玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(3)

2022年02月22日 | ラテン・アメリカ文学

 この小説の背景にあるのは、1990年から2000年までペルーの大統領であった、アルベルト・フジモリの腐敗した政権である。ドクトルの名で登場する大統領の黒幕的人物は、ペルーの国家情報局顧問をつとめフジモリを補佐した、ブラディミロ・モンテシノスという実在の男である。フジモリの名は実名で出てくるのに、この男の実名を出さないのは、彼の黒幕的な性格を匂わせるためであろう。
 この小説で実は最も存在感が薄いのがこの男なのである。『チボの狂宴』(2000)では、権力の凶暴性を圧倒的なリアリズムで描いているし、他の小説でも政治権力が纏う恐怖感を描くのに成功しているのに対し、このドクトルはあまりに卑小で黒幕としての恐ろしさを感じさせない。ドクトルは、「デスタペス」の二代目編集長ラ・レタキータこと、フリエタ・レギサモンが乳房の間に隠した録音機の音声データの暴露によって失脚し、小説はハッピーエンド(?)に終わるのだが、権力の中枢にある策謀家が録音機の存在を疑わずに重大な発言をするなどということがあり得るだろうか。
 しかし、実在のモンテシノスもこの小説におけるような大失態によって、失脚しているのである。なんと自分自身が仕掛けた隠しカメラに映っていた買収の映像が暴露されたことによって、彼は職を失っている。実在の人物もまたへまで間抜けな男だったのである。
 このドクトルが代表しているものこそが、フジモリ大統領の行った恐怖政治なのであった。リョサは1990年の大統領選挙で、このフジモリと闘って敗れたのであったが、その選挙で彼がどんなに汚い手段を使ったか、リョサがどんなに屈辱的な思いを強いられたかが、1993年の『水を得た魚』に詳しく書かれている。フジモリは大統領就任後、議会をないがしろにし、テロリストとの闘いでは多くの人権侵害を行い(1996年の日本大使公邸占拠事件で、投降したセンデロ・ルミノソのメンバーが射殺されたことを思い出してほしい)、ジャーナリズムに対する脅迫や選挙での不正の数々を行った。そうした政治手法が国民の怒りを買い、フジモリもまた亡命を余儀なくされ、日本にまで逃げてきたことは記憶に新しい。
 リョサはフジモリに対する激しい怒りを持続させていて、彼の娘ケイコ・フジモリが2016年の大統領選挙に出馬した時、彼はスペインにあって、海外からペルーの国民にケイコに投票しないように呼びかけたことも、日本で報道された。リョサはケイコが当選した場合の、父親への恩赦と彼の影響力の復活を恐れたのである。ただし、2021年の大統領選では、「ケイコの方がまだまし」と、ケイコ・フジモリ支持の発言をしている。政治の世界は複雑である。
『シンコ・エスキーナス街の罠』は政治小説であると同時に、エンリケとその妻マリサ、エンリケの弁護士ルシアノの妻チャベスとの間の性的冒険を描いて、官能的というよりもポルノ的な小説でもある。彼らが代表しているのはペルーにおける上層階級であって、彼らの性的放縦がリョサによって肯定的に捉えられているわけではない。
 訳者の田村さと子は「上層社会を変革しかねないエロティシズムの制御不能な勢い」などと言っているが、むしろ私は彼らの性生活も戯画的に描かれているように思う。リョサの性描写は図式的で紋切り型であり、二人のレズビアン関係に男が参入していくところも、説得力もなければ必然性も感じられない。だから官能的というよりもポルノ的と私は言うのである。
 最後の第22章「ハッピーエンド?」に「?」が付いているのは、意味深長である。3人の関係にルシアノが新たに参加することになるのではないか、という予感を持ってこの小説は終わるのだが、そこにこそ新たなる火種が伏在し、新たなる不安定要素が生まれ、性における政治的要素の介入が始まるという予感を抱かせるのである。
(この項おわり)

 


マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(2)

