正面からだと楼閣建築というのがピンとこなかったが、この角度だとなるほど楼閣である。しかもかなり複雑怪異な楼閣だ。臨春閣が端正な建物であるのと好対照。これだけ複雑だと、どんなに屈託した人間も中の茶室に端座すればかえって気が晴れて単純な気分になれるのではないか。秋の虫の音に耳を澄ませるのではないか。
この建物、名を「聴秋閣」という。京都二条城にあった徳川家光・春日局ゆかりの楼閣建築で、元和九年(1623年)の建築だとか。慥か、原三渓が最後に移築した建築で、そう考えると彼が何を究極の風雅と考えていたのか、興味深い。こじんまりとした隠れ家であり、しかも二階の二畳ほどの座敷は実用価値が少ないながら、見た目にもこれこそが建物のの最大の特徴になっている。
1649年に紀州徳川家のお殿様が和歌山の紀ノ川沿いに建てた数奇屋風書院造りの別荘建築「臨春閣」を前に、男女のモデルが花婿花嫁シーンの撮影をしていた。仕事の撮影とはいえ、楽しそうである。この建物は桂離宮と並ぶ別荘建築の双璧らしいが、そうした権威を背景に、ただ無邪気に幸せそうなのがいい。
三渓園は、原三渓(本名・富太郎)という生糸貿易で財をなした豪商が建てた私邸である。つまり、経済社会での勝ち組が、その余得でつくった世離れし理想郷である。その意味から生存競争の醜い現実からもっとも遠いはずである。しかし、園のなかに生きる亀と鯉は、来訪者が投げ入れるパン切れにかような生存競争を繰り広げている。口が大きい鯉は比較優位で、亀に比べればパン喰い競争に絶対的に強い。哀れな亀は、大口をひろげた鯉に甲羅の上に乗っかられて沈没しかけている。
造園には意図がある。しかし、その意図が勝ちすぎるとニッポン人にはうるさくなる。三渓園は、建築物ばかりでなく、ニッポンの自然的風景を移築しようとしたのである。その粋が写真に見える。撮り方もいいのだろうが、アメリカでもヨーロッパでも花を配して、こうした秋の風情を撮ることはできない。
楽しそうに泳ぐ鴨(かも)を見ると「鴨南蛮」を思い出して、喰いたくなる。なんでも、鴨南蛮の南蛮は葱(ねぎ)を意味し、もともと「鴨難波」の大阪の難波(かつて葱の産地だった)が南蛮になまったものらしい。鍋にこの鴨を沈めて、葱をそえて食べたらうまかろうな。
少し蓮(はす)の花の季節としては遅いのであろう。それでも、ぽつんぽつんと葉っぱからピンクの顔を出してまばらに咲いていた。古い三重塔を京都から運んでくるぐらいだから、原三渓は仏教徒だったのであろう。仏教寺院の蓮の花といえば、タイはバンコクの寺院を思い出す。蓮の花の風情には、浄土の雰囲気が詰まっている。
花の季節、少し余裕のある横浜市民は三渓園までやってきて桜見物をしたものらしい。当時の園は発展途上で、今よりはがらんとさっぱりしていたであろう。原三渓は自分が住んでいる私邸の敷地を公開して見物させていたわけだから、今どきの金持ちとは度量が違う。風雅を私のものと占有しなかったのである。
三渓園といえば、まずはこの池と小高い丘の上にある三重塔である。塔は、「旧燈明寺三重塔」といい、室町時代1457年(康正3年)の建築で、京都府相楽郡加茂町より1914年に移築した。関東では一番古い三重塔らしい。 池に、主のない小舟を浮かべ、鵜(う)が止まっているのも、珍しい風雅である。建物は移築できても、鵜は勝手に飛来して止まっているのだから、大したものである。