玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『幻滅』(12)

2020年08月23日 | 読書ノート

 話が19世紀的リアリズムのことに戻ってしまったが、以上のような議論は19世紀的リアリズムの今日における有効性の領域を確定するものだと私は思う。フランスでは20世紀半ばにヌーボー・ロマンが勃興し、バルザックに代表される19世紀的リアリズムは全否定され、バルザックが諸悪の根元であったかのように言われたこともあったが、ヌーボー・ロマンは世界文学に行き詰まりと停滞をもたらしただけで、すぐに消え去ってしまった。

 20世紀半ば過ぎの所謂ラテン・アメリカ文学のブームは、19世紀的リアリズムの復権と、物語の再興をもたらした。魔術的リアリズムという言葉はもともと矛盾を孕んでいるが、リアリズムが否定されているわけではない。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』は物語の再興という意味で、ヌーボー・ロマン的なものへのアンチテーゼであったが、マルケスは必ずしも19世紀的リアリズムを復権させたわけではない。

 それを前面に押し出してブームを先導した一人は、フローベールを小説の師と仰ぐバルガス=リョサであった。リョサの作品はその初期には時間軸を破壊=再構成した実験的な方法に貫かれていたが、その後は19世紀的リアリズムに忠実な作品を書いている。そもそも時間軸を整序さえすれば、初期の作品だってリアリズム小説として読むことも可能だったのだ。

 バルザックは歴史上最初の職業作家の一人であり、小説におけるリアリズムの創始者であったかもしれない。しかしバルザックはリアリズム小説ばかりを書いたわけではない。私が取り上げた『百歳の人』はともかくとしても、『あら皮』などは超自然的な現象を扱っているし、『セラフィタ』などは完全な幻想小説であり、その内容はどこまでもロマンティックなものであった。

 フローベールを至上の作家とするリョサは、「現代の小説は凡庸で特性のない人物を主人公にするが、ロマン主義の小説は強烈な個性をもった傑出した人物を主人公にする」という意味のことを、そのフローベール論『果てしなき饗宴』で言っていて、その本でフローベールを現代小説の祖と見なし、バルザックをロマン主義の作家として切り捨てる。

 しかし話はそんなに簡単ではない。フローベールはリアリズムとロマン主義の間で大きく引き裂かれた作家であり、そのリアリズム小説においてはボヴァリー夫人やフレデリックのような凡庸で矮小な人物を主人公としたが、ロマン主義小説においては聖アントニウスやマトーのような人知を超えるほどに偉大で巨大な人物を主人公にした。

 バルザックの場合には、凡庸で矮小な人物というのはどこにも見当たらず、そこがフローベールとは違っていて、リョサが評価しない原因となっている。しかしヴォ―トランのような複雑かつ巨大な人物を創造したことについて評価することはまったくできないのだろうか。

 そこが私とリョサの認識の違いであって、私は19世紀的リアリズムのある領域と同時に、ロマン主義的な人物造形の一部を積極的に評価したいのである。フローベールが描いた聖アントニウスやマトーを前近代的な妄想のようなものとせざるを得ないのが、リョサの立場だが、それでは『ボヴァリー夫人』と『感情教育』しか認められないではないか。私はそのような不毛な議論に与することができない。

 バルザックがヴォートランの原型としたマチューリンのメルモスは、その後いくつかの作品の源泉となっている。小説ではないが、ボードレールの「われとわが身を罰するもの」L´HÉAUTONTIMOROUMÉNOSはメルモスのサディスムを、他罰性と自罰性の同時性へと読み替えた大傑作である。これも小説ではないがイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』の主人公は、明らかにメルモスの他罰性をサディスムの方向へと極端化させた存在である。

