玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

スタンダール『パルムの僧院』(3)

2019年08月09日 | 読書ノート

 読み終わってから随分時間が経ってしまったので、『パルムの僧院』のストーリーの流れも不明瞭になってしまっているが、獄中のファブリスがクレリア・コンチと様々な方法で意思を伝え合い、やがて二人が恋に落ちていくところ、そしてサンセヴェリナ公爵夫人の手はずで、ファブリスが脱獄に成功するところが、この小説の山場と言える。

 しかしそれも直線的に進行するのではなく、ファブリスは牢獄に留まることに執着するのだし、毒殺の危険に対しても無防備である。彼のアパシーを解き放って、脱獄を決意させるのは、クレリア・コンチが政略結婚を迫られているという事実である。このときようやくファブリスは愛されるだけの男から、愛する男へと変貌を遂げるのである。

 しかし、それ以降『パルムの僧院』の主人公は、ファブリスからサンセヴェリナ公爵夫人にとって変えられていくように思うのは、私だけではないだろう。ファブリスとクレリア・コンチの恋の行方は一体どうなるのだろう。ファブリスは結局クレリアとクレセンチ侯爵との結婚を妨げることができない。小説の最後のほうでまるで付け足しのように、ファブリスがクレリアと姦通を犯し、子供までできてしまったことを読者は知ることになる。

 小説の後半、スタンダールはファブリスという存在に対して興味を失ってしまったかのようにさえ見える。『パルムの僧院』の後半は、パルム公国におけるモスカ伯爵とサンセヴェリナ公爵夫人の一派と、ファビオ・コンチ将軍(クレリアの父親)とラッシ検察長官の一派による権力闘争の物語へと変貌していく。

 サンセヴェリナ公爵夫人はファブリスを救わんがために、単身宮殿に乗りこんで、大公に直談判もするし、小説の後半では大公亡き後の新大公を手玉にとって、公国の政治を牛耳ることまでする。

 とくに夫人が「パルムを去ってミラノに行く」と言って、大公に揺さぶりをかけ、女の武器を最大限発揮して、大公の意思を動かすところはこの小説の白眉と言ってもよい。そこにモスカ伯爵が絡んで、ファブリスの処罰についての駆け引きが息詰まる緊迫感の中で続いていく場面は、やはり心理小説『赤と黒』を書いたスタンダールの面目躍如と言ってよい。

 こうしてみるとファブリスよりもサンセヴェリナ公爵夫人のほうが、登場人物として生き生きと描かれていることは否定できない。ファブリスは生きている人間というよりも、何か愛される男の理想型といった感じで、そのアパシーも含めて彼の周辺の人間たちの行動の目標点であって、象徴的な存在となっているのである。

 一方サンセヴェリナ公爵夫人は、ファブリスを甥としてではなく、男性として愛し続け、時にはクレリア・コンチに嫉妬の火を燃やし、時にはモスカ伯爵に幻滅を感じたりしながらも、懸命に生き抜くのである。

 そしてモスカ伯爵もまた、極めて魅力的な人物として造形されている。モスカ伯爵はパルム公国の実力者であり、大臣という地位にありながら、彼はファブリスやサンセヴェリナ公爵夫人のためならば、その政治生命を緒断たれたとしても悔いることはない。サンセヴェリナ公爵夫人のファブリスへの愛を知りながらも、彼に嫉妬することもなく、正しいと信じるところを貫くのである。

『パルムの僧院』には『赤と黒』にはない〝政治学〟がある。感力闘争としての〝政治学〟に留まらず、人がそこから決して自由ではあり得ないという意味での〝政治学〟が。

 そしてそれはフローベールの『ボヴァリー夫人』には決定的に欠落した部分なのだ。

(この項あわり)


スタンダール『パルムの僧院』(2)

2019年08月06日 | 読書ノート

 不思議なことがある。ファブリスの行動力についてである。ファブリスはワァテルローの戦いに馳せ参じる時には、情熱に駆られて無謀な行動力を発揮するのに、帰国してからはまったくそういうことがない。

 旅芸人一座のマリエッタ・ヴァルセルラに慕われて愛し合い、それがきっかけとなって一座のジレッチという男の嫉妬を買い、正当防衛で彼を殺してしまうことになるが、それは偶然の成り行きであって、ファブリスの激情による行動ではない。

 ファブリスは女性に愛される存在ではあっても、女性を愛する主体ではない。マリエッタに愛されながら、ファブリスは次のように考えるのだ。

(だが、世間で恋とよんでいる排他的で情熱的なあの張りつめた気持ちをおれはすこしも感じることができないというのはじつにおかしいことじゃないか。ノヴェラやナポリでの偶然の女との交際で、その初めのころでさえいっしょにいるのが新しく手に入れた良い馬に乗って散策するよりうれしいといった女に出会ったことがあったかしら? 恋などと世間でいうのは、やはりこれも嘘のひとつだろうか?)

 ファブリスを恋人のように溺愛する叔母のサンセヴェリナ侯爵夫人に対しても、彼は情熱を持って愛を返すことができない。叔母の前でファブリスはいつでも理性的な態度を崩すことがない。

『パルムの僧院』について誰もこんなことは言っていないが、ファブリスは女性に対していつでも性的アパシーの状態にある。愛される男であっても愛する男ではないのだ。

 それと同様のことが、ジレッチ殺害の罪で捕らえられ、ファルネーゼの塔の牢獄に入れられた時、ファブリスがそこを恐ろしい場所とはまったく思わず、逆に居心地のいい場所と考える場面でも言えるように思う。

 周囲では彼を救い出そうとするサンセヴェリナ侯爵夫人とその恋人モスカ伯爵の必死の工作が続いているというのに、あるいは一方ではモスカ伯爵の政敵であるファビオ・コンチ将軍やラッシのファブリスを毒殺しようとする暗躍が渦巻いているというのに、ファブリスはまったくどこ吹く風といったありさまなのである。

 ファブリスはファルネーゼ塔の目の前のファビオ・コンチ邸の3階にある、美しい籠に入れられたたくさんの鳥たちや、牢獄の窓から見えるアルプス連峰の眺望に魅せられて、彼は次のように言いさえするだろう。

(いったい、これが牢獄なんだろうか? おれがあんなに恐れていたのがこんな所だろうか?)

それに続くスタンダールの言葉。

「一歩ごとに不愉快なことや、腹立ちの動機を見ることなく、わが主人公は牢舎のここちよさに魅せられていた。」

これからファブリスがこの牢獄で目の前の邸に住むファビオ・コンチ将軍の娘、クレリア・コンチとの恋をはぐくんでいくことになるにせよ、これから始まる12年の禁錮刑を前にして〝ここちよい〟はないだろう。

 ここに見て取れるのは、ファブリスの政治的アパシーとでも言うべきものであろう。パルム公国の大公を中心として、その周辺で繰り広げられていく権力闘争の犠牲者でありながら、ファブリスはそんなことすら考えない。

 ファブリスは政治と恋愛から最も遠いところにいる存在なのである。スタンダールはファブリスを政治や恋愛の駆け引きの罪から免責しているのである。アパシーと呼ぶのが適当でないならそれを無垢と言ってもいいが、政治的な無垢ならばワァテルローの戦いの場面で十分発揮されているので、私はやはり〝アパシー〟という言葉のこだわりたいと思う。

 彼の政治的アパシー、性的アパシーが強ければ強いほど、彼の周辺の権力闘争や恋愛の駆け引きの様相は際立ったものになるのである。