玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(6)

2018年05月31日 | ラテン・アメリカ文学

 『夜のみだらな鳥』には登場人物の互換性というか、取り替え可能性のようなものが見られる。イネス夫人の懐妊の場面でも、ヘロニモになりきった《ムディート》がイネス夫人と交わるのであり、だから《ボーイ》の父親はヘロニモであると同時に《ムディート》でもある。
 あるいは語り手である《ムディート》がそのような妄想を抱くだけなのだとしても、妄想が現実を支配しているのが『夜のみだらな鳥』の世界なのだとしたら、そんなことを言っても意味がない。この小説の中で起きることを現実にはあり得ないことだ、などと言うことはこの小説の世界をまったく理解していないということでしかあり得ない。
 赤ん坊をめぐる取り替え可能性は、イネス夫人だけでなく、修道院で暮らす孤児イリス・マテルーナをめぐっても起きる。イリスは奔放な少女で、《ムディート》の導きで毎夜修道院を抜け出して、《ヒガンテ》(巨人)の仮面をかぶったロムアルドという青年と逢い引きを繰り返している。
 イリスにとっては《ヒガンテ》の仮面をかぶった男だけが愛の対象なのであって、だから《ムディート》は仮面をロムアルドから1500ペソで借りて、イリスと行為に及ぶのである。だからイリスの妊娠を知った《ムディート》は次のように確信する。

「おれがイリスの子の父親だ。
あれは奇跡でもなんでもない。ドン・ヘロニモがその絶大な権力にもかかわらず持ちえなかったもの、女をはらませるという、この単純で動物的な能力が、おれにはあるのだ。」

 イリスの妊娠は老婆たちによって奇跡と呼ばれ、それは処女懐胎と見なされ、そこから聖母ごっこが始まるのだが、それはまた別の物語である。
 ヘロニモもまた《ヒガンテ》の仮面を借りてイリスと交わろうとするのだが、その時は不能に陥ってみじめな姿を晒す。しかしそんなことはどうでもいい。《ムディート》とヘロニモの間には互換性があるのだから。《ムディート》は次のような策を考えている。

「イリス・マテルーナのお腹にいるおれの子どもがドン・ヘロニモの子ども――イネスの子宮に期待し求めながら拒まれた、最後のアスコイティア家の嫡男――だと、彼に納得させることは容易であるにちがいない。ドン・ヘロニモはその子どもを認知するだろう。苗字と地所を譲るだろう。子どもはこの修道院の所有者となり、そこを取りこわすのを中止させるにちがいない。この壁のくずれた侘しい迷宮はそっくり残され、おれは、永久にそこに留まることができるはずだ。」

 イリス。マテルーナが孕んだ子の父親もまた、ヘロニモであると同時に《ムディート》でもある。ではなぜその子まで畸形であることが予測されるのか。老婆の一人マリア・ベニテスはこんなことを言う。

「はらんだ女が男と寝ると、かたわの子が生まれる。それは、やたらに頭が大きくて、ペンギンの羽根みたいに腕が短い、口はガマみたいで、体には濃い毛が生えていたり、うろこがあったりする。眼瞼のない駒で生まれることがある。」

 この妄想が畸形の《ボーイ》を予兆する。イリス・マテルーナは畸形の子を産む条件を満たしているのだ。《ムディート》は断言する。

「ああ、ドン・ヘロニモよ。生まれてくるあんたの子どもは、アスコイティア家の一員たるにふさわしい、すさまじい畸形なのだ。」

 なぜ畸形がアスコイティア家の嫡男に相応しいのだろうか。その理由はアスコイティア一族の最初の物語へと遡行することで理解することができるだろう。その物語は『夜のみだらな鳥』全編が回帰していく場所でもあり、そのことがこの作品のゴシック的構造を示しているからだ。


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(5)

