Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

E.T.になった母

2021年01月07日 14時15分01秒 | Journal
 一昨日の火曜日、相模大野の病院に母親を見舞った。と言っても、コロナ禍だから「オンライン面会」というリモート形式である。階ごとに週1回のオンライン面会日が決まっており、母親は3階に病室があるので毎週火曜日の午後2時30分から1時間の間に割り当てられている。前日に39度の高熱だったので(そのときは尿路感染によるといった説明だった)、面会できるか分からなかったが、自宅近くの神社で買った病気平癒のお守りを渡したくて出かけた。体温は平熱近く36.7度まで下がったとかで、玄関わきのブースでオンライン面会が実現した。入院して以来、はじめて母親の顔を見る。パソコンの画面越しに見た印象は「母親はE.T.になったな」というものだった。「E.T.」とは、The Extra-Terrestrial(地球外生命体)のことで、スピルバーグの映画(1982)のタイトルになっている。つまり、人工的に栄養を補給していなければ、母親は最早(もはや)、この世(=地球)の人ではなかった可能性が高く、いわば、E.T.、地上の人間事に先入観のない無垢(むく)な「宇宙人」である。顏の上、数十センチにかざされたタブレットの中に映る人物が「お守りを持ってきたよ。気をせいぜい楽にしてね」などと話しかけてくるのを、碧(あお)い瞳に、これは果たして何某かと不思議そうに見返しているのである。
 映画『E.T.』から

 そこで一つ分かったことがある。これまで父親の死(遺骸)の印象から、死ぬとは、結局、生命体が収縮して石(ただの物質)に戻ることだとの観念を持ってきた。母親の今を見て、死ぬとは、石は石でも宇宙からの石に戻ることだと分かった。地球で、生命が育(はぐく)まれ、人間もできたわけだが、それは地球という制約条件の中での出来事。死ぬと、その制約条件から解き放たれて、物的にも、もしかして精神的にも、宇宙に還(かえ)ってしまうのだ。それが良いことなのか悪いことなのか、幸か不幸か、それは分からない。
 ここまで書いていると、兄から電話があった。病院の医者が、病状説明の中で母親の体温は年初来高低があっても高めで推移しており(中心静脈点滴での感染の可能性が加わる)、こうした状態が1週間続くと、ストレスが蓄積されて、何が起きるか分からない、親族にも知らせておいたほうがいいといった趣旨の話をしていたそうだ。E.T.となった母とのお別れも近いのかもしれない。月にも届かぬ地球の言葉で何が適切なのか、考えても思っても、取り乱してひどく情けなくとも、白髪の老人が「お母さん」としか、とても出てきそうにもない。


◆追伸1 昨日(12日)は火曜日で、母親のところへオンライン面談に行こうと、体調が可能かどうか午前中に病院へ電話を入れると、緊急事態宣言が出たのでオンライン面会は休止にしたという。仕方ないので3階のナースステーションに電話を回してもらって、母親の状況を尋ねると、中心静脈のカテーテル挿入位置を変えて、熱も下がり、血圧も正常になったと言う。声をかけると反応もあるらしい。「それでは、母親の体調は安定しているということでしょうか?」と質問すると、それは医師でないから答えられないと、診断にかかわることは判然としない。ともかく、高熱は中心静脈カテーテルからの感染だと考えられることが分かった。このことは、入院時にも、医者に懸念を質問して、それほど心配ないようなことを言われていたので、現実にはそんなことはなかった、やはりな、と思った。今は、母親の年齢の人がコロナに感染して、重症化し、どんどん亡くなっていく。それに比べて血管に挿入される栄養に延命している母親はまだしも「幸運」なのかもしれない。しかし、片道のロケットに乗せられて、無限の宇宙空間へ放り出されてしまったような絶望感はないのか、さぞかし心細かろうと思う。

◆追伸2 今日(2月9日)の夕方、病院から電話がかかってきて、院内で新型コロナが発生し、職員3人と患者10人がPCR検査の結果、プラス、感染が判明し、その中に母親も含まれていたという。返す言葉を失う。「クラスターですね」とだけ短く語気強く確認する。今のところ熱も出てないようだが、急変し重篤化するのがコロナだから、先は見えない。人工呼吸器は付けないことになっているが、コロナの場合、どうするのか、アビガンとか薬はどうするのか、と訊ねる。人工呼吸をするならば、転院しかないが、今はこういう状況だから難しいと看護師は曖昧に答えた。コロナ患者を受け入れている病院が高齢者に処方するような薬があれば、せめて投与できないか、医者に話してくれと依頼して、電話を切る。ワクチン接種が来週から医療関係者に始まるという。どうも母親にとっては遅すぎた話になった。
 家の庭に、秋に種を撒(ま)いたきり冬中ほとんど水をやらなかった所為(せい)で成長不足の菜の花が小さく咲いている。こうした花でも母親に手向(たむ)けるしか今はないのだ。宇宙の石になっても、地上のこうした小さな花はやはりいじらしく美しく懐かしく見えるだろう。


 その昔、蕪村が芭蕉を慕って、金福寺に芭蕉庵を再興したことがある(1776年)。

    菜の花を墓に手向けん金福寺 蕪村
コメント
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