Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

ボブ・ディランを見に行く

2023年04月17日 14時10分17秒 | Journal
 昨日、ボブ・ディラン(Bob Dylan、1941‐)の東京公演(東京ガーデンシアター)を見に行った。このブログに前にも書いたと記憶しているが、何年か前にピーター・ポール&マリー(Peter, Paul and Mary)の歌だと思い込んでいた『風に吹かれて(Blowin' in the Wind)』(1963)がボブ・ディランの作詞作曲と知り、その歌いっぷりを聴いて、すっかりファンになったのだが、それ以外の曲は、妙にソフィスティケートされていったというか、訳の分からないものが多く、歌手としての評価は1曲のみにすがりついて、『高校三年生』(1963)の舟木一夫(1944‐)と大して変わらない気がした。ノーベル文学賞(2016)を受賞しても、ファンとして嬉しくはあってもなんだかお門違(かどちが)いの過大評価ではないかと思うこともあった。ところで、昨日、念願だったコンサートへ行って、大枚(たいまい)2万6000円(妻の分を合わせると5万2000円!)のS席で遠目に暗闇の中に鼻も目も口もなく米粒のようにしか見えないボブ・ディランの顔を眼鏡を傾けながら凝視していて、あの顔かたちは慥(たし)かにディランその人だと思うとともに、彼の音楽の何がユニークであるか、少しは分かった気がした。コンサートでの彼は、創造のカオスの中に身を置いて遊ぶように楽しんでいるのだ。観客に向かっての演奏ではない。自分の中心に向かって演奏している。だから、ある意味では、聴衆は彼の一人遊びの音楽から疎外されてしまう。老境に達して、晩年のピカソがそうであったように稚児(ちご)のように自在に自得に自己表現を楽しんでいるのを、外から眺めている父兄一同のようなものである。今やボブ・ディランの楽曲は、単純な音を複雑に絡み合わせて旋律を醸し出す点で、バッハ(Johann Sebastian Bach、1685‐1750)に近づいている。創造の結果である作品ではなくて、作品という結果が生み出される瞬間を再現してみせる域に達している。

 撮影禁止だったのでこれ一枚

 ボブ・ディランで好きなのは『風に吹かれて』以外でも、彼がスタンダードナンバーを歌ったもの、例えば、フランク・シナトラ(Frank Sinatra、1915‐98)の持ち歌『わが人生の九月(The September of My Years)』(1965)は、あの市場のセリ人のような嗄(しゃが)れ声がマッチして秀逸だ。アメリカ・エンターテイメント業界の大御所(おおごしょ)シナトラが歌うと、単に『マイ・ウエイ(My Way)』(1969、原曲はフランスのクロード・フランソワのシャンソン『いつものように(Comme d'habitude)』)の延長線上にある洒落た曲でしかないが、ディランが歌うと深々としたいぶし銀の感慨の曲となる。ああ、つくづくうまいなと思わせてくれる。今回のコンサートでも、曲のニュアンスとしてそうしたうまさが随所に出ていたが、彼はまたそのうまさの露出にも蓋(ふた)をして、ガンガンと喧(やかま)しくわが吟遊詩人の道を模索しているように思えた。隣で、演奏の音響の大きさに耳をふさいで、小生がフォーク歌手と感じてきたディランをロック歌手と認定し「だからロックはうるさくて嫌い」とぶつぶつ嘆いた妻に対しても、もう少し静かに歌い込んでくれるバラード風な楽曲を多くしてもらえると有難かった。とは言え、物価上昇の折、2万6000円の価値は大いに認めたいボブ・ディランのコンサートだったと小生は満足している。7時近くいい加減に年季の入った沢山のロックファンとぞろぞろ場外に出て、有明ガーデンの陳麻婆豆腐を夕飯に食べて、妻の運転する車が橋にさしかかると東京タワーが下の方から浮き出てきて満月とコラボしているような夜景を眺めながら神妙に帰途についた。あのお月さんがディランの顔に見えたのは、多分、この世で小生だけであろう。(4月16日、月はかなり翳っていて満月など見えたはずもないのだが?)

 フランク・シナトラ

 ボブ・ディラン

 ボブ・ディランよ、さようなら

■追記 ボブ・ディランの声について考えていたら、『遠くへ行きたい』(永六輔作詞、中村八大作曲、1962)のジェリー藤尾(1940‐2021)の声を思い出した。彼ら、ディラン、舟木一夫、ジェリー藤尾、やはりあの世代の歌手(の声)には、どこか不良っぽい、ひとりぼっちの暗いやるせない感じが宿っている。品行方正に、『遠くへ行きたい』をダ・カーポで聴き、『風に吹かれて』をピーター・ポール&マリーで聴き、そして、『高校三年生』を岡本敦郎(おかもと・あつお、1924‐2012)で聴くとしたら……。レコード会社は、『高原列車は行く』(1954)を高らかに清く明るく歌って大ヒットさせた岡本敦郎で『高校三年生』をレコーディングしようと当初考えていたが、39歳になる岡本が「高校三年生」を歌うのはまずいといったんはお蔵入りにしたのを舟木のデビュー曲に持ってきたらしい。岡本の朗らかな歌声も聴いてみたかった気がするが、『高校三年生』と言えば、やはり舟木一夫の暗めに少し上ずった声であろう。それやこれら、さて最近は、そんな楽曲にまつわるエピソードを探るのが、一つの面白がり、趣味になっている。これまで長い間に耳にしてきたが、先入観で思い込んでいたのとは違う意外な面も発掘できるし、別の歌手で同じ曲を聴き比べて、曲の本質がよく分かる場合もある。

ジェリー藤尾

岡本敦郎

 ちなみに、岡本敦郎については、亡き母親がファンだったので(グレゴリー・ペックと岡本のプロマイドを持っていたそうだ)、小生も親しみを感じていたが、なんとなく歌手というよりは女学校の気取った先生風であり、その容貌から「ウラナリ」という綽名(あだな)をつけて、テレビの懐メロ番組に彼が登場すると「ウラナリ先生がまた出ている」などと母親をからかったりしたものだ。
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