2018年05月28日 | ラテン・アメリカ文学

 ゴシック小説のもう一つの条件は〝相続恐怖〟、もっと詳しく言うと〝血塗られ、汚れた血統の相続に対する恐怖〟である。空間恐怖と相続恐怖ということはクリス・ボルディックという人が言っていることで、前にも書いたようにその典型的な作品はポオの「アッシャー家の崩壊」に他ならない。
『夜のみだらな鳥』における相続恐怖は《ボーイ》の誕生そのものに関わっていて、《ボーイ》の物語がこの小説の中核をなすとすれば、相続恐怖のテーマは『夜のみだらな鳥』にあって中心となるものと見なされるだろう。
 アスコイティア家の当主ヘロニモとイネス夫人の間には長らく子供が生まれなかった。ヘロニモはアスコイティア家の最後の生き残りであり、子孫を残すことは至上命令とも言える責務であった。二人の間に奇跡のようにして生まれるのが畸形児の《ボーイ》である。《ボーイ》の誕生には二人の人物が関わっている。《ムディート》ことウンベルト・ペニャローサとイネスの乳母ペータ・ポンセである。ペータ・ポンセは乳母であると同時に魔女でもあり、《ボーイ》を畸形にするのはおそらくペータ・ポンセの妖術なのである。
 イネス夫人とペータ・ポンセの関係は、第2章で語られるアスコイティア一族の物語に出てくる、娘のイネスとその乳母の関係を再現している。この物語でもイネスの乳母は魔女としての姿を現す。そしてこの魔女はアスコイティア家の先祖の手によって殺されるが、その前にイネスに何かを仕掛けていたらしい。その場面は次のように描かれる。

「父親は息子たちをしたがえて、娘の部屋の戸をこじ開けたが、そこへ入ると同時に叫び声をあげ、腕を広げた。わが目に映ったものを、とっさに、大きなポンチョの袖でほかの者の目からさえぎった。彼は娘を隣の部屋に閉じこめ、それからやっと、ほかの者が部屋へはいるのを許した」

 一体何があったのか、娘イネスの身に何が起きていたのかについては語られることがない。しかし、あってはならないことがあったこと、その後イネスは父親によって修道院に幽閉されてしまうから、スキャンダラスな事態が起きていたことに間違いはない。のちに《ムディート》は未婚の娘イネスがその時赤ん坊を出産していたのではないかと推測している。
 またこの場面で出現する一匹の黄色い牝犬もまた、イネス夫人懐妊の場面にも出てくるから、それが魔女の使い魔であり、もし《ムディート》の推測が正しければ、この牝犬もイネス夫人の懐妊に関与していたことになる。
 第13章で語られるその場面は『夜のみだらな鳥』前半のエピソードのなかで、最もおぞましく、また最も重要な場面である。そこでイネス夫人を孕ませたのが、夫ヘロニモではないことが示唆されているからである。

「そのとおりだ、おれはヘロニモ・デ・アスコイティアだ。なんなら血の流れる傷口を見せても言い。おれは彼女を抱きしめた。ペータのベッドへ運んでいった。ウンベルトを跡かたもなく消してしまうためのように、イネスは泣きながら、ヘロニモ、ヘロニモと繰り返した。そして、その名前が繰り返されるにつれて、ヘロニモは大きくなっていった。……たしかに、君はウンベルトを消してしまった。(中略)結局おれはヘロニモでは有りえなかった。おれの巨きなペニスだけが、ヘロニモだったのだ。彼女もそれを悟った。悟ったからこそ、おれが裾をまくるのを許し、股を開いて、その性器をわたしに差しだしたのだ」

(ここでウンベルトがヘロニモに入れ替わるのは、選挙運動の過程でウンベルトがヘロニモの身代わりとなって、暴徒に腕を撃たれるからである。ヘロニモはウンベルトの血を腕に付けて負傷を装い選挙運動に利用する。)
 もしそのとおりだとすれば(『夜のみだらな鳥』は全編《ムディート》の妄想としても読めるので、本当にはそのとおりの事実などというものはないのだが)、《ボーイ》の父親は《ムディート》だということになり、《ボーイ》を畸人化するのは《ムディート》の汚れた血と、ペータ・ポンセとその使い魔である黄色い犬ということになる。 
 そしてまたすべては、アスコイティア一族の先祖の物語に反響していく。イネス夫人もまた物語のなかの娘イネス・アスコイティアと同名であることを強く意識しているのである。

