玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

人口70億人の恐怖

2011年11月19日 | 日記
 十月三十一日、世界の人口は七十億人に達した。七十億人の日を祝うイベントや、七十億人目の子供にプレゼントを贈るなどということが各国で(日本でも)行われているそうだが、信じがたい脳天気としか思えない。
 柏崎機械金属団地協同組合五十周年式典で講演した有馬晴海氏も「世界人口は九十億人が限度で、水や食糧が不足する。地球なんかもつわけがない」と述べておられたが、世界人口が七十億人に達したということは、全く明るいニュースなどではなく、恐るべきニュースだと言わなければならない。
 有馬氏によれば一九○○年の世界人口は十五億人、五十年で倍の三十億人になり、今年七十億人に達した。二○五○年には百二十億人と予想され、そうなれば限度をはるかに超える。地球が人類を養える限界を超えるのである。破局的なことが起きるであろう。
 一九六七年に書かれたアーサー・ケストラーの『機械の中の幽霊』にも人口爆発への恐怖が記されている。同書によると、西暦紀元初め頃の世界人口は約二億五千万人、十七世紀の中葉までに二倍となり、十九世紀中頃にはもう一度二倍となって十億人を超えた。一九二五年までにさらに倍となり、一九六五年には三十億人を超えた。
 人口増は、幾何級数的に起こっていて、倍化のスピードはどんどん速くなり、人口グラフは指数関数曲線を描く。だから、人口が百二十億人になるのは二○五○年より早くなる可能性が高い。破局的事態はもっと早くやってくるだろう。
 一方、日本人の人口が初めて減少に転じたことも報道された。日本国の疲弊を嘆くより先にすることがある。破局の事態にそなえることである。日本人の人口が減ってもいいから、食糧自給率を上昇させなければならない。世界人口の問題ほど大きな問題は、他にはない。

越後タイムス11月4日「週末点描」より)


自費出版と電子書籍

2011年11月19日 | 日記
 姫路市の小野高速印刷という会社から玄文社宛に「電子書店を開設しませんか? パートナー企業様募集中」というリーフレットが送られてきた。「電子書店をネット上に開設して、書籍を販売しませんか」というお誘いである。
 自費出版書籍を対象にしていて、これまでに制作した紙の本も電子書籍に変換してくれ、かなり安い料金で販売管理までやってくれるし、売り上げの八○%を還元するという。
 日本ではケータイの世界を除いては、まだ電子書籍は普及していないが、このところのiPadだのスマートフォンだのタブレット端末だのの相次ぐ登場で、急速に普及する可能性を秘めている。その時に遅れをとってはならないと、電子書籍サイトの運営に乗り出したのだ。
 印刷会社にとって電子書籍の普及は致命的な打撃となる可能性がある。本が紙に印刷されて“もの”として流通するのではなく、純粋に“情報”としてネット上を行き交うものになってしまったら、仕事がなくなってしまうからだ。
 しかし、自費出版の本がネット上で売れるとは到底思えないし、自費出版の著者が自分が心血を注いだ本を“もの”として残すことを望まないとも思えない。
 先日、自費出版と電子書籍をテーマにしたレポートを書いた。その主旨は音楽業界で起きた電子化の轍を踏んではならないということである。電子化で音楽の経済的価値はゼロに近づき、急激な質の低下をまねいた。儲けたのは米アップル社だけであった。書籍の世界で同じようなことが起きないとは誰も言えない。

越後タイムス10月28日「週末点描」より)


朝吹真理子さん游文舎で

2011年11月19日 | 日記
 朝吹真理子さんに、フランソワ・ビュルランの素顔を見てもらおうと、DVDをスタートさせたところ、ビュルラン本人が画面に登場したところで、朝吹さんは「あっ」と大きな声を上げた。ビュルランの容姿を見て、一瞬でその作品と作者との関係に納得がいったという風だった。
 その「あっ」という大きな声に彼女の感受性の鋭さを感じ取った。それは芥川賞受賞作『きことわ』にもよく現れていて、読んでいて、その鋭敏な言語感覚にびっくりさせられることがしばしばであった。
 朝吹さんに「游文舎」の文庫を見ていただいた。漫画本のコーナーで「杉浦日向子がある。花輪和一もある。つげ義春もある」と、とても嬉しそうだった。自分のことを「遅れてきた“ガロ”世代だ」とおっしゃる。
 漫画雑誌「ガロ」の全盛期は、私が高校生の頃であるから、四十年も前のことである。「ガロ」でデビューした多くの漫画家の作品に親しむには、誰かの教示がなければならない。朝吹さんの場合、それは父上の詩人で仏文学者の朝吹亮二さんであったようだ。
 つげ義春の恐るべき傑作「ねじ式」を当時「ガロ」の初出誌で読んで打ちのめされたことを話すと、朝吹さんは、とても羨ましそうだった。私どもは、とても良い時代に生まれ育ったのだったかも知れない。
 朝吹さんは文庫をご覧になりながら、いろんな本に敏感に反応される。よく本を読んでいらっしゃる。ずっと「游文舎」で本を眺めていたかったようだが、時間がない。再びの来柏を約束されて、朝吹さんは特急「北越」に飛び乗った。

越後タイムス10月21日「週末点描」より)


クリの生り年

2011年11月19日 | 日記
 クリ拾いの達人の高橋さん親子から、山のような茹で栗をいただいた。栽培の栗ではなく、山栗で、ツブは小さいが味は大きなクリの比ではない。とにかく甘くて、味が凝縮している。食べ出すと切りがない。宴席で茹でガニが出ると誰もが寡黙になるが、あれと同じ現象が起きる。
 一昨年も高橋さんから山栗の生のやつをいただいて、おいしく食べたが、今年はその量が半端でない。今年はクリの“生り年”だそうで、そういえば夏の頃から、里山の栗の木が鈴なりの実をつけていたのを思い出す。
 昨年は猛暑で、クリの木が大量に枯れ、ろくに実をつけなかったから、今年はそれを挽回しようということなのだろうか。“生り年”の仕組みはまだ分かっていないらしいが、「多くの個体が同調して種子を作ると、種子を食べる動物が食べきれない量になり、食べ残した種子が発芽する確率が高くなる」という説があるという。
 それでは生態系のバランスが崩れてしまうから、生り年の次の年にはたくさんの実をつけずに、種子を食べる動物の個体数の増加が抑制されるということらしい。それなら毎年一定量の実をつければよさそうなものだが、周期的に“生り年”と“不生り年”を繰り返す植物があってもおかしくはない。
 柏崎・夢の森公園の「月刊ニュース」にも、「夢の森の木々たちは今年生り年を迎えるものが多い」と書いてある。コナラ、ヤマボウシ、クリ、ガマズミなどが生り年を迎えているという。今年は山に大量の木の実が残されて、動物達の食欲を満たすことだろう。
 ところで、茹で栗を食べているうちに、大きくて美味そうなクリが意外と美味しくなく、小さなツブのクリの方が甘くて味がよいことに気づいた。ツブの大きいのは栽培の栗に近いのだろう。

越後タイムス10月14日「週末点描」より)


フランソワ・ビュルランの絵画世界3

2011年11月19日 | 日記
「游文舎」のビュルラン展では、二○○八年の《深い闇の奥底》シリーズの他に、二○○九年の《Jardin》シリーズも展示された。《深い闇の奥底》が半獣神や古代の生物達が跳梁跋扈する賑やかで野蛮な世界であったのに対して、《Jardin》の方はモノクロの静謐な世界である。
 一見まったく別人の作品とも思えるような世界に、わずか一年で移行したということが信じられない。《深い闇の奥底》で人類以前の時代への遡行を繰り返しながら、そこを突き抜けて、まったく別の次元へ到達してしまったかのようだ。
《Jardin》シリーズは製図用のトレーシングペーパーに描かれているが、空と森のようなもの、そして森の間を地平線に向かって伸びていく道のようなものの、無限のヴァリエーションで成立している。Jardinは“庭園”を意味しているが、これはヨーロッパの幾何学的な設計による“庭園”ではない。
 むしろそれに違反した“庭”であり、現実の“庭”ではなく、時間軸を遡行しながらビュルランが発見した原始の“庭”であり、夢想の“庭”でもある。ぐにゃぐにゃの刷毛目の残された粘着質の空は、この世のどのような空とも違っている。
 インクを“拭いつける”ようにして描かれた森のようなものは、現実のどのような森との共通性も持っていない。そして道だけは整然とした方向に刷毛目を伸ばし、地平線の奥の方へと向かっていく。
《Jardin》シリーズもまた、ビュルランにとってみれば“遡行の旅”なのだ。《深い闇の奥底》で敢行した人類以前の時代への遡行の旅ではなく、今度は意識の底=無意識への遡行の旅、あるいは始源の夢への遡行の旅ではないだろうか。
 道の刷毛目が示す方向は、空間だけを表してはいない。道が伸びていく地平線は時空の地平線であり、現実の地平線ではない。観る者は、その道を辿ってどこへ連れていかれるのかということに恐怖を感じてもよい。我々は我々自身の無意識の奥底へと連れ去られるのであるから。
 ほとんどの作品に、誰かが引いた図面がそのまま残されている。その幾何学的な図形が、不定形の森のようなもの、そして粘着質の空に鋭く干渉する。意識や現在を象徴する図形が、無意識や過去への入口のような世界に信じがたい緊張感をもたらす。恐るべき作品群である。

JARDINシリーズ