 デュカスの主人公はパロディと紙一重の存在であるかもしれないが、『マルドロールの歌』が20世紀の文学に与えた影響は絶大なものがあり、ロマン主義の妄想が咲かせたあだ花とは言い切れないものがある。バルザックのヴォートランは神なき時代のメルモス、あるいは悪魔なき時代のメルモスとも言えるのであって、私の言う〝世俗化されたメルモス〟として、単にロマンティックな創造物ではないのである。

 

このテーマはもっとじっくりと探求しなければならないものと思うが、今は時間がない。これから「北方文学」第82号のための準備に入る。ヘンリー・ジェイムズ論の続きを書かなければならないので、おそらくしばらくはブログを書けないだろうと思う。10月一杯で終える予定なのでよろしくどうぞ。

(この項おわり)


オノレ・ド・バルザック『幻滅』(11)

2020年08月21日 | 読書ノート

 今、私は宮下志朗という人との『読書の首都パリ』という本を読んでいて、その第Ⅰ章に「発明家の苦悩――バルザックとブッククラブ」という項があり、それを読んでバルザックがなぜ『幻滅』において、あれほど印刷業界と出版業界のことを生き生きと書くことができたのか、その理由を知ることができた。

 宮下はバルザックについて「かつて印刷・出版の世界でベンチャービジネスに乗り出して、手痛い失敗をこうむった借金男」と書いている。バルザックが莫大な借金に追いまくられて、小説を量産していたことは知っていたが、その借金の原因が印刷・出版にかかわるビジネスであったことは知らなかった。

 バルザックの生涯についての本の一冊でも読んでいれば、そんなことは常識的に分かることなのだが、私はそもそも作家の伝記のたぐいを好んで読む習慣を持たない。文学作品がその作家の伝記的事実に還元されるなどという考えを認めないからである。ただし、たまたま宮下が書いているような事実を知ることがまったく無益というわけでもない。『幻滅』がいかにバルザックの現実の体験に負っているかということが分かるからである。

 もう一つ、宮下の本で知ったことは、エミール・ゾラのジャーナリズムへの肯定的な姿勢についてである。ゾラはジャーナリズムの進展が、文学を王侯貴族によるパトロナージュの世界から解放し、作家を初めて自由にしたと考えた。だからゾラは「金銭が作家を解放した。金銭が現代文学を創造した」と書いたのである。ゾラは文学の市場原理というものを肯定的に捉えたのである。

 一方バルザックは『幻滅』を読めば分かるように、ジャーナリズムを「思想の売淫」を行う賤業と見なしていたし、書店業界もまたその一翼を担うものと考えていた。当時の書籍商は作家と読者の中間にあって、作家の著作権をおびやかし、その生活を危うくする存在であると、バルザックは実体験からそう理解していた。

 そこには当時の「読書クラブ」という貸本システムがあって、出版社はリスクを恐れて少部数の出版しか行わず、読者は金を払って本を読むことをせず、書籍商が流通させる貸本をもっぱらただ同然で読んでいたのである。バルザックはそこで、作家と読者を直接繋ぐ「ブッククラブ」のようなシステムを考案し、提起したが、それが実現することはなかった。

 以上、宮下の本から読み取れるのは、文学の流通ということに関して、エミール・ゾラよりもバルザックの方が本質的な分析力を持っていたということである。今日の文学とジャーナリズムの関係を思い起こせば、ジャーナリズムが文学を解放したなどということは、間違っても言うことはできないし、それ故にゾラの分析力は今日の文学界の問題に届いていない。

 ゾラよりも早い時代に属したにも拘わらず、バルザックはジャーナリズムの世界や書店業界への透徹した視点によって、今日の問題にその分析力を届かせているのである。たとえば当時の貸本システムを今日の公立図書館という貸本システムと比較してみるならば、それが文学者の著作権を侵害し、その生活を脅かし、文学の質を損ねる原因となっていることは明らかであるからだ。

 ジャーナリズムに関しては、これはもう言うまでもないことであり、文壇という生産者団体が消滅し、ジャーナリズムという流通を担う業界が主導権を握っている今日、状況は悪化する一方であり、そのあり方はバルザックが生きた時代と大きな違いはないのである。