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(4)

2018年05月27日 | ラテン・アメリカ文学

 その前にドノソは「インブンチェ」のイメージを提出する。インブンチェとは「目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫い塞がれ、縫いくくられた生き物」であり、それは肉体が建造物の中に閉じこめられるというイメージをはるかに超えて、肉体が肉体自体の内部に閉じこめられるというイメージを喚起する。
 インブンチェのイメージは執拗に繰り返される。しかもインブンチェにされてしまうことの恐怖と、インブンチェにされてみたいという好奇は、死んだブリヒダだけではなく《ムディート》自身の妄執となる。《ムディート》はアスーラ博士の手術によって臓器を摘出されて20%の大きさの体に変身させられ、この小説の中で重要な役割を演じるイリス・マテルーナの愛玩物となる。
 そして《ムディート》は最後には老婆たちによって、インブンチェにされてしまうだろう。その場面は次のようなものだ。

「……老婆たちは縫う。おれの頭の上にさらに袋をかぶせる。別の老婆たちが近づき、もう一枚の暗黒の包みで、もう一枚の沈黙の表皮でおれを蔽う。まわりの声が弱められ、ほとんど聞き分けられない。聾で、盲で、唖で、性を失った小さな包み。布切れやロープで縛られ、何枚もの袋に縫い込まれて、いくえにも重なったジュートの糸の隙間からしか空気は吸えない。この内部は暖かい。ごそごそ動きまわる必要がない。おれはもう、何も必要としない。この包みが、おれそのものなのだ。」

 ゴシック小説の第一の条件が〝空間恐怖〟だとすれば、これは究極の空間恐怖の表現となっている。『夜のみだらな鳥』の成立まで、どのようなゴシック作家もこれほど肉体に密着した空間恐怖を描いたことはなかった。
 《ムディート》はこの小説の中で聾であり唖であることを装うのであるが、最後に彼は本当に聾であり唖である存在に変身させられる。盲と不能ということまで付加されて……。当然そこには子宮願望というか子宮回帰への願望があるが、この部分は最初に出てくるブリヒダの〝包み〟に完全に呼応しているのである。
 そしてゴシック小説における空間恐怖はアンビヴァレンツなものであって、閉じこめられることへの恐怖と、閉じこめられることへの好奇が併存していることを特徴とする。ドノソもまた例外ではない。インブンチェにされた《ムディート》は、そこに安住のすみかを見出しているようにさえ見える。
『夜のみだらな鳥』の中ではそうしたアンビヴァレンツな空間恐怖が表明される場面が無数にあると言ってもよい。イリス・マテルーナを閉じこめることへの願望は次のように表現されている。

「おまえの内側にあるものをすべて、徹底的に掻きだしてしまう。おまえは殻だけになり、飽くことなく「ヴェニスの謝肉祭」が繰り返される、狭くて、風変わりで、退屈な場所に、そんな姿で閉じこめられる。嘘でなく、オルゴールのなかのおまえの安全な生活が羨ましい。おれはお前のこの最後の姿を大事にして、お前が逃げ出したり、ほかのものに変わったりすることのないように気をつけよう。包みの中に入れてベッドの下にしまっておこう」

 これは最後に《ムディート》が閉じこめられる姿そのものであって、ここで表明されているイリスへの羨望は最後にむくいられるわけである。そして畸形児《ボーイ》の願望もまた閉じこめられることである。

