玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

佐藤春夫『新編 日本幻想文学集成』より(3)

2022年02月03日 | 日本幻想文学

 さて、佐藤春夫について悪口ばかり書いてしまったので、ここで「女誡扇綺譚」に目を転じてみよう。編者の須永朝彦によれば、この作品は様々なアンソロジーに採録されているので、ここでは採らなかったということだ。確かに私が読んだのも、東雅夫編「日本幻想文学大全」の『幻妖の水脈』の巻においてだった。この作品はおそらく、佐藤春夫の怪異譚の中では出色のものであるから、是非『新編 日本幻想文学集成』にも収録してほしかった。
 この作品の初出は「女性」1925年で、1920年に台湾に旅行した経験をもとに書いた「台湾もの」の一編である。新聞記者である「私」が、友人で漢民族の血を受けた詩人世外民の案内で、台南の禿頭港を訪れ、そこにうち捨てられた大きな廃屋(廃墟ではなく)で怪異に出会うというストーリーである。
 その廃屋はかつての財閥沈一族の屋敷跡で、そこで二人は「どうしたの? なぜもっと早くいらっしゃらない……」という泉州(中国福建省の都市)言葉で話す女の声を聴くのである。その声は沈家の没落のために破談になった婚約者を一人待つ娘の言葉であり、その娘は男を待ちあぐねた末に餓死したと伝えられていたのである。
 世外民はその言い伝えを信じその声が幽霊の声であったと思い込んでいるが、「私」はそれが人気のない廃屋で逢い引きしていた女の声であろうと、合理的な解釈を下す。しかし、その後そこで若い男が首をくくって死に、その男の後を追って死んだある下婢のことを知るに及んで、「私」の合理的解釈は宙吊りにされるという結末を迎える。その下婢は内地人(宗主国である日本の男)との政略結婚を強いられていて、若い男も彼女も悲恋の内に死ぬのであり、それを誘導したのが沈家の娘の幽霊だったということが仄めかされるのである。
 この間読んだ怪異怪談研究会監修の『怪異とナショナリズム』という本で、堀井一摩が「怪異と迷信のフォークロア」と題して、この作品ともう一編「魔鳥」という小説の2編を取り上げて分析している。焦点は日本による台湾の植民地支配と、それに翻弄される民衆の伝えるフォークロアというところに当てられている。
「どうしたの? なぜもっと早くいらっしゃらない……」という女の声を、超自然的なものとしない「私」の視点は、植民地住民における迷信や非科学的な蒙昧を屈服させ、合理的精神を植え付けようとする、旧日本帝国の視点であり(これこそ植民地支配の王道である)、それを幽霊の怨嗟の声と聴く世外民の視点は、被植民者の抵抗の視点であるという議論である。
 植民地における怪異・迷信のフォークロアは被植民民族の抵抗の声を代表するものであり、それを取り上げることにおいて、佐藤春夫は彼らに共感の思いを寄せているのだという評価につながっていく。堀井の議論は政治的・歴史的なものであり、次のような高い評価が与えられることになる。

「植民地における暴力と抑圧が存在するかぎり、幽霊譚は絶えず生み出されるだろう。民衆の噂話は、植民地で暴力と抑圧にひしがれた敗者たちの怨嗟の声、現在に憑在する過去からの声を記憶し、語り伝える装置としてはたらいている。そして、そのような声に耳を澄ます民衆が、台湾の脱植民地化への道筋を作る。廃屋の幽霊と対話をしたと信じ、「統治上有害」な漢詩を作る世外民も、そのような人物――過去の声を聞き、いまだ到来していない台湾ナショナリズムに取り憑かれた人物――として描かれているのである。」

 確かにそのとおりであり、幻想的な文学が政治や歴史に関わっていく典型的なスタイルが実現されている。幽霊というものが現世に対する怨嗟によって冥界をさまよい、ときに現実に介入してくるものだとすれば、そうした構造は幽霊譚の基本的な構造なのだと言ってもよい。いかに「私」が合理的な判断を下そうが、作者の視点は世外民の方に重点が置かれているのだし、最終的には怨嗟に満ちた幽霊への共感がこの作品を特徴づけていることになるのだ。
「女誡扇綺譚」には、あのいやらしいペダンティズムもないし、ハイカラ趣味もない。佐藤は台湾旅行において、貴重な経験を積んだのである。そしてこの小説の文章もまた、他の作品に比べて格段にうまい。「私」が女の声を聴く場面の文章を引用して終わりとする。

「不意にその時、二階から声がした。低いが透きとおるような声であった。誰も居ないと思っていた折から、ことにそれが私のそこに這入ろうとする瞬間であっただけに、その呼吸が 
私をひどく不意打した。ことに私には判らない言葉で、だから鳥の叫ぶような声に思えたのは一層へんであった。思いがけなかったのは、しかし、私ひとりではない。世外民も踏み込んだ足をぴたと留めて、疑うように二階の方を見上げた。それから彼は答えるが如くまた、問うが如く叫んだ――」

・佐藤春夫「女誡扇綺譚」(2013、東雅夫編、筑摩文庫「日本幻想文学大全」の『幻妖の水脈』所収)

この項おわり