 そこにゾラとバルザックの作家としての力量の違いを認めることができることも言うまでもない。19世紀的リアリズムという土俵で考えたときにも、二人の力量の違いは一目瞭然であって、バルザックの時代認識こそが、今日までその射程を伸ばすことができていることは明白なのである。

 

宮下志朗『読書の首都パリ』(1998、みすず書房)

 


オノレ・ド・バルザック『幻滅』(10)

2020年08月14日 | 読書ノート

 以上のカルロス・エレーラの言葉を一般論として読み、「世間の人間は孤独に耐えきれずに、自らの運命の協力者を欲するが、自分はそうではない」という矜持の言として、それを捉えることはできない。カルロスは続いてリュシアンに、次のように内心を吐露してみせるのだからである。

 

「わしは孤独の人間。ただ一人生きている。僧服をきてはいるが、坊主の心はもたん。わしは献身ということが好きで、こいつがわしの欠点でな。この献身でもってわしは生きている。」

 

 だがカルロスは、自分もまた一般論に該当する「孤独に耐えきれずに、自分の運命の協力者を欲する」者だと言っているのである。さらにその協力者のためなら、どのような献身も厭わないとさえ言う。この稀代の悪人には似合わぬ「献身」の精神こそ、ヴォートランの悪人としての真の二重性を示すものである。

 このような二重性をマチューリンの放浪者メルモスも体現していた。窮地に陥った人間を救おうとする時、メルモスはどこまでも献身的ではなかったであろうか。『放浪者メルモス』に登場するすべてのケースにおいて、メルモスはそのように行動するが、特に絶海の孤島に取り残されたイジドールへの愛は、無償のそれであるかのようにさえ見えてしまう。

 しかし、メルモスの本来の目的は窮地に陥った犠牲者を、悪魔との契約によって放浪を運命づけられた自分自身と交換することにあるので、献身的態度は上辺だけのことにすぎないと思われるかもしれない。しかし、悪魔との契約ということを喩として捉えるならば、「孤独に耐えきれずに、自らの運命の協力者を欲する」ということに還元されるのではないか。

 まさに放浪者メルモスという存在が普遍性をもつのは、そこのところなのである。物語としては悪魔との契約の肩代わりを求めて放浪を繰り返すのであるが、それを言い換えれば、孤独を宿命づけられた近代的主体が、運命をともにする者を求める精神的運動ということになる。

『放浪者メルモス』は超自然的な事象を扱う点においてゴシックであり、『百歳の人』もまたそうであったが、バルザックはメルモスから超自然的要素を取り除き、リアリスティックな人物としてヴォートランを創造したのだと言える。それが私の言う〝世俗化されたメルモス〟ということの意味である。

 ヴォートランを動かしている思想や理念については、こうして理解することができる。ではリュシアンに対する具体的な関係の取り方はどうなのだろうか。カルロス・エレーラは先の台詞に続いて、次のようにリュシアンに向かって言う。まるで愛の告白のように。

 

「わしは自分のつくったものを愛したい。そのものをわしの使えるように細工したり鍛えたい。父親がわが子をかわいがるように愛せるように。わしはおまえさんの二輪馬車に乗って歩こう。おまえさんが女たちから大切にされるのをよろこぼう。そして、わしはこういうのさ――この美青年はわしだよ!」

 

 ヴォートランのリュシアンに対する奉仕の意図について、リュシアンを保護し、鍛え、出世させることによって、黒幕として裏から社会を支配するためといわれることもあるが、そんなことは『幻滅』にも『浮かれ女盛衰記』にも、どこにも書いてない(『ゴリオ爺さん』にはそう書いてあったかもしれないが、確かめていない。たとえそうであったにしても『ゴリオ爺さん』に登場するのはまだ未成熟なヴォートランである)。

 ヴォートランのリュシアンへの庇護は、わが子をかわいがる父親のような気持ちによっているのであって、『幻滅』と『浮かれ女盛衰記』においてはまさに、そのような現れ方をする。あくまでもそれは無償の奉仕であり、打算があるとすればそこで〝私が同類を得る〟ことにおいてのみである。

 

 


オノレ・ド・バルザック『幻滅』(9)

2020年08月12日 | 読書ノート

 カルロス・エレーラことヴォートランもまた『浮かれ女盛衰記』において、放浪者メルモスのような八面六臂の活躍をすることになるのであり、その行動はリュシアンとエステルを救うことにおいて善であり、そのために彼等の周囲の人間に損害を与えることにおいて悪である。この二重性の中にはヴォートラン自身の精神性が含まれているはずであるが、それがどのようにしてであるのか、『浮かれ女盛衰記』を読んだだけでは理解できない。

 最初に私が書いたように、なぜカルロスは、縁もゆかりもない若者リュシアンの窮状を救おうとするのか、という疑問に『浮かれ女盛衰記』は答えてくれない。それに答えてくれるのは『幻滅』において、破滅の末自殺を決意したリュシアンとカルロスが出会う場面である。

『浮かれ女盛衰記』でカルロスは、いわゆる〝義賊〟として活躍していた。つまり、持たざるリュシアンとエステルのためには無償の奉仕者としての力を発揮し、エステルを金で買おうとする銀行家ニュシンゲン男爵に対しては詐欺師としての悪行を重ねるのである。カルロスは持たざる者に対しては救済者であり、持てる者に対しては災厄の人である。これはいってみれば世俗化されたメルモスのような存在である。カルロス自身そのことを『幻滅』の中で自己解説している。

 

「ある者はアベルの末裔、ある者はカインの末裔」「このわしは両方の血をうけついでいるので、敵に対してはカイン、味方にはアベルなのさ。このわしのうちのカインの目をさまさせるやつこそ不幸だ……」

 

 こうした義賊のような二重性は、カルロスの本当の二重性とは未だ言いがたい。本来の二重性はより内面的なものでなければならない。そうでなければカルロスはメルモスたり得ず、メルモスの同類とは言えないからである。しかし、『幻滅』の最後でこのような自己分析をするところが重要である。

 手形偽造によって親友ダヴィッドに負わせた借金の肩代わりを申し出、彼の庇護者ともなろうというカルロスに、リュシアンは「あなたの態度にうかがえる慈悲深いご様子にはいまどんな動機があるのか、それを一つ知りたいのですが?」と訊ねるのである。それに対する長い返答こそが、カルロスの真の動機を語るものとなる。

 カルロスの長広舌には、成功のためには他者を(とりわけ女性を)単なる手段と見るマキャベリズム、歴史上の悪の勝利とその悪への誘惑、権力の絶対視とその権力への愛などが含まれるが、このような悪人像はゴシック小説をその源泉としているのにちがいない。

 こうした悪人像は極めて近代的なものであって、カルロス・エレーラは僧の姿をしながらも無神論的な社会観や世界観を披瀝するのである。その原型もまたマチューリンの放浪者メルモスに求められるであろう。メルモスは悪魔と契約するが、マチューリン自身が新教の牧師でありながら無神論的な思想の持ち主であったし、メルモスにとっての悪魔はほとんどキリスト教の概念を逸脱している。

 しかしまだ、カルロスはメルモスの近隣に住まう者とは言えない。カルロスがある種の〝弱み〟を見せる時、彼は真にメルモスに近付くことになる。カルロスのリュシアンに対する陳述は次のように続いていく。

 

「人間は孤独が大きらいであるということ。しかも、いろいろの孤独の中で、精神的な孤独というのが人間にはいちばんこわいのだ。古代の隠者たちは神とともに生きていた。かれらはもっともにぎやかな世界――霊魂の世界に住んでおった。(中略)人間がまず第一に考えることは、癩病やみでも徒刑囚でも、人も病人も、みんなおなじこと――自分の運命の協力者をもつということだ。この気持ちこそ、人生そのものなのだが、これを満足させるために人間はあらゆる力、あらゆる能力、自分の生命の熱情をうちこむ。」