「ぼくにとって大事なのは、中庭の内部だけだ」
「ぼくは自身の中庭に、あんたたちが最初の秩序を維持させていく中庭に、閉じこもってしまうんだ」

 このように《ムディート》と《ボーイ》の願望の同質性は、読んでいる読者にとってどちらがどちらだか分からなくなるといった事態にまで及ぶのだが、そのことはまた別のテーマとなる。

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(3)

2018年05月25日 | ラテン・アメリカ文学

 ホセ・ドノソのもう一つの代表作『別荘』を取り上げたときに、私はそれを基本的に「ゴシック小説」と定義づけた。それは物語が展開する場所がマルランダの別荘という閉鎖空間であるということ、そして地下の迷宮が設定されていて、そこが物語の展開にとって不可欠な空間となっていることによっている。
 ゴシック小説の第一の条件は登場人物を閉鎖空間に閉じこめるということ、あるいは迷宮の内部を彷徨させるということに尽きるからだ。そうした意味では『別荘』よりも『夜のみだらな鳥』の方がよりゴシック的であることは明白である。
 まず『夜のみだらな鳥』の物語は二つの閉鎖空間の中で展開するということ。一つは多くの老婆たちと孤児たちがそこで生活するエンカルナシオン修道院であり、もう一つは世界中の畸型たちが集められるリンコナーダの屋敷である。
 登場人物たちはそこに幽閉されるのであり、そこから出ていくことは禁じられている(例外があるが、後述)。老婆たちは修道院の持ち主であるアスコイティア家のイネス夫人の善意によってそこで暮らすのだとしても、そこから出ていこうなどという意志はまったく持っていない。むしろ修道院の内部でひたすら退行的遊戯に耽るのである。
 しかも修道院中の窓という窓は、この小説の主人公(あるいは語り手)である《ムディート》によって完全に塞がれているので、この修道院は外部というものをまったく持たない空間と化している。そのような空間でこれまたゴシック的で、おぞましいエピソードが繰り広げられていく。
 もう一つの閉鎖空間、リンコナーダの屋敷はアスコイティア家の当主ヘロニモが、畸型の息子《ボーイ》のために世界中から畸型を集めそこに幽閉する場所である。そこは《ボーイ》が自らの畸型に気づくことのないように、正常な人間を排除して作り上げる完全な閉鎖空間である。
 幽閉する、閉じこめるというイメージは一般のゴシック小説に溢れかえっているが、ドノソはそうしたイメージを修道院やお屋敷といった建造物のレベルに止めることをしない。それは最終的には肉体のレベルまで降りていくのであり、そこが18世紀に生まれ20世紀に至るまで命脈を保ってきたゴシック小説には、これまでなかった事態ではないだろうか。
 物語の最初から閉じこめるというイメージが全開となる。ブリヒダという老婆の一人が亡くなり、その遺品を調べているうちに、ベッドの下に発見される夥しい〝包み〟がそれである。

「あなたの目の前に現れるものはすべて、紐でくくられ、包みにされている。何かに、別のものに、くるまれている。開けたとたんにバラバラになるこわれ物。磁器のコーヒーカップの把っ手。最初の聖体拝領に使われた飾り帯の金モール。いずれもただ、何かをとっておきたい、何かを包みにしておきたい、紐でくくってちゃんと保存しておきたい、という欲望から大事に、大事にしまい込まれていた品物なのだ」

 しかし、それだけではない。〝包み〟はもっと象徴的な役割を果たしている。《ムディート》はそのことを知っている。彼は「包みにすることが問題なんで、中身はどうでもいいのだ」と思っているし、整理を進めようとするシスター・ベニータに対し、次のように思念の中で語りかける。

「シスター・ベニータ。この、じっと動かない、似たりよったりな物の集まりは、決してあなたにその秘密を教えようとはしないだろう。それはあまりにも残酷なことだからだ。あなたは到底、あなた自身やおれ、まだ生きている老婆や死んだ老婆たちのすべてが、要するに、これらの包みのなかの存在でしかない、という考えに絶えられないにちがいない」

このように〝包み〟は登場人物たちが閉じこめられている空間の象徴なのであるが、ホセ・ドノソは小説の最後でこの〝包み〟に包まれた人間というものを、なんと具現化してしまうのである。


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(2)

2018年05月24日 | ラテン・アメリカ文学

 ホセ・ドノソが7年以上をかけて完成させたこの傑作は、「最後のアスコイティア」「不完全な大天使」「誰のものでもない夢」というようなタイトルを想定していたという。最後に『夜のみだらな鳥』というタイトルに落ち着いたわけだが、それはドノソがこの小説のエピグラフに使っているヘンリー・ジェイムズの文章から採られた。

「分別のつく十代に達したものならば誰でも疑い始めるものだ。人生は道化芝居ではないし、お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者が根を下ろしている本質的な空虚という、いと深い悲劇の地の底で花を開き、実を結ぶのではないかと。精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ」

父ヘンリーと息子ヘンリー

 ヘンリー・ジェイムズはあのアメリカの大作家ヘンリー・ジェイムズの同名の父親であり、この文章は父ヘンリーが作家ヘンリー・ジェイムズとその兄で哲学者のウィリアム・ジェイムズに宛てた手紙の一部なのだ。
 ヘンリー・ジェイムズはホセ・ドノソがこの上なく愛した作家であり、ドノソはどこかでこの文章を発見しそこからタイトルを採ったのである。私は父ヘンリー・ジェイムズのこの文章を原語で読んでみたくて、ネット上を探索したことがあるが、どうしても見つけることができなかった。
 ヘンリー・ジェイムズ自身の膨大な書簡はネット上で読むことができるが、父親の書簡などは掲載されていない。この偉大な文章をドノソがどこで発見したのか知りたい。多分ヘンリー・ジェイムズの自伝の中に引用されているのではないかと思われるが、私はまだ読んでいない。もう一度ネット上の探索に挑戦して、発見できたら報告したい。
 ホセ・ドノソがこの文章を発見したときの喜びは大きなものであっただろう。」「夜のみだらな鳥」というタイトルは、ドノソのこの小説に最も相応しいものであり、今では他のタイトルなど想像することもできない。父ヘンリー・ジェイムズのこの文章は、ホセ・ドノソという作家の小説にタイトルを与えたことによって、人類の記憶に残るだろう。
 ここで「狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森」が、「精神生活」の比喩として使われていることに注意を向けなければならない。父ヘンリーは二人の子供たちに人生の苦労などを教え諭しているわけではない。そうではなく、人間の精神そのものの暗部について教えている。
 そして人間精神の暗部は「人生を生きる者が根を下ろしている本質的な空虚という、いと深い悲劇」がもたらすものなのである。父ヘンリーのこのような人生観は、息子ヘンリーに確実に受け継がれたものであり、ヘンリー・ジェイムズの小説を愛したホセ・ドノソもまた、このような人生観を受け継ぎ、『夜のみだらな鳥』という大傑作として開花させたのだと言える。
 父ヘンリーについては宗教哲学者であり、独特の教育観を持ち、二人の子供たちを何度も長期のヨーロッパ旅行に連れ出したことが知られている(子供は5人いたから二人だけを連れて行ったのではないかも知れないが)。スエーデンボルグやフーリエの思想に傾倒していて、二人の子供に対して大きな影響力を行使したらしい。詳しくはWikipediaにHenry James Sr.の項目で書かれているので、そちらを参照してほしい。
 ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』という小説は、文字通り「狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森」であり、しかもこの小説全編が作者の精神の暗部を隠喩として描き出したものに他ならない。
 他の作品を読んでもよく分かることだが、ドノソはラテンアメリカの作家の中では最も社会性を持たない作家であり、ある意味では最も〝文学的〟な作家であった。ガルシア=マルケスやマリオ・バルガス=リョサなど、政治的な発言を多く行う作家の多いラテンアメリカ圏で、ドノソは例外的な位置にいる。
 友人でもあったリョサなどはペルーの大統領選に出馬までしているが、ドノソにはそんなことは想像もできない行動であっただろう。


