玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『谷間の百合』(3)

2020年01月30日 | 読書ノート

 ここで〝病気〟というのは、夫モルソーフ伯爵の精神病のことを言っている。彼の病気はおそらく、双極性障害(躁鬱病)のようなもので、鬱状態が続いたかと思うと、突然他者に対して攻撃的になったり、陰湿な皮肉を繰り返したりする。モルソーフ伯爵は他人にとって苦痛にしかならない存在なのである。フェリックスとモルソーフ夫人とは二人で、この扱いの難しい病人の世話を続けるなかで、愛を育んでいく。どんな障害があってもそれは、二人の愛を高めることにつながっていくというわけである。

 しかし、こうした障害があるということと、それによって二人が四六時中緊張を強いられていたために、彼らの愛が肉体的なものに発展しないで済んだとも言えるのである。あるいは逆に、それが肉体的なものとならなかったがために、二人は二人ながらにその欲望を禁じられ、愛の発露を失ってしまったのだとも言える。

 この小説には最後に、書簡としてのこの小説自体が宛てられた、ナタリー・ド・マネルヴィル伯爵夫人からの返信が添えられている。この手紙が実に意味深なもので、フェリックスが愛した二人の女、ひとりはもちろんモルソーフ夫人、もうひとりはイギリス女で、モルソーフ夫人とは正反対に活動的で享楽的な、ダッドレイ侯爵夫人のことを一刀両断に切り捨てているのである。

 フェリックスの新しい恋人としてのマネルヴィル夫人の手紙の趣旨は、モルソーフ夫人の貞淑もダッドレイ夫人の閨房術も持ち合わせていないというのに、そんな二人と比べてもらっては困るという、至極もっともなものであり、その手紙によって彼女はフェリックスに別れを告げることでこの小説を締めくくる。

 いったいフェリックスがこれほど長く、縷々女性への想いを綴ってきたことはいったいなんのためだったのか。そのことの意味がマネルヴィル夫人の手紙によって、一挙に相対化されてしまう。昔の女のことをくだくだと賞讃したり、批判したりすることが、現在の恋人にとって苦痛以外のものではないということ、そのことをフェリックスが理解していなかったことは別としても、この手紙は単なる蛇足ではありえない。

 一面では〝純愛小説〟とも言うべきこの小説を、読者の苦痛をも省みずに、おそらく必要以上に長々と綴ってきたことの意味を、バルザックは最後の手紙によって一挙に自ら相対化の淵に葬り去るのである。

 ここに私はバルザックの良心を見る思いがすると言っておこう。モルソーフ夫人のロマンチックな神格化も、フェリックスの彼女への崇拝も、ここでとどめを刺されるのだ。バルザックの主人公や登場人物たちは、極めてロマンチックな存在ではあるが、作者が必ずしもそれを是認しているわけではないということが、この最後の冷徹な手紙によって明らかになる。

 バルザックはこのように、最後の最後にこの〝純愛小説〟を相対化してみせるのであるが、私なら別のやり方でそれを相対化せずにはいないだろう。それはモルソーフ夫人がフェリックスとダッドレイ夫人との関係に嫉妬するあまり、衰弱して死んでしまう直前に口走る譫言に関係している。

 モルソーフ夫人もあの時、つまりはフェリックスが冒頭で夫人の裸の肩にむしゃぶりついた時に、彼に対する愛に目覚めていたのであるし、本当は何もかも捨てて、フェリックスとの愛に走りたかったのである。彼女がそうした欲望をすべて押し殺してしまったことに、彼女自身の不幸もまたその原因をもっている。

 つまり、フェリックスのようなうら若い青年の性的欲望を禁じてしまったら、彼がダッドレイ夫人のような女にいかれてしまうのも無理はないのであり、その要因を作ったのはモルソーフ夫人自身だったということである。さらにはモルソーフ夫人の死に至る病もまた、自らが招いた結果でしかなかった。

 だから、モルソーフ夫人の死の場面で、彼女の娘マドレーヌが、すべての責任がフェリックスにあると考えて彼を許そうとしないのは、間違った認識によっている。すべての責任はフェリックスにあるのではなく、モルソーフ夫人にこそある。それがこの〝純愛小説〟を相対化する私なりの読み方である。

(この項おわり)


オノレ・ド・バルザック『谷間の百合』(2)

2020年01月29日 | 読書ノート

 このような描写を長々と引用したのは、こうした微に入り細を穿った長い描写が、バルザックという作家の一番の特徴と言えるからだ。『谷間の百合』はフェリックスとモルソーフ夫人のプラトニックな愛、と言ってもフェリックスの方はその肉体への愛を懇願し、モルソーフ夫人の方はそれをかたくなに拒絶するという関係を、さしたる大きなドラマもないまま描ききった作品である。

 バルザックの作品はそこに激動に満ちた起伏がそれほどあるわけでないにも拘わらず、いずれも途方もなく長い。それは彼が多額の借金に追いまくられて小説を書いていたという物理的条件に起因する部分もあったかもしれないが、本質的な問題はそこにはない。そこにあるのは描写に対する飽くことなき欲求であり、描くべき対象を描き尽くさずにはおかないという執念である。

 描写ばかりでなく、たとえば『絶対の探究』冒頭に見たような背景説明、およそ不必要なくらいくどくどと続くあの準備作業もまた、バルザックの同様な欲求から生まれてくる。これを〝退屈〟と受け取る性急な読者も多いだろう。しかし、バルザックの小説におけるドラマや、ストーリーの起伏はこの過剰な描写から生まれてくるのであって、それを読みきらなければバルザックを読んだことにはならない。

 ためしにフローベールの『感情教育』冒頭のフレデリックとアルヌー夫人との出会いの場面と、『谷間の百合』のフェリックスとモルソーフ夫人との出会いとを比べてみれば、フローベールが描写というものにさほどの信を置かず、バルザックがそれに絶対の信頼を寄せていたことが見て取れるだろう。

 また『谷間の百合』は一人称書簡体小説であり、読みとおすのに二日も三日もかかるような書簡というものが第一にあり得ない。この小説を長くしているのは、フェリックスの熱情表白への執念ではなく、作者の描写への執念なのである。

 たとえば書簡内書簡というべき、モルソーフ夫人がフェリックスに宛てた手紙などは東京創元社版全集で、延々と16頁も続くのであり、フェリックスの夫人への想いは何度も何度も数頁にわたって繰り返されるのである。この不必要なほどの描写、それによって長大なものになっていく小説という特徴は、バルザックの『人間喜劇』への登攀を困難なものにしているかもしれないが、逆にそれを登破した時の読者の喜びを約束してくれる大きな美点でもある。

 このように不必要なほど長い小説というものを、文学史上に見つけようとするなら、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』ということになるだろうが、私はそれを読んでいないので比較することができない。私に例示できるのはバルザックを小説の師と仰いだヘンリー・ジェイムズくらいなものである。

 ヘンリー・ジェイムズが背景説明や情景描写など一切行わず、いわゆる心理描写を延々と続けていく姿は、描写の対象は違っていてもバルザックの影響ということを考えないわけにはいかない。ヘンリー・ジェイムズの場合には心理描写や心理分析が彼の小説を成立させる根本的な条件であったのと同じように、バルザックの場合には情景描写や背景説明、熱情表白といったものが、彼の小説を成立させる基本的な条件だったのである。

 では、フェリックスがモルソーフ夫人との美しくも幸福な日々を、回顧する場面を引用してみよう。こんな文章が数頁にわたって続いていく。

「この五十日間とそれに続く一カ月とは、私の生涯のもっともすばらしい時期でした。愛が魂の無限の空間のなかに占める位置は、あたかも美しい谷間を流れる大河のようなものではないでしょうか? 雨も小川も谷川もことごとくそこへ流れこみ、樹も花も、岸の小石ももっとも高くそびえる岩塊もことごとくそこに落ちこむ、そういう大河のようなものではないでしょうか? それは暴風雨によって大きくなって行くと同様に、また清らかな泉の緩慢な貢ぎものによって大きくなって行くのです。まったく、愛している時は、何もかも結局は愛ということに結びつきます。最初のもっとも危険な時期が過ぎると、夫人と私はすっかり病気になれてしまいました。……」

 


オノレ・ド・バルザック『谷間の百合』(1)

2020年01月29日 | 読書ノート

 フローベールの『感情教育』はいろいろなことを考えさせてくれたが、それを小説として楽しむことだけはできなかった。そんなとき読みたくなったのはバルザックである。『ボヴァリー夫人』を読んだ時に、やはり口直しにスタンダールが読みたくなって、『パルムの僧院』を読み直したのだったが、今回も『感情教育』を読んで、もっと安心して読める作家の作品が読みたくなったのである。

〝安心して読める〟ということがどういうことなのか、それを言い出すと長くなりそうだが、私の場合は第一にもっと魅力的な主人公や登場人物に会いたいということなのだ。ペルーのノーベル賞作家、バルガス=リョサは、ロマン主義小説は偉大な人物を主人公にしたが、現代小説の大きな特徴は平凡な人物を主人公にしたことであり、そこにこそ現代社会と人間を描く場所があるということを言っている。フローベールはそうした意味で現代文学の先駆者であったということをリョサは言うわけだが、それが現代性が要求することであると同時に、読者にとっては違和感の元凶でもあるのだ。

 フローベールの現代物の作中人物達の凡庸さは、読むものにとっては辛いものがあり、小説を読むことの喜びが、第一に現実には存在しないような魅力的な人物と出会うことことだということは、現代文学というものを正しく理解していても、避けがたい誘惑であることに違いはない。

 そうした意味でスタンダールやバルザックの登場人物達は、間違いなく魅力的であるし、バルザックの場合にはどんなにその人物が道徳的に劣った人物であれ、悪徳に染まった人物であれ、彼らが魅力的でないことはあり得ない。たとえば『従妹ベット』の高級娼婦ヴァレリーや、『ゴリオ爺さん』にも出てくる稀代の悪漢ヴォートランは、ほとんど偉大と言ってもいいくらいだ。

 なぜなのか? それは彼らが確信犯的に生きているからである。ヴァレリーと『感情教育』のロザネットを比較してみるといい。ヴァレリーは娼婦であることに誇りを持って多くの男を手玉に取っていくが、ロザネットの方はいかにも場当たり的で一貫性がなく、娼婦であることへの自負に欠けている。

 また19世紀の批評家イポリット・テーヌは「バルザックは彼のヴァレリーを愛している――」と言ったそうだが、バルザックが彼の創造する人物のほとんどを愛していたのに対して、フローベールが彼のロザネットを愛していたとは到底思えないし、それはその人物が主人公である場合でも変わりはない。フローベールがボヴァリー夫人を愛していないのに対して、バルザックはたとえば『谷間の百合』の主人公アンリエットことモルソーフ夫人を愛してやまないだろう。

『谷間の百合』を選んだのは一応バルザックの名作といわれる作品を中心に、しばらくは読んでいこうと思っているからである。これまでにバルザックは十編くらい読んできたが、この作品は他の作品とは趣を異にしていることに気付く。なぜかと言えば、この一編が長大な書簡であり、その為に一人称で書かれているということである。

 あれほど大勢の登場人物達を自在に動かし、彼らの一人ひとりを客観的に描き分けていくバルザックに、一人称はまるで似合わないと思うのだが、そんな意味で珍しい作品なのだ。一人称にしたことの効果は、もちろん一人称の主体であるフェリックス・ド・ヴァンドネスの女性に対する熱情を思い切り語らせることができるというところに表れてくる。

 そんな意味でフェリックスとモルソーフ夫人との出会い、トゥーレーヌでのブールボン王家復活の祝いの席での出会いの場面は出色である。フェリックスはモルソーフ夫人の露出した肩にいきなり接吻するのである。フェリックスは夫人の肉体的魅力に眩惑されてしまうのだが、この即物的な場面が、この後の二人のプラトニックな恋愛と強いコントラストをなして、強烈な印象を残す。彼女の魅力的な肉体の描写は次のようなものである。

「私の目はいきなり真っ白な、むっちり盛り上がった、それこそその上をころげまわれたらと思うような肩にぶっつかったのです。かすかにばら色を帯びて、生まれて初めて肌を見せたかのように、顔を赤らめているかと思われる肩、さながら魂が宿っているかのようなういういしい肩――その繻子の光沢をもった肌は、光を浴びて羽二重のように輝いているのです。その肩は一本の線によって二つに分たれ、私の目は手より大胆に、その線に沿って流れました。私はもうわくわくしながら、伸び上がって胸のほうをのぞいてみると、それこそ完全に魅せられてしまいました。胸は絽のコルセットで清らかに覆われているのですが、一点の非のない丸みをもった空色の二つのふくらみが、レースの波のなかにふんわりと横たわっています。」

 


ギュスターヴ・フローベール『感情教育』(8)

2020年01月29日 | 読書ノート

 ヘンリー・ジェイムズはフローベールの精神の正常を疑うような発言をしているだけではない。フローベールが長いとは言えないが、決して短くもない生涯に、なぜほんのわずかの作品しか残せなかったのか、そこのところをきちんと分析している。

「われわれはしばしば、フローベールが自分の題材そのものを呪っていて、それを選ばなければよかったと言い、そんなことをした自分を笑いものにし、坐ってそのものに取りかかる

、まさにその行為の中でそれを憎んでいるのを見出す。彼は言葉という表現媒体に、課せられる難題と得られるかもしれぬ勝利に無限に惹きつけられた。けれどもそれがなぜなのか、彼自身が最もわからなかった。彼はただ、狂気のごとき情熱と努力の習慣によって支えられていた。」

ジェイムズが言っていることの中には、フローベールの個人的事情のみに帰せられる不幸というに留まらず、文学の危機にあって文学を行わざるを得ない作家の不幸も含まれていると思う。多分「現実的なものに対する感覚」が優先する時には、それがもたらすテーマ自体を嫌い、呪いながら作品に向かっていったのであろう。そして「ロマンティックなものに対する感覚」が優先する時には、それへの耽溺と同時に、〝これでいいのだろうか〟という疑問に晒されていたのではないか。『聖アントワーヌの誘惑』という作品を完成させるのに、友人達の不評を買いながら、足かけ40年もの歳月を費やしたという事実は、そのことを物語っているように思う。

 フローベールはロマン主義と自然主義的リアリズムとの過渡期の作家であり、そうした時代にあっては文学表現における危機というものが露出することは、避けられないことだった。しかし、それを自覚していた者だけが、真の文学者であり、後世に残る作品を書くことができた。フローベールと同じ年に生まれている偉大な作家、ボードレールとドストエフスキーのことを思い出すのも無駄なことではない。

 結局、フローベールは何を残したのか。二つの矛盾する心性に引き裂かれた困難の中で、小説を書き続けることによって、彼は一体何を後世に残したのか。そのことをヘンリー・ジェイムズは、巧みな比喩を用いて我々に教えてくれる。

「彼がそのように高い理想の犠牲になってくれたおかげで、われわれは泰然と坐り、時代と折れ合い、最も快適で利益のある比較的卑劣な方法(陰でこっそりやる手抜きほど卑劣なものはない)をあれこれ使うことができるのである。実際こういうことが言えないだろうか――われわれ多くのこの仕事にたずさわる者たちは、フローベールがかつて書かれた最も高価な小説を書くに際して、惜しげもなく金を出してくれたがために、比較的支払いが少なくて済んでいるのだ、と。」

 後輩の作家にこのようなことを言ってもらえる先輩の作家は幸せである。それでこそ苦労が報われるというものだ。確かにジェイムズはフローベールが払ってくれたお金を大いに利用しているのである。彼の『カサマシマ公爵夫人』(1885)は、フローベールが失敗した、革命と青年という大きなテーマに挑戦した作品である。

『カサマシマ公爵夫人』の主人公はタイトルのカサマシマ公爵夫人では全くなくて、ハイアシンス・ロビンソンという貴族とお針子の間に生まれた私生児である。ハイアシンスは貴族と庶民の両方の血を併せ持ち、革命思想と伝統思想との間で苦悩する青年であり、『感情教育』のフレデリック・モローに比べたらはるかに真面目で、感受性豊かな、小説の主人公たる資格を充分に持った人物である。

 ジェイムズはフローベールの『感情教育』がなかったら、『カサマシマ公爵夫人』という作品を書けただろうか。ジェイムズは多くのものをそこに負っている、というよりもまさに、フローベールの支払い済みの金を流用しているのである。『カサマシマ公爵夫人』の作品としての出来はともかくとして、ジェイムズはフローベールが失敗した反省点の上に立って仕事をすることができた。

 フローベールは多くの作品を遺産として残すことはできなかったかもしれないが、その失敗に置いて、作品としてではない多くの遺産を後世の作家に残したのである。

(この項おわり)

 


ギュスターヴ・フローベール『感情教育』(7)

2020年01月29日 | 読書ノート

 フローベールの諸作を読む読者の誰もが感じる、その分裂した二つの作風について、ヘンリー・ジェイムズは次のように的確に述べている。

「彼の知的特質が明確に二つの部分から、つまり現実的なものに対する感覚とロマンティックなものに対する感覚から成っているということ、そして彼の作物はそういうふうにはっきりと二つに分かれたものとして認識されるということである。この二分法はこがね虫の背中の区分ほどにはっきりしている――ただ、その区分のあざやかさは多大の内なる闘争の最終的結果にすぎないのだが……(以下略)」

 もちろん「現代的なものに対する感覚」を代表するのは『ボヴァリー夫人』と『感情教育』であり、「ロマンティックなものに対する感覚」とは『サラムボー』と『聖アントワーヌの誘惑』に代表されるものである。このように作風が画然と分かたれるということには、何か尋常でないものがある。ヘンリー・ジェイムズは「彼は自分の天職をほとんど難題としてしか感じなかった」とか、「異常な芸術作品を残した」とか言っているが、そこにフローベールの作家としての困難の本質を解く鍵がある。

「彼の想像力は大きく素晴らしいものであった。にもかかわらず奇妙なことに、彼の傑作は彼のもっとも想像力豊かな作品ではない。」

とヘンリー・ジェイムズが書く時、傑作とは『ボヴァリー夫人』を意味していて、「もっとも想像力豊かな作品」とは、『サラムボー』や『聖アントワーヌの誘惑』を指し示している。『サラムボー』は古代カルタゴ戦役をモチーフにした作品であり、『聖アントワーヌの誘惑』は4世紀のキリスト教の伝説をモチーフにしている。他にも聖書をモチーフにした「ヘロディアス」という短編もある。

 それらの作品のなかでこそフローベールは自由奔放に想像力を働かせることができた。つまり、身近でないもの、遠い過去の出来事や伝説、誰も見たことのないものに対してフローベールは自在な想像力を駆使したが、『ボヴァリー夫人』や『感情教育』ではそうではなかったということなのだ。過去の時代に美しいもの、偉大なもの、崇高なものを求める心性をロマンティックというならば、間違いなくフローベールはロマンティックな作家であった。

 だから『ボヴァリー夫人』や『感情教育』は、彼の本来の心性に反して選択されたテーマに依っているのであり、そのテーマはジェイムズの言うところに依れば、「遠くのもの、華麗なもの、珍しいもの、彼の最もいとおしむ、最も洗練された夢の作られている材料、といったものを根本的に否定するもの」でしかなかった。

 だからフローベールの〝現代物〟に対する制作は、苦行僧のような趣を呈することになる。彼が生涯にたった五編しか長編を残せなかったのはそのためであり、フローベールは身近なもの、同時代的なものに激しい嫌悪を感じながらも、それを書かざるを得なかったのである。

 結果として卑小な主人公しか残せなかったことは、さらには主人公の周辺にも矮小な人物しか集めることができなかったことは、フローベールの想像力の欠如を示していると言わなければならない。ジェイムズは「彼の精神の欠陥から来ているのだと考えざるを得ない」とまで言っている。遠い時代に対しては溢れるほどの想像力を発揮した作家であるのに、同時代に対しては貧弱な想像力しか見せることができなかったのである。

 ある意味でそれは同時代に対するフローベールの批判的精神を結果的には示しているのではないか。卑小な二人の主人公やその周辺人物達は、いかにフローベールが同時代を嫌いぬいていたかということの証拠でもあるのであり、そのこと自体が偉大さを徹底的に欠いた同時代の隠喩そのものとして現れていると言ってもよいかもしれない。

 


ギュスターヴ・フローベール『感情教育』(6)

2020年01月29日 | 読書ノート

 ヘンリー・ジェイムズのフローベール論は、国書刊行会の「ヘンリー・ジェイムズ作品集」の第8巻「評論・随筆」に収められている。ヘンリー・ジェイムズが、大作家であると同時に優れた批評家でもあったこと、そしてフランス文学に対して深い理解を持っていたことは、この巻のバルザック論やゾラ論を読むとよく分かる。

 なかでもフローベール論は出色の冴えを見せていて、その論理の切れ味に目から鱗が落ちる思いがするのは、私だけではないだろう。多分『感情教育』を読まなければ、斜め読みで済ませていたであろうこの評論文は、私のフローベール理解にとって得難い収穫を与えてくれた。

 ジェイムズもまた私が思ったように、フレデリックの人間性について大きな疑問を呈している。それも『ボヴァリー夫人』の主人公エマ・ボヴァリーとの比較においてである。まずジェイムズは次のように言う。

「我々の不満は、エマ・ボヴァリーが彼女の意識の性質にもかかわらず、また彼女の創造者のそれを多分に反映しているにもかかわらず、あまりにも小さな人物だということである。(中略)この点で彼女は『感情教育』のフレデリック・モローに似ていて、このことはわれわれにある問題を提出するが、それに対する答えは、私の考えるところでは、フローベールにとって有利なものではない。」

 ジェイムズはさらに続ける。

「エマの人間的なスケールの小ささは、この種の人間としても小さすぎて、誇張癖へのいましめになるほどである。それはともかくフレデリックの場合には、どう見ても、その答えは作者に不利になるものにならざるを得ないと私がいうのは、それが作者の信用性全体に重大な影響を与えるという意味である。」

 エマ・ボヴァリーの人間性も、フレデリック・モローのそれも、あまりにも矮小すぎて、作者の創造性への疑念を生じさせるということである。もちろん、完璧な人間でなければ主人公に据えられる資格がないなどといった、権威主義的なことを言おうとしているのではない。そうではなくボヴァリー夫人とフレデリックが背負っているもの、つまりは同時代の社会と人間の関わりという大きなテーマを彼らが担うには、二人の人間性があまりにも卑小だと言うことをジェイムズは言っている。

『ボヴァリー夫人』の場合には、ロマンティックな妄想を抱いた田舎医者の妻が、ブルジョワ社会に接触した時に、どういう末路を辿るかというテーマであり、『感情教育』の場合には、田舎のプチブル青年が革命の政治的動乱によって、どのように変貌していくかというテーマである。

『ボヴァリー夫人』の場合、主人公としてその荷が重すぎるにも拘わらず、そのテーマが貫徹されていることは私も認める。しかし、『感情教育』の場合には、フレデリックはその荷を担いきったり、逆に押しつぶされたりするのではなく、ただ単に投げ出すのみであり、テーマが貫徹されているとはとうてい言えない。

 ヘンリー・ジェイムズはしかし、『ボヴァリー夫人』の形式的完璧さ故に、それをフローベールの最高傑作と認めている。私に異論がないわけではないが、ジェイムズがフローベールの犯した「三つの過ち」の内の二つを『感情教育』に指摘する時、私はそれには完全に賛同することができる。その「三つの過ち」とは何か? ジェイムズは言う。

「『感情教育』が明らかに意図しているような大きく豊かで複雑な人生を、この主人公のそれのような卑小な意識の上に記録させようとするのは間違いだった。」

もう一つの過ちについては……

「彼の最上の機会となったであろうものを掴み損ねたことを、自分で気付かなかったことである」

とジェイムズは言っている。確かに『感情教育』の舞台設定は、同時代の青年をそこに投げ込むにこれ以上のものはないのであり、フローベールは時代と青年の生き方とが交差する理想的な状況設定を行ったのだ。しかし、彼はそのことに成功していないし、失敗したことに気付いてもいない。そうでなければ、あのようなラストシーンはあり得なかったであろう。

 ちなみにもうひとつの「過ち」は「『ブーヴァールとペキュシェ』を書き始めたことと、そして向こうから放棄される前にそれを放棄しなかったこと」だというが、私はそれを読んでいないから判断することができない。

 

ヘンリー・ジェイムズ「ギュスターヴ・フローベール」(1984、国書刊行会「ヘンリー・ジエイムズ作品集」第8巻「評論・随筆」)渡辺久義訳

 


ギュスターヴ・フローベール『感情教育』(5)

2020年01月29日 | 読書ノート

 この小説には二つの回顧の場面がある。1867年のアルヌー夫人との再会の場面と、その数年後と思われるデローリエとの和解と再会の場面である。1848年の二月革命からはおよそ20年の歳月を経ているから、彼らはすでに中年時代に差し掛かっていることになる。なぜフローベールがフレデリックとアルヌー夫人を再会させたのか、そしてなぜフレデリックをデローリエと和解させたのか、私は理解に苦しむのである。

 アルヌー夫人もまた20年の歳月を経て、白髪交じりとなり、フレデリックとの愛を懐かしみ、それを美化して語る年齢になったのである。フレデリックとロザネットとの関係に嫉妬し、あれほどフレデリックの誠実を疑っていた女が、すべてを赦し、フレデリックの愛を信じて疑わないというのはいくらなんでも不自然ではないか。次のようなアルヌー夫人の言葉を私は聞きたくないし、作者は夫人にこんなことを言わせるべきではないと思う。

「あなたのおっしゃったことが、遠いこだまのように、風にはこばれてくる教会の鐘の音のように、私の耳によみがえってくることがあります。本のなかで恋愛の場目を読んでいると、あなたがすぐそばにいるような気がしてくるの」

 その時どうだったにせよ、遠く過ぎ去った愛はかぎりなく美しい、すべての不信も疑念も歳月が消し去ってくれるというならそれもいいだろう。しかし、アルヌー夫人はともかく、フレデリックの人間としての卑小はどうなるのだろう。それは読者にとって決して解消されない汚点であり、もしそれをアルヌー夫人が浄化するというのであれば、そこには大きな詐術がある。それはアルヌー夫人の詐術と言うよりも、作者フロ-ベールの詐術であって、それがこの小説を台無しにしている大きな要因である。

 一方フレデリックを裏切ったデローリエとの和解についても、なぜそこに至ったのかが示されることはなく、すべては20年という歳月のせいにされてしまうのである。デローリエと結婚したルイーズがある歌手と駆け落ちしたというようなことが語られているが、それはルイーズという女の卑小を示すものではあっても、デローリエの誠実を意味するものではない。

 二人は昔日の確執を忘れたかのように再会を喜び合い、幼なじみとしての思い出話にふけるのである。彼らは少年時代に家を抜け出して、トルコ女の娼窟に忍び込んだことを想い出す。そのことを語り合った後で、二人は次のように言う。

「「ぼくらにとって、あのころがいちばんよかった」フレデリックが言った。

「ああ、そうかもしれん。いちばんよかったな、あのころが」デローリエは言った。」

というところで『感情教育』一編は終わりを告げてしまう。歳月が過去の汚辱を浄化してくれるというのは、アルヌー夫人の場合と同じ構図であって、男女の愛も、男同士の友情も、見境もなく同じ扱いを受けている。

 汚辱というのはトルコ女のところに忍び込んだことを言っているのではない。その後の二人の生き方のことを言っている。それが少年時代の無垢な心情によって免責されてしまうようなことがあってはならない。昔を懐かしんでそれで終わりというのでは、あまりに安易で、お粗末としか言いようがない。

 これもまた責任はフレデリックとデローリエのあるのではなく、作者フローベールにある。このラストシーンは二人の不行跡を見届けてきた読者にとって、到底受け入れられるものではない。

 文豪フローベールはいったいどうしてしまったのだ? ということで私はフローベールと交流のあった、ヘンリー・ジェイムズが彼の作品を論じた文章があったことを思い出し、それを読んでみることにしたのだった。

 

 


ギュスターヴ・フローベール『感情教育』(4)

2020年01月29日 | 読書ノート

 こうして二月革命の騒乱が描かれていき、フレデリックは革命の現場を見て歩くのだが、その場所々々で友人たちに出会い、彼らの革命に対する態度が紹介されていく。最初に会うのは先に出てきたユソネである。彼は民衆に対して同調することができず、「こいつらを見ているとむかついてくる」とまで言うが、その発言にはのちに新聞ゴロとなる彼の大衆蔑視ぶりがよく現れている。

 もともと労働者階級であるデュサルディエの反応は、当時の庶民の熱狂ぶりを代表している。彼は48時間寝ずに闘い、次のように革命の喜びを語る。

 「いやいや、おれはそんなにやわじゃありませんよ。なあに、これしきのことで。共和国宣言がされたんだ! これでみんな幸せになれる、さっき新聞記者たちが話しているのを聞いていたら、ポーランドもイタリアも、もうじき解放されるそうじゃありませんか。国王なんてものはいなくなる。そうでしょう。世界中が自由になるんだ、自由に!」

  革命を信じて民衆とともに闘い、身を挺するデュサルディエの心情は純粋である。この純粋さ故に、彼はのちに革命に裏切られることになるが、ここに伏線が張られている。こうしてフレデリックの友人たちの革命後の姿が、動乱のただ中に捉えられていく。

 銀行家ダンブルーズ氏をフレデリックが訪れると、彼は旧体制の支持者であったはずなのに、いつの間にか共和主義者に宗旨替えしていて、「心の底ではずっと共和主義者だったんだ」などと言うのである。この変節漢は革命の挫折とともにもとの鞘に収まるのであるから、いわゆる風見鶏としてのブルジョワジーを象徴する人物として描かれているのである。

 アルヌーの店に出入りしていた画家のペルランは「キリストの運転する機関車が原生林を横断するさま」を描いた絵を得意になって見せるが、フレデリックはこの時だけは正当にも「下劣極まる絵だ!」と吐き捨てる。この男は時代の表層をかすめ取ることしかできない手に負えないへぼ絵描きなのである。

 この様にフレデリックの友人達もまた卑小な人間でしかないことを、フローベールは執拗に描いていく。フレデリックの親友であったデローリエでさえ、フレデリックを裏切り、破産寸前のアルヌーの苦境に乗じて、フレデリックの思いの人アルヌー夫人に言い寄ったり、最後にはフレデリックの婚約者と目されていたルイーズと財産目当ての結婚までしてしまう。

 この間、フレデリックの行動も支離滅裂と言ってよい。共和主義の陣営から議員に立候補することを決意したかと思えば、すぐに断念してしまうし、相変わらず革命の動乱を尻目にロザネットとの関係を続けるかと思えば、ダンブルーズ氏の死を待っていたかのように、ダンブルーズ夫人の恋人に収まってしまう。その間、二股膏薬でルイーズに結婚への希望を抱かせ続けていく。またのちには保守派からの立候補に色気を見せたりもする。

 フレデリックは根本的に怠け者で、女好きで、野心家でもあるという、低劣な男であるが、彼の友人たちもまた彼と同じように、あるいはそれに輪をかけて低劣で、卑小な存在に過ぎない。

 唯一人の例外がデュサルディエであり、彼だけは一貫性のある行動を取り、革命の退潮とともに絶望に陥っていく。最後に彼はフレデリックに次のように言い残して、警官の手に掛かって死んでいく。

 「今のおれにはなんの希望も見いだせないし、本当に、もう手の打ちようがないもんでしょうかね?――革命が起こったときは、これでみんなが幸せになれると思った。憶えてますよね。あのときはすばらしかった、のびのびと息をすることができた! それが、いまはどうです、最悪の状態になっちまった」

  この小説はこれで終わって欲しかった。これだけなら、フローベールが同時代の青年たちの実像をいささか皮肉まじりではあるが、克明に描いた作品として、登場人物たちの凡庸さにも拘わらず、評価することができたかもしれない。しかしこの小説はこれでは終わらない。蛇足がついているのだ。

 

 


ギュスターヴ・フローベール『感情教育』(3)

2020年01月29日 | 読書ノート

 第3部は1848年の二月革命の場面から始まる。第2部の終わりで、ようやくアルヌー夫人との逢い引きの約束を取り付け、その場所近くに部屋まで用意しておきながら、夫人の息子が高熱を出したためにすっぽかされ、その腹いせにロザネットを連れ込んで関係するという、およそ高潔とは言いがたいフレデリックの行為が、そうした政治的激動と並行して描かれていくのである。

 このあたりの転換が実に上手く描かれているが、かといってフレデリックの場当たり的な変節が免罪されるものではない。二月革命の銃声をフレデリックが聴くのは、ロザネットを部屋に連れ込もうとしている時である。彼はそれを冷静な態度で聴くのである。

「「ああ、市民が殺られているんだな」フレデリックは平然と言った。およそ冷静なところのない人間でも、時と場合によっては、動じることなく人の死を見ていられるほど、他人に無関心になってしまうものなのだ。」

 つまり、フレデリックにとっては、兵に銃弾を浴びせられる市民よりも、目下のところはロザネットと関係を結ぶことの方が重大事だということだ。小説の主人公がいつでも清廉潔白で、道徳的にも品行方正である必要などどこにもないが、それにしてもこのフレデリックの行為は下劣であり、彼の品性を疑わせるものがある。

 と同時に読者は、このように卑劣で矮小な男を主人公にする作者の意図が、どこにあるのかという疑問を感じてしまう。まさかフローベールがフレデリックの行為を祝福しているわけではあるまい。それはフローベールが『ボヴァリー夫人』で、彼女の軽薄で後先を顧みない欲望の発露に対して、祝意を表しているわけではないことと同様であろう。

 しかし、それは罰せられなければならない。ボヴァリー夫人は自らの低劣な欲望の代償として、自殺に追い込まれる形で罰を受けるが、フレデリックの方は罰を受けるどころか、この後もアルヌー夫人に対する欲望を解消してしまうわけでもなく、ロデリックの肉体に溺れながら、自らの後ろ盾となってくれた銀行家のダンブルーズ氏の夫人にまで、触手を伸ばすことになるのである。

 最後までフレデリックは罰を受けるに至らない。それどころかアルヌー夫人への懸想と、ロデリックとの関係を続けながら、故郷ノジャンの幼なじみの娘ルイーズの恋心を弄び、しまいには金銭目的で彼女との結婚を望みさえする破廉恥ぶりである。なぜフローベールはこのような男を主人公に据えたのか。そしてそれについては主人公のみならず、彼の友人達もまた同罪なのである。その点については後で触れることにして、とりあえず第三部の冒頭を見てみよう。

 フローベールは二月革命で蜂起した市民たちの闘いを描いていく。フレデリックもあちこち駆け回るが、市民の闘いに参加するわけでもなく、まるで野次馬のように闘いの現場を見て回る。パレ・ロワイヤルでの群衆の暴動の様は次のように描かれる。

「やがて、狂騒はいっそう険悪になった。淫猥な好奇心から、あらゆる小部屋、あらゆる片隅がひっかきまわされ、引き出しという引き出しがあけられた。徒刑囚たちは王女の寝床に腕をつっこみ、陵辱できない腹いせに、その上を転げまわった。より陰険な顔つきの男たちが、盗むものを物色しながら黙々と歩きまわっていたが、いかんせん人の数が多すぎた。戸口から、一列につらなる部屋を見わたしても、もうもうと埃の舞いあがるなか、金色の家具調度にとりまかれ、黒ぐろとした塊となって群がる民衆の姿が目につくばかり。だれもが息をはずませている。熱気でしだいに息苦しくなってくる。息がつまりそうになって、ふたりは部屋を出た。」

 ふたりというのはフレデリックと友人ユソネのことである。とにかくこういう場面を描かせたら、フローベールの右に出る者はいないだろう。混乱のなかでの民衆の無軌道ぶりまで描かれている。

 


ギュスターヴ・フローベール『感情教育』(2)

2020年01月18日 | 読書ノート

 この小説はフローベールが書いた〝現代物〟であって、『ボヴァリー夫人』の系列に属するリアリズム小説なのである。出だしのリズム感がいい。この小説で重要な役割を演ずるアルヌーとその夫人に主人公を最初に会わせているところ、乗船の混乱のなかに主人公の性格やアルヌー家の生活ぶりなどを過不足なく描いているところなどは、さすがと思わせるものがある。

 フレデリックがノジャンに着くと、間断なく貴族出身の母親を登場させて、彼女の息子に対する盲目的な期待をほのめかし、次いで親友シャルル・デローリエを登場させて、彼の革命思想を紹介し、というようにフレデリックの家庭環境と時代の状況との素描を描いていく。ここまでわずか2章を費やしているに過ぎない。

 この章を読んだだけで、作家がこれから何を書こうとしているのかが想像の領域に入ってくる。フローベールは田舎出の一人の青年がパリに出て、時代の政治状況に翻弄されながら、女性遍歴を重ねていくといった小説を書きたいのに違いないのだ。

 フレデリックという青年は幾分バルザックのラスチニャックに似ているところがある。ラスチニャックのようにパリに出て、コネを利用しながら上流階級に取り入り、のし上がろうとする野心を、フレデリックもまた少しは持っているからである。またデローリエに革命思想を披瀝させているところを見ると、フローベールは当時の歴史的状況にウエイトを置いて、若き革命思想家たちの熱狂と挫折を描きたいのだということも予想がつく。

 この小説の時代設定は1840年から1867年までとなっており、その間にパリは1848年の二月革命、その反動による6月蜂起、ルイ・ナポレオンの台頭、1851年のクーデタと、翌年のルイ・ナポレオンの皇帝即位を体験している。激動の時代を作家は描こうとしたのである。

『感情教育』は『ボヴァリー夫人』と違って、バルザック的な小説なのではないかという期待感を持たせるオープニングである。私は『ボヴァリー夫人』の登場人物達の凡庸さに、絶えがたいものを感じながら読み進んだ記憶があるが、『感情教育』の方は少し違っている。フレデリックやアルヌーもデローリエも、結構魅力的に描かれているし、私は彼らに幻滅しないで済むかもしれないという期待感を持ったのであった。こうした期待感は第1部の間続いていく。第1部は主要な人物を登場させる、いわば準備段階であって、ここでフレデリックの友人たちが紹介され、彼らの政治的位置もまた確定される。アルヌーのやっている画廊への出入りが中心となり、その周辺にさらに様々な人間が登場してくるが、ここではやはりアルヌーの、いささかお調子者であるが、人の善いところや誠実な性格が強調されていく。

 確かに『ボヴァリー夫人』に登場する人物達よりもずいぶんと生き生きしているし、戯画化されて描かれている人物もいない。『ボヴァリー夫人』を書いたのがフローベール34歳の時、そしてこの『感情教育』を書いたのが47歳の時だから、15年ほどの間に彼の人物造形は進歩しているのである。

 ところでフレデリックは財産問題の関係で一旦帰郷し、不遇をかこつが、伯父の死去により遺産が転がり込んできたことによって、再度パリへ出ることになる。第2部はアルヌーの愛人であるロザネットのパーティの場面から始まるが、その狂騒ぶりがすごい。参加者のばかばかしい仮装ぶりや、ダンスに熱中する狂奔ぶり、酩酊による混乱まで、実にリアルに描かれている。フローベールは集団の描き方が本当に上手い。『サラムボー』での戦闘場面でその腕はいかんなく発揮されていたし、このパーティの場面や、後に出てくる二月革命蜂起の場面も特筆すべきものがある。

 ロザネットの狂騒を極めたパーティの場面は、その後の展開を予兆するものとなっている。フレデリックとロザネットの関係も、この時の出会いに始まるのだし、さらに言えば、フレデリックの堕落もまたこの時に始まるのであるから。というわけで、第2部の最初のあたりから雲行きはおかしくなってくる。

 フレデリックは何もしようとせず、遊び呆けているばかりだし、金持ちの坊ちゃんもいいところで、読者にとってはしだいにその魅力を失っていく。人の善いアルヌーもまた、商売の行く詰まりから道義的な逸脱を繰り返すようになる。小説はしだいにバルザック的な偉大さからも、高揚感からも遠ざかっていくようにさえ見えるのである。