は否定し、「私の記憶では4月上旬の安倍会長が入って唯一話し合いというよりはノルマ通りに売ることにするからという指示を下された。そういう会合だった」と答弁。折角の追及の材料を提供して貰いながら、蓮舫は4月以前に招集されずに4月の会合に突然呼び出されて還付金中止を指示されたのかと否定されたらおしまいとなる表面的な日程に拘った。

 世耕一成が証言している、4月の会合で「安倍晋三からノルマ通りに売ることにするからと指示された」。つまり4月以前はノルマ通りに売っていなかった。2024年3月1日の衆院政倫審での西村康稔の答弁はNHK総合でテレビ放送していたから、蓮舫は参考のために直接か、録画かで視聴していたはずで、西村が「安倍会長に現金の還付を行っている。これをやめると言われて、幹部でその方向を決めた」、安倍晋三のやめる意向を「現金は不透明で疑念を生じかねない」と述べたこととを突き合わせれば、世耕の証言はノルマを超えて売らせていて、超えた分を現金で還付していたことになる点を捕まえて、その場での詳しい遣り取りを聞き質すことによって安倍晋三が初めて打ち明けたことなのか、多分、初めて打ち明けたとするだろうが、例えその時点まで承知も把握もしていなかったことであっても、カネの出入りと収支報告書への記載は相互に関連付けなければならない義務となっている以上、少なくとも4月の会合の時点で、"不透明"としている関係上、清和政策研究会事務局がノルマを超えた分を現金で還付する場合のカネの処理をどの名目で行っているのか、その方法に準拠して各議員の政治団体も会計処理することになるだろうから、派閥の幹部としてどのような名目で処理しているのかを把握しておかなければならない立ち場にいたはずではないかと追及することができたはずだ。

 最低限、蓮舫は世耕一成に清和会事務局が還付する現金に対して収支報告書上の処理をどのような名目で行っていたのか関心を持つことはなかったのかと問い質さなければならなかった。不透明な性格の現金還付としている以上、それに準じて会計処理も不透明な形しているのか、正当な名目にすり替えて、いわば資金洗浄を施しているのか、あるいは現金で保管、裏ガネとしているのか、どちらなのかを迫らなければならなかった。世耕は政治団体、あるいは後援会の代表として不透明な性格の還付された現金に対しての会計処理に無関心であったとすることはできないだろう。

 蓮舫は折角の追及の材料を逃してしまい、次に訪れた追及のチャンスも逃してしまう。蓮舫が8月の幹部会の塩谷の還付廃止で困っている議員たちのために還付が継続されたとする説明と西村康稔の結論は出なかったの説明、下村の記者会見で述べた一定の方向は決めたことはないの説明の食い違いを追及したのに対して世耕はノルマ以上売った議員から返してほしいとの申し出があり、現金還付中止の方針を堅持しながら、具体的に詰めたわけではないが、各政治家個人が開くパーティのパーティ券を何らかの形で清和会が買い、しっかりと収支報告書に出る形で返すというアイディアが出て、それだったら反対をしないという意見を述べた気がしますと証言している。

 下村博文も2024年の1月31日の記者会見である人の意見としてノルマを超えた分の還付は派閥所属議員が個人として開く政治資金パーテイに上乗せする形で行い、収支報告書では合法的な形で出すとする案を紹介しているが、世耕の「収支報告書に出る形で返す」の物言いにしても、これまでは"収支報告書に出ない形で返していた"ことの証明となる。幹部会合の2022年4月当時、収支報告書に出る形で返す、いわば現金還付を行っていたなら、安倍晋三自身、「現金還付は不透明だから」との理由付けで中止を指示する必要もないし、中止しなければ、若手議員からノルマを超えた分を返してほしいという声も出てこなかったろう。

 当然、蓮舫はこの点を突くべきだったが、突かずじまいにしてしまった。

 世耕が、塩谷の還付継続を決めたとする発言は何らかの資金手当をしなければいけないということが決まったということで、下村の記者会見発言も、塩谷と同じそういうことを踏まえた発言ではないか、大幅に各人の認識が違っているわけではないと説明すると、蓮舫は「若干の食い違いどころでないんですよ」と応じて、現金還付継続を誰がどういう考えで決めたのか拘る質問を続け、世耕はどうするか結論が出たわけではないを繰り返して、誰が決めたのか分からないの堂々巡りが長々と続いた。
 
 4月の会合で安倍晋三から西村、塩谷、世耕、下村博文の4人の幹部対してノルマを超えた分の現金還付中止の指示が出たとなっている。これが真正な事実とすると、当然、4人は安倍派幹部として還付中止を徹底させる責任と義務を負ったことになる。だが、現金還付中止の方向を維持しながら、若手議員のノルマを超えた分を返してほしいという声にどう対応するか、議論しただけで結論を付けないままに終えてしまう、その責任と義務の放棄の結果として現金還付と還付されたカネの収支報告書不記載が継続されることになり、このことがしんぶん赤旗によって長年の慣行としてスクープされ、大学教授によって東京地検に告発されるに至った。

 もし4人の安倍派幹部が還付された現金の収支報告上の扱いが不記載となっていたことが2022年4月、あるいは8月の時点で自分たちの証言通りに知らなかった、承知していなかったが事実とすると、安倍晋三指示に対する責任と義務の不履行は途轍もなく大きな代償となって跳ね返ってきたことになる。

