玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(4)

2020年02月21日 | 読書ノート

『ワシントン・スクエア』の大きな特徴は、35の章からなる小説において、ほとんどの章が登場人物1対1の指し向かいの構図を持つということである。こうした特徴はジェイムズの後期3部作で集大成を見ることになるもので、特に一番最後の『金色の盃』でその構図は完璧なものとなる。

 なぜそんな構図にするかというと、ジェイムズが登場人物の一人ひとりを1対1の構図におくことによって、そこに心理的な緊張の場を作り出す意図があるからである。そんな構図はフランスの心理小説において顕著なものとなっているが、1対1の場面ではじめて、一人が一人の人物に対して、その本来の姿を顕わにすることが可能だからである。

『ワシントン・スクエア』は心理小説としての特徴を持っていて、1対1の対決の場面はさまざまな組み合わせで実行されるが、終局的には父スローパー博士と娘キャサリンの〝闘い〟ということに収斂される。〝闘い〟とは言ってもそれは表面的なものではなく、表に出せない心理的なそれであるのだが。

 スローパー博士は娘に対して直接的な叱責というよりも、婉曲な言い方(それは〝皮肉の濫用〟といわれる)をとる。キャサリンの方は父に対する絶対的尊敬と服従から来る怨嗟の形をとる。そこでヘンリー・ジェイムズは、19世紀的リアリズムでは描けなかった人間の複雑さを描くことに成功している。

 バルザックの『ウジェニー・グランデ』は、必ずしも父グランデ氏と娘ウジェニーの間の〝闘い〟に収斂するわけではない。二人の闘いは、旅立つシャルルにウジェニーが父からもらった金貨を与えたことが露見する場面に見られるだけで、父娘の対立というものがそれほど重大な意味をもつものではない。

 バルザックは相変わらず、極端で行き過ぎた人間の造形に全力を傾けている。グランデ氏の金銭に対する異常な欲望が前面に出ていて、その周りの人物達の存在感を希薄なものにしている(特にウジェニーの母親の存在感がまったく感じられない)。ウジェニーは必ずしも父の犠牲となるのでもない。父が家族に吝嗇を強制する時には、妻も娘もそれをそういうものだと受け止めて服従するのだし、前にも言ったように娘ウジェニーの結婚を父が妨害するのでもない。

 結局『ウジェニー・グランデ』は巷間言われるように、父親の暴虐によって犠牲になる娘のことを描いた作品とは言えない。バルザックの小説によくあることだが、テーマが一つのところに落ち着かずに拡散する、ちょっとバランスを欠いた作品のような気がする。ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』の方のテーマは、極めて筋の通ったものになっている。父の娘を思う気持ちから出てくる「皮肉の濫用」が、いかに娘を傷つけていくかというその過程を微細に追った作品なのである。

 スローパー博士の罪は、キャサリンとモリスの結婚に反対したことにあるのではない。そうではなく、彼が娘に対して反対するわけを理を尽くして諭すのではなく、もっぱら「皮肉の濫用」によってそうした(ほとんどサディスティックな皮肉を多用した)ということ、さらに言えば、キャサリンがモリスとの結婚を断念した後も娘を信じることなく、「皮肉の濫用」を続けたことにある。

 キャサリンが独身を貫くのも、そのような父親に対する復讐でもあるのであって、そこでもテーマの一貫性は保たれている。『ウジェニー・グランデ』のウジェニーが独身を続け、世間体のために形ばかりの結婚をするのは、父親に対する復讐というよりもシャルルの心変わりへの復讐と言えるだろう。だからそこにもテーマの盤石性が感じられないのである。

 以上見てきたように『ウジェニー・グランデ』と『ワシントン・スクエア』はストーリーがよく似ているが、目指すところはまったく違っているように思う。しかし、金銭と恋愛ということが二つの小説の軸となっていることは明らかで、この極めてバルザック的な要素を、ヘンリー・ジェイムズが受け継いでいることは見て取れる。ジェイムズは後に金銭と恋愛そのものをテーマとした『鳩の翼』を書くことになるのだから。

(この項)おわり


オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(3)

2020年02月19日 | 読書ノート

 ではバルザックの『ウジェニー・グランデ』と、ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』を比べて読んでみよう。二つの小説のあらすじから紹介していくことにする。『ウジェニー・グランデ』は守銭奴の父グランデ氏の圧政の下にある従順な娘ウジェニーが、破産して自殺したグランデ氏の弟の息子シャルルと相思相愛の仲となるが、お金のことしか考えない父親に対して次第に自立した女性として成長していく物語ということになろうか。

 一方『ワシントン・スクエア』は、人間として完璧な父親スローパー博士への敬愛と、彼女に結婚を申し込んだモリス・タウンゼントへの愛とのはざまで苦しみながら、自立していくキャサリンの物語ということになる。『ウジェニー・グランデ』との違いはグランデ氏がお金のためならどんな汚いことでもやり、自分の吝嗇を家族に対しても強制するひどい男であるのに対して、『ワシントン・スクエア』のスローパー博士は、世間的にも、家族に対しても完全無欠な人物であるところにある。

 また、ウジェニーが極め付きの美人であるのに対して、キャサリンは大柄で十人並みの器量の持ち主(デブでぶすということ)、頭の方もそれほどよくはないという違いもある。バルザックは悲恋の物語として美人を主人公にしなければならなかったのに対して、ジェイムズの主人公は悲恋の物語のそれらしくないという違いもある。

 ウジェニーとシャルルの結婚を妨げるのは、必ずしも父グランデ氏の金銭欲というわけではない。グランデ氏はシャルルが金持ちならば喜んで娘の結婚を承諾したであろうが、お金のために娘を政略結婚の犠牲としたわけでもない。二人の結婚の障害となったのはシャルルの変節であり、父親に直接の罪はない。

 一方、キャサリンとモリスの結婚を妨げるのは、父スローパー博士の断固たる反対の意志である。では彼がひどい父親なのかといえば、そうではなく、モリスが財産目当てで結婚しようとする怠け者であることを見抜いているが故に、彼は反対するのである。スローパー博士の意志に読者は抵抗できない。それがあまりにも理にかなっているからである。それどころか読者は父親に成り代わって、キャサリンの結婚に反対する気持ちにさえなるだろう。スローパー博士の罪は別のところにあるのだが、そのことについては後ほどのテーマとしたい。

『ウジェニー・グランデ』でウジェニーの周りには、母親と女中のナノンがいて、グランデ氏の暴政に対し共同戦線をはって抵抗するが、『ワシントン・スクエア』のキャサリンは孤立無援である。母親は早くに亡くなっているし、モリスに肩入れする叔母のペニマン夫人は、その軽薄さ故にキャサリンの援軍たり得ない。だいたい読者を味方に付けることもできないのだから。

 ウジェニーは母の死、父の死によって莫大な財産を相続することになるが、もとよりそんなものに興味はない。結婚にも絶望しているが、以前から彼女を狙っていたボンフォン裁判所長と形式だけの結婚をする。夫の死後、ウジェニーは財産を慈善事業に費やして、ひとり寂しく老いていくのである。

 キャサリンもまたモリスに失望して結婚を断念し、父に対する面当てのように生涯結婚しようとせず、ひとり寂しく老いていくのである。以上ストーリーにおいても違いは数々あるにしても大枠はよく似ている。バルザックを大好きだったヘンリー・ジェイムズが『ウジェニー・グランデ』の現代版として『ワシントン・スクエア』を書いたということは、疑い得ない。

 まず導入部からして『ワシントン・スクエア』はバルザック的である。書き出しは次のようなものである。

「十九世紀前半、さらに詳しく言えばその後半のことである。ニューヨークの街に一人の隆盛をきわめた開業医がいて、名医というものがふつう受ける以上の、大きな敬意を集めていた。アメリカでは医者は立派な職業として尊重され、紳士階級だと自称する正当性を他のどこよりも獲得している。」

 まずここで時代設定を見てみると、十九世紀前半の後半というから1825~1850年あたりを想定していることが分かる。ヘンリー・ジェイムズは1843年に生まれ、1916年に没しているから、同時代ではなく、彼の生まれる直前の時代に設定しているのである。その時代はバルザックがもっとも精力的に小説を書いていた時代で、『ウジェニー・グランデ』もその時代に入るし、『絶対の探求』『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』『従妹ベット』などの名作はこの時代に書かれている。つまり時代設定からしてバルザックを意識していることに間違いないのである。

 ところで、主人公の父スローパー博士の紹介が先の引用のように始まるのであるが、彼の築いた世間的人望と絶世の美人との結婚、最初の男の子の早すぎる死とキャサリンの誕生による母親の死、キャサリンの成長と彼女への失望、というふうに続いていく。この様な整然とした背景説明による導入部は、ヘンリー・ジェイムズの他の作品には見られないもので、ここでも彼はバルザックに倣おうとしているように見える。バルザックの導入部に比べたらはるかに短いものでしかないが、こんなことを普段のジェイムズはやらないのである。

 


オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(2)

2020年02月18日 | 読書ノート

 ヘンリー・ジェイムズが〝バルザックの教訓〟と言う時、それは人生上の教訓や、道徳上の教訓を意味していない。バルザックの小説は〝いかに生きるか〟などというテーマを追っているのではないからだ。たとえばバルザックが、『従妹ベット』の高級娼婦ヴァレリーを愛していたとしても、それは彼女の生き方が正しいという理由によっていない。

 ジェイムズの〝教訓〟というのは、ほとんど小説作法上の〝教訓〟というに等しい。たとえば次のようにジェイムズが語るのも、作家とその作中人物の関係のあり方という方法上の問題に帰結するだろう。

「この上なく生命感に溢れる強烈な個性の持ち主を愛したことによって、バルザックははじめてあのように見事な作中人物を次々に活躍させられたのです。作中人物の見せるさまざまな動き、つまり作者の手を離れ、それぞれの性格に基づいて自由に動き廻る姿に対する愛情と喜びこそ、先に述べた主題との密着を可能にしたものなのです。」

 バルザックが彼の創造する作中人物達を徹底的に愛していたこと、それが彼の作品に生命を与えていると、ジェイムズは言いたいのである。バルザックの人物達はどれも極端な性格の持ち主で、ある種のいきすぎを演じてはばからないが、それこそが〝教訓的〟な小説から遠い場所に彼の作品を導いていくのだし、あるいはフローベールの場合に見たように、登場人物の凡庸さから逃れる小説にしている要素なのである。

 言ってみればバルザックの時代には、未だそうした魅力的な人物が創造可能だったのであり、フローベールの時代にはもはやそうではなかったと言わなければ、私は公平性を欠いた言い方をしてしまうことになるだろう。またそうした魅力的な人物を創造する時に、彼の執拗な描写や、くどいほどの背景説明が必要とされたのであっただろう。『ウジェニー・グランデ』は『絶対の探究』程に長大ではないが、それでも長すぎる導入部を持っている。

 最初の「町方風俗」の章は、まず小説の舞台となるソミュールという田舎町の描写から始まり、そこで暮らす人々の生活ぶりを描き出していく。ようやくこの小説の主人公ウジェニー・グランデの父親の話題になると、これまた長々しく彼の経歴やら所有財産やらについての説明が続く。

 さらにグランデ氏の狭い交流範囲の中にいるクリュショ家とデ・グラッサン家の人々についての紹介の後、使用人のナノンとグランデ氏の関係についての長い説明が続き、ようやくグランデ夫人とウジェニーのところに辿り着く。

 そこに突然、グランデ氏の弟の息子(ウジェニーにとっては従兄)シャルルが現れ、漸く物語が動き出していく。一人の人物を創造するにはその人物が育った土地の歴史や自然環境、風俗、家柄や財産、交遊関係など、ありとあらゆるデータについて描写し、説明しなければ収まらないのである。

 バルザックの人間観がまさにそれであり、当時の読者もまたそのような人間観を受け入れる素地を持っていたということになる。しかし、それにしても過剰ではないのか。くど過ぎはしないか。ヘンリー・ジェイムズはそのことについても述べていて、そこにバルザックの欠点を指摘はするが、なぜそれが欠点なのかについての言及は避けている。

「ある問題にどこまで奥深く分け入るかというのが問題なのです。彼の通路は常に奥へ奥へと進んでいます――ということは、つまり彼には詳細な描写への人並み外れた情熱があったということに他なりません。このくどさは彼の大きな欠点でもあったのですが、それは今問題とする必要はありません。それに細部描写は生き生きとしていますし、彼の構想と密接に結びついていて有意義なものなのです。」

 むしろこの異常なほどの描写と説明へのこだわりは、バルザックの欠点ではなく長所だったのかも知れない。どんな作家でも描写への誘惑を防御しきれるものではなく、むしろ積極的にそこに溺れていくものだからである。ヘンリー・ジェイムズ自身もそのような作家であったし、そのことを自覚してもいた。この問題については後で検証してみたい。


オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(1)

2020年02月17日 | 読書ノート

『セラフィタ』の余韻の残る中、次に選んだのはオノレ・ド・バルザックの最高傑作とも言われる『ウジェニー・グランデ』である。とにかくバルザックの名作といわれる作品を優先的に読むことにした以上、この作品は欠かすことができない。

 しかし、もう一つ大きな理由がある。それはヘンリー・ジェイムズの中期の作品『ワシントン・スクエア』が、バルザックのこの作品の影響下に書かれたという話を読みかじったからである。『ワシントン・スクエア』は大傑作とは言えないかも知れないが、ヘンリー・ジェイムズの特徴をよく示した作品であり、比較して読んでみない手はないと私は考えたのだった。

 ヘンリー・ジェイムズはフローベールやゾラ、モーパッサンなどと交流があり、フランス文学に対する理解には並々ならぬものがあったが、彼が一番愛したのはバルザックであったように思う。ジェイムズは1905年に、フィラデルフィア同時代クラブというところでバルザックについて講演を行い、その記録が「バルザックの教訓」という講演録として残されている。

「バルザックの教訓」は講演録という性質上、それほど緊密に考え抜かれた内容にはなっていない。フローベールの『感情教育』の項で紹介した「ギュスターヴ・フローベール」で、あれほどに精緻な分析力を見せたジェイムズの力量が、ここで十分発揮されているとは言いがたい。

 しかし好き嫌いはこういうところに表れるもので、「バルザックの教訓」がほとんど理屈抜きに、ジェイムズのバルザックへの愛情を語っているところを見ると、彼が本当にバルザックに傾倒していたことが分かる。彼が小説家としてはバルザックが最も好きだったということは、彼より才能の劣る作家に対するジェイムズの容赦ない非難によって理解することができる。

 こういうやり方は本来フェアな批評とは言えない。ある作家を称讃する時に、彼より劣った作家の才能をあげつらうことは、比較の濫用であって、本来はそれによって称讃の対象となる作家の偉大さを証明することはできない。ジェイムズのアンフェアな姿勢は、彼のバルザックへの理屈抜きの偏愛を語っているのである。

 まずやり玉に挙がるのは、バルザックと同時代人であったジョルジュ・サンドである。ジェイムズは次のように語っている。

「彼女の作品は総体として捉えると、まるでみがきあげ彩色をほどこした巨大なイースターの卵のようであり、分析のための手がかりがほとんどないのです。博物館の宝物ではないまでも、お菓子屋の自慢のたねになるような代物です。」

と手厳しい。ついでに女流作家が列挙されていって、処刑の憂き身に晒されていく。ジェーン・オースティンが現在評価されているのは、彼女の作品の文学的価値によっているのではなく、商業上の目的、「書物の販売を伸ばそうという特別の配慮」によるものでしかないと、ジェイムズは言う。

 またこの延長上で生け贄となるのは、シャーロットとエミリーのブロンテ姉妹である。ジェイムズは次のように述べて、彼女らの作品の価値を否定する。

「ブロンテ姉妹について述べますと、彼女たちの文学的才能とは無関係の理由によってロマンティックな見方をされることになったのだと思います。つまり、姉妹の暗い悲劇的な生涯とか孤独とか貧しさというようなイメージが彼女らにまつわりついて離れないのです。そしてイメージが『ジェイン・エア』あるいは『嵐が丘』のもっとも鮮やかな頁と同じくらい執拗にわたしたちの目の前に浮かぶようにさせられてきたのです。」

 この議論自体は、文学作品の価値を決めるのは作家の生涯ではなく、作品のテキストそのものであると言っているので、至極まっとうなものである。しかし、それはバルザックが偉大であることの直接的な証明にはならない。

(私は今年に入って、「ゴシック論」のために、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』を数十年ぶりに読み直したのであったが、この作品が世界文学史上の傑作の数々に比肩する作品だとは到底思えなかった。人物造形はめちゃくちゃだし、スト-リーもあちこちで破綻しているし、偉大なコミックの原作にはなり得るかも知れないが、偉大な文学作品などではまったくないと思わざるを得なかった。したがって「ゴシック論」で取り上げる熱意を感じなかったのである。)

オノレ・ド・バルザック『ウジェニー・グランデ』(1973、東京創元社「バルザック全集」第5巻)水野亮訳

ヘンリー・ジェイムズ「バルザックの教訓」(1984、国書刊行会「ヘンリー・ジェイムズ著作集」第8巻)行方昭夫訳

 


オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(4)

2020年02月13日 | 読書ノート

 以上のような結論の前に「動いているけれど、生き物ではないもの、思想を生むけれど、精神ではないもの、悟性が形を持ったものとしては捉えることのできない生きた抽象物で、どこにも存在しないけれど、どこにでもみられるもの」という、《数》についての定義が行われている。

《物質》をしか信じない者にとっても、《数》に立脚しなければ人間の生そのものが成り立たない。《数》は物質ではないがどこにでもあり、実在物ではないが「生きた抽象物」なのである。《数》は《精神》そのものではないが、《精神》によって生み出された概念である。

《数》を信じないではいられないというのであれば、《神》もまた信じないで済ませることはできない。《数》が《精神》が生み出す概念であるならば、《神》もまたそのようなものとしてある。「悟性が形を持ったものとしては捉えることのできない生きた抽象物」が《数》であるならば、《神》もまたそのようなものであると言わざるを得ない。

 また、《数》と《精神》の関係が《物質》と《精神》の関係に等しいということは、《物質》もまた《精神》によって生み出された概念であるということを示している。《物質》そのものというものは存在しない。《物質》もまた《精神》にその存在条件を負っているということになる。

 こうした精神一元論が興味深いのは、物質の原理によって人間の精神過程、あるいは生一般を説明することが不可能であるという事実があるからである。そういう意味で『セラフィタ』での議論、スウェーデンボリの議論は必ずしも終わってしまっているわけではない。ただし、神義論を除いては……。

 私は《数》は信じるが《神》は信じない。《数》は人間にとって信仰において存在するのではなく、「数だけが区別し、性質を与える」(『セラフィタ』の議論の中の言葉)ことができるのならば、それが実際に人間の中で稼働しているが故に、それを信じることができる。しかし《神》は必ずしも稼働しているわけでもないし、信仰においてしか存在できない概念であるからである。

 結局、『セラフィタ』の議論においては、神義論以外の部分にしか興味深いものは残っていないのかも知れない。それ故にこの議論に続く第五章別れ、第六章天国に至る道、そして第七章昇天と続く部分は、急速にリアリティを失っていく。

 それはとても残念なことではあるが、バルザック以外のいったい誰が、両性具有者の昇天などというものを夢想できただろう。そんなものは夢想できても、描写することなど不可能なのだ。バルザックの一昔前の宗教絵画ならそれを描けたかも知れないが、バルザックの時代にそれを描ける画家もいるわけはないし、作家もいるはずがないのである。

 邦訳本224頁に載っている挿絵がその困難を語っている。それはほとんど漫画の世界の俗悪を体現してしまっている。この挿絵に比べれば、まだしもバルザックの描写の方がましであろう。以下の描写を奇跡的な天体現象を描いたものとして読むこともできるからだ。

「あたかも不滅の軍団が行進を開始し、螺旋状に展開するかのように、大きな動揺が生じた。もろもろの世界は烈しい風に吹き払われる雲のように渦を巻いた。物すごい速さであった。

不意にヴェールが裂け、二人は、はるか上方に、輝く星のようなものを見た。物質の星の中で一番明るいものも比較にならぬほど明るい星であった。それは天から離れ、絶えず稲光しながら、雷のように落ちてきた。すると、これまで二人が《光》だと思っていたものさえ影が薄くなるのであった。」

 両性具有者はこうして《霊》となり、神に召されていくのであるが、なぜ彼女(彼)は昇天しなければならないのか。『セラフィタ』冒頭の山岳描写の中に、すでに〝昇天〟のモチーフは現れていたのであるが、もしそれが神によって本当の聖別を与えられるためというのであれば、それは少し違うだろう。

 両性具有者は性を持つ人間の不完全性を超越した存在である。男であること、女であることは、不完全な人間の存在形式であり、両性具有者こそが両者が合体した完全な人間と言えるのである。ならばセラフィタ(セラフィトゥス)はすでに聖別されているのであり、神聖な存在になるために〝昇天〟する必要などあったのだろうか。それが私の『セラフィタ』に対する疑問点である。

(この項おわり)


オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(3)

2020年02月12日 | 読書ノート

 セラフィタ(セラフィトゥス)に愛を拒絶されたウィルフリッドは、彼女(彼)の中に不可思議な存在を感じ取り、彼女(彼)について訊ねるために、ミンナの父親ベッケル牧師のもとを訪れる。

 ベッケル牧師は「スウェーデン館」に、父母の時代からの使用人ダヴィッドと暮らすセラフィタ(セラフィトゥス)の生い立ちについて、二人に話す。ベッケル氏によれば、彼女(彼)はスウェーデンの神秘思想家スウェーデンボリに心酔した父母が、ノルウエーにやってきて建てた「スウェーデン館」に残した子供なのであった。

 父親はセラフィッツ男爵といって、スウェーデンボリに最も愛された弟子であり、母親は女性の中に《天使霊》を求める男爵のために、スウェーデンボリが幻視の中に探してきた、ロンドンの靴屋の娘だという。二人は「スウェーデン館」で世に隠れて暮らし、セラフィタ(セラフィトゥス)という子供を授かるのである。

 セラフィタ(セラフィトゥス)が生まれた日、スウェーデンボリがヤルヴィスにやってきて、その子に聖別を施したという。彼女(彼)は人間の子というよりも、スウェーデンボリの思想が血肉化された姿なのである。この辺からこの小説は思想小説、あるいは観念小説としての性格を色濃く帯びていく。

 ベッケル氏とウィルフリッドとミンナは、そんな不可思議なセラフィタ(セラフィトゥス)に質問するために、「スウェーデン館」を訪れる。「聖所の雲」と題された第四章は、セラフィタ(セラフィトゥス)による思想表現の場面であり、死を前にした彼女(彼)の最後の言葉が発せられるこの小説の山場となる。

 もはや死を前にして食事をとることもしないセラフィタ(セラフィトゥス)が、激しい衰弱にも拘わらず、ここで長広舌を振るうことの不自然をあげつらうこともできるだろう。しかし『セラフィタ』はリアリズム小説ではなく、幻想小説なのであるから、そんなことを言っても始まらない。

 そこで展開される議論はバルザックが受け止めたスウェーデンボリの思想の開陳であり、そんな議論をうら若い娘(青年)ができるはずがないというのも、リアリズムを信奉する者の無意味な非難でしかない。それよりも両性具有者の言葉が思想の言葉として語られるということ、あるいはバルザックが思想の言葉としてセラフィタ(セラフィトゥス)に語らせているということに注目すべきである。

 この作品が単に幻想小説というに留まらず、思想小説でもあるということは、そうしたバルザックの意図したところによっている。バルザックがスウェーデンボリの思想をどこまで信じていたか、またはそれをどこまで正確に伝えているかというような問題は、読者にとってそれほど重要なことではない。

 それよりもセラフィタ(セラフィトゥス)が地上界を超越した霊の言葉で語っていること、そのことを重視したい。両性具有者の愛のドラマと思われたこの小説は、ここで両性具有者のための思想表明のための小説に転化する。『セラフィタ』は両性具有者の肉体性を消し去り、そのセクシュアリティさえも消去してしまう。

 そのために『セラフィタ』は両性具有者などという危険なテーマがもたらす危機をここで回避することができる。『セラフィタ』は滑稽で俗悪な小説に陥ってしまう危険を迂回するのである。だからこの小説は、思想小説とならざるを得なかった幻想小説と位置づけられるだろう。

 スウェーデンボリの神秘思想は、いくつかのテーマにわたって、セラフィタ(セラフィトゥス)によって語られるが、そのすべてが荒唐無稽というわけでもない。霊肉二元論で、物質の側の勝利を言うものに対する批判として、《数》の問題が取り上げられるところなどは、今日でも傾聴に値するものがある。セラフィタ(セラフィトゥス)は言う。

「あらゆるものが《数》によってのみ存在するのです。《数》がなければ、あらゆるものがたった一つの同一の実体になってしまいます。数だけが区別し、性質を与えるからです。《数》とあなた方の《精神》との関係は、あなた方の《精神》と物質との関係と同じです。」

 


オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(2)

2020年02月11日 | 読書ノート

 以上引用してきたような緻密な描写は、必ずしもリアリズム文学に特有のものではない。それは緻密であると同時に正確でもある一方、想像力を全開にした奔放なものでもある。想像力を駆使しながらも、ロマンティックな感情に流されず、あくまでも現実感をもたせることを優先して、この様な描写は続いていく。

 フランスならバルザックの後輩にあたるロマン主義作家、テオフィル・ゴーチエの『ミイラ物語』に、これと同質の描写を見出すことができる。エジプト古代の王の墳墓を発掘する考古学者たちが、そこに発見する驚くべき石棺と、その内部の装飾や財宝についての、延々と続く稠密な描写がそれである。

『ミイラ物語』もまた幻想小説であるが、そのような描写は作品にリアリティを与えるために欠かすことのできない作業なのである。バルザックもまた『セラフィタ』の冒頭において、その作品にリアリスティックなイメージを付与するための準備作業として、以上のような描写を綴って飽きることがないのである。

 もっと極端に言えば、この様なリアリスティックな描写は、幻想小説の要諦でさえあって、描写のリアリズムは〝幻想〟と矛盾するものではない。リアリティのない〝幻想〟など文学にとって何ものでもないからである。19世紀リアリズム文学を準備したのがバルザックだとすれば、彼はむしろロマンティックな幻想文学の要求するところに従って、リアリズムを準備し、また鍛え上げていったのだと言えるかも知れない。

 冒頭の描写に続くのはセラフィトゥス(セラフィタ)が、ミンナという娘を引き連れてファルベルク山にスキーで登っていく場面である。千八百フィートというから、五百五十メートルほどの高さの山であるが、そこに冬の最中、しかも「寒さのためヒースや抵抗力のある木しか生えない階段状の谷」に阻まれたその山に登ることが、いかに困難を極めるものかは、最初の描写によって裏打ちされている。

 しかし、二人をファルベルク山に導くのは、天界を垣間見ようという欲求であり、だからこそ、この山とその周辺の厳しい自然環境が強調されて描かれていなければならないのである。セラフィトゥス(セラフィタ)の心を支配しているのは、天上界への希求であり、彼(彼女)はここで小説のラストの〝昇天〟に向けた予行演習に励んでいるのだと考えられる。

 セラフィタは最初、娘ミンナには男性=セラフィトゥスとして現れ、次に青年ウィルフリッドには女性=セラフィタとして現れる。第三章が「セラフィタ=セラフィトゥス」と題されているように、彼(彼女)は両性具有者なのである。

 両性具有ということも極めてロマンティックなテーマであり、悪趣味に堕しかねない危険なテーマであるが、果たしてバルザックはその処理に成功しているだろうか。まず舞台設定がパリやフランスの地方都市ではなく、ノルウェーの人跡未踏の地であることが、この作品を悪趣味から救っている。

 超自然的な存在が存在し得るのは、都会の雑踏の中でもなければ、俗情に満ちた社会の中でもない。卑俗な社会から最も遠いところとして選ばれたのは、ノルウェーのフィヨルド地帯だったのである。しかも主人公はまず、疑似的な天上界であるファルベルク山に登って身を清めなければならない。そうしなければこの作品の主人公の役割を果たし得ないからだ。

 セラフィトゥスはファルベルク山の頂上で、ミンナに「多分、二人とも地上の卑しさを脱ぎ捨ててしまったのでしょう」と言うが、セラフィトゥス(セラフィタ)にとってみれば、それこそが彼(彼女)の生きる目的でもあるのだから、最初から彼(彼女)は自身の目的を公言しているわけである。

 また、ファルベルク山の頂上で脱ぎ捨てられたのは、俗世間の卑しさだけではない。そればかりではなく彼(彼女)は両性具有者であることの身体性をすら、脱ぎ捨てるのだ。そこで両性具有のもつエロティックなイメージが消去されるであろう。

 さて、ノルウェーの極寒の地が舞台に選ばれた理由は、もう一つある。それは第三章セラフィトゥス=セラフィタでの、スウェーデンボリについての議論によって明らかになる。

 


オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』(1)

2020年02月09日 | 読書ノート

 もうしばらくすると私は、「北方文学」81号の原稿のために、ヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』と『金色の盃』を読み直さなければならないのだが、今月いっぱいは好きな本を自由に読むことができる。そんなときに短編集は小説を読む楽しみが一編ごとに途切れてしまうために、お勧めではない。なんといっても長編に限る。

 そしてまたまたバルザックを読むことにしたのだが、それは彼の作品が冒頭から一気に没入することを許してくれるからだ。どの作品を読んでもその小説世界にすんなり入っていくことができるし、『絶対の探求』の冒頭のような延々と続く背景説明も、私には心地よい。

『セラフィタ』を今回選んだのは、この作品がバルザックの小説の中では、極めて珍しい幻想小説として位置づけられるものだからだ。『セラフィタ』は東京創元社版の全集に含まれておらず、日本語では国書刊行会のあのマニアックな叢書『世界幻想文学大系』によって、読むことしかできないのである。

『セラフィタ』の舞台はノルウェーのフィヨルド地帯に位置するヤルヴィスという寒村である。冒頭の導入部はこの村の地勢学的な描写によっている。いきなりバルザックはフィヨルドの俯瞰から始めて、読者をある〝高み〟へと導いていく。この〝高み〟がなぜ必要とされるのか、そのことを読者は後で納得させられることになる。作者はちゃんと予告することさえ忘れない。

「名前を聞いただけでも冷気を覚えるノルウェーの山々の頂は、旅行者を喜ばせるために万年雪を残しているし、危険を冒しても名誉になる訳ではないので、その崇高な美しさは処女地として保たれているが、それは、少なくとも詩にとってはまだ処女地である人間的事象、この地で実際に起り、以下に物語られる人間的事象と見事に調和するであろう。」

 この作品がバルザックにとって例外的なのは、それが幻想小説であるだけではない。「人間喜劇」のほとんどの作品が、パリとフランスの地方都市を舞台としているのに対し、この作品だけは外国であるノルウェーを舞台にしていることにもよっている。ノルウェーのフィヨルドとそれを囲む山々の頂は、彼の小説にとっても処女地なのである。

 バルザックは毛綿鴨の視点を借りてフィヨルドを俯瞰した後、ストロムフィヨルという名の湾の中に入っていく。

「ストロムフィヨルの全体の形は、見た所、波のために縁がぎざぎざになった漏斗のようだ。波浪があけた水路は、大洋と花崗岩という、一方はその不動性によって、もう一方はその活動性によって、力の拮抗する二つの被造物同士の戦いを彷彿させる。船の侵入を妨げているいくつかの風変りな岩礁が戦いの証拠だ。」

 この湾の奥にヤルヴィスという村があるのだが、バルザックはストロムフィヨル内の、岸壁と波濤の戦いの様相を描いて、そこがいかに厳しい自然に晒された地であるか、いかにその村に辿り着くのが難しいことかを描き出していく。

 村に入る前にバルザックはヤルヴィス村を見おろす峻険な山、ファルベルク山に一瞥をくれることを忘れない。この山もまたこの小説の重要な舞台となるからである。その山は次のように紹介される。

「麓はストロムフィヨルで波に洗われ、頂上は北風に吹きさらされている山はファルベルク山と呼ばれている。一年中、雪と氷のマントに覆われている山稜はノルウェーでも最も嶮しいものであるが、この国は極地に近いので、千八百フィートの高さでも、地球上で最も高い山々の頂と同じ位寒いのだ。この岩峰の頂上は、海側は垂直に切り立っているが、東側はなだらかで、寒さのためヒースや抵抗力のある木しか生えない階段状の谷となって、セイ河の滝につながっている。」


ヘンリー・ジェイムズ『信頼』(3)

2020年02月06日 | 読書ノート

 この小説のテーマが男同士の〝信義〟と、男女間の〝恋愛〟の問題に絞られているとすると、そのいずれの場合においても掘り下げが足りないという印象を拭えない。『信頼』が、あの圧倒的に完成度の高い『ある貴婦人の肖像』の直前の年に書かれたということが信じられない。

 男同士の問題について言えば、妻に迎えたブランチ・エヴァーズとの危機の中で、ロングヴィルがアンジェラと婚約したことに傷つけられたライトが激昂して、あろうことか「妻と別れるから、もう一度私にチャンスをくれ」などと、アンジェラに迫る場面、このあり得ない行動に対して、私は大きな違和感を覚えざるを得ない。

 もしこの時、ライトが正気だったのだとしたら、ロングヴィルとアンジェラは二人で慎重に彼を説得しなければならないし、反対にライトが狂気に陥っているのだとすれば、彼に対応することはほとんど不可能なものになるはずである。

 しかしこの小説では、アンジェラが「私に任せて」という感じで、ロングヴィルはしばらくロンドンに避難して成り行きを窺うという、およそ考えられない対応を取る。アンジェラを狂人に任せてどんな危険があるか、彼らは考えなかったのだろうか。あるいはこの小説の結末として、アンジェラがひとりですべてを解決に導き、めでたしめでたしということになるのだが、一面では男同士の信義の問題を彼女ひとりで片づけるなどというのは、あり得ない筋立てでしかない。

 むしろジェイムズがその草稿で計画していたように、ライトが狂気の末に妻を殺害するといったストーリーの方が納得がいく。しかしそうはできなかったところにこの小説の大きな欠陥があるように思う。

 ヘンリー・ジェイムズの小説では、登場人物がストレートに本音で語るなどということは決してない。ある人物が考えていることは、絶えざるほのめかしや、はぐらかしの隙間からしか読み取ることができないのであり、それを読み取っていく過程にスリリングな楽しみがある。ジェイムズはそうした書き方をする作家であったはずだ。

 ところが、ロングヴィルとライトは最初は完全な親友としてうち解けあっているばかりであり、アンジェラを巡って信義の問題が生じた時には、彼らはお互いに地球の反対側に行っていて、二人でその問題について話す機会は設定されていない。

 そして最後にライトの狂気じみた激昂ということになるのだが、こんなストレートな発言がジェイムズの小説であり得るということ自体がおかしいではないか。ヘンリー・ジェイムズらしくこの二人の関係が設定されていれば、ライトはもっと婉曲に自分の恨みと失望について語らなければならないし、そこにはロングヴィルとの心理的争闘がなければならない。アンジェラに任せて、ロングヴィルは静観などということがあっていいはずもない。

 また、男女間の愛の問題について言えば、ライトとブランチの愛の形が描かれていないのは致命的である。どうして彼らが結婚に至ったのか、天と地ほども性格の違う二人がどうして愛し合うようになったのかが、まるで分からない。それが分からないとライトがブランチを殺す理由も、逆にこの小説で実現したように、二人がよりを戻す理由も読者には伝わりようがない。

『信頼』がロングヴィルの視点からのみ書かれているためということは、一つの言い訳にはなるかも知れないが、ならばライトに手紙を書かせればいいのであって、そうしなければ二人の微妙な愛の経過が分からない。つまりこのままでは、ライトが妻を殺そうが、妻とよりを戻そうが、どちらにも説得力がないのである。

 もう一つの愛の形、ロングヴィルとアンジェラの方は、結構よく書かれていると思う。シエナのカンポ広場での出会いについて、アンジェラがずっと口を閉ざし、ライトの激昂の場面に至るまでそのことを語らないという作り方も上手い。またロングヴィルが自分がアンジェラを愛していることに気付くところも、ヘンリー・ジェイムズらしいと思う。

 もったいないのはアンジェラである。これほどあらゆることに複雑な対応を見せ、頭脳明晰、沈着冷静な女性を、ライトのような狂人を手なずけるだけの役割で終わらせるのは、まったくもってもったいない。『ある貴婦人の肖像』のイザベル・アーチャーという不幸な女性を造形し、『使者たち』ではヴィオネ夫人という魅力的な女性を、『鳩の翼』ではミリー・シールとケイト・クロイという対照的な女性を、『金色の盃』ではシャーロット・スタントとマギー・ヴァーヴァーとを自在に造形して見せたヘンリー・ジェイムズはここにはいない。

 最後に私は以前、彼の小説でハッピーエンドで終わっている作品は一つもないと書いたことがあるが、例外があった。この『信頼』がそういう作品なのであった。

(この項おわり)


ヘンリー・ジェイムズ『信頼』(2)

2020年02月05日 | 読書ノート

 問題なのはこの最初の遭遇の後、ヘンリー・ジェイムズが主人公ロングヴィルとヴィヴィアン母娘との偶然の出会いを、むやみに多用しすぎていることである。まずロングヴィルは親友ゴードン・ライトに、バーデン・バーデンに呼び寄せられる。彼が恋をしているので、その対象である女性が結婚に相応しい相手かどうか、評価して欲しいというのである。

 ロングヴィルはバーデン・バーデンに向かい、そこでライトの意中の女性がアンジェラであることを、偶然の出会いによって知ることとなる。この第二回目の遭遇は小説のプロットにおいて欠かせぬもので、ここで他の主要な人物(と言ってもあとこの二人しかいないが)ブランチ・エヴァースとラブロック大尉も登場してくるので、許容範囲としなければならない。

 いただけないのは第三回目の遭遇である。ロングヴィルが「アンジェラは結婚に向いていない女性だ」と評価したことから、バーデン・バーデンからゴードン・ライトが去り、次いでヴィヴィアン母娘が去ったため、目的を失ったロングヴィルはあちこち放浪したのち、フランスはル・アーヴル近郊のブランケ・レ・ガレ(架空の地名)を訪れる。

 そこで彼はまたしてもヴィヴィアン母娘と偶然の出会いを演ずることになる。この三度目の出会いで、ロングヴィルがアンジェラに恋をしていることを自覚し、それが二人の婚約にまで発展していくので、小説上必要な出会いであることは間違いないが、なにも偶然にゆだねることはないだろう。

 こうした偶然の遭遇を多用するのは、通俗小説の手法であり、リアリズム小説のそれではない。いかに彼の作品が一九世紀的リアリズムのそれから遠いものであっても、彼の小説がリアリズムの範疇にあることは紛れもない事実である。偶然の出会いは小説においてただ一度だけ許されるだけなのであって、それ以上の偶然は小説の品位をおとしめる。

 たとえば、『使者たち』でもヘンリー・ジェイムズは、一度だけ偶然の出会いの手法を使っている。主人公ランバート・ストレザーが使者としての使命に疑問を抱き、ひとりパリ郊外へ出かける時に、チャド・ニューサムとヴィオネ夫人との泊まりがけの密会の現場に遭遇する場面がそれである。そこがどこかは特定されていないが、その場所はストレザーが

「行きあたりばったりに汽車に乗り、やはり行きあたりばったりに下車した」フランスの田園地帯のどこかであり、そこで二人と出会うなどという可能性はまず絶対にないに等しい。それでもここは『使者たち』一編を左右する重要な場面であって、一度だけならそれも許される。

 しかし『信頼』では、それが一度ならず二度訪れる。小説を進めるためとはいえ、これはいただけない。またその結果、この小説は観光地巡りのような様相を呈してしまう。まずはイタリアのシエナ、次にドイツのバーデン・バーデン、そしてフランスのル・アーヴル近郊の海水浴保養地、最後にヴィヴィアン母娘が住むのはパリのシャンゼリゼ通りである。

 結果この小説は働かなくても贅沢な生活ができ、世界中遊び歩くこともできる有閑階級の男女が有名な観光地を巡りながら、恋愛遊戯を繰り広げる不埒な作品と思われてしまいかねない。テーマはそんなところにあるのではなく、タイトルが示すように、ロングヴィルとゴードン・ライトとの親友同士の間の〝信頼〟の破綻と再生にあるというのに……。

 アメリカの裕福な家庭に育ったヘンリー・ジェイムズは、子供の時から親に連れられてヨーロッパ各地を訪れているが、その楽しかった記憶を小説の中で再演してみたいという気持ちは分かる。しかし賭博で有名なバーデン・バーデンはないだろうし、必ずしも大金持ちではないヴィヴィアン母娘を、パリの一等地であり家賃もべらぼうであろうシャンゼリゼに住まわせることはないだろう。

 先にも言ったように、この作品は恋愛遊戯を描いた遊興小説ではない。恋愛が絡んでいることは確かであるが、そのテーマはあくまで〝信頼〟あるいは〝信義〟であって、ロングヴィルとライトとの間のそれが重要なのである。ならば、こんなに高級そうな観光地ばかりを舞台にする必然性はまったくない。