2022年02月21日 | ラテン・アメリカ文学

 話を『シンコ・エスキーナス街の罠』に戻そう。この小説のストーリー・ラインはおよそ4つある。一つは実業家エンリケ・カルデナスの妻マリサと、彼の弁護士ルシアノ・カサスベージャスの妻チャベラとのレズビアニズムと、それに巻き込まれて3Pの行為に至福の時間を過ごすエンリケの倒錯の世界。もう一つは二年前エンリケが騙されて参加した、娼婦たちとの乱交パーティの写真をネタに、彼を恐喝する「デスタベス」(暴露の意味)の編集長ロランド・ガロの動き。そして、ガロによってテレビの仕事を失い路頭に迷った、かつての吟遊詩人フアン・ペイネタのガロに対する怨恨。さらに、ガロを殺し、次の編集長フリエタ・レギサモンを利用しようとする、フジモリ大統領の側近通称ドクトルの暗躍。
 一見なんも関係もないとも思える4つのラインが交互に進行していって、最後に謎が解かれてそれらが複雑に絡み合っていることが判明するという構造は、推理小説的ということもできる。しかし、この方法はリョサが若い時から自分のものとしてきたものであり、『緑の家』(1966)や『ラ・カテドラルでの対話』(1969)などでもみられる方法なのである。
 このストーリーの多元性ともいうべき構造は、長編小説の基本であると同時に、政治小説には欠かせないものであって、時に通俗と紙一重になりながらも、『シンコ・エスキーナス街の罠』がかろうじて持ちこたえているのはそのためである。単純化していえば、権力の構造が多元的なストーリー展開の中で徐々に明かされていくのであるが、権力というものはあらゆる所にその食指を延ばしていくものだからである。
 第20章「つむじ風」は、私が「シャッフル」と呼んでいるリョサの若い頃の方法を久しぶりに再現して見せてくれている。めまぐるしく時間と空間が移動し、マリサとチャベラのレズビアンの描写の後に、何の断りもなくドクトルがフリエタ・レギサモンを脅す場面が続き、エンリケの乱交パーティの後に、何の説明もなくガロ殺しの容疑で捕まったフアン・ペイネタの場面が接続されるという具合になっている。
 リョサの初期の作品ではこうした手法が多用されていて、そのためにストーリーを追うのが困難になったり、いささかうるさく感じたりすることがあった。『ラ・カテドラルでの対話』や『パンタレオン大尉と女たち』などの作品では、全編にわたってこの手法が使われているために、その実験的な意義は認めつつも、どうしてわざわざ小説を分かりにくくさせるためにこんな手法を使うのかと、疑問さえ感じたのだった。
 映画でいうモンタージュに近いこの手法を、私は「シャッフル」と呼ぶことにしたのだった。それが小手先の手法に見えることもあることから、私はそう呼んだのである。しかし複数の出来事が同時進行する場面を、極めて強い緊張感のもとに描くことができるという効用もあったことは確かである。ただ、それが成功している時は良いが、失敗したらうるさいだけなのである。
 リョサは『パンタレオン大尉と女たち』を最後に、この手法を封印してきたから、二度とこれを使うことはあるまいと思っていたが、彼はおよそ40年ぶりにこの手法を復活させたことになる。ただし使い方は大きく違っている。初期の作品では、いたるところで、さしたる必然性もない場面でも、この方法をいわば乱用していたが、『シンコ・エスキーナス街の罠』では第20章に限定して使っているのである。
 この違いは私にとって、「シャッフル」の手法にまだ可能性が残されていたのかという感慨を抱かせるものであった。リョサは第20章にすべてのストーリーを集合させ、それぞれのラインの隠された謎の解明を一挙にやってのけているのである。久しぶりに目の覚める思いがした。

 


マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(1)