 この点をも突くべき材料となるが、蓮舫にはその才覚はなかった。蓮舫の最後の発言。

 「何の弁明に来られたのか、結局分からない。政倫審に限界を感じました。終わります」

 蓮舫の追及にこそ限界があったはずで、気がつかないことは恐ろしいことだが、気がつかなければ自身の追及技術の未熟さの解消はなかなかに望めないことになる。

 安倍晋三が安倍派幹部の塩谷立、西村康稔、世耕一成、下村博文、それに清和会事務局長松本潤一郎を混じえて、安倍派政治資金パーティのパーティ券ノルマ超売り上げ金のキックバック(現金還付)を中止したとされている2022年4月の会合は果たして存在したのだろうか。

 既に紹介しているが、しんぶん赤旗が5派閥の政治資金収支報告書への多額の不記載をスクープしたのが2022年11月。そこから神戸学院大学上脇博之教授による東京地検に対する告発が始まり、その1年後の2023年11月に入ってマスコミが報道を開始して、世間に広く知られることになった。

 前記安倍晋三と安倍派幹部との2022年4月の会合と安倍晋三の死後に幹部だけが集まって現金還付の扱いを議論したとされる8月の会合の報道が始まったのが2023年の年末から2024年の年初にかけて。要するに5派閥の政治資金収支報告書への多額の不記載が世間に知れることになった2023年11月からほぼ1ヶ月して2022年の4月と8月の会合が報道され、安倍晋三が現金還付の中止を指示していたという事実が打ち立てられた。ここに何らかの意図が隠されていないだろうか。

 何よりも4月の会合で7年8ヶ月も政権を維持して、それなりの権威を持つ安倍晋三が指示した現金還付中止を所属議員に幹部手分けで連絡したとは言うものの、いわば選挙資金を遣り繰りしている若手議員からのノルマを超えた分のカネを返して欲しいという声を受け、8月の会合で幹部のみで現金還付に代わる手当を議論しながら、色々なアイデアは出たとは証言しながら、しっかりと結論まで持っていくことができずにそのまま放置し、その結果、現金還付と還付されたカネの収支報告書への不記載の違法行為がそのまま続けられていて、幹部自身は知らなかったとする、かつての大親分安倍晋三に対する幹部としての責任と義務の放棄は普段、「政治は結果責任」を口にしているだろうことからしても、幹部が4人も雁首を揃えていたのだから、無責任過ぎるでは追いつかない、考えられない事態と言うしかない。

 会合はどこから洩れたのだろうか。普通に考えると、不利益を被る幹部サイドからではないはずだ。4月、8月の会合の報道が2023年の年末から2024年の年初にかけて開始された時点に立って考えると、もし洩れなかったなら、ノルマ付けとノルマ超の現金還付と収支報告書不記載が歴代会長の指示で行われていたことが検察の取調べや報道の調査で突き止められた場合、安倍晋三は連続在任日数歴代1位の名誉を少なからず損なうことになり、一方で幹部たちは自身の知らないところで行われていたことだといい抜けることもできるが、4月と8月の会合の存在を知らしめれば、自分たちは一定程度のヒール役を負うことになったとしても、安倍晋三の名誉を少なからず守る利益を生み出すことができる。

 いわばこういった一方は利益、一方は不利益の構造を演出するための4月と8月の会合は4人の幹部のリークによるストーリー(作り話)だったのではないかと疑うことができるし、さらに現実には存在しなかった演出したストーリー(作り話)だったからこそ、安倍晋三の還付中止の指示を派閥最高幹部が4人も雁首を揃えていながら、徹底できずに有耶無耶にしてしまった不手際、あるいは幹部にあるまじき責任と義務の放棄も説明がつき、現金還付と収支報告書不記載が4月と8月の会合に関係なく続いていた経緯もスッキリする。

 8月の会合でノルマを超えた分を返して欲しいという議員の声に応えるために様々に議論した中の一つ、派閥が政治家個人の政治資金パーティのパーティ券を買う方法は収支報告書に規則通りに記載すれば実行できる案であるはずだが、実行しなかったこと、あるいは派閥からの寄付という形で出して、同じく収支報告書に規則通りに記載すれば、問題なく実行できたのに実行しなかったことも、4月と8月の会合がストーリー(作り話)だったと疑うことのできる根拠となる。

 もし4月と8月の会合が実際に開催されていて、簡単にできるはずのこのような方法で安倍晋三の現金還付中止指示を決着付けていたなら、政治倫理審査会で、「知らなかった」、「承知していなかった」と説明不十分の醜態に追い詰められることもなかったろう。

 西村康稔が3月14日の政倫審で説明した安倍晋三の「現金は不透明」の言葉は現金還付中止を周囲に納得させる形で説明づけるためには、不正行為でなかったなら中止する必要は生じないから、不正のニュアンスを欠かすことができないことから用意した表現だろう。このようなニュアンスの表現を使うこと自体が、あるいは使ってしまうこと自体が当初から現金還付だけではなく、収支報告書不記載も知っていたことでなければ、できないことであるはずだ。

 但し政治倫理審査会が開催されることまで予想していただろうか。審査会の開催によって4月と8月の会合が演出した場面だと見たとしても、安倍晋三の還付中止の指示に向けた自分たちの責任と義務の放棄は実際のこととして扱われ、そのことについての説明を満足に付けることができない醜態は演出した場面だからという事情は顧みられることなく、その説明混乱の醜態と責任と義務の放棄の醜態だけを目立たせてしまった点は4人の幹部にとって大いなるマイナスとなって跳ね返ってきたことになる。

 要するにこのマイナスは自分たちの親分である安倍晋三の名誉を守ろうとして作り上げたストーリー(作り話)に対するしっぺ返し、大いなる代償だったと見るべきだと思うが――
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする