玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

えんま市とホームセンター

2006年06月24日 | 日記
 えんま市が幕を閉じた。多少の雨はあったが、比較的天候にも恵まれ、三日間の人出は二十一万八千八百人で、ウィークデーの開催としてはまずまずだったようだ。子供も大きくなってしまってからは、えんま市との縁は次第に薄れつつある。
 子供だった頃は、えんま市に連れて行ってもらって、当時は御馳走だったバナナを買ってもらい、サーカスを見たり、見世物を見たりというのが楽しみだったが、もう見世物小屋は淘汰されてしまったし、サーカスもすっかりやって来なくなった。
 近頃は、人込みと臭いがダメだ。露店の真ん中を歩くことができず、人の通らない歩道をコソコソと歩いたりする。また、さまざまな飲食の露店が発する臭気が複雑に混じり合って醸し出す、あの独特な臭いには耐え難いものがある。したがって食べ物は買わない。例外は閻魔堂入口近くで焼いている「のしイカ」のみ。
 露店数も一時は六百を超えたが、少しずつ減っている。今年は昨年より十軒減って五百四十軒。その中で植木市の露店が寂しかったのが目に付いた。軒数もそうだが、品数が少ない。近頃はあまり売れ行きがよろしくないので、露天商もあまり力を入れていないらしく、十七日まで開かれていた植木市も、さっさと店をたたんで帰ってしまったところも多かったという。
 かつては、植木を買い求めるとすれば、「えんま市を待って」ということが多かったが、今では一年中、ホームセンターに行けば、何でも揃っている。えんま市を待つ必要がない。ホームセンターの進出と拡大が、えんま市のあり方を変えていく大きな要因となっているのだ。
 そういえば十七日、いつも駅仲通りに、サボテンを並べる酒好きのオジサンの姿が見えなかった。聞けば「どっかで寝ている」という。昼間から酒を喰らって眠り込んでいたらしい。きっと売れ行きも良くなかったのだろう。

越後タイムス6月23日「週末点描」より)



ほたるを観る会

2006年06月17日 | 日記


 ホタルの便りが聞かれるようになった。先週号で松浦孝義さんが書いている刈羽村の「ほたるを観る会」が十三日、刈羽村刈羽のこがね保育所付近で行われた。四十人ほどの住民が参加して、ホタルの光を楽しんだ。昨年までは公民館の主催だったが、今年からは「ラピカ」の主催に変わった。
 松浦さんが「Kさん」と書いているのは地元の小林正直さんで、小林さんの解説つきで、「観る会」は行われた。小林さんは、平成九年にこの地区の山崎川にホタルが復活していることに気が付いた。平成十二年からは、ホタルの季節には毎日出掛けて、観察を続けてきたという。小林さんは「ホタルと遊んできた」と謙遜するが、なかなか専門的な解説を聞かせていただいた。
 刈羽村では、正明寺や油田、赤田でもホタルが見られるようになったという。この山崎川は水量も多く、砂丘地の湧水を水源にしているため、水質も良く、最もホタルの生育に適しているという。U字溝が敷設されたため、長くホタルの発生はとだえていたが、環境の変化とともに、自然に再発生するようになった。
 ホタルは成虫だけが光るのではない。卵も光れば、幼虫も光る。幼虫は四月以降の雨の降る真夜中に、サナギとなるために上陸するのだという。小林さんは、五十匹以上のホタルの幼虫が一斉に光りを放ちながら、U字溝を上がっていく様子を見たことがあるのだそうで、「何とも神秘的な光景だった」という。うらやましい体験だが、熱意を持って観察を続けてきた結果である。
 十三日には、山崎川の川上と川下で四十匹ほどのホタルが見られた。葉っぱに止まって光っているメス、ゆっくりと点滅を繰り返しながら飛び回っているオスの姿を見ながら、「こんなペースで暮らせたらいいな」と思ってしまった。

越後タイムス6月16日「週末点描」より)



日本自費出版文化賞

2006年06月17日 | 日記
 うれしい知らせだった。昨年の新潟出版文化賞で優秀賞を受賞した「石黒の昔の暮らし編集会」(大橋寿一郎編集責任者)による『ブナ林の里歳時記 石黒の昔の暮らし』が、今度は日本自費出版文化賞で見事「地域文化部門」の部門賞を獲得したのだ。全国区での価値ある受賞だ。
 日本自費出版文化賞は今年で九回目。よく続いてきたと思う。発足当初は運営に大いに関わらせてもらった。ところがタイムスの仕事を引き継いでからは、時間的な余裕もなく、三年ほどサボらせてもらっていた。しかし、このところ、また少しずつ復帰しつつある。
 日本自費出版文化賞への応募については、大橋さんの依頼で代行させてもらった。推薦文も私が書いたので、思い入れも深く自分のことのようにうれしい。四月十五日に東京八王子で開かれた第二次選考会では審査の場に立ち会っている。
 実はその場で感触を得ていた。地域文化部門の担当に、滋賀県彦根市のサンライズ出版の岩根順子さんという人がいて、彼女から高い評価をもらっていた。サンライズ出版は、琵琶湖周辺の歴史や文化を掘り起こした、質の高い出版活動を続けている会社で、岩根さんの地域文化誌に対する目は確かである。
 最終選考は、歴史学者の色川大吉氏、ルポライターの鎌田慧氏、詩人の秋林哲也氏、作家の中山千夏さんなど錚々たるメンバーによって行われた。このメンバーも設立当初から変わっていない。私は最終選考者の評価を信頼していたので、自信を持っていたのだ。予想通りの受賞であった。
 七月十五日に東京のアルカディア市ケ谷というところで授賞式が行われる。一昨年、高柳町石黒の大橋勝彦さんが文芸部門で入賞した時も参加している。今年も参加させてもらうことにしよう。

越後タイムス6月9日「週末点描」より)



藤田嗣治と石黒敬七

2006年06月02日 | 日記
 藤田嗣治展の会場で買ってきた『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(近藤史人著・講談社文庫)を読んでいたら、柏崎出身の柔道家・石黒敬七とのエピソードが出てきた。一九二六年というから藤田は四十歳、石黒はパリで初めての柔道場を開いたばかりで、若干二十八歳だった頃の話。
 パリの大新聞が主催したオペラ座での慈善興行に、藤田と石黒が柔道の模擬試合で出演しているのだ。なんで藤田が柔道かと思うかも知れないが、藤田の父は陸軍軍医、伯父は旧福知山藩士で剣豪であり、藤田自身、東京高等師範附属中学校時代、熱心に柔道場に通い続けたという。
 オペラ座の公演は、藤田が石黒に日本刀で斬りかかり、最後は石黒に巴投げで投げ飛ばされるというものだった。公演は舞台の上につくられた高さ三メートル、幅一メートルの橋の上で行われ、投げられた藤田は勢い余って橋から転落しかかり、しばらく松葉杖での生活を余儀なくされたという。
 当時藤田の絵はパリで高く評価され、絶頂期にあったから、なぜこんな遊び半分のショーに興じていたのか理解に苦しむが、道場を開いたばかりの石黒を売り出すための好意からの出演であったようだ。しかし、藤田の伝記を読んでいて、ある意味画家としてあまりふさわしいとは思えない軽薄な行動の数々を知ると、どうしても生身の藤田の人格を疑ってしまうところがある。
 しかし、その人格と作品は別のものであって、作品は作品としてきちんと評価する必要がある。今回の展覧会を観て、いろんな人がいろんなことを書いているが、藤田復権の傾向が強くある。藤田の戦争画に非戦反戦への強い意志を読み取る人さえいるが、そんなに単純化できるものではないと思う。
 藤田の洗礼名Leonard Foujitaの“Fou”はフランス語で“バカ”の意味がある。

越後タイムス5月26日「週末点描」より)