オノレ・ド・バルザック『幻滅』(8)

2020年08月10日 | 読書ノート

 さて、いよいよヴォ―トランという人物について語らなければならない。ヴォートランの人物造形は私には、マチューリンの『放浪者メルモス』の主人公メルモスにその多くをよっているとしか思えない。その証拠としてバルザックの青年期の作品『百歳の人』Le Centenaire ou les deux Béringheldを挙げることができる。

 この若書きの小説は1822年の刊行で、当時マチューリンの『放浪者メルモス』が翻訳されて、フランスで人気を博していたという。前にも書いたように『百歳の人』はあまり出来のよい小説ではなく、明らかに『放浪者メルモス』の二番煎じにすぎない作品だが、若きバルザックがこのメルモスという人物に深い共感を寄せていたことは、充分読み取ることができる。

「二人のベランゲルト」というのは、この小説の二人の主人公と言ってもよいもので、これまで何百年生きてきたか分からない「百歳の人」とその末裔であるベランゲルト将軍のことを言っている。「百歳の人」はベランゲルト将軍に生き写しで、そのことはゴシック小説における分身のテーマをバルザックが意識していたことを窺わせる。『放浪者メルモス』の方には分身のテーマは含まれないが、若きバルザックがいかにゴシック小説の影響を受けていたかを理解するには十分である。

 あるいは分身のテーマと言うよりは血統のテーマ、ゴシック小説の基本中の基本である呪われた血統のテーマと見なした方がいいのかもしれない。これもまた『放浪者メルモス』に典型的にみられる「さまよえるユダヤ人」のような、呪われた放浪者に連なる者の恐怖の系譜である。かくも若きバルザックは、ゴシック小説に入れ込んでいたのである。

 マチューリンの造形した「放浪者メルモス」は悪魔との契約によって不死を約束され、放浪を繰り返す(それどころかメルモスは瞬時に世界中のどこにでも出没できるのである)が、そのような不幸な運命を誰かに肩代わりさせたいと思っている。メルモスは放浪の中で、不幸な運命を背負ったさまざまな人物に対し、悪魔との契約の肩代わりを要求するが、ことごとく拒絶されてしまう。

 バルザックの『百歳の人』には、このような悪魔との契約というテーマはないが、その代わりに自分が生き延びることの代償として、相手の寿命を要求するという吸血鬼的なテーマが見受けられる。最後に犠牲となるマリアニーヌは、死への願望を口にしたが故に、自らの寿命を「百歳の人」に差し出すことになる。

 しかし、この「百歳の人」は、世界に対して不幸だけをもたらす存在というわけではない。彼は自分の末裔であるベランゲルト将軍が、ナポレオンのエジプト遠征に参加する時に、彼の兵士たちをペストから恢復させ、将軍の危機を救いもするのである。だから「百歳の人」は災禍の人であると同時に救済の人でもあり、悪の人であると同時に善の人でもある。

 このような二重性はバルザックの発明によるものではない。マチューリンのメルモスこそ、こうした二重性の元祖だと言ってもよい。ゴシック小説には多くの悪人が登場するが、メルモスのような複雑な二重性を負った人物は、マチューリンの登場を待たなければ可能とはならなかった。

 メルモスは悪魔との契約を他者に押しつけたい。そのためには不幸に陥っている人物を救済の対象として選択しなければいけない。自らの不幸を回避するためには悪魔と契約してもよいという人物を選び出さなくてはならない。『放浪者メルモス』はそのような人物とメルモスとの相克の物語である。

 メルモスは犠牲者を不幸から救い出すことによって、悪魔との契約を逃れるのであるから、その限りでは災厄からの救済者であり、善の人である。しかし悪魔との契約を押しつけることで犠牲者を破滅へと追いやる以上、メルモスは災厄の人であり、悪の人でもあるのである。このような二重性をマチューリンはゴシック小説において、初めて達成したのだった。

 


オノレ・ド・バルザック『幻滅』(7)

2020年08月07日 | 読書ノート

 だが、リュシアンの破滅への行程はまだ終わってはいない。彼の破滅を決定づけるのは、親友ダヴィッドの名を騙った手形偽造である。ジャーナリズムというものをよく知らずに犯す失敗や、賭博上の失敗などは、まだ許せないこともないが、親友の名を騙った手形偽造というのは、明らかに犯罪行為であり、信義にもとる行為であるからである。

 それによってダヴィッドとその妻エーヴ(リュシアンの妹)が、どのような苦境に陥っていくかというのが、『幻滅』におけるもう一つの重要なプロットである。ダヴィッドは印刷屋の経営者としてよりも、新しい製紙法の発明の方に精力を傾けていき、もう少しで成功というところまで漕ぎつけるが、彼の周りではその発明による経済的利益を簒奪しようとする者たちが様子をうかがっている。

 そんな時に、リュシアンの偽造手形によって借金を背負ってしまったダヴィッドは、危うく投獄されそうになるが、エーヴの機転もあって隠れて研究を続ける。ダヴィッドもエーヴも、こんな仕打ちを受けてもリュシアンを憎むことはない。彼等はどこまでも善良で、献身的な人間として描かれる。それもまたリュシアンの悪行を際立たせるためとすら見えてくる。

 ところでここで登場してくる代訴人プチ・クローというのが、恐ろしくうまく描かれている。今でいう弁護士の仕事の民事を扱う職業として位置づけられると思うが、プチ・クローはダヴィッドとエーヴの味方の振りをしながら、ことある毎に請求額を増やしていくハイエナのような人物として描かれている。これでは借金した額を取り戻せても、代訴人に対する支払いで破産してしまいそうだ。その辺の事情が事細かに描かれる。

 今でいう悪徳弁護士のようなものではないかと思うが、プチ・クローの人間がうまく描かれているというよりも、彼の職能のあり方が詳細に描かれているといった方がいいだろう。つまりここでも、20世紀と当時の業界の一部が地続きのもものとして克明に描かれているということが言える。だからこの部分でもまた、バルザックのアクチュアリティは現在でも失われていないのである。

 私はこれまでに意図的にリュシアンの愛人コラリーのことに言及しないできた。この女性については『浮かれ女盛衰記』に登場するエステルとの比較なしには語れそうもないからである。二人ともいわゆる囲いもの〝浮かれ女〟でありながら、リュシアンに対しては純情を貫くのだが、バルザックはどうしてこんなにもよく似た女性二人を登場させたのだろう。『幻滅』がリュシアンの破滅の物語であるとすれば、『浮かれ女盛衰記』は、リュシアンのカルロス・エレ-ラによる再生と、再度の破滅の物語である。

 リュシアンはバルザックによって、性懲りもなく同じ失敗を繰り返す度し難い男として描かれているから、コラリーとエステルのケースもそのようなものとして設定されているのかもしれない。しかし、その場合には『幻滅』と『浮かれ女盛衰記』とを、連続した一つの小説として読むことが要求される。

 あるいはまた、コラリーにはカルロス・エレーラの影は射していないが、エステルの場合にはカルロスの圧倒的な支配の下にあって、それ故にこそリュシアンに再生のチャンスを与えることができるのである。しかしその場合にも『幻滅』と『浮かれ女盛衰記』を一つの小説として読むことを要求されるのは言うまでもない。

 やはりどうしてもカルロス・エレーラことヴォートランという人物を中心にして考えた時に、『幻滅』と『浮かれ女盛衰記』を切り離して考えることはできない。『幻滅』ではヴォートランは最後の最後に登場するに過ぎないのだが、『浮かれ女盛衰記』との連続性として捉えれば、『幻滅』はヴォートラン登場のための前史にすぎないとさえ言うことさえできるのである。

 


オノレ・ド・バルザック『幻滅』(6)

2020年08月05日 | 読書ノート

「セナークル」のメンバーたちはこのように、文学や哲学というものに係わる時に、策を弄してのし上がろうなどという野心を抱くことなく、貧困に耐えながらひたすら研鑽に励むことによって、世間に認めさせようという、いわば古めかしい知識人像を代表している。しかしリュシアンには彼等のような忍耐力がない。リュシアンにとって成功の手段は、唯一金である。

 

《ああ、なんとかして金をえること! 金だけがああいう連中をひざまずかせる唯一の権力なんだ》

 

というのがリュシアンの考えであり、それによって彼は失敗を運命づけられてしまうのだと言ってもよい。

 リュシアンが次に接触するのは出版業界である。彼が「シャルル九世の射手」という自分の小説を売り込もうとすると、無名の作家の作品などほとんど相手にされず、足元を見られて買いたたかれそうになる。また彼の詩集にいたっては、全く歯牙にもかけられない。当時から詩集などというものは、出版業界にとって金に結びつかないものであり、そのことは現代でも変わってはいない。また、次のように言う出版業者を登場させているところを見ると、出版ということの事業の性格も現在とそれほど違っているとは思えない。

 

「このわしはな、なにも道楽で本の出版をしたり、二千フランもうけるのに三千フランを危険にさらす、そんなことしているのじゃないんだ。わしは文学で投機をやっている。」

 

 いよいよジャーナリズムの世界が登場してくるが、これが、出版業界や劇場と利害関係が複雑に絡み合っていて、読んでいてそら恐ろしくなる。出版屋はジャーナリストに提灯記事を書かせて、自分の本を宣伝し、今でいうベストセラーを狙う。記者はだから自分の判断や評価で批評を書くのではなく、出版屋の意向に添った記事しか書くことができない。そのかわり多額の原稿料を約束されたり、出版された本をもらってその本を転売することで、生計の足しにするのである。現在と違うのは少しくらい本をもらってもたいした金にはならないということくらいである(当時の本は富裕層しか買えない高価なものであった)。

 それは劇評でもまったく同じことで、劇場の依頼でその意向に添った記事を書き、原稿料の他にチケットをもらって、それを売り捌くことで生計を立てるというのが、当時の記者たちの生活のあり方だったのである。まさに賤業と言ってもよいだろう。

 こういう世界にリュシアンは足を踏み入れていくことになるが、かつての仲間の作品の価値を貶める記事を書いたり、質の低い作品を過大に評価する記事を書いたりしていくうちに、次第にリュシアンは社会的信用を失っていく。正に自業自得である。目先の成功に足下を掬われ、さらに王党派と共和派の政治的闘争にも巻き込まれ、貴族社会に縋りつくしかなくなるが、田舎出の出自も定かでないリュシアンは、いかにその美貌ありといえども、貴族社会に受け入れられることはないのである。

 以上がカルロス・エレーラが彼の前に姿を現すまでの『幻滅』の基本的なストーリーである。バルザックはさまざまな当時の社会階層を描くことによって、リュシアンのおかれた環境を構築していくのだが、それが必ずしも古びていないこと、あるいは現在も当時もそんなに変わりがないということによって、彼の方法の価値を評価することができる。

 とくにこの『幻滅』が、印刷業界や出版業界を描くことで、一九世紀から二〇世紀に連綿とつながる人間社会の一業態を不変の相において捉えていることが、この小説を古びたものにさせない一つの要因になっている。この二つの業界は他の作品では登場することがないから、そのことがこの作品を特殊なものにしている。しかし、ここからバルザックの作品のリアリズム的方法の偉大さを結論することは、まだ早すぎるように思う。