2022年02月20日 | ラテン・アメリカ文学

 マリオ・バルガス=リョサの作品については、邦訳されたものはそのほとんどを読んできた。20作品にも及ぶ小説だけではなく、文学論やエッセイ、自伝まで、ただ一冊『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』(1986)を除いてすべてを読んだ。この小説を除外しているのは、それが推理小説だからという理由であり、推理小説嫌いの私にはいっこうに食指が動かないからなのである。
 今回『シンコ・エスキーナス街の罠』(2016)を読んだので、2010年のノーベル文学賞受賞後の彼の小説3作も読み切ったことになる。しかし、ノーベル賞受賞後の彼の作品については、いずれもそれ以前の作品に比べて作品としての訴求力が弱いという感じを否めない。『つつましい英雄』(2013)はおそらく、リョサの作品の中で最も穏当で、精彩を欠いたものだったし、受賞第1作『ケルト人の夢』(2010)も、リョサらしくない作品だった。
『ケルト人の夢』は一月ほど前に読んだばかりなのだが、このアイルランド人の外交官で同性愛者であった、ロジャー・ケイスメントの生涯を追った作品を私はあまり好きになれなかった。リョサにはこうした実在の人物の生涯を追った作品がいくつかあるが、どれもあまり成功しているとは言いがたい。
『楽園への道』もそういう作品で、ゴーギャンとその祖母フローラ・トリスタンの生涯を交互に記述していくものだったが、どうにも喰い足りない小説である。おそらくリョサは、そういう小説の書き方に向いていないのだ。主人公に対する感情移入に弱さがあるし、弱ければ弱いでもっと突き放して客観的に書けばいいのだが、その辺のスタンスが中途半端でいけないのである。だから読者は主人公に対して強い共感を抱き得ないのだ。
『ケルト人の夢』もまさにそういう作品であって、読者は主人公ロジャー・ケイスメントの被植民者に対する共感と、植民者に対する彼らの抵抗に共感することはできても、彼の同性愛について同調してついていくことができない。だから私は『ケルト人の夢』について書くことができなかったのである。
『シンコ・エスキーナス街の罠』はリョサの一番新しい小説ということになるが、この作品でリョサは久しぶりにリョサらしさを取り戻しているように思う。〝リョサらしさ〟とは何かといえば、それは〝人間を政治的闘争の場において描く〟ということであって、処女長編の『都会と犬ども』(1963)から『チボの狂宴』(2010)までを貫く、一貫した姿勢ではないだろうか。
 主人公に対する大きな思い入れなどなくても構わない、それよりも人間を闘争の場において描くというスタイルこそが、リョサらしさなのである。そういう意味で彼の小説は基本的に政治小説なのだと言うこともできる。『ラ・カテドラルでの対話』もそうだったし、『パンタレオン大尉と女たち』(1973)もそうだった。
 特に『世界終末戦争』(1981)は、ブラジルのカヌードスの乱(1896-97)を描いて、政治小説の極致をなしている。戦争が政治の延長上にある暴力行為であるとすれば、戦争を描いた小説は政治小説を極端化したものに他ならないからである。しかもリョサは『世界終末戦争』にあっては、反乱軍の側に立つ登場人物たちに見事に感情移入し、一人一人の人物像を極めてクリアに描き分けることに成功している。
 私がリョサの作品の中で『世界終末戦争』をもっとも高く評価するのは、以上の理由による。それは集団のドラマであると同時に、一人一人の個人のドラマでもあるという相当な困難事を成し遂げているのである。

・マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(2019、河出書房新社)田村さと子訳

 


佐藤春夫『新編 日本幻想文学集成』より(3)

2022年02月03日 | 日本幻想文学

 さて、佐藤春夫について悪口ばかり書いてしまったので、ここで「女誡扇綺譚」に目を転じてみよう。編者の須永朝彦によれば、この作品は様々なアンソロジーに採録されているので、ここでは採らなかったということだ。確かに私が読んだのも、東雅夫編「日本幻想文学大全」の『幻妖の水脈』の巻においてだった。この作品はおそらく、佐藤春夫の怪異譚の中では出色のものであるから、是非『新編 日本幻想文学集成』にも収録してほしかった。
 この作品の初出は「女性」1925年で、1920年に台湾に旅行した経験をもとに書いた「台湾もの」の一編である。新聞記者である「私」が、友人で漢民族の血を受けた詩人世外民の案内で、台南の禿頭港を訪れ、そこにうち捨てられた大きな廃屋(廃墟ではなく)で怪異に出会うというストーリーである。
 その廃屋はかつての財閥沈一族の屋敷跡で、そこで二人は「どうしたの? なぜもっと早くいらっしゃらない……」という泉州(中国福建省の都市)言葉で話す女の声を聴くのである。その声は沈家の没落のために破談になった婚約者を一人待つ娘の言葉であり、その娘は男を待ちあぐねた末に餓死したと伝えられていたのである。
 世外民はその言い伝えを信じその声が幽霊の声であったと思い込んでいるが、「私」はそれが人気のない廃屋で逢い引きしていた女の声であろうと、合理的な解釈を下す。しかし、その後そこで若い男が首をくくって死に、その男の後を追って死んだある下婢のことを知るに及んで、「私」の合理的解釈は宙吊りにされるという結末を迎える。その下婢は内地人(宗主国である日本の男)との政略結婚を強いられていて、若い男も彼女も悲恋の内に死ぬのであり、それを誘導したのが沈家の娘の幽霊だったということが仄めかされるのである。
 この間読んだ怪異怪談研究会監修の『怪異とナショナリズム』という本で、堀井一摩が「怪異と迷信のフォークロア」と題して、この作品ともう一編「魔鳥」という小説の2編を取り上げて分析している。焦点は日本による台湾の植民地支配と、それに翻弄される民衆の伝えるフォークロアというところに当てられている。
「どうしたの? なぜもっと早くいらっしゃらない……」という女の声を、超自然的なものとしない「私」の視点は、植民地住民における迷信や非科学的な蒙昧を屈服させ、合理的精神を植え付けようとする、旧日本帝国の視点であり(これこそ植民地支配の王道である)、それを幽霊の怨嗟の声と聴く世外民の視点は、被植民者の抵抗の視点であるという議論である。
 植民地における怪異・迷信のフォークロアは被植民民族の抵抗の声を代表するものであり、それを取り上げることにおいて、佐藤春夫は彼らに共感の思いを寄せているのだという評価につながっていく。堀井の議論は政治的・歴史的なものであり、次のような高い評価が与えられることになる。

「植民地における暴力と抑圧が存在するかぎり、幽霊譚は絶えず生み出されるだろう。民衆の噂話は、植民地で暴力と抑圧にひしがれた敗者たちの怨嗟の声、現在に憑在する過去からの声を記憶し、語り伝える装置としてはたらいている。そして、そのような声に耳を澄ます民衆が、台湾の脱植民地化への道筋を作る。廃屋の幽霊と対話をしたと信じ、「統治上有害」な漢詩を作る世外民も、そのような人物――過去の声を聞き、いまだ到来していない台湾ナショナリズムに取り憑かれた人物――として描かれているのである。」

 確かにそのとおりであり、幻想的な文学が政治や歴史に関わっていく典型的なスタイルが実現されている。幽霊というものが現世に対する怨嗟によって冥界をさまよい、ときに現実に介入してくるものだとすれば、そうした構造は幽霊譚の基本的な構造なのだと言ってもよい。いかに「私」が合理的な判断を下そうが、作者の視点は世外民の方に重点が置かれているのだし、最終的には怨嗟に満ちた幽霊への共感がこの作品を特徴づけていることになるのだ。
「女誡扇綺譚」には、あのいやらしいペダンティズムもないし、ハイカラ趣味もない。佐藤は台湾旅行において、貴重な経験を積んだのである。そしてこの小説の文章もまた、他の作品に比べて格段にうまい。「私」が女の声を聴く場面の文章を引用して終わりとする。

「不意にその時、二階から声がした。低いが透きとおるような声であった。誰も居ないと思っていた折から、ことにそれが私のそこに這入ろうとする瞬間であっただけに、その呼吸が 
私をひどく不意打した。ことに私には判らない言葉で、だから鳥の叫ぶような声に思えたのは一層へんであった。思いがけなかったのは、しかし、私ひとりではない。世外民も踏み込んだ足をぴたと留めて、疑うように二階の方を見上げた。それから彼は答えるが如くまた、問うが如く叫んだ――」

・佐藤春夫「女誡扇綺譚」(2013、東雅夫編、筑摩文庫「日本幻想文学大全」の『幻妖の水脈』所収)

この項おわり

 


佐藤春夫『新編 日本幻想文学集成』より(2)

2022年02月02日 | 日本幻想文学

「新青年」的な要素は他にもあって、それは欧米の文学作品への言及という形で現れるペダアンティズムと、よく言えばモダニズム的な言説ということになろう。活動写真の俳優の名はウヰリアム・ウヰルスン(ポオの小説「ウィリアム・ウィルソン」から)というのだし、トマス・ド・クインシーの『阿片吸引者の告白』への言及もあれば、気障な英語を平気で遣うところもふんだんにある。このバタ臭さが「新青年」の大きな特徴であっただろう。
 確かに「大正夢幻派」というタイトルからも窺えるように、大正期ロマンティシズムの様なものが厳然としてあったのである。「新青年」に詳しいわけではないが、江戸川乱歩のペンネームは言うまでもなく、エドガー・アラン・ポオから来ているのだし、夢野九作や小栗虫太郎などもさかんに「新青年」に執筆していたのだった。
「新青年」に拠る作家達は、今から見ればその通俗性を指摘されても仕方がないが、ある意味でフランス19世紀の小ロマン派の作家達に似ているように思う。ヴィクトル・ユゴーに感化されたテオフィル・ゴーティエやペトリュス・ボレル、ジェラール・ド・ネルヴァルなどの作家が挙げられるが、いずれも奇矯なもの、不思議なもの、幻想的で怪異なものをテーマとし、彼らの作品もまた通俗性の刻印を帯びていると言ってもいいだろう。
 そういえば、佐藤春夫がよく読んでいたらしいトマス・ド・クインシーも、イギリスにおける小ロマン派の一人として位置づけられている。大正期のロマンティシズムはだから、小ロマン派的な作家やポオの強い影響下で、到底当時の現代日本では起きそうもない物語を展開したが、それがある種独特な言説空間を創り出したことも確かである。
 彼らの書くものがすべて幻想的なものであったわけではないし、佐藤春夫にしても幻想小説ばかりを書いていたわけでもない。『新編 日本幻想文学集成』に採られた作品の中にも必ずしも幻想的とは言えない作品(たとえば「美しき町」など)も含まれているが、その言説空間自体はいずれも夢幻的な性質を帯びている。物語の生起する場所自体が幻想的なのである。
 しかし、佐藤の「青白い熱情」や「海辺の望楼にて」を読んでみると、それらが如何にも底の浅いものでしかないことに気付いてしまう。前者はポオの詩編「アナベル・リイ」の、後者は同じくポオの短編「アッシャー家の崩壊」の影響を強く感じさせるものだが、いずれもポオの物まねの域を出ていない。ポオのモチーフが作者の中で消化され切っていないのだ。
「青白い熱情」は「アナベル・リイ」をなぞったものに過ぎないし、「海辺の望楼にて」にいたっては、出来そこないの「アッシャー家の崩壊」という印象しか受けることができない。「青白い熱情」に「私のロマンティシズムは実に力のないものであった。それはただ一つの趣味であって、そのなかには私の命がけの本質は何一つなかった」という一節があるが、佐藤春夫は自らの底の浅さを自覚していたのかも知れない。
 そこへいくと、「美しき町」という小説は出来のいい作品で、それはきっとこの作品が怪異に寄りかかっていないこと、奇矯な話ではあるが超自然を描かずに、一つの大人のメルヘンとしてまとめていることによるのではないかと思われる。つまり佐藤春夫は怪異や超自然を使いこなすだけの力量を持っていなかったという結論になる。また、「美しき町」には「海辺の望楼にて」に描かれたような、主人公の狂気の不自然極まりない誇張もない。佐藤はポオや小ロマン派の本質的な狂気も共有できていなかったのである。
 もう一つ言っておけば、この作家の文章はいただけない。「美しき町」から無作為に2箇所引用してみるが、通常の叙述の文章であるとはいえ、こんな建て付けの悪い文章でいいのだろうか。

「かうしてその奇妙な町の創立事務所になりかゝつて居るホテルの一室が、沢山のそれつきりもう来ない人を迎へてから後に、或る日そこへ、一人の痩せた小柄な髪が全く白くなつた老人が這入つて来た。老人の外見は面白いものの一つであつた。」

「かうして我々は、その建築技師とともで三人になつて、三人の我々が一緒にその計画の遂行を急ぐやうになつたのはそれから二週間ほど後のことであつた。仕事の時間は川崎の註文によつた夜で、その七時半から十一時半までと定めた。併し、どうして! ただ四時間とは決るものではない。我々は楽しみのつづくかぎり、?々十二時の時計に駭かされた。」