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(1)

2018年05月23日 | ラテン・アメリカ文学

 長らく絶版になっていたチリの作家ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』が、水声社からようやく新版で刊行された。私がこの小説を初めて読んだのは、集英社版「世界の文学」によってだったから、それが出版された1976年以降ということになる。その時の印象は強烈に残っていて、その悪夢にも似た語りの奔流に押し流されそうになりながら、夢中で読んだことを覚えている。もう40年も前のことだ。
 私はラテンアメリカ文学の大傑作であると同時に、20世紀に書かれた小説の中でナンバー1とも言うべき、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』よりも先に、この『夜のみだらな鳥』を読んだはずで、私にとってのラテンアメリカ文学の第一歩であり、この作品によってラテンアメリカ文学の洗礼を受けたのだった。
 二度目に読んだのは1984年に同じく集英社から出た「ラテンアメリカの文学」の一冊として再刊されたときであった。このときはあまりきちんと読まなかったので、最初に読んだときの衝撃ほどのものはなく、その細部についてもきちんと確認しながら読むということもできなかった。
 今回は『夜のみだらな鳥』の鼓直訳による決定版となるであろうから、出たらすぐ買って読もうと心の準備に怠りはなかった。しかし、編集者の寺尾隆吉によると「原文と照らし合わせながら誤植の訂正等最小限の修正は施した」といった程度で、私が期待した全面的な改訳というものではなかったようだ。
 しかしこの作品が35年ぶりに再刊されるということは、ドノソのファンである私にとって非常に重要な意味をもっている。ドノソについては日本人の間でも熱烈なファンがいて、『夜のみだらな鳥』は伝説的な作品となっていた。とにかくドノソの最高傑作であるこの作品が読めないということは、日本人にとって非常に不幸なことであった。
 なぜこの作品が35年もの間絶版となっていて、古書で7,500円などという途方もない値段が付いていたのかが理解できない。水声社版が帯で言うように『夜のみだらな鳥』が「『百年の孤独』と双璧をなすラテンアメリカ文学の最高傑作」であることは間違いないことであり、『百年の孤独』と同じくらいに読まれてもおかしくないのである。
 しかしそうはならなかった理由がある。『百年の孤独』は架空の町マコンドを舞台に繰り広げられるブエンディア一族の物語であり、そこには小説を面白くするあらゆる手法やあらゆるエピソード、あるいはあらゆるイメージが詰め込まれているが、『夜のみだらな鳥』にそんな豊穣なものを期待しても無駄である。
『夜のみだらな鳥』には恐ろしいほどのエピソードが綴られているが、それらはある一定のイメージに収斂していく。そのイメージとは〝幽閉〟ということ、閉じこめるということに他ならず、『夜のみだらな鳥』のイメージは多用で豊穣であるというよりは、一様で執拗、そして何よりも暴力的なものであるのだ。
『夜のみだらな鳥』は『百年の孤独』に比べて、簡単にいえば極めてダーティーなので、一般の読者には向いていないのかも知れない。『百年の孤独』には歴史を突き抜けていく爽快感があるが、『夜のみだらな鳥』にあるのは、歴史からの逸脱と退行、そして執拗な圧迫感である。
 暴力的な描写といえば、この小説の主人公《ムディート》ことウンベルト・ペニャローサが、アスーラ博士の外科手術を受ける場面が挙げられるが、その部分を読んで真実吐き気をもよおす人もいるだろうことは想像がつく。そして『夜のみだらな鳥』全編はそのような場面を基調とするのであり、タフな神経を持っていなければ読み通すことすらできないかも知れない。
 だから『夜のみだらな鳥』は、イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』のように、まともな人間はその世界に近づくことすら許されない、真に異端の文学として位置づけられるのであり、もともとポピュラリティを約束された作品などではないのだ。

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(2018、水声社「フィクションのエル・ドラード」)鼓直訳