 


オノレ・ド・バルザック『幻滅』(5)

2020年08月02日 | 読書ノート

 一方主人公リュシアンは、ダヴィッドとは対照的な人間として描かれていく。リュシアンの詩人としての才能をパリで開花させるという欲望に火をつけるのは、バルジュトン夫人である。彼女はリュシアンにリュバンプレという母方の貴族の家名をつけるため、パリの貴族社会に取り入って、国王の裁可を売るという計画をも唆し、天才の政治学を吹き込みさえする。それは次のようなものだ。

 

「大きな仕事を完成しなければならないので、天才は誰の眼にもあきらかなエゴイズムをしいられ、自分の偉大さのために一切緒を犠牲にせねばならぬ。(中略)天才は天才にのみ所属している。彼のみがその手段の審判者である。天才だけがその目的を知っているのだから。で、おきてをつくり直すべき人が彼であるから、かれはすべてのおきてを超越しているべきだ。」

 

 まるでドストエフスキーの『罪と罰』におけるラスコーリニコフの超人思想のような考え方に、リュシアンは自分の力で到達するのではない。バルジュトン夫人に唆されているにすぎないのだ。リュシアンの心にはナポレオンのことが浮かび上がる。実にナポレオンは19世紀における天才の優生学の典型的な目標であったのである。バルザックはリュシアンの心を冷静に分析している。

 

「元来リュシアンはこういう性格なのだ。悪から善へ、善から悪へ、どちらへもひとしい揺れかたでらくらくと移って行く。」

 

 第2部「パリにおける田舎の偉人」は、このような頭に乗りやすく優柔不断なリュシアンが、ジャーナリズムの世界と貴族社会に翻弄され、次第に信用を失っていく物語として進行する。つまり、タイトル通り「幻滅」こそが、この小説の最も大きなテーマなのである。

 この作品が出現するまで、ジャーナリズムの世界を登場させる小説はなかったという。ヴィクトル・ユゴーへの献辞としてバルザックが次のように書いていることが、作者の意図をよく示している。

 

 「ある人々の言うところでは、この作品は真実にみちたる物語であると同時に、勇敢な行為でもあるというのですから。新聞記者というものも、侯爵や財政家や医者や代訴人と同様に、モリエールとその劇に属すべきものではないでしょうか?」

 

 確かに『幻滅』は当時のジャーナリズムの虚妄の世界を徹底的に描き尽くして、極めて〝現代的〟である。当時はそのように読まれ、認識されたはずである。そればかりでなく私が印刷業界について指摘したように、この部分でも19世紀がつい最近の20世紀と地続きであることを『幻滅』は教えてくれるのである。

 しかし、ジャーナリズムの世界に踏み込む前に、バルザックは当時の文学・哲学サークル「セナークル」に集う人物達を描いていく。パリに出たリュシアンが最初に接するのは、このグループであって、リュシアンはその後ジャーナリズムの世界に足を踏み入れることによって、グループの期待をことごとく裏切っていくことになる。

 セナークルのメンバーの何人かが登場してくるが、一番魅力的なのは「最初の友」として紹介されるダニエル・ダルテスであろう。彼はリュシアンの作品を読んで彼の才能を認め、小説作法を伝授するのだが、それこそがバルザックが自覚的に取り組んだ小説の方法ではなかったかと思われるくらいダルテスの理論はリアルなのである。たとえばウォルター・スコット情熱の欠落を指摘して言うダルテスの言葉はこうだ。

 

「情熱は無限の事件を生み出す。だからさまざまな情熱を描いてごらんなさい。あの偉大なる天才スコットが猫かぶりの国イギリスのあらゆる家庭で自分の作品をよんでもらいたさに捨ててしまった莫大な資源をあなたは手に入れることができますよ。」

 

 リュシアンはそれを手に入れることはできなかったが、バルザックは圧倒的にそれを手中にしたのであった。