玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(8)

2024年01月30日 | ラテン・アメリカ文学

 この二つの文章から、セミー少年のではなく、レサマ=リマの言語的体験がどのようなものであったか、そして具体的に言えば『マルドロールの歌』の衝撃がどのようなものであったかを推測することができる。第一に「単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ、歓びに満ちた動きをもって姿をあらわしてきて」の部分は、まさに『
マルドロールの歌』における、直喩と隠喩、とりわけ直喩のあり方を正確に表現している。そうした直喩はメルヴィンヌ少年の美しさを形容する直喩の場面(ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように、の部分)をはじめとして『マルドロールの歌』には無数に存在するが、もう一つ「単語がその本来の土地から引き離されて」いる極めつけを挙げておこう。

「他者の肉の愛好者であり、追跡の有効性の擁護者である、アーカンサス州のパノッコの葉を摘む骸骨たちのように美しい猛禽類の一群が一列になって、従順な公認の召使のようにおまえの額のまわりを飛び回っている」

 ここに登場しているのは「美しい猛禽類の一群」なのだが、それを奇矯なイメージで修飾する長大な直喩表現を読むときに、一瞬、あるいはより持続的に我々は「美しい猛禽類の一群」を見失って、「アーカンサス州のパノッコの葉を摘む骸骨たち」の方をより視覚的なイメージとして受け止めてしまうことにさえなるだろう。比喩するものが比喩されるものを我々の現前から駆逐してしまうのである。こうした現象は『マルドロールの歌』では隠喩の場合よりも、直喩の場合の方が際立っていて、「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように」という直喩が「本来の土地」=メルヴィンヌの美しさから遠く離れて、直喩の現前性が直喩されるものの存在感を駆逐していくのである。
 そのことにセミー少年は「歓びに満ちた動き」を読み取っているわけだが、当然レサマ=リマ自身の詩的体験も同一のものであったと見なしてよい。『パラディーソ』でもまた、そのような直表現が、アルベルトの手紙をより洗練した形で頻出してくるのである。レサマ=リマの直喩が直喩対象を駆逐していく例をいくつか挙げてみよう。セミーの同級の悪童たちを描いた場面にその様な例はよく見られる。

「ちょっとした地獄のようなその室内、その地表を流れる大河の上で、彼はまるでサルのように、見たこともない呪われた花飾りを乗せているような浮氷の塊を乗りこなしているみたいだった」

「フィーボは虹色の棒へのエネルゲイアの放出が処罰されずに見逃されたことに驚き勇んで熱狂していき、基地を移動しつつ、電磁化された尖端を突き刺しながら、まるで電解質のコイルの黄金プレー 卜の指示を読めるヵエルのように跳ねまわった」

「その猫というのは百日政権の将軍たちの悪夢の中に立ちあらわれるような巨大化した、若干怪物的でさえある猫であり、その毛は長く伸びて、発生したばかりの乳首のような無数の小さな出っぱりになっていて、大食堂の端からら端まで這いずりまわっていくのだった。海からあらわれてきて、ふくれあがるパンヤの木の精に飲みこまれて消える笛吹く影のように」

 最後の引用では、私の指摘は「百日政権の将軍たちの悪夢の中に立ちあらわれるような」でも、「発生したばかりの乳首のような」でもなく、「海からあらわれてきて、ふくれあがるパンヤの木の精に飲みこまれて消える笛吹く影のように」の部分にこそ当